模糊の旅人
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2018年 04月 18日 |

文責:菊池模糊

私が堺市に引っ越してきた時、最初に住んだのが上野芝という町だったのですが、ここは百舌鳥駅から一駅南で、いわゆる百舌鳥古墳群に近い場所でした。歴史好きな私は、当然、大きな古墳に興味が湧き、時間を見つけては自分なりに歩き回って調べたものです。
以来、証拠として最も科学的なものである考古学調査研究の成果にも、常に気を配って情報を得て来たつもりですので、大古墳の被葬者に関して自分の中では一応の結論を得ました。


このたび、「百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)」の世界文化遺産登録への推薦が決まったことから、いずれ古墳の被葬者の問題は、避けては通れないものとなります。
世界遺産の指定はたいへん喜ばしいことですが、いまだに被葬者が誰かは諸説あり不明確な上に、築造時に天皇という言葉はなかったわけですから、「仁徳天皇陵古墳」という名称には大いに疑問があります。


そこで私は、いわゆる「仁徳天皇陵古墳」については考古学者らの提唱にあるように「大仙陵古墳」とし、同じように現・応神陵については「誉田御廟山古墳」、現・履中陵については「上石津ミサンザイ古墳」、現・反正陵については「田出井山古墳」という名称で以下に記述し考察を進めます。

ということで、私が40年近く考え続けてきた、百舌鳥古墳群の大王墓の被葬者についての見解を、この機会に披露します。

↓百舌鳥古墳群

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百舌鳥古墳群で、大王墓の可能性のある大きな古墳を全長順に並べると以下のようになります。誉田御廟山古墳については古市古墳群に属しますが、関連性が非常に重要なので紺色で参考に入れました。


大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵  (築造順5)
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵  (築造順2)
上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  (築造順1) 実際は400m以上
土師ニサンザイ古墳  300m           (築造順7)
御廟山古墳      203m           (築造順4) 
田出井山古墳     148m ←現・反正天皇陵  (築造順6)
いたすけ古墳     146m           (築造順3)


【*大仙陵古墳の全長は、2018.4.13の宮内庁書陵部の測量を取材した新聞報道記事による】

最近の堺市の調査により土師ニサンザイ古墳の全長は約300m以上とされました(全国第7位)ので、上位4つの古墳が300mを越す(それ以下は200m程度以下なので)隔絶して大規模な、大王墓であることは疑いようがありません。


203mの御廟山古墳は、微妙です。大王墓としては小さいですが、陪塚(大古墳の付属墓)とするには大きいです。それでも、田出井山古墳を天皇陵とするのに比べれば、はるかにましです。大王墓の可能性はなきにしもあらずですが、やはり大王の血縁者か、大王に次ぐ有力な権力者の墓の可能性が高いでしょう。

↓御廟山古墳(1)・・・・なかなか大きな規模で現在は住宅に取り囲まれています。

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↓御廟山古墳(2)
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反正天皇陵に治定されている田出井山古墳は、土師ニサンザイ古墳や御廟山古墳に比べてはるかに小さく、大王墓としては、大きさの点からは、全くふさわしくありません。したがって、田出井山古墳が反正天皇陵であるという説は否定されます。

↓田出井山古墳(1)・・・方違神社の裏にあり半周するのにさほど時間のかからないやや小さな古墳です。

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↓田出井山古墳(2)
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田出井山古墳と同規模の、いたすけ古墳も小さすぎ、大王墓ではありません。私が近くに引っ越してきた頃は、いたすけ古墳は丸裸で周壕は釣り池として利用されていました。丸裸の古墳の規模は、確かに大王墓としては小さいなあというのが実感でした。いたすけ古墳は御廟山古墳の近くで築造時期もかぶるので、両古墳の被葬者は関連性があるのかも知れません。

↓いたすけ古墳(1)・・・手に取るように近くで見られるやや小型の古墳です。

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↓いたすけ古墳(2)
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古墳の造られた時代については、最新の精密な考古学の知見により、絶対的な年代については完全ではないものの、相対的な造営の順番というのは明らかになってきています。特に、百舌鳥古墳群の三つの巨大古墳では、築造順1(上石津ミサンザイ古墳)→築造順5(大仙陵古墳)→築造順7(土師ニサンザイ古墳)という順番は入れ替えがたいものです。


そこで、上記のうち田出井山古墳と、いたすけ古墳を除き、大王墓の可能性がある巨大古墳を、築造順に並べてみます。


上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵
御廟山古墳      203m
大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m 


これを見てみると、仁徳天皇の子である履中天皇が一番古くなってしまい、現在の治定とは矛盾します。少なくとも一番最初につくられた上石津ミサンザイ古墳が、一番若い履中天皇の陵である可能性は全くないでしょう。


もし、百舌鳥古墳群だけを考えれば


上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵
大仙陵古墳      525m ←履中天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m ←反正天皇陵


とすれば簡単に確定できます。


ところが、誉田御廟山古墳を筆頭とする古市古墳群を考慮すると話が変わってきます。
なぜなら、上石津ミサンザイ古墳は誉田御廟山古墳より古いわけですから、応神天皇の子である仁徳天皇の陵墓が先に造営されたことになり、歴史的系譜と矛盾します。


↓私の尊敬する白石太一郎教授が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表

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↑この編年図表は円筒埴輪の変遷などの精緻な考古学的研究から作成されたもので、絶対年代はともかく古墳の造営順については非常に信頼性が高いものです。

以下に論述する私の被葬者比定は、この編年表を最も重視し、これと矛盾しないように考えたものです。


この考古学的編年表と歴史文献の整合性が部分的に得られないことが大きな課題です。(私見では、歴史文献に迎合しない結果が出るということこそ、この編年表の正しさを表わしていると思います)


ここで、いったん考古学的視点を留保して、文献歴史学的考察をしてみます。


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文献的な歴史学については、中国と日本の文献があります。


まず、中国の『宋書』巻九七(倭国伝)に登場する「倭の五王」は年代が確実なので有力な手掛かりになります。
すなわち、讃・珍・済・興・武の五王となります。


日本側の文献は、絶対年代が非常に不確定なので問題がありますが、少なくとも大王の系譜と業績が書かれているので比定することは可能なはずです。
また、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に象嵌された文字「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が『日本書紀』にある「大泊瀬幼武(おおはつせのワカタケル)」の雄略天皇と考えられ、『宋書』の倭王「武」とピタリと符合します。

この「武」が雄略天皇であることから逆算して、「興」は安康天皇または木梨軽王子(この二人の関係問題は後述)、「済」は允恭天皇であることはほぼ確実です。済の子が興と武であるという『宋書』の記述が、『日本書紀』の允恭天皇の子が木梨軽王子(か安康天皇)と雄略天皇という系図と一致するからです。


問題は、讃と珍です。
ここは、応神、仁徳、履中、反正の各天皇の誰を当てるか諸説が入り乱れており、まさにこの記事の課題である、百舌鳥古墳群の三大王墓(プラス誉田御廟山古墳)の時期と一致し、応神王朝論や河内王朝論ともからんで、複雑です。
『宋書』を重視すれば、讃と珍は兄弟とありますので、履中天皇と反正天皇であるとするのが自然です。
ところが、記紀の記述から重要な天皇である応神と仁徳の両天皇のいずれかを讃としたいという思惑が論者にあるのです。(それは誉田御廟山古墳を応神陵、大仙陵古墳を仁徳陵とするべく、その造営年代を整合させたいからです)


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そこで、日本文献での百舌鳥古墳群の大王墓の説明を整理してみます。


応神天皇については、『日本書紀』では場所についての記述はなく、『古事記』では川内恵賀之裳伏岡となっています。これは、現在の河内恵我之荘のことです。

応神天皇の子とされる仁徳天皇については、『日本書紀』では百舌鳥野陵、『古事記』では毛受之耳原となっています。これは現在の百舌鳥耳原にあたります。また、生前に石津原に行幸し陵墓の場所を決めたという意味の重要な記述があります。

仁徳天皇の子とされる履中天皇については、『日本書紀』では百舌鳥耳原陵、『古事記』では毛受となっています。

履中天皇の弟とされる反正天皇については、『日本書紀』では耳原陵、『古事記』では毛受野となっています。

この、記紀の記述は、考古学的な編年と整合しません。
考古学的な大王墓の造営順は、ほぼ古市と百舌鳥の交互になっており、百舌鳥に三代連続したとする記紀と矛盾するのです。(履中天皇が古市であるとすると、うまく行くのですが・・・・)


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次に、905年に書かれた『延喜諸陵式』によれば、仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵、履中天皇陵は百舌鳥耳原南陵、反正天皇陵は百舌鳥耳原北陵となっています。

これに基づき宮内庁の現在の陵墓の治定がなされているわけですが、この『延喜諸陵式』についてはどこまで信じてよいか疑問があります。何より平安時代の10世紀に書かれたものですので、5世紀の陵墓については、築造後約500年となり確実な証拠があったとは思えません。『延喜諸陵式』の記述自体、記紀に基づいており、その点からすれば、まだしも記紀のほうが信用できるでしょう。

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『延喜諸陵式』による百舌鳥三陵の治定に関連して、反正天皇陵については、南北軸線で北側に前方後円墳の円墳側があることが天皇陵の証拠とする説があります。しかし、実際には大王墓は南北軸線であるとは限らず、いろいろな方向を向いています。(例えば、下に掲げた古市古墳群の分布図を見ていただければ分かるように、同時期の重要古墳である現・応神陵の誉田御廟山古墳は南南東を向いています)
『延喜諸陵式』自身でも、反正天皇陵は「兆域東西3町、南北2町」としており、これは南北に長いのではなく東西に長い古墳であることを示しています。

私見では、大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています。この記事の一番最初に掲げた百舌鳥古墳群の配置された地図をご覧ください。小さな陪塚を除けば、西側の海に面した古墳は全て南北軸で、そこから内陸へ向かう街道に沿った古墳は全て東西軸であることが一目瞭然です!
百舌鳥古墳群はこの地形の構造と見せたい方向(より大きく見える長辺側を海と街道に見せる)に基づいたL字型の配置になっており、軸線方向は大王墓であるかどうかとは関係ないのです。


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考古学でも文献歴史学からでも、百舌鳥古墳群だけでは解決しないというのが20年くらい前の私の結論でした。
そこで、古市古墳群を含めて総合的に判断する必要があると考え、そこから調査研究の範囲を広げ、いろいろ考えてきました。


その際、指標となったのが、やはり、考古学的立場を基礎としながらバランスのある総合的判断をされる白石太一郎教授の論考です。 参考:『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』(文春新書、1999年)、『考古学と古代史の間』(筑摩書房・ちくまプリマーブックス、2004年)のち学芸文庫 、『近畿の古墳と古代史』(学生社、2007年)、『天皇陵古墳を考える』編 今尾文昭,高橋照彦,森田克行共著(学生社 2012年)、『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎 2013年)など


白石氏は古墳時代の大王墓を、畿内の大型古墳の編年を明確にすることで明らかにしようとされています。
具体的には、たとえば3世紀中葉から4世紀中葉の大王墓は、造営順に

(1)箸墓古墳(現・倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現・手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行燈山古墳(現・祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現・景行天皇陵)

の6基であるとされています。

そして、被葬者については、箸墓古墳は女王卑弥呼、西殿塚古墳は女王台与、行燈山古墳は崇神天皇を比定されています。


私は、この白石氏の3世紀~4世紀の考察は、きわめて理にかなったものと思います。
(なお、卑弥呼と箸墓古墳については、こちら で私見を書いていますのでご覧ください)


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では、私のリスペクトする白石氏は倭の五王時代については、どう考えておられるでしょうか?

「・・・・四世紀末葉になると今度は大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に(9)仲津山古墳(現仲津媛陵、286m)→(10)上石津ミサンザイ古墳(現履中天皇陵、365m)→(11)羽曳野誉田御廟山古墳(420m)→(12)大仙陵古墳(486m)が営まれます。」「それ以降は、百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳、あるいは古市古墳群の岡ミサンザイ古墳(現仲哀陵)のように大王墓と考えざるをえない大型古墳もありますが、全体的に古墳の小型化の趨勢もあって、大王墓を選び出すことが難しくなります。」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012、P143)


つまり、百舌鳥古墳群と古市古墳群を合わせた造営順の大王墓としては以下の古墳があるとされています。(市ノ山古墳は現・允恭陵なので私が独自に掲載)
そして、以下の←印で示すように、白石氏は誉田御廟山古墳については応神天皇に、大仙陵古墳は仁徳天皇に比定されています。

仲津山古墳      290m ←?
上石津ミサンザイ古墳 365m ←?    (現・履中天皇陵) 
誉田御廟山古墳    420m ←応神天皇陵(現・応神天皇陵)
大仙陵古墳      525m ←仁徳天皇陵(現・仁徳天皇陵)
市ノ山古墳      230m       (現・允恭天皇陵)
土師ニサンザイ古墳  300m          
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵)


私が特に目を開かれたのは、「大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に」大王墓が営まれたとする記述です。
上記に市ノ山古墳を入れたのは、ご覧のように見事に大王墓が、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に並ぶからです。


古市古墳群と百舌鳥古墳群の一体性については、白石氏は次のように述べています。

大阪平野南部に大王墓が営まれるようになったということは、大阪平野南部の河内・和泉の勢力が、大王権を掌握した結果にほかならない。」
「また、それは高句麗の南下にともなう、四世紀後半の東アジアの国際情勢の大きな変化に連動する政治変動と捉えることができます。」

邪馬台国以来の呪術的性格の強い大和の王権では対応できず、それ以前からヤマト王権の基盤であった大和・河内・和泉連合の中で、朝鮮半島などとの外交や交易を担当していた大阪沿岸に近い河内・和泉の勢力が王権内のリーダーシップを担うようになったのは、むしろ当然の成り行きでしょう。」


このあたりの時代把握についての総論は、私は白石氏の考え方に全面的に賛同します。さすがの慧眼だと敬服します。


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ただし、各論というか各古墳の被葬者の比定については、私は白石氏と違った考えを持っています。以下、私見を述べます。


白石氏自身が述べておられますが、「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」それ以前に、この地に二人の大王が君臨し、「応神天皇はそれにつづく河内王家としては三代目の大王と考えるほかはありません」(『天皇陵古墳を考える』学生社)

まさにここが大きな問題です。
上石津ミサンザイ古墳のように超巨大な古墳を築いた者が、大王(=後世の天皇クラス)以外に可能でしょうか?
私はそれは無理だと思います。白石氏も紛れもなく大王墓であることは認めています。ただ、造営当時は日本最大で、現在に至っても日本で三番目の超巨大古墳である上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵)の被葬者が無名(記紀に載った天皇クラスではない)というのは苦しいです。


よって「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきではないでしょうか?

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。
「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はないといわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、より大胆に推理します。
継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。

すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです

↓古市古墳群の分布図

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なにしろ応神天皇は、記紀で、神功皇后が三韓征伐におもむいた際に、父とされる仲哀天皇の死後、1年以上たってから生まれたという胎中天皇で、伝説に彩られています。仁徳天皇の事跡を応神天皇のものとする部分もあり記紀の記述の混乱もみられます。八幡神とも一体化されます。

そこで、応神天皇は途絶えた崇神王朝を征服した河内王朝創始者であるとか、祖先神であって実在しない天皇であるとか、仁徳天皇と同一人物であるとか、応神天皇こそが神武東征にあたることを実施した大王だとか、大陸からの騎馬民族の征服王であるとか、河内勢力に入婿してきた外部からの大王とか、いろいろな考え方もあります。


特にこの時期は、崇神王朝末期の混乱期でもあり、武内宿禰、ヤマトタケル、神功皇后、仲哀天皇といった神話的人物が多く登場し、にわかには信じがたい記述も多くあるところです。


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。
確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初の大王墓である仲津山古墳です。

仲津山古墳は、造営された当時としては最大級の300m近い堂々たる古墳で、現在でも全国第9位で、造営時には現・景行陵とされる渋谷向山古墳に次いで2位です。この古墳の特徴は広い墓域で、濠や外堤を含むと総全長は440mにも及び造営当時は日本最大の墓域の古墳です。その後つくられた三古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるのです。

あくまで独断的私見ですが、上で書いた白石氏の3世紀~4世紀の大王墓(1)~(6)の中の崇神王朝最大の渋谷向山古墳の規模をこえない配慮が見られます。応神の次の仁徳の代になると、その配慮は不要になり超巨大な上石津ミサンザイ古墳が築かれたのです。また、仲津山古墳が国府台地の最高地点に築かれた古墳であるのも意味があると考えます。

仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。


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次の仁徳天皇については、造営順に上石津ミサンザイ古墳(現・履中陵)が当てられます。この天皇は記紀での記述が多く、仁政をひいたとして重要視されてきました。長命で、上町台地の上に難波高津宮を築き、現・大阪府に大規模な治水土木事業を行いました。まさに父の応神天皇の後を継いで河内王朝の覇権をゆるぎないものにした人物です。

『日本書紀』を読んでみて印象的なのは、仁徳天皇が「石津原に幸して、以て陵地を定めたまふ」とあるところです。私のように近くに住んだ経験のある者はよく分かるのですが、まさに上石津ミサンザイ古墳は石津川沿いにあるのに対し、大仙陵古墳は上石津ミサンザイ古墳が造営された後では石津川沿いとは言いにくいのです。このくだりで、私は現・履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳こそが、真の仁徳天皇陵にふさわしいと感じました。

石津川沿いで海に面した百舌鳥の広大な原野に、はじめて超巨大な大王墓が築かれたからこそ、日本書紀の行幸のエピソードが強く記憶に残り伝承され、記録されたのでしょう。また。考古学的にも上石津ミサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群で最初に造営された巨大墳墓であることは実証されています。

当時、現・応神陵とされる誉田御廟山古墳や現・仁徳陵とされる大仙陵古墳は、まだ存在しませんから、上石津ミサンザイ古墳は、日本最大の画期的な超巨大古墳でした。

上石津ミサンザイ古墳は、近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをこえることは確実です(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁)。誉田御廟山古墳に近い大きさなのです。現在でも巨大な質量を感じる迫力があります。

仁徳天皇が、生前に行幸して、この百舌鳥の地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです(百舌鳥は好立地なのですでに豪族墓である乳岡古墳がありましたが大王級の墓は仁徳天皇が最初)。それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

私の独断的想像では、仁徳天皇は皇太子(後の履中天皇)に対し、次は応神の眠る古市の地に大きな墳墓を作ることを指示し、その次は、百舌鳥の地につくるという形で、両墳墓地の併立を決めたのでしょう。旧の奥津城である古市の地を忘れないようにするとともに、新しい百舌鳥にはさらに誇示する墳墓地として巨大墓を造成するように息子たち(後の履中と反正)に願いを託したのです。
こうして、大王墓は、河内王権の中心地に近い古市の地と海に面した百舌鳥の地に交互に造営されることになります。


↓上石津ミサンザイ古墳(1)・・・まさに巨大なマッスを感じさせる形の崩れのない美しい大古墳。非常に丁寧に造られています。

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↓上石津ミサンザイ古墳(2)

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次の履中天皇と反正天皇は、父の仁徳天皇の遺言を守り、根拠地の中心である古市と新開発した百舌鳥に交互に巨大古墳を造成します。

おそらく、父の超巨大古墳(上石津ミサンザイ古墳)に強く刺激され、父をこえることを目指したのでしょう。これは、履中と反正の二人が、倭の五王の讃と珍として、宋に朝貢しはじめたことに繋がりがあります。

すなわち、高句麗の南下により倭国と同盟関係にあった百済が危機に陥りました。そこで、当時、中国の南朝に建国された宋王朝に接近し、その官号や爵号を得て朝鮮半島での高句麗との争いを優位に運ぼうと目論んだのです。その倭国の力を誇示するためにも、墳墓をさらに巨大化し、超巨大古墳をつくる必要があったのです。

それが、誉田御廟山古墳であり大仙陵古墳です。ということで、私は、誉田御廟山古墳を倭王讃である履中天皇の墳墓に、大仙陵古墳を倭王珍である反正天皇の墳墓に比定します。

誉田御廟山古墳と大仙陵古墳は同じ設計で、誉田御廟山古墳をより引き延ばしたのが大仙陵古墳というのがよく知られた定説で、兄弟天皇としての順番にも、『宋書』の讃と珍が兄弟であるという記述にも整合します。

履中天皇の治世がやや短いことから、誉田御廟山古墳では大きすぎると考える方もいるかもしれません。しかし、仁徳天皇は長命で履中は皇太子でしたから実質的な政務をとった期間は長かった可能性が高いのです。『日本書紀』では70歳、『古事記』では64歳で崩じたと書かれており、履中天皇もある程度は長命であったと思われます。

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ここからは、独断的私見ですが、岡山県の造山古墳の影響もあると考えます。この造山古墳は5世紀中ごろつくられた350mの超巨大古墳です。場所的には、古くは福岡の伊都国から大和の邪馬台国に至る中継地として栄えた投馬国の流れをひく岡山県吉備地方にあり、この地域の有力者の墓と思われます。時期的には上石津ミサンザイ古墳の後で、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳の少し前と考えられます。おそらく当時新たに大阪湾にそびえることとなった上石津ミサンザイ古墳を見て刺激された吉備の王が我も力を誇示しようと自領に造営したのでしょう。

この吉備勢力は古くから力を有し畿内の大王一族とも通婚関係があり敵対するものではないので、大きさは上石津ミサンザイ古墳をわずかに下回る350m(但し周濠なし)で、当時最大の大王墓を凌駕しないよう配慮して造営されています。とはいえ、吉備勢力の実力を体現し、畿内の大王なにするものぞという対抗心も表現されています。

想像するに、吉備で巨大古墳が造営されているという情報が伝わり、履中天皇や反正天皇は大王としての面子にかけて大きさで負けるわけにはいかなかったのです。造山古墳をはるかに上回る規模がめざされたのです。

ということで、あわてて造成された超巨大古墳であったために、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまったのです。
それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも等高線の乱れはありません。これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しており、私が上石津ミサンザイ古墳こそ仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。

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最近、大仙陵古墳から出土した須恵器の甕については5世紀の中頃以降とされ、明治時代に県令・税所篤が発掘させた時の絵図の長持式石棺・眉庇付冑などが5世紀中頃以降という鑑定とも一致しました。つまり、これらからも大仙陵古墳は、仁徳天皇時代とするには新しすぎ、やはり仁徳天皇の子の世代の大王墓でしょう。


私が大仙陵古墳の被葬者と考える反正天皇は、仁徳天皇の三男で、母は葛城襲津彦の娘である仁徳皇后:磐之媛命です。つまり履中天皇の同母弟で、仁徳の次男である墨江中王の反乱を鎮め皇太弟となりました。反正天皇の在位期間は短いものの治世は「五穀成熟れり。天下太平なり」と『日本書紀』にあります。古事記では60歳で没したと書かれています。穀物が豊作で大きな事件もおこらず平和な御世であったようで、国力も充実していたと想像されます。

江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀に「治天下□□□歯大王世」とあり、これは雄略天皇説があるものの、反正天皇説もあります。これは、歯という字を持つ天皇は瑞歯別尊たる反正天皇しかいないからです。
さらに、宋書における倭王武の上表文に「昔より祖禰、みずから甲冑を着て・・・」とあり、この祖禰の解釈の一説に、武(=雄略)の祖である禰(=珍=反正)があり、統一事業の実践者としての強力な大王=反正天皇が浮かび上がるのです。

また、反正天皇の都は丹比柴籬宮で、現在の松原市上田の柴籬神社が伝承地とされていますが、ここは古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に位置し、当時の大王の都としては最も百舌鳥古墳群に近い場所です。私見では、反正天皇は大仙陵古墳の被葬者としてふさわしいのです。

大仙陵古墳が先王の誉田御廟山古墳より大きいのは、国力が充実していたのと、海に面した百舌鳥の地が古市の地より、古墳の大きさを誇示する場所として価値があったからです。



↓大仙陵古墳(1)

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↓大仙陵古墳(2)
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次の倭王の済は、当然、允恭天皇となり、墳墓は順番からして古市に造営されますから、市ノ山古墳が整合します。
もっとも、允恭の墳墓としては小さいという問題があり、それを重要視すると、より大きな土師ニサンザイ古墳が允恭墳墓である可能性も残されています。

ただ私は、允恭から雄略に至る段階では、宋王朝に対して繰り返し求めてきた朝鮮半島での軍政権が思うように認められず、巨大墳墓を誇示して大陸外交を進めていく意味が薄れてきたのではないかと考えます。

また、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳で、吉備など地方勢力に対する近畿の大王の権力を完全に示すことができたので、それ以降は、より巨大な古墳を築く必要もなくなったのです。

したがって、古墳の規模は大仙陵古墳を頂点として縮小していく流れにあり、その先鞭をつけたのが允恭天皇の市ノ山古墳であると思います。とはいえ、市ノ山古墳は全長230mの堂々たる巨大古墳で、允恭天皇陵としてはふさわしいものです。


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その次の土師ニサンザイ古墳は、市ノ山古墳より大きく、全国第7位の大きさの美しい古墳です。先王の市ノ山古墳より大きいのですが、これは百舌鳥古墳群は海に近く、誇示という価値が古市古墳群より少し残っていたからだと推測します。

大王墓は古市と百舌鳥に交互に造営されたわけですが、古市古墳群におかれた先王の古墳より、百舌鳥古墳群におかれた次の新王の古墳がより大きいという法則は、ここでも貫徹しています。仲津山古墳<上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳<大仙陵古墳、市ノ山古墳<土師ニサンザイ古墳。私見ですが、これは百舌鳥の地が特に誇示する場所だったからです。古墳の配置から見ても、従来からの奥都城であった古市は古墳の方向などがバラバラでゴチャゴチャしているのに対し、百舌鳥の古墳は海からと内陸への街道から見られることを意識して綺麗なL字型に配置されています。このことは、百舌鳥は海と街道沿いに新たに開発された計画的な墓域であることを示しています。

土師ニサンザイ古墳の被葬者は、倭王の興が該当しますが、この人物が安康天皇であるかどうかが問題です。

実は記紀において、安康天皇の即位には不自然な記述が多々あります。まず、允恭の皇太子であった木梨軽王子が兄妹相姦の罪をかぶせられて失脚し、それを訴えた穴穂皇子が安康天皇となるのですが、天皇となって短期間で暗殺(眉輪王の変)されます。そして、なぜかこれまでの応神王朝で安康天皇だけが大和方面に葬られます。このあたり、詳しくは分かりませんが、とてもキナ臭い雰囲気が漂っています。

いっぽう、『宋書』では、倭王の興は「世子興」という表現が使われており、世子とはあらかじめ指名された王位継承者のことをいいますから、允恭天皇の長男で皇太子であった木梨軽王子のほうが、興にふさわしいようです。(わざわざ世子という表現にしたのは大王として即位しなかった意味か?)

允恭天皇は長命でしたから、在位中に皇太子の木梨軽王子が政務を取って外交を行った可能性があり、後に大王となる予定の皇太子(木梨軽王子)のために巨大墳墓(土師ニサンザイ古墳)が用意されたのではないでしょうか?

いっぽう安康天皇は急死(暗殺)だったので古墳が用意されておらず、やむを得ず大和地方に葬られたのでしょう。ただ、該当する奈良県の巨大古墳に適切な候補は見当たらず、大きな墳墓ではなかったのかも知れません。

あるいは、ひょっとして、木梨軽王子と安康天皇がバタバタと崩御したため、木梨軽王子用に造営されていた土師ニサンザイ古墳に、とりあえずという形で安康天皇が葬られのかも?・・・このあたりは全く想像の域を出ず、決定できるものではありません。

もし、安康墓が土師ニサンザイ古墳とするなら、木梨軽王子墓は少し小さい規模の前の山古墳(白鳥陵)ということになり、この可能性も十分にあり得ます。このあたりは、まだ確定させず判断留保したいです。そこで、私は土師ニサンザイ古墳については、現時点では「木梨軽王子または安康天皇陵」としておきます。


↓土師ニサンザイ古墳(1)・・・百舌鳥古墳群の最後を飾る最高に美しい古墳です。

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↓土師ニサンザイ古墳(2)
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その次の、倭王武は、雄略天皇であることは確実で、墳墓も岡ミサンザイ古墳で間違いないでしょう。
これは、現在の学会の主流の学説ですが、私も武=雄略天皇=墳墓:岡ミサンザイ古墳ということに関しては全く異論はありません。


この後、古市と百舌鳥の古墳群には巨大な古墳は造営されなくなります。(大王墓がここにつくられなくなったかどうかは別問題で、大王墓が小さくなったという可能性大)
ただし唯一、古市と百舌鳥と中間に、河内大塚古墳という謎の巨大古墳が出現します。河内大塚古墳は私も野鳥観察を兼ねて何度も足を運んで調査しており興味深い話があるのですが、応神王朝とは関係がないので、またいつか稿を改めて書くことにします。



<結論 私の百舌鳥・古市古墳群の被葬者比定 造営順>


仲津山古墳      290m ←応神天皇陵
上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵(現・履中天皇陵)
誉田御廟山古墳    420m ←履中天皇陵(現・応神天皇陵) 讃
大仙陵古墳      525m ←反正天皇陵(現・仁徳天皇陵) 珍
市ノ山古墳      230m ←允恭天皇陵(現・允恭天皇陵) 済
土師ニサンザイ古墳  300m ←木梨軽王子または安康天皇陵  興
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵) 武


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この私の比定は、誉田御廟山古墳を応神天皇陵とせず、大仙陵古墳を仁徳天皇陵としないので、現在の主流の説ではありません。
しかし、考古学的に精密に実証されてきた古墳の編年表に全面的に整合しています。
また、中国の史書にも整合しており、『日本書紀』や『古事記』とも、ほとんど整合しています。
記紀の記述と大きく異なるのは、ただ一か所、履中天皇の墓所が百舌鳥ではなく古市であるという点だけです。






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2016年 05月 18日 |
エフェス(エフェソス、エペソ)については、今日のプロローグ編を含めて、5~6回にわたって、ブログ記事を掲載する予定です。

エフェスは、古来より有名な場所で、西部アナトリアの最大の都市でもありました。
ヒッタイトに対抗した古代アルザワ王国の首都アパサだったとされ、ミケーネ文明とも交流があったようです。

やがて、ギリシア人の都市となり港湾都市として繁栄しました。
この地域では、もともと地母神の女神アルテミス崇拝が盛んで、古代ギリシア化された後も、アルテミスはギリシア神話ではゼウスとレトの娘として位置づけられ、女神信仰が継続します。

その後、共和制ローマの支配下に入り、アントニウスがクレオパトラと共に滞在した地となります。
現在残るエフェス遺跡の主要部分は、このローマ時代に建てられたものです。

キリスト教関連でも重要で、聖パウロが宣教に訪れ三年間も滞在した町であり、その後、聖母マリアが晩年住んだとされる家が発見された所でもあります。

さらに、皇帝テオドシウス2世が、エフェソス公会議を二度も開いた場所です。
アルテミス信仰が置き換えられた聖母マリア崇敬が盛んな土地柄から、ここが公会議場として選定されたようです。(エフェソス公会議では、マリアが神の母であることを否定するネストリウス派が排除され異端とされた)


これほど幾多の古い歴史に彩られた場所も珍しいものです。エフェスは古代にはエフェソスと言われ、古エフェソスや新エフェソスなど、あちこちの場所に遺跡が分布しています。


現在は世界遺産でもあり、新エフェソスは巨大な都市遺跡として、多くの人が訪れる人気の大観光地です。

まずは、古エフェソスの町があった場所に行ってみます。

古エフェソスには、かつて世界の七不思議の最たるものとされた古代アルテミス神殿がありました。

今は一本の石柱が立つだけの寂しい場所です。(この石柱は復元模型です)
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↓石柱のアップ
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↓後景その一、奥のビザンツ時代の城塞と手前のイスラム教モスクのイーサーベイ・ジャーミィ
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↓後景そのニ、聖ヨハネ教会跡
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聖ヨハネ教会は、使徒ヨハネが聖母マリアを保護して、ここに至り、晩年を過ごしたという伝承のある場所です。


このアルテミス神殿遺跡を見ても、世界の七不思議とされた面影はなく、どんな神殿だったのか想像できません。
ちょっと期待はずれ感がありました・・・

引用・・「私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。」(ビザンチウムのフィロンの言葉)

127本の円柱が並び、アテネのパルテノン神殿よりも大きかったそうです。今は、一本だけというのは、あまりにも寂しい光景です。

↓そこで、アルテミス神殿復元想像図
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↑確かに、こんな神殿が目の前に立っていたら、すごいでしょうね。往時を想像で偲ぶしかありません・・・

アルテミス神殿は、三度建て直されたようですが、一番古いものは、紀元前700年頃の創建です。
2世紀にゴート族に破壊された後、ここにあった大量の石材は、各地の神殿や、キリスト教会、イスラムのモスクなどに転用されました。イスタンブールのアヤ・ソフィアにも利用されたとのことで、驚きます。

この古エフェソスのアルテミス神殿遺跡は、1869年に大英博物館の考古学探検隊により再発見されました。

↓エフェス出土のアルテミス女神の像(エフェス考古学博物館蔵)
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多数の乳房(牛睾丸説もあり)を持ち、明らかに、大地母神としての豊穣や多産の雰囲気がありますね。

ギリシア神話では、アルテミスは処女神で、狩猟・貞潔を象徴し月の女神です。上の像とはイメージが相当違います。
ただ、ギリシア神話でも、レトとゼウスの子であるアルテミスは、生まれた直後に母レトの産褥に立会い、双子の弟であるアポロンを取り上げたとされ、彼女が生殖や出産を司る女神でもあったことが分かります。





さて、今回のトルコ旅行の隠れた目的は、私が個人的に興味を持っている、初期キリスト教の分岐点となった公会議の場所を訪ねるというものでした。

コンスタンティノポリス(現トルコのイスタンブール旧市街中心部)、エフェソス(現トルコのエフェス)、カルケドン(現トルコのイスタンブールのアジア側カドキョイ)といった場所を巡ってみました。
当然のことながら往時そのままの面影は無かったものの、その歴史的場所に立っているのだという、古代幻想的な思いにとらわれました。
私にとって、旅はまずもって「歴史をたどる旅」なのです。プラス自然探勝もできればと欲張っています(笑)



上で述べましたように、紀元431年、ここエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされました。
ネストリウス派は、キリスト教主流派からは、三位一体論を否定したとされています。しかし、これは実際のところ微妙な問題です。
ネストリウス派の衣鉢を継ぐ現在のアッシリア東方教会は、三位一体論を認めています。

このあたりを書き出すと非常に長くなり、かつマニアックな話になってしまいます。
そこで、各公会議の歴史も含めて、まとめて下の 「More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き」を書いてみました。ご興味のある方は、More をクリックしてお読みください。


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More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き
2016年 03月 30日 |
「たびねす」に、私のクロアチアの世界遺産ドゥブロヴニクの記事がアップされました。
ドゥブロヴニクを望むスルジ山からの写真撮影技法という独自の視点から書いていますので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(29)眺望絶佳!世界遺産ドゥブロヴニクを望むスルジ山で撮影を楽しむ
http://guide.travel.co.jp/article/17196/





さて、今回、アンカラやイスタンブールでテロがあり、ベルギーのブリュッセルでも関連した大規模テロがありました。
皆様方には、ご心配をおかけしました。
無事帰国祝いのお言葉や、トルコの状況に関する御質問がメール&コメントでありましたので、レポートさせていただきます。

まず、今年に入ってからのトルコでの主なテロを列挙しておきます。

1/12 イスタンブールの観光地スルタンアフメット地区で自爆テロがあり10人死亡
2/17 アンカラの中心官庁街で軍用車両を狙ったテロがあり28人死亡
3/13 アンカラの都心クジュルライ広場近くでテロによる大規模爆発があり37人が死亡
3/19 イスタンブールの繁華街イスティクラル通りで自爆テロがあり5人が死亡

なお、3/22 ベルギーのブリュッセルで起きた大規模連続テロ事件についてもトルコのテロ事件と関連するとする報道もあります。

↓日本の外務省によるリスクマップよりトルコを抜粋表示(2016.3.30現在)
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トルコではこれまで日本人観光客は年間8万人くらいありましたが、昨年来のテロで約8千人と10分の1に激減しており、今回のアンカラとイスタンブールでのテロでさらに減少するものと予想されます。

トルコの主要産業のひとつである観光業の痛手は大きく、ホテル・レストラン・土産店・絨毯店・旅行社・観光バス運転手業・ガイド業などその影響は測りしれません。
もちろん、観光業関係だけでなく、他のビジネスにも影響があるでしょう。

トルコは風光明媚で世界遺産などの観光名所が非常に多く、良いホテルや温泉プール・ハマム(岩盤浴やアカスリができるトルコ風浴場)などが整備されており、さらに食事も美味しく親日的なところから、日本人に大人気の観光地であっただけに非常に残念なことです。


今のところ、人口の少ない田舎の遺跡や観光地は、テロの現場ではないので、さほど危険な雰囲気はしなかったです。
テロで狙われているのは、人の多く集まる大都市のようです。首都のアンカラやトルコ最大の都市イスタンブールは主たる標的となっています。(それとは別にトルコ南東部シリア国境などは渡航中止勧告地帯です:上記リスクマップ参照)

観光地で気づいたのは、これまで多かったドイツ人団体観光客が全く見当たらなかったことで、これは先般イスタンブールでドイツ人団体を狙ったテロが行われたからです。
全般的に観光客は減少していましたが、中国人・韓国人・マレーシア人・アラブ人などの観光客は比較的多かったです。日本人観光客は目立たないものの各地で少しずつ出会いました。


トルコの観光地では多くの警察官やジャンダルマ(準軍事組織の国家憲兵)が警備しており、私服警官らしき人もよく見かけました。

↓イスタンブールで警戒にあたる警察(車窓より撮影)
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ジャンダルマについては、自動小銃を携行警備しており、さすがの私も撮影できなかったので、ウィキペディアより写真をお借りして下に表示させていただきます。
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トルコでは、この半年の間にテロで犠牲になった人は約190人にのぼるそうです。
エルドアン大統領は3月21日、「トルコは史上最も大きく残忍なテロ攻撃の波と向き合っている。軍や警察、諜報機関などあらゆる能力を結集し、テロ組織やその背後にいる者と戦いを続けている。短期間で成果が出ると信じている」と述べました。
検問も多く、国を挙げてテロ対策に力を投じていることは、各地で実感できました。


トルコ総領事館と警察本部の通達である 「テロ等への注意喚起」 によれば、ネヴルーズ集会の時期に大都市において地下鉄・メトロバス等への攻撃や自動車爆弾によるテロの危険性が高まるとことが指摘されていました。

今回のテロに関係する日本の外務省のスポット情報は、こちら


観光場所の実態ですが、有料入場施設では、手荷物検査のある所が多かったです。
例えば、イスタンブール観光の中心地である、アヤソフィア寺院やトプカピ宮殿では、厳重なセキュリティーチェックがあり、手荷物は空港と同じようにX線で調べられます。
そこで内部に入場してしまえば、安心してゆっくり観光できます。

セキュリティーチェックについては煩わしく感じる方もおられますが、こうしたチェックがあるほうが安全面で良いと思いました。

もっともそこに至る交通機関や人が多く集まる場所を通過する時は、常に警戒を要します。


少し高級なクラス以上のホテルになると、ホテルの入口にセキュリティーチェックがあります。

↓イスタンブールでのホテルの入口
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↓ホテルの荷物用エレベーターにもスーツケース等を透して調べるセキュリティーチェックあり
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したがって、アンカラやイスタンブールといった狙われている大都市であっても、ホテル内では安心して休むことができます。

私はこれまで、ホテル到着後は、カメラひとつ持って近辺の夜の街歩きや徘徊スナップを楽しんできたのですが、今回は夜間の外出はやめました。
これは、もちろん、テロを避けるためでもありますが、私のような怪しい外国人が夜の町を彷徨していると不審な人物として警察やジャンダルマに尋問される可能性が高いからです。こんな時期にトルコ語を喋れない人間がトラブルに巻き込まれては大変です。

中型以上のホテルでは、内部にハマムや温水プール・フィットネスジム設備がありますので、夜の街歩きが出来なくとも、夕食後の時間をホテル内で有意義に過ごすことができます。
私も夜は、プールで泳ぐかフィットネスジムで身体を動かすように心がけました。


また、イスタンブールでは町の夜景が魅力なのですが、ホテルと車窓から撮る以外は、今回は夜景撮影を断念しました。
もっとも、前回トルコに来た時には、夜景を主に撮影していますので、それについては詳しくは こちら を御覧ください。

↓前回、2011.10に撮影したアヤソフィア寺院の夜景
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考えてみれば、前回、上の夜景写真を安全に撮影できた場所が、まさにドイツ人観光客が犠牲になったテロの実行現場となったので、戦慄を覚えました。
たった4~5年でこのように状況が変化してしまったのですね・・・


なお、テロの状況については、ホテルのTVのニュースなどで確認していました。

↓ブリュッセルのテロを伝えるCNNニュース
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■■■■結論■■■■

テロに負けないようベルギーやトルコを応援したいのですが、今現在は、まだテロの可能性があるので、ベルギーやトルコの旅行はオススメできる状況ではありません。

確率的には遭遇する可能性は低いかも知れませんが、現時点の自爆テロというのは自力で避けがたい危険性があり、一度でも遭遇してしまえば最悪の結果を招きます。



安心して旅するためには平和が前提となります。トルコは、テロを除けば政情不安でもなく普通の意味での治安が悪いわけでもありません。人は親切で優しく、歴史遺跡が多く、風光明媚で景観も変化に富んでいます。テロさえ無ければトルコは本当に素晴らしい場所なのです。
またいつか、テロの恐怖が消えたら、トルコを訪問し、ゆっくりと旅して、じっくりと散策してみたいものです・・・


トルコという国は、古来より東西文明の交差点として幾多の歴史的現場となってきました。
現代でも、イスラム世界とヨーロッパ世界の境界上に位置することから、いろいろな面で非常に苦労しています。
観光資源が豊かで親日的なトルコという国に、再び平安が訪れ観光客が安心して楽しめる時が来ることを願ってやみません。


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2015年 09月 18日 |
「たびねす」に、私のイラン考古学博物館のガイド記事がアップされました。
歴史の教科書にも登場する有名な出土品もありますので、ぜひ、お読みください。
どうぞよろしくお願いします。

(20)イラン考古学博物館でペルシアの美の真髄に触れよう!
http://guide.travel.co.jp/article/12680/





さて、前回ブログ記事に関し、著作権切れの『夜明け前』の文章データについて、何人かの方から御質問を受けました。そこで、ご存知の方も多いとは思いますが、著作権切れデータの読み方について簡単に書いておきます。(写真は再掲です)
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著作権は、著者没後50年を経過すると消滅し、誰でも著書を自由に利用できます。
そこで、インターネット上には、過去の名著などが、フリーテキスト(無料電子書籍)ということでデジタル化され、誰でも読める形で公開されつつあります。

無料電子書籍の主なサイトは、近代デジタルライブラリー、青空文庫、プロジェクト杉田玄白、うわづら文庫といったところです。
中でも青空文庫は、対応する公開形式が豊富で、作品数が多いので、一番のおすすめです。(現時点で、青空文庫収録作品数は、13269件です)

利用方法は簡単で、Googleなどの検索サイトで、例えば「青空文庫 夜明け前」と検索すれば良いのです。
また、青空文庫のトップページからは、作家別・作品別・分野別の検索もできます。
こうして得られた画面上のテキストデータを、コピー&ペーストして、前回のブログ記事に利用させてもらいました。(したがって、引用する際は、いちいち打ち込む必要はありません)
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検索またはダウンロードした本のデータは、もちろんパソコンや汎用タブレット、スマートフォンなどで読めますが、専用の電子書籍リーダーの利用が、最も読みやすいです。専用機なので目に優しく、利用法も単純で、パソコンのように将来的な陳腐化という現象も起こりにくいです。

専用の電子書籍リーダーには、アマゾンの Kindle、楽天の kobo、ソニーの Readerなどがあります。
使い勝手は各社そんなに変わりません。機能が増えると値段が高くなるのは各社共通で、お好みで機種を選べば良いのです。
私的には、無料の青空文庫や有料でも一般的書籍を読むだけなら、各社の下位機種で十分だと思います。(旧型の kobo Touch なら今6000円程度で購入できます)
電子機器マニアや、有料の最新電子雑誌を頻繁に購読するようなヘビーユーザーなら、新しい上位機種が必要でしょうが・・・

↓kobo
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私が使用しているのは、古い kobo です。
これは某写真コンテストで賞を受けた際の副賞としていただいたもので、今では旧機種になっていますが、まったく問題なく楽しんでいます。
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ネット有線環境でパソコンを利用の方でも、koboで電子書籍を読めます。つまりWi-Fiを使わなくても青空文庫を利用できるので、新たに無駄な通信料を支払う必要はありません。

最初にkoboデスクトップアプリをパソコンにインストールしておけば、その「ストア」ボタンから楽天のサイトにアクセスし希望する青空文庫を選んで無料購入できます。あとは、付属のUSBケーブルでkoboを同期すれば、koboにデータが落とし込まれ電子書籍が読めます。(セッティングの詳しい方法は、こちら

↓私のkoboデスクトップアプリのパソコンでの画面のごく一部です。
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私の場合、現在は、近代文学を中心として約100冊ほどをkoboに入れています。近代古典文学が割と好きなので青空文庫はとても役立ちます。(翻訳本の場合は、著作権は訳者の死後50年になりますので、青空文庫に翻訳本はまだ少ないです)
河口慧海『チベット旅行記』などの旅行記や、寺田寅彦『花物語』などのエッセイも入れています。
これだけの量の本を紙で持ち歩くのは不可能ですから、非常に便利です。
日常の電車での移動や、旅での飛行機中や乗り換え待ち時間などでも、koboで読書を楽しんでいます。
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紙には紙の優れた点があります。家で本格的に本を読み込む場合は従来型の紙製の書籍の方が優れています。装丁などを含めた「本」の存在感のあり方は電子書籍ではとうてい味わえないものです。
また何より、自分の専門的な分野では、ほとんど電子化した本はありません。

しかし、自宅の書棚がもう一杯なので、古い本の処分も喫緊の課題であるのも事実です。
そこで、無料で手に入る、著作権の切れた近代古典文学類は、なるべくペーパーレス化=電子書籍化していき、必要に応じて、koboで読むようにしています。(蔵書書棚がネット上の青空文庫で、個々の本が kobo という感じでしょうか)

前回ブログ記事で引用した島崎藤村や夏目漱石といった有名文豪は電子化されていますので、必要に応じてダウンロードして kobo で読みます。
いっぽう、谷崎潤一郎など著作権が切れていない又は切れたばかりの作家は電子化されていないので、古い紙の単行本で読みます。村上春樹などの生きている現代作家の作品は、有料電子化発売されたものもありますが、やはり紙の単行本のほうで読んでいます。

なお、電子出版しかしていない本や雑誌もあります。私はあくまで紙と電子の併用ですので、電子書籍オンリーというわけではありません。電子出版だけの本を購入する必要性は感じていません。
あくまで、現時点では、紙の単行本が主で、電子本を従とする、使い分けです。
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現在の時点における、電子書籍リーダーのメリットを並べておきます。

(1)著作権切れのものは無料で読める。
    ただし、著作権切れのものでも、電子化されていないものは読めません。
    専門書やマイナーな本はまだまだ電子化されていないというのが実情です。
    いっぽう、紙製の単行本は、著作権切れのものでも有料で購入しなければなりません。
    人の手垢がついたものでよければ、紙製の本は図書館で借りて読むという有力な方法があります。

(2)著作権のあるものも一部無料あるいは廉価で読める。
    著作権と関係なく「自由に読んでもらってかまわない」という本も多くあり青空文庫で無料で読めます。
    ただし、青空文庫にある著作権の切れていない作品については、私的使用以外は禁止です。
    
    一般的に紙の書籍より電子書籍の方が安価あるいは内容豊富です。
    例えば話題の村上春樹『村上さんのところ』は、単行本と電子書籍が発売されています。
    値段はほぼ同じですが、電子書籍版は単行本の8冊分のボリューム内容となっています。

(3)文字・改行スペースを自在に大小にできる。
    電子書籍リーダーなら自分の好きな文字の大きさや改行表示が可能です。
    これは高齢者や視力に問題のある方にとっては非常に良いことです。
    私自身も、最近は少し老眼になりつつあるので、koboの文字拡大機能はありがたいです。

(4)省スペース化が図れ、持ち運びも便利
    私の古いkoboでも、現在100冊ほど入れていますが、まだまだ数倍以上容量に余裕があります。
    1000冊以上の電子書籍が入る書籍リーダーもあります。
    外出・旅行などには数百冊を手軽に持って歩けるわけで非常に便利です。
    もちろん、電子書籍の入れ替えも容易です。
    ネット上に蔵書書棚あるいは本屋があると考えれば可能性は無限に広がります。
    ただし、高精細の写真など容量の超大きいコンテンツを入れると途端に容量が減ります。
    電子書籍リーダーは文章による作品を主とするのがベターです。

(5)絶版が起こらない。
    紙の単行本では発売部数に限りがあり絶版という現象が起こります。
    電子書籍は一度デジタル化されれば、理論的には絶版は起こりません。
    ただし、将来的に電子データの消失や消去といった事態が全く無いとはいえません。

(6)いつでもどこでも容易に入手できる。
    インターネット環境さえあれば、24時間いつでもどこでも電子書籍を入手できます。
    そして、すぐに読むことができます。
    いったん電子リーダーにダウンロードすれば、ネット環境に関係なく、どこでも読めます。
    
(7)劣化しない。
    紙の単行本は、黄ばんだり、破れたり、手垢・水などで汚れたり、徐々に劣化していきます。
    電子書籍は何十年たっても、同じ品質で読むことができます。
    ただし、電子書籍リーダー自体には寿命があり、落下したりして壊してしまう可能性もあります。
    電子データはネット上にもありますので復旧は容易で、内容そのものは劣化しないのですが、、、

(8)高度な利用も可能
    音声読み上げ機能や辞書機能もあり、ハイパーリンクを使ったジャンプもできます。
    つまり「電子ならではの仕掛け」もあります。
    電子しおりを挿入したり、書き込みメモ機能というのも可能です。
    読書の幅が広がるとも言えますが、ネットサーフィン的な利用が読書と同じものとは言えません。
    また、さらに進んだ、計算編集機能など、あまりに高度な応用的利用は疑問です。
    そうなると、専用リーダーというより、汎用のパソコンあるいはタブレットと同じになってしまいます。
    将来的には、スマートフォンと小型パソコンの境界に埋もれてしまう可能性もなきにしもあらずです。

    私は、専用電子リーダーの場合、シンプルな読書機能さえあれば十分だと考えます。
    読書途中に電話やメールが飛び込んくるスマートフォン的機能はまっぴら御免です(笑)

    
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アルファベット文化の欧米では書籍の電子化が容易なため、専用リーダーが大きく普及しています。
日本では、特異なガラケーやスマートフォン文化のほうが発展しており、専用リーダーの広がりはまだまだのような感じがします。

私自身は、上記で説明したように、紙の本を主としながら電子書籍を併用して使い分けています。
紙と電子は一長一短があります。現在はまだ紙の本のほうが優位性を持っていると思いますが、「本離れ」という現象が起こっていると聞きます。そういえば、町の小さな本屋さんというのは少なくなりましたね・・・

音楽関係では、かつて普及していたレコードどころか、最近はCDの売上も落ち込んでいます。これはひとえに音楽データの配信・ダウンロードという形の普及によります。
単行本の書籍もCDのようになってしまうのでしょうか?

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2015年 07月 22日 |
「たびねす」に、私のパサルガダエ/ナクシュロスタムのガイド記事がアップされました。
パサルガダエにはペルシア庭園の原型があり、ナクシュロスタムには磨崖の王墓があります。いずれも遥か古代の歴史をたどる貴重な遺跡ですので、ぜひ、お読みください。
どうぞよろしくお願いします。

(16)ペルシア帝国の古代遺跡パサルガダエとナグシュ・ロスタムで悠久の歴史をたどる!
http://guide.travel.co.jp/article/11539/



たびねす記事は先行してペルシアの見所を分かりやすく紹介しています。
一方、ブログ記事は、まだヤズドから先に進めませんが、ブログならではの個人的こだわりや私見、そして何より多くの写真を掲載して行きたいので、遅速をお許し下さい。


さて、沈黙の塔の入口に、ゾロアスター教徒の老人がいました。
イスラム世界となったイランでは、ゾロアスター教徒はヤズドでひっそりと生きてきたそうですが、実際にゾロアスター教徒のターバンをした方をはじめて見ましたので感動し、許可を得て写真を撮らせていただきました。

↓くっきりと表現
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↓柔らかく表現
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ターバンが特徴的ですね。温厚なお人柄のようでした。

キりスト教の主教や司教がかぶる冠をミトラと言いますが、一説によればペルシアのゾロアスター教(あるいはミトラ教)のターバンが淵源とも言われます・・・・この老人を見て、ふと、そんなことを思い出しました。

満足感に浸りながら、沈黙の塔を後にしました。

↓さらば、沈黙の塔!
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ゾロアスター教プロパーで詳しく記事にするのは、多分、これが最後になると思いますので、頭の中にたまっていることをはき出すべく、少しまとめて下の More に書いてみました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

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More 古代ペルシアとゾロアスター教に関する覚書き
2015年 06月 06日 |
ゾロアスター教は、BC1500年~BC1000年頃に成立したと考えられ、開祖が明らかなものとしては世界最古の宗教です。

土漠の真ん中の避難都市でもあるヤズドには、現在でもゾロアスター教が生きています。

ヤズドの街中にある「アータシュキャデ」は、ゾロアスター教徒以外の異教徒にも見学を許された貴重な寺院なので、じっくり見学しました。

↓まず寺院の外側入口壁の表示です。「ヤズド・ゾロアスタリアン・ファイアー・テンプル」とあります。
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↓入場すると前庭に丸いプールがあり、そのむこうに拝殿がありました。水鏡風景の綺麗な寺院です。
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↓拝殿の上に、特徴的な翼のある日輪のマークが見えますね。
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↓正面下からシンボルマークを撮影
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↓斜め横からアップで撮影
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この翼のある日輪のマークは、アフラ・マズダだと書かれているガイドブックもありますが、ゾロアスター教の守護霊プラヴァシらしいです。(インドに伝えられて盂蘭盆の起源になったとのこと)・・・・ただし諸説あり、アフラ・マズダとする説も有力です。

↓余談ですが、せっかくゾロアスター教の故地に来たわけですから、なにか自分への記念土産をと思い、帰りにこのシンボルマークのついたTシャツを買ってみました。
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↓拝殿の中に入ると、シンプルな部屋があり、ゾロアスター画像とガラス越しに聖火が拝めるようになっています。
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↓開祖ゾロアスター(ザラシュトラ・スピターマ)
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拝火教とも言われるゾロアスター教の火への崇拝がよく分かる施設です。

↓この寺院だけは聖火の見学と撮影が許されているので、ガラス越しですが、聖火を撮影しました。
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オリンピックの聖火リレーは、ゾロアスター教の火を聖なるものとする習慣から来ているとされています。
また、ゾロアスター教の神官はマギと呼ばれ不思議な力を持つことからマジックの語源となりました。結婚指輪、イスラム教徒の女性の衣装であるヒジャブやチャドルなども、ゾロアスター教に起源があるようです。


この寺院は1934年にインドのゾロアスター教徒の寄進で新しく建てられたものですが、安置されている聖火は、1500年以上前から絶やされることなく燃え続けており、およそ80年ほど前にイラン南部のゾロアスター教神殿から、このヤズドの寺院に運び込まれたものです。

↓表示されていた説明文
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ゾロアスターは「天国と地獄」「世界の終末」「最後の審判」「メシア」「神と悪魔」といった思想をはじめて提示し、世界宗教の源流となり、ユダヤ教や大乗仏教の成立にも大きな影響を与えました。

そうした、ゾロアスター教と他宗教の関係については、マニアックな話になりますので、以下の More に詳しく書きました。御興味のある方は More をクリックしてお読みください。


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More 世界宗教の淵源としてのゾロアスター教
2014年 07月 07日 |
私は京都生れですが、少年時代に大阪に引っ越してきました。
まだ大阪の船場(せんば)がわずかに輝きを残していた頃で、なんとか美しい「大阪弁」を聞くことができました。
私は京都生まれなので、京都弁に通じる、はんなりとした大阪弁には、とても親近感があり好きでした。

私には(もう亡くなりましたが)叔母が三人おり、柔らかい表現で品格のある京言葉を使う方々で、今でもその印象的な言葉遣いは鮮明に記憶しています。
子ども心に、大阪船場の、まろやかな商人言葉は、叔母たちの言葉と似ているなあと思ったものです。


かつて、大阪船場は商業流通の中心地として栄えていましたが、私の少年時代にはすでに落日の雰囲気を漂わせており、その印象的な大阪弁も、実際に商店の店先では、使われることが少なくなっていました。
その、はんなり大阪弁については、下の More で詳しく解説してみました。


「これなど、はんなりとして、ようございまっせ」(服や反物をすすめる船場の店員の言葉)


はんなりというのは、「花なり」と「ほんのり」が合わさったことばで、派手でも地味でもなく、まさに「はんなり」としか言いようのない柔らかい表現です。
多分、京都の御所ことばから来ていると思いますが、子ども時代に私が移り住んだところでは、「はんなり」という言葉自体、まだ使われていました。


そこで、「はんなり」をイメージした模糊流ソフトフォーカス写真です。

↓ハナイカダ
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OLYMPUS OM-D E-M1 with ZUIKO DIGITAL ED 50mm F2.0 Macro + FourThirds Adapter MMF-3


このブログを開設する以前、私はホームページを運営していました。またBBSや裏ブログもやっていたこともありますが、現在ではどれも更新できていません。
そこで、HPや別ブログで書いてきたことなども、改訂して、この模糊の旅人exブログの、More に少しずつ移して行こうと思います。
時間的余裕がないので、なかなか進みませんが、できるだけ一本化して整理できたらなあと考えています。

分りにくい文章が多いので、御興味のない方は読み飛ばしてください。
ハンドルネームのように、曖昧模糊としたところが、私の持ち味でもあり、その積み重ね中から、何らかの意味が立ち現われてくるケースがありますので、もし御興味のある話題でしたら、ゆっくり読んでいただければ幸いです。


今日は、「はんなり」がテーマですので、以前、別ブログで書いた「はんなり大阪弁について」という文章を、下の、More に改訂して掲載します。よろしく御願いします。

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More はんなり大阪弁について・・・・
2014年 06月 28日 |
イエスの墓である聖墳墓教会内部のロトンダ(円形建築物)は、アナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれます
イエスはここで復活したとされるわけですから、ここはヴィア・ドロローサの第14留(イエスの墓)であるとともに、第15留(イエスの復活の場所)とする考え方もあります。いずれにしても、ここがヴィア・ドロローサの終着点です。

なお、御質問を受けた件ですが、イエスは復活したとされるので、ここの墓には遺体はありません。聖書の記述によれば、イエスのの墓は埋葬三日後に、空っぽになっていたそうです。

このイエスの復活についての考え方は、下の More を御覧ください。

↓ロトンダ上部(ファンタジックフォーカス)
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第11~14留だけでなく、聖墳墓教会には沢山の部屋や聖堂があります。
その中で一番大きいのは、中央部のギリシャ正教のマルチュリオンと呼ばれる殉教聖堂です。

↓以下4枚の写真は、殉教聖堂(マルチュリオン)で撮影しました。
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↓いっぽう、小さいけれど品が良いのはカトリックの聖マリア聖堂です。
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↓同じく聖マリア聖堂(ライトトーン)
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巡礼者の十字の落書きがたくさんあります。この中には中世十字軍によるものがあるそうです。

↓壊れかけた柱の落書き(ドラマチックトーン)
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↓太い柱の彫り物風落書き(クロスプロセス)
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↓現代的祭壇もあります。
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聖墳墓教会の中は、多くの人で混み合っており、また非常に暗いので、なかなか思うように写真が撮れません。水平をとったり構図を工夫したりする余裕はありませんでした。それでも撮影禁止ではないので、自分的にはとても堪能しました。

聖墳墓教会自体は、キリスト教各宗派が仲悪く共存しているので、各宗派が競い合って飾り立ててゴチャゴチャした感は否めません。統一された整然とした美しさはなく、いわばごった煮状態ですが、各宗派の熱心な思いが伝わってくるようにも感じました。

思えば、フランスのシャルトル大聖堂の美しさに感動し、その床のラビリンス図が聖地エルサレムへの巡礼の旅の苦難を表していると知ってから、ここに来たいと熱望していたのでした。それについては、 こちら
それから約十年経って、ようやく私のこの念願の旅が実現したのです。

それはともかく、昔、中世の時代の人がここに巡礼に来るのは本当に大変だったでしょうね。
なににろイスラム教国になってしまった中東のど真中にあり、紛争も絶えず、安全は保証されず、言葉も通じず、交通機関もなく、案内もなかったでしょうから・・・まさに苦難の旅だったと思います。

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More 復活信仰とは何か?
2014年 06月 25日 |
聖墳墓教会に入ってすぐ、二階の第11留-第13留へ参る人の行列で、ラッシュアワー状態になります。
これは世界20億人のキリスト教徒の最大の聖地なのですからいたしかたないですが、日本人が少ないのが興味深いです。

↓一階部分で順番待ちをしながら、二階の第12留(十字架処刑場)あたりを撮影してみました。
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第11留<十字架に処せられる>

イエスが十字架に処せられた場所が第11留とされています。

↓長い順番待ちの末やっと二階に上がると、前方に第11留が見えてきました。
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↓岩場に横たえられた十字架の上で広げた両手と足に釘を打たれた姿が描かれています。
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第11留-第13留は隣接しており、そこで祈る人が多いので、なかなか前に進みません。でも皆さん穏やかに順番を待っておられます。
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第12留<イエスが死す>

十字架が立てられイエスが息を引き取った場所が第12留とされています。

↓十字架に処せられたイエス像祭壇(正教の板絵形式で表現されています)
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↓イエスの十字架が立っていたくぼみのある場所に銀製の円形プレートが置かれています。
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↑皆さんここを触って祈ります。穴の中にはゴルゴダの丘の岩場があります。
ここがゴルゴダの丘の天辺であることが分かります。

↓ガラス越しですが、この第12留祭壇の直下のゴルゴダの丘の岩場が見えます。
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イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。(マルコの福音書15.25~27)

↓(参考)クレタのセオファニスによるキリストの磔刑図(スタヴロニキタ修道院蔵)
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昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、なにゆえ我を見捨てたまいしか」という意味である。(マルコの福音書15.33~34)

この「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というアラム語の叫びは戦慄的で悲痛なものです。
この言葉をどう考えるかについては下の More をお読みください。

イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(マルコの福音書15.37~38)


第13留<十字架の下の母マリア>

第11留と第12留の間に、第13留の祭壇がありマリア像が飾られています。
これは、十字架から降ろされるイエスの遺体を受け止めたと後世伝承されるマリアの悲しみの像で、1778年にリスボンより寄進されたものです。

↓第13留祭壇とガラスケースに入った第13留のマリア像
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↓マリア像のアップ
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↓第13留付近の天井
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イエスが死んだとき、逃げ去ったイエスの男性弟子たちは居なかったようです。しかし、ガリラヤからイエスに付き従って来た女性たちが見守っていました。、

遠くの方から見ている女たちがいた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセとの母マリア、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。 (マルコの福音書15.40~41)


以前は、第13留は、聖墳墓教会一階にある「塗油の石」とされていました。
これは、イエスの遺体が横たえられて埋葬処置を施されたとされる板状の石で、現在もこの「塗油の石」にも多くの人がお参りしてます。

↓現第13留の二階部分から、一階の「塗油の石」(左下の板状の石)を見下ろす。
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More 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」について
2014年 06月 01日 |
いよいよイエスの受難物語に入るわけですが、その序章としてエルサレムの聖母マリア永眠教会を紹介します。

史実に近いと考えられるマルコの福音書では、聖母マリアはほとんど登場せず、イエスは家族を語らない人として描かれています。
ところが、聖母マリア信仰は非常に広範囲に深く広がっています。なぜ聖母マリア信仰がこのように根強いのか、その点について私の考え方は下の More に書きましたので、御興味のある方はお読みください。


ここは、聖母マリアが最晩年を過ごした場所を記念して建てられた教会です。
聖母マリアの晩年は正確には不明ですが、伝承があることから、ここが有力なのは事実です。
(トルコのエフェス近郊にも聖母マリアの家というのがありますが、そちらは後世の修道女が神がかりして語ったことを根拠としており、歴史学的に実証されたものではありません。)

↓まずは、聖母マリア永眠教会近くのシオン門から
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シオン門は、弾痕だらけです。1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争での弾痕と、1967年の第3次中東戦争での弾痕が混じっているそうです・・・

さて、聖母マリア永眠教会は、エルサレム南東部の、シオンの丘にあるネオロマネスク様式の教会です。
エルサレムではキリスト教としては最大の教会で、聖母マリア信仰の根深さを感じさせます。

↓ゲッセマネの園から遠望した聖母マリア永眠教会(中央)とシオン門(右端)
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↓聖母マリア永眠教会が見えてきました。
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↓聖母マリア永眠教会内部は、まさにマリア様だらけでした。
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More 聖母マリア信仰について考える
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