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2018年 12月 10日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「名著を読んで中国遼寧省・大連をめぐる!旧満州玄関口の昔と今」という記事が公開されました。
瀋陽(奉天)の代表的観光スポットを紹介したものですので、ぜひ↓記事をお読みください。




本ブログでも、タイアップ企画として、数回ほど奉天を離れて、大連を紹介することにします。


大連は、ロシア人と日本人が力を入れて造った都会で、港町でもあり、魅力的な町として知られています。


明治以来、多くの文人が大連を旅して文章を書き、そこに暮らした人々は大連を愛し記録を残しました。戦後も多くの大連テーマの書物が刊行され続けています。そうした名著による大連紹介を試みたのが上記の「名著を読んで中国遼寧省・大連をめぐる!旧満州玄関口の昔と今」というトラベルジェイピーの旅行ガイド記事です。

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「ロシア人と、日本人とは、ここに自己流の楽園を築こうとした。」(『大連・旅順はいま』 宇田博)


「大連という都会における、このような矛盾のすべてにもかかわらず、彼は南山麓をはじめとするさまざまな場所を、切ないような苦しさで愛さずにはいられなかった」(『アカシヤの大連』 清岡卓行)


「日本には滅多にない煉瓦づくりの建物や住宅が並び、広場を中心に放射状の道路がひろがり、北海道を除くとあまり日本に見られぬアカシアやポプラの街路樹が植えられ・・・・」(『深い河』 遠藤周作)


↑ 一端を紹介しましたが、このように大連を書いた名著は数え切れません。。。。


私は「なぜ大連がこんなに日本人の心をとらえ続けるのか」という疑問を持っていました。今回、大連を存分に歩き回ってみて、少しその謎が解けたような気がします。確かに、大連は不思議な魅力を持った町でした・・・・


今日は、その大連の中心である中山広場を紹介します。


↓現在の中山広場の航空写真(絵葉書より) この写真はクリックすると横1200ピクセルに拡大されます。

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孫文の号である中山をその名称にした中山広場は、直径およそ200mの大きな円形を成しているが、さらにその外周を幅20数mの道路がめぐっている。そして、その輪状の道路から、今度は放射状に十条の道路が、ほぼ等しい間隔をもって描く方向に発しているのである。(『中山広場』清岡卓行)


↓1920年ころの中山広場(大連賓館こと旧ヤマトホテルの二階のカフェにあった写真を撮影) 当時はビルが無いので奥に海が見えますね・・・

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↑写真中央奥は、旧・横浜正金銀行大連支店。横浜正金銀行は、日本の半官半民の貿易決済・外国為替専門銀行で、後に東京銀行を経て三菱UFJ銀行となりました。


↓現在の横浜正金銀行大連支店の建物、中国銀行遼寧省分行となっています。

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↑3連のバロックドームを持つタイル貼りの美しい建物で中山広場の象徴ともいえます。設計は妻木頼黄と太田毅です。


この中山広場とそこから放射状に発する十条の道路は、かつて確かに日本の管理、資本、技術によって建設されたものであった。用いられた設計はほとんど、ロシアが残していったものであった。その設計に含まれていた主な特徴は、フランスの首都に学んだものであった。(『中山広場』清岡卓行)


ロシア人のパリへのあこがれにより構想された不凍港ダルニーは、日本人によって現実化され、大連と名付けられたのです。


ここは青泥窪という田舎の村でした。それをダルニー(遠大を意味する言葉)と名付けた市長サハロフは、日露戦争の進展に伴い、大連市街をほとんど破壊せず、日本へ引き渡すかのように旅順へと撤退しました。このあたりのサハロフの気持ちを推測して書かれたのが清岡卓行の『サハロフ幻想』です。


サハロフはダルニーを愛しており、日本軍の進駐に際して、愛する街を破壊するに忍びず、旅順要塞司令官ステッセルの破壊命令に反して、形だけ爆破行為を行い、ほぼ無傷のダルニーを日本に譲りました。おそらく、日本軍を押し返し、またダルニー帰ってくるという強い思いがあったのでしょう。しかし、その夢はかなわず、サハロフは旅順で病没しました・・・・



↓旧 大連民政署(大連警察署) 現在は遼寧省対外貿易経済合作庁。

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↑時計塔を持つ建物で、ヨーロッパの市庁舎を参考にした。レンガは大連市内の満州煉瓦会社製、石材は山東省産の薄紅色花崗岩。


↓中山広場に面した旧・ヤマトホテル(現・大連賓館)の一階のテラスから撮影

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↑手前が旧・市役所 奥が旧・東洋拓殖大連支店
 旧・市役所は、真ん中に塔があります。この塔は、京都祇園祭の山車をイメージしたそうです。設計者は関東都督府土木課長の松室重光で、施工は清水建設です。
この建物は戦後、大連市人民政府庁舎として使用され、現在は中国工商銀行大連市分行となっています。


↓戦前の旧・市役所(旧ヤマトホテルの二階のカフェにあった写真を撮影)

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中山広場は、夜はライトアップされます。
以下、夜の中山広場をご覧ください。

↓旧・市役所

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↓旧 英国領事館  

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現在は建替えられてCGB銀行の建物になりましたが、高さは抑えられ中山広場の他の建物と調和しています。

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↓上のほぼ同じ場所からの昼間の写真
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やはり夜の方が綺麗ですね・・・昼間は背後の高層ビルに紛れてしまいがちですが、夜は古い建物だけが照明されて浮き立ちます。

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今日の最後は、与謝野寛・晶子夫妻の大連を詠んだ歌でしめくくります。



与謝野寛・晶子夫妻の大連の歌(『満蒙遊記』より)


 大連のアカシヤの街ただ少しこころを濡らす朝露もがな  寛(鉄幹)

 アカシヤに風の騒げば山の灯もいさり灯のごと心もとなし  晶子






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2018年 12月 03日 |

家族ぐるみで満州に移住した祖父・・・・私の祖父はどんな人物だっかのか?・・・・それが私の知りたい疑問でした。


祖父は戦前に死去しましたので、私は祖父を全く知りません。「飲む打つ買う」は全くしない実直な人間だったと聞いているだけです。
ただ、父のおかげで写真は残されています。

↓実直な雰囲気で写る祖父(父のアルバムより)

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↓祖父が撮影した家族 (ソフトフォーカス処理しました)

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↑後列左から私の祖母、父、曾祖母、叔父、伯父
 前列左から私の叔母たち(つまり祖父の次女、三女、長女)
 この9人の家族は、満州で仲良く暮らしました。



やがて、この満州に移り住んだ一家では、曾祖母がまず亡くなり、ついで祖父が脳溢血で急逝しました。そして、学徒出陣した父の弟(私の叔父)は戦死しました。
9人家族が6人になってしまったわけです。


戦後しばらくして父の家族は苦心惨憺して京都に引揚げ、内地でも苦労したようです。


戦後の家族史は、すべての日本人のそれぞれの個人の歩みの重要な一ページとして、別の物語になるでしょう。
その年月の中で、やがて父は、私の母とめぐりあい、結婚し私が生まれたわけです。(面白いことに父の家族より一世代若い母の家族は、ブラジル移民というのが重要な位置を占めることになります)


したがって今、私が祖父のことを知るのは、父が残した、この満州アルバムしかありません。
そこには、辛い話よりも、家族の楽しい思い出がつづられているのが嬉しいです。


では、祖父は、なぜ満州へ行ったのでしょうか?


日露戦争以降、大正から昭和にかけて、日本のやる気のある若者は満州へ行くというのが大きな夢でした。


----狭い日本で何をする? 男児骨を埋むる天地は支那だ。満蒙だ。(『満鉄外史』菊池寛 原書房 2011.6.16 124頁)


「馬賊の唄」
僕も行くから君も行け
狭い日本に住みあいた
(永清文二『満洲奉天の写真屋物語』ほかの資料より)


このような風潮はあったでしょうが、祖父は真面目な性格であったはず・・・そのような堅物も満州に夢を描いたのだろうか・・?


政府の帝国主義的政策に乗せられたというのは今だから言えますが、当時、真摯に生きようとする日本人は、誰しも満州進出を日本の希望と考えていたのではないでしょうか?

「ロシア人と、日本人とは、ここに自己流の楽園を築こうとした。」(『大連・旅順はいま』宇田博 54頁)


堅実で真面目であったからこそ、政府の言葉を信じ、祖父は日本の国のためと思い、満州へ行ったのではないかというのが私の推測です。



仕事に懸命に取り組んだ祖父は、休みの日には息子たちを連れ、奉天の街を歩き、周辺の自然に親しむ事にも取り組みました。


↓父の絵日記より

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「お父さんに城内に連れて行って貰うのが たのしみだった
 冬は志那靴にゴムバンドをつけて、はき、マントの裏に羊の皮をつけた」


男三人兄弟は、休日はお父さん(私の祖父)にくっついて一緒に過ごしたのです。仲の良い親子でした。


よく行った城内とは、奉天旧市街の中にさらに四角い城壁に囲まれた故宮の一帯で、出店や大道芸人などで賑わっていました。
中国の歴史を学び、庶民の屋台などを見学するのが楽しみだったようです。


↓現在の瀋陽故宮付近

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このあたりは、昔とさほど変わっていないと思います。


また祖父は、特に男の子たちに、自然に親しむ事も教えました。


特に熱心だったのは昆虫採集。


↓父のイラストより

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父は後に、昆虫採集に熱中し、満州で新種の昆虫を発見し日本の学者に標本を送り、自分の名前のついたハゴロモ(セミの近縁種)が図鑑に載ることになります。


奉天のすぐ近くを流れる渾河(コンガ)の河畔は、野鳥や昆虫が多く、日曜日は親子で通ったようです。


↓渾河の採集地の詳細図(何枚も細かい図が残されていますが、そのひとつです)

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渾河といえば、太祖ヌルハチの「瀋陽は形成の地である。西、明国を征し、北、蒙古を征し、南、朝鮮を征するのに絶好の位置である。山岳地帯で木を伐り渾河に流せば財となり、野に猟し河に漁すればたらふく食うことができる」という有名な宣布を思い出します。

やがて、ヌルハチはここに後金国の都を建設し奉天府となづけ、その子ホンタイジは明国を倒し中国に満州民族の国家「清」を打ち立てるのです。



事実、この要衝の地、渾河一帯は、ヌルハチが建国してから約300年後、日露戦争の決戦「奉天会戦」の舞台となります。



児玉は、口述した。
「敵ハ、渾河ノ左岸ニ集結シツツアリ」

             司馬遼太郎『坂の上の雲 四』 文春文庫 268頁



↓父の少しふざけた渾河の詩

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↓父が撮影したコーリャン畑の写真

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祖父自身は野鳥が大好きで、家に野鳥を飼っていました。


↓父のイラストより 当時は野鳥を自由に飼うことが可能でした。

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「二階の小部屋はお父さんによって数十羽の小鳥の室となった
 ノゴマ オガワコマドリ カワリサンコウチョウ トラツグミ マミジロ ウソ 等々
 お父さんは あらゆる鳥を飼った」

上記の祖父が飼った野鳥のうち、私が撮影した最近の鳥をいくつか・・


↓トラツグミ

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↓マミジロ

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↓ウソ

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オガワコマドリ カワリサンコウチョウ は日本内地では珍しい野鳥で私はまだ撮影に成功していません・・・この点は、祖父がうらやましいです。


この祖父の自然志向は、父を通じて、私にも受け継がれています。私も昆虫と野鳥は大好きです(笑)



↓現在の瀋陽の市街と南を流れる渾河(絵葉書より)

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「おい、渾河(コンガ)じゃないか」
鉄橋を渡れば奉天、いや現在は瀋陽とよばれているわたしたちの故郷である。
                         宇田博『落葉の市街図』 42頁








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2018年 11月 25日 |

前回、父の家の跡を訪ねたところ、ビルが立て込んだ大都会の一画になっていたことをお話しました。


↓父の家の跡かたも無いので、周辺を歩き回り、うろうろしてみました。

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↓浪速通りに面した旧・藤田洋行の跡です。

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↑ここは、商社として有名だった藤田洋行が本社として建設したビルで、現在も当時の面影を残している風格に満ちた建物です。


このあたりは、満鉄付属地で日本人が奉天の西郊外に新たに造成した市街でした。


↓当時の地図も父の絵日記アルバムに貼られていました。

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↑左側の駅前に沿って碁盤の目のように区切られた市街が満鉄付属地です。この日本人街は「大和区」とも呼ばれていました。

右側の楕円形の城壁に囲まれた一帯が奉天旧市街で、さらにその中に長方形の城壁に囲まれたところが「城内」と呼ばれる瀋陽故宮城(太祖ヌルハチが後金の都城として建設)の中枢になります。

もちろん現在は、人口800万人になった瀋陽の中心街として、ともに完全に大都会市街に埋もれてしまい、城壁も取り壊され、旧市街と満鉄付属地の区別はありません。。。。


↓満鉄付属地をもう少し拡大 この地図では奉天駅が上に位置し、右下のロータリー(現在の中山広場)に至る斜めの道が旧・浪速通り

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↓さらに拡大

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↑右側中央の公園につきあたる道の左に春日町と書かれています。春日町は当時の繁華街です。
以下、下へ、住吉町、琴平町、八幡町、富士町・・・!
すべて日本の地名がつけられています。(もちろん、以上の地名は戦前のもので、今は名前が変わっています)


父の住んだのが八幡町〇〇番地でした。
すぐ横の富士町には、日本人の写真屋が経営する「永清寫眞店富士町支店」があって、父の家族はよくお世話になったそうです。

この写真館の当該番地を探してみましたが、今は跡形もありませんでした。

↓永清寫眞店の当時の写真

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周囲に空き地があり、当時はまだ建物は密集していなかったようですね。
夏目漱石が奉天の満鉄付属地を訪れた時代の様子は次のようでした。
「満鉄附属地に赤煉瓦の構造、所々に見ゆ。立派なれど未だ点々の感を免れず」(夏目漱石『満韓ところどころ』)


なお、この永清写真店に関しては、当時の店主の御子息である永清文二氏が書かれた『満洲奉天の写真屋物語』という名著があり、読ませていただき感動した思い出があります。 戦前の古い写真店についてご興味のある方は、ぜひお読みください。


当時の浪速通り、現在の中山路の奉天駅と中山広場の間には、一か所、歩道橋があり、高いところから道を見下ろせます。
そこで、歩道橋に登ってみました。


↓歩道橋の上から駅側を望みます。正面に見えるのが瀋陽駅(かつての奉天駅)

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↓反対側望みます。正面に立っているのが中山広場の毛沢東の像

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↓さらに私の父の家があった方向も撮影しました。旧の春日町という繁華街で今も店舗が多いですね。

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↓歩道橋を降りて、中山広場方面へ歩きます。漢方薬の有名店がありました。

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さて、父は7才で京都から大連を経てここに至り、生活をはじめました。父の絵日記にから紹介します。


↓小学校の一年生、級長さん(今の学級員)だったようです。

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↓当時はのどかであった父の生活の一コマ ひよこを飼って鶏にしたのですね。

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↓冬は寒く、窓から頭を出して、焼き芋や焼き栗を買ったようです。

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クリヌクイー
 二重窓の小窓から首だけ出して
 クリヌクイ 又 ヤキイモ を呼ぶ
 冬!

 アイヤ


↑この父の絵日記アルバムに書かれた「クリヌクイ」という言葉が頭にあって、安部公房伝を読んだ時に同じ言葉があり驚いたものです。


安部公房は奉天で父の通った同じ学校の後輩になります。


『夜』 小学生の安部公房の書いた詩

「クリヌクイ クリヌクイ」
 カーテンにうつる月のかげ

     安部ねり『安部公房伝』216頁より引用



余談ですが、安部公房は作品の中で奉天(瀋陽)を登場させ、碁盤目の街を描写しています。
「町は正確な碁盤目に仕切られていた。しばらくのあいだはひっそりとした古めかしい住宅街で人通りも少なかった。それから急ににぎやかな表通りに出た。」(『けものたちは故郷をめざす』安部公房 新潮文庫 201頁)


クリヌクイ クリヌクイ」という栗の売り子の声は奉天の日本の子供には幸せの言葉だったのですね。



上で紹介した『満洲奉天の写真屋物語』にも「クリヌクイ」は登場します。


「寒い冬の夜など、~栗ぬくーい~ という売り声が北風に千切れて飛んで来るのを聞くと、いそいそと買いに出たものだった。・・・・・奉天の栗は日本で売られている、天津港から積み出されたいわゆる天津栗と称するのとは違って、ずっと大きくて美味で、食べ出がある。」(永清文二『満洲奉天の写真屋物語』480頁)


↓そこで、私も瀋陽の中心街では屋台に行って焼き栗を買ってみました(笑)・・・なかなか美味しかったです。

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↓父のアルバムには「満州のおやつ」と称する一コマがあります。焼き栗だけでなく多くの美味しそうな食べ物が描かれています。
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奉天は餃子や豚まんの本場で、とても美味だったとのこと

「奉天で食したあんな美味な包子、すなわち豚まんには、ただの一度もお目にかからない、いやお口に味わえない。」(永清文二『満洲奉天の写真屋物語』476頁)


↓もちろん私も、現在の奉天(瀋陽)の豚まんや餃子を味わってみました。美味礼賛!

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2018年 11月 18日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「中国遼寧省・瀋陽観光で行きたい!ベストスポット5選」という記事が公開されました。
瀋陽(奉天)の代表的観光スポットを紹介したものですので、ぜひ記事をお読みください。







本ブログでもタイアップして記事を書いております。
今日は、瀋陽(奉天)の第1回目で、プロローグ的な話です。


私の中国東北地方の旅の目的のひとつは、父の足跡を辿ることでした。
誰にでも家族史というものがあり、祖父母や両親の住んだ場所への思いはあるでしょう。私の場合、それは満州です。
今回の旅で、ようやく私は、長年の宿題を終えた気分です。


↓父の残した絵日記アルバム「満州14年」 ~父の少年時代がここにあります~

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↓父が過ごした満州の14年の生活が、漫画や写真やイラストや図表などで示されています。

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満州は多くの日本人が生活した舞台で150万人以上はいたようです。したがって、父母や祖父母が満州で暮らしたという方は多いと思います。


私の父は、7才のときに、両親に連れられて、実家の京都から満州にやってきました。
大連まで船で来て、大連駅から奉天までは列車で来ました。


↓奉天への列車にて(父の絵日記アルバムの最初のヒトコマ)

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「列車はゴウゴウと満州へ向ふ その頃の大陸二等車は一区画づづ 部屋になってゐた
 始めて洋服を着た  僕は7才であった」


当時の列車は、1等、2等、3等があり、父の家族は2等コンパートメントに乗ったようです。


上のマンガで、帽子を被ってメガネをしているオジサンが祖父で、祖父が手をにぎっているのが父の弟(つまり私の叔父)、祖父の横で窓を見ている後姿が父

左側に描かれているのは、手前が祖母で、その膝に抱かれているのが父の妹(つまり私の叔母)。その向こうが父の兄(つまり私の伯父)、その奥のメガネをした年配の女性が祖父の母(つまり私の曾祖母)


満州に来てから、祖母は二人の女の子を生み、父は6人兄弟の二人目。上三人が男の子、下三人が女の子という家族構成になったわけです。
曾祖母を入れて、総勢9人家族。現在は全て物故者ですが、当時の仲の良い家族が偲ばれます。


↓当時の鉄道地図も貼ってありました。

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私が乗った高速列車「和諧号」が途中で止まった営口は、この地図で見ると南満州本線より西へはずれています。
つまり、父が乗った列車は営口の一つ手前の大石橋で北へ曲がり、遼陽や蘇家屯を経て、奉天に着いたのでしょう。


↓現代の高速鉄道から見る大連~瀋陽(奉天)の間の車窓風景

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父が大連から奉天に列車で来た時の車窓風景には、上のようなコーリャン畑はあったでしょうが、下のようなビニールハウスは無かったでしょう・・・・

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奉天駅についた父は、馬車で家に向かったのです。


↓父の絵日記より

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「馬車にのって走る 奉天の街 夜 新しい家に」


↓当時の奉天駅(絵葉書より)

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↑やはり、馬車が写っています。


父が奉天で過ごしたのは昭和ですが、まだ馬車が多くあったことが分かります。というか、今のタクシーの役割を馬車が果たしていたようです。


それよりだいぶ前、明治42年(1909年)に、親友で満鉄総裁だった中村是公に招待された夏目漱石は、胃痛に悩まされながら満州を旅し、奉天にもやってきました。
漱石には、馬車が激しく行き交う奉天の街は驚きだったのです。↓は奉天駅から宿へ馬車に乗った漱石の感想です・・・

「・・・奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ騾馬を六頭もつけた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに無人の境を行くがごとく飛ばしてみせる。我々のような平和を愛する輩(ともがら)はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。」(『満韓ところどころ』 夏目漱石全集7 ちくま文庫 545頁)


今は昔、時代は変わりました。現在の瀋陽駅前は馬車の馬もなく、クルマが激しく行き交う、せわしない都会の駅です・・・・


↓現在の瀋陽駅(旧・奉天駅)

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辰野金吾の弟子による設計ですので、東京駅に似ています。




↓そして父たちは、用意された家に落ち着きます。

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満鉄の管理職として奉天に赴任した祖父は、当然ながら奉天で日本人のために開発された満鉄付属地の家に住みました。


当時の八幡町ということで、私はそこを訪ねてみました。
父のイラストによると、のどかな新しい住宅街という感じですが、現在は・・・


↓父が住んだ家の番地付近は、今はビルが立て込んだ大都会の一画になっていました。

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2018年 11月 11日 |

中国東北地方の国内移動について、何人かの方からご質問がありましたので、大連―盤錦(レッドビーチのある市)の間を例にして説明します。


中国において、北京・上海・西安といった距離のある大都市間の移動については、これまで飛行機が主でしたが、中国の高速鉄道の充実に伴い、鉄道利用も便利になってきています。


特に、東北地方の都市間移動のような中距離については、中国の新幹線ともいうべき、中国高速鉄道が圧倒的に利便性が高いものです。


それでは、以下、大連から盤錦(パンジン)までの、高速鉄道の写真をご覧ください。


↓大連駅

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↓昔の絵ハガキから 戦前の大連駅 雰囲気は変わっていませんね。

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大連駅はもともと、南満州鉄道株式会社(満鉄)が建設したものです。日本の上野駅がモデルとされ、ここから当時の夢の朝特急「あじあ号」が、奉天・新京・哈爾浜(ハルビン)へと走っていました。


↓戦前の豪華特急列車あじあ号

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↓あじあ号の最後尾(展望室)
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今は、大連駅には中国高速鉄道が乗り入れています。
一階にプラットホームがあり、二階が乗車用改札、地下が降車用改札で、乗降客の動線が重ならないよう非常に合理的にできています。
その方式は現在も受け継がれ、高速鉄道の駅ではたいていが二階から乗車し、地階のコンコースを通って降車する形になっています。


大連駅について手元にある資料から
「満鉄は大連港に着く日本人を満州各地に送り出すために、大連駅の充実を図った・・・・・その姿は上野駅に似ていたが、内部は画期的な試みがなされていた。乗客は二階から改札を通り、ホームに降り、駅に着いた客はホームから地下道を抜けて、一階から出た。」(『井上ひさしの大連』 井上ひさし・こまつ座編 小学館)


↓二階にある乗車用待合室・・・広いです。

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↓電光掲示板で確認します。

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↑私の乗るのは、8:41発の上海紅橋駅 行き で、レッドビーチのある盤錦で途中下車します。正点と書いてありますから定刻発車(始発)のようです。
検票口2とは、改札口が2番のことなので、そこに行って並びます。定刻15分前くらいに通過できるようになります。


そのあとは、8:45発の瀋陽北駅 行き で、13分遅れ。
そして 9:08発の北京 行き 、9:15発の吉林 行き と続いていますね。


↓改札を通過します。1番ホームと書いてあります。

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↓二階から1番ホームのエスカレータへ。もう左下に列車が来ていますね。

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↓私の座席は最後尾の8号車なので、ちょっと列車の端を撮影させてもらいます。

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↓和諧号 なかなかカッコ良いですね。

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以前、ロシアに行った時、サンクトペテルブルグとモスクワ間でサプサン号に乗りましたが、そっくりです。


それもそのはず、基本はどちらもドイツ・シーメンス社のヴェラロシリーズ。それをカスタマイズしたものです。
ロシアのサプサン号については、くわしは 私の↓の記事 をお読みください・





和諧号とは調和・ハーモニーの意味で、中国では最優等列車につけられています。日本でいえばさしずめ「のぞみ」でしょうか。


サプサン号は10両編成でしたが、和諧号は8両編成


それでは、和諧号の内部に入ってみましょう。


↓私の乗る8号車二等席です。

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↓新幹線と同じく、2+3のシートで、なかなか快適です。すべて進行方向に向いています(つまり新幹線と同じく、座席向き可変シートなので、固定式のサプサン号より優れています)

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↓当日のチケット 1435元すなわち約2500円強と、中国の物価と大連―盤錦の距離を考えると結構お高いです。
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↓7号車を見に行ってみました。さほど混んでいません・・・

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↓トイレ 和式に近い形ですが、サプサン号と同様、まあまあ綺麗です。

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↓スーツケース置き場もありましたが、サプサン号のようにコートの置き場は無かったです。

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いよいよ出発
戦前に、あじあ号で満州を旅した私の祖父母の気分で、ちょっとワクワクかつしんみりします。。。。当時、7歳だった父は京都から満州の奉天へ移住するために両親に連れられてここを列車で走行したわけで、子供心にきっと不安だったろうなあ・・・と遥かに思いを馳せました。

祖父母や父がたどった鉄道路線の一部を、今、私が走っているのです!


↓車窓風景 渤海(遼東湾)に沿って盤錦に向かうので、進行方向左側に河口が見えます。なかなか良い景色です。)

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↓海が見えてきました。

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陸側は、コーリャン畑が車窓を流れ去り、田舎風景が単調に続きます。

↓途中の停車した駅です。昔は「営口」と呼ばれ、大連の誕生以前は、中国東北地方の玄関口として栄えた町です。

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↓車内販売がありました。ちょっと左上の電光掲示を見ると、306km!凄いスピードですが、さほど揺れません。

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↓外気温18度。ちょうど良い温度ですね。

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↓やや大きな町が見えてきました。どうやら盤錦(パンジン)市のようです。

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↓盤錦駅に到着したので下車します。地下コンコースへと誘導されます。

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↓盤錦で降りる人はさほど多くなく、地下コンコースを出口に向かいます。

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↓地下コンコースにあった広告看板(今話題の范冰冰さんかと思って撮影したのですが後で調べてみると別人でした・・)

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↓駅の外へ出ました。盤錦は中程度の都会ですね。

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↓振り返って盤錦駅を撮影しました。やはりここも乗車は二階からですね。満鉄がはじめた、乗降客上下分離式の思想はここでも受け継がれているのです。

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高速鉄道では、大連から盤錦まで約90分、盤錦から瀋陽までも同じく約90分。列車で旅するにはちょうど良い距離ですね。とても快適な移動方法として利用させてもらいました。バスや飛行機より圧迫感が無く、自由に動き回れるので中距離移動には最適な乗り物だと思います。

この綺麗で快適な高速鉄道のおかげで、中国の鉄道のイメージが変わりました。そこで、今、高速鉄道が、凄まじい勢いで、中国全土に広がりつつあります。






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2018年 11月 06日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「中国遼寧省『レッドビーチ』で野鳥と蟹を楽しむ!」という記事が公開されました。

中国遼寧省の紅海灘風景区はレッドビーチと言われ、秋に河口デルタ地帯が紅葉に染まる姿が見られます。まさにスケールの大きな絶景ですので、ぜひ記事をお読みください。






本ブログでもタイアップして記事を書いております。
今日は、レッドビーチでの野鳥と蟹の話です。


レッドビーチは大湿地帯ですので、野鳥たちの楽園でもあります。

紅海灘風景区は、約260種類の野鳥の生息地で、国際湿地条約(ラムサール条約)の「世界重要湿地カタログ」に登録され、「東アジアとオーストラリア間の渡り鳥生息地保護域ネットワーク」と「北東アジア鶴生息地ネットワーク」に加入しています。

まず一番多く見られるのがズグロカモメなどのカモメ科の鳥たちです。赤く点々と生えるマツナの中に、白いカモメが佇む姿は綺麗なものです。
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カモメの飛翔写真を撮るのも楽しいもの。背景がレッドビーチなので、他では見られないユニークな写真が撮れます。

↓高速シャッターで飛び回るカモメを止めて、背景の赤い湿地帯や道路の景色も分かるようにしました。
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本格的な水鳥の類ではシギの仲間が見られます。長くて曲がった嘴が特徴的なダイシャクシギは特に印象的で、干潟の穴に嘴を突っ込んで蟹などを食しており、ここの湿地帯にうまく適応した野鳥であることが分かります。
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シギの写真を撮る場合、やはりここならではの赤いマツナの中に佇む姿が良いものです。
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小さいチドリ類も多いのですが、警戒心が強いので、遠くに見つけても超望遠レンズでなければ、思うように撮れず難しいです。海外旅には、三脚は持っていきませんので、もちろん全て手持ち撮影です・

↓コチドリですが、遠くて小さいので、等倍拡大。
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まれにタンチョウやソデグロヅルも飛来することがあるそうです。今回は残念ながら見つけられませんでした。


湿地帯の中に突き出た遊歩道は赤いマツナの観察に最適であるとともに、足下に湿地の魚や蟹類を見ることができます。写真にたくさんある穴は盤錦蟹の棲息穴で、じっくり観察すると蟹が出入りしているのが見られます。

↓蟹穴
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特に海洋牧場区では、海鮮狩りの魅力を体験できます。蟹釣りの道具もレンタルでき、家族連れが楽しんでいます。コツがあり、ちょっと難しいのが実情。

↓家族連れが蟹釣りに挑戦していました。
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↓その成果を撮影させてもらいました。
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レッドビーチの田園楽土区では屋台があり、盤錦蟹の串揚げの実演販売が人気です。

↓生きている蟹を串で突き刺すのは新鮮で良いですが、懸命に動いているのでちょっと可哀そう。

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屋台で売っているのは小さい盤錦蟹の串揚げで、飛ぶように売れています。小さい蟹なので、豪快にそのままかじり付けば良いのです。なかなか美味でリーズナブル。

↓ここならではの野趣ある食べもので、美味しかったです。
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蟹丸ごと食するのは苦手という人でも、園内の食堂で盤錦蟹の蒸し料理を注文することができます。

こちらは養殖の盤錦蟹で、やや大きめ。そのため丸ごととはいかず甲羅を外して食べますが、黄色い蟹味噌が美味しいものの食べる部分が少ないのが欠点。

↓昼食として食べましたが、中身の食べる部分がが少なくてちょっと、がっかりでした・・・
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↓このような列車型カートバスもあり、園内を走っています。
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写真撮影とカニを満喫して、レッドビーチを後にしました

↓さらばレッドビーチ!

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2018年 10月 31日 |

皆様、お元気お過ごしでしょうか。
私は、無事、旅から帰還しました。少し前に帰国していましたが、バタバタしており、ブログ更新は今日になりました。

まずは、旅のひとつの目的であったレッドビーチ(紅海灘風景区)の写真の前編をおおくりします。


もう枯れているかと心配したレッドビーチですが、やや色が暗赤色になってはいましたが、幸いにも、まだ赤が十分に残っており目的の写真を撮ることができました。

年によって状況が異なるようですが、今年は10月の上旬が盛期だったようです。当初の予定の9月上旬なら、全く赤くなっていなかったとのこと。
関空被災で一ケ月以上遅れた訪問も、結果的には良かったかも知れません。


↓レッドビーチと石油掘削櫓

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↓鑑賞ポイントの遊歩道

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↑入場料が必要ですが、園内はバスで道路に沿って五か所ある鑑賞ポイントに行くことができます。園内でも総長18kmの赤色の浅瀬が続き、各ポイントでは写真のように遊歩道が整備されており、沖のほうまで見に行けるようになっています。

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このレッドビーチ(紅海灘風景区)は、遼河デルタに広がる大湿地帯。世界最大級で、100平方km超の広さ(東京ドーム約2,000個分!)。
そのスケールの大きさは、日本では考えられないものです。

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↓ドラゴンのオブジェが・・・

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↓アップで
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↑赤い大地の正体であるマツナは、アカザ科の一年草で、秋9月~10月に深紅に染まります。近くで見ると葉がぷっくりと膨らんで赤く染まっているのが分かります。

日本の北海道に分布するアツケシソウ(サンゴ草)もアカザ科の植物で近い種類ですが、中国のレッドビーチのほうが色も大きさも圧倒的に凄いですね。

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↓反対側に広がる稲田アート地帯

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レッドビーチは真っ直ぐな道路の海側に広がっているわけですが、陸側は淡水化された中国随一の水田地帯で、秋には黄金色の稲穂がたわわに実ります。田園楽土区とされる場所では、観光客を楽しませるため、稲田アートも作られています。いわば、レッドビーチと対照的なゴールデンビーチがあるわけです。


↓奥のほうまで、遊歩道がありますので、これも楽しめます。

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確かにまっ平で、広大な湿地帯ですから、稲作には最適でしょうね。当然、このあたりは中国随一のコメの産地になっています。


↓ということで 銘柄米「盤錦大米 天満」が売られていました。

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2018年 10月 15日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう」という記事が公開されました。
いわゆる三輪王朝といわれる日本最初の統一政権が出現した古墳群を歩く記事です。ここを、邪馬台国の中心地とする説が有力になりつつあり、まさに日本の夜明けを告げる地域ですので、ぜひお読みください。





本ブログでもタイアップしてオオヤマト古墳群の記事を書いていきます。
ただ、上のトラベルジェイピーの記事は、旅行ガイド記事ですので、歩く順番に紹介していますが、本ブログでは造営順(時代順)にたどり、私の邪馬台国から大和朝廷への被葬者比定説を述べます。


なお、間に旅行記事を挟みますので、断続的な記事展開となりますので、ご承知おきください。


まずは、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳です。

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奈良盆地の東南部、現在の桜井市から天理市にまたがる一帯は、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」と歌われた古代日本の夜明けを告げる場所です。

このヤマトの中のヤマトとされる一帯は、古来よりヤマトと呼ばれており、大和=オオヤマト古墳群地域とされます。
古墳群の定義は学者により異なりますが、邪馬台国から初期大和朝廷への発展を一体と考え、奈良盆地東南部の古墳全体をまとめてオオヤマト古墳群として捉える白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の学説を私は支持します。


このオオヤマト古墳群で巨大前方後円墳が誕生しました。すなわち、日本で最も古い巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、卑弥呼の墓の可能性が最も高いのです。


箸墓古墳の航空写真は、こちら の記事の最初の写真をご覧ください。とても美しい形をした前方後円墳であることが分かります。


↓箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の拝所 西側にあります。

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もしかすると卑弥呼が葬られているわけですから、箸墓古墳の前に立つと胸が高まります。ここはまさに古代史ファンの聖地です。


東側に回って、箸墓古墳を一周します。北側以外は濠はなく、地面から直接古墳が立ち上がっています。

ただし、奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の調査では、幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性が高いとされています。

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北側には「卑弥呼の庭」というカフェもできていました。
北側の池は、「箸中大池」として日本ため池百選にも選ばれています。

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箸墓古墳は、墳丘長278mの出現期古墳中の最古の巨大墓で、三世紀後半の築造と考えられます。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とする有力な学説があります。宮内庁の正式名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。日本書紀には「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。」と書かれています。このヤマトトトモモソソヒメは、孝霊天皇の皇女で、三輪山の神と婚姻した伝説的な巫女とされ、祟神天皇は巫女であるヤマトトトモモソソヒメの神託を聞いて政治を行なったとあります。


この古墳は、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えます。
根拠については、以前書いた記事を、下の More に再々掲してみましたので、ご興味のある方は More をクリックしてお読みください。

なお、私は白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の講義や講演を何度も聞きに行っています。館長の主張は一貫していますので、箸墓古墳の被葬者に関して述べられている部分を以下に引用しておきます。

倭国王墓として最初の箸墓古墳は、大型前方後円墳としては最古のもので、3世紀中葉に遡る。その被葬者の候補として卑弥呼以外の人物を考えるのは難しい」(白石太一郎講演レジメ「邪馬台国連合から初期ヤマト王権へ」より抜粋)



箸墓古墳から北へ巻向駅の方へ歩くと、邪馬台国の宮殿跡ではないかとされる纏向遺跡があります。弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地として、現在も発掘調査が進められています。

この遺跡を邪馬台国の首都に比定する説が有力になりつつあります。王宮的な建物跡が発掘され、話題となりました。

最近は、桃のタネ約2000個以上が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようで、炭素年代測定法の計測により西暦135~230年のものであるという研究発表があり、邪馬台国の時代に整合します。

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↑航空写真をご覧ください。奥にある山が聖地:三輪山、右端の大きな古墳が箸墓古墳、左端の団地の右上にある空地が纏向遺跡の中心です。この位置関係が重要で、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。







さて、中国東北地方いわゆる旧・満州の地へ旅に出ることになりました。
関空の台風被害で一度中止した旅ですが、関空が復旧しましたので再チャレンジすることにしました。


10月上旬は非常に多忙でしたので、10月中旬の出発となりました。目的のひとつであるレッドビーチの取材は、一ケ月遅れましたので、もう枯れてしまっているかも知れません。


ただ、どうしても今年に行きたいという思いがあり、挙行することにしたものです。


もうひとつの目的である、私自身の祖父が満鉄社員として赴任し家族(私の父や祖母・伯父・叔母など)とともに住んだ地を見るということは、果たせそうです。


無理したせいか、風邪気味で体調が思わしくないのですが、もうこれ以上順延はできませんので、頑張って行ってきます。


それに伴い、ブログの更新も二週間ほど休ませていただきます。


次のブログ更新は、10月の月末頃になります。
それでは、皆さん、しばらくのあいだ、ごきげんよう!





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More  箸墓古墳は卑弥呼の墓である
2018年 10月 08日 |
前回、モロッコの食事と砂漠の写真を載せたところ、砂漠はどんなところで宿泊するのですか?というご質問をいただきました。
そこで、今日はモロッコの砂漠でのホテル?での写真をアップします。

サハラ砂漠の西の始まりであるモロッコでは、アトラス山脈を越えたメルズーガという村に砂漠体験用のホテルが並んでいます。
ホテルといっても、土で出来た建物とテントを組み合わせた野趣あるもので、一種のグランピングと言えるかもしれません。

↓私の泊まったホテルのテント棟(砂漠側から撮影)
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↑奥左側に見えているのが土でできた建物棟で、私はその建物棟の部屋に宿泊しました。

↓テント棟を建物棟から撮影 後ろに砂漠が見えています
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このように砂漠に近いところにあるので、砂漠に徒歩やラクダで行けるわけです。
こうしたモロッコならではの砂漠体験というのが欧米人に人気で、多くの観光客が訪れます。

↓夜のテント棟の内部
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↓建物棟の前の広場
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↓建物棟の天井は草で編んであります。雨が降らないのでこれで十分だそうですが・・・うーん。
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↓私の泊まった部屋
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↓ベッドは荒々しい木でつくられたもの。壁は土と草を漆喰で固めたもの・・・
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↓これがシャワー(左側)と洗面
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シャワーが使いたくてテントではなく建物棟の部屋にしたのですが、お湯は出ず、水もチョロチョロでした。

↓食堂は建物棟の前にあり、天井は巨大テント風布 バイキング形式
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↓一応綺麗な食器やテーブルで隅っこで食事しましたが・・・・暗いんですよね。
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味はもうひとつでした・・・

イランのキャラバンサライの野趣あるホテルに泊まったことを思い出しましたが、全般的にイランの宿のほうが質が高かったです。詳しくは こちら。

↓食堂の前の広場でも食事ができます。ただ夜は寒くて、焚火を囲む形になります。
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まあ、貴重な砂漠体験ができるのですから、この程度は野趣として楽しめる範囲だと思います。

最後は、ホテルから歩いて砂漠に行って撮ったサハラの写真をご覧ください!

↓昼間
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↓早朝
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↓砂漠の夜明け
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2018年 10月 01日 |

皆さん、大型台風がまた来襲しましたが、大丈夫でしょうか?
私のほうは、なんとか被災を免れました。
それにしても今年は、本当に地震・台風・大雨など天災が多いですね。、


さて、今日は模糊の料理教室です。

モロッコのスーパーで買ったクスクスの調理に挑戦してみました。


台風の日は、撮影仕事は無理でイベントも中止になりますので、少し時間ができます。そこで、ちょっと変わった料理をしようと思うのです。
最近、凝っているのが我流クスクス料理です。


世界の旅先で見かける保存のきく庶民的な料理素材は、自分へのお土産として、いつも買ってきます。レンズ豆はその代表ですが、モロッコではクスクスも仕入れました(汗)
モロッコでは代表的な郷土料理で、↓の写真のクスクスの袋詰めがスーパーで非常に安く売られていました。

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クスクスは、パスタの一種とも言え、小麦粉からつくる粒状の粉食です。

北アフリカのモロッコからチュニジアにかけてのマグリブ地方が発祥の地で、南ヨーロッパや中東でも食べられています。一般的には上の写真のような乾燥状態で売られています。安くて手軽に調理できることから、現在でもマグリブ地方やシチリアでは非常にポピュラーなものです。


今回買ってきたクスクスは粒の細かいタイプで、現地では人気があるとのことです。
イスラエルでは、やや粒の大きなクスクスを食べましたが、モロッコではこの粒の小さなタイプが主流でした。


袋裏にはアラビア語での説明がありましたが、私はアラビア語は読めないので、ネットでレシピサイトなどを検索して、調理方法を調べました。
レシピは、とても簡単なものでした。


↓まず、一人当たり80~100gのクスクスを鍋か大きめの深皿に入れます。

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次に、同量の熱湯を入れてまんべんなく丁寧に混ぜ、10分ほど蓋をしてなじませます。蒸すというよりフヤかすという感じです。


↓蓋をして10分間

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↓なじませ蒸しあがったクスクス 水を吸って体積が増しています。

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モロッコのレストランではクスクス鍋という二段の蒸し器のような専用鍋で調理しますが、私はクスクス鍋を持っていないので、上記の方法でやりましたが、モロッコでもこの簡単な方法による調理が一般的だそうです。


次は味付け調理で、これは要するに日本でいう焼きめしやチャーハンあるいはパスタ、○○丼と同じように考えれば良いのです。

モロッコでは、バターを多用し、タジン皿に盛り付けたりして、やや油っこく感じましたので、自分なりに和風味付けでやってみました。

フライパンで炒めて、ありあわせの肉や野菜を混ぜ、好みの味付けで調理します。


↓一回目(台風21号が来襲した日は、和風味付けクスクスにアボカドを添えてエスニック風に)

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食感は、おからの焼き飯という感じで、パサパサ感があり、まあまあでした(笑)


↓二回目(昨日は、台風24号が来襲したので、またクスクス料理)クスクス・チャーハンのトマトソースかけ

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↑クスクスは卵チャーハン風に改良を試みました。

かけているのは、ホールトマト缶を使った、我流のトマトソースです。
トマトソースに入れているのは、たまたま冷蔵庫にあったソーセージですが、これはタコやイカ、貝類などお好みに合わせて使われたら良いでしょう。もちろんソース自体を変えてカレーやデミグラスソース、ミートソース、豆板醤、中華餡なども楽しめそうです。発想は自由!


これは美味しかったです。やはり、少し経験を積むと、良くなりますね(笑)今後も創意工夫を重ねていくつもりです。創作料理と言えるほどのものではなく単なる男の趣味料理ですが、少なくともこうした創造性がなければ料理自体が楽しくありません・・・


まあ、日本では良質のコメの粒食が発達しているので、クスクスは非常にマイナーな存在です。チネリ米という、小麦粉を使った代用コメ料理がありますが・・・マニアックな和製クスクスと言えるでしょうね。


でも、クスクスは、お米よりはローカロリーなので、時代潮流に乗って、今後、普及しそうな気もします。


↓モロッコのレストランで食べたクスクス料理 これが本場の元祖ですが、私にはバターやオイルが重く感じました・・・・

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久しぶりにモロッコの写真を整理していると、また中東の砂漠地帯に行きたくなりました・・・・そこでサハラ砂漠の写真を三枚ごらんください。


↓モロッコの砂漠にて ここからサハラがはじまる・・・

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