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2019年 09月 06日 |

先般、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を記念して行われた福永伸哉教授の特別講演を拝聴しました。
とても印象的な講演で、考古学と歴史学がようやくシンクロし成果をあげてきたことを強く感じました。少年時代から古代史に興味を持ってきた者として嬉しい感慨がありました。

そこでこの機会に、これまでの福永伸哉教授らの成果をもとに、私なりに古墳時代の流れをまとめてみます。特に、これまで触れて来なかった佐紀(盾列)古墳群さき(たてなみ)こふんぐん】 の謎について書いてみます。

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古墳時代は、卑弥呼の墓として有力視される箸墓古墳からはじまります。


かつて単なる百家争鳴の思いつき邪馬台国論が世間を覆っていたのですが、1970年代以降になって考古学的な証拠に基づく邪馬台国研究が可能になってきました。纏向遺跡などの考古学的な発掘調査が大きな役割を果たしたのです。


1980年代になると、考古学的成果をもとに、学問的な成果があらわれてきました。
特に、森岡秀人氏の 王莽の「貨泉」が鋳造からすぐに日本にもたらされた事実を重く見る研究(「弥生時代暦年代論をめぐる近畿第Ⅴ様式の時間幅」『信濃』37-4、1985年など)が発表されます。これによって三角縁神獣鏡が中国(魏)もたらされたことが傍証されました。

続いて、白石太一郎氏の 古墳出現を3世紀中後半とする体系的研究(「年代決定論(2)」『岩波講座 日本考古学』一、岩波書店、1985年など)が発表され、私はいよいよ考古学が歴史学にコミットする段階が来たと感動したものです。いいかえれば、科学的証拠が歴史の謎を解き始めたのです。

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1994年には大阪府池上遺跡で年輪年代法のヒノキ柱がBC52年に伐採されたことが判明して弥生時代後半の絶対年代編年が進みます。前後して。西久米塚古墳・黒塚古墳などの古相の三角縁神獣鏡のみを出土する古墳の調査が相次ぎ、布留0式土器が出土する古墳の出現年代が250年代頃であることが確実になりました。


さらに、2009年に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授らの研究成果が報告されました(炭素年代法による科学的鑑定)。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。


そして、福永伸哉氏の三角縁神獣鏡の詳細な研究が重要で、長方形紐孔・外周突線・特異な銘文を分析し、その技術が中国の魏晋(3世紀)の領域に求められることを明らかにしたのです。


そうこうしているうちに、石野博信氏らによる纏向遺跡の調査がどんどん進み、2世紀末葉に出現し4世紀中葉に消滅した巨大集落で、一種の政治的な都市としての性格を有する遺跡であることが明確になってきました。


2018年には、纏向遺跡で発見された桃の種を放射性炭素(C14)年代測定法で調査したしたところ西暦135~230年のものであることが判明しました。名古屋大と徳島県埋蔵文化センターの二ケ所で測定され同結果ということで極めて信頼性が高く、桜井市纏向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査結果とも合致する」と話しています。


同じく、2018年には、天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から出土した33面の三角縁神獣鏡について、京都市の泉屋博古館が大型放射光施設「スプリング8」で蛍光X線分析したところ、鏡に含まれる銀などの微量元素の割合が、古代中国鏡と一致することが判明しました。これで、箸墓古墳の直後に築かれたとされる黒塚古墳の三角縁神獣鏡が、中国からもたらされたものであることがほぼ確定しました。


以上の調査や研究は、すべて箸墓古墳の築造年代が3世紀後半で、ほぼ同時期に三角縁神獣鏡の配布が開始されたことを示しており、魏志倭人伝の記述とも整合します。

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以上の考古学的証拠から、流れをまとめてみます。


魏と通交する以前の三世紀初、卑弥呼は公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を分配しました。最初は分布が畿内に集中し、倭政権連合体の範囲が限られていることを示しているようです。
ところが、卑弥呼の晩年すなわち三世紀後半には、三角縁神獣鏡の分配が東西に広がり、畿内中心ながら福岡県までも覆い、前方後円墳の誕生と全国展開と時期も分布もこれに一致しています。


なかでも、考古学的証拠として、1997年の黒塚古墳の発掘は画期的でした。三角縁神獣鏡が33面も出たのです! 景初3年銘の三角縁神獣鏡もありました!

黒塚古墳では発掘された三角縁神獣鏡は、7組15面が同范の関係にあります。
三角縁神獣鏡の古いタイプがすべて中国製と判明した今、考えてみてください。もし鏡が一面ずつ中国からもたらされたのなら、偶然が何度も重ならなければ、同范鏡が再び共埋葬されることはおこりません。つまり、これは同范鏡が、セットでまとまった形で日本にもたらされたことを意味しているのです!(これはすでに過去に椿井大塚山古墳出土三角縁神獣鏡に関して小林行雄氏が指摘していたことです。)


三角縁神獣鏡が多数出土した黒塚古墳と椿井大塚山古墳に同范鏡の重複が多いのは当然で、三角縁神獣鏡の数が多ければ、それに比例して同范の数が増えるのは、あたりまえの話です。ごく単純な理由なのです。
両古墳の被葬者が邪馬台国の有力者であったことは確実で、鏡の分配の中心は両古墳の近くにあり、その主体者は、魏帝が銅鏡百枚を与え「ことごとくを以って汝(卑弥呼)が国中の人に示し・・・」という命を受けた卑弥呼その人なのです。時期と考古学的証拠から考えて、卑弥呼以外の人物を考えることは困難です。


239年(景初3年)、魏は卑弥呼に対して、その朝貢に対して「親魏倭王」の金印とともに卑弥呼の「好物」たる鏡を特鋳し贈与しました。それこそが、景初3年銘のある三角縁神獣鏡であることは間違いありません。これは三角縁神獣鏡の最も古いタイプで、時間的にも一致します。アクロバチックな理屈を全く必要としない、ごく自然な結論です。

景初3年銘のある三角縁神獣鏡を偽造とする説は、認められません。魏志倭人伝を読んで偽造したとするのは本末転倒の考え方で、3世紀当時の倭人が魏志倭人伝を読んでいたはずがなく、またそんな大がかりな偽造を行う理由が全くありません。それこそ、アクロバチックな論理です。

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生活の場というより政治的かつ祭祀的な特殊な性格を帯びて三世紀に興隆した纏向遺跡は、初期大和政権の中枢部と考えられます。日本ではじめて誕生した都市とも言えます。
近傍には、古墳時代の開始を告げる全長278mの箸墓古墳を嚆矢として、出現期大型前方後円墳が集中しており、いわゆるオオヤマト古墳群と呼ばれ、黒塚古墳もそのひとつです。


奈良盆地東南部は、奈良県でも本来、ヤマトと呼ばれていた地域で、ヤマト=邪馬台=倭=大和は、時間と空間が一致しました。史書と考古学の証拠が一致したのです。

↓この出現期古墳の分布は、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の地域と一致します。

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邪馬台国から古墳時代そして大和朝廷へと、つながっていることは証明されたと言えるでしょう。ただ、ここから歴史的にはいろいろの紆余曲折があり、日本の記紀などの歴史書との関係を解明する必要があります。その際の手段は、政治思想や願望や町おこしあるいはロマンではなく、科学的証拠と動かしがたい論証でなければなりません。


飛鳥時代に至るまでは、その最大の証拠が古墳です。何より古墳というのは、誰も否定できない歴然たる存在です。大古墳を築いた権力者がいたことは紛れもない事実で、それが記紀に書かれたどの人物にあたるかは、興味深いテーマです。


箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、こちら で書きました。そこで、崇神天皇・景行天皇・垂仁天皇などに比定される古墳についても述べましたので興味のある方はお読みいただければ幸いです。



難しいのは、崇神系政権(三輪王朝)の末期から応神系政権(河内王朝)への移行展開です。
その中間時期に、大王墓規模の古墳がある佐紀古墳群が造営されるているのです。これを、どう考えるのか?

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4世紀中葉に纏向遺跡は幕を閉じます。この時期に大和政権は遷都されたか、王朝交代があって狭い意味での中心地が移動したと考えられます。
佐紀古墳群が造営される時期に相当します。大きさからみると、五社神古墳(神功皇后陵)は、全長約270メートルと大王墓として問題のない規模があります。

そうすると、崇神系政権と応神系政権の間に、奈良盆地北部を根拠地とする佐紀政権があったのか?

しかし、記紀には佐紀地方に根拠があると考えられる大王はおらず、唯一、伝説的な神功皇后が書かれているのみです。
この神功皇后の関連で、記紀に書かれていない大王が存在した可能性はあります。巨大古墳(佐紀古墳群)という証拠が残っているわけですから、それに相当する権力者がいたことは確実です。

それが、記紀に書かれていないのは、後世の歴史書作成の際に、消されてしまった可能性があります。実際には、崇神王朝と応神王朝の間に、一時的に佐紀王朝があり、それが応神王朝に征服されてしまった。応神天皇は崇神王朝の末裔の女性(仲津姫)と婚姻し入婿的に崇神王朝を継いだので、その間に存在した佐紀王朝を歴史としては抹殺した・・・・ヤマトタケルや神功皇后といった神話的人物を挟みこみ応神王朝へとつないだ・・・・これが考えられる有力なストーリーのひとつです。


別の考え方があります。それは崇神系政権が墓域だけを移動させたという説です。これは、政権と墓域を区別するもので、後世にはこうしたあり方が出てきますが、ヤマト政権の最初期に通用するかは疑問です。なぜ、急に墓域だけを移動させるかという理由が見出せません。実際、その後、オオヤマト古墳群と古市古墳群の中間地域に造営された馬見古墳群は、有力豪族である葛城氏の根拠地であることは確実で、根拠地と墓域が一致しているのがこの当時の自然なあり方なのです。

また、纏向の中心地域から王都は移動しているのは確かなので、その場所をどう考えるかという問題もあります。王都はヤマトのどこかに遷都されても、その大王の墓が関係のないところに造られるはずがありません。王都の場所とはずれていても、少なくともその大王のゆかりのある出身地域に造営されるでしょう。



三番目の考え方があります。
それは、佐紀古墳群は、大王としてではなく王妃の出身地に造営された奥津城の古墳群であるとするものです。
佐紀古墳群の造営時期は、微妙に古市古墳群の造営時期と重なっています・・・これは何を意味しているのか?
佐紀政権が河内政権に征服され移ったというより、河内政権の初期大王たちの王妃が佐紀地域から選ばれ、その墳墓たちが佐紀古墳群とするなら時期の重なりが説明できるのではないでしょうか。
それが、記紀に象徴的に残されているのが、仲哀天皇と神功皇后の関係ではないかとするものです。

↓奈良県庁屋上から北を望む。上部左側奥の緑の丘陵が佐紀古墳群。

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私はどちらかというと、三番目の説(佐紀古墳群=王妃の奥津城説=白石太一郎氏の説)に説得力があると考えています。
その理由は二つあります。
ひとつは、もし佐紀王朝というのが存在したとするなら、もう少し記紀などの記録に痕跡をとどめているべきだということ。
もうひとつは、佐紀政権が河内政権に征服されたのなら、時期的に造営時期が重なるはずがないということです。


当時のヤマト政権というのは、現在の奈良盆地と大阪府と京都府の一部にまたがる一帯を中核とし、佐紀の地域も河内の地域もその有力な支え母体でした。外から見れば一体で、内部的には勢力争いはあったのでしょう。

三輪地域の崇神政権が弱体化してくると、一時的には佐紀地域の勢力は大王クラスの人物を出したのかもしれません。しかし、調整の結果、最終的にはヤマト政権河内派とでもいうべき勢力が権力を握り、佐紀派はそれを支える役割を果たしたのではないでしょうか。河内派と佐紀派は協力して大和政権を担ったのです
そこで、しばらくは大王を河内派から、王妃を佐紀派から出したと考えます。それが、歴然たる古墳造営時期の重なりと、仲哀天皇と神功皇后の関係から推測できるのです。

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私が古市古墳群で最初の大王墓である津堂城山古墳の被葬者と考えているのが仲哀天皇ですが、その王妃が神功皇后です。彼女は、近江~南山城地域に勢力のあった息長氏の一族から出ています。神功皇后の古事記での名前が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)であることがその証拠です。

佐紀古墳群のあたりに勢力を有していた豪族は、息長氏だけではありません。佐紀古墳群のすぐ南の春日地域を根拠地とする和邇氏があります。
この和邇氏は、古来よりヤマト政権を支えてきた有力氏族で、記紀による記録の上では、応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出しています!


すなわち、この息長氏と和邇氏から出た王妃の奥津城が佐紀古墳群ではないでしょうか。佐紀古墳群のすべてが王妃の墓であるかは分かりません。例えばヤマト政権で大きな力を持った和邇氏の首長墓というのも存在する可能性があります。私見では皇后級の王妃の墓が中心であったと考えますが、やはり、最終的な結論は、今後の考古学的な古墳の発掘に託したいと思います。



いやあ、古墳というのは確かに歴史の証人であり、今も消せない証拠を我々に提示している場所なのですね!


その後の、倭の五王時代(応神系政権=百舌鳥・古市古墳群の時代)の古墳の比定については、こちら で詳しく書いていますので、ご覧いただければ幸いです。






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2019年 07月 12日 |
LINEトラベルJPの旅行ガイドで、私の「仁徳天皇陵の目の前!堺市博物館で歴史ロマンを体験しよう!」という記事が公開されました。
百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録に関連した記事の集大成でもありますので、ぜひ↓お読みください。





9月23日までは「百舌鳥古墳群ー巨大墓の時代ー」という特別展を実施中です。世界遺産登録により仁徳天皇陵に来られる方は多いでしょう。せっかくの機会ですので、ぜひ博物館も訪問してください。


ブログでは上記のLINEトラベルJP記事に載せられなかった博物館の写真を紹介することにします。

↓堺市博物館
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↓博物館の展示コース案内図
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↓博物館の観覧券
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この地図は「オルテリウスの日本地図」と言われるもので、16世紀ヨーロッパ人の日本に対する知識を表しています。

↓博物館に展示されている地図中央部 Sacay=堺 は中央に書かれていますが、大阪はありません。
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↓百舌鳥古墳群の航空写真大パネル クリックすると拡大します
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↓おなじみの百舌鳥・古市古墳群の編年図
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↓中世堺のコーナー 鉄砲展示など
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↓近代堺 堺県の図
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↓堺県の話
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つまり、天領だった堺は慶応年間に堺県となり、地域を広げて現在の奈良県を含む大きな県となったわけです。やがて地域が小さく財政力がなかった大阪府を補強するため、堺は県治14年で廃県となり、大阪府へ編入されてしまいます。

大和川水系というのは、古代より繋がっており、一体感がありましたので、堺県という発想は、あながち不自然ではありません。竹内街道の世界ですね・・・
堺県時代に、堺で幼少期を過ごした偉人に、河口慧海や与謝野晶子がいます。偉大な人々を生む素地のある文化的地域だったと思います。


さて、堺県の話のついでに、古墳関連の余談をひとつ

堺県令(知事)を約10年間も務めたのは、維新の功労者である税所篤(さいしょあつし)で、能吏として評判も高く、文化財への造詣も深かったのです。堺燈台や浜寺公園、奈良公園、県師範学校・医学校・病院・女紅場(女学校のことで与謝野晶子が通った)などをつくり、伝統文化の保護育成行政に携わり、西郷隆盛、大久保利通と共に薩南の三傑と評され、子爵を授けられています。

税所篤個人は、文化的な素養が高く、古美術骨董品のコレクターでもありました。ただ、それゆえ、堺県令時代に仁徳陵を無断で発掘したのではないかとの疑惑があります。確かに、明治5年、仁徳陵の清掃を政府から命じられた際、陵内に小屋を設け一年に渡り作業しています。

ボストン美術館に仁徳陵発掘とされる装飾品がありますが、この国外流出は税所篤が横流ししたものという噂もあります。ただし、この説は、藩閥政治に対し批判的な尾佐竹猛の発言をもとにしており、明確な証拠があるわけではありません。
最近の調査では、ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられた岡倉天心が、明治39年の関西出張の際に一括購入したもののようです。ただ、その本来の出所は分かりません・・・

堺県令:税所篤は、石棺の記録を残し文化財の保護と歴史探求に貴重な足跡を残した人物だったのか? 、それとも無断で仁徳陵を発掘し盗掘まがいのことを行った人物だったのか?・・・見方は分かれており、真相はまだ分かりません・・・皆さんは、どう考えられるでしょうか?


上記の税所篤による仁徳陵の清掃は、大雨で御陵前方部の南端斜面の埋蔵物が露土したため、清掃し大きさを測り埋め戻したということです。

↓その際のスケッチ

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↓スケッチをもとに制作したレプリカが現在、堺市博物館内に展示されています。迫力がありました。

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後円部には、さらに大きな石棺があったとの江戸時代の記録があります。前方後円墳では後円部にメインの被葬者が葬られていることが一般的なのでうなずける話です。
ただ、私が不思議に思うのは、前方部の南斜面という古墳の端部に上記の大きな石棺があったことです。いわば南の端っこにあったわけで、そうなると前方部中央などにもさらに大きな石棺がありそうです。ひょっとしてこの巨大古墳には、たくさんの人が葬られているのかも知れません・・・・。

いったい誰が葬られているのでしょうか? 今後の発掘調査が待たれるところですね。


↓中庭に展示されている石棺・・・これも本来の出所は不明です。どの古墳から出たものだろうか?

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↓博物館の休憩コーナーと館前の池
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さて、また旅に出ることになりました。
お隣の国ですが、激安海外旅行ツアーの体験取材です。
そのため、しばらくブログ更新ができませんが、ご了承ください。
来週末頃には、また更新を開始する予定です。

それでは、皆さん、ごきげんよう!




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2019年 05月 23日 |
LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「いよいよ世界遺産へ!堺市の仁徳天皇陵古墳を一周しよう!」という記事が公開されました。
世界遺産の指定がほぼ決定し注目を集めている百舌鳥古墳群の盟主墓:仁徳天皇陵古墳を一周するコースの紹介記事ですので、ぜひ↓お読みください。




この記事は、百舌鳥・古市古墳群についてユネスコ諮問機関(イコモス)の世界遺産への登録勧告が出て、2019年7月に世界遺産になることがほぼ確定したので、各方面からご指導を受け、緊急に作成したものです。

仁徳天皇陵については、多くの記事が出ていますが、今は注目度が高いので、タイムリーな記事として読んでいただければ幸いです。



私は次の海外への長旅を計画しており、この記事が正式にアップされてから、行くことにしていました。
次記事で旅内容について書きますが、これで心置きなく日本脱出できますので、ほっとしているところです。


旅前に、最近撮影の、近所で見られる身近な野鳥写真もアップしておきます。

晩春から初夏にかけて、野鳥は子育てのシーズンです。

↓まずは、美しい声で鳴くイソヒヨドリ。
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↑この鳥は、本来は海岸の岩壁地帯に生息していたのですが、人間の都市化に適応し、どんどん生息域を広げています。
多分、人間のつくる家屋・ビル・マンションといった建造物が、岩壁的な環境に似ており、鷹などの天敵が少ないこともあり、都会が大好きなようです。


↓次に今の季節に飛び回るツバメ
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↑おなじみツバメさんで、春になると南国から飛んできて、軒下などに巣をつくって子育てをする典型的な渡り鳥です。
日本の街や村の5月の風物詩ですね。


↓田んぼの野鳥:ケリです。
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↑田んぼの畝が耕されると、縄張りを主張し夫婦で子育てをする気の強い野鳥です。
これも田植えシーズンの風物詩ですね。



イソヒヨドリ、ツバメ、ケリ・・・これらの野鳥は、人家を怖がらず、イソヒヨドリは毛虫類を、ケリは田んぼの虫類を、ツバメは蚊などを食べてくれます。
カラスのようにゴミ箱をあさったり、スズメのように穀物を食べるわけではありません。いわば直接害を及ぼすわけではないので、人間にもさほど嫌がられず、春から夏にかけての風物詩として親しまれています。少しばかり人と共生しており、親しまれている野鳥です。これからも長く人間世界とつきあって姿を見せ続けてほしいものです。




<5月25日追記>
本日、午後7時30分よりNHKテレビでブラタモリという番組があり、「古墳の町・堺~巨大古墳は日本の歴史を動かした!?~」・・・大阪堺 巨大古墳は世界遺産へ▽自由都市誕生の秘密▽千利休の茶室を体験▽タモリ火縄銃に挑戦?・・・という内容が放映されます。記事と関連があるようなので、ぜひご覧ください。



<5月27日追記>
上記ブラタモリの「古墳の町・堺~巨大古墳は日本の歴史を動かした!?~」を見ました。古墳にはじまる堺の魅力を要領よく紹介した番組でした。タモリさんが「古墳好き」だったのは嬉しい驚きで、そのタモリさんの「大阪や京都が栄える前は、まず堺だった」という大胆な発言は、非常に優れた認識で、まさに慧眼といえるでしょう。
奈良盆地南部の大和から、大阪湾に面した堺へ、ほぼ東西のルートとして、古墳時代から丹比道(たじひみち 後の竹内街道)があり、大和政権の海への玄関口であったのです・・・だからこそ巨大古墳が造営されることになり 、その濠掘削用鉄器がつくられ、鉄の加工技術が磨かれ、鉄砲・包丁・自転車へ!・・・かくして堺が誕生し、摂津国と和泉国(とさらに河内国と)の境目になったことから自由な自治都市が発展していったのです。
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2019年 05月 17日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「チュニジア中部・歴史とリゾートの街“サヘルの真珠”スースを歩く!」という記事が公開されました。
チュニジア中部にあり、古い旧市街と地中海リゾートを楽しめる街スースの紹介ですので、ぜひ↓お読みください。








さて、百舌鳥・古市古墳群 について、ユネスコ諮問機関(イコモス)の世界遺産への登録勧告が出ました。(5/14)
これで、7月の世界遺産への登録がほぼ決まりました。


発掘調査が進まず陵墓名と遺跡名が混在しているといった問題点があるものの、古墳群の価値が傑出していると大きく評価されたようです。


私も、ライターとして百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録への、民間からの応援・協賛活動をやってきました。旅行業の一端を担う者として嬉しい限りです。これで、大阪府ではじめての世界遺産が誕生します。


一古代史ファンとしても、大阪の古墳群の歴史的価値が評価されたことを喜んでいます。


↓仁徳天皇陵古墳(大山古墳・大仙陵古墳)の一周コースより

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↓仁徳天皇陵古墳の現地解説看板

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↓日本語解説部分を拡大・・・ここに世界遺産登録のことも書かれるのでしょうね。

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私の、百舌鳥・古市古墳群に関するトラベルJPの記事には、以下の三本があり、今回の指定を受けて、表題やリード文を少し修正してみました。
ぜひ、お読みください。


いよいよ世界遺産!堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇




もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!




いよいよ大阪に世界遺産が誕生!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう





古墳関係では、以下の記事もあります。


日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう






ブログでは、古墳関係記事も多く書いてきました。その代表的なものを、まとめて以下に紹介しますので、よろしければお読みください。



仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?  百舌鳥古墳群と古市古墳群の被葬者の比定


百舌鳥古墳群の古墳配置と仁徳天皇陵の等高線乱れ  ~百舌鳥古墳群を歩く(1)


仁徳天皇陵の陪塚など小型古墳を見る  ~百舌鳥古墳群を歩く(2)


古墳カード記事がアップされた件と大仙公園の小型古墳  ~百舌鳥古墳群を歩く(3)



古市古墳群紹介記事の公開のお知らせ  ~古市古墳群を歩く(1)


仲姫命陵古墳の真の被葬者は誰か?  ~古市古墳群を歩く(2)


謎の古墳:古室山古墳 ―大和川水系に王権あり― ~古市古墳群を歩く(3)


箸墓古墳は卑弥呼の墓か? ~大和日帰りドライブ(6)


旅行ガイド記事公開  ~邪馬台国のロマンを求めて~







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2019年 04月 30日 |

カルタゴのローマ時代の遺跡と野鳥ヤツガシラの話です。平成最後の更新になります。


ピュルサの丘から、海に降りていく途中に、ローマ時代のカルタゴ遺跡「ローマ人の住居 Villas Romainers」があります。

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ここは、ローマ時代の裕福な住民の住居遺跡で、階段状に住居跡が見られます。

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古代ローマ人の上流家庭の生活が垣間見られる必見の遺跡でしょう。

丘の中腹のなだらかな傾斜地にあり、いわば古代の山手の住宅街といった雰囲気。現在もこのあたりは高級住宅街で、はるか古代から連綿と人々が暮らしてきた長い歴史の重みを実感できます。


花に埋もれた所もあります。

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ローマ人の住居跡には、現場に残された像やモザイクもあり、とても興味深いです。

↓海も望めます。

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特にモザイクは列柱回廊のあるヴォリエールの別荘と呼ばれる屋敷のものが一番。今でも現場に色合いが残る素敵な遺物で、古代ローマ人の優れた芸術感覚がそこにあります。

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現場に残されているモザイクという意味では、モロッコのヴォルビリス遺跡 ほど大規模ではありませんが、私が気に入ったのは、野鳥のモザイクがとても多いという点です。

以下、鳥関係のモザイクをご覧ください。

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↓中でも、私が感動したのは野鳥ヤツガシラのモザイクがあった点です。

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ヤツガシラは、個体数は多くないものの世界的に分布する綺麗な野鳥で、イスラエルの国鳥でもあります。英語でフープー、イランでフドフド、中国でフーポーポーと俗称されますが、これらは、ヤツガシラの「ポポーポー」と言う鳴き声から来ています。
そのヤツガシラの鳴き声は、こちらの日本野鳥の会のページ でお聞きください。

日本では、旅鳥としてまれに見られる珍鳥で、昭和天皇が皇居の庭で発見し、侍従に「双眼鏡を持ってこい」と命じたところ、侍従が「お芋を見るのに双眼鏡が何故いるのですか?」と聞き返したという有名なエピソードがあります。里芋類にヤツガシラというのがあるので侍従が勘違いしたわけです。


↓そのヤツガシラの写真です。

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↑ヤツガシラの特徴である冠羽(頭の上の飾り羽根)が閉じたものしか撮れなかったので、以下にウイキペディアより写真をお借りして、冠羽の開いた状態のヤツガシラの姿を掲載します。

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↑冠羽が八つあるように見えることから「ヤツガシラ」という和名がついたそうです。


↓この後、お土産店を回った際、ヤツガシラの意匠のモザイクを見つけましたので、自分への土産として購入しました。

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↑モザイクは、チュニジア土産のひとつとして人気があります。ファティマの手や駱駝などの動物意匠のものが多いのですが、ヤツガシラ模様を見つけて嬉しかったです(笑)


チュニジアで注目されてきたヤツガシラは、古来、はるか日本でも注目されてきた野鳥で、正倉院の宝物の中にも、ヤツガシラが描かれたものが多数あります。もし今後、正倉院展に行かれたら、ぜひ注意してご覧ください。

↓ヤツガシラが描かれた正倉院宝物の一例

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↓イスラエルの記念コイン:国鳥のヤツガシラ(Hoopoe)
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古代ギリシアのアリストパネスは『鳥』で冠羽=王冠連想からヤツガシラを「鳥の王」としています。『旧約聖書』の「エステル記」にも登場します。このヤツガシラについては、まだまだ書きたいことがありますが、いささか話が脱線してきましたので、このあたりで終わります。







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2019年 03月 28日 |

古代カルタゴの遺跡の中心であるピュルサの丘・・・・ここは高台にあり城壁に囲まれたカルタゴ誕生の地です。

↓ピュルサの丘から地中海を望む

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紀元前814年、フェニキアからここへ避難してきた女王エリッサは、地元のベルベル人から「牛の皮一枚で覆える地」なら貸すと言われました。そこで賢いエリッサは牛の皮を細長く切り裂いて丘を囲い土地を得たという建国伝説があります。
そこで、この建国の地は、ピュルサ(=皮の意)の丘と呼ばれるようになったのです。

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フェニキア本国史によれば、テュロス王家の10代目の王ムット(マッテン一世)は美貌の娘エリッサと息子ピュグマリオンを死後の相続人として残しました。
ピュグマリオンは王となり、エリッサは王に次ぐ地位の神官アケルバスと結婚します。
しかし、ピュグマリオンは、アケルバスの財宝と宗教権力に嫉妬し、彼を殺害します。

夫を殺され危機が迫ったエリッサは、王に反対する貴族や元老院議員とともに、フェニキアの王都テュロスをからくも脱出します。

↓ピュルサの丘にある、エリッサの逃避行ルートの説明板

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エリッサらの一行は、まずキプロスに上陸します。
キプロスの神官らはエリッサに同行を申し入れ、約80人のキプロスの娘を脱出したテュロス人の妻として同乗させ、逃避行に協力するのです。


そして、ディードー(さすらう者)とも称されたエリッサらの船団は、苦労の末、ピュグマリオンの追及の手の届かない遠い場所=現在のカルタゴに至ったのです。


カルタゴとは、カルト・ハダシュトの略で、フェニキア語で「新しい都」を意味します。つまり、新天地につくられた新しい聖なる都でした。

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女王エリッサの逃避行伝説は、まさに貴種流離譚ですが、重要なのは政治的宗教的な亡命者によりカルタゴが建設されたことです。

エリッサはフェニキア最高位の神官の妻であり、宗教的にはフェニキア王ピュグマリオンより正統で、聖なる本山の移動ともいえる出来事だったのです。
これはつまり、後にイギリスでの迫害を逃れてメイフラワー号でアメリカ新大陸に渡り懸命に働き、アメリカ建国への道を切り開いた清教徒の移住に似ています!


こうして、ピュルサの丘に定着したフェニキア人たちは、宗教的理想に燃え、都市建設に一所懸命に励み、カルタゴを完成させ西地中海世界の盟主としていきます。


しかし、美貌の女王エリッサゆえの悲劇が待っていました。すなわち先住民の王ヒアルバスはエリッサに結婚を強要し、拒否すれば戦争を仕掛けると脅します。テュロスから苦難を共にしてきた10人の有力者は先住民の王に屈してしまい、進退窮まったエリッサは、亡き夫アケルバスの名を叫びながら、ピュルサの丘に築かせた薪の山に上り、「私も夫の所へ行きます」と言いつつ剣で命を絶ちます。

この後、カルタゴではエリッサは女神として崇拝されたのです。

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栗田伸子氏は、『通商国家カルタゴ』(講談社学術文庫)の中で次のように書いています。
「非業の死を遂げた神官にしてテュロスの王族のアケルバスの妻が、メルカトル神に守られつつ建設した新たな聖都、というのがカルタゴ建国の理念であったとすれば、それは女王エリッサが亡夫への貞節を貫いて死んで初めて完全なものとなるのである。」


カルタゴは、地政的に西地中海の中央に位置しただけでなく、聖都であったがゆえに、地中海フェニキア世界の新たなる中心となったのです。

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↑は、ピュルサの丘で発掘された古代カルタゴ時代の居住区で、ハンニバル街と呼ばれます。

わずかに残されたフェニキア人時代の非常に貴重な遺跡です。ここは有名なポエニ戦役で、カルタゴ側の最後の砦となり、ローマに破壊され埋められたのですが、近年発掘され見学できるようになりました。


カルタゴの建設は紀元前814年で、ポエニ戦役で徹底的に破壊されたのが紀元前146年です。
そうすると、フェニキア人のカルタゴは約670年ほどの歴史を有したことになります。非常に長く繁栄した都だったのです。


ローマ側は一度徹底的にカルタゴを破壊しましたが、やがてカルタゴの地政的な重要性に気づき、アフリカ属州の中心地として、カルタゴを再建しました。

現在、ピュルサの丘に見られる遺跡は、ほとんどローマの支配時代のものです。

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↓ローマ時代の遺物を中心に展示しているカルタゴ博物館。

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↓サンルイ大聖堂
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↑現在、ピュルサの丘の上に立つ最も大きな建築物はサンルイ大聖堂です。これは1884年にフランスにより造営された美しいカトリック教会で、十字軍のチュニス包囲戦で没したフランス王聖ルイ9世に捧げられました。

すなわち、フランスもまた、このピュルサの丘を聖地として位置付け大聖堂を建てたのです。



ピュルサの丘は、カルタゴの象徴です。エリッサの時代から、幾多の複雑な歴史を刻んできました。ローマの後もヴァンダル、ビザンチン、カヒーナ(ベルベル人)、イスラム、オスマン、ノルマン(シチリア)、十字軍、フランス、チュニジア独立、ジャスミン革命・・・この丘の上に立って、長く演じられてきた歴史ドラマに思いを馳せれば、本当に興味の尽きない場所なのです。。。。







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2019年 03月 20日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「チュニジアで必見!古代遺跡のカルタゴと白壁青扉のシティブサイドを巡る!」という記事が3月14日に公開されました。
チュニジアで最も有名なカルタゴ遺跡と人気のシティブサイドを紹介したガイド記事ですので、ぜひ↓お読みください。






当ブログでもこの旅行ガイド記事とタイアップして、より詳しく紹介していきます。


かつて紀元前の古代、地中海を制覇した海洋国家がありました。フェニキア=カルタゴです。

後にローマに敵対し徹底的に滅ぼされたため、不当に歴史上から消されてしまいましたが、アルファベットの発明や、地中海各地にオリーブ栽培と小麦栽培を広げ、交易網を築き、経済文化が結ばれた地中海世界を開いた都市国家連合です。
その政治組織や交易ルートはギリシャやローマに受け継がれ、やがてヨーロッパ文明の礎となったのです。



そのフェニキア人の地中海ネットワークの中心がカルタゴで、現在のチュニジアの首都チェニスの北隣のカルタゴ市にあたり、貴重な遺跡が残され、チュニジア観光の目玉になっています。


↓カルタゴには、フェニキア人時代から使われたという軍港跡があります。半円形は当時のままだそうです。

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私は、フェニキア人によるカルタゴ遺跡に非常に興味を持っており、今回の旅の目的の一つとして楽しみにしていました。
それは、古代宗教=地母神信仰の研究というのが私の持続している密かな旅テーマであり、カルタゴには絶大な信仰を得ていた「タニト女神」の遺跡であるトフェ遺跡があるからです。


それでは、簡単にフェニキア・カルタゴの歴史をからめてトフェ遺跡を見て行きます。

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起源前1200年頃、BC1200年のカタストロフという大事件がおこりました。
それについては、以下のブログ記事の ~ エピローグ ~ で書きましたので詳細はそちらをお読みください。


↓ 「ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャ遺跡(エピローグ)」



このBC1200年のカタストロフの結果としてフェニキア人にとって重要な事は、ミケーネ文明とヒッタイト帝国が滅び、エジプトも弱体化し、東地中海地域に権力の空白地帯が生じた事です。

もともと、フェニキア人は現在のレバノンからイスラエルあたりの海岸地域に住んでいましたが、ユダヤ=イスラエル人からの攻撃と圧迫があり、メソポタミア地方にはミタンニやアッシリアという大国が興亡していました。

そこで、レバノン杉という船を造る素材にも恵まれていたことから、海洋貿易を行うこととし、BC1200年のカタストロフによるヒッタイトの滅亡からは、その権力空白地帯へ本格的に進出したのです。


地中海に季節的に吹く風と海流を利用し、フェニキア人は航海術を磨き、どんどん西へと進出しました。
地中海全域に商人として貿易に従事し、主にオリエントで不足する鉱物資源を運びました。特に現スペインからポルトガルにあたるイベリア半島西岸の「銀」が重要だったようです。


フェニキア人は、現イギリスやアフリカ西岸からギニア湾の現カメルーンまで至りました。スカンジナビアにも行ったのは確実です。
俗説ですが、アメリカ大陸まで渡ったという説まであります。
ギリシア人ヘロドトスの「歴史」によると、紅海からアフリカ東岸をめぐり喜望峰を回ってアフリカ大陸を周回したという事が書かれています。(ヴァスコダガマの逆コースですね)


地中海はフェニキア人の海となり、経済と文化の交流がおこりました。地中海沿岸各地にフェニキア人の植民都市が築かれました。
そうした、フェニキア人の地中海ネットワークの中心がカルタゴでした。


私が旅したマルタ島はカルタゴから海を隔てたすぐ近くで、フェニキア人の遺物が発掘されており、マルタ考古学博物館での展示の一画を占めていました。
それについては、以下の記事をご覧ください。


↓ 「マルタ考古学博物館(その四)フェニキア人遺跡とコインコレクション 」 




また、地母神信仰とキリスト教のマリア信仰の関係につきましては、以下の記事の「More 聖母マリア信仰について考える」をお読みください。


↓「聖母マリア永眠教会と聖母マリア信仰 ~聖書の大地を行く(31)」



カルタゴのタニト神も、男神バアル・ハモンと組みになった女神です。ただ、カルタゴではタニト女神のほうが男神たるバアル神より人気がありました。

カルタゴで発見される碑文は全て、タニト神がバアル神より先に書かれているという特徴があり、タニト神の重要性がうかがえるのです。


残された石碑文は必ず、女主人「バアルの顔」であるタニトへ・・・・、という句からはじまります。

↓タニト神の祀られたトフェの外観

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↓タニト神の神域 トフェの遺跡内部 聖石ペテュロスが描かれた石碑

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トフェはタニト神の聖域とされており、写真にあるような遺跡が発掘されています。


↓タニトの印が刻まれた石碑

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↑トフェにはタニト神の印が刻まれています。この形はカルタゴの国章であり、後にギリシャ・ローマに伝わり、金星(ビーナス)を表すマークから、女性を示すロゴになりました。

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タニト神は古代地中海周辺にポピュラーな豊饒の女神たる地母神信仰と結びつき、古代エジプトのイシス神との共通性も指摘されています。



問題は、タニト神は、カルタゴで絶大な信仰を集めた女神であるとともに、多数の赤子の生贄を捧げられたという伝承がある点です。


フロベールが有名小説「サランボー」で、この伝承とポリビュオス「歴史」をもとに、カルタゴ人が赤子を火の中に投げ入れる幼児犠牲の様子を描いたことから、西欧人にカルタゴ人の残虐なイメージを植え付ける結果となりました。


↓幼児犠牲の様子のイメージ(ローマ側の想像による絵)

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↓幼児用石棺

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ここで幼児の石棺や骨が見つかったのは事実ですが、果たしてこれが生贄であったかどうかは学説が分かれています。当時の新生児の生存率が低かったことから、赤子を大切に葬った墓所である可能性もあるからです。


カルタゴが完全に滅ぼされてしまったため、敗者側の資料がなく、全てはポリビュオス(ローマ共和政時代の歴史家)など勝者ローマ側の解釈です。そこが問題を複雑にしています。


1970年に、トフェ遺跡の再調査が行われ科学的分析が行われました。
この分析解釈については、ピッツバーグ大学のシュバルツ教授が幼児犠牲を否定し、ヘブライ大学のスミス教授が幼児犠牲を肯定する、それぞれ違った意見を報告しています!

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以下、私見を述べておきます。

他のカルタゴの遺跡から幼児の墓がほとんど見つからないことから、このトフェは最初は死産や早世した子の埋葬場として造られたのは間違いないと思います。
そこで、地母神と融合したタニト女神が、その幼児葬礼を司る神として重要視されたのでしょう。

祭祀の結果として、天候が好転したリ戦役に勝利したことから、死んだ赤子を生贄的な祈りの用途にも多少は使ったと思われます。神へ捧げ祈り聖別したのです。
ただ、その幼児犠牲が祈りの中心であったわけではなく、子供の冥福を祈るということが主目的でした。火に投げ込んだなら遺骨も残っていないはずですが棺に丁寧に葬られた骨が残されています。

その幼児葬礼の様子を見聞したローマ人が、残虐な面を強調し、フェニキア人を野蛮人として評価することで、徹底的に滅ぼすための材料として利用したのです。あくまで、ポエニ戦役の本質は、ローマのカルタゴに対する政治経済的な利権争いです。

現場に立ってみて、そんな古代史の一コマが浮かんでくるようでした・・・


カルタゴ史の研究者である佐藤育子氏は、名著『通商国家カルタゴ』(講談社学術文庫)の中で次のように述べています。
「人間を神への生贄に捧げること、つまり人身供犠は人間の歴史において何も珍しいことではなく、さまざまな民族にによってあらゆる時代に行われてきた慣習であるが、カルタゴの場合は特に、その対象が幼い子供であるという点で喧伝された感は否めない。」


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母国フェニキアは、アッシリアや新バビロニア、ペルシア帝国と次々と興亡する大国に服属しましたが、統治は自主性を得ていました。しかし、アレクサンドロス大王により完全に滅亡させられました。
ペルセポリスと同じく、またもや、テュロス(フェニキアの中心都市)を徹底的に破壊したのは、ヨーロッパでは英雄とされるアレキサンダーだったのです。イランでも感じましたが、私はアレキサンダーは英雄というより破壊者だと思います。


こうして母国フェニキアが滅んだ後も、カルタゴは地中海を支配し数百年の間、大いに繁栄しました。イベリア半島西岸の銀を主として交易し、現在のイギリスや、アフリカ西岸のギニア湾方面まで至ったようです。


しかし、ローマが興隆してきたため覇権争いとなりました。三度にわたる戦争(ポエニ戦役)で、アルプス越えで有名な名将ハンニバルを擁して善戦しましが、最後はローマに敗れ、徹底的に破壊され市民は虐殺されました。紀元前146年の事でした。



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2018年 10月 15日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう」という記事が公開されました。
いわゆる三輪王朝といわれる日本最初の統一政権が出現した古墳群を歩く記事です。ここを、邪馬台国の中心地とする説が有力になりつつあり、まさに日本の夜明けを告げる地域ですので、ぜひお読みください。





本ブログでもタイアップしてオオヤマト古墳群の記事を書いていきます。
ただ、上のトラベルジェイピーの記事は、旅行ガイド記事ですので、歩く順番に紹介していますが、本ブログでは造営順(時代順)にたどり、私の邪馬台国から大和朝廷への被葬者比定説を述べます。


なお、間に旅行記事を挟みますので、断続的な記事展開となりますので、ご承知おきください。


まずは、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳です。

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奈良盆地の東南部、現在の桜井市から天理市にまたがる一帯は、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」と歌われた古代日本の夜明けを告げる場所です。

このヤマトの中のヤマトとされる一帯は、古来よりヤマトと呼ばれており、大和=オオヤマト古墳群地域とされます。
古墳群の定義は学者により異なりますが、邪馬台国から初期大和朝廷への発展を一体と考え、奈良盆地東南部の古墳全体をまとめてオオヤマト古墳群として捉える白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の学説を私は支持します。


このオオヤマト古墳群で巨大前方後円墳が誕生しました。すなわち、日本で最も古い巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、卑弥呼の墓の可能性が最も高いのです。


箸墓古墳の航空写真は こちら の記事の最初の写真をご覧ください。とても美しい形をした前方後円墳であることが分かります。


↓箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の拝所 西側にあります。

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もしかすると卑弥呼が葬られているわけですから、箸墓古墳の前に立つと胸が高まります。ここはまさに古代史ファンの聖地です。


東側に回って、箸墓古墳を一周します。北側以外は濠はなく、地面から直接古墳が立ち上がっています。

ただし、奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の調査では、幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性が高いとされています。

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北側には「卑弥呼の庭」というカフェもできていました。
北側の池は、「箸中大池」として日本ため池百選にも選ばれています。

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箸墓古墳は、墳丘長278mの出現期古墳中の最古の巨大墓で、三世紀後半の築造と考えられます。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とする有力な学説があります。宮内庁の正式名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。日本書紀には「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。」と書かれています。このヤマトトトモモソソヒメは、孝霊天皇の皇女で、三輪山の神と婚姻した伝説的な巫女とされ、祟神天皇は巫女であるヤマトトトモモソソヒメの神託を聞いて政治を行なったとあります。


この古墳は、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えます。
根拠については、以前書いた記事を、下の More に再々掲してみましたので、ご興味のある方は More をクリックしてお読みください。

なお、私は白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の講義や講演を何度も聞きに行っています。館長の主張は一貫していますので、箸墓古墳の被葬者に関して述べられている部分を以下に引用しておきます。

倭国王墓として最初の箸墓古墳は、大型前方後円墳としては最古のもので、3世紀中葉に遡る。その被葬者の候補として卑弥呼以外の人物を考えるのは難しい」(白石太一郎講演レジメ「邪馬台国連合から初期ヤマト王権へ」より抜粋)



箸墓古墳から北へ巻向駅の方へ歩くと、邪馬台国の宮殿跡ではないかとされる纏向遺跡があります。弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地として、現在も発掘調査が進められています。

この遺跡を邪馬台国の首都に比定する説が有力になりつつあります。王宮的な建物跡が発掘され、話題となりました。

最近は、桃のタネ約2000個以上が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようで、炭素年代測定法の計測により西暦135~230年のものであるという研究発表があり、邪馬台国の時代に整合します。

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↑航空写真をご覧ください。奥にある山が聖地:三輪山、右端の大きな古墳が箸墓古墳、左端の団地の右上にある空地が纏向遺跡の中心です。この位置関係が重要で、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。







さて、中国東北地方いわゆる旧・満州の地へ旅に出ることになりました。
関空の台風被害で一度中止した旅ですが、関空が復旧しましたので再チャレンジすることにしました。


10月上旬は非常に多忙でしたので、10月中旬の出発となりました。目的のひとつであるレッドビーチの取材は、一ケ月遅れましたので、もう枯れてしまっているかも知れません。


ただ、どうしても今年に行きたいという思いがあり、挙行することにしたものです。


もうひとつの目的である、私自身の祖父が満鉄社員として赴任し家族(私の父や祖母・伯父・叔母など)とともに住んだ地を見るということは、果たせそうです。


無理したせいか、風邪気味で体調が思わしくないのですが、もうこれ以上順延はできませんので、頑張って行ってきます。


それに伴い、ブログの更新も二週間ほど休ませていただきます。


次のブログ更新は、10月の月末頃になります。
それでは、皆さん、しばらくのあいだ、ごきげんよう!





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More  箸墓古墳は卑弥呼の墓である
2018年 08月 30日 |

仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)の拝所の向かい側、前方部を向き合わせる形で中型の古墳があります。これが古室山古墳で、全長約150mもある結構迫力ある前方後円墳です。

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このような前方部を接近させて位置する中大型の古墳同士の配置というのは、百舌鳥・古市古墳群では他に例がありません。
これは不思議なことです。

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古室山古墳は皇族墳墓に治定されていないので、これまで発掘され詳しい研究書も発刊されています。
1986年の調査では、後円部から葺石が多量に見つかりました。その状況が下の写真です。
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古市古墳群は、百舌鳥古墳群と違って、実際に登ることのできる古墳が多いのが特徴です。
特に古室山古墳は、おススメで、古市古墳群を回るコースの中で、休憩するのに絶好です。ぜひ、南側の後円部から登って、景色を楽しんでください。

↓古室山古墳に登る途中から頂上を見上げる。
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↓古室山古墳の頂上よりの風景 はるかに、あべのハルカスが見えますね。
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古室山古墳の自然も良いものです。下は木に生えていたキノコ

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古室山古墳の謎はもうひとつあります。
白石先生の古市古墳群の編年図表によると、古室山古墳は古市古墳群の中では初期の造営で、ほぼ津堂城山古墳とほぼ同じような時期に位置付けられています。


ところが、古室山古墳の様式は古い形で、その周濠は墳丘に沿って前方後円形をしています。この形は、前期の前方後円墳によくみられるもので、出土した壷形埴輪も古い形式を表わしています。
津堂城山古墳になると、周濠は盾形となり、造出しや二重濠という新形式になります。これ以降の巨大古墳の周濠はすべて盾形です。


↓古室山古墳と隣接する仲津山古墳の周濠と墓域

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↑この赤の周濠と、緑の墓域は、私がフリーハンドで描いたものです。


これは一体何を意味しているのでしょうか?

天野末喜氏は、「大和政権が河内地域を領有」した際に征服された在地首長が葬られていると考えています。(『古室山・大鳥塚古墳』藤井寺市教育委員会事務局 2017 168頁)


逆に、白石太一郎教授は、河内を含むヤマト王権内部から河内政権が有力となっていく証拠であると考えています。


「筆者(白石太一郎氏のこと)は、ヤマト王権の本来の地域的基盤は畿内全体ではなく、その南の大和川水系及びその周辺、すなわち後の大和・河内(北河内をのぞく)・和泉の地域であったと考えている。それは、まさに大和・河内(和泉を含む)連合にほかならなかったのである。おそらくこの範囲は邪馬台国の原領域でもあったのではないだろうか。(『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』大阪府立近つ飛鳥博物館図録60 2013 13~14頁))


私は、後者の白石先生の考え方を支持するものです。


私は、古市古墳群に先行する河内の玉手山古墳群を築いた集団は、決して大和の政権と対立する勢力ではなく、むしろ大和の政権を支えるもっとも有力な集団だったと思います。大和川水運を掌握し、一番大切な西への出口を押さえ、佐紀古墳群の政権一族とも交流したのでしょう。

オオヤマトすなわち原ヤマト国家は、箸墓や柳本古墳群のある場所を中心としますが、そこだけで成立したのではありません。周辺の地域から支持された連合国家(卑弥呼や台与の共立という事実があります)でした。白石先生が述べるように、大和・河内連合を基盤とした体制だったのです。

もともとヤマト政権というのは、邪馬台国時代からずっと大和川水系が中心でした。古市古墳群のある河内は、大和川を下って河内湖に出ていく要所であり、最重要拠点です。
地形的には、大和川が金剛生駒山脈を穿った渓谷=ボトルネックから大阪平野に広がるポイントで、畿内から瀬戸内へ西日本へ、さらには半島・大陸への門戸を確保できる場所です。


ここにすでに古来よりヤマト政権の機関が置かれており、その機関を担ってきた集団が在地勢力と融合し、佐紀古墳群の王権血縁者とも交流していく中で有力となったのが河内政権です。(したがって、私は、津堂城山古墳の段階で大和政権が河内を征服したとする天野末喜氏の説を支持しないのです。もともと大和政権というのは河内勢力との連合政権であったのです。)

また、その大和川が金剛生駒山脈につきあたる奈良県側のポイントに栄えたのが葛城氏で、馬見古墳群があります。葛城氏は応神王朝期に多くの皇后を輩出し、河内集団とも強いつながりを持ちました。


その河内集団のトップで、私が仲哀天皇にあたる人物と考える津堂城山古墳の被葬者は、河内地域をおさえ、西方諸集団との関係を構築することによって、王権内部での地位を高め、佐紀古墳群の姫(神功皇后)と婚姻し、佐紀勢力同士の権力争いを制し大王クラスになったのです。


その次代にあたる仲津山古墳の被葬者=応神天皇にあたる人物は、ついに佐紀政権に代わる強力な大王として河内政権をゆるぎないものにします。その次の仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘である磐之媛命を皇后として履中・反正・允恭の皇子を成しました。このことは、応神系の政権が佐紀古墳群の集団より、馬見古墳群の葛城氏系の集団を盟友とし、提携重点をそこに移していったことを意味しています。

↓大和川水系に集中する巨大古墳群

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↑ご覧のように、奈良盆地の大和川水系が古ヤマトの場所ですが、大和川が西の山脈に当たる場所に馬見古墳群があり、そこから山脈を出て大阪平野に出る場所に古市古墳群があります。
また、奈良盆地の北で大和川水系の北部には佐紀古墳群があり、山城・近江方面の淀川水系と接しています。
こうした大和川水系の重要地点に、政権が移り変わり、巨大古墳が築かれたわけですが、これはまたヤマト政権が大和~河内地方を基盤とする連合の政権であったことを示しています。



さて、津堂城山古墳の被葬者は、河内政権で最初に大王クラスとなった人物です。そこで自らの墳墓は、二重の盾形周濠・周堤、造出し、巨大石棺、水鳥形埴輪など新企画で豪華なものとしました。
この時期、巨大な大王墓クラスの古墳ほど新しい装いで登場し、逆に中規模以下の前方後円墳は、旧の伝統的な形態である例が多いのです。その中規模古墳の代表が、古室山古墳であり続いて造られた野中宮山古墳です。


古室山古墳は、大王たる津堂城山古墳の被葬者の下の、有力家臣クラスの墳墓であり、旧来の形態の古墳を希望した人物が葬られていると考えます。多分、老臣といったイメージの被葬者像が浮かびます。


次の世代になると、巨大な仲津山古墳という大王墓が築かれます。
この巨大古墳は、国府台地の最高地点に造られるのですが、そこにはすでに先代の老臣の墳墓である古室山古墳がありました。そこで異例ですが、前方部を接した形で、仲津山古墳が誕生したのです。

古室山古墳と非常に接近させる形にはなりますが、あえてそうしてまでも、国府台地の最高地点に造営することを選んだのです。これには、最も良い場所を使うという大王の強い意志が感じられます。

前に、仲姫命陵古墳の真の被葬者は誰か? という記事で書きましたように、この最重要地に造営された仲津山古墳の被葬者としては、応神天皇にあたる人物以外には考えられないと思います。



本記事を書くに際して、特に参考にした書籍は以下の三冊です。

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2018年 08月 14日 |

近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。

駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。

このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。

↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。

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私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。


もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。


↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。

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これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。

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仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。

これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。

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白石氏らの研究によると、この古墳は造営当時は外溝などを含めた墓域が非常に広く、300mをこえ、当時としては日本最大の墓域を誇る古墳でした。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。

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つまり、この巨大古墳は、河内政権初期の大王級の墳墓であることは間違いありません。


4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。


現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。



「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。

「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、そこからより大胆に推理します。

継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。


すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。

確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。


仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。

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そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。

応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。

この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?

記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。


応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。

ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。


すなわち、仲哀天皇にあたる応神天皇の父が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。


記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。


記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。

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上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。


私の推理は以下のとおりです。

まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。


ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。


続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。

最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。

以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。



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