模糊の旅人
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2018年 07月 15日 |

豪雨一転、猛暑が続いています。37度を超す中、外を歩き回るのは辛いです。皆さまにおかれましても、熱中症に気を付けてお過ごしください。


足が治り、いろいろ忙しくバタバタしており、ブログ更新も思うように行きません。旅に出ても予約更新や現地からの投稿などを利用して、少なくとも一週間に一度は更新するように努めますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


さて、まだ半分も紹介できていない京都民泊体験シリーズですが、今日は仁和寺周辺の穴場です。


↓仁和寺の五重の塔

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↓五重の塔の近くで休憩する外国人夫婦

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↓金堂

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↑金堂は国宝に指定されています。1613年に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を移築したもの。近世の寝殿造として非常に重要です。


↓境内スナップ

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↓仁和寺近くの穴場:霊山寺

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↓仁和寺・成就山八十八ヶ所ウオーク

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↓宇多野スナップ

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↓光孝天皇 後田邑陵

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↓住宅街の中を歩いて拝所へ

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仁和寺を勅願した光孝天皇は、仁和寺のすぐ近くの住宅街の中にある御陵に眠っています。ここは観光客は全くおらず、ひっそりとした場所でした。







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2018年 06月 27日 |

京都のシリーズ記事も併行して進めます。


仁和寺の本坊は御殿と呼ばれ、宇多法皇の御所があった場所に建つことから「旧御室御所」とも呼ばれます。御所を移築したもので、火事にあい再建された経緯を持っています。


御殿だけは有料ですが写真撮影自由なので、拝観することにしました。もちろん世界遺産です。


白書院、宸殿、黒書院、霊明殿などが渡り廊下で結ばれており、御所そのものの雰囲気が味わえます。


↓南庭の白砂 奥が宸殿 宸殿は、御所の紫宸殿と同じで、檜皮葺、入母屋造です。

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↓白書院

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↓宸殿への渡り廊下

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↓庭園説明

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↓左近の桜と右近の橘を配した宸殿より南庭を見る 奥が勅使門

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↓宸殿内部 三室よりなり、襖絵や壁には四季の風物が描かれています。

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↓黒書院

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↓北庭

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↓霊明殿

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↓印象に残った襖絵

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↓御殿より見る仁王門

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2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


↓ 現在の「樋の谷」 今も排水の川が流れています!

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三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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2018年 06月 03日 |

今回は、マルタ考古学博物館の最終回で、フェニキア人遺跡とコインコレクション です。


紀元前1000年頃、現レバノン方面から渡ってきたフェニキア人がマルタを支配します。この時代の遺物も三階奥に展示されており、その特徴的な品物に驚かされます。中でもアルファベットの起源となったとされるフェニキア文字の石碑は貴重なものです。


↓フェニキア文字の石碑文

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フェニキア語は北セム語系です。いっぽう、フェニキア文字は、ギリシア文字のルーツとなり、やがてアルファベットとなります。後のヘブライ文字やアラビア文字の元になったのはもちろんですが、ブラーフミー文字を介してインドやチベット・モンゴル・東南アジアの諸文字へと変化したと考えられます。


有力な説によると、今日世界で使われている全ての文字体系のうち、ほとんどがフェニキア文字を起源としており、漢字とその派生文字体系(日本語など)のみが別の独立の起源を持っているとされます。ハングルはフェニキア文字系や漢字系を参照して新造創出された文字なので両系の子孫ともいえます。(滅んだ完全独立発生文字としてはシュメール文字やマヤ文字など)


↓フェニキア碑文の説明

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フェニキア人は、謎の多い民族で、現在のレバノン~イスラエルあたりが出自と思われます。いわゆるカナンの地の一画を占めていました。(先祖は紅海あるいは小アジアに住んでいたともいわれる)
紀元前15世紀頃に都市国家を築き、やがて、レバノン杉で造った船で地中海世界全域に進出し、イベリア半島から北アフリカ西岸までに至り、交易活動によりアルファベットなどの古代オリエント文明を地中海世界に伝えました。
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やがて、フェニキア本土はアッシリアやアケメネス朝ペルシアに服属し、アレクサンドロス大王により滅ぼされました。しかし、現チュニジアに築かれた植民都市カルタゴは、西地中海世界の中心として長く繁栄し、初期の共和制ローマと覇を競いました。マルタ島は、カルタゴのすぐ近くなので、紀元前1000年頃からフェニキア人に支配されたようで、遺跡が発掘されています。


↓フェニキア人は裕福だったようで、豪華な金の装飾品などが出土しています。下は黄金製でアヌビス神か?

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フェニキア人は滅亡し(ローマに徹底的に破壊され)たため遺跡は少ないのですが、マルタには比較的残されています。フェニキア人を埋葬した木棺も発見されており、エジプト文明の影響も感じさせる興味深いものです。

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マルタは、フェニキア人以降、ローマ、ヴァンダル、ビザンチン、アラブ、ノルマン、スぺインなどの支配を受け、やがてマルタ騎士団の城塞国家となりました。その後、近世もナポレオンのフランスや、イギリスの支配下になり、1964年英連邦王国のマルタ国、最後に1974年マルタ共和国として完全独立を果たします。2004年EUに加盟(現在の公用語はマルタ語と英語で通貨はユーロ)

ちなみに、現在のマルタ語は、アラビア語系の口語を基礎としてシチリア語やイタリア語などの語彙が多く取り入れられたクレオール的な混合言語です。ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の貴重な言語といえます。

あくまで私見ですが、マルタ人にはフェニキア人に支配された時期にセム語系の言葉が根付き、ローマやビザンチン時代には支配者の言語は広がらなかったようです。それより、アラブ支配の時代には農業関係や庶民の生活が変革されアラビア語(口語)が普及し、そこにマルタ騎士団時代のロマンス語系の語彙が取り入れられマルタ語が成立したと思います。
また、それとは全く別物として、イギリス支配時代に英語が広がったのです。現在ではイギリス以外ではヨーロッパでは非常に貴重な英語圏で、日本人の英語留学先として人気があります。


そうした、長く複雑な歴史時代の流れを感じさせるものとして、考古学博物館にはコインのコレクション特別展示室があります。歴史を反映した各種の貨幣が見られ、特に各ローマ皇帝の顔が刻まれたコインがずらりと揃っており、マニアには垂涎の的です。

約16000枚以上のコインがあるそうです。


↓展示室

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↓ローマ皇帝コインのアップ  いわゆるセステルティウス硬貨ですね。

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↑上から第3代カリギュラ帝、第4代クラディウス帝、第5代ネロ帝など、すべて揃っています。


↓硬貨コレクションの説明

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ローマ支配からは歴史時代に入り、考古学博物館の範疇をこえるので展示されていません
したがってコインはあくまで、特別展示という位置づけですが、常設展示だそうです。


最後に小さなミュージアムショップ的なコーナーを見学し、スリーピングレディの銀製品に見入りました。
記念品を少しだけ買って、博物館を出ました。

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小さいながら充実した博物館で、マルタの古代世界を満喫した半日でした。
写真撮影が可能で、ネットでの発信や旅行サイトでの公開も「どんどん宣伝してください」と快く許可いただき、とても好感の持てるミュージアムでした。取材協力いただいた職員の方に深く御礼申し上げます。





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2018年 05月 28日 |

ご心配をかけました骨折事故の件ですが、ようやくギプスが取れ、サポーターを巻いてのリハビリとなりました。あと三週間もすれば、サポーターもはずして、普通の生活に戻れそうです。

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皆様からいただきましたお見舞いや励ましの声に元気づけられ頑張れました。本当にありがとうございました。感謝いたします。これからも、トラベルジェイピーの旅行ガイド記事や当ブログをご愛顧いただきますようお願い申し上げます。



さて、冬のマルタの記事は、マルタ考古学博物館の三回目で、青銅器時代とカートラッツの謎です。


マルタの巨石文明はなぜか紀元前2500年ごろ突然滅亡しました。これも大きなミステリーです。
紀元前2500年ごろに何があったのか?
地中海の古代文明のマルタ中心時代は幕を閉じます。やがて文明の中心は東へ移り、古代オリエント、エジプト、ヒッタイトといった文明が勃興してきます。


その後はマルタでは普通の青銅器時代となります。これについては、考古学博物館の三階に BRONZE AGE として、紀元前2500年頃から紀元前1000年頃の出土品が展示されています。

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青銅器時代といっても金属製品だけではなく甕や壺などの陶器類が多く見られます。やはり農業主体の文化があったようです。同じ農業文明でありながら、巨石神殿時代とこの青銅器時代の断絶も謎のひとつです。滅亡した巨石神殿文明の担い手ではなく、新たにマルタに渡って来た人々が青銅器時代の遺跡を残したとする学説が主流のようです。

以下、青銅器時代の発掘遺物展示の写真を9枚、ごらんください。

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マルタの古代の謎の一つとしてカート・ラッツがあります。これは、岩の上にレールのように平行に穿たれた溝のような遺物で島内各所にあります。車輪の轍跡にしては崖の上に多くあるのが理解に苦しみます。おそらく青銅器時代に出来たと思われることから、考古学博物館の三階に展示されています。これも本当に不思議な遺跡です。


↓カートラッツ展示室入り口

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↓上に乗って見れるようになっています。

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↓カートラッツのアップ

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↓カートラッツの分布

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2018年 05月 22日 |

マルタ考古学博物館の二回目の今日は、博物館の目玉であるマルタのビーナスとスリーピングレディーです。


マルタ巨石文明使役から出土した女神像で驚くのはその豊満なフォルムです。特に通称マルタのビーナスと呼ばれる像は、ハジャーイム神殿から発掘された約4500年前のもの。古代の女性女神像は豊かな身体つきのものが多いのですが、特にマルタでは巨大で印象的な体形の像が多く、当時の美意識を感じさせます。マルタに伝わる伝説では、こうした巨女が巨石を運んで神殿を造ったとされています。


↓マルタのビーナス

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このボリューム感がすごいですね。日本の土偶に比べると、リアルな表現でモデルがいたことを思わせます。

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女神像は多数ありますが、顔がないものが多いのが不思議です。別に顔だけの像も多数発見されていることから、顔の部分は嵌め込み式であったと思われます。でも、なぜ嵌め込み式の像が多いのかは諸説あり解明されていません。

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↓顔の部分

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こうした豊かな女神像は、豊穣の祈りと関係しているようで農業主体の文明であったのは確かです。ひょっとして、地中海沿岸に広く見られる大地母神のルーツとなったのかも知れません。

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一階の最奥には、眠れる女神像一体だけがある展示室があります。小さく暗い部屋ですが神秘的なムードいっぱい。ここにあるのが博物館の至宝、一番人気の通称スリーピングレディーです。

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実に洗練された曲線で構成されており、マルタの古代芸術の最高傑作です。この女神像は、ハイポジューム地下神殿から発見されたもので、なぜ横たわっているかについては諸説あり、これもミステリーです。

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装身具などの小物も出土しており、巨石だけでなく繊細な部分の芸術性も感じました。


↓角か牙のペンダント

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↓貝でつくられた鳥のペンダント

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↓牛の角に挟まれた鳥

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↓物差しと思われます。

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↓レリーフに残されている動物は、山羊と豚と羊です。これらは犠牲獣でもあるので、宗教的な意味合いがあるのかも知れません。

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2018年 05月 16日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「驚きのマルタ国立考古学博物館で世界最古の巨石文明の謎に迫る!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。
世界最古の巨石文明の遺跡から発掘された本物の出土品が見られる考古学博物館を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





本ブログでも、「たびねす」とタイアップして、マルタ国立考古学博物館をより詳しく紹介します。


マルタはリゾートと騎士団の城塞都市観光が人気ですが、実は先史時代の圧倒的な巨石神殿が素晴らしく、世界遺産として尽きせぬ魅力があります。その神殿出土品の実物展示があるのが首都バレッタにあるマルタ国立考古学博物館です。


マルタ国立考古学博物館があるのは、首都バレッタの中心にあるレバブリック通り。古く歴史を感じさせる建物に、印象的な Archaeology という幟が下がっているのが目印です。

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決して大きなミュージアムではないですが、中は意外にも多くの展示物が並んでいます。遺跡現場ではレプリカが多いのですが、この博物館にあるのは全て本物。入場料も決して高くありませんので、気軽に訪れることができます。


ここは聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)のプロヴァンス出身者の宿舎であったオーベルジュ・ド・プロヴァンスという建物を博物館として改装したものです。とはいえ、騎士の館の雰囲気は残しており、入場すると一階玄関屋根の美しいフレスコ画が迎えてくれます。


↓一階玄関天井のフレスコ画

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二階廊下と二階中央の大広間は展示室として使われず騎士団時代の装飾がそのまま残されており 華麗なものです。

↓大広間

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一階は魅力の巨石文化時代の展示コーナー!

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↓巨石の各パーツで重要なものが展示されています。

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↓巨石を運んだと思われる丸い石

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巨石神殿は巨大な石を積み上げてクローバー型に部屋が配置された不思議な構造をしています。どのような目的でこのような神殿が造られたのか謎は深まるばかりです。

↓巨石神殿の構造模型(ジュガンティーヤ神殿)

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↓参考にジュガンティーヤ神殿の現地で撮った写真も載せておきます。

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マルタには、イムナイドラ、ハジャーイム、ジュガンティーヤ、タルシーン、ハイポジュームなどの巨石神殿があり、「マルタの巨石神殿群」として世界遺産に登録されています。

これらの現場に行くと、巨石文化巨大なスケールを感じることができます。ただし、現地の出土物等はレプリカが置いてあり、本物はこの考古学博物館でないと見ることができません。


マルタの巨石神殿で最古のものはゴゾ島のジュガンティーヤ神殿で紀元前3600年前(今から約5600年前)に築かれました。これはエジプトの大ピラミッドより1000年ほど古く驚異的な建造物。考古学博物館でもこのことを示したパネルがあり、世界最古の巨石文明であることが強調されています。

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とにかく、エジプトのピラミッドより遥か昔に、このような巨石文明が栄えたことは驚異的です。トータルするとマルタには巨石神殿が30カ所以上残されており、なぜこの小さな島にこんな神殿が多いのか、まさに大きな謎です。世界最古の宗教遺跡群ともいえ、ひょっとして、地中海を広範囲に支配していた宗教的文明の中心地であったのかも知れません。




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2018年 05月 10日 |

嵐電で仁和寺に到着です。

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御室仁和寺は、京都での遅咲きの桜の名所です。ソメイヨシノは終わっていましたが、各種の遅咲き桜の品種がまだ見られました。
そこで今日は、仁和寺の桜特集です。去り行く春をお楽しみください。

↓まずは有名な黄緑っぽい色の桜「御衣黄」です。

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この「御衣黄」は、江戸時代に仁和寺で生み出されのがはじまりとされています。まさにここから全国に広がった桜の品種ですね。
開化時は黄緑色で、徐々に中心部がピンク色に変化して行く開花時期の長い桜です。

↓「御衣黄」開化したばかりの時は黄緑色です。

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↓熟すとこんな色になります。

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↓華やかな八重桜「関山」三景

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↓清楚な「一葉」

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↓御室桜
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↓五重の塔をバックに各種の仁和寺桜

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↓無名の可憐な桜も塀に映えます。

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↓最後は御口直しに白い石楠花です。

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2018年 05月 04日 |

余談を少し。
先日(4/28)、『世界ふしぎ発見』というTV番組で、「大英博物館に秘められた卑弥呼の謎!」というのがあり、箸墓古墳が卑弥呼の墓の可能性が高いと紹介され、私のリスペクトする考古学者:白石太一郎氏(前・近つ飛鳥博物館長)が出演しておられました。


そこで白石氏は「時期や規模から考えて、箸墓古墳の被葬者は、卑弥呼以外には考えられない」と述べておられました。私は、30年ほど前から「箸墓古墳は卑弥呼の墓」と公言してきましたので、この言葉は嬉しい限りです。


また、次の台与の墓の可能性の高い西殿塚古墳の映像もあり、赤色立体地図で明確に分かる特徴的な二つの方形壇について女王と男弟という二人の統治者が埋葬されているのではないかと紹介していました。


このあたりは、私もだいぶ以前に、ブログの「箸墓古墳は卑弥呼の墓か?」という記事で書いており、内容がかぶりますので、ちょっと複雑な気持ちでした。番組としては、割と信頼できる主流学説を取り入れたオーソドックスな内容で、要領よく制作されていました。
そこで、これは良い機会だと、改めて考え続けてきたことを盛り込んで、古いブログ記事を追加修正してみました。それについては、以下の記事をお読みください。



さて、京都民泊利用取材シリーズは、嵐山はんなりほっこりスクエアから嵐電に乗ります。


↓嵯峨野のたまごやさん

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嵐山のメインストリートに戻ってきました。

↓印象的な路地

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↓売店も新製品売り出し中

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↓店先飾りも綺麗です。

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↓もう一枚

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↓はんなりほっこりスクエア

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↑ここの赤い床机に腰かけて軽い昼食を済ませました。


↓駅の周りをぐるりと見てみます。

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↓友禅の林「キモノフォレスト」

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↓龍の愛宕池

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↓駅の足湯もあります

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↓電車が入ってきました。

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↓嵐電に乗って帷子ノ辻駅で乗り換え御室仁和寺へ向かいます。

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↓車窓からは満開の八重桜が見えました。

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2018年 04月 28日 |

Travel.jpの企画で京都の民泊宿泊体験と穴場スポットを巡る一泊二日の旅に行ってきました。(この取材旅の終盤に骨折事故にあったのですが、その話はまたいつか・・)
そして、たびねす改めTravel.jpの旅行ガイドとして、私の「リーズナブルに楽しめる!京都一人旅なら民泊がおすすめ」という記事がアップされました。
駆け足ですが、京都の穴場観光スポットをまとめて紹介していますので、ぜひお読みください。





本ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事とタイアップして、より詳しく内容を紹介していきます。どうぞよろしくお願いします。


私の京都市北区の生まれです。ただ、少年時代に引っ越したため、子供の頃の記憶が主となる生まれ故郷という感じです。正月には杵で餅をついた懐かしい思い出があります。


故郷とはいえ、現在は大阪在住なので、最近は京都へは日帰りでしか行ったことがありません。これは、京都には安価な宿が少ないという事情があるから。まして一人旅ですとさらにホテル代が割高になります。

できれば宿泊してゆっくり朝や夜の京都も楽しみたいもの。そこで、今回は民泊を利用して、一人旅ならではの自由さを生かして、京都の人気観光スポットと穴場を楽しむという視点の企画で、一泊二日の旅にチャレンジしてみました。


まずは、嵐山から観光をはじめます。
大阪から阪急京都線に乗って桂で乗り換え嵐山駅に到着しました。


↓嵐山駅では、八重桜が満開で美しく咲いていました。

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↓残り桜と渡月橋

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↓松と渡月橋
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↓嵐山のメインストリートは混んでいます。

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↓中国人の和装団体が多いですね。

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↓天竜寺の塀沿いにある可愛い地蔵さん

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↓昔は穴場だった黒木鳥居で有名な野宮神社に行って見ましたが・・・

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↓ここも和装の外国人がいっぱいでした。

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↓野宮神社の説明

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↓歌碑   野宮の竹美しや春しぐれ  古郷

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↓ということで竹の小道に行くと、外国人観光客の団体であふれかえっていました・・・

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このコースは団体の定番観光コースらしく、昔の記憶にある静かな場所は喧騒の中にありました。


↓有料の人力車は人のいない道を通れます。

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↓ちょうどタケノコの季節ですね。美味しそう・・・

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そこで、少しでも人の少ない穴場をと、北へ向かい落柿舎に至りました。


↓ここまで来ると静寂が支配しとても良い雰囲気です。

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落柿舎は向井去来が別荘として使用した草庵で、師匠の芭蕉はここを3度も訪れ『嵯峨日記』を執筆しました。


↓この鄙びた和の風情は良いですね。

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ここから北の嵯峨野一帯は人も少なく落ち着いて京都を楽しめます。
時間があれば化野念仏寺まで歩きたかったですが、今日はあちこち回る欲張り企画の一人旅なので、人の少ないルートをとおって嵐電の駅へと戻ります。



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