模糊の旅人
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2018年 11月 25日 |

前回、父の家の跡を訪ねたところ、ビルが立て込んだ大都会の一画になっていたことをお話しました。


↓父の家の跡かたも無いので、周辺を歩き回り、うろうろしてみました。

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↓浪速通りに面した旧・藤田洋行の跡です。

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↑ここは、商社として有名だった藤田洋行が本社として建設したビルで、現在も当時の面影を残している風格に満ちた建物です。


このあたりは、満鉄付属地で日本人が奉天の西郊外に新たに造成した市街でした。


↓当時の地図も父の絵日記アルバムに貼られていました。

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↑左側の駅前に沿って碁盤の目のように区切られた市街が満鉄付属地です。この日本人街は「大和区」とも呼ばれていました。

右側の楕円形の城壁に囲まれた一帯が奉天旧市街で、さらにその中に長方形の城壁に囲まれたところが「城内」と呼ばれる瀋陽故宮城(太祖ヌルハチが後金の都城として建設)の中枢になります。

もちろん現在は、人口800万人になった瀋陽の中心街として、ともに完全に大都会市街に埋もれてしまい、城壁も取り壊され、旧市街と満鉄付属地の区別はありません。。。。


↓満鉄付属地をもう少し拡大 この地図では奉天駅が上に位置し、右下のロータリー(現在の中山広場)に至る斜めの道が旧・浪速通り

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↓さらに拡大

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↑右側中央の公園につきあたる道の左に春日町と書かれています。春日町は当時の繁華街です。
以下、下へ、住吉町、琴平町、八幡町、富士町・・・!
すべて日本の地名がつけられています。(もちろん、以上の地名は戦前のもので、今は名前が変わっています)


父の住んだのが八幡町〇〇番地でした。
すぐ横の富士町には、日本人の写真屋が経営する「永清寫眞店富士町支店」があって、父の家族はよくお世話になったそうです。

この写真館の当該番地を探してみましたが、今は跡形もありませんでした。

↓永清寫眞店の当時の写真

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周囲に空き地があり、当時はまだ建物は密集していなかったようですね。
夏目漱石が奉天の満鉄付属地を訪れた時代の様子は次のようでした。
「満鉄附属地に赤煉瓦の構造、所々に見ゆ。立派なれど未だ点々の感を免れず」(夏目漱石『満韓ところどころ』)


なお、この永清写真店に関しては、当時の店主の御子息である永清文二氏が書かれた『満洲奉天の写真屋物語』という名著があり、読ませていただき感動した思い出があります。 戦前の古い写真店についてご興味のある方は、ぜひお読みください。


当時の浪速通り、現在の中山路の奉天駅と中山広場の間には、一か所、歩道橋があり、高いところから道を見下ろせます。
そこで、歩道橋に登ってみました。


↓歩道橋の上から駅側を望みます。正面に見えるのが瀋陽駅(かつての奉天駅)

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↓反対側望みます。正面に立っているのが中山広場の毛沢東の像

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↓さらに私の父の家があった方向も撮影しました。旧の春日町という繁華街で今も店舗が多いですね。

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↓歩道橋を降りて、中山広場方面へ歩きます。漢方薬の有名店がありました。

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さて、父は7才で京都から大連を経てここに至り、生活をはじめました。父の絵日記にから紹介します。


↓小学校の一年生、級長さん(今の学級員)だったようです。

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↓当時はのどかであった父の生活の一コマ ひよこを飼って鶏にしたのですね。

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↓冬は寒く、窓から頭を出して、焼き芋や焼き栗を買ったようです。

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クリヌクイー
 二重窓の小窓から首だけ出して
 クリヌクイ 又 ヤキイモ を呼ぶ
 冬!

 アイヤ


↑この父の絵日記アルバムに書かれた「クリヌクイ」という言葉が頭にあって、安部公房伝を読んだ時に同じ言葉があり驚いたものです。


安部公房は奉天で父の通った同じ学校の後輩になります。


『夜』 小学生の安部公房の書いた詩

「クリヌクイ クリヌクイ」
 カーテンにうつる月のかげ

     安部ねり『安部公房伝』216頁より引用



余談ですが、安部公房は作品の中で奉天(瀋陽)を登場させ、碁盤目の街を描写しています。
「町は正確な碁盤目に仕切られていた。しばらくのあいだはひっそりとした古めかしい住宅街で人通りも少なかった。それから急ににぎやかな表通りに出た。」(『けものたちは故郷をめざす』安部公房 新潮文庫 201頁)


クリヌクイ クリヌクイ」という栗の売り子の声は奉天の日本の子供には幸せの言葉だったのですね。



上で紹介した『満洲奉天の写真屋物語』にも「クリヌクイ」は登場します。


「寒い冬の夜など、~栗ぬくーい~ という売り声が北風に千切れて飛んで来るのを聞くと、いそいそと買いに出たものだった。・・・・・奉天の栗は日本で売られている、天津港から積み出されたいわゆる天津栗と称するのとは違って、ずっと大きくて美味で、食べ出がある。」(永清文二『満洲奉天の写真屋物語』480頁)


↓そこで、私も瀋陽の中心街では屋台に行って焼き栗を買ってみました(笑)・・・なかなか美味しかったです。

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↓父のアルバムには「満州のおやつ」と称する一コマがあります。焼き栗だけでなく多くの美味しそうな食べ物が描かれています。
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奉天は餃子や豚まんの本場で、とても美味だったとのこと

「奉天で食したあんな美味な包子、すなわち豚まんには、ただの一度もお目にかからない、いやお口に味わえない。」(永清文二『満洲奉天の写真屋物語』476頁)


↓もちろん私も、現在の奉天(瀋陽)の豚まんや餃子を味わってみました。美味礼賛!

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2018年 11月 18日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「中国遼寧省・瀋陽観光で行きたい!ベストスポット5選」という記事が公開されました。
瀋陽(奉天)の代表的観光スポットを紹介したものですので、ぜひ記事をお読みください。







本ブログでもタイアップして記事を書いております。
今日は、瀋陽(奉天)の第1回目で、プロローグ的な話です。


私の中国東北地方の旅の目的のひとつは、父の足跡を辿ることでした。
誰にでも家族史というものがあり、祖父母や両親の住んだ場所への思いはあるでしょう。私の場合、それは満州です。
今回の旅で、ようやく私は、長年の宿題を終えた気分です。


↓父の残した絵日記アルバム「満州14年」 ~父の少年時代がここにあります~

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↓父が過ごした満州の14年の生活が、漫画や写真やイラストや図表などで示されています。

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満州は多くの日本人が生活した舞台で150万人以上はいたようです。したがって、父母や祖父母が満州で暮らしたという方は多いと思います。


私の父は、7才のときに、両親に連れられて、実家の京都から満州にやってきました。
大連まで船で来て、大連駅から奉天までは列車で来ました。


↓奉天への列車にて(父の絵日記アルバムの最初のヒトコマ)

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「列車はゴウゴウと満州へ向ふ その頃の大陸二等車は一区画づづ 部屋になってゐた
 始めて洋服を着た  僕は7才であった」


当時の列車は、1等、2等、3等があり、父の家族は2等コンパートメントに乗ったようです。


上のマンガで、帽子を被ってメガネをしているオジサンが祖父で、祖父が手をにぎっているのが父の弟(つまり私の叔父)、祖父の横で窓を見ている後姿が父

左側に描かれているのは、手前が祖母で、その膝に抱かれているのが父の妹(つまり私の叔母)。その向こうが父の兄(つまり私の伯父)、その奥のメガネをした年配の女性が祖父の母(つまり私の曾祖母)


満州に来てから、祖母は二人の女の子を生み、父は6人兄弟の二人目。上三人が男の子、下三人が女の子という家族構成になったわけです。
曾祖母を入れて、総勢9人家族。現在は全て物故者ですが、当時の仲の良い家族が偲ばれます。


↓当時の鉄道地図も貼ってありました。

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私が乗った高速列車「和諧号」が途中で止まった営口は、この地図で見ると南満州本線より西へはずれています。
つまり、父が乗った列車は営口の一つ手前の大石橋で北へ曲がり、遼陽や蘇家屯を経て、奉天に着いたのでしょう。


↓現代の高速鉄道から見る大連~瀋陽(奉天)の間の車窓風景

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父が大連から奉天に列車で来た時の車窓風景には、上のようなコーリャン畑はあったでしょうが、下のようなビニールハウスは無かったでしょう・・・・

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奉天駅についた父は、馬車で家に向かったのです。


↓父の絵日記より

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「馬車にのって走る 奉天の街 夜 新しい家に」


↓当時の奉天駅(絵葉書より)

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↑やはり、馬車が写っています。


父が奉天で過ごしたのは昭和ですが、まだ馬車が多くあったことが分かります。というか、今のタクシーの役割を馬車が果たしていたようです。


それよりだいぶ前、明治42年(1909年)に、親友で満鉄総裁だった中村是公に招待された夏目漱石は、胃痛に悩まされながら満州を旅し、奉天にもやってきました。
漱石には、馬車が激しく行き交う奉天の街は驚きだったのです。↓は奉天駅から宿へ馬車に乗った漱石の感想です・・・

「・・・奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ騾馬を六頭もつけた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに無人の境を行くがごとく飛ばしてみせる。我々のような平和を愛する輩(ともがら)はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。」(『満韓ところどころ』 夏目漱石全集7 ちくま文庫 545頁)


今は昔、時代は変わりました。現在の瀋陽駅前は馬車の馬もなく、クルマが激しく行き交う、せわしない都会の駅です・・・・


↓現在の瀋陽駅(旧・奉天駅)

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辰野金吾の弟子による設計ですので、東京駅に似ています。




↓そして父たちは、用意された家に落ち着きます。

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満鉄の管理職として奉天に赴任した祖父は、当然ながら奉天で日本人のために開発された満鉄付属地の家に住みました。


当時の八幡町ということで、私はそこを訪ねてみました。
父のイラストによると、のどかな新しい住宅街という感じですが、現在は・・・


↓父が住んだ家の番地付近は、今はビルが立て込んだ大都会の一画になっていました。

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