模糊の旅人
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2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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2018年 06月 03日 |

今回は、マルタ考古学博物館の最終回で、フェニキア人遺跡とコインコレクション です。


紀元前1000年頃、現レバノン方面から渡ってきたフェニキア人がマルタを支配します。この時代の遺物も三階奥に展示されており、その特徴的な品物に驚かされます。中でもアルファベットの起源となったとされるフェニキア文字の石碑は貴重なものです。


↓フェニキア文字の石碑文

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フェニキア語は北セム語系です。いっぽう、フェニキア文字は、ギリシア文字のルーツとなり、やがてアルファベットとなります。後のヘブライ文字やアラビア文字の元になったのはもちろんですが、ブラーフミー文字を介してインドやチベット・モンゴル・東南アジアの諸文字へと変化したと考えられます。


有力な説によると、今日世界で使われている全ての文字体系のうち、ほとんどがフェニキア文字を起源としており、漢字とその派生文字体系(日本語など)のみが別の独立の起源を持っているとされます。ハングルはフェニキア文字系や漢字系を参照して新造創出された文字なので両系の子孫ともいえます。(滅んだ完全独立発生文字としてはシュメール文字やマヤ文字など)


↓フェニキア碑文の説明

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フェニキア人は、謎の多い民族で、現在のレバノン~イスラエルあたりが出自と思われます。いわゆるカナンの地の一画を占めていました。(先祖は紅海あるいは小アジアに住んでいたともいわれる)
紀元前15世紀頃に都市国家を築き、やがて、レバノン杉で造った船で地中海世界全域に進出し、イベリア半島から北アフリカ西岸までに至り、交易活動によりアルファベットなどの古代オリエント文明を地中海世界に伝えました。
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やがて、フェニキア本土はアッシリアやアケメネス朝ペルシアに服属し、アレクサンドロス大王により滅ぼされました。しかし、現チュニジアに築かれた植民都市カルタゴは、西地中海世界の中心として長く繁栄し、初期の共和制ローマと覇を競いました。マルタ島は、カルタゴのすぐ近くなので、紀元前1000年頃からフェニキア人に支配されたようで、遺跡が発掘されています。


↓フェニキア人は裕福だったようで、豪華な金の装飾品などが出土しています。下は黄金製でアヌビス神か?

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フェニキア人は滅亡し(ローマに徹底的に破壊され)たため遺跡は少ないのですが、マルタには比較的残されています。フェニキア人を埋葬した木棺も発見されており、エジプト文明の影響も感じさせる興味深いものです。

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マルタは、フェニキア人以降、ローマ、ヴァンダル、ビザンチン、アラブ、ノルマン、スぺインなどの支配を受け、やがてマルタ騎士団の城塞国家となりました。その後、近世もナポレオンのフランスや、イギリスの支配下になり、1964年英連邦王国のマルタ国、最後に1974年マルタ共和国として完全独立を果たします。2004年EUに加盟(現在の公用語はマルタ語と英語で通貨はユーロ)

ちなみに、現在のマルタ語は、アラビア語系の口語を基礎としてシチリア語やイタリア語などの語彙が多く取り入れられたクレオール的な混合言語です。ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の貴重な言語といえます。

あくまで私見ですが、マルタ人にはフェニキア人に支配された時期にセム語系の言葉が根付き、ローマやビザンチン時代には支配者の言語は広がらなかったようです。それより、アラブ支配の時代には農業関係や庶民の生活が変革されアラビア語(口語)が普及し、そこにマルタ騎士団時代のロマンス語系の語彙が取り入れられマルタ語が成立したと思います。
また、それとは全く別物として、イギリス支配時代に英語が広がったのです。現在ではイギリス以外ではヨーロッパでは非常に貴重な英語圏で、日本人の英語留学先として人気があります。


そうした、長く複雑な歴史時代の流れを感じさせるものとして、考古学博物館にはコインのコレクション特別展示室があります。歴史を反映した各種の貨幣が見られ、特に各ローマ皇帝の顔が刻まれたコインがずらりと揃っており、マニアには垂涎の的です。

約16000枚以上のコインがあるそうです。


↓展示室

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↓ローマ皇帝コインのアップ  いわゆるセステルティウス硬貨ですね。

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↑上から第3代カリギュラ帝、第4代クラディウス帝、第5代ネロ帝など、すべて揃っています。


↓硬貨コレクションの説明

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ローマ支配からは歴史時代に入り、考古学博物館の範疇をこえるので展示されていません
したがってコインはあくまで、特別展示という位置づけですが、常設展示だそうです。


最後に小さなミュージアムショップ的なコーナーを見学し、スリーピングレディの銀製品に見入りました。
記念品を少しだけ買って、博物館を出ました。

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小さいながら充実した博物館で、マルタの古代世界を満喫した半日でした。
写真撮影が可能で、ネットでの発信や旅行サイトでの公開も「どんどん宣伝してください」と快く許可いただき、とても好感の持てるミュージアムでした。取材協力いただいた職員の方に深く御礼申し上げます。





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2018年 05月 28日 |

ご心配をかけました骨折事故の件ですが、ようやくギプスが取れ、サポーターを巻いてのリハビリとなりました。あと三週間もすれば、サポーターもはずして、普通の生活に戻れそうです。

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皆様からいただきましたお見舞いや励ましの声に元気づけられ頑張れました。本当にありがとうございました。感謝いたします。これからも、トラベルジェイピーの旅行ガイド記事や当ブログをご愛顧いただきますようお願い申し上げます。



さて、冬のマルタの記事は、マルタ考古学博物館の三回目で、青銅器時代とカートラッツの謎です。


マルタの巨石文明はなぜか紀元前2500年ごろ突然滅亡しました。これも大きなミステリーです。
紀元前2500年ごろに何があったのか?
地中海の古代文明のマルタ中心時代は幕を閉じます。やがて文明の中心は東へ移り、古代オリエント、エジプト、ヒッタイトといった文明が勃興してきます。


その後はマルタでは普通の青銅器時代となります。これについては、考古学博物館の三階に BRONZE AGE として、紀元前2500年頃から紀元前1000年頃の出土品が展示されています。

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青銅器時代といっても金属製品だけではなく甕や壺などの陶器類が多く見られます。やはり農業主体の文化があったようです。同じ農業文明でありながら、巨石神殿時代とこの青銅器時代の断絶も謎のひとつです。滅亡した巨石神殿文明の担い手ではなく、新たにマルタに渡って来た人々が青銅器時代の遺跡を残したとする学説が主流のようです。

以下、青銅器時代の発掘遺物展示の写真を9枚、ごらんください。

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マルタの古代の謎の一つとしてカート・ラッツがあります。これは、岩の上にレールのように平行に穿たれた溝のような遺物で島内各所にあります。車輪の轍跡にしては崖の上に多くあるのが理解に苦しみます。おそらく青銅器時代に出来たと思われることから、考古学博物館の三階に展示されています。これも本当に不思議な遺跡です。


↓カートラッツ展示室入り口

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↓上に乗って見れるようになっています。

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↓カートラッツのアップ

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↓カートラッツの分布

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2018年 05月 22日 |

マルタ考古学博物館の二回目の今日は、博物館の目玉であるマルタのビーナスとスリーピングレディーです。


マルタ巨石文明使役から出土した女神像で驚くのはその豊満なフォルムです。特に通称マルタのビーナスと呼ばれる像は、ハジャーイム神殿から発掘された約4500年前のもの。古代の女性女神像は豊かな身体つきのものが多いのですが、特にマルタでは巨大で印象的な体形の像が多く、当時の美意識を感じさせます。マルタに伝わる伝説では、こうした巨女が巨石を運んで神殿を造ったとされています。


↓マルタのビーナス

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このボリューム感がすごいですね。日本の土偶に比べると、リアルな表現でモデルがいたことを思わせます。

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女神像は多数ありますが、顔がないものが多いのが不思議です。別に顔だけの像も多数発見されていることから、顔の部分は嵌め込み式であったと思われます。でも、なぜ嵌め込み式の像が多いのかは諸説あり解明されていません。

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↓顔の部分

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こうした豊かな女神像は、豊穣の祈りと関係しているようで農業主体の文明であったのは確かです。ひょっとして、地中海沿岸に広く見られる大地母神のルーツとなったのかも知れません。

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一階の最奥には、眠れる女神像一体だけがある展示室があります。小さく暗い部屋ですが神秘的なムードいっぱい。ここにあるのが博物館の至宝、一番人気の通称スリーピングレディーです。

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実に洗練された曲線で構成されており、マルタの古代芸術の最高傑作です。この女神像は、ハイポジューム地下神殿から発見されたもので、なぜ横たわっているかについては諸説あり、これもミステリーです。

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装身具などの小物も出土しており、巨石だけでなく繊細な部分の芸術性も感じました。


↓角か牙のペンダント

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↓貝でつくられた鳥のペンダント

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↓牛の角に挟まれた鳥

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↓物差しと思われます。

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↓レリーフに残されている動物は、山羊と豚と羊です。これらは犠牲獣でもあるので、宗教的な意味合いがあるのかも知れません。

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2018年 05月 16日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「驚きのマルタ国立考古学博物館で世界最古の巨石文明の謎に迫る!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。
世界最古の巨石文明の遺跡から発掘された本物の出土品が見られる考古学博物館を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





本ブログでも、「たびねす」とタイアップして、マルタ国立考古学博物館をより詳しく紹介します。


マルタはリゾートと騎士団の城塞都市観光が人気ですが、実は先史時代の圧倒的な巨石神殿が素晴らしく、世界遺産として尽きせぬ魅力があります。その神殿出土品の実物展示があるのが首都バレッタにあるマルタ国立考古学博物館です。


マルタ国立考古学博物館があるのは、首都バレッタの中心にあるレバブリック通り。古く歴史を感じさせる建物に、印象的な Archaeology という幟が下がっているのが目印です。

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決して大きなミュージアムではないですが、中は意外にも多くの展示物が並んでいます。遺跡現場ではレプリカが多いのですが、この博物館にあるのは全て本物。入場料も決して高くありませんので、気軽に訪れることができます。


ここは聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)のプロヴァンス出身者の宿舎であったオーベルジュ・ド・プロヴァンスという建物を博物館として改装したものです。とはいえ、騎士の館の雰囲気は残しており、入場すると一階玄関屋根の美しいフレスコ画が迎えてくれます。


↓一階玄関天井のフレスコ画

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二階廊下と二階中央の大広間は展示室として使われず騎士団時代の装飾がそのまま残されており 華麗なものです。

↓大広間

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一階は魅力の巨石文化時代の展示コーナー!

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↓巨石の各パーツで重要なものが展示されています。

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↓巨石を運んだと思われる丸い石

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巨石神殿は巨大な石を積み上げてクローバー型に部屋が配置された不思議な構造をしています。どのような目的でこのような神殿が造られたのか謎は深まるばかりです。

↓巨石神殿の構造模型(ジュガンティーヤ神殿)

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↓参考にジュガンティーヤ神殿の現地で撮った写真も載せておきます。

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マルタには、イムナイドラ、ハジャーイム、ジュガンティーヤ、タルシーン、ハイポジュームなどの巨石神殿があり、「マルタの巨石神殿群」として世界遺産に登録されています。

これらの現場に行くと、巨石文化巨大なスケールを感じることができます。ただし、現地の出土物等はレプリカが置いてあり、本物はこの考古学博物館でないと見ることができません。


マルタの巨石神殿で最古のものはゴゾ島のジュガンティーヤ神殿で紀元前3600年前(今から約5600年前)に築かれました。これはエジプトの大ピラミッドより1000年ほど古く驚異的な建造物。考古学博物館でもこのことを示したパネルがあり、世界最古の巨石文明であることが強調されています。

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とにかく、エジプトのピラミッドより遥か昔に、このような巨石文明が栄えたことは驚異的です。トータルするとマルタには巨石神殿が30カ所以上残されており、なぜこの小さな島にこんな神殿が多いのか、まさに大きな謎です。世界最古の宗教遺跡群ともいえ、ひょっとして、地中海を広範囲に支配していた宗教的文明の中心地であったのかも知れません。




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2018年 05月 10日 |

嵐電で仁和寺に到着です。

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御室仁和寺は、京都での遅咲きの桜の名所です。ソメイヨシノは終わっていましたが、各種の遅咲き桜の品種がまだ見られました。
そこで今日は、仁和寺の桜特集です。去り行く春をお楽しみください。

↓まずは有名な黄緑っぽい色の桜「御衣黄」です。

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この「御衣黄」は、江戸時代に仁和寺で生み出されのがはじまりとされています。まさにここから全国に広がった桜の品種ですね。
開化時は黄緑色で、徐々に中心部がピンク色に変化して行く開花時期の長い桜です。

↓「御衣黄」開化したばかりの時は黄緑色です。

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↓熟すとこんな色になります。

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↓華やかな八重桜「関山」三景

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↓清楚な「一葉」

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↓御室桜
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↓五重の塔をバックに各種の仁和寺桜

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↓無名の可憐な桜も塀に映えます。

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↓最後は御口直しに白い石楠花です。

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2018年 05月 04日 |

余談を少し。
先日(4/28)、『世界ふしぎ発見』というTV番組で、「大英博物館に秘められた卑弥呼の謎!」というのがあり、箸墓古墳が卑弥呼の墓の可能性が高いと紹介され、私のリスペクトする考古学者:白石太一郎氏(前・近つ飛鳥博物館長)が出演しておられました。


そこで白石氏は「時期や規模から考えて、箸墓古墳の被葬者は、卑弥呼以外には考えられない」と述べておられました。私は、30年ほど前から「箸墓古墳は卑弥呼の墓」と公言してきましたので、この言葉は嬉しい限りです。


また、次の台与の墓の可能性の高い西殿塚古墳の映像もあり、赤色立体地図で明確に分かる特徴的な二つの方形壇について女王と男弟という二人の統治者が埋葬されているのではないかと紹介していました。


このあたりは、私もだいぶ以前に、ブログの「箸墓古墳は卑弥呼の墓か?」という記事で書いており、内容がかぶりますので、ちょっと複雑な気持ちでした。番組としては、割と信頼できる主流学説を取り入れたオーソドックスな内容で、要領よく制作されていました。
そこで、これは良い機会だと、改めて考え続けてきたことを盛り込んで、古いブログ記事を追加修正してみました。それについては、以下の記事をお読みください。



さて、京都民泊利用取材シリーズは、嵐山はんなりほっこりスクエアから嵐電に乗ります。


↓嵯峨野のたまごやさん

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嵐山のメインストリートに戻ってきました。

↓印象的な路地

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↓売店も新製品売り出し中

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↓店先飾りも綺麗です。

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↓もう一枚

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↓はんなりほっこりスクエア

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↑ここの赤い床机に腰かけて軽い昼食を済ませました。


↓駅の周りをぐるりと見てみます。

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↓友禅の林「キモノフォレスト」

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↓龍の愛宕池

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↓駅の足湯もあります

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↓電車が入ってきました。

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↓嵐電に乗って帷子ノ辻駅で乗り換え御室仁和寺へ向かいます。

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↓車窓からは満開の八重桜が見えました。

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2018年 04月 28日 |

Travel.jpの企画で京都の民泊宿泊体験と穴場スポットを巡る一泊二日の旅に行ってきました。(この取材旅の終盤に骨折事故にあったのですが、その話はまたいつか・・)
そして、たびねす改めTravel.jpの旅行ガイドとして、私の「リーズナブルに楽しめる!京都一人旅なら民泊がおすすめ」という記事がアップされました。
駆け足ですが、京都の穴場観光スポットをまとめて紹介していますので、ぜひお読みください。





本ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事とタイアップして、より詳しく内容を紹介していきます。どうぞよろしくお願いします。


私の京都市北区の生まれです。ただ、少年時代に引っ越したため、子供の頃の記憶が主となる生まれ故郷という感じです。正月には杵で餅をついた懐かしい思い出があります。


故郷とはいえ、現在は大阪在住なので、最近は京都へは日帰りでしか行ったことがありません。これは、京都には安価な宿が少ないという事情があるから。まして一人旅ですとさらにホテル代が割高になります。

できれば宿泊してゆっくり朝や夜の京都も楽しみたいもの。そこで、今回は民泊を利用して、一人旅ならではの自由さを生かして、京都の人気観光スポットと穴場を楽しむという視点の企画で、一泊二日の旅にチャレンジしてみました。


まずは、嵐山から観光をはじめます。
大阪から阪急京都線に乗って桂で乗り換え嵐山駅に到着しました。


↓嵐山駅では、八重桜が満開で美しく咲いていました。

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↓残り桜と渡月橋

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↓松と渡月橋
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↓嵐山のメインストリートは混んでいます。

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↓中国人の和装団体が多いですね。

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↓天竜寺の塀沿いにある可愛い地蔵さん

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↓昔は穴場だった黒木鳥居で有名な野宮神社に行って見ましたが・・・

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↓ここも和装の外国人がいっぱいでした。

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↓野宮神社の説明

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↓歌碑   野宮の竹美しや春しぐれ  古郷

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↓ということで竹の小道に行くと、外国人観光客の団体であふれかえっていました・・・

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このコースは団体の定番観光コースらしく、昔の記憶にある静かな場所は喧騒の中にありました。


↓有料の人力車は人のいない道を通れます。

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↓ちょうどタケノコの季節ですね。美味しそう・・・

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そこで、少しでも人の少ない穴場をと、北へ向かい落柿舎に至りました。


↓ここまで来ると静寂が支配しとても良い雰囲気です。

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落柿舎は向井去来が別荘として使用した草庵で、師匠の芭蕉はここを3度も訪れ『嵯峨日記』を執筆しました。


↓この鄙びた和の風情は良いですね。

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ここから北の嵯峨野一帯は人も少なく落ち着いて京都を楽しめます。
時間があれば化野念仏寺まで歩きたかったですが、今日はあちこち回る欲張り企画の一人旅なので、人の少ないルートをとおって嵐電の駅へと戻ります。



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2018年 04月 23日 |

骨折した記事を載せたところ、多くの方々からお見舞いのコメントやメールを賜り、本当にありがとうございました。
皆様の暖かいお言葉に感謝するばかりです。深く御礼申し上げます。


歩き回ることは出来ませんが、在宅仕事をはじめパソコンで文章を打ったり読書することは可能ですので、無為に過ごさないよう、それなりに頑張っております。
痛みはなくなりましたので、気分的には相当楽になりました。でも骨がくっつくまで安静にせねばなりませんね。花爛漫の季節でうずうずしますが、快癒するまで用心しながらもポジティブに過ごすつもりです。


さて、今日は、今年の梅や桜の見学した際に撮影した花以外のスナップ写真を載せてみます。骨折事故が無ければ在庫写真として埋もれてしまったかも知れない作品たちです。ゆっくりとご覧ください。


↓動き出した春の蝶たち 

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↓野鳥も元気だ

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↓花見の犬

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↓犬と人間

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↓猫は自由だ!!

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↓幼稚園児の集団も絵になります。

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↓梅撮る人

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↓桜と花嫁さん?
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↓これはコスプレさんでしょうか・・・

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2018年 04月 18日 |

文責:菊池模糊

私が堺市に引っ越してきた時、最初に住んだのが上野芝という町だったのですが、ここは百舌鳥駅から一駅南で、いわゆる百舌鳥古墳群に近い場所でした。歴史好きな私は、当然、大きな古墳に興味が湧き、時間を見つけては自分なりに歩き回って調べたものです。
以来、証拠として最も科学的なものである考古学調査研究の成果にも、常に気を配って情報を得て来たつもりですので、大古墳の被葬者に関して自分の中では一応の結論を得ました。


このたび、「百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)」の世界文化遺産登録への推薦が決まったことから、いずれ古墳の被葬者の問題は、避けては通れないものとなります。
世界遺産の指定はたいへん喜ばしいことですが、いまだに被葬者が誰かは諸説あり不明確な上に、築造時に天皇という言葉はなかったわけですから、「仁徳天皇陵古墳」という名称には大いに疑問があります。


そこで私は、いわゆる「仁徳天皇陵古墳」については考古学者らの提唱にあるように「大仙陵古墳」とし、同じように現・応神陵については「誉田御廟山古墳」、現・履中陵については「上石津ミサンザイ古墳」、現・反正陵については「田出井山古墳」という名称で以下に記述し考察を進めます。

ということで、私が40年近く考え続けてきた、百舌鳥古墳群の大王墓の被葬者についての見解を、この機会に披露します。

↓百舌鳥古墳群

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百舌鳥古墳群で、大王墓の可能性のある大きな古墳を全長順に並べると以下のようになります。誉田御廟山古墳については古市古墳群に属しますが、関連性が非常に重要なので紺色で参考に入れました。


大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵  (築造順5)
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵  (築造順2)
上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  (築造順1) 実際は400m以上
土師ニサンザイ古墳  300m           (築造順7)
御廟山古墳      203m           (築造順4) 
田出井山古墳     148m ←現・反正天皇陵  (築造順6)
いたすけ古墳     146m           (築造順3)


【*大仙陵古墳の全長は、2018.4.13の宮内庁書陵部の測量を取材した新聞報道記事による】

最近の堺市の調査により土師ニサンザイ古墳の全長は約300m以上とされました(全国第7位)ので、上位4つの古墳が300mを越す(それ以下は200m程度以下なので)隔絶して大規模な、大王墓であることは疑いようがありません。


203mの御廟山古墳は、微妙です。大王墓としては小さいですが、陪塚(大古墳の付属墓)とするには大きいです。それでも、田出井山古墳を天皇陵とするのに比べれば、はるかにましです。大王墓の可能性はなきにしもあらずですが、やはり大王の血縁者か、大王に次ぐ有力な権力者の墓の可能性が高いでしょう。

↓御廟山古墳(1)・・・・なかなか大きな規模で現在は住宅に取り囲まれています。

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↓御廟山古墳(2)
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反正天皇陵に治定されている田出井山古墳は、土師ニサンザイ古墳や御廟山古墳に比べてはるかに小さく、大王墓としては、大きさの点からは、全くふさわしくありません。したがって、田出井山古墳が反正天皇陵であるという説は否定されます。

↓田出井山古墳(1)・・・方違神社の裏にあり半周するのにさほど時間のかからないやや小さな古墳です。

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↓田出井山古墳(2)
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田出井山古墳と同規模の、いたすけ古墳も小さすぎ、大王墓ではありません。私が近くに引っ越してきた頃は、いたすけ古墳は丸裸で周壕は釣り池として利用されていました。丸裸の古墳の規模は、確かに大王墓としては小さいなあというのが実感でした。いたすけ古墳は御廟山古墳の近くで築造時期もかぶるので、両古墳の被葬者は関連性があるのかも知れません。

↓いたすけ古墳(1)・・・手に取るように近くで見られるやや小型の古墳です。

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↓いたすけ古墳(2)
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古墳の造られた時代については、最新の精密な考古学の知見により、絶対的な年代については完全ではないものの、相対的な造営の順番というのは明らかになってきています。特に、百舌鳥古墳群の三つの巨大古墳では、築造順1(上石津ミサンザイ古墳)→築造順5(大仙陵古墳)→築造順7(土師ニサンザイ古墳)という順番は入れ替えがたいものです。


そこで、上記のうち田出井山古墳と、いたすけ古墳を除き、大王墓の可能性がある巨大古墳を、築造順に並べてみます。


上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵
御廟山古墳      203m
大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m 


これを見てみると、仁徳天皇の子である履中天皇が一番古くなってしまい、現在の治定とは矛盾します。少なくとも一番最初につくられた上石津ミサンザイ古墳が、一番若い履中天皇の陵である可能性は全くないでしょう。


もし、百舌鳥古墳群だけを考えれば


上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵
大仙陵古墳      525m ←履中天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m ←反正天皇陵


とすれば簡単に確定できます。


ところが、誉田御廟山古墳を筆頭とする古市古墳群を考慮すると話が変わってきます。
なぜなら、上石津ミサンザイ古墳は誉田御廟山古墳より古いわけですから、応神天皇の子である仁徳天皇の陵墓が先に造営されたことになり、歴史的系譜と矛盾します。


↓私の尊敬する白石太一郎教授が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表

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↑この編年図表は円筒埴輪の変遷などの精緻な考古学的研究から作成されたもので、絶対年代はともかく古墳の造営順については非常に信頼性が高いものです。

以下に論述する私の被葬者比定は、この編年表を最も重視し、これと矛盾しないように考えたものです。


この考古学的編年表と歴史文献の整合性が部分的に得られないことが大きな課題です。(私見では、歴史文献に迎合しない結果が出るということこそ、この編年表の正しさを表わしていると思います)


ここで、いったん考古学的視点を留保して、文献歴史学的考察をしてみます。


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文献的な歴史学については、中国と日本の文献があります。


まず、中国の『宋書』巻九七(倭国伝)に登場する「倭の五王」は年代が確実なので有力な手掛かりになります。
すなわち、讃・珍・済・興・武の五王となります。


日本側の文献は、絶対年代が非常に不確定なので問題がありますが、少なくとも大王の系譜と業績が書かれているので比定することは可能なはずです。
また、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に象嵌された文字「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が『日本書紀』にある「大泊瀬幼武(おおはつせのワカタケル)」の雄略天皇と考えられ、『宋書』の倭王「武」とピタリと符合します。

この「武」が雄略天皇であることから逆算して、「興」は安康天皇または木梨軽王子(この二人の関係問題は後述)、「済」は允恭天皇であることはほぼ確実です。済の子が興と武であるという『宋書』の記述が、『日本書紀』の允恭天皇の子が木梨軽王子(か安康天皇)と雄略天皇という系図と一致するからです。


問題は、讃と珍です。
ここは、応神、仁徳、履中、反正の各天皇の誰を当てるか諸説が入り乱れており、まさにこの記事の課題である、百舌鳥古墳群の三大王墓(プラス誉田御廟山古墳)の時期と一致し、応神王朝論や河内王朝論ともからんで、複雑です。
『宋書』を重視すれば、讃と珍は兄弟とありますので、履中天皇と反正天皇であるとするのが自然です。
ところが、記紀の記述から重要な天皇である応神と仁徳の両天皇のいずれかを讃としたいという思惑が論者にあるのです。(それは誉田御廟山古墳を応神陵、大仙陵古墳を仁徳陵とするべく、その造営年代を整合させたいからです)


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そこで、日本文献での百舌鳥古墳群の大王墓の説明を整理してみます。


応神天皇については、『日本書紀』では場所についての記述はなく、『古事記』では川内恵賀之裳伏岡となっています。これは、現在の河内恵我之荘のことです。

応神天皇の子とされる仁徳天皇については、『日本書紀』では百舌鳥野陵、『古事記』では毛受之耳原となっています。これは現在の百舌鳥耳原にあたります。また、生前に石津原に行幸し陵墓の場所を決めたという意味の重要な記述があります。

仁徳天皇の子とされる履中天皇については、『日本書紀』では百舌鳥耳原陵、『古事記』では毛受となっています。

履中天皇の弟とされる反正天皇については、『日本書紀』では耳原陵、『古事記』では毛受野となっています。

この、記紀の記述は、考古学的な編年と整合しません。
考古学的な大王墓の造営順は、ほぼ古市と百舌鳥の交互になっており、百舌鳥に三代連続したとする記紀と矛盾するのです。(履中天皇が古市であるとすると、うまく行くのですが・・・・)


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次に、905年に書かれた『延喜諸陵式』によれば、仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵、履中天皇陵は百舌鳥耳原南陵、反正天皇陵は百舌鳥耳原北陵となっています。

これに基づき宮内庁の現在の陵墓の治定がなされているわけですが、この『延喜諸陵式』についてはどこまで信じてよいか疑問があります。何より平安時代の10世紀に書かれたものですので、5世紀の陵墓については、築造後約500年となり確実な証拠があったとは思えません。『延喜諸陵式』の記述自体、記紀に基づいており、その点からすれば、まだしも記紀のほうが信用できるでしょう。

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『延喜諸陵式』による百舌鳥三陵の治定に関連して、反正天皇陵については、南北軸線で北側に前方後円墳の円墳側があることが天皇陵の証拠とする説があります。しかし、実際には大王墓は南北軸線であるとは限らず、いろいろな方向を向いています。(例えば、下に掲げた古市古墳群の分布図を見ていただければ分かるように、同時期の重要古墳である現・応神陵の誉田御廟山古墳は南南東を向いています)
『延喜諸陵式』自身でも、反正天皇陵は「兆域東西3町、南北2町」としており、これは南北に長いのではなく東西に長い古墳であることを示しています。

私見では、大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています。この記事の一番最初に掲げた百舌鳥古墳群の配置された地図をご覧ください。小さな陪塚を除けば、西側の海に面した古墳は全て南北軸で、そこから内陸へ向かう街道に沿った古墳は全て東西軸であることが一目瞭然です!
百舌鳥古墳群はこの地形の構造と見せたい方向(より大きく見える長辺側を海と街道に見せる)に基づいたL字型の配置になっており、軸線方向は大王墓であるかどうかとは関係ないのです。


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考古学でも文献歴史学からでも、百舌鳥古墳群だけでは解決しないというのが20年くらい前の私の結論でした。
そこで、古市古墳群を含めて総合的に判断する必要があると考え、そこから調査研究の範囲を広げ、いろいろ考えてきました。


その際、指標となったのが、やはり、考古学的立場を基礎としながらバランスのある総合的判断をされる白石太一郎教授の論考です。 参考:『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』(文春新書、1999年)、『考古学と古代史の間』(筑摩書房・ちくまプリマーブックス、2004年)のち学芸文庫 、『近畿の古墳と古代史』(学生社、2007年)、『天皇陵古墳を考える』編 今尾文昭,高橋照彦,森田克行共著(学生社 2012年)、『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎 2013年)など


白石氏は古墳時代の大王墓を、畿内の大型古墳の編年を明確にすることで明らかにしようとされています。
具体的には、たとえば3世紀中葉から4世紀中葉の大王墓は、造営順に

(1)箸墓古墳(現・倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現・手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行燈山古墳(現・祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現・景行天皇陵)

の6基であるとされています。

そして、被葬者については、箸墓古墳は女王卑弥呼、西殿塚古墳は女王台与、行燈山古墳は崇神天皇を比定されています。


私は、この白石氏の3世紀~4世紀の考察は、きわめて理にかなったものと思います。
(なお、卑弥呼と箸墓古墳については、こちら で私見を書いていますのでご覧ください)


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では、私のリスペクトする白石氏は倭の五王時代については、どう考えておられるでしょうか?

「・・・・四世紀末葉になると今度は大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に(9)仲津山古墳(現仲津媛陵、286m)→(10)上石津ミサンザイ古墳(現履中天皇陵、365m)→(11)羽曳野誉田御廟山古墳(420m)→(12)大仙陵古墳(486m)が営まれます。」「それ以降は、百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳、あるいは古市古墳群の岡ミサンザイ古墳(現仲哀陵)のように大王墓と考えざるをえない大型古墳もありますが、全体的に古墳の小型化の趨勢もあって、大王墓を選び出すことが難しくなります。」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012、P143)


つまり、百舌鳥古墳群と古市古墳群を合わせた造営順の大王墓としては以下の古墳があるとされています。(市ノ山古墳は現・允恭陵なので私が独自に掲載)
そして、以下の←印で示すように、白石氏は誉田御廟山古墳については応神天皇に、大仙陵古墳は仁徳天皇に比定されています。

仲津山古墳      290m ←?
上石津ミサンザイ古墳 365m ←?    (現・履中天皇陵) 
誉田御廟山古墳    420m ←応神天皇陵(現・応神天皇陵)
大仙陵古墳      525m ←仁徳天皇陵(現・仁徳天皇陵)
市ノ山古墳      230m       (現・允恭天皇陵)
土師ニサンザイ古墳  300m          
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵)


私が特に目を開かれたのは、「大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に」大王墓が営まれたとする記述です。
上記に市ノ山古墳を入れたのは、ご覧のように見事に大王墓が、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に並ぶからです。


古市古墳群と百舌鳥古墳群の一体性については、白石氏は次のように述べています。

大阪平野南部に大王墓が営まれるようになったということは、大阪平野南部の河内・和泉の勢力が、大王権を掌握した結果にほかならない。」
「また、それは高句麗の南下にともなう、四世紀後半の東アジアの国際情勢の大きな変化に連動する政治変動と捉えることができます。」

邪馬台国以来の呪術的性格の強い大和の王権では対応できず、それ以前からヤマト王権の基盤であった大和・河内・和泉連合の中で、朝鮮半島などとの外交や交易を担当していた大阪沿岸に近い河内・和泉の勢力が王権内のリーダーシップを担うようになったのは、むしろ当然の成り行きでしょう。」


このあたりの時代把握についての総論は、私は白石氏の考え方に全面的に賛同します。さすがの慧眼だと敬服します。


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ただし、各論というか各古墳の被葬者の比定については、私は白石氏と違った考えを持っています。以下、私見を述べます。


白石氏自身が述べておられますが、「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」それ以前に、この地に二人の大王が君臨し、「応神天皇はそれにつづく河内王家としては三代目の大王と考えるほかはありません」(『天皇陵古墳を考える』学生社)

まさにここが大きな問題です。
上石津ミサンザイ古墳のように超巨大な古墳を築いた者が、大王(=後世の天皇クラス)以外に可能でしょうか?
私はそれは無理だと思います。白石氏も紛れもなく大王墓であることは認めています。ただ、造営当時は日本最大で、現在に至っても日本で三番目の超巨大古墳である上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵)の被葬者が無名(記紀に載った天皇クラスではない)というのは苦しいです。


よって「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきではないでしょうか?

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。
「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はないといわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、より大胆に推理します。
継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。

すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです

↓古市古墳群の分布図

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なにしろ応神天皇は、記紀で、神功皇后が三韓征伐におもむいた際に、父とされる仲哀天皇の死後、1年以上たってから生まれたという胎中天皇で、伝説に彩られています。仁徳天皇の事跡を応神天皇のものとする部分もあり記紀の記述の混乱もみられます。八幡神とも一体化されます。

そこで、応神天皇は途絶えた崇神王朝を征服した河内王朝創始者であるとか、祖先神であって実在しない天皇であるとか、仁徳天皇と同一人物であるとか、応神天皇こそが神武東征にあたることを実施した大王だとか、大陸からの騎馬民族の征服王であるとか、河内勢力に入婿してきた外部からの大王とか、いろいろな考え方もあります。


特にこの時期は、崇神王朝末期の混乱期でもあり、武内宿禰、ヤマトタケル、神功皇后、仲哀天皇といった神話的人物が多く登場し、にわかには信じがたい記述も多くあるところです。


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。
確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初の大王墓である仲津山古墳です。

仲津山古墳は、造営された当時としては最大級の300m近い堂々たる古墳で、現在でも全国第9位で、造営時には現・景行陵とされる渋谷向山古墳に次いで2位です。この古墳の特徴は広い墓域で、濠や外堤を含むと総全長は440mにも及び造営当時は日本最大の墓域の古墳です。その後つくられた三古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるのです。

あくまで独断的私見ですが、上で書いた白石氏の3世紀~4世紀の大王墓(1)~(6)の中の崇神王朝最大の渋谷向山古墳の規模をこえない配慮が見られます。応神の次の仁徳の代になると、その配慮は不要になり超巨大な上石津ミサンザイ古墳が築かれたのです。また、仲津山古墳が国府台地の最高地点に築かれた古墳であるのも意味があると考えます。

仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。


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次の仁徳天皇については、造営順に上石津ミサンザイ古墳(現・履中陵)が当てられます。この天皇は記紀での記述が多く、仁政をひいたとして重要視されてきました。長命で、上町台地の上に難波高津宮を築き、現・大阪府に大規模な治水土木事業を行いました。まさに父の応神天皇の後を継いで河内王朝の覇権をゆるぎないものにした人物です。

『日本書紀』を読んでみて印象的なのは、仁徳天皇が「石津原に幸して、以て陵地を定めたまふ」とあるところです。私のように近くに住んだ経験のある者はよく分かるのですが、まさに上石津ミサンザイ古墳は石津川沿いにあるのに対し、大仙陵古墳は上石津ミサンザイ古墳が造営された後では石津川沿いとは言いにくいのです。このくだりで、私は現・履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳こそが、真の仁徳天皇陵にふさわしいと感じました。

石津川沿いで海に面した百舌鳥の広大な原野に、はじめて超巨大な大王墓が築かれたからこそ、日本書紀の行幸のエピソードが強く記憶に残り伝承され、記録されたのでしょう。また。考古学的にも上石津ミサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群で最初に造営された巨大墳墓であることは実証されています。

当時、現・応神陵とされる誉田御廟山古墳や現・仁徳陵とされる大仙陵古墳は、まだ存在しませんから、上石津ミサンザイ古墳は、日本最大の画期的な超巨大古墳でした。

上石津ミサンザイ古墳は、近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをこえることは確実です(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁)。誉田御廟山古墳に近い大きさなのです。現在でも巨大な質量を感じる迫力があります。

仁徳天皇が、生前に行幸して、この百舌鳥の地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです(百舌鳥は好立地なのですでに豪族墓である乳岡古墳がありましたが大王級の墓は仁徳天皇が最初)。それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

私の独断的想像では、仁徳天皇は皇太子(後の履中天皇)に対し、次は応神の眠る古市の地に大きな墳墓を作ることを指示し、その次は、百舌鳥の地につくるという形で、両墳墓地の併立を決めたのでしょう。旧の奥津城である古市の地を忘れないようにするとともに、新しい百舌鳥にはさらに誇示する墳墓地として巨大墓を造成するように息子たち(後の履中と反正)に願いを託したのです。
こうして、大王墓は、河内王権の中心地に近い古市の地と海に面した百舌鳥の地に交互に造営されることになります。


↓上石津ミサンザイ古墳(1)・・・まさに巨大なマッスを感じさせる形の崩れのない美しい大古墳。非常に丁寧に造られています。

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↓上石津ミサンザイ古墳(2)

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次の履中天皇と反正天皇は、父の仁徳天皇の遺言を守り、根拠地の中心である古市と新開発した百舌鳥に交互に巨大古墳を造成します。

おそらく、父の超巨大古墳(上石津ミサンザイ古墳)に強く刺激され、父をこえることを目指したのでしょう。これは、履中と反正の二人が、倭の五王の讃と珍として、宋に朝貢しはじめたことに繋がりがあります。

すなわち、高句麗の南下により倭国と同盟関係にあった百済が危機に陥りました。そこで、当時、中国の南朝に建国された宋王朝に接近し、その官号や爵号を得て朝鮮半島での高句麗との争いを優位に運ぼうと目論んだのです。その倭国の力を誇示するためにも、墳墓をさらに巨大化し、超巨大古墳をつくる必要があったのです。

それが、誉田御廟山古墳であり大仙陵古墳です。ということで、私は、誉田御廟山古墳を倭王讃である履中天皇の墳墓に、大仙陵古墳を倭王珍である反正天皇の墳墓に比定します。

誉田御廟山古墳と大仙陵古墳は同じ設計で、誉田御廟山古墳をより引き延ばしたのが大仙陵古墳というのがよく知られた定説で、兄弟天皇としての順番にも、『宋書』の讃と珍が兄弟であるという記述にも整合します。

履中天皇の治世がやや短いことから、誉田御廟山古墳では大きすぎると考える方もいるかもしれません。しかし、仁徳天皇は長命で履中は皇太子でしたから実質的な政務をとった期間は長かった可能性が高いのです。『日本書紀』では70歳、『古事記』では64歳で崩じたと書かれており、履中天皇もある程度は長命であったと思われます。

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ここからは、独断的私見ですが、岡山県の造山古墳の影響もあると考えます。この造山古墳は5世紀中ごろつくられた350mの超巨大古墳です。場所的には、古くは福岡の伊都国から大和の邪馬台国に至る中継地として栄えた投馬国の流れをひく岡山県吉備地方にあり、この地域の有力者の墓と思われます。時期的には上石津ミサンザイ古墳の後で、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳の少し前と考えられます。おそらく当時新たに大阪湾にそびえることとなった上石津ミサンザイ古墳を見て刺激された吉備の王が我も力を誇示しようと自領に造営したのでしょう。

この吉備勢力は古くから力を有し畿内の大王一族とも通婚関係があり敵対するものではないので、大きさは上石津ミサンザイ古墳をわずかに下回る350m(但し周濠なし)で、当時最大の大王墓を凌駕しないよう配慮して造営されています。とはいえ、吉備勢力の実力を体現し、畿内の大王なにするものぞという対抗心も表現されています。

想像するに、吉備で巨大古墳が造営されているという情報が伝わり、履中天皇や反正天皇は大王としての面子にかけて大きさで負けるわけにはいかなかったのです。造山古墳をはるかに上回る規模がめざされたのです。

ということで、あわてて造成された超巨大古墳であったために、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまったのです。
それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも等高線の乱れはありません。これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しており、私が上石津ミサンザイ古墳こそ仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。

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最近、大仙陵古墳から出土した須恵器の甕については5世紀の中頃以降とされ、明治時代に県令・税所篤が発掘させた時の絵図の長持式石棺・眉庇付冑などが5世紀中頃以降という鑑定とも一致しました。つまり、これらからも大仙陵古墳は、仁徳天皇時代とするには新しすぎ、やはり仁徳天皇の子の世代の大王墓でしょう。


私が大仙陵古墳の被葬者と考える反正天皇は、仁徳天皇の三男で、母は葛城襲津彦の娘である仁徳皇后:磐之媛命です。つまり履中天皇の同母弟で、仁徳の次男である墨江中王の反乱を鎮め皇太弟となりました。反正天皇の在位期間は短いものの治世は「五穀成熟れり。天下太平なり」と『日本書紀』にあります。古事記では60歳で没したと書かれています。穀物が豊作で大きな事件もおこらず平和な御世であったようで、国力も充実していたと想像されます。

江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀に「治天下□□□歯大王世」とあり、これは雄略天皇説があるものの、反正天皇説もあります。これは、歯という字を持つ天皇は瑞歯別尊たる反正天皇しかいないからです。
さらに、宋書における倭王武の上表文に「昔より祖禰、みずから甲冑を着て・・・」とあり、この祖禰の解釈の一説に、武(=雄略)の祖である禰(=珍=反正)があり、統一事業の実践者としての強力な大王=反正天皇が浮かび上がるのです。

また、反正天皇の都は丹比柴籬宮で、現在の松原市上田の柴籬神社が伝承地とされていますが、ここは古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に位置し、当時の大王の都としては最も百舌鳥古墳群に近い場所です。私見では、反正天皇は大仙陵古墳の被葬者としてふさわしいのです。

大仙陵古墳が先王の誉田御廟山古墳より大きいのは、国力が充実していたのと、海に面した百舌鳥の地が古市の地より、古墳の大きさを誇示する場所として価値があったからです。



↓大仙陵古墳(1)

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↓大仙陵古墳(2)
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次の倭王の済は、当然、允恭天皇となり、墳墓は順番からして古市に造営されますから、市ノ山古墳が整合します。
もっとも、允恭の墳墓としては小さいという問題があり、それを重要視すると、より大きな土師ニサンザイ古墳が允恭墳墓である可能性も残されています。

ただ私は、允恭から雄略に至る段階では、宋王朝に対して繰り返し求めてきた朝鮮半島での軍政権が思うように認められず、巨大墳墓を誇示して大陸外交を進めていく意味が薄れてきたのではないかと考えます。

また、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳で、吉備など地方勢力に対する近畿の大王の権力を完全に示すことができたので、それ以降は、より巨大な古墳を築く必要もなくなったのです。

したがって、古墳の規模は大仙陵古墳を頂点として縮小していく流れにあり、その先鞭をつけたのが允恭天皇の市ノ山古墳であると思います。とはいえ、市ノ山古墳は全長230mの堂々たる巨大古墳で、允恭天皇陵としてはふさわしいものです。


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その次の土師ニサンザイ古墳は、市ノ山古墳より大きく、全国第7位の大きさの美しい古墳です。先王の市ノ山古墳より大きいのですが、これは百舌鳥古墳群は海に近く、誇示という価値が古市古墳群より少し残っていたからだと推測します。

大王墓は古市と百舌鳥に交互に造営されたわけですが、古市古墳群におかれた先王の古墳より、百舌鳥古墳群におかれた次の新王の古墳がより大きいという法則は、ここでも貫徹しています。仲津山古墳<上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳<大仙陵古墳、市ノ山古墳<土師ニサンザイ古墳。私見ですが、これは百舌鳥の地が特に誇示する場所だったからです。古墳の配置から見ても、従来からの奥都城であった古市は古墳の方向などがバラバラでゴチャゴチャしているのに対し、百舌鳥の古墳は海からと内陸への街道から見られることを意識して綺麗なL字型に配置されています。このことは、百舌鳥は海と街道沿いに新たに開発された計画的な墓域であることを示しています。

土師ニサンザイ古墳の被葬者は、倭王の興が該当しますが、この人物が安康天皇であるかどうかが問題です。

実は記紀において、安康天皇の即位には不自然な記述が多々あります。まず、允恭の皇太子であった木梨軽王子が兄妹相姦の罪をかぶせられて失脚し、それを訴えた穴穂皇子が安康天皇となるのですが、天皇となって短期間で暗殺(眉輪王の変)されます。そして、なぜかこれまでの応神王朝で安康天皇だけが大和方面に葬られます。このあたり、詳しくは分かりませんが、とてもキナ臭い雰囲気が漂っています。

いっぽう、『宋書』では、倭王の興は「世子興」という表現が使われており、世子とはあらかじめ指名された王位継承者のことをいいますから、允恭天皇の長男で皇太子であった木梨軽王子のほうが、興にふさわしいようです。(わざわざ世子という表現にしたのは大王として即位しなかった意味か?)

允恭天皇は長命でしたから、在位中に皇太子の木梨軽王子が政務を取って外交を行った可能性があり、後に大王となる予定の皇太子(木梨軽王子)のために巨大墳墓(土師ニサンザイ古墳)が用意されたのではないでしょうか?

いっぽう安康天皇は急死(暗殺)だったので古墳が用意されておらず、やむを得ず大和地方に葬られたのでしょう。ただ、該当する奈良県の巨大古墳に適切な候補は見当たらず、大きな墳墓ではなかったのかも知れません。

あるいは、ひょっとして、木梨軽王子と安康天皇がバタバタと崩御したため、木梨軽王子用に造営されていた土師ニサンザイ古墳に、とりあえずという形で安康天皇が葬られのかも?・・・このあたりは全く想像の域を出ず、決定できるものではありません。

もし、安康墓が土師ニサンザイ古墳とするなら、木梨軽王子墓は少し小さい規模の前の山古墳(白鳥陵)ということになり、この可能性も十分にあり得ます。このあたりは、まだ確定させず判断留保したいです。そこで、私は土師ニサンザイ古墳については、現時点では「木梨軽王子または安康天皇陵」としておきます。


↓土師ニサンザイ古墳(1)・・・百舌鳥古墳群の最後を飾る最高に美しい古墳です。

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↓土師ニサンザイ古墳(2)
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その次の、倭王武は、雄略天皇であることは確実で、墳墓も岡ミサンザイ古墳で間違いないでしょう。
これは、現在の学会の主流の学説ですが、私も武=雄略天皇=墳墓:岡ミサンザイ古墳ということに関しては全く異論はありません。


この後、古市と百舌鳥の古墳群には巨大な古墳は造営されなくなります。(大王墓がここにつくられなくなったかどうかは別問題で、大王墓が小さくなったという可能性大)
ただし唯一、古市と百舌鳥と中間に、河内大塚古墳という謎の巨大古墳が出現します。河内大塚古墳は私も野鳥観察を兼ねて何度も足を運んで調査しており興味深い話があるのですが、応神王朝とは関係がないので、またいつか稿を改めて書くことにします。



<結論 私の百舌鳥・古市古墳群の被葬者比定 造営順>


仲津山古墳      290m ←応神天皇陵
上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵(現・履中天皇陵)
誉田御廟山古墳    420m ←履中天皇陵(現・応神天皇陵) 讃
大仙陵古墳      525m ←反正天皇陵(現・仁徳天皇陵) 珍
市ノ山古墳      230m ←允恭天皇陵(現・允恭天皇陵) 済
土師ニサンザイ古墳  300m ←木梨軽王子または安康天皇陵  興
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵) 武


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この私の比定は、誉田御廟山古墳を応神天皇陵とせず、大仙陵古墳を仁徳天皇陵としないので、現在の主流の説ではありません。
しかし、考古学的に精密に実証されてきた古墳の編年表に全面的に整合しています。
また、中国の史書にも整合しており、『日本書紀』や『古事記』とも、ほとんど整合しています。
記紀の記述と大きく異なるのは、ただ一か所、履中天皇の墓所が百舌鳥ではなく古市であるという点だけです。






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