模糊の旅人
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2019年 09月 06日 |

先般、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を記念して行われた福永伸哉教授の特別講演を拝聴しました。
とても印象的な講演で、考古学と歴史学がようやくシンクロし成果をあげてきたことを強く感じました。少年時代から古代史に興味を持ってきた者として嬉しい感慨がありました。

そこでこの機会に、これまでの福永伸哉教授らの成果をもとに、私なりに古墳時代の流れをまとめてみます。特に、これまで触れて来なかった佐紀(盾列)古墳群さき(たてなみ)こふんぐん】 の謎について書いてみます。

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古墳時代は、卑弥呼の墓として有力視される箸墓古墳からはじまります。


かつて単なる百家争鳴の思いつき邪馬台国論が世間を覆っていたのですが、1970年代以降になって考古学的な証拠に基づく邪馬台国研究が可能になってきました。纏向遺跡などの考古学的な発掘調査が大きな役割を果たしたのです。


1980年代になると、考古学的成果をもとに、学問的な成果があらわれてきました。
特に、森岡秀人氏の 王莽の「貨泉」が鋳造からすぐに日本にもたらされた事実を重く見る研究(「弥生時代暦年代論をめぐる近畿第Ⅴ様式の時間幅」『信濃』37-4、1985年など)が発表されます。これによって三角縁神獣鏡が中国(魏)もたらされたことが傍証されました。

続いて、白石太一郎氏の 古墳出現を3世紀中後半とする体系的研究(「年代決定論(2)」『岩波講座 日本考古学』一、岩波書店、1985年など)が発表され、私はいよいよ考古学が歴史学にコミットする段階が来たと感動したものです。いいかえれば、科学的証拠が歴史の謎を解き始めたのです。

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1994年には大阪府池上遺跡で年輪年代法のヒノキ柱がBC52年に伐採されたことが判明して弥生時代後半の絶対年代編年が進みます。前後して。西久米塚古墳・黒塚古墳などの古相の三角縁神獣鏡のみを出土する古墳の調査が相次ぎ、布留0式土器が出土する古墳の出現年代が250年代頃であることが確実になりました。


さらに、2009年に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授らの研究成果が報告されました(炭素年代法による科学的鑑定)。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。


そして、福永伸哉氏の三角縁神獣鏡の詳細な研究が重要で、長方形紐孔・外周突線・特異な銘文を分析し、その技術が中国の魏晋(3世紀)の領域に求められることを明らかにしたのです。


そうこうしているうちに、石野博信氏らによる纏向遺跡の調査がどんどん進み、2世紀末葉に出現し4世紀中葉に消滅した巨大集落で、一種の政治的な都市としての性格を有する遺跡であることが明確になってきました。


2018年には、纏向遺跡で発見された桃の種を放射性炭素(C14)年代測定法で調査したしたところ西暦135~230年のものであることが判明しました。名古屋大と徳島県埋蔵文化センターの二ケ所で測定され同結果ということで極めて信頼性が高く、桜井市纏向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査結果とも合致する」と話しています。


同じく、2018年には、天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から出土した33面の三角縁神獣鏡について、京都市の泉屋博古館が大型放射光施設「スプリング8」で蛍光X線分析したところ、鏡に含まれる銀などの微量元素の割合が、古代中国鏡と一致することが判明しました。これで、箸墓古墳の直後に築かれたとされる黒塚古墳の三角縁神獣鏡が、中国からもたらされたものであることがほぼ確定しました。


以上の調査や研究は、すべて箸墓古墳の築造年代が3世紀後半で、ほぼ同時期に三角縁神獣鏡の配布が開始されたことを示しており、魏志倭人伝の記述とも整合します。

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以上の考古学的証拠から、流れをまとめてみます。


魏と通交する以前の三世紀初、卑弥呼は公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を分配しました。最初は分布が畿内に集中し、倭政権連合体の範囲が限られていることを示しているようです。
ところが、卑弥呼の晩年すなわち三世紀後半には、三角縁神獣鏡の分配が東西に広がり、畿内中心ながら福岡県までも覆い、前方後円墳の誕生と全国展開と時期も分布もこれに一致しています。


なかでも、考古学的証拠として、1997年の黒塚古墳の発掘は画期的でした。三角縁神獣鏡が33面も出たのです! 景初3年銘の三角縁神獣鏡もありました!

黒塚古墳では発掘された三角縁神獣鏡は、7組15面が同范の関係にあります。
三角縁神獣鏡の古いタイプがすべて中国製と判明した今、考えてみてください。もし鏡が一面ずつ中国からもたらされたのなら、偶然が何度も重ならなければ、同范鏡が再び共埋葬されることはおこりません。つまり、これは同范鏡が、セットでまとまった形で日本にもたらされたことを意味しているのです!(これはすでに過去に椿井大塚山古墳出土三角縁神獣鏡に関して小林行雄氏が指摘していたことです。)


三角縁神獣鏡が多数出土した黒塚古墳と椿井大塚山古墳に同范鏡の重複が多いのは当然で、三角縁神獣鏡の数が多ければ、それに比例して同范の数が増えるのは、あたりまえの話です。ごく単純な理由なのです。
両古墳の被葬者が邪馬台国の有力者であったことは確実で、鏡の分配の中心は両古墳の近くにあり、その主体者は、魏帝が銅鏡百枚を与え「ことごとくを以って汝(卑弥呼)が国中の人に示し・・・」という命を受けた卑弥呼その人なのです。時期と考古学的証拠から考えて、卑弥呼以外の人物を考えることは困難です。


239年(景初3年)、魏は卑弥呼に対して、その朝貢に対して「親魏倭王」の金印とともに卑弥呼の「好物」たる鏡を特鋳し贈与しました。それこそが、景初3年銘のある三角縁神獣鏡であることは間違いありません。これは三角縁神獣鏡の最も古いタイプで、時間的にも一致します。アクロバチックな理屈を全く必要としない、ごく自然な結論です。

景初3年銘のある三角縁神獣鏡を偽造とする説は、認められません。魏志倭人伝を読んで偽造したとするのは本末転倒の考え方で、3世紀当時の倭人が魏志倭人伝を読んでいたはずがなく、またそんな大がかりな偽造を行う理由が全くありません。それこそ、アクロバチックな論理です。

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生活の場というより政治的かつ祭祀的な特殊な性格を帯びて三世紀に興隆した纏向遺跡は、初期大和政権の中枢部と考えられます。日本ではじめて誕生した都市とも言えます。
近傍には、古墳時代の開始を告げる全長278mの箸墓古墳を嚆矢として、出現期大型前方後円墳が集中しており、いわゆるオオヤマト古墳群と呼ばれ、黒塚古墳もそのひとつです。


奈良盆地東南部は、奈良県でも本来、ヤマトと呼ばれていた地域で、ヤマト=邪馬台=倭=大和は、時間と空間が一致しました。史書と考古学の証拠が一致したのです。

↓この出現期古墳の分布は、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の地域と一致します。

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邪馬台国から古墳時代そして大和朝廷へと、つながっていることは証明されたと言えるでしょう。ただ、ここから歴史的にはいろいろの紆余曲折があり、日本の記紀などの歴史書との関係を解明する必要があります。その際の手段は、政治思想や願望や町おこしあるいはロマンではなく、科学的証拠と動かしがたい論証でなければなりません。


飛鳥時代に至るまでは、その最大の証拠が古墳です。何より古墳というのは、誰も否定できない歴然たる存在です。大古墳を築いた権力者がいたことは紛れもない事実で、それが記紀に書かれたどの人物にあたるかは、興味深いテーマです。


箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、こちら で書きました。そこで、崇神天皇・景行天皇・垂仁天皇などに比定される古墳についても述べましたので興味のある方はお読みいただければ幸いです。



難しいのは、崇神系政権(三輪王朝)の末期から応神系政権(河内王朝)への移行展開です。
その中間時期に、大王墓規模の古墳がある佐紀古墳群が造営されるているのです。これを、どう考えるのか?

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4世紀中葉に纏向遺跡は幕を閉じます。この時期に大和政権は遷都されたか、王朝交代があって狭い意味での中心地が移動したと考えられます。
佐紀古墳群が造営される時期に相当します。大きさからみると、五社神古墳(神功皇后陵)は、全長約270メートルと大王墓として問題のない規模があります。

そうすると、崇神系政権と応神系政権の間に、奈良盆地北部を根拠地とする佐紀政権があったのか?

しかし、記紀には佐紀地方に根拠があると考えられる大王はおらず、唯一、伝説的な神功皇后が書かれているのみです。
この神功皇后の関連で、記紀に書かれていない大王が存在した可能性はあります。巨大古墳(佐紀古墳群)という証拠が残っているわけですから、それに相当する権力者がいたことは確実です。

それが、記紀に書かれていないのは、後世の歴史書作成の際に、消されてしまった可能性があります。実際には、崇神王朝と応神王朝の間に、一時的に佐紀王朝があり、それが応神王朝に征服されてしまった。応神天皇は崇神王朝の末裔の女性(仲津姫)と婚姻し入婿的に崇神王朝を継いだので、その間に存在した佐紀王朝を歴史としては抹殺した・・・・ヤマトタケルや神功皇后といった神話的人物を挟みこみ応神王朝へとつないだ・・・・これが考えられる有力なストーリーのひとつです。


別の考え方があります。それは崇神系政権が墓域だけを移動させたという説です。これは、政権と墓域を区別するもので、後世にはこうしたあり方が出てきますが、ヤマト政権の最初期に通用するかは疑問です。なぜ、急に墓域だけを移動させるかという理由が見出せません。実際、その後、オオヤマト古墳群と古市古墳群の中間地域に造営された馬見古墳群は、有力豪族である葛城氏の根拠地であることは確実で、根拠地と墓域が一致しているのがこの当時の自然なあり方なのです。

また、纏向の中心地域から王都は移動しているのは確かなので、その場所をどう考えるかという問題もあります。王都はヤマトのどこかに遷都されても、その大王の墓が関係のないところに造られるはずがありません。王都の場所とはずれていても、少なくともその大王のゆかりのある出身地域に造営されるでしょう。



三番目の考え方があります。
それは、佐紀古墳群は、大王としてではなく王妃の出身地に造営された奥津城の古墳群であるとするものです。
佐紀古墳群の造営時期は、微妙に古市古墳群の造営時期と重なっています・・・これは何を意味しているのか?
佐紀政権が河内政権に征服され移ったというより、河内政権の初期大王たちの王妃が佐紀地域から選ばれ、その墳墓たちが佐紀古墳群とするなら時期の重なりが説明できるのではないでしょうか。
それが、記紀に象徴的に残されているのが、仲哀天皇と神功皇后の関係ではないかとするものです。

↓奈良県庁屋上から北を望む。上部左側奥の緑の丘陵が佐紀古墳群。

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私はどちらかというと、三番目の説(佐紀古墳群=王妃の奥津城説=白石太一郎氏の説)に説得力があると考えています。
その理由は二つあります。
ひとつは、もし佐紀王朝というのが存在したとするなら、もう少し記紀などの記録に痕跡をとどめているべきだということ。
もうひとつは、佐紀政権が河内政権に征服されたのなら、時期的に造営時期が重なるはずがないということです。


当時のヤマト政権というのは、現在の奈良盆地と大阪府と京都府の一部にまたがる一帯を中核とし、佐紀の地域も河内の地域もその有力な支え母体でした。外から見れば一体で、内部的には勢力争いはあったのでしょう。

三輪地域の崇神政権が弱体化してくると、一時的には佐紀地域の勢力は大王クラスの人物を出したのかもしれません。しかし、調整の結果、最終的にはヤマト政権河内派とでもいうべき勢力が権力を握り、佐紀派はそれを支える役割を果たしたのではないでしょうか。河内派と佐紀派は協力して大和政権を担ったのです
そこで、しばらくは大王を河内派から、王妃を佐紀派から出したと考えます。それが、歴然たる古墳造営時期の重なりと、仲哀天皇と神功皇后の関係から推測できるのです。

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私が古市古墳群で最初の大王墓である津堂城山古墳の被葬者と考えているのが仲哀天皇ですが、その王妃が神功皇后です。彼女は、近江~南山城地域に勢力のあった息長氏の一族から出ています。神功皇后の古事記での名前が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)であることがその証拠です。

佐紀古墳群のあたりに勢力を有していた豪族は、息長氏だけではありません。佐紀古墳群のすぐ南の春日地域を根拠地とする和邇氏があります。
この和邇氏は、古来よりヤマト政権を支えてきた有力氏族で、記紀による記録の上では、応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出しています!


すなわち、この息長氏と和邇氏から出た王妃の奥津城が佐紀古墳群ではないでしょうか。佐紀古墳群のすべてが王妃の墓であるかは分かりません。例えばヤマト政権で大きな力を持った和邇氏の首長墓というのも存在する可能性があります。私見では皇后級の王妃の墓が中心であったと考えますが、やはり、最終的な結論は、今後の考古学的な古墳の発掘に託したいと思います。



いやあ、古墳というのは確かに歴史の証人であり、今も消せない証拠を我々に提示している場所なのですね!


その後の、倭の五王時代(応神系政権=百舌鳥・古市古墳群の時代)の古墳の比定については、こちら で詳しく書いていますので、ご覧いただければ幸いです。






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