模糊の旅人
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2018年 10月 15日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう」という記事が公開されました。
いわゆる三輪王朝といわれる日本最初の統一政権が出現した古墳群を歩く記事です。ここを、邪馬台国の中心地とする説が有力になりつつあり、まさに日本の夜明けを告げる地域ですので、ぜひお読みください。





本ブログでもタイアップしてオオヤマト古墳群の記事を書いていきます。
ただ、上のトラベルジェイピーの記事は、旅行ガイド記事ですので、歩く順番に紹介していますが、本ブログでは造営順(時代順)にたどり、私の邪馬台国から大和朝廷への被葬者比定説を述べます。


なお、間に旅行記事を挟みますので、断続的な記事展開となりますので、ご承知おきください。


まずは、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳です。

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奈良盆地の東南部、現在の桜井市から天理市にまたがる一帯は、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」と歌われた古代日本の夜明けを告げる場所です。

このヤマトの中のヤマトとされる一帯は、古来よりヤマトと呼ばれており、大和=オオヤマト古墳群地域とされます。
古墳群の定義は学者により異なりますが、邪馬台国から初期大和朝廷への発展を一体と考え、奈良盆地東南部の古墳全体をまとめてオオヤマト古墳群として捉える白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の学説を私は支持します。


このオオヤマト古墳群で巨大前方後円墳が誕生しました。すなわち、日本で最も古い巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、卑弥呼の墓の可能性が最も高いのです。


箸墓古墳の航空写真は、こちら の記事の最初の写真をご覧ください。とても美しい形をした前方後円墳であることが分かります。


↓箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の拝所 西側にあります。

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もしかすると卑弥呼が葬られているわけですから、箸墓古墳の前に立つと胸が高まります。ここはまさに古代史ファンの聖地です。


東側に回って、箸墓古墳を一周します。北側以外は濠はなく、地面から直接古墳が立ち上がっています。

ただし、奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の調査では、幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性が高いとされています。

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北側には「卑弥呼の庭」というカフェもできていました。
北側の池は、「箸中大池」として日本ため池百選にも選ばれています。

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箸墓古墳は、墳丘長278mの出現期古墳中の最古の巨大墓で、三世紀後半の築造と考えられます。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とする有力な学説があります。宮内庁の正式名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。日本書紀には「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。」と書かれています。このヤマトトトモモソソヒメは、孝霊天皇の皇女で、三輪山の神と婚姻した伝説的な巫女とされ、祟神天皇は巫女であるヤマトトトモモソソヒメの神託を聞いて政治を行なったとあります。


この古墳は、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えます。
根拠については、以前書いた記事を、下の More に再々掲してみましたので、ご興味のある方は More をクリックしてお読みください。

なお、私は白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の講義や講演を何度も聞きに行っています。館長の主張は一貫していますので、箸墓古墳の被葬者に関して述べられている部分を以下に引用しておきます。

倭国王墓として最初の箸墓古墳は、大型前方後円墳としては最古のもので、3世紀中葉に遡る。その被葬者の候補として卑弥呼以外の人物を考えるのは難しい」(白石太一郎講演レジメ「邪馬台国連合から初期ヤマト王権へ」より抜粋)



箸墓古墳から北へ巻向駅の方へ歩くと、邪馬台国の宮殿跡ではないかとされる纏向遺跡があります。弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地として、現在も発掘調査が進められています。

この遺跡を邪馬台国の首都に比定する説が有力になりつつあります。王宮的な建物跡が発掘され、話題となりました。

最近は、桃のタネ約2000個以上が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようで、炭素年代測定法の計測により西暦135~230年のものであるという研究発表があり、邪馬台国の時代に整合します。

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↑航空写真をご覧ください。奥にある山が聖地:三輪山、右端の大きな古墳が箸墓古墳、左端の団地の右上にある空地が纏向遺跡の中心です。この位置関係が重要で、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。







さて、中国東北地方いわゆる旧・満州の地へ旅に出ることになりました。
関空の台風被害で一度中止した旅ですが、関空が復旧しましたので再チャレンジすることにしました。


10月上旬は非常に多忙でしたので、10月中旬の出発となりました。目的のひとつであるレッドビーチの取材は、一ケ月遅れましたので、もう枯れてしまっているかも知れません。


ただ、どうしても今年に行きたいという思いがあり、挙行することにしたものです。


もうひとつの目的である、私自身の祖父が満鉄社員として赴任し家族(私の父や祖母・伯父・叔母など)とともに住んだ地を見るということは、果たせそうです。


無理したせいか、風邪気味で体調が思わしくないのですが、もうこれ以上順延はできませんので、頑張って行ってきます。


それに伴い、ブログの更新も二週間ほど休ませていただきます。


次のブログ更新は、10月の月末頃になります。
それでは、皆さん、しばらくのあいだ、ごきげんよう!





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More  箸墓古墳は卑弥呼の墓である
2018年 08月 30日 |

仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)の拝所の向かい側、前方部を向き合わせる形で中型の古墳があります。これが古室山古墳で、全長約150mもある結構迫力ある前方後円墳です。

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このような前方部を接近させて位置する中大型の古墳同士の配置というのは、百舌鳥・古市古墳群では他に例がありません。
これは不思議なことです。

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古室山古墳は皇族墳墓に治定されていないので、これまで発掘され詳しい研究書も発刊されています。
1986年の調査では、後円部から葺石が多量に見つかりました。その状況が下の写真です。
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古市古墳群は、百舌鳥古墳群と違って、実際に登ることのできる古墳が多いのが特徴です。
特に古室山古墳は、おススメで、古市古墳群を回るコースの中で、休憩するのに絶好です。ぜひ、南側の後円部から登って、景色を楽しんでください。

↓古室山古墳に登る途中から頂上を見上げる。
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↓古室山古墳の頂上よりの風景 はるかに、あべのハルカスが見えますね。
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古室山古墳の自然も良いものです。下は木に生えていたキノコ

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古室山古墳の謎はもうひとつあります。
白石先生の古市古墳群の編年図表によると、古室山古墳は古市古墳群の中では初期の造営で、ほぼ津堂城山古墳とほぼ同じような時期に位置付けられています。


ところが、古室山古墳の様式は古い形で、その周濠は墳丘に沿って前方後円形をしています。この形は、前期の前方後円墳によくみられるもので、出土した壷形埴輪も古い形式を表わしています。
津堂城山古墳になると、周濠は盾形となり、造出しや二重濠という新形式になります。これ以降の巨大古墳の周濠はすべて盾形です。


↓古室山古墳と隣接する仲津山古墳の周濠と墓域

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↑この赤の周濠と、緑の墓域は、私がフリーハンドで描いたものです。


これは一体何を意味しているのでしょうか?

天野末喜氏は、「大和政権が河内地域を領有」した際に征服された在地首長が葬られていると考えています。(『古室山・大鳥塚古墳』藤井寺市教育委員会事務局 2017 168頁)


逆に、白石太一郎教授は、河内を含むヤマト王権内部から河内政権が有力となっていく証拠であると考えています。


「筆者(白石太一郎氏のこと)は、ヤマト王権の本来の地域的基盤は畿内全体ではなく、その南の大和川水系及びその周辺、すなわち後の大和・河内(北河内をのぞく)・和泉の地域であったと考えている。それは、まさに大和・河内(和泉を含む)連合にほかならなかったのである。おそらくこの範囲は邪馬台国の原領域でもあったのではないだろうか。(『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』大阪府立近つ飛鳥博物館図録60 2013 13~14頁))


私は、後者の白石先生の考え方を支持するものです。


私は、古市古墳群に先行する河内の玉手山古墳群を築いた集団は、決して大和の政権と対立する勢力ではなく、むしろ大和の政権を支えるもっとも有力な集団だったと思います。大和川水運を掌握し、一番大切な西への出口を押さえ、佐紀古墳群の政権一族とも交流したのでしょう。

オオヤマトすなわち原ヤマト国家は、箸墓や柳本古墳群のある場所を中心としますが、そこだけで成立したのではありません。周辺の地域から支持された連合国家(卑弥呼や台与の共立という事実があります)でした。白石先生が述べるように、大和・河内連合を基盤とした体制だったのです。

もともとヤマト政権というのは、邪馬台国時代からずっと大和川水系が中心でした。古市古墳群のある河内は、大和川を下って河内湖に出ていく要所であり、最重要拠点です。
地形的には、大和川が金剛生駒山脈を穿った渓谷=ボトルネックから大阪平野に広がるポイントで、畿内から瀬戸内へ西日本へ、さらには半島・大陸への門戸を確保できる場所です。


ここにすでに古来よりヤマト政権の機関が置かれており、その機関を担ってきた集団が在地勢力と融合し、佐紀古墳群の王権血縁者とも交流していく中で有力となったのが河内政権です。(したがって、私は、津堂城山古墳の段階で大和政権が河内を征服したとする天野末喜氏の説を支持しないのです。もともと大和政権というのは河内勢力との連合政権であったのです。)

また、その大和川が金剛生駒山脈につきあたる奈良県側のポイントに栄えたのが葛城氏で、馬見古墳群があります。葛城氏は応神王朝期に多くの皇后を輩出し、河内集団とも強いつながりを持ちました。


その河内集団のトップで、私が仲哀天皇にあたる人物と考える津堂城山古墳の被葬者は、河内地域をおさえ、西方諸集団との関係を構築することによって、王権内部での地位を高め、佐紀古墳群の姫(神功皇后)と婚姻し、佐紀勢力同士の権力争いを制し大王クラスになったのです。


その次代にあたる仲津山古墳の被葬者=応神天皇にあたる人物は、ついに佐紀政権に代わる強力な大王として河内政権をゆるぎないものにします。その次の仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘である磐之媛命を皇后として履中・反正・允恭の皇子を成しました。このことは、応神系の政権が佐紀古墳群の集団より、馬見古墳群の葛城氏系の集団を盟友とし、提携重点をそこに移していったことを意味しています。

↓大和川水系に集中する巨大古墳群

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↑ご覧のように、奈良盆地の大和川水系が古ヤマトの場所ですが、大和川が西の山脈に当たる場所に馬見古墳群があり、そこから山脈を出て大阪平野に出る場所に古市古墳群があります。
また、奈良盆地の北で大和川水系の北部には佐紀古墳群があり、山城・近江方面の淀川水系と接しています。
こうした大和川水系の重要地点に、政権が移り変わり、巨大古墳が築かれたわけですが、これはまたヤマト政権が大和~河内地方を基盤とする連合の政権であったことを示しています。



さて、津堂城山古墳の被葬者は、河内政権で最初に大王クラスとなった人物です。そこで自らの墳墓は、二重の盾形周濠・周堤、造出し、巨大石棺、水鳥形埴輪など新企画で豪華なものとしました。
この時期、巨大な大王墓クラスの古墳ほど新しい装いで登場し、逆に中規模以下の前方後円墳は、旧の伝統的な形態である例が多いのです。その中規模古墳の代表が、古室山古墳であり続いて造られた野中宮山古墳です。


古室山古墳は、大王たる津堂城山古墳の被葬者の下の、有力家臣クラスの墳墓であり、旧来の形態の古墳を希望した人物が葬られていると考えます。多分、老臣といったイメージの被葬者像が浮かびます。


次の世代になると、巨大な仲津山古墳という大王墓が築かれます。
この巨大古墳は、国府台地の最高地点に造られるのですが、そこにはすでに先代の老臣の墳墓である古室山古墳がありました。そこで異例ですが、前方部を接した形で、仲津山古墳が誕生したのです。

古室山古墳と非常に接近させる形にはなりますが、あえてそうしてまでも、国府台地の最高地点に造営することを選んだのです。これには、最も良い場所を使うという大王の強い意志が感じられます。

前に、仲姫命陵古墳の真の被葬者は誰か? という記事で書きましたように、この最重要地に造営された仲津山古墳の被葬者としては、応神天皇にあたる人物以外には考えられないと思います。



本記事を書くに際して、特に参考にした書籍は以下の三冊です。

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2018年 08月 14日 |

近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。

駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。

このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。

↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。

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私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。


もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。


↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。

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これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。

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仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。

これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。

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白石氏らの研究によると、この古墳は造営当時は外溝などを含めた墓域が非常に広く、300mをこえ、当時としては日本最大の墓域を誇る古墳でした。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。

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つまり、この巨大古墳は、河内政権初期の大王級の墳墓であることは間違いありません。


4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。


現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。



「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。

「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、そこからより大胆に推理します。

継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。


すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。

確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。


仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。

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そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。

応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。

この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?

記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。


応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。

ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。


すなわち、仲哀天皇にあたる応神天皇の父が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。


記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。


記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。

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上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。


私の推理は以下のとおりです。

まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。


ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。


続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。

最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。

以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。



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2018年 08月 06日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!」という記事が公開されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、期待が高まっている古市古墳群を紹介する記事です。古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて地味ではありますが、魅力的な古墳が多数分布していますので、ぜひ、ご覧ください。






拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、古市古墳群について少し詳しく書いてみます。



古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて複雑で、やや分かりにくいです。古墳の案内標識類もまだ完全に整備されておらず、特に小型古墳が見つけるのに結構、苦労します。


入門コースは近鉄南大阪線土師ノ里駅から古市駅にかけてほぼ南へ歩く分かりやすい道筋になりますので、これをまず紹介することにします。


まず、出発は土師ノ里駅北側の信号を渡って下ったところにある、允恭天皇陵古墳です。

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允恭天皇陵は、墳丘長230mで古市古墳群としては4番目の大きさの古墳です。5世紀中~後期に造られたもので、市野山古墳とも呼ばれています。
駅に近いので現在は住宅に取り囲まれていますが、濠をはさんで巨大な墳丘が見られる存在感のある古墳です。

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↑允恭天皇陵こと市野山古墳は、思ったより巨大で存在感のある古墳でした。造営年代だけでなく、つくりから見ても、これが本物の允恭天皇陵の古墳であっても問題ないなあ・・・というのが近くで見た実感でした。


↓允恭天皇陵の周囲を歩いて行くと、途中で綺麗な花が咲いていました。こういうのも古墳散策の楽しみです。

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↓宮の南塚古墳 この古墳は允恭天皇陵の陪塚で、こんもりした小山のようでした。

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↓国府八幡神社 宮の南塚古墳の北隣にある神社です。

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↓潮音寺 国府八幡神社の北隣にある寺です。

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↓土師ノ里駅へ戻ってくる途中撮影した唐櫃山古墳

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↑この古墳は工事現場のようでした。これから整備されるそうです。


↓土師ノ里駅の西側の信号を渡ると、こんもりした一辺63mの方墳である鍋塚古墳があります。

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↓鍋塚古墳の説明板

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↑この古墳は仲姫命陵古墳の陪塚の可能性が高く、上まで階段がありますので、登って展望を楽しめます。次に向かう仲姫命陵古墳が目の前に聳えています。


↓鍋塚古墳の頂上から見る仲姫命陵古墳・・・なんとも巨大に見えます。

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2018年 07月 22日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「大阪に世界遺産を!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう」という記事が掲載されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、古墳カードを作り古墳に興味を持ってもらおうという行政の取り組みですが、私も古墳カード記事を書いて、民間から支援しようとするものです。ぜひ、ご覧ください。





拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、大仙公園の小型古墳について少し詳しく書いてみます。



古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚など小型古墳を見て回ることにあります。
ただ、むやみに散策するだけでなく、古墳カードを集めて行けば、楽しく歩けます。

いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、その規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓古墳カード MOZU-FURU CARD 全60種あります。

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私は百舌鳥古墳群については全ての古墳カードをコンプリートしていますが、古市古墳群についてはまだ全部に行けていません。古市古墳群の小さな古墳については標識が整備されておらず、住宅街の中に点在することもあり、場所が分かりにくいものが多いからです。


ということで、とりあえずは百舌鳥古墳を小さな古墳を紹介します。


前回~百舌鳥古墳群を歩く(2)~で、大仙陵古墳の陪塚を紹介しましたので、今日は大仙公園内に点在する小さな古墳たちです。



↓前回紹介した長塚古墳の裏側にあたる大仙公園東部にあるのが、鳶塚古墳。ここは古墳というより盛り土という感じです。

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↓鳶塚古墳から南へ歩くと原山古墳があります。これもやや大きな盛り土という感じで目立ちません。

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↓原山古墳の説明:失われた古墳をイメージして造られたものですね。したがってこの古墳には古墳カードはありません。

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↓大仙公園は生き物の宝庫。美しい蛾も翅を休めていました。

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↓原山古墳から大仙公園を横断した場所にあるのがグワショウ坊古墳(円墳)

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↓「ぐわしょう坊古墳林のすがた」という説明看板 植物の遷移のことがよく分かります

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↓グワショウ坊古墳の西側隣にある旗塚古墳

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↓旗塚古墳の説明板

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↓旗塚古墳の西側を少し歩き、道を渡ったところにある寺山南山古墳(方墳)

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↓寺山南山古墳の説明板 寺山南山古墳はゲートボール場があって近くで見れません。

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↓最後は寺山南山古墳の向かい側にある七観音古墳

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↓七観音古墳の説明板

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2018年 06月 15日 |

古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚(陪冢・ばいちょう)など小型古墳を見て回ることにあります。
いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、それぞれの規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓まずJR百舌鳥駅を降りると、線路をまたいで陸橋がありますので、そこに登って大仙陵古墳の森を見てみます。

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↑最近、ピンク色の大きな建物ができたので、残念ながら大仙陵古墳の森はよく見えなくなりました。以前はもう少し良く見えたのですが・・・・やはり巨大古墳を上から見れないというのが問題ですね。


陸橋を渡らずに戻り、西へ少し歩くと大仙陵古墳の拝所へ至りますが、途中に二基の小型古墳があります。


↓まず駅前広場のようになっている古墳が収塚古墳(おさめづかこふん)です。

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この古墳の濠内などから、須恵器の土台や円筒埴輪、朝顔形埴輪、衣笠形埴輪などが出土しており、築造は5世紀中頃と推定されています。
時期的にも場所的にも、大仙陵古墳の付属墓の陪塚であることは間違いありません。


↓収塚古墳の前は広場になっており、カラー舗装で失われた前方部が形取られています。

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↓広場の前には、お土産ショップもず庵があります。

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↓収塚古墳の道路をはさんだ向かい側を南へ50mくらい行くと長塚古墳があります。

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長塚古墳は住宅に囲まれており、一部からしか墳丘を見られません。墳丘長が106.4mもあり、場所的にもやや離れていることから、大仙陵古墳の陪塚ではないようです。


↓この古墳にある石柱は、史跡長山古墳となっています。

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↑これは、1920年に仮指定された時の名称で。1958年に文化財保護法による史跡指定の際に長塚古墳に改められたのです。


↓経過を示した説明板

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↓収塚古墳に戻ると西側に観光用有料駐車場があります。その北側に遊歩道があり、大仙陵古墳の三重目の濠を近くで見られます。

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↓大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の拝所 神主さんが座って祈っておられました。

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↓拝所の正面 道路を挟みますが真ん前にあるのが孫大夫古墳です。

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↑この古墳は大仙陵古墳の中心線上にあり、時期的にも合うことから、大仙陵古墳の陪塚として最も重要なものです。


孫大夫古墳は帆立貝形の前方後円墳で、墳頂から勾玉が出土したことから、私見では、大仙陵古墳被葬者の女性の近親が葬られていると予想します。大王の寵愛した側室という可能性もありますね。


↓孫大夫古墳横の池に咲いていたスイレン

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↓孫大夫古墳の西側50mにある竜佐山古墳

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竜佐山古墳は、孫大夫古墳より新しく5世紀後半の築造です。したがって、大王没後しばらく時間を経過してから死んだ大王関係者が葬られていると思います。


↓竜佐山古墳北側の車道沿いの歩道が少し高く立体的になっているので、古墳墳形が見やすくなっています。前方部角を撮影しました。

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↓竜佐山古墳の濠にいたアオサギ

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↓竜佐山古墳の西側にある狐山古墳

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狐山古墳は、直径約27mの円墳で、位置的に大仙陵古墳の陪塚でない可能性もあります。

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↓狐山古墳の北側、車道を渡って大仙陵古墳の周遊歩道に入ったところにある銅亀山古墳

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銅亀山古墳は、百舌鳥古墳群としては珍しい方墳で、一辺が約26mの正方形ですが、最近の発掘調査の結果、帆立貝型古墳あるいは前方後方墳の可能性もあるとされています。5世紀中頃の築造で、大仙陵古墳の陪塚であることは確実です。


この記事を書くため、リハビリを兼ねて百舌鳥野へ撮影に行ってきたのですが、杖をついているので大型カメラでの両手撮影は出来ませんでした。コンパクトデジカメの片手撮影ですので、厳密な構図や水平線がとれておりませんが、ご容赦願います。





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2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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2018年 06月 03日 |

今回は、マルタ考古学博物館の最終回で、フェニキア人遺跡とコインコレクション です。


紀元前1000年頃、現レバノン方面から渡ってきたフェニキア人がマルタを支配します。この時代の遺物も三階奥に展示されており、その特徴的な品物に驚かされます。中でもアルファベットの起源となったとされるフェニキア文字の石碑は貴重なものです。


↓フェニキア文字の石碑文

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フェニキア語は北セム語系です。いっぽう、フェニキア文字は、ギリシア文字のルーツとなり、やがてアルファベットとなります。後のヘブライ文字やアラビア文字の元になったのはもちろんですが、ブラーフミー文字を介してインドやチベット・モンゴル・東南アジアの諸文字へと変化したと考えられます。


有力な説によると、今日世界で使われている全ての文字体系のうち、ほとんどがフェニキア文字を起源としており、漢字とその派生文字体系(日本語など)のみが別の独立の起源を持っているとされます。ハングルはフェニキア文字系や漢字系を参照して新造創出された文字なので両系の子孫ともいえます。(滅んだ完全独立発生文字としてはシュメール文字やマヤ文字など)


↓フェニキア碑文の説明

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フェニキア人は、謎の多い民族で、現在のレバノン~イスラエルあたりが出自と思われます。いわゆるカナンの地の一画を占めていました。(先祖は紅海あるいは小アジアに住んでいたともいわれる)
紀元前15世紀頃に都市国家を築き、やがて、レバノン杉で造った船で地中海世界全域に進出し、イベリア半島から北アフリカ西岸までに至り、交易活動によりアルファベットなどの古代オリエント文明を地中海世界に伝えました。
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やがて、フェニキア本土はアッシリアやアケメネス朝ペルシアに服属し、アレクサンドロス大王により滅ぼされました。しかし、現チュニジアに築かれた植民都市カルタゴは、西地中海世界の中心として長く繁栄し、初期の共和制ローマと覇を競いました。マルタ島は、カルタゴのすぐ近くなので、紀元前1000年頃からフェニキア人に支配されたようで、遺跡が発掘されています。


↓フェニキア人は裕福だったようで、豪華な金の装飾品などが出土しています。下は黄金製でアヌビス神か?

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フェニキア人は滅亡し(ローマに徹底的に破壊され)たため遺跡は少ないのですが、マルタには比較的残されています。フェニキア人を埋葬した木棺も発見されており、エジプト文明の影響も感じさせる興味深いものです。

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マルタは、フェニキア人以降、ローマ、ヴァンダル、ビザンチン、アラブ、ノルマン、スぺインなどの支配を受け、やがてマルタ騎士団の城塞国家となりました。その後、近世もナポレオンのフランスや、イギリスの支配下になり、1964年英連邦王国のマルタ国、最後に1974年マルタ共和国として完全独立を果たします。2004年EUに加盟(現在の公用語はマルタ語と英語で通貨はユーロ)

ちなみに、現在のマルタ語は、アラビア語系の口語を基礎としてシチリア語やイタリア語などの語彙が多く取り入れられたクレオール的な混合言語です。ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の貴重な言語といえます。

あくまで私見ですが、マルタ人にはフェニキア人に支配された時期にセム語系の言葉が根付き、ローマやビザンチン時代には支配者の言語は広がらなかったようです。それより、アラブ支配の時代には農業関係や庶民の生活が変革されアラビア語(口語)が普及し、そこにマルタ騎士団時代のロマンス語系の語彙が取り入れられマルタ語が成立したと思います。
また、それとは全く別物として、イギリス支配時代に英語が広がったのです。現在ではイギリス以外ではヨーロッパでは非常に貴重な英語圏で、日本人の英語留学先として人気があります。


そうした、長く複雑な歴史時代の流れを感じさせるものとして、考古学博物館にはコインのコレクション特別展示室があります。歴史を反映した各種の貨幣が見られ、特に各ローマ皇帝の顔が刻まれたコインがずらりと揃っており、マニアには垂涎の的です。

約16000枚以上のコインがあるそうです。


↓展示室

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↓ローマ皇帝コインのアップ  いわゆるセステルティウス硬貨ですね。

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↑上から第3代カリギュラ帝、第4代クラディウス帝、第5代ネロ帝など、すべて揃っています。


↓硬貨コレクションの説明

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ローマ支配からは歴史時代に入り、考古学博物館の範疇をこえるので展示されていません
したがってコインはあくまで、特別展示という位置づけですが、常設展示だそうです。


最後に小さなミュージアムショップ的なコーナーを見学し、スリーピングレディの銀製品に見入りました。
記念品を少しだけ買って、博物館を出ました。

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小さいながら充実した博物館で、マルタの古代世界を満喫した半日でした。
写真撮影が可能で、ネットでの発信や旅行サイトでの公開も「どんどん宣伝してください」と快く許可いただき、とても好感の持てるミュージアムでした。取材協力いただいた職員の方に深く御礼申し上げます。





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2018年 05月 28日 |

ご心配をかけました骨折事故の件ですが、ようやくギプスが取れ、サポーターを巻いてのリハビリとなりました。あと三週間もすれば、サポーターもはずして、普通の生活に戻れそうです。

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皆様からいただきましたお見舞いや励ましの声に元気づけられ頑張れました。本当にありがとうございました。感謝いたします。これからも、トラベルジェイピーの旅行ガイド記事や当ブログをご愛顧いただきますようお願い申し上げます。



さて、冬のマルタの記事は、マルタ考古学博物館の三回目で、青銅器時代とカートラッツの謎です。


マルタの巨石文明はなぜか紀元前2500年ごろ突然滅亡しました。これも大きなミステリーです。
紀元前2500年ごろに何があったのか?
地中海の古代文明のマルタ中心時代は幕を閉じます。やがて文明の中心は東へ移り、古代オリエント、エジプト、ヒッタイトといった文明が勃興してきます。


その後はマルタでは普通の青銅器時代となります。これについては、考古学博物館の三階に BRONZE AGE として、紀元前2500年頃から紀元前1000年頃の出土品が展示されています。

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青銅器時代といっても金属製品だけではなく甕や壺などの陶器類が多く見られます。やはり農業主体の文化があったようです。同じ農業文明でありながら、巨石神殿時代とこの青銅器時代の断絶も謎のひとつです。滅亡した巨石神殿文明の担い手ではなく、新たにマルタに渡って来た人々が青銅器時代の遺跡を残したとする学説が主流のようです。

以下、青銅器時代の発掘遺物展示の写真を9枚、ごらんください。

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マルタの古代の謎の一つとしてカート・ラッツがあります。これは、岩の上にレールのように平行に穿たれた溝のような遺物で島内各所にあります。車輪の轍跡にしては崖の上に多くあるのが理解に苦しみます。おそらく青銅器時代に出来たと思われることから、考古学博物館の三階に展示されています。これも本当に不思議な遺跡です。


↓カートラッツ展示室入り口

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↓上に乗って見れるようになっています。

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↓カートラッツのアップ

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↓カートラッツの分布

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2018年 05月 22日 |

マルタ考古学博物館の二回目の今日は、博物館の目玉であるマルタのビーナスとスリーピングレディーです。


マルタ巨石文明使役から出土した女神像で驚くのはその豊満なフォルムです。特に通称マルタのビーナスと呼ばれる像は、ハジャーイム神殿から発掘された約4500年前のもの。古代の女性女神像は豊かな身体つきのものが多いのですが、特にマルタでは巨大で印象的な体形の像が多く、当時の美意識を感じさせます。マルタに伝わる伝説では、こうした巨女が巨石を運んで神殿を造ったとされています。


↓マルタのビーナス

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このボリューム感がすごいですね。日本の土偶に比べると、リアルな表現でモデルがいたことを思わせます。

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女神像は多数ありますが、顔がないものが多いのが不思議です。別に顔だけの像も多数発見されていることから、顔の部分は嵌め込み式であったと思われます。でも、なぜ嵌め込み式の像が多いのかは諸説あり解明されていません。

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↓顔の部分

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こうした豊かな女神像は、豊穣の祈りと関係しているようで農業主体の文明であったのは確かです。ひょっとして、地中海沿岸に広く見られる大地母神のルーツとなったのかも知れません。

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一階の最奥には、眠れる女神像一体だけがある展示室があります。小さく暗い部屋ですが神秘的なムードいっぱい。ここにあるのが博物館の至宝、一番人気の通称スリーピングレディーです。

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実に洗練された曲線で構成されており、マルタの古代芸術の最高傑作です。この女神像は、ハイポジューム地下神殿から発見されたもので、なぜ横たわっているかについては諸説あり、これもミステリーです。

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装身具などの小物も出土しており、巨石だけでなく繊細な部分の芸術性も感じました。


↓角か牙のペンダント

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↓貝でつくられた鳥のペンダント

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↓牛の角に挟まれた鳥

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↓物差しと思われます。

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↓レリーフに残されている動物は、山羊と豚と羊です。これらは犠牲獣でもあるので、宗教的な意味合いがあるのかも知れません。

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