模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
|
2019年 09月 06日 |

先般、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を記念して行われた福永伸哉教授の特別講演を拝聴しました。
とても印象的な講演で、考古学と歴史学がようやくシンクロし成果をあげてきたことを強く感じました。少年時代から古代史に興味を持ってきた者として嬉しい感慨がありました。

そこでこの機会に、これまでの福永伸哉教授らの成果をもとに、私なりに古墳時代の流れをまとめてみます。特に、これまで触れて来なかった佐紀(盾列)古墳群さき(たてなみ)こふんぐん】 の謎について書いてみます。

f0140054_15322081.jpg
古墳時代は、卑弥呼の墓として有力視される箸墓古墳からはじまります。


かつて単なる百家争鳴の思いつき邪馬台国論が世間を覆っていたのですが、1970年代以降になって考古学的な証拠に基づく邪馬台国研究が可能になってきました。纏向遺跡などの考古学的な発掘調査が大きな役割を果たしたのです。


1980年代になると、考古学的成果をもとに、学問的な成果があらわれてきました。
特に、森岡秀人氏の 王莽の「貨泉」が鋳造からすぐに日本にもたらされた事実を重く見る研究(「弥生時代暦年代論をめぐる近畿第Ⅴ様式の時間幅」『信濃』37-4、1985年など)が発表されます。これによって三角縁神獣鏡が中国(魏)もたらされたことが傍証されました。

続いて、白石太一郎氏の 古墳出現を3世紀中後半とする体系的研究(「年代決定論(2)」『岩波講座 日本考古学』一、岩波書店、1985年など)が発表され、私はいよいよ考古学が歴史学にコミットする段階が来たと感動したものです。いいかえれば、科学的証拠が歴史の謎を解き始めたのです。

f0140054_15333287.jpg
1994年には大阪府池上遺跡で年輪年代法のヒノキ柱がBC52年に伐採されたことが判明して弥生時代後半の絶対年代編年が進みます。前後して。西久米塚古墳・黒塚古墳などの古相の三角縁神獣鏡のみを出土する古墳の調査が相次ぎ、布留0式土器が出土する古墳の出現年代が250年代頃であることが確実になりました。


さらに、2009年に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授らの研究成果が報告されました(炭素年代法による科学的鑑定)。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。


そして、福永伸哉氏の三角縁神獣鏡の詳細な研究が重要で、長方形紐孔・外周突線・特異な銘文を分析し、その技術が中国の魏晋(3世紀)の領域に求められることを明らかにしたのです。


そうこうしているうちに、石野博信氏らによる纏向遺跡の調査がどんどん進み、2世紀末葉に出現し4世紀中葉に消滅した巨大集落で、一種の政治的な都市としての性格を有する遺跡であることが明確になってきました。


2018年には、纏向遺跡で発見された桃の種を放射性炭素(C14)年代測定法で調査したしたところ西暦135~230年のものであることが判明しました。名古屋大と徳島県埋蔵文化センターの二ケ所で測定され同結果ということで極めて信頼性が高く、桜井市纏向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査結果とも合致する」と話しています。


同じく、2018年には、天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から出土した33面の三角縁神獣鏡について、京都市の泉屋博古館が大型放射光施設「スプリング8」で蛍光X線分析したところ、鏡に含まれる銀などの微量元素の割合が、古代中国鏡と一致することが判明しました。これで、箸墓古墳の直後に築かれたとされる黒塚古墳の三角縁神獣鏡が、中国からもたらされたものであることがほぼ確定しました。


以上の調査や研究は、すべて箸墓古墳の築造年代が3世紀後半で、ほぼ同時期に三角縁神獣鏡の配布が開始されたことを示しており、魏志倭人伝の記述とも整合します。

f0140054_16152175.jpg

以上の考古学的証拠から、流れをまとめてみます。


魏と通交する以前の三世紀初、卑弥呼は公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を分配しました。最初は分布が畿内に集中し、倭政権連合体の範囲が限られていることを示しているようです。
ところが、卑弥呼の晩年すなわち三世紀後半には、三角縁神獣鏡の分配が東西に広がり、畿内中心ながら福岡県までも覆い、前方後円墳の誕生と全国展開と時期も分布もこれに一致しています。


なかでも、考古学的証拠として、1997年の黒塚古墳の発掘は画期的でした。三角縁神獣鏡が33面も出たのです! 景初3年銘の三角縁神獣鏡もありました!

黒塚古墳では発掘された三角縁神獣鏡は、7組15面が同范の関係にあります。
三角縁神獣鏡の古いタイプがすべて中国製と判明した今、考えてみてください。もし鏡が一面ずつ中国からもたらされたのなら、偶然が何度も重ならなければ、同范鏡が再び共埋葬されることはおこりません。つまり、これは同范鏡が、セットでまとまった形で日本にもたらされたことを意味しているのです!(これはすでに過去に椿井大塚山古墳出土三角縁神獣鏡に関して小林行雄氏が指摘していたことです。)


三角縁神獣鏡が多数出土した黒塚古墳と椿井大塚山古墳に同范鏡の重複が多いのは当然で、三角縁神獣鏡の数が多ければ、それに比例して同范の数が増えるのは、あたりまえの話です。ごく単純な理由なのです。
両古墳の被葬者が邪馬台国の有力者であったことは確実で、鏡の分配の中心は両古墳の近くにあり、その主体者は、魏帝が銅鏡百枚を与え「ことごとくを以って汝(卑弥呼)が国中の人に示し・・・」という命を受けた卑弥呼その人なのです。時期と考古学的証拠から考えて、卑弥呼以外の人物を考えることは困難です。


239年(景初3年)、魏は卑弥呼に対して、その朝貢に対して「親魏倭王」の金印とともに卑弥呼の「好物」たる鏡を特鋳し贈与しました。それこそが、景初3年銘のある三角縁神獣鏡であることは間違いありません。これは三角縁神獣鏡の最も古いタイプで、時間的にも一致します。アクロバチックな理屈を全く必要としない、ごく自然な結論です。

景初3年銘のある三角縁神獣鏡を偽造とする説は、認められません。魏志倭人伝を読んで偽造したとするのは本末転倒の考え方で、3世紀当時の倭人が魏志倭人伝を読んでいたはずがなく、またそんな大がかりな偽造を行う理由が全くありません。それこそ、アクロバチックな論理です。

f0140054_16202066.jpg
生活の場というより政治的かつ祭祀的な特殊な性格を帯びて三世紀に興隆した纏向遺跡は、初期大和政権の中枢部と考えられます。日本ではじめて誕生した都市とも言えます。
近傍には、古墳時代の開始を告げる全長278mの箸墓古墳を嚆矢として、出現期大型前方後円墳が集中しており、いわゆるオオヤマト古墳群と呼ばれ、黒塚古墳もそのひとつです。


奈良盆地東南部は、奈良県でも本来、ヤマトと呼ばれていた地域で、ヤマト=邪馬台=倭=大和は、時間と空間が一致しました。史書と考古学の証拠が一致したのです。

↓この出現期古墳の分布は、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の地域と一致します。

f0140054_15572660.jpg

邪馬台国から古墳時代そして大和朝廷へと、つながっていることは証明されたと言えるでしょう。ただ、ここから歴史的にはいろいろの紆余曲折があり、日本の記紀などの歴史書との関係を解明する必要があります。その際の手段は、政治思想や願望や町おこしあるいはロマンではなく、科学的証拠と動かしがたい論証でなければなりません。


飛鳥時代に至るまでは、その最大の証拠が古墳です。何より古墳というのは、誰も否定できない歴然たる存在です。大古墳を築いた権力者がいたことは紛れもない事実で、それが記紀に書かれたどの人物にあたるかは、興味深いテーマです。


箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、こちら で書きました。そこで、崇神天皇・景行天皇・垂仁天皇などに比定される古墳についても述べましたので興味のある方はお読みいただければ幸いです。



難しいのは、崇神系政権(三輪王朝)の末期から応神系政権(河内王朝)への移行展開です。
その中間時期に、大王墓規模の古墳がある佐紀古墳群が造営されるているのです。これを、どう考えるのか?

f0140054_15294559.jpg
4世紀中葉に纏向遺跡は幕を閉じます。この時期に大和政権は遷都されたか、王朝交代があって狭い意味での中心地が移動したと考えられます。
佐紀古墳群が造営される時期に相当します。大きさからみると、五社神古墳(神功皇后陵)は、全長約270メートルと大王墓として問題のない規模があります。

そうすると、崇神系政権と応神系政権の間に、奈良盆地北部を根拠地とする佐紀政権があったのか?

しかし、記紀には佐紀地方に根拠があると考えられる大王はおらず、唯一、伝説的な神功皇后が書かれているのみです。
この神功皇后の関連で、記紀に書かれていない大王が存在した可能性はあります。巨大古墳(佐紀古墳群)という証拠が残っているわけですから、それに相当する権力者がいたことは確実です。

それが、記紀に書かれていないのは、後世の歴史書作成の際に、消されてしまった可能性があります。実際には、崇神王朝と応神王朝の間に、一時的に佐紀王朝があり、それが応神王朝に征服されてしまった。応神天皇は崇神王朝の末裔の女性(仲津姫)と婚姻し入婿的に崇神王朝を継いだので、その間に存在した佐紀王朝を歴史としては抹殺した・・・・ヤマトタケルや神功皇后といった神話的人物を挟みこみ応神王朝へとつないだ・・・・これが考えられる有力なストーリーのひとつです。


別の考え方があります。それは崇神系政権が墓域だけを移動させたという説です。これは、政権と墓域を区別するもので、後世にはこうしたあり方が出てきますが、ヤマト政権の最初期に通用するかは疑問です。なぜ、急に墓域だけを移動させるかという理由が見出せません。実際、その後、オオヤマト古墳群と古市古墳群の中間地域に造営された馬見古墳群は、有力豪族である葛城氏の根拠地であることは確実で、根拠地と墓域が一致しているのがこの当時の自然なあり方なのです。

また、纏向の中心地域から王都は移動しているのは確かなので、その場所をどう考えるかという問題もあります。王都はヤマトのどこかに遷都されても、その大王の墓が関係のないところに造られるはずがありません。王都の場所とはずれていても、少なくともその大王のゆかりのある出身地域に造営されるでしょう。



三番目の考え方があります。
それは、佐紀古墳群は、大王としてではなく王妃の出身地に造営された奥津城の古墳群であるとするものです。
佐紀古墳群の造営時期は、微妙に古市古墳群の造営時期と重なっています・・・これは何を意味しているのか?
佐紀政権が河内政権に征服され移ったというより、河内政権の初期大王たちの王妃が佐紀地域から選ばれ、その墳墓たちが佐紀古墳群とするなら時期の重なりが説明できるのではないでしょうか。
それが、記紀に象徴的に残されているのが、仲哀天皇と神功皇后の関係ではないかとするものです。

↓奈良県庁屋上から北を望む。上部左側奥の緑の丘陵が佐紀古墳群。

f0140054_15465435.jpg

私はどちらかというと、三番目の説(佐紀古墳群=王妃の奥津城説=白石太一郎氏の説)に説得力があると考えています。
その理由は二つあります。
ひとつは、もし佐紀王朝というのが存在したとするなら、もう少し記紀などの記録に痕跡をとどめているべきだということ。
もうひとつは、佐紀政権が河内政権に征服されたのなら、時期的に造営時期が重なるはずがないということです。


当時のヤマト政権というのは、現在の奈良盆地と大阪府と京都府の一部にまたがる一帯を中核とし、佐紀の地域も河内の地域もその有力な支え母体でした。外から見れば一体で、内部的には勢力争いはあったのでしょう。

三輪地域の崇神政権が弱体化してくると、一時的には佐紀地域の勢力は大王クラスの人物を出したのかもしれません。しかし、調整の結果、最終的にはヤマト政権河内派とでもいうべき勢力が権力を握り、佐紀派はそれを支える役割を果たしたのではないでしょうか。河内派と佐紀派は協力して大和政権を担ったのです
そこで、しばらくは大王を河内派から、王妃を佐紀派から出したと考えます。それが、歴然たる古墳造営時期の重なりと、仲哀天皇と神功皇后の関係から推測できるのです。

f0140054_15432564.jpg

私が古市古墳群で最初の大王墓である津堂城山古墳の被葬者と考えているのが仲哀天皇ですが、その王妃が神功皇后です。彼女は、近江~南山城地域に勢力のあった息長氏の一族から出ています。神功皇后の古事記での名前が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)であることがその証拠です。

佐紀古墳群のあたりに勢力を有していた豪族は、息長氏だけではありません。佐紀古墳群のすぐ南の春日地域を根拠地とする和邇氏があります。
この和邇氏は、古来よりヤマト政権を支えてきた有力氏族で、記紀による記録の上では、応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出しています!


すなわち、この息長氏と和邇氏から出た王妃の奥津城が佐紀古墳群ではないでしょうか。佐紀古墳群のすべてが王妃の墓であるかは分かりません。例えばヤマト政権で大きな力を持った和邇氏の首長墓というのも存在する可能性があります。私見では皇后級の王妃の墓が中心であったと考えますが、やはり、最終的な結論は、今後の考古学的な古墳の発掘に託したいと思います。



いやあ、古墳というのは確かに歴史の証人であり、今も消せない証拠を我々に提示している場所なのですね!


その後の、倭の五王時代(応神系政権=百舌鳥・古市古墳群の時代)の古墳の比定については、こちら で詳しく書いていますので、ご覧いただければ幸いです。






にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。


2019年 07月 12日 |
LINEトラベルJPの旅行ガイドで、私の「仁徳天皇陵の目の前!堺市博物館で歴史ロマンを体験しよう!」という記事が公開されました。
百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録に関連した記事の集大成でもありますので、ぜひ↓お読みください。





9月23日までは「百舌鳥古墳群ー巨大墓の時代ー」という特別展を実施中です。世界遺産登録により仁徳天皇陵に来られる方は多いでしょう。せっかくの機会ですので、ぜひ博物館も訪問してください。


ブログでは上記のLINEトラベルJP記事に載せられなかった博物館の写真を紹介することにします。

↓堺市博物館
f0140054_08192095.jpg
f0140054_08192427.jpg
↓博物館の展示コース案内図
f0140054_08311297.jpg
↓博物館の観覧券
f0140054_08213941.jpg
この地図は「オルテリウスの日本地図」と言われるもので、16世紀ヨーロッパ人の日本に対する知識を表しています。

↓博物館に展示されている地図中央部 Sacay=堺 は中央に書かれていますが、大阪はありません。
f0140054_08272519.jpg
 
↓百舌鳥古墳群の航空写真大パネル クリックすると拡大します
f0140054_08290966.jpg
↓おなじみの百舌鳥・古市古墳群の編年図
f0140054_08330174.jpg
↓中世堺のコーナー 鉄砲展示など
f0140054_08344086.jpg
↓近代堺 堺県の図
f0140054_08365948.jpg
↓堺県の話
f0140054_08380455.jpg
つまり、天領だった堺は慶応年間に堺県となり、地域を広げて現在の奈良県を含む大きな県となったわけです。やがて地域が小さく財政力がなかった大阪府を補強するため、堺は県治14年で廃県となり、大阪府へ編入されてしまいます。

大和川水系というのは、古代より繋がっており、一体感がありましたので、堺県という発想は、あながち不自然ではありません。竹内街道の世界ですね・・・
堺県時代に、堺で幼少期を過ごした偉人に、河口慧海や与謝野晶子がいます。偉大な人々を生む素地のある文化的地域だったと思います。


さて、堺県の話のついでに、古墳関連の余談をひとつ

堺県令(知事)を約10年間も務めたのは、維新の功労者である税所篤(さいしょあつし)で、能吏として評判も高く、文化財への造詣も深かったのです。堺燈台や浜寺公園、奈良公園、県師範学校・医学校・病院・女紅場(女学校のことで与謝野晶子が通った)などをつくり、伝統文化の保護育成行政に携わり、西郷隆盛、大久保利通と共に薩南の三傑と評され、子爵を授けられています。

税所篤個人は、文化的な素養が高く、古美術骨董品のコレクターでもありました。ただ、それゆえ、堺県令時代に仁徳陵を無断で発掘したのではないかとの疑惑があります。確かに、明治5年、仁徳陵の清掃を政府から命じられた際、陵内に小屋を設け一年に渡り作業しています。

ボストン美術館に仁徳陵発掘とされる装飾品がありますが、この国外流出は税所篤が横流ししたものという噂もあります。ただし、この説は、藩閥政治に対し批判的な尾佐竹猛の発言をもとにしており、明確な証拠があるわけではありません。
最近の調査では、ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられた岡倉天心が、明治39年の関西出張の際に一括購入したもののようです。ただ、その本来の出所は分かりません・・・

堺県令:税所篤は、石棺の記録を残し文化財の保護と歴史探求に貴重な足跡を残した人物だったのか? 、それとも無断で仁徳陵を発掘し盗掘まがいのことを行った人物だったのか?・・・見方は分かれており、真相はまだ分かりません・・・皆さんは、どう考えられるでしょうか?


上記の税所篤による仁徳陵の清掃は、大雨で御陵前方部の南端斜面の埋蔵物が露土したため、清掃し大きさを測り埋め戻したということです。

↓その際のスケッチ

f0140054_15255201.jpg
↓スケッチをもとに制作したレプリカが現在、堺市博物館内に展示されています。迫力がありました。

f0140054_15120004.jpg
後円部には、さらに大きな石棺があったとの江戸時代の記録があります。前方後円墳では後円部にメインの被葬者が葬られていることが一般的なのでうなずける話です。
ただ、私が不思議に思うのは、前方部の南斜面という古墳の端部に上記の大きな石棺があったことです。いわば南の端っこにあったわけで、そうなると前方部中央などにもさらに大きな石棺がありそうです。ひょっとしてこの巨大古墳には、たくさんの人が葬られているのかも知れません・・・・。

いったい誰が葬られているのでしょうか? 今後の発掘調査が待たれるところですね。


↓中庭に展示されている石棺・・・これも本来の出所は不明です。どの古墳から出たものだろうか?

f0140054_08403329.jpg
↓博物館の休憩コーナーと館前の池
f0140054_08392304.jpg



さて、また旅に出ることになりました。
お隣の国ですが、激安海外旅行ツアーの体験取材です。
そのため、しばらくブログ更新ができませんが、ご了承ください。
来週末頃には、また更新を開始する予定です。

それでは、皆さん、ごきげんよう!




にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。


2019年 07月 06日 |

百舌鳥・古市古墳群のユネスコの世界文化遺産への登録が正式に決まりました。
古墳群の価値が傑出していると高く評価され、大阪初の世界遺産となりました。


アゼルバイジャンの首都バクーで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は、7月5日、諮問機関イコモスが推薦した候補地の登録審査を開始しました。今回は35件の審査で、「百舌鳥・古市古墳群」は当初15番目の審査予定が13番目に繰り上がりましたが、結局時間切れで審査は翌7月6日に持ち越されることになりました。

少し心配しましたが、7月6日に再開された審査で、「百舌鳥・古市古墳群」は、満場一致で審査を通過し、世界遺産に登録されました。
その経過を以下にご覧ください。

↓パブリックビューイングの行われた堺市のフェニーチェ堺(堺市民芸術文化ホール)

f0140054_22470196.jpg
フェニーチェは、イタリア語で「不死鳥」という意味。フェニックス通りに面した堺市民芸術文化ホールにふさわしい名前ですね。2019年10月にグランドオープンするのですが、今回のパブリックビューイングは、プレオープンとなり、皆さんはじめての訪問になります。


堺市でのパブリックビューイングも二日間にわたったわけで、私も両日、取材のためフェニーチェ堺に通いました(汗)。
5日は500人くらいの市民が来ていましたが、6日は土曜の夕方ということもあり1000人も来られてほぼ満員でした。

↓フェニーチェ堺でのパブリックビューイングの様子(6日) 現地の実況中継を見ながら講演や映像資料も見ます・・・

f0140054_22473034.jpg

↓まず広告塔のハニワ課長を表敬訪問し記念撮影させてもらいました。緊張のご様子でした。

f0140054_22494530.jpg

昨日5日には、バーレーンの「ディルムンの遺跡群」とイラクの「バビロン」が諸事情で今日最後の審査に回されることになり、「百舌鳥・古市古墳群」は全体で13番目に繰り上がり、今日6日では5番目の審査対象。
ただ、審査が長引く候補地があり、17時を過ぎてもなかなか順番が回ってきません・・・

↓やっとひとつ前のインドネシア「オンビリン炭鉱遺跡」が登録決定。歓喜のインドネシアの関係者

f0140054_22515668.jpg

つぎは、いよいよ「百舌鳥・古市古墳群」

↓イコモスの「百舌鳥・古市古墳群」担当者が説明をはじめます。

f0140054_22523669.jpg
官民挙げての努力で保存管理された素晴らしい歴史遺産という点を強調。

↓要領の良い説明が終わりました・・・TVカメラが画面に集中

f0140054_22530416.jpg

次に委員の意見陳述です。「都市の中なのに非常に保存状態が良い」という趣旨の意見が多かったです。代表的な二人の意見を以下に。

↓スペインの委員「こんな人口の密集地で、1600年の間、こんな見事に残されているなんて信じられない!」

f0140054_22535511.jpg

↓ジンバブエの委員「1950年代、いたすけ古墳が破壊されかけたが、市民のイニシアティブで保護されたことは、評価に値する」  同時通訳されると、こちらの会場から拍手!

f0140054_22542286.jpg
↓ひとわたり意見が出た後、司会のチェアパーソンが「非常に良い評価の意見ばかりですが、反対や問題点を指摘する意見はありますか?」

f0140054_22545496.jpg
↓問題点を指摘する意見は全くなく「それでは、満場一致で採択!」と小槌が振り下ろされた瞬間!
f0140054_07041722.jpg
↓「やったー!」
f0140054_22560469.jpg

↓大喜びの市民

f0140054_22565944.jpg
↓アゼルバイジャン現地会場の大阪府知事(まん中)も握手で嬉しそう
f0140054_22582303.jpg

堺市出身の観光大使などがお祝いのメッセージを中継で。

↓片岡愛之助さん

f0140054_22593488.jpg

↓黒谷友香さん

f0140054_23000883.jpg

↓桂文枝さん

f0140054_23002912.jpg

↓登壇したハニワ課長は「サカイの宝が、セカイの宝になったぞー!」

f0140054_23011167.jpg

↓アゼルバイジャン現地から堺市長(左)も喜びの中継

f0140054_23013136.jpg

↓現地からの堺市長の発声に合わせてフェニーチェ堺で万歳三唱

f0140054_23033963.jpg

↓くす玉が割れ、フェニーチェ堺の天井からキンキラキンが舞い降りてきました。

f0140054_23040061.jpg

↓会場を後にしようとすると号外が配られていました・・・

f0140054_23042914.jpg

↓フェニーチェ堺に近い堺東の商店街・・・・お祝いムードですが、これが堺の活性化につながれば良いと思います。

f0140054_23050991.jpg

パブリックビューイングに参加して世界の識者の意見を聞いて思ったのは「意外に世界的な評価が高い」ということです。
大規模で幾何学的な日本の古墳は、傑出した価値があると認識されており、大都市の中にありながら非常によく保存されていると誉められました。
これは、とてもありがたいことで、保存と調査を訴えてきた古墳好きとしては大いに力を得ました。


日本国内では、評価が低く、古墳群なんか観光地じゃないという意見が多かったのです。世界遺産に関しても国内の推薦のほうが難関でした。四度目に挑戦でしたが、いったん世界に出てみるとイコモスの諮問決定も、本番の審査も一発でした。富士山が世界遺産になった際とは逆の現象です。

審議を見ると他の遺産では時間がかかったのに、「百舌鳥・古市古墳群」の審査は非常にスムースで満場一致でした。もちろん、古墳群の歴史的価値にプラスして関係者のプレゼンなどの尽力があってのことですが、さらに市民が保存に努力してきた経緯も大きく評価されたようです。
今は、素直に喜ぶべきだと思います。


私自身も長く百舌鳥・古市古墳群を研究し取材してきましたので、嬉しい限りです。その取材の集大成として、私にとってはおなじみの場所である堺市博物館の記事を書いてみました。

↓ということで、LINEトラベルJPに堺市博物館記事がアップされましたので、ぜひご覧ください。





にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。


2019年 05月 17日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「チュニジア中部・歴史とリゾートの街“サヘルの真珠”スースを歩く!」という記事が公開されました。
チュニジア中部にあり、古い旧市街と地中海リゾートを楽しめる街スースの紹介ですので、ぜひ↓お読みください。








さて、百舌鳥・古市古墳群 について、ユネスコ諮問機関(イコモス)の世界遺産への登録勧告が出ました。(5/14)
これで、7月の世界遺産への登録がほぼ決まりました。


発掘調査が進まず陵墓名と遺跡名が混在しているといった問題点があるものの、古墳群の価値が傑出していると大きく評価されたようです。


私も、ライターとして百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録への、民間からの応援・協賛活動をやってきました。旅行業の一端を担う者として嬉しい限りです。これで、大阪府ではじめての世界遺産が誕生します。


一古代史ファンとしても、大阪の古墳群の歴史的価値が評価されたことを喜んでいます。


↓仁徳天皇陵古墳(大山古墳・大仙陵古墳)の一周コースより

f0140054_08002180.jpg
↓仁徳天皇陵古墳の現地解説看板

f0140054_08005352.jpg
↓日本語解説部分を拡大・・・ここに世界遺産登録のことも書かれるのでしょうね。

f0140054_08005776.jpg


私の、百舌鳥・古市古墳群に関するトラベルJPの記事には、以下の三本があり、今回の指定を受けて、表題やリード文を少し修正してみました。
ぜひ、お読みください。


いよいよ世界遺産!堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇




もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!




いよいよ大阪に世界遺産が誕生!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう





古墳関係では、以下の記事もあります。


日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう






ブログでは、古墳関係記事も多く書いてきました。その代表的なものを、まとめて以下に紹介しますので、よろしければお読みください。



仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?  百舌鳥古墳群と古市古墳群の被葬者の比定


百舌鳥古墳群の古墳配置と仁徳天皇陵の等高線乱れ  ~百舌鳥古墳群を歩く(1)


仁徳天皇陵の陪塚など小型古墳を見る  ~百舌鳥古墳群を歩く(2)


古墳カード記事がアップされた件と大仙公園の小型古墳  ~百舌鳥古墳群を歩く(3)



古市古墳群紹介記事の公開のお知らせ  ~古市古墳群を歩く(1)


仲姫命陵古墳の真の被葬者は誰か?  ~古市古墳群を歩く(2)


謎の古墳:古室山古墳 ―大和川水系に王権あり― ~古市古墳群を歩く(3)


箸墓古墳は卑弥呼の墓か? ~大和日帰りドライブ(6)


旅行ガイド記事公開  ~邪馬台国のロマンを求めて~







にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。


2018年 10月 15日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう」という記事が公開されました。
いわゆる三輪王朝といわれる日本最初の統一政権が出現した古墳群を歩く記事です。ここを、邪馬台国の中心地とする説が有力になりつつあり、まさに日本の夜明けを告げる地域ですので、ぜひお読みください。





本ブログでもタイアップしてオオヤマト古墳群の記事を書いていきます。
ただ、上のトラベルジェイピーの記事は、旅行ガイド記事ですので、歩く順番に紹介していますが、本ブログでは造営順(時代順)にたどり、私の邪馬台国から大和朝廷への被葬者比定説を述べます。


なお、間に旅行記事を挟みますので、断続的な記事展開となりますので、ご承知おきください。


まずは、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳です。

f0140054_08425201.jpg

奈良盆地の東南部、現在の桜井市から天理市にまたがる一帯は、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」と歌われた古代日本の夜明けを告げる場所です。

このヤマトの中のヤマトとされる一帯は、古来よりヤマトと呼ばれており、大和=オオヤマト古墳群地域とされます。
古墳群の定義は学者により異なりますが、邪馬台国から初期大和朝廷への発展を一体と考え、奈良盆地東南部の古墳全体をまとめてオオヤマト古墳群として捉える白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の学説を私は支持します。


このオオヤマト古墳群で巨大前方後円墳が誕生しました。すなわち、日本で最も古い巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、卑弥呼の墓の可能性が最も高いのです。


箸墓古墳の航空写真は こちら の記事の最初の写真をご覧ください。とても美しい形をした前方後円墳であることが分かります。


↓箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の拝所 西側にあります。

f0140054_08414937.jpg
もしかすると卑弥呼が葬られているわけですから、箸墓古墳の前に立つと胸が高まります。ここはまさに古代史ファンの聖地です。


東側に回って、箸墓古墳を一周します。北側以外は濠はなく、地面から直接古墳が立ち上がっています。

ただし、奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の調査では、幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性が高いとされています。

f0140054_08422110.jpg
北側には「卑弥呼の庭」というカフェもできていました。
北側の池は、「箸中大池」として日本ため池百選にも選ばれています。

f0140054_08433941.jpg
f0140054_08434911.jpg
箸墓古墳は、墳丘長278mの出現期古墳中の最古の巨大墓で、三世紀後半の築造と考えられます。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とする有力な学説があります。宮内庁の正式名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。日本書紀には「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。」と書かれています。このヤマトトトモモソソヒメは、孝霊天皇の皇女で、三輪山の神と婚姻した伝説的な巫女とされ、祟神天皇は巫女であるヤマトトトモモソソヒメの神託を聞いて政治を行なったとあります。


この古墳は、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えます。
根拠については、以前書いた記事を、下の More に再々掲してみましたので、ご興味のある方は More をクリックしてお読みください。

なお、私は白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の講義や講演を何度も聞きに行っています。館長の主張は一貫していますので、箸墓古墳の被葬者に関して述べられている部分を以下に引用しておきます。

倭国王墓として最初の箸墓古墳は、大型前方後円墳としては最古のもので、3世紀中葉に遡る。その被葬者の候補として卑弥呼以外の人物を考えるのは難しい」(白石太一郎講演レジメ「邪馬台国連合から初期ヤマト王権へ」より抜粋)



箸墓古墳から北へ巻向駅の方へ歩くと、邪馬台国の宮殿跡ではないかとされる纏向遺跡があります。弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地として、現在も発掘調査が進められています。

この遺跡を邪馬台国の首都に比定する説が有力になりつつあります。王宮的な建物跡が発掘され、話題となりました。

最近は、桃のタネ約2000個以上が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようで、炭素年代測定法の計測により西暦135~230年のものであるという研究発表があり、邪馬台国の時代に整合します。

f0140054_08444373.jpg

↑航空写真をご覧ください。奥にある山が聖地:三輪山、右端の大きな古墳が箸墓古墳、左端の団地の右上にある空地が纏向遺跡の中心です。この位置関係が重要で、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。







さて、中国東北地方いわゆる旧・満州の地へ旅に出ることになりました。
関空の台風被害で一度中止した旅ですが、関空が復旧しましたので再チャレンジすることにしました。


10月上旬は非常に多忙でしたので、10月中旬の出発となりました。目的のひとつであるレッドビーチの取材は、一ケ月遅れましたので、もう枯れてしまっているかも知れません。


ただ、どうしても今年に行きたいという思いがあり、挙行することにしたものです。


もうひとつの目的である、私自身の祖父が満鉄社員として赴任し家族(私の父や祖母・伯父・叔母など)とともに住んだ地を見るということは、果たせそうです。


無理したせいか、風邪気味で体調が思わしくないのですが、もうこれ以上順延はできませんので、頑張って行ってきます。


それに伴い、ブログの更新も二週間ほど休ませていただきます。


次のブログ更新は、10月の月末頃になります。
それでは、皆さん、しばらくのあいだ、ごきげんよう!





にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。




More  箸墓古墳は卑弥呼の墓である
2018年 08月 30日 |

仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)の拝所の向かい側、前方部を向き合わせる形で中型の古墳があります。これが古室山古墳で、全長約150mもある結構迫力ある前方後円墳です。

f0140054_19514004.jpg
このような前方部を接近させて位置する中大型の古墳同士の配置というのは、百舌鳥・古市古墳群では他に例がありません。
これは不思議なことです。

f0140054_19531609.jpg
古室山古墳は皇族墳墓に治定されていないので、これまで発掘され詳しい研究書も発刊されています。
1986年の調査では、後円部から葺石が多量に見つかりました。その状況が下の写真です。
f0140054_19572050.jpg

古市古墳群は、百舌鳥古墳群と違って、実際に登ることのできる古墳が多いのが特徴です。
特に古室山古墳は、おススメで、古市古墳群を回るコースの中で、休憩するのに絶好です。ぜひ、南側の後円部から登って、景色を楽しんでください。

↓古室山古墳に登る途中から頂上を見上げる。
f0140054_20344891.jpg
↓古室山古墳の頂上よりの風景 はるかに、あべのハルカスが見えますね。
f0140054_19590963.jpg
古室山古墳の自然も良いものです。下は木に生えていたキノコ

f0140054_20005802.jpg


古室山古墳の謎はもうひとつあります。
白石先生の古市古墳群の編年図表によると、古室山古墳は古市古墳群の中では初期の造営で、ほぼ津堂城山古墳とほぼ同じような時期に位置付けられています。


ところが、古室山古墳の様式は古い形で、その周濠は墳丘に沿って前方後円形をしています。この形は、前期の前方後円墳によくみられるもので、出土した壷形埴輪も古い形式を表わしています。
津堂城山古墳になると、周濠は盾形となり、造出しや二重濠という新形式になります。これ以降の巨大古墳の周濠はすべて盾形です。


↓古室山古墳と隣接する仲津山古墳の周濠と墓域

f0140054_20020416.jpg
↑この赤の周濠と、緑の墓域は、私がフリーハンドで描いたものです。


これは一体何を意味しているのでしょうか?

天野末喜氏は、「大和政権が河内地域を領有」した際に征服された在地首長が葬られていると考えています。(『古室山・大鳥塚古墳』藤井寺市教育委員会事務局 2017 168頁)


逆に、白石太一郎教授は、河内を含むヤマト王権内部から河内政権が有力となっていく証拠であると考えています。


「筆者(白石太一郎氏のこと)は、ヤマト王権の本来の地域的基盤は畿内全体ではなく、その南の大和川水系及びその周辺、すなわち後の大和・河内(北河内をのぞく)・和泉の地域であったと考えている。それは、まさに大和・河内(和泉を含む)連合にほかならなかったのである。おそらくこの範囲は邪馬台国の原領域でもあったのではないだろうか。(『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』大阪府立近つ飛鳥博物館図録60 2013 13~14頁))


私は、後者の白石先生の考え方を支持するものです。


私は、古市古墳群に先行する河内の玉手山古墳群を築いた集団は、決して大和の政権と対立する勢力ではなく、むしろ大和の政権を支えるもっとも有力な集団だったと思います。大和川水運を掌握し、一番大切な西への出口を押さえ、佐紀古墳群の政権一族とも交流したのでしょう。

オオヤマトすなわち原ヤマト国家は、箸墓や柳本古墳群のある場所を中心としますが、そこだけで成立したのではありません。周辺の地域から支持された連合国家(卑弥呼や台与の共立という事実があります)でした。白石先生が述べるように、大和・河内連合を基盤とした体制だったのです。

もともとヤマト政権というのは、邪馬台国時代からずっと大和川水系が中心でした。古市古墳群のある河内は、大和川を下って河内湖に出ていく要所であり、最重要拠点です。
地形的には、大和川が金剛生駒山脈を穿った渓谷=ボトルネックから大阪平野に広がるポイントで、畿内から瀬戸内へ西日本へ、さらには半島・大陸への門戸を確保できる場所です。


ここにすでに古来よりヤマト政権の機関が置かれており、その機関を担ってきた集団が在地勢力と融合し、佐紀古墳群の王権血縁者とも交流していく中で有力となったのが河内政権です。(したがって、私は、津堂城山古墳の段階で大和政権が河内を征服したとする天野末喜氏の説を支持しないのです。もともと大和政権というのは河内勢力との連合政権であったのです。)

また、その大和川が金剛生駒山脈につきあたる奈良県側のポイントに栄えたのが葛城氏で、馬見古墳群があります。葛城氏は応神王朝期に多くの皇后を輩出し、河内集団とも強いつながりを持ちました。


その河内集団のトップで、私が仲哀天皇にあたる人物と考える津堂城山古墳の被葬者は、河内地域をおさえ、西方諸集団との関係を構築することによって、王権内部での地位を高め、佐紀古墳群の姫(神功皇后)と婚姻し、佐紀勢力同士の権力争いを制し大王クラスになったのです。


その次代にあたる仲津山古墳の被葬者=応神天皇にあたる人物は、ついに佐紀政権に代わる強力な大王として河内政権をゆるぎないものにします。その次の仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘である磐之媛命を皇后として履中・反正・允恭の皇子を成しました。このことは、応神系の政権が佐紀古墳群の集団より、馬見古墳群の葛城氏系の集団を盟友とし、提携重点をそこに移していったことを意味しています。

↓大和川水系に集中する巨大古墳群

f0140054_09274599.jpg
↑ご覧のように、奈良盆地の大和川水系が古ヤマトの場所ですが、大和川が西の山脈に当たる場所に馬見古墳群があり、そこから山脈を出て大阪平野に出る場所に古市古墳群があります。
また、奈良盆地の北で大和川水系の北部には佐紀古墳群があり、山城・近江方面の淀川水系と接しています。
こうした大和川水系の重要地点に、政権が移り変わり、巨大古墳が築かれたわけですが、これはまたヤマト政権が大和~河内地方を基盤とする連合の政権であったことを示しています。



さて、津堂城山古墳の被葬者は、河内政権で最初に大王クラスとなった人物です。そこで自らの墳墓は、二重の盾形周濠・周堤、造出し、巨大石棺、水鳥形埴輪など新企画で豪華なものとしました。
この時期、巨大な大王墓クラスの古墳ほど新しい装いで登場し、逆に中規模以下の前方後円墳は、旧の伝統的な形態である例が多いのです。その中規模古墳の代表が、古室山古墳であり続いて造られた野中宮山古墳です。


古室山古墳は、大王たる津堂城山古墳の被葬者の下の、有力家臣クラスの墳墓であり、旧来の形態の古墳を希望した人物が葬られていると考えます。多分、老臣といったイメージの被葬者像が浮かびます。


次の世代になると、巨大な仲津山古墳という大王墓が築かれます。
この巨大古墳は、国府台地の最高地点に造られるのですが、そこにはすでに先代の老臣の墳墓である古室山古墳がありました。そこで異例ですが、前方部を接した形で、仲津山古墳が誕生したのです。

古室山古墳と非常に接近させる形にはなりますが、あえてそうしてまでも、国府台地の最高地点に造営することを選んだのです。これには、最も良い場所を使うという大王の強い意志が感じられます。

前に、仲姫命陵古墳の真の被葬者は誰か? という記事で書きましたように、この最重要地に造営された仲津山古墳の被葬者としては、応神天皇にあたる人物以外には考えられないと思います。



本記事を書くに際して、特に参考にした書籍は以下の三冊です。

f0140054_20301838.jpg





Travel.jpの旅行ガイド記事もよろしく!


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。



2018年 08月 14日 |

近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。

駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。

このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。

↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。

f0140054_08152292.jpg

私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。


もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。


↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。

f0140054_09051508.jpg

これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。

f0140054_09374548.jpg

仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。

これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。

f0140054_09391379.jpg
白石氏らの研究によると、この古墳は造営当時は外溝などを含めた墓域が非常に広く、300mをこえ、当時としては日本最大の墓域を誇る古墳でした。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。

f0140054_18591874.jpg
つまり、この巨大古墳は、河内政権初期の大王級の墳墓であることは間違いありません。


4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。


現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。



「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。

「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、そこからより大胆に推理します。

継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。


すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。

確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。


仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。

f0140054_19244202.jpg

そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。

応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。

この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?

記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。


応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。

ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。


すなわち、仲哀天皇にあたる応神天皇の父が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。


記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。


記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。

f0140054_09094434.jpg

上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。


私の推理は以下のとおりです。

まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。


ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。


続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。

最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。

以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。



Travel.jpの旅行ガイド記事もよろしく!




にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。



2018年 08月 06日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!」という記事が公開されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、期待が高まっている古市古墳群を紹介する記事です。古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて地味ではありますが、魅力的な古墳が多数分布していますので、ぜひ、ご覧ください。






拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、古市古墳群について少し詳しく書いてみます。



古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて複雑で、やや分かりにくいです。古墳の案内標識類もまだ完全に整備されておらず、特に小型古墳が見つけるのに結構、苦労します。


入門コースは近鉄南大阪線土師ノ里駅から古市駅にかけてほぼ南へ歩く分かりやすい道筋になりますので、これをまず紹介することにします。


まず、出発は土師ノ里駅北側の信号を渡って下ったところにある、允恭天皇陵古墳です。

f0140054_18554388.jpg

允恭天皇陵は、墳丘長230mで古市古墳群としては4番目の大きさの古墳です。5世紀中~後期に造られたもので、市野山古墳とも呼ばれています。
駅に近いので現在は住宅に取り囲まれていますが、濠をはさんで巨大な墳丘が見られる存在感のある古墳です。

f0140054_18555842.jpg
↑允恭天皇陵こと市野山古墳は、思ったより巨大で存在感のある古墳でした。造営年代だけでなく、つくりから見ても、これが本物の允恭天皇陵の古墳であっても問題ないなあ・・・というのが近くで見た実感でした。


↓允恭天皇陵の周囲を歩いて行くと、途中で綺麗な花が咲いていました。こういうのも古墳散策の楽しみです。

f0140054_18564065.jpg
↓宮の南塚古墳 この古墳は允恭天皇陵の陪塚で、こんもりした小山のようでした。

f0140054_18565887.jpg
↓国府八幡神社 宮の南塚古墳の北隣にある神社です。

f0140054_18571489.jpg
f0140054_18571721.jpg

↓潮音寺 国府八幡神社の北隣にある寺です。

f0140054_18573949.jpg
↓土師ノ里駅へ戻ってくる途中撮影した唐櫃山古墳

f0140054_18580358.jpg
↑この古墳は工事現場のようでした。これから整備されるそうです。


↓土師ノ里駅の西側の信号を渡ると、こんもりした一辺63mの方墳である鍋塚古墳があります。

f0140054_18582603.jpg
↓鍋塚古墳の説明板

f0140054_18585616.jpg
↑この古墳は仲姫命陵古墳の陪塚の可能性が高く、上まで階段がありますので、登って展望を楽しめます。次に向かう仲姫命陵古墳が目の前に聳えています。


↓鍋塚古墳の頂上から見る仲姫命陵古墳・・・なんとも巨大に見えます。

f0140054_18591874.jpg






にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。



2018年 07月 22日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「大阪に世界遺産を!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう」という記事が掲載されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、古墳カードを作り古墳に興味を持ってもらおうという行政の取り組みですが、私も古墳カード記事を書いて、民間から支援しようとするものです。ぜひ、ご覧ください。





拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、大仙公園の小型古墳について少し詳しく書いてみます。



古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚など小型古墳を見て回ることにあります。
ただ、むやみに散策するだけでなく、古墳カードを集めて行けば、楽しく歩けます。

いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、その規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓古墳カード MOZU-FURU CARD 全60種あります。

f0140054_09013910.jpg
私は百舌鳥古墳群については全ての古墳カードをコンプリートしていますが、古市古墳群についてはまだ全部に行けていません。古市古墳群の小さな古墳については標識が整備されておらず、住宅街の中に点在することもあり、場所が分かりにくいものが多いからです。


ということで、とりあえずは百舌鳥古墳を小さな古墳を紹介します。


前回~百舌鳥古墳群を歩く(2)~で、大仙陵古墳の陪塚を紹介しましたので、今日は大仙公園内に点在する小さな古墳たちです。



↓前回紹介した長塚古墳の裏側にあたる大仙公園東部にあるのが、鳶塚古墳。ここは古墳というより盛り土という感じです。

f0140054_09033191.jpg
↓鳶塚古墳から南へ歩くと原山古墳があります。これもやや大きな盛り土という感じで目立ちません。

f0140054_09035245.jpg


↓原山古墳の説明:失われた古墳をイメージして造られたものですね。したがってこの古墳には古墳カードはありません。

f0140054_09043615.jpg
f0140054_12401549.jpg

↓大仙公園は生き物の宝庫。美しい蛾も翅を休めていました。

f0140054_09045383.jpg
↓原山古墳から大仙公園を横断した場所にあるのがグワショウ坊古墳(円墳)

f0140054_09051337.jpg
↓「ぐわしょう坊古墳林のすがた」という説明看板 植物の遷移のことがよく分かります

f0140054_09052981.jpg
↓グワショウ坊古墳の西側隣にある旗塚古墳

f0140054_09054439.jpg
↓旗塚古墳の説明板

f0140054_09060051.jpg
↓旗塚古墳の西側を少し歩き、道を渡ったところにある寺山南山古墳(方墳)

f0140054_09061535.jpg
↓寺山南山古墳の説明板 寺山南山古墳はゲートボール場があって近くで見れません。

f0140054_09063680.jpg
↓最後は寺山南山古墳の向かい側にある七観音古墳

f0140054_09070123.jpg
↓七観音古墳の説明板

f0140054_09071907.jpg





にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。



2018年 06月 15日 |

古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚(陪冢・ばいちょう)など小型古墳を見て回ることにあります。
いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、それぞれの規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓まずJR百舌鳥駅を降りると、線路をまたいで陸橋がありますので、そこに登って大仙陵古墳の森を見てみます。

f0140054_08515937.jpg
↑最近、ピンク色の大きな建物ができたので、残念ながら大仙陵古墳の森はよく見えなくなりました。以前はもう少し良く見えたのですが・・・・やはり巨大古墳を上から見れないというのが問題ですね。


陸橋を渡らずに戻り、西へ少し歩くと大仙陵古墳の拝所へ至りますが、途中に二基の小型古墳があります。


↓まず駅前広場のようになっている古墳が収塚古墳(おさめづかこふん)です。

f0140054_08532772.jpg
f0140054_08534812.jpg
f0140054_08540506.jpg

この古墳の濠内などから、須恵器の土台や円筒埴輪、朝顔形埴輪、衣笠形埴輪などが出土しており、築造は5世紀中頃と推定されています。
時期的にも場所的にも、大仙陵古墳の付属墓の陪塚であることは間違いありません。


↓収塚古墳の前は広場になっており、カラー舗装で失われた前方部が形取られています。

f0140054_08543017.jpg
↓広場の前には、お土産ショップもず庵があります。

f0140054_08545825.jpg
↓収塚古墳の道路をはさんだ向かい側を南へ50mくらい行くと長塚古墳があります。

f0140054_08570293.jpg
長塚古墳は住宅に囲まれており、一部からしか墳丘を見られません。墳丘長が106.4mもあり、場所的にもやや離れていることから、大仙陵古墳の陪塚ではないようです。


↓この古墳にある石柱は、史跡長山古墳となっています。

f0140054_08575180.jpg
↑これは、1920年に仮指定された時の名称で。1958年に文化財保護法による史跡指定の際に長塚古墳に改められたのです。


↓経過を示した説明板

f0140054_08581012.jpg
↓収塚古墳に戻ると西側に観光用有料駐車場があります。その北側に遊歩道があり、大仙陵古墳の三重目の濠を近くで見られます。

f0140054_08585742.jpg
↓大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の拝所 神主さんが座って祈っておられました。

f0140054_08591829.jpg
↓拝所の正面 道路を挟みますが真ん前にあるのが孫大夫古墳です。

f0140054_08593751.jpg
f0140054_08595081.jpg

↑この古墳は大仙陵古墳の中心線上にあり、時期的にも合うことから、大仙陵古墳の陪塚として最も重要なものです。


孫大夫古墳は帆立貝形の前方後円墳で、墳頂から勾玉が出土したことから、私見では、大仙陵古墳被葬者の女性の近親が葬られていると予想します。大王の寵愛した側室という可能性もありますね。


↓孫大夫古墳横の池に咲いていたスイレン

f0140054_09002126.jpg
↓孫大夫古墳の西側50mにある竜佐山古墳

f0140054_09015607.jpg
f0140054_09021085.jpg

竜佐山古墳は、孫大夫古墳より新しく5世紀後半の築造です。したがって、大王没後しばらく時間を経過してから死んだ大王関係者が葬られていると思います。


↓竜佐山古墳北側の車道沿いの歩道が少し高く立体的になっているので、古墳墳形が見やすくなっています。前方部角を撮影しました。

f0140054_09033963.jpg
↓竜佐山古墳の濠にいたアオサギ

f0140054_09041605.jpg
↓竜佐山古墳の西側にある狐山古墳

f0140054_09044960.jpg

狐山古墳は、直径約27mの円墳で、位置的に大仙陵古墳の陪塚でない可能性もあります。

f0140054_09051755.jpg
f0140054_09053525.jpg

↓狐山古墳の北側、車道を渡って大仙陵古墳の周遊歩道に入ったところにある銅亀山古墳

f0140054_09061291.jpg
銅亀山古墳は、百舌鳥古墳群としては珍しい方墳で、一辺が約26mの正方形ですが、最近の発掘調査の結果、帆立貝型古墳あるいは前方後方墳の可能性もあるとされています。5世紀中頃の築造で、大仙陵古墳の陪塚であることは確実です。


この記事を書くため、リハビリを兼ねて百舌鳥野へ撮影に行ってきたのですが、杖をついているので大型カメラでの両手撮影は出来ませんでした。コンパクトデジカメの片手撮影ですので、厳密な構図や水平線がとれておりませんが、ご容赦願います。





Travel.jpの旅行ガイド記事もよろしく!








にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。



PageTop
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Starwort Skin by Sun&Moon