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2018年 05月 16日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「驚きのマルタ国立考古学博物館で世界最古の巨石文明の謎に迫る!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。
世界最古の巨石文明の遺跡から発掘された本物の出土品が見られる考古学博物館を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





本ブログでも、「たびねす」とタイアップして、マルタ国立考古学博物館をより詳しく紹介します。


マルタはリゾートと騎士団の城塞都市観光が人気ですが、実は先史時代の圧倒的な巨石神殿が素晴らしく、世界遺産として尽きせぬ魅力があります。その神殿出土品の実物展示があるのが首都バレッタにあるマルタ国立考古学博物館です。


マルタ国立考古学博物館があるのは、首都バレッタの中心にあるレバブリック通り。古く歴史を感じさせる建物に、印象的な Archaeology という幟が下がっているのが目印です。

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決して大きなミュージアムではないですが、中は意外にも多くの展示物が並んでいます。遺跡現場ではレプリカが多いのですが、この博物館にあるのは全て本物。入場料も決して高くありませんので、気軽に訪れることができます。


ここは聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)のプロヴァンス出身者の宿舎であったオーベルジュ・ド・プロヴァンスという建物を博物館として改装したものです。とはいえ、騎士の館の雰囲気は残しており、入場すると一階玄関屋根の美しいフレスコ画が迎えてくれます。


↓一階玄関天井のフレスコ画

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二階廊下と二階中央の大広間は展示室として使われず騎士団時代の装飾がそのまま残されており 華麗なものです。

↓大広間

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一階は魅力の巨石文化時代の展示コーナー!

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↓巨石の各パーツで重要なものが展示されています。

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↓巨石を運んだと思われる丸い石

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巨石神殿は巨大な石を積み上げてクローバー型に部屋が配置された不思議な構造をしています。どのような目的でこのような神殿が造られたのか謎は深まるばかりです。

↓巨石神殿の構造模型(ジュガンティーヤ神殿)

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↓参考にジュガンティーヤ神殿の現地で撮った写真も載せておきます。

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マルタには、イムナイドラ、ハジャーイム、ジュガンティーヤ、タルシーン、ハイポジュームなどの巨石神殿があり、「マルタの巨石神殿群」として世界遺産に登録されています。

これらの現場に行くと、巨石文化巨大なスケールを感じることができます。ただし、現地の出土物等はレプリカが置いてあり、本物はこの考古学博物館でないと見ることができません。


マルタの巨石神殿で最古のものはゴゾ島のジュガンティーヤ神殿で紀元前3600年前(今から約5600年前)に築かれました。これはエジプトの大ピラミッドより1000年ほど古く驚異的な建造物。考古学博物館でもこのことを示したパネルがあり、世界最古の巨石文明であることが強調されています。

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とにかく、エジプトのピラミッドより遥か昔に、このような巨石文明が栄えたことは驚異的です。トータルするとマルタには巨石神殿が30カ所以上残されており、なぜこの小さな島にこんな神殿が多いのか、まさに大きな謎です。世界最古の宗教遺跡群ともいえ、ひょっとして、地中海を広範囲に支配していた宗教的文明の中心地であったのかも知れません。




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2018年 04月 18日 |

文責:菊池模糊

私が堺市に引っ越してきた時、最初に住んだのが上野芝という町だったのですが、ここは百舌鳥駅から一駅南で、いわゆる百舌鳥古墳群に近い場所でした。歴史好きな私は、当然、大きな古墳に興味が湧き、時間を見つけては自分なりに歩き回って調べたものです。
以来、証拠として最も科学的なものである考古学調査研究の成果にも、常に気を配って情報を得て来たつもりですので、大古墳の被葬者に関して自分の中では一応の結論を得ました。


このたび、「百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)」の世界文化遺産登録への推薦が決まったことから、いずれ古墳の被葬者の問題は、避けては通れないものとなります。
世界遺産の指定はたいへん喜ばしいことですが、いまだに被葬者が誰かは諸説あり不明確な上に、築造時に天皇という言葉はなかったわけですから、「仁徳天皇陵古墳」という名称には大いに疑問があります。


そこで私は、いわゆる「仁徳天皇陵古墳」については考古学者らの提唱にあるように「大仙陵古墳」とし、同じように現・応神陵については「誉田御廟山古墳」、現・履中陵については「上石津ミサンザイ古墳」、現・反正陵については「田出井山古墳」という名称で以下に記述し考察を進めます。

ということで、私が40年近く考え続けてきた、百舌鳥古墳群の大王墓の被葬者についての見解を、この機会に披露します。

↓百舌鳥古墳群

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百舌鳥古墳群で、大王墓の可能性のある大きな古墳を全長順に並べると以下のようになります。誉田御廟山古墳については古市古墳群に属しますが、関連性が非常に重要なので紺色で参考に入れました。


大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵  (築造順5)
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵  (築造順2)
上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  (築造順1) 実際は400m以上
土師ニサンザイ古墳  300m           (築造順7)
御廟山古墳      203m           (築造順4) 
田出井山古墳     148m ←現・反正天皇陵  (築造順6)
いたすけ古墳     146m           (築造順3)


【*大仙陵古墳の全長は、2018.4.13の宮内庁書陵部の測量を取材した新聞報道記事による】

最近の堺市の調査により土師ニサンザイ古墳の全長は約300m以上とされました(全国第7位)ので、上位4つの古墳が300mを越す(それ以下は200m程度以下なので)隔絶して大規模な、大王墓であることは疑いようがありません。


203mの御廟山古墳は、微妙です。大王墓としては小さいですが、陪塚(大古墳の付属墓)とするには大きいです。それでも、田出井山古墳を天皇陵とするのに比べれば、はるかにましです。大王墓の可能性はなきにしもあらずですが、やはり大王の血縁者か、大王に次ぐ有力な権力者の墓の可能性が高いでしょう。

↓御廟山古墳(1)・・・・なかなか大きな規模で現在は住宅に取り囲まれています。

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↓御廟山古墳(2)
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反正天皇陵に治定されている田出井山古墳は、土師ニサンザイ古墳や御廟山古墳に比べてはるかに小さく、大王墓としては、大きさの点からは、全くふさわしくありません。したがって、田出井山古墳が反正天皇陵であるという説は否定されます。

↓田出井山古墳(1)・・・方違神社の裏にあり半周するのにさほど時間のかからないやや小さな古墳です。

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↓田出井山古墳(2)
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田出井山古墳と同規模の、いたすけ古墳も小さすぎ、大王墓ではありません。私が近くに引っ越してきた頃は、いたすけ古墳は丸裸で周壕は釣り池として利用されていました。丸裸の古墳の規模は、確かに大王墓としては小さいなあというのが実感でした。いたすけ古墳は御廟山古墳の近くで築造時期もかぶるので、両古墳の被葬者は関連性があるのかも知れません。

↓いたすけ古墳(1)・・・手に取るように近くで見られるやや小型の古墳です。

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↓いたすけ古墳(2)
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古墳の造られた時代については、最新の精密な考古学の知見により、絶対的な年代については完全ではないものの、相対的な造営の順番というのは明らかになってきています。特に、百舌鳥古墳群の三つの巨大古墳では、築造順1(上石津ミサンザイ古墳)→築造順5(大仙陵古墳)→築造順7(土師ニサンザイ古墳)という順番は入れ替えがたいものです。


そこで、上記のうち田出井山古墳と、いたすけ古墳を除き、大王墓の可能性がある巨大古墳を、築造順に並べてみます。


上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵
御廟山古墳      203m
大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m 


これを見てみると、仁徳天皇の子である履中天皇が一番古くなってしまい、現在の治定とは矛盾します。少なくとも一番最初につくられた上石津ミサンザイ古墳が、一番若い履中天皇の陵である可能性は全くないでしょう。


もし、百舌鳥古墳群だけを考えれば


上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵
大仙陵古墳      525m ←履中天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m ←反正天皇陵


とすれば簡単に確定できます。


ところが、誉田御廟山古墳を筆頭とする古市古墳群を考慮すると話が変わってきます。
なぜなら、上石津ミサンザイ古墳は誉田御廟山古墳より古いわけですから、応神天皇の子である仁徳天皇の陵墓が先に造営されたことになり、歴史的系譜と矛盾します。


↓私の尊敬する白石太一郎教授が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表

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↑この編年図表は円筒埴輪の変遷などの精緻な考古学的研究から作成されたもので、絶対年代はともかく古墳の造営順については非常に信頼性が高いものです。

以下に論述する私の被葬者比定は、この編年表を最も重視し、これと矛盾しないように考えたものです。


この考古学的編年表と歴史文献の整合性が部分的に得られないことが大きな課題です。(私見では、歴史文献に迎合しない結果が出るということこそ、この編年表の正しさを表わしていると思います)


ここで、いったん考古学的視点を留保して、文献歴史学的考察をしてみます。


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文献的な歴史学については、中国と日本の文献があります。


まず、中国の『宋書』巻九七(倭国伝)に登場する「倭の五王」は年代が確実なので有力な手掛かりになります。
すなわち、讃・珍・済・興・武の五王となります。


日本側の文献は、絶対年代が非常に不確定なので問題がありますが、少なくとも大王の系譜と業績が書かれているので比定することは可能なはずです。
また、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に象嵌された文字「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が『日本書紀』にある「大泊瀬幼武(おおはつせのワカタケル)」の雄略天皇と考えられ、『宋書』の倭王「武」とピタリと符合します。

この「武」が雄略天皇であることから逆算して、「興」は安康天皇または木梨軽王子(この二人の関係問題は後述)、「済」は允恭天皇であることはほぼ確実です。済の子が興と武であるという『宋書』の記述が、『日本書紀』の允恭天皇の子が木梨軽王子(か安康天皇)と雄略天皇という系図と一致するからです。


問題は、讃と珍です。
ここは、応神、仁徳、履中、反正の各天皇の誰を当てるか諸説が入り乱れており、まさにこの記事の課題である、百舌鳥古墳群の三大王墓(プラス誉田御廟山古墳)の時期と一致し、応神王朝論や河内王朝論ともからんで、複雑です。
『宋書』を重視すれば、讃と珍は兄弟とありますので、履中天皇と反正天皇であるとするのが自然です。
ところが、記紀の記述から重要な天皇である応神と仁徳の両天皇のいずれかを讃としたいという思惑が論者にあるのです。(それは誉田御廟山古墳を応神陵、大仙陵古墳を仁徳陵とするべく、その造営年代を整合させたいからです)


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そこで、日本文献での百舌鳥古墳群の大王墓の説明を整理してみます。


応神天皇については、『日本書紀』では場所についての記述はなく、『古事記』では川内恵賀之裳伏岡となっています。これは、現在の河内恵我之荘のことです。

応神天皇の子とされる仁徳天皇については、『日本書紀』では百舌鳥野陵、『古事記』では毛受之耳原となっています。これは現在の百舌鳥耳原にあたります。また、生前に石津原に行幸し陵墓の場所を決めたという意味の重要な記述があります。

仁徳天皇の子とされる履中天皇については、『日本書紀』では百舌鳥耳原陵、『古事記』では毛受となっています。

履中天皇の弟とされる反正天皇については、『日本書紀』では耳原陵、『古事記』では毛受野となっています。

この、記紀の記述は、考古学的な編年と整合しません。
考古学的な大王墓の造営順は、ほぼ古市と百舌鳥の交互になっており、百舌鳥に三代連続したとする記紀と矛盾するのです。(履中天皇が古市であるとすると、うまく行くのですが・・・・)


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次に、905年に書かれた『延喜諸陵式』によれば、仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵、履中天皇陵は百舌鳥耳原南陵、反正天皇陵は百舌鳥耳原北陵となっています。

これに基づき宮内庁の現在の陵墓の治定がなされているわけですが、この『延喜諸陵式』についてはどこまで信じてよいか疑問があります。何より平安時代の10世紀に書かれたものですので、5世紀の陵墓については、築造後約500年となり確実な証拠があったとは思えません。『延喜諸陵式』の記述自体、記紀に基づいており、その点からすれば、まだしも記紀のほうが信用できるでしょう。

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『延喜諸陵式』による百舌鳥三陵の治定に関連して、反正天皇陵については、南北軸線で北側に前方後円墳の円墳側があることが天皇陵の証拠とする説があります。しかし、実際には大王墓は南北軸線であるとは限らず、いろいろな方向を向いています。(例えば、下に掲げた古市古墳群の分布図を見ていただければ分かるように、同時期の重要古墳である現・応神陵の誉田御廟山古墳は南南東を向いています)
『延喜諸陵式』自身でも、反正天皇陵は「兆域東西3町、南北2町」としており、これは南北に長いのではなく東西に長い古墳であることを示しています。

私見では、大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています。この記事の一番最初に掲げた百舌鳥古墳群の配置された地図をご覧ください。小さな陪塚を除けば、西側の海に面した古墳は全て南北軸で、そこから内陸へ向かう街道に沿った古墳は全て東西軸であることが一目瞭然です!
百舌鳥古墳群はこの地形の構造と見せたい方向(より大きく見える長辺側を海と街道に見せる)に基づいたL字型の配置になっており、軸線方向は大王墓であるかどうかとは関係ないのです。


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考古学でも文献歴史学からでも、百舌鳥古墳群だけでは解決しないというのが20年くらい前の私の結論でした。
そこで、古市古墳群を含めて総合的に判断する必要があると考え、そこから調査研究の範囲を広げ、いろいろ考えてきました。


その際、指標となったのが、やはり、考古学的立場を基礎としながらバランスのある総合的判断をされる白石太一郎教授の論考です。 参考:『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』(文春新書、1999年)、『考古学と古代史の間』(筑摩書房・ちくまプリマーブックス、2004年)のち学芸文庫 、『近畿の古墳と古代史』(学生社、2007年)、『天皇陵古墳を考える』編 今尾文昭,高橋照彦,森田克行共著(学生社 2012年)、『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎 2013年)など


白石氏は古墳時代の大王墓を、畿内の大型古墳の編年を明確にすることで明らかにしようとされています。
具体的には、たとえば3世紀中葉から4世紀中葉の大王墓は、造営順に

(1)箸墓古墳(現・倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現・手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行燈山古墳(現・祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現・景行天皇陵)

の6基であるとされています。

そして、被葬者については、箸墓古墳は女王卑弥呼、西殿塚古墳は女王台与、行燈山古墳は崇神天皇を比定されています。


私は、この白石氏の3世紀~4世紀の考察は、きわめて理にかなったものと思います。
(なお、卑弥呼と箸墓古墳については、こちら で私見を書いていますのでご覧ください)


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では、私のリスペクトする白石氏は倭の五王時代については、どう考えておられるでしょうか?

「・・・・四世紀末葉になると今度は大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に(9)仲津山古墳(現仲津媛陵、286m)→(10)上石津ミサンザイ古墳(現履中天皇陵、365m)→(11)羽曳野誉田御廟山古墳(420m)→(12)大仙陵古墳(486m)が営まれます。」「それ以降は、百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳、あるいは古市古墳群の岡ミサンザイ古墳(現仲哀陵)のように大王墓と考えざるをえない大型古墳もありますが、全体的に古墳の小型化の趨勢もあって、大王墓を選び出すことが難しくなります。」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012、P143)


つまり、百舌鳥古墳群と古市古墳群を合わせた造営順の大王墓としては以下の古墳があるとされています。(市ノ山古墳は現・允恭陵なので私が独自に掲載)
そして、以下の←印で示すように、白石氏は誉田御廟山古墳については応神天皇に、大仙陵古墳は仁徳天皇に比定されています。

仲津山古墳      290m ←?
上石津ミサンザイ古墳 365m ←?    (現・履中天皇陵) 
誉田御廟山古墳    420m ←応神天皇陵(現・応神天皇陵)
大仙陵古墳      525m ←仁徳天皇陵(現・仁徳天皇陵)
市ノ山古墳      230m       (現・允恭天皇陵)
土師ニサンザイ古墳  300m          
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵)


私が特に目を開かれたのは、「大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に」大王墓が営まれたとする記述です。
上記に市ノ山古墳を入れたのは、ご覧のように見事に大王墓が、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に並ぶからです。


古市古墳群と百舌鳥古墳群の一体性については、白石氏は次のように述べています。

大阪平野南部に大王墓が営まれるようになったということは、大阪平野南部の河内・和泉の勢力が、大王権を掌握した結果にほかならない。」
「また、それは高句麗の南下にともなう、四世紀後半の東アジアの国際情勢の大きな変化に連動する政治変動と捉えることができます。」

邪馬台国以来の呪術的性格の強い大和の王権では対応できず、それ以前からヤマト王権の基盤であった大和・河内・和泉連合の中で、朝鮮半島などとの外交や交易を担当していた大阪沿岸に近い河内・和泉の勢力が王権内のリーダーシップを担うようになったのは、むしろ当然の成り行きでしょう。」


このあたりの時代把握についての総論は、私は白石氏の考え方に全面的に賛同します。さすがの慧眼だと敬服します。


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ただし、各論というか各古墳の被葬者の比定については、私は白石氏と違った考えを持っています。以下、私見を述べます。


白石氏自身が述べておられますが、「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」それ以前に、この地に二人の大王が君臨し、「応神天皇はそれにつづく河内王家としては三代目の大王と考えるほかはありません」(『天皇陵古墳を考える』学生社)

まさにここが大きな問題です。
上石津ミサンザイ古墳のように超巨大な古墳を築いた者が、大王(=後世の天皇クラス)以外に可能でしょうか?
私はそれは無理だと思います。白石氏も紛れもなく大王墓であることは認めています。ただ、造営当時は日本最大で、現在に至っても日本で三番目の超巨大古墳である上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵)の被葬者が無名(記紀に載った天皇クラスではない)というのは苦しいです。


よって「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきではないでしょうか?

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。
「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はないといわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、より大胆に推理します。
継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。

すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです

↓古市古墳群の分布図

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なにしろ応神天皇は、記紀で、神功皇后が三韓征伐におもむいた際に、父とされる仲哀天皇の死後、1年以上たってから生まれたという胎中天皇で、伝説に彩られています。仁徳天皇の事跡を応神天皇のものとする部分もあり記紀の記述の混乱もみられます。八幡神とも一体化されます。

そこで、応神天皇は途絶えた崇神王朝を征服した河内王朝創始者であるとか、祖先神であって実在しない天皇であるとか、仁徳天皇と同一人物であるとか、応神天皇こそが神武東征にあたることを実施した大王だとか、大陸からの騎馬民族の征服王であるとか、河内勢力に入婿してきた外部からの大王とか、いろいろな考え方もあります。


特にこの時期は、崇神王朝末期の混乱期でもあり、武内宿禰、ヤマトタケル、神功皇后、仲哀天皇といった神話的人物が多く登場し、にわかには信じがたい記述も多くあるところです。


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。
確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初の大王墓である仲津山古墳です。

仲津山古墳は、造営された当時としては最大級の300m近い堂々たる古墳で、現在でも全国第9位で、造営時には現・景行陵とされる渋谷向山古墳に次いで2位です。この古墳の特徴は広い墓域で、濠や外堤を含むと総全長は440mにも及び造営当時は日本最大の墓域の古墳です。その後つくられた三古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるのです。

あくまで独断的私見ですが、上で書いた白石氏の3世紀~4世紀の大王墓(1)~(6)の中の崇神王朝最大の渋谷向山古墳の規模をこえない配慮が見られます。応神の次の仁徳の代になると、その配慮は不要になり超巨大な上石津ミサンザイ古墳が築かれたのです。また、仲津山古墳が国府台地の最高地点に築かれた古墳であるのも意味があると考えます。

仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。


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次の仁徳天皇については、造営順に上石津ミサンザイ古墳(現・履中陵)が当てられます。この天皇は記紀での記述が多く、仁政をひいたとして重要視されてきました。長命で、上町台地の上に難波高津宮を築き、現・大阪府に大規模な治水土木事業を行いました。まさに父の応神天皇の後を継いで河内王朝の覇権をゆるぎないものにした人物です。

『日本書紀』を読んでみて印象的なのは、仁徳天皇が「石津原に幸して、以て陵地を定めたまふ」とあるところです。私のように近くに住んだ経験のある者はよく分かるのですが、まさに上石津ミサンザイ古墳は石津川沿いにあるのに対し、大仙陵古墳は上石津ミサンザイ古墳が造営された後では石津川沿いとは言いにくいのです。このくだりで、私は現・履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳こそが、真の仁徳天皇陵にふさわしいと感じました。

石津川沿いで海に面した百舌鳥の広大な原野に、はじめて超巨大な大王墓が築かれたからこそ、日本書紀の行幸のエピソードが強く記憶に残り伝承され、記録されたのでしょう。また。考古学的にも上石津ミサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群で最初に造営された巨大墳墓であることは実証されています。

当時、現・応神陵とされる誉田御廟山古墳や現・仁徳陵とされる大仙陵古墳は、まだ存在しませんから、上石津ミサンザイ古墳は、日本最大の画期的な超巨大古墳でした。

上石津ミサンザイ古墳は、近世に濠が農業用水として利用されてたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをこえることは確実です(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁)。誉田御廟山古墳に近い大きさなのです。現在でも巨大な質量を感じる迫力があります。

仁徳天皇が、生前に行幸して、この百舌鳥の地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです(百舌鳥は好立地なのですでに豪族墓である乳岡古墳がありましたが大王級の墓は仁徳天皇が最初)。それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

私の独断的想像では、仁徳天皇は皇太子(後の履中天皇)に対し、次は応神の眠る古市の地に大きな墳墓を作ることを指示し、その次は、百舌鳥の地につくるという形で、両墳墓地の併立を決めたのでしょう。旧の奥津城である古市の地を忘れないようにするとともに、新しい百舌鳥にはさらに誇示する墳墓地として巨大墓を造成するように息子たち(後の履中と反正)に願いを託したのです。
こうして、大王墓は、河内王権の中心地に近い古市の地と海に面した百舌鳥の地に交互に造営されることになります。


↓上石津ミサンザイ古墳(1)・・・まさに巨大なマッスを感じさせる形の崩れのない美しい大古墳。非常に丁寧に造られています。

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↓上石津ミサンザイ古墳(2)

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次の履中天皇と反正天皇は、父の仁徳天皇の遺言を守り、根拠地の中心である古市と新開発した百舌鳥に交互に巨大古墳を造成します。

おそらく、父の超巨大古墳(上石津ミサンザイ古墳)に強く刺激され、父をこえることを目指したのでしょう。これは、履中と反正の二人が、倭の五王の讃と珍として、宋に朝貢しはじめたことに繋がりがあります。

すなわち、高句麗の南下により倭国と同盟関係にあった百済が危機に陥りました。そこで、当時、中国の南朝に建国された宋王朝に接近し、その官号や爵号を得て朝鮮半島での高句麗との争いを優位に運ぼうと目論んだのです。その倭国の力を誇示するためにも、墳墓をさらに巨大化し、超巨大古墳をつくる必要があったのです。

それが、誉田御廟山古墳であり大仙陵古墳です。ということで、私は、誉田御廟山古墳を倭王讃である履中天皇の墳墓に、大仙陵古墳を倭王珍である反正天皇の墳墓に比定します。

誉田御廟山古墳と大仙陵古墳は同じ設計で、誉田御廟山古墳をより引き延ばしたのが大仙陵古墳というのがよく知られた定説で、兄弟天皇としての順番にも、『宋書』の讃と珍が兄弟であるという記述にも整合します。

履中天皇の治世がやや短いことから、誉田御廟山古墳では大きすぎると考える方もいるかもしれません。しかし、仁徳天皇は長命で履中は皇太子でしたから実質的な政務をとった期間は長かった可能性が高いのです。『日本書紀』では70歳、『古事記』では64歳で崩じたと書かれており、履中天皇もある程度は長命であったと思われます。

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ここからは、独断的私見ですが、岡山県の造山古墳の影響もあると考えます。この造山古墳は5世紀中ごろつくられた350mの超巨大古墳です。場所的には、古くは福岡の伊都国から大和の邪馬台国に至る中継地として栄えた投馬国の流れをひく岡山県吉備地方にあり、この地域の有力者の墓と思われます。時期的には上石津ミサンザイ古墳の後で、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳の少し前と考えられます。おそらく当時新たに大阪湾にそびえることとなった上石津ミサンザイ古墳を見て刺激された吉備の王が我も力を誇示しようと自領に造営したのでしょう。

この吉備勢力は古くから力を有し畿内の大王一族とも通婚関係があり敵対するものではないので、大きさは上石津ミサンザイ古墳をわずかに下回る350m(但し周濠なし)で、当時最大の大王墓を凌駕しないよう配慮して造営されています。とはいえ、吉備勢力の実力を体現し、畿内の大王なにするものぞという対抗心も表現されています。

想像するに、吉備で巨大古墳が造営されているという情報が伝わり、履中天皇や反正天皇は大王としての面子にかけて大きさで負けるわけにはいかなかったのです。造山古墳をはるかに上回る規模がめざされたのです。

ということで、あわてて造成された超巨大古墳であったために、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまったのです。
それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも等高線の乱れはありません。これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しており、私が上石津ミサンザイ古墳こそ仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。

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最近、大仙陵古墳から出土した須恵器の甕については5世紀の中頃以降とされ、明治時代に県令・税所篤が発掘させた時の絵図の長持式石棺・眉庇付冑などが5世紀中頃以降という鑑定とも一致しました。つまり、これらからも大仙陵古墳は、仁徳天皇時代とするには新しすぎ、やはり仁徳天皇の子の世代の大王墓でしょう。


私が大仙陵古墳の被葬者と考える反正天皇は、仁徳天皇の三男で、母は葛城襲津彦の娘である仁徳皇后:磐之媛命です。つまり履中天皇の同母弟で、仁徳の次男である墨江中王の反乱を鎮め皇太弟となりました。反正天皇の在位期間は短いものの治世は「五穀成熟れり。天下太平なり」と『日本書紀』にあります。古事記では60歳で没したと書かれています。穀物が豊作で大きな事件もおこらず平和な御世であったようで、国力も充実していたと想像されます。

また、反正天皇の都は丹比柴籬宮で、現在の松原市上田の柴籬神社が伝承地とされていますが、ここは古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に位置し、当時の大王の都としては最も百舌鳥古墳群に近い場所です。私見では、反正天皇は大仙陵古墳の被葬者としてふさわしいのです。

大仙陵古墳が先王の誉田御廟山古墳より大きいのは、国力が充実していたのと、海に面した百舌鳥の地が古市の地より、古墳の大きさを誇示する場所として価値があったからです。



↓大仙陵古墳(1)

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↓大仙陵古墳(2)
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次の倭王の済は、当然、允恭天皇となり、墳墓は順番からして古市に造営されますから、市ノ山古墳が整合します。
もっとも、允恭の墳墓としては小さいという問題があり、それを重要視すると、より大きな土師ニサンザイ古墳が允恭墳墓である可能性も残されています。

ただ私は、允恭から雄略に至る段階では、宋王朝に対して繰り返し求めてきた朝鮮半島での軍政権が思うように認められず、巨大墳墓を誇示して大陸外交を進めていく意味が薄れてきたのではないかと考えます。

また、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳で、吉備など地方勢力に対する近畿の大王の権力を完全に示すことができたので、それ以降は、より巨大な古墳を築く必要もなくなったのです。

したがって、古墳の規模は大仙陵古墳を頂点として縮小していく流れにあり、その先鞭をつけたのが允恭天皇の市ノ山古墳であると思います。とはいえ、市ノ山古墳は全長230mの堂々たる巨大古墳で、允恭天皇陵としてはふさわしいものです。


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その次の土師ニサンザイ古墳は、市ノ山古墳より大きく、全国第7位の大きさの美しい古墳です。先王の市ノ山古墳より大きいのですが、これは百舌鳥古墳群は海に近く、誇示という価値が古市古墳群より少し残っていたからだと推測します。

大王墓は古市と百舌鳥に交互に造営されたわけですが、古市古墳群におかれた先王の古墳より、百舌鳥古墳群におかれた次の新王の古墳がより大きいという法則は、ここでも貫徹しています。仲津山古墳<上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳<大仙陵古墳、市ノ山古墳<土師ニサンザイ古墳。私見ですが、これは百舌鳥の地が特に誇示する場所だったからです。古墳の配置から見ても、従来からの奥都城であった古市は古墳の方向などがバラバラでゴチャゴチャしているのに対し、百舌鳥の古墳は海からと内陸への街道から見られることを意識して綺麗なL字型に配置されています。このことは、百舌鳥は海と街道沿いに新たに開発された計画的な墓域であることを示しています。

土師ニサンザイ古墳の被葬者は、倭王の興が該当しますが、この人物が安康天皇であるかどうかが問題です。

実は記紀において、安康天皇の即位には不自然な記述が多々あります。まず、允恭の皇太子であった木梨軽王子が兄妹相姦の罪をかぶせられて失脚し、それを訴えた穴穂皇子が安康天皇となるのですが、天皇となって短期間で暗殺(眉輪王の変)されます。そして、なぜかこれまでの応神王朝で安康天皇だけが大和方面に葬られます。このあたり、詳しくは分かりませんが、とてもキナ臭い雰囲気が漂っています。

いっぽう、『宋書』では、倭王の興は「世子興」という表現が使われており、世子とはあらかじめ指名された王位継承者のことをいいますから、允恭天皇の長男で皇太子であった木梨軽王子のほうが、興にふさわしいようです。(わざわざ世子という表現にしたのは大王として即位しなかった意味か?)

允恭天皇は長命でしたから、在位中に皇太子の木梨軽王子が政務を取って外交を行った可能性があり、後に大王となる予定の皇太子(木梨軽王子)のために巨大墳墓(土師ニサンザイ古墳)が用意されたのではないでしょうか?

いっぽう安康天皇は急死(暗殺)だったので古墳が用意されておらず、やむを得ず大和地方に葬られたのでしょう。ただ、該当する奈良県の巨大古墳に適切な候補は見当たらず、大きな墳墓ではなかったのかも知れません。

あるいは、ひょっとして、木梨軽王子と安康天皇がバタバタと崩御したため、木梨軽王子用に造営されていた土師ニサンザイ古墳に、とりあえずという形で安康天皇が葬られのかも?・・・このあたりは全く想像の域を出ず、決定できるものではありません。

もし、安康墓が土師ニサンザイ古墳とするなら、木梨軽王子墓は少し小さい規模の前の山古墳(白鳥陵)ということになり、この可能性も十分にあり得ます。このあたりは、まだ確定させず判断留保したいです。そこで、私は土師ニサンザイ古墳については、現時点では「木梨軽王子または安康天皇陵」としておきます。


↓土師ニサンザイ古墳(1)・・・百舌鳥古墳群の最後を飾る最高に美しい古墳です。

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↓土師ニサンザイ古墳(2)
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その次の、倭王武は、雄略天皇であることは確実で、墳墓も岡ミサンザイ古墳で間違いないでしょう。
これは、現在の学会の主流の学説ですが、私も武=雄略天皇=墳墓:岡ミサンザイ古墳ということに関しては全く異論はありません。


この後、古市と百舌鳥の古墳群には巨大な古墳は造営されなくなります。(大王墓がここにつくられなくなったかどうかは別問題で、大王墓が小さくなったという可能性大)
ただし唯一、古市と百舌鳥と中間に、河内大塚古墳という謎の巨大古墳が出現します。河内大塚古墳は私も野鳥観察を兼ねて何度も足を運んで調査しており興味深い話があるのですが、応神王朝とは関係がないので、またいつか稿を改めて書くことにします。



<結論 私の百舌鳥・古市古墳群の被葬者比定 造営順>


仲津山古墳      290m ←応神天皇陵
上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵(現・履中天皇陵)
誉田御廟山古墳    420m ←履中天皇陵(現・応神天皇陵) 讃
大仙陵古墳      525m ←反正天皇陵(現・仁徳天皇陵) 珍
市ノ山古墳      230m ←允恭天皇陵(現・允恭天皇陵) 済
土師ニサンザイ古墳  300m ←木梨軽王子または安康天皇陵  興
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵) 武


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この私の比定は、誉田御廟山古墳を応神天皇陵とせず、大仙陵古墳を仁徳天皇陵としないので、現在の主流の説ではありません。
しかし、考古学的に精密に実証されてきた古墳の編年表に全面的に整合しています。
また、中国の史書にも整合しており、『日本書紀』や『古事記』とも、ほとんど整合しています。
記紀の記述と大きく異なるのは、ただ一か所、履中天皇の墓所が百舌鳥ではなく古市であるという点だけです。






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2017年 12月 02日 |

明日から国内旅行に行ってきますので、10日間ほどブログ更新を休ませていただきます。


国内の温泉でゆっくりする取材&短期滞在型の湯治の旅です。


実は、たまっているエミレーツ航空のマイレージポイントの一部が、12月に切れますので、それをなんとか有効に使いたいのです。とはいえ、さすがに海外はすぐには無理です。


エミレーツ航空のマイレージは、JALのチケットにも交換できるので、これまで、あまり行ったことののない温泉のある県ということで、探したところ、大阪―秋田のJAL往復チケットがポイントで取れました。12月中旬以降のJAL便は、満席で難しいのですが、12月はじめなら空いていたのです。


モロッコでは主にシャワーだけのホテルで旅してきましたので、日本の湯の花散る温泉大浴場露天風呂で骨休めしたいのです・・・・
足の持病の温泉治療の意味合いもあり、大浴場もある中級温泉宿に滞在して、ゆっくりしてきます。


確保した宿は、秋田県の山沿いにあるので、この季節、大雪が心配です。もし暴風雪なら宿に閉じこもって、湯治しながら読書と記事でも書くつもりです・・・・



さて、モロッコの歴史の話です。以下、モロッコ史前半の幕間期のまとめを、モロッコで撮影した車窓風景をお楽しみながら、気楽にお読みください。

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日本では、エジプトを筆頭にトルコやイランの歴史については多くの研究があるものの、モロッコ史については、あまり詳しい資料がありません。
読みやすいポピュラーなモロッコの歴史に関する書籍が少なく、私の知る限り、文化史家の那谷敏郎氏の『紀行 モロッコ史』(新潮選書)があるくらいです。
私の記述の多くは、この那谷敏郎氏の著作に負っていることを申し添えます。

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紀元前2~1世紀:北アフリカの現チュニジア~アルジェリア東部ににヌミディア王国、その西にはマウレタニア王国(現モロッコ~アルジェリア西部)が興りました。


前25年、ローマ初代皇帝アウグストゥスによってマウレタニア国王に任命されたのが、元ヌミディア国王だったユバ1世の子ユバ2世です。このユバ2世は、ローマで王族人質として育った後、クレオパトラ・セレネ(アントニウスとクレオパトラの娘)を妻とし、ローマ支配下の王国としてヴォルビリスに都を構えました。


ユバ2世の子プトレマイオスの没後、ローマ帝国皇帝クラウディウスは、マウレタニアをローマ直轄の属州とし、東西2つに分割して統治しました。その西側部分がマウレタニア・ティンギタナで現在のモロッコにあたります。

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ローマ属州としてヴォルビリスを中心に大いに栄えたモロッコでした。オリーブ・オイルや小麦を生産し、アフリカからの金をはじめとする鉱物資源や動物皮革など諸物資の交易でも中継点として重要な役割を果たしました。
しかし、ローマ帝国の弱体化に伴い、その後のモロッコは、しばらくは暗黒時代というか、歴史の幕間になります。


すなわち、西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入により、476年に、あっけなく滅亡します。
その少し前、429年に、イベリア半島から渡って来た、ゲルマン部族のヴァンダル人が侵入し、北アフリカを蹂躙します。
この時も、北アフリカのマグレブの地は、イベリア半島と運命をともにするのです。

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ヴァンダル人はゲルマン系ではなくスラブ系という可能性も高いですが、ゲルマン人の民族移動と連携して行動し、ライン川を渡ってガリア地方からイベリア半島、そして北アフリカまで進出しました。現モロッコを通過し、現チュニジアにあるカルタゴの故地にヴァンダル王国を建国しました。


ヴァンダル族の起源は諸説あるものの、とにかく現ポーランド付近から現チュニジア付近まで移動したわけですから、凄いものです。一時的に滞在したスペインでは「アンダルシア」(ヴァンダルシア)の語源となり、破壊行為を意味するヴァンダリズムという言葉も生みました。約100年のあいだ北アフリカを拠点に、シシリア・サルディニア・コルシカ・マルタなども支配したのです。


宗教的には、ヴァンダル族の主力はキリスト教アリウス派であったようですが、ドナトゥス派も有力で、カトリックやミトラ教もあり、紛争が絶えませんでした。

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東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、ローマ帝国の再統一をめざし、ヴァンダル王国の混乱に乗じて、対ササン朝ペルシア戦で大活躍したベリサリウス将軍を派遣し、534年にヴァンダル王国を滅亡させました。


モロッコを含むマグレブの地は、再びローマ世界に組み入れられたのです。この時点で、またまた北アフリカは、イベリア半島と同状況です。


しかし、このユスティニアヌス1世によるローマ再統一も長く続かず、帝国首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)での黒死病(ペスト)の流行もあり、東ローマ支配は強力なものになりませんでした。モロッコなどではベルベル人の反乱が多発したようです。


↓ウィキペディアによる565年ごろの東ローマ帝国の地図ですが、モロッコでは北端のタンジェ付近のみが帝国領になっています。

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この頃は、モロッコの詳しい状態は分からず、まさに歴史の幕間です。


やがて、次の世紀:7世紀に入ると、歴史は新しい段階に入ります。
それは、東方でのイスラム教の誕生と、その勢力の急激な拡大です。
モロッコもその新しい歴史の波に、飲み込まれていくのです・・・・


↓イスラム以前のモロッコ史の簡単なマトメ

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<たびねす記事もよろしくお願いします>



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2017年 11月 23日 |

「たびねす」に、私の「モロッコ最大の古代遺跡ヴォルビリス」の紹介記事が掲載されましたのでお知らせします。
2000年前のモザイクが、現場で間近に見学できる非常に貴重な遺跡ですので、ぜひご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。





本ブログでも、「たびねす」とタイアップして、モロッコ文明の発祥地でもあることから、より詳しいヴォルビリス遺跡を書いてみます。


モロッコはアフリカ大陸の西端にあり、ジブラルタル海峡を挟んでヨーロッパ大陸と接しており(イベリア半島と最短でたった14km!)、古くから経済文化の交流する場所でした。


有史以前もモロッコとイベリア半島は文化を共有しており、同じような民族(現在のベルベル人やバスク人の祖先)が住んでいました。
その後、ケルト人が中欧地域からイベリア半島に進出してきました。ケルト人が西欧のネイティブというのは誤った認識で、ケルト人もゲルマン人と同じように後から民族移動してきた人たちです。

歴史時代に入ると、紀元前12世紀頃からフェニキア人が、北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域で活躍し、カルタゴを中心に大繁栄しました。ここヴォルビリス遺跡でも、フェニキア人の痕跡が発掘されているうそうですが、まだ詳しくは分かっていません。ただ、モロッコに最初の都市文明をもたらしたのが、フェニキア人であったのは間違いありません。


しかし、イタリア半島の都市国家ローマが勢力を拡大してきました。紀元前3世紀から紀元前2世紀のポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴは壊滅し、フェニキア人は滅亡しました。


やがてローマは地中海世界を制覇し、現在のイベリア半島もモロッコも同じようにその支配下に入りました。

↓ヴォルビリス遺跡入り口にあった、ローマの全領土を示す地図。

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↓上記地図のイベリア半島とモロッコ付近を拡大。図左下、私が黄色で線を引いた場所が、ヴォルビリスで、当時、マウレタニア・ティンギタナというローマ属州(北アフリカ西部)の首都でした。

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モロッコ北中部のこのあたりは、北にリフ山脈、南に中アトラス山系(モワイヤン・アトラス)に囲まれた標高500m前後の広い高原地帯で、気候が快適で適度な雨も降り、肥沃な地域でした。

この後、聖都ムーレイ・イドリスや旧都フェズ、新都メクネスのいずれも、この高原地帯に築かれます。まさに、ヴォルビリスを嚆矢とするモロッコ文明の揺籃の地といえるでしょう。(日本でいえば奈良~京都一帯にあたります)

↓ヴォルビリスに近づくと、丘の上に、遺跡が聳えているのが分かります。

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ヴォルビリスは、モロッコ最大の古代遺跡であるとともに、モザイク画は現場に残されているものとしては世界有数の保存状態を誇ります。
また、1997年にモロッコ2番目の世界遺産として登録されました。

↓ヴォルビリス入り口にある、ユネスコ世界遺産登録記念標識

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↓ヴォルビリスに入場すると、ドームが迎えてくれます。

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この階段を上り、右側の小道を、丘の上へと遺跡をたどります。その丘の上には邸宅跡が並んでいます。

ヴォルビリスの邸宅の多くは、そこに描かれているモザイクの題材から名付けられています。モザイクのある中庭(パティオ)を囲む邸宅の構造になっており、当時の人々の豊かな生活の様子を知ることができます。この中庭を中心とした家屋構造は、モロッコの都市家屋建築に大きな影響を与え、後にフェズの迷宮都市に至る先駆けとなったのです。

↓邸宅跡と遺跡情景3枚

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↓ん、これは何だ?? よく分かりませんでした、ご存知の方がおれれましたらメールでご教示ください。(現在、知り合いの識者の方にも問い合わせ中で、判明したら追記します)

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邸宅跡のひとつに、通称ヴィーナスの家と言われる邸宅跡があります。ここには、綺麗なモザイクがあります。

↓ダイアナ(アルテミス)がニンフと水浴しているところを、人間の狩人アクタエオンに見られてしまうという逸話が描かれたモザイクです。

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↓アップで

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↓もっと拡大撮影

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↓さらに、ヘラクレスの子ヒラスがニンフたちに訓練を受けている場面のモザイクもあります。

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なかなか見事なモザイクで、2000年の風雨に耐えて、こうして屋外で残っていることに驚きました。モザイクという様式の凄さに、改めて感心した次第です。



↓ヴォルビリス遺跡(前編)のオマケ「遺跡、クロウタドリ飛ぶ!」

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2016年 05月 18日 |
エフェス(エフェソス、エペソ)については、今日のプロローグ編を含めて、5~6回にわたって、ブログ記事を掲載する予定です。

エフェスは、古来より有名な場所で、西部アナトリアの最大の都市でもありました。
ヒッタイトに対抗した古代アルザワ王国の首都アパサだったとされ、ミケーネ文明とも交流があったようです。

やがて、ギリシア人の都市となり港湾都市として繁栄しました。
この地域では、もともと地母神の女神アルテミス崇拝が盛んで、古代ギリシア化された後も、アルテミスはギリシア神話ではゼウスとレトの娘として位置づけられ、女神信仰が継続します。

その後、共和制ローマの支配下に入り、アントニウスがクレオパトラと共に滞在した地となります。
現在残るエフェス遺跡の主要部分は、このローマ時代に建てられたものです。

キリスト教関連でも重要で、聖パウロが宣教に訪れ三年間も滞在した町であり、その後、聖母マリアが晩年住んだとされる家が発見された所でもあります。

さらに、皇帝テオドシウス2世が、エフェソス公会議を二度も開いた場所です。
アルテミス信仰が置き換えられた聖母マリア崇敬が盛んな土地柄から、ここが公会議場として選定されたようです。(エフェソス公会議では、マリアが神の母であることを否定するネストリウス派が排除され異端とされた)


これほど幾多の古い歴史に彩られた場所も珍しいものです。エフェスは古代にはエフェソスと言われ、古エフェソスや新エフェソスなど、あちこちの場所に遺跡が分布しています。


現在は世界遺産でもあり、新エフェソスは巨大な都市遺跡として、多くの人が訪れる人気の大観光地です。

まずは、古エフェソスの町があった場所に行ってみます。

古エフェソスには、かつて世界の七不思議の最たるものとされた古代アルテミス神殿がありました。

今は一本の石柱が立つだけの寂しい場所です。(この石柱は復元模型です)
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↓石柱のアップ
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↓後景その一、奥のビザンツ時代の城塞と手前のイスラム教モスクのイーサーベイ・ジャーミィ
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↓後景そのニ、聖ヨハネ教会跡
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聖ヨハネ教会は、使徒ヨハネが聖母マリアを保護して、ここに至り、晩年を過ごしたという伝承のある場所です。


このアルテミス神殿遺跡を見ても、世界の七不思議とされた面影はなく、どんな神殿だったのか想像できません。
ちょっと期待はずれ感がありました・・・

引用・・「私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。」(ビザンチウムのフィロンの言葉)

127本の円柱が並び、アテネのパルテノン神殿よりも大きかったそうです。今は、一本だけというのは、あまりにも寂しい光景です。

↓そこで、アルテミス神殿復元想像図
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↑確かに、こんな神殿が目の前に立っていたら、すごいでしょうね。往時を想像で偲ぶしかありません・・・

アルテミス神殿は、三度建て直されたようですが、一番古いものは、紀元前700年頃の創建です。
2世紀にゴート族に破壊された後、ここにあった大量の石材は、各地の神殿や、キリスト教会、イスラムのモスクなどに転用されました。イスタンブールのアヤ・ソフィアにも利用されたとのことで、驚きます。

この古エフェソスのアルテミス神殿遺跡は、1869年に大英博物館の考古学探検隊により再発見されました。

↓エフェス出土のアルテミス女神の像(エフェス考古学博物館蔵)
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多数の乳房(牛睾丸説もあり)を持ち、明らかに、大地母神としての豊穣や多産の雰囲気がありますね。

ギリシア神話では、アルテミスは処女神で、狩猟・貞潔を象徴し月の女神です。上の像とはイメージが相当違います。
ただ、ギリシア神話でも、レトとゼウスの子であるアルテミスは、生まれた直後に母レトの産褥に立会い、双子の弟であるアポロンを取り上げたとされ、彼女が生殖や出産を司る女神でもあったことが分かります。





さて、今回のトルコ旅行の隠れた目的は、私が個人的に興味を持っている、初期キリスト教の分岐点となった公会議の場所を訪ねるというものでした。

コンスタンティノポリス(現トルコのイスタンブール旧市街中心部)、エフェソス(現トルコのエフェス)、カルケドン(現トルコのイスタンブールのアジア側カドキョイ)といった場所を巡ってみました。
当然のことながら往時そのままの面影は無かったものの、その歴史的場所に立っているのだという、古代幻想的な思いにとらわれました。
私にとって、旅はまずもって「歴史をたどる旅」なのです。プラス自然探勝もできればと欲張っています(笑)



上で述べましたように、紀元431年、ここエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされました。
ネストリウス派は、キリスト教主流派からは、三位一体論を否定したとされています。しかし、これは実際のところ微妙な問題です。
ネストリウス派の衣鉢を継ぐ現在のアッシリア東方教会は、三位一体論を認めています。

このあたりを書き出すと非常に長くなり、かつマニアックな話になってしまいます。
そこで、各公会議の歴史も含めて、まとめて下の 「More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き」を書いてみました。ご興味のある方は、More をクリックしてお読みください。


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More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き
2015年 07月 22日 |
「たびねす」に、私のパサルガダエ/ナクシュロスタムのガイド記事がアップされました。
パサルガダエにはペルシア庭園の原型があり、ナクシュロスタムには磨崖の王墓があります。いずれも遥か古代の歴史をたどる貴重な遺跡ですので、ぜひ、お読みください。
どうぞよろしくお願いします。

(16)ペルシア帝国の古代遺跡パサルガダエとナグシュ・ロスタムで悠久の歴史をたどる!
http://guide.travel.co.jp/article/11539/



たびねす記事は先行してペルシアの見所を分かりやすく紹介しています。
一方、ブログ記事は、まだヤズドから先に進めませんが、ブログならではの個人的こだわりや私見、そして何より多くの写真を掲載して行きたいので、遅速をお許し下さい。


さて、沈黙の塔の入口に、ゾロアスター教徒の老人がいました。
イスラム世界となったイランでは、ゾロアスター教徒はヤズドでひっそりと生きてきたそうですが、実際にゾロアスター教徒のターバンをした方をはじめて見ましたので感動し、許可を得て写真を撮らせていただきました。

↓くっきりと表現
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↓柔らかく表現
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ターバンが特徴的ですね。温厚なお人柄のようでした。

キりスト教の主教や司教がかぶる冠をミトラと言いますが、一説によればペルシアのゾロアスター教(あるいはミトラ教)のターバンが淵源とも言われます・・・・この老人を見て、ふと、そんなことを思い出しました。

満足感に浸りながら、沈黙の塔を後にしました。

↓さらば、沈黙の塔!
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ゾロアスター教プロパーで詳しく記事にするのは、多分、これが最後になると思いますので、頭の中にたまっていることをはき出すべく、少しまとめて下の More に書いてみました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

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More 古代ペルシアとゾロアスター教に関する覚書き
2015年 06月 06日 |
ゾロアスター教は、BC1500年~BC1000年頃に成立したと考えられ、開祖が明らかなものとしては世界最古の宗教です。

土漠の真ん中の避難都市でもあるヤズドには、現在でもゾロアスター教が生きています。

ヤズドの街中にある「アータシュキャデ」は、ゾロアスター教徒以外の異教徒にも見学を許された貴重な寺院なので、じっくり見学しました。

↓まず寺院の外側入口壁の表示です。「ヤズド・ゾロアスタリアン・ファイアー・テンプル」とあります。
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↓入場すると前庭に丸いプールがあり、そのむこうに拝殿がありました。水鏡風景の綺麗な寺院です。
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↓拝殿の上に、特徴的な翼のある日輪のマークが見えますね。
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↓正面下からシンボルマークを撮影
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↓斜め横からアップで撮影
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この翼のある日輪のマークは、アフラ・マズダだと書かれているガイドブックもありますが、ゾロアスター教の守護霊プラヴァシらしいです。(インドに伝えられて盂蘭盆の起源になったとのこと)・・・・ただし諸説あり、アフラ・マズダとする説も有力です。

↓余談ですが、せっかくゾロアスター教の故地に来たわけですから、なにか自分への記念土産をと思い、帰りにこのシンボルマークのついたTシャツを買ってみました。
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↓拝殿の中に入ると、シンプルな部屋があり、ゾロアスター画像とガラス越しに聖火が拝めるようになっています。
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↓開祖ゾロアスター(ザラシュトラ・スピターマ)
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拝火教とも言われるゾロアスター教の火への崇拝がよく分かる施設です。

↓この寺院だけは聖火の見学と撮影が許されているので、ガラス越しですが、聖火を撮影しました。
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オリンピックの聖火リレーは、ゾロアスター教の火を聖なるものとする習慣から来ているとされています。
また、ゾロアスター教の神官はマギと呼ばれ不思議な力を持つことからマジックの語源となりました。結婚指輪、イスラム教徒の女性の衣装であるヒジャブやチャドルなども、ゾロアスター教に起源があるようです。


この寺院は1934年にインドのゾロアスター教徒の寄進で新しく建てられたものですが、安置されている聖火は、1500年以上前から絶やされることなく燃え続けており、およそ80年ほど前にイラン南部のゾロアスター教神殿から、このヤズドの寺院に運び込まれたものです。

↓表示されていた説明文
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ゾロアスターは「天国と地獄」「世界の終末」「最後の審判」「メシア」「神と悪魔」といった思想をはじめて提示し、世界宗教の源流となり、ユダヤ教や大乗仏教の成立にも大きな影響を与えました。

そうした、ゾロアスター教と他宗教の関係については、マニアックな話になりますので、以下の More に詳しく書きました。御興味のある方は More をクリックしてお読みください。


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More 世界宗教の淵源としてのゾロアスター教
2012年 01月 23日 |
今回の大和日帰りドライブは、「歴史的な場所」で「箸墓古墳は卑弥呼の墓か?」という話です。私の我流歴史談義が沢山混じりますので、御迷惑でしょうが、おつきあいのほどを(笑)

やはり、この辺りですと、歴史的といえば、奈良盆地東南部すなわち本来の「やまと」地方に広がる初期巨大古墳群でしょう。
この古墳群は、奈良盆地の東南部の三輪山山麓を中心に展開し、大和・柳本古墳群あるいはオオヤマト古墳群と言われます。

大和朝廷の黎明期である、三世紀中頃から、ここに突如巨大な古墳が出現したのです。

その中でも、巨大古墳としては考古学的に最も古いと認められている、箸墓古墳に行ってみることにしました。

箸墓古墳の被葬者は、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)で、この女性は神託を受ける巫女のような存在で、三輪山の神である大物主神との神婚伝説があります。
日本書紀の系図では、崇神天皇の大叔母とされており、箸が刺さって死んだ説話から墓を「箸墓」といいます。

先にも書きましたが、箸墓古墳を邪馬台国の女王卑弥呼の墓とする説も有力で、それについては  下の More 卑弥呼の墓  をお読みください。

さて、箸墓古墳の北~西側は大きな濠=ため池で、南側は田畑地、東側は住宅地になっています。

↓南側から撮影しました。前方後円墳の前方部にあたります。
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箸墓古墳の近くにクルマを止め、持参した自家製レーズンパンを食べました。
ここに、邪馬台国があったのかもしれないなあ・・・という古代幻想に浸りながら、遅い昼食をとったわけです。
のどかでした。

食後、畔のような細い道を、箸墓古墳の正面まで歩き、お参りしました。
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箸墓古墳の正式な名前は、倭迹迹日百襲姫命大市墓です。
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しばらく、古墳の周辺を歩き回りました。
この、箸墓古墳から、いわゆる古墳時代がはじまったんだ、今、僕はそこに立っている!

2000年くらい前に、ここで日本の国が胎動しはじめたわけです。うーん、感慨深い。
「大和は国のまほろば」といいますが、今はここは、のんびりした田舎の田畑作地で、長い長い歴史の変遷を感じます。

古墳というのは、近くだとその形が分かりにくいのですが、ここも同じです。
↓そこで、古墳東脇に建てられた、案内板を撮りました。この案内板の写真は航空写真で、箸墓古墳の形がよく分かりますね。
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上の看板写真の右側に②として案内されている纒向の遺跡は、この箸墓古墳のすぐ近くで、弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡です。3世紀が中心の遺跡で、前方後円墳発祥の地です。現在も発掘調査が進められています。
この遺跡を倭国連合の首都である邪馬台国に比定する説が有力になりつつあります。

この纒向遺跡からは日本全国で作られた遺物が多数出土しており、この遺跡の勢力が非常に広範囲に渡って影響力を持っていたことが分かります。
最近、桃のタネ約2000個が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようです。


一昨日ブログ掲載した、平等寺~金屋の石仏の近くに、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや・『日本書紀』による)の宮跡がありました。(『古事記』では「師木の水垣宮」と表現されています。)
崇神天皇といえば、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇です。『日本書紀』では、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と書かれ、初めて天下を治めた天皇という意味がうかがえます。

魏志倭人伝において卑弥呼の神託を聞いて政治をしたと書かれている男弟こそ、崇神天皇であるとする説もあります。
巨大古墳の分布から、崇神天皇の王朝を三輪王朝(政権)とし、その後、応神(または仁徳)天皇が河内王朝を開いたという学説もあります。

それはともかく、纏向遺跡~箸墓古墳~大神神社(三輪山)~磯城瑞籬宮跡、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。

↓現在の磯城瑞籬宮跡は、木がうっそうと茂る原生林のような森でしたが、一応、訪れた証拠写真をアップしておきます。
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OLYMPUS E-P3 with LUMIX G 14mmF2.5 ASPH.



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