模糊の旅人
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2018年 08月 14日 |

近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。

駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。

このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。

↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。

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私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。


もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。


↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。

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これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。

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仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。

これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。

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白石氏らの研究によると、この古墳は造営当時は外溝などを含めた墓域が非常に広く、300mをこえ、当時としては日本最大の墓域を誇る古墳でした。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。

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つまり、この巨大古墳は、河内政権初期の大王級の墳墓であることは間違いありません。


4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。


現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。



「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。

「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、そこからより大胆に推理します。

継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。


すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。

確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。


仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。

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そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。

応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。

この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?

記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。


応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。

ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。


すなわち、仲哀天皇にあたる応神天皇の父が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。


記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。


記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。

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上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。


私の推理は以下のとおりです。

まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。


ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。


続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。

最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。

以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。



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2018年 08月 06日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!」という記事が公開されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、期待が高まっている古市古墳群を紹介する記事です。古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて地味ではありますが、魅力的な古墳が多数分布していますので、ぜひ、ご覧ください。






拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、古市古墳群について少し詳しく書いてみます。



古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて複雑で、やや分かりにくいです。古墳の案内標識類もまだ完全に整備されておらず、特に小型古墳が見つけるのに結構、苦労します。


入門コースは近鉄南大阪線土師ノ里駅から古市駅にかけてほぼ南へ歩く分かりやすい道筋になりますので、これをまず紹介することにします。


まず、出発は土師ノ里駅北側の信号を渡って下ったところにある、允恭天皇陵古墳です。

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允恭天皇陵は、墳丘長230mで古市古墳群としては4番目の大きさの古墳です。5世紀中~後期に造られたもので、市野山古墳とも呼ばれています。
駅に近いので現在は住宅に取り囲まれていますが、濠をはさんで巨大な墳丘が見られる存在感のある古墳です。

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↑允恭天皇陵こと市野山古墳は、思ったより巨大で存在感のある古墳でした。造営年代だけでなく、つくりから見ても、これが本物の允恭天皇陵の古墳であっても問題ないなあ・・・というのが近くで見た実感でした。


↓允恭天皇陵の周囲を歩いて行くと、途中で綺麗な花が咲いていました。こういうのも古墳散策の楽しみです。

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↓宮の南塚古墳 この古墳は允恭天皇陵の陪塚で、こんもりした小山のようでした。

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↓国府八幡神社 宮の南塚古墳の北隣にある神社です。

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↓潮音寺 国府八幡神社の北隣にある寺です。

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↓土師ノ里駅へ戻ってくる途中撮影した唐櫃山古墳

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↑この古墳は工事現場のようでした。これから整備されるそうです。


↓土師ノ里駅の西側の信号を渡ると、こんもりした一辺63mの方墳である鍋塚古墳があります。

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↓鍋塚古墳の説明板

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↑この古墳は仲姫命陵古墳の陪塚の可能性が高く、上まで階段がありますので、登って展望を楽しめます。次に向かう仲姫命陵古墳が目の前に聳えています。


↓鍋塚古墳の頂上から見る仲姫命陵古墳・・・なんとも巨大に見えます。

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2018年 07月 29日 |

古墳関係写真が続きましたので、今日は話題を変えて、久しぶりの模糊の料理教室です。料理は全くの我流ですが、私の隠れた趣味なのです^^


実は、3月に北陸地方へ小さな旅をして、温泉に浸かったり請負仕事でテーマパークの取材をしていたのですが、その後、足を骨折してしまい、ブログ記事としては日の目をを見ませんでした。また機会があれば、その際の記事を書きたいと思っています。


その北陸行で、思わぬ収穫がありました。ある観光地近くの野原で、土筆が非常にたくさん自生してたのです。現地の方に聞くと誰も採らないから自由に持って帰ってとのことなので、山菜類が大好きな私は、さっそく収穫させてもらいました。


↓つくし発見!

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↓ビニール袋に一杯!

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土筆は、袴を取るのが手間なので現地の人にも人気がないようです。土筆大好きの私は、取り尽くさない範囲で収穫させてもらい、自宅に持ち帰りました。


まず袴を取って、下茹でして冷凍しておけば、随時、野趣ある付け合わせ料理として重宝します。以下、私の調理例をご覧ください。


↓土筆料理(1)おひたし  これは上品なおかずになります。

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↓土筆料理(2)玉子とじ  これは最もポピュラーな食べ方ですね。

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↓土筆料理(2)うす揚げとの煮込み  これは私の一番好きな食べ方です。

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その他も、すき焼きやチャンプルーなどの一素材としても使い、十数回料理して、とうとう先日、3月の土筆を食べ尽くしてしまいました。また来年の春に期待したいものです。


このように、旅先で収穫したリ、現地の売店でゲットできる独特の素材を使う工夫というのが、私の料理の特徴です。旅の思い出の再現になり、旅ライターとしての食リポートにも役立ちます。


海外では、私は最近、中近東へ行くことが多いので、現地スーパーで格安で買えるレンズ豆やひよこ豆を自分へのお土産として持ち帰り、調理素材として愛用しています。


↓一例 イランで買ってきたレンズ豆

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↓私の炊飯器のセット例 コメ、レンズ豆、ひよこ豆、大麦など・・・

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レンズ豆ご飯や、ひよこ豆ご飯について、詳しくは こちらの記事 をご覧ください。






レンズ豆は、放り込むだけで調理可能なので、とても簡単な素材です。レンズ豆ご飯や、カレーなどが定番です。


↓今回は少し変化球で、レンズ豆シチューを作ってみました。

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↓レンズ豆シチューをメインとする私の食卓の一例です。

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逆に、ひよこ豆は硬くて大きいので、調理に手間がかかる素材です。一日以上水に浸してから使う必要があり、ペースト状にすると非常に美味ですが、茹でてからフードプロセッサーで粉砕攪拌する必要があります。


↓ひよこ豆ペーストのフスム ご飯よりパン類に合います。マヨネーズ類とまぜると美味でした。

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↓なんとか和食にしようと工夫した結果の、ひよこ豆の煮物 これは、うーん、まあまあか(笑)

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とはいえ、いつも海外素材や山菜の料理をしているわけではありません。

男の素人料理なので繊細さに欠けます。ただ常に工夫していくというチャレンジ精神は持っているつもりです。海外素材を使うというのもその流れです。そういう探求心がないと、生きるため必須の営為である「料理」が楽しくないですね。

↓今日の料理 暑いので「刺激的味なんちゃってチンジャオロース」 牛肉を片栗粉でコーティングすると美味しくなります!

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2018年 07月 22日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「大阪に世界遺産を!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう」という記事が掲載されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、古墳カードを作り古墳に興味を持ってもらおうという行政の取り組みですが、私も古墳カード記事を書いて、民間から支援しようとするものです。ぜひ、ご覧ください。





拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、大仙公園の小型古墳について少し詳しく書いてみます。



古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚など小型古墳を見て回ることにあります。
ただ、むやみに散策するだけでなく、古墳カードを集めて行けば、楽しく歩けます。

いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、その規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓古墳カード MOZU-FURU CARD 全60種あります。

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私は百舌鳥古墳群については全ての古墳カードをコンプリートしていますが、古市古墳群についてはまだ全部に行けていません。古市古墳群の小さな古墳については標識が整備されておらず、住宅街の中に点在することもあり、場所が分かりにくいものが多いからです。


ということで、とりあえずは百舌鳥古墳を小さな古墳を紹介します。


前回~百舌鳥古墳群を歩く(2)~で、大仙陵古墳の陪塚を紹介しましたので、今日は大仙公園内に点在する小さな古墳たちです。



↓前回紹介した長塚古墳の裏側にあたる大仙公園東部にあるのが、鳶塚古墳。ここは古墳というより盛り土という感じです。

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↓鳶塚古墳から南へ歩くと原山古墳があります。これもやや大きな盛り土という感じで目立ちません。

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↓原山古墳の説明:失われた古墳をイメージして造られたものですね。したがってこの古墳には古墳カードはありません。

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↓大仙公園は生き物の宝庫。美しい蛾も翅を休めていました。

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↓原山古墳から大仙公園を横断した場所にあるのがグワショウ坊古墳(円墳)

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↓「ぐわしょう坊古墳林のすがた」という説明看板 植物の遷移のことがよく分かります

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↓グワショウ坊古墳の西側隣にある旗塚古墳

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↓旗塚古墳の説明板

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↓旗塚古墳の西側を少し歩き、道を渡ったところにある寺山南山古墳(方墳)

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↓寺山南山古墳の説明板 寺山南山古墳はゲートボール場があって近くで見れません。

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↓最後は寺山南山古墳の向かい側にある七観音古墳

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↓七観音古墳の説明板

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2018年 07月 15日 |

豪雨一転、猛暑が続いています。37度を超す中、外を歩き回るのは辛いです。皆さまにおかれましても、熱中症に気を付けてお過ごしください。


足が治り、いろいろ忙しくバタバタしており、ブログ更新も思うように行きません。旅に出ても予約更新や現地からの投稿などを利用して、少なくとも一週間に一度は更新するように努めますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


さて、まだ半分も紹介できていない京都民泊体験シリーズですが、今日は仁和寺周辺の穴場です。


↓仁和寺の五重の塔

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↓五重の塔の近くで休憩する外国人夫婦

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↓金堂

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↑金堂は国宝に指定されています。1613年に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を移築したもの。近世の寝殿造として非常に重要です。


↓境内スナップ

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↓仁和寺近くの穴場:霊山寺

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↓仁和寺・成就山八十八ヶ所ウオーク

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↓宇多野スナップ

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↓光孝天皇 後田邑陵

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↓住宅街の中を歩いて拝所へ

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仁和寺を勅願した光孝天皇は、仁和寺のすぐ近くの住宅街の中にある御陵に眠っています。ここは観光客は全くおらず、ひっそりとした場所でした。







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2018年 06月 27日 |

京都のシリーズ記事も併行して進めます。


仁和寺の本坊は御殿と呼ばれ、宇多法皇の御所があった場所に建つことから「旧御室御所」とも呼ばれます。御所を移築したもので、火事にあい再建された経緯を持っています。


御殿だけは有料ですが写真撮影自由なので、拝観することにしました。もちろん世界遺産です。


白書院、宸殿、黒書院、霊明殿などが渡り廊下で結ばれており、御所そのものの雰囲気が味わえます。


↓南庭の白砂 奥が宸殿 宸殿は、御所の紫宸殿と同じで、檜皮葺、入母屋造です。

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↓白書院

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↓宸殿への渡り廊下

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↓庭園説明

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↓左近の桜と右近の橘を配した宸殿より南庭を見る 奥が勅使門

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↓宸殿内部 三室よりなり、襖絵や壁には四季の風物が描かれています。

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↓黒書院

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↓北庭

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↓霊明殿

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↓印象に残った襖絵

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↓御殿より見る仁王門

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2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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2018年 06月 03日 |

今回は、マルタ考古学博物館の最終回で、フェニキア人遺跡とコインコレクション です。


紀元前1000年頃、現レバノン方面から渡ってきたフェニキア人がマルタを支配します。この時代の遺物も三階奥に展示されており、その特徴的な品物に驚かされます。中でもアルファベットの起源となったとされるフェニキア文字の石碑は貴重なものです。


↓フェニキア文字の石碑文

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フェニキア語は北セム語系です。いっぽう、フェニキア文字は、ギリシア文字のルーツとなり、やがてアルファベットとなります。後のヘブライ文字やアラビア文字の元になったのはもちろんですが、ブラーフミー文字を介してインドやチベット・モンゴル・東南アジアの諸文字へと変化したと考えられます。


有力な説によると、今日世界で使われている全ての文字体系のうち、ほとんどがフェニキア文字を起源としており、漢字とその派生文字体系(日本語など)のみが別の独立の起源を持っているとされます。ハングルはフェニキア文字系や漢字系を参照して新造創出された文字なので両系の子孫ともいえます。(滅んだ完全独立発生文字としてはシュメール文字やマヤ文字など)


↓フェニキア碑文の説明

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フェニキア人は、謎の多い民族で、現在のレバノン~イスラエルあたりが出自と思われます。いわゆるカナンの地の一画を占めていました。(先祖は紅海あるいは小アジアに住んでいたともいわれる)
紀元前15世紀頃に都市国家を築き、やがて、レバノン杉で造った船で地中海世界全域に進出し、イベリア半島から北アフリカ西岸までに至り、交易活動によりアルファベットなどの古代オリエント文明を地中海世界に伝えました。
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やがて、フェニキア本土はアッシリアやアケメネス朝ペルシアに服属し、アレクサンドロス大王により滅ぼされました。しかし、現チュニジアに築かれた植民都市カルタゴは、西地中海世界の中心として長く繁栄し、初期の共和制ローマと覇を競いました。マルタ島は、カルタゴのすぐ近くなので、紀元前1000年頃からフェニキア人に支配されたようで、遺跡が発掘されています。


↓フェニキア人は裕福だったようで、豪華な金の装飾品などが出土しています。下は黄金製でアヌビス神か?

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フェニキア人は滅亡し(ローマに徹底的に破壊され)たため遺跡は少ないのですが、マルタには比較的残されています。フェニキア人を埋葬した木棺も発見されており、エジプト文明の影響も感じさせる興味深いものです。

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マルタは、フェニキア人以降、ローマ、ヴァンダル、ビザンチン、アラブ、ノルマン、スぺインなどの支配を受け、やがてマルタ騎士団の城塞国家となりました。その後、近世もナポレオンのフランスや、イギリスの支配下になり、1964年英連邦王国のマルタ国、最後に1974年マルタ共和国として完全独立を果たします。2004年EUに加盟(現在の公用語はマルタ語と英語で通貨はユーロ)

ちなみに、現在のマルタ語は、アラビア語系の口語を基礎としてシチリア語やイタリア語などの語彙が多く取り入れられたクレオール的な混合言語です。ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の貴重な言語といえます。

あくまで私見ですが、マルタ人にはフェニキア人に支配された時期にセム語系の言葉が根付き、ローマやビザンチン時代には支配者の言語は広がらなかったようです。それより、アラブ支配の時代には農業関係や庶民の生活が変革されアラビア語(口語)が普及し、そこにマルタ騎士団時代のロマンス語系の語彙が取り入れられマルタ語が成立したと思います。
また、それとは全く別物として、イギリス支配時代に英語が広がったのです。現在ではイギリス以外ではヨーロッパでは非常に貴重な英語圏で、日本人の英語留学先として人気があります。


そうした、長く複雑な歴史時代の流れを感じさせるものとして、考古学博物館にはコインのコレクション特別展示室があります。歴史を反映した各種の貨幣が見られ、特に各ローマ皇帝の顔が刻まれたコインがずらりと揃っており、マニアには垂涎の的です。

約16000枚以上のコインがあるそうです。


↓展示室

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↓ローマ皇帝コインのアップ  いわゆるセステルティウス硬貨ですね。

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↑上から第3代カリギュラ帝、第4代クラディウス帝、第5代ネロ帝など、すべて揃っています。


↓硬貨コレクションの説明

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ローマ支配からは歴史時代に入り、考古学博物館の範疇をこえるので展示されていません
したがってコインはあくまで、特別展示という位置づけですが、常設展示だそうです。


最後に小さなミュージアムショップ的なコーナーを見学し、スリーピングレディの銀製品に見入りました。
記念品を少しだけ買って、博物館を出ました。

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小さいながら充実した博物館で、マルタの古代世界を満喫した半日でした。
写真撮影が可能で、ネットでの発信や旅行サイトでの公開も「どんどん宣伝してください」と快く許可いただき、とても好感の持てるミュージアムでした。取材協力いただいた職員の方に深く御礼申し上げます。





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2018年 05月 28日 |

ご心配をかけました骨折事故の件ですが、ようやくギプスが取れ、サポーターを巻いてのリハビリとなりました。あと三週間もすれば、サポーターもはずして、普通の生活に戻れそうです。

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皆様からいただきましたお見舞いや励ましの声に元気づけられ頑張れました。本当にありがとうございました。感謝いたします。これからも、トラベルジェイピーの旅行ガイド記事や当ブログをご愛顧いただきますようお願い申し上げます。



さて、冬のマルタの記事は、マルタ考古学博物館の三回目で、青銅器時代とカートラッツの謎です。


マルタの巨石文明はなぜか紀元前2500年ごろ突然滅亡しました。これも大きなミステリーです。
紀元前2500年ごろに何があったのか?
地中海の古代文明のマルタ中心時代は幕を閉じます。やがて文明の中心は東へ移り、古代オリエント、エジプト、ヒッタイトといった文明が勃興してきます。


その後はマルタでは普通の青銅器時代となります。これについては、考古学博物館の三階に BRONZE AGE として、紀元前2500年頃から紀元前1000年頃の出土品が展示されています。

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青銅器時代といっても金属製品だけではなく甕や壺などの陶器類が多く見られます。やはり農業主体の文化があったようです。同じ農業文明でありながら、巨石神殿時代とこの青銅器時代の断絶も謎のひとつです。滅亡した巨石神殿文明の担い手ではなく、新たにマルタに渡って来た人々が青銅器時代の遺跡を残したとする学説が主流のようです。

以下、青銅器時代の発掘遺物展示の写真を9枚、ごらんください。

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マルタの古代の謎の一つとしてカート・ラッツがあります。これは、岩の上にレールのように平行に穿たれた溝のような遺物で島内各所にあります。車輪の轍跡にしては崖の上に多くあるのが理解に苦しみます。おそらく青銅器時代に出来たと思われることから、考古学博物館の三階に展示されています。これも本当に不思議な遺跡です。


↓カートラッツ展示室入り口

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↓上に乗って見れるようになっています。

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↓カートラッツのアップ

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↓カートラッツの分布

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2018年 05月 22日 |

マルタ考古学博物館の二回目の今日は、博物館の目玉であるマルタのビーナスとスリーピングレディーです。


マルタ巨石文明使役から出土した女神像で驚くのはその豊満なフォルムです。特に通称マルタのビーナスと呼ばれる像は、ハジャーイム神殿から発掘された約4500年前のもの。古代の女性女神像は豊かな身体つきのものが多いのですが、特にマルタでは巨大で印象的な体形の像が多く、当時の美意識を感じさせます。マルタに伝わる伝説では、こうした巨女が巨石を運んで神殿を造ったとされています。


↓マルタのビーナス

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このボリューム感がすごいですね。日本の土偶に比べると、リアルな表現でモデルがいたことを思わせます。

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女神像は多数ありますが、顔がないものが多いのが不思議です。別に顔だけの像も多数発見されていることから、顔の部分は嵌め込み式であったと思われます。でも、なぜ嵌め込み式の像が多いのかは諸説あり解明されていません。

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↓顔の部分

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こうした豊かな女神像は、豊穣の祈りと関係しているようで農業主体の文明であったのは確かです。ひょっとして、地中海沿岸に広く見られる大地母神のルーツとなったのかも知れません。

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一階の最奥には、眠れる女神像一体だけがある展示室があります。小さく暗い部屋ですが神秘的なムードいっぱい。ここにあるのが博物館の至宝、一番人気の通称スリーピングレディーです。

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実に洗練された曲線で構成されており、マルタの古代芸術の最高傑作です。この女神像は、ハイポジューム地下神殿から発見されたもので、なぜ横たわっているかについては諸説あり、これもミステリーです。

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装身具などの小物も出土しており、巨石だけでなく繊細な部分の芸術性も感じました。


↓角か牙のペンダント

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↓貝でつくられた鳥のペンダント

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↓牛の角に挟まれた鳥

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↓物差しと思われます。

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↓レリーフに残されている動物は、山羊と豚と羊です。これらは犠牲獣でもあるので、宗教的な意味合いがあるのかも知れません。

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