模糊の旅人
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2018年 06月 27日 |

京都のシリーズ記事も併行して進めます。


仁和寺の本坊は御殿と呼ばれ、宇多法皇の御所があった場所に建つことから「旧御室御所」とも呼ばれます。御所を移築したもので、火事にあい再建された経緯を持っています。


御殿だけは有料ですが写真撮影自由なので、拝観することにしました。もちろん世界遺産です。


白書院、宸殿、黒書院、霊明殿などが渡り廊下で結ばれており、御所そのものの雰囲気が味わえます。


↓南庭の白砂 奥が宸殿 宸殿は、御所の紫宸殿と同じで、檜皮葺、入母屋造です。

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↓白書院

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↓宸殿への渡り廊下

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↓庭園説明

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↓左近の桜と右近の橘を配した宸殿より南庭を見る 奥が勅使門

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↓宸殿内部 三室よりなり、襖絵や壁には四季の風物が描かれています。

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↓黒書院

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↓北庭

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↓霊明殿

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↓印象に残った襖絵

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↓御殿より見る仁王門

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2018年 06月 21日 |

いろいろ併行連載中ですが、今日はアジサイの花と近況ニュースです。

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ここ10日間、私的なことを含めて大きな事件が続きましたので、記録として記事に残しておきます。
2018年6月は忘れられない月になりました。


(1)米朝会談


   6/12 シンガポールで、トランプ米大統領と金正恩委員長の会談が実施され、北朝鮮の非核化が約束されました。

ショー的要素もある会談で、果たして本当に非核化が実現できるかどうか予断を許しません。とはいえここが第一歩。旅行関係に従事する私のような者にとっては、安全に世界を旅するということが、生活の必須条件です。ぜひ、核兵器の無い平和な世界を実現して行ってほしいものです。



(2)写友の死


   6/15 世界を股にかけて活躍された写友のJさんが逝去されました。

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ダンディーな先輩写友のjさんが亡くなられました。辛い出来事です。jさんのご冥福をお祈りいたします。
jさんは世界中をめぐり活躍されリスペクトしている先輩でした。酒豪でヘビースモーカーという私には真似できない豪快な面を持っておられました。最近は闘病生活でしたが、その中でも写欲を失わず撮影を続けておられました。ネット上には、jさんの写真ブログが残されています。それについては こちら をご覧ください。


6年前、一緒に活動していた写友が突然亡くなられた経験があり、追悼の写真展をしたことがあります。その模様は こちら。 一緒に写真活動をしてきた仲間を失うというのは非常にショックな経験で、今回またひとつ心の傷が増えました・・・・



(3)地震


   6/18 大阪で震度6弱の大きな地震があり、死者5人、負傷者400人以上、交通が寸断されました。

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6/18 朝の8時少し前、突然ガタガタと家が揺れ、本が落下してきました。私の住む堺市は大阪府南部なので大丈夫でしたが、大阪府北部では大きな被害が出ました。震源に近い高槻市に住む友人からの連絡によると、非常に大きな揺れがあり、本棚が倒れ部屋に寝ていた親族の方があやうく下敷きになりかけたとのことです。被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。


今回の地震は、マグニチュード6.1で、南海地震・東南海地震とは関係ないそうです。これからさらに大きな地震に見舞われる可能性があるので注意が必要ですね。やはり、大地が動くというのは怖いです。
私は自治会関係の役もやっていますので、近辺をまわり建物の亀裂や倒壊が無いか、孤立した支援を必要とする高齢者がないかを検証しました。
幸い大きな問題は無く、直接的な人のケガ等はありませんでしたが、ひび割れのようなものが何カ所か見られ、詳しい検査が必要かどうか検討中です。これからは耐震性の問題がクローズアップされることになるでしょう。責任重大です。



(4)ワールドカップ初戦勝利


   6/19 ロシアで開催中のサッカーW杯で、日本チームは初戦を迎え、南米の強豪コロンビアに2-1で勝利


W杯で、日本が南米のチームに勝利したのは初めてです。この試合は日本の夜9時からでしたのでTV中継を見ていました。あまり期待されていなかったにもかかわらず強豪のコロンビアに勝利したのは嬉しいことです。
サッカーは世界で最も人気のあるスポーツで、世界を旅する際に最適な共通話題ツールです。今後勝ち進めば世界から日本のサッカーが注目されさらに話題テーマが増えるので、頑張ってほしいものです。


↓イランのヤズドの広場でサッカーする少年たち 先進国だけでなく、世界のどこに行ってもサッカーは盛んで広場で子供たちがやっています。

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今回のW杯でも、旅した国々が出場していて、発展途上国は特に応援したくなります。最近は中近東に行くことが多いので、イラン、エジプト、チュニジア、モロッコといった国々です。
モロッコ旅では、今回のW杯出場を決めた瞬間に町に出ていて印象的な経験をしました。それについては、こちら の記事 をご覧ください。


さて、せっかくなのでコロンビア戦の独断と偏見に満ちた私的解説と感想を紋切型に少し。

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開始後3分、相手ディフェンスのハンド反則によるPKを決めて日本が1-0。レッドカードでコロンビアは一名退場となり日本が有利な展開に。
これはFW大迫のDFをかわす動きが生んだもの。詰めていた香川も見事だが、思わず手を出したD・サンチェスは不運。エスコバルの悲劇の二の舞にならないように祈りたい。


数的優位となり何度も攻め上がる日本だが、こういう状況にとまどいがあるのか、どうも動きがぎごちない。とうとう前半39分、長谷部が相手を倒してしまい、そのFKをキンテロに決められて1-1。これは、明らかに誤審だが、審判にはレッドカードをコロンビアに与えてしまった代償心理があり、そのために生まれた忖度FKだったと思う。


後半戦になると、日本は落ち着きを取り戻し、コロンビアには疲れが見えてきた気配・・・・この時点で、私は多分日本は勝利するだろうと感じ、いつ得点するかとワクワクしながらTV観戦。原口、長友、酒井宏樹が走り回り、これは行けそう。特に柴崎のパフォーママンスが見事で、期待を膨らます。


そして、後半28分、香川にかわって投入された本田のCKから、大迫が素晴らしいヘディングを決めて2-1。その後は、守備的ながら安全運転で日本が勝利した。欲をいえば後半、もう一点欲しかったが、攻撃の起点となる柴崎が足を踏まれて交代してからは守り切る作戦を徹底せざるを得なかった。これは妥当な判断だと思う。


この試合で大迫が攻撃だけでなく守備でも貢献し、大きく注目された。とはいえ、大迫はW杯前は得点できず評価を落としていた。
マークされる有名FWが全試合で結果を残すのは至難の業・・・今大会でも、今のところメッシもネイマールもエムバぺもレバンドフスキもまだ得点出来ていない。期待どおりあるいはそれ以上の結果を残しているスターFWは、4得点のクリスティアーノ・ロナウドだけだろう。


逆に言えば、大迫はW杯前に機能していなかったので、ある意味、隠し玉となり活躍できたといえる。直前のパラグアイ戦で爆発した乾の切れ込みは、不発に終わった。しかし、大迫のDFをくるりかわす動きや的確なヘディングシュートは日本では定評あるものだが、おごりのあるコロンビア側は、真剣に考えていなかった。大迫の情報は得ていただろうが大したことないと本気の対策を練っていなかったのだ。
だから、
先発組では、次は乾の番だ。また、まだ出場していないが、宇佐美や武藤嘉紀だって秘密兵器として意外に通用する可能性はある。要するに様々なパターンが可能な攻撃の多様性と厚みだ。
あと、守備面では、川島と長谷部にミスがあるのが気になる。技術半端ないMF大島や、才能あるGK中村航輔の活躍を期待したいものだ。


後半、疲れを見せ始めた香川を下げて本田、足を痛めた柴崎に代わっての山口蛍、最後に追いかけまわす岡崎の投入と、後半の西野監督の選手交代も的確だった。今後も勝負師らしい采配をお願いしたい。


まあ、開始3分で数的優位を得たとかロドリゲスの体調不良といった日本にとってラッキーな面もある勝利だった点は忘れてなならない。W杯本番の怖さ、サッカーという競技の面白さも感じた試合だった。今度は、テランガのライオンこと、(FIFAランキング8位のポーランドを倒した)セネガルという勢いのある手強い相手、何度もラッキーな事が起こるわけではない、油断せず戦ってほしい。


個人的には柴崎の攻撃的MFらしい前を向いた切れ味のあるプレーが好きなので、司令塔として今後も頑張ってほしい。

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(5)足の怪我が全治


   6/21 ご心配をおかけしましたが、ようやく足の怪我が全治しました。


本日、医者に行って、もうこれで大丈夫ですとのお墨付きをいただきました。レントゲンを見せていただくと、足の亀裂骨折の部分は完全にふさがっており、剥離骨折の部分は骨がくっついて盛り上がった状態が形成されつつありました。
無理しない普段の生活なら支障なく、大きな痛みが出なければもう医者に来なくても良いと言われました。


つまり、足首を酷使する登山や激しいスポーツさえしなければ良いとのこと。ヒールストライクという持病もかかえているので、ハードな本格的登山はあきらめますが、一般的な旅や軽登山なら問題ありません。やっとこれからです。


ということで復活しましたので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。





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2018年 06月 15日 |

古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚(陪冢・ばいちょう)など小型古墳を見て回ることにあります。
いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、それぞれの規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓まずJR百舌鳥駅を降りると、線路をまたいで陸橋がありますので、そこに登って大仙陵古墳の森を見てみます。

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↑最近、ピンク色の大きな建物ができたので、残念ながら大仙陵古墳の森はよく見えなくなりました。以前はもう少し良く見えたのですが・・・・やはり巨大古墳を上から見れないというのが問題ですね。


陸橋を渡らずに戻り、西へ少し歩くと大仙陵古墳の拝所へ至りますが、途中に二基の小型古墳があります。


↓まず駅前広場のようになっている古墳が収塚古墳(おさめづかこふん)です。

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この古墳の濠内などから、須恵器の土台や円筒埴輪、朝顔形埴輪、衣笠形埴輪などが出土しており、築造は5世紀中頃と推定されています。
時期的にも場所的にも、大仙陵古墳の付属墓の陪塚であることは間違いありません。


↓収塚古墳の前は広場になっており、カラー舗装で失われた前方部が形取られています。

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↓広場の前には、お土産ショップもず庵があります。

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↓収塚古墳の道路をはさんだ向かい側を南へ50mくらい行くと長塚古墳があります。

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長塚古墳は住宅に囲まれており、一部からしか墳丘を見られません。墳丘長が106.4mもあり、場所的にもやや離れていることから、大仙陵古墳の陪塚ではないようです。


↓この古墳にある石柱は、史跡長山古墳となっています。

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↑これは、1920年に仮指定された時の名称で。1958年に文化財保護法による史跡指定の際に長塚古墳に改められたのです。


↓経過を示した説明板

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↓収塚古墳に戻ると西側に観光用有料駐車場があります。その北側に遊歩道があり、大仙陵古墳の三重目の濠を近くで見られます。

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↓大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の拝所 神主さんが座って祈っておられました。

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↓拝所の正面 道路を挟みますが真ん前にあるのが孫大夫古墳です。

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↑この古墳は大仙陵古墳の中心線上にあり、時期的にも合うことから、大仙陵古墳の陪塚として最も重要なものです。


孫大夫古墳は帆立貝形の前方後円墳で、墳頂から勾玉が出土したことから、私見では、大仙陵古墳被葬者の女性の近親が葬られていると予想します。大王の寵愛した側室という可能性もありますね。


↓孫大夫古墳横の池に咲いていたスイレン

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↓孫大夫古墳の西側50mにある竜佐山古墳

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竜佐山古墳は、孫大夫古墳より新しく5世紀後半の築造です。したがって、大王没後しばらく時間を経過してから死んだ大王関係者が葬られていると思います。


↓竜佐山古墳北側の車道沿いの歩道が少し高く立体的になっているので、古墳墳形が見やすくなっています。前方部角を撮影しました。

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↓竜佐山古墳の濠にいたアオサギ

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↓竜佐山古墳の西側にある狐山古墳

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狐山古墳は、直径約27mの円墳で、位置的に大仙陵古墳の陪塚でない可能性もあります。

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↓狐山古墳の北側、車道を渡って大仙陵古墳の周遊歩道に入ったところにある銅亀山古墳

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銅亀山古墳は、百舌鳥古墳群としては珍しい方墳で、一辺が約26mの正方形ですが、最近の発掘調査の結果、帆立貝型古墳あるいは前方後方墳の可能性もあるとされています。5世紀中頃の築造で、大仙陵古墳の陪塚であることは確実です。


この記事を書くため、リハビリを兼ねて百舌鳥野へ撮影に行ってきたのですが、杖をついているので大型カメラでの両手撮影は出来ませんでした。コンパクトデジカメの片手撮影ですので、厳密な構図や水平線がとれておりませんが、ご容赦願います。





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2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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2018年 06月 03日 |

今回は、マルタ考古学博物館の最終回で、フェニキア人遺跡とコインコレクション です。


紀元前1000年頃、現レバノン方面から渡ってきたフェニキア人がマルタを支配します。この時代の遺物も三階奥に展示されており、その特徴的な品物に驚かされます。中でもアルファベットの起源となったとされるフェニキア文字の石碑は貴重なものです。


↓フェニキア文字の石碑文

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フェニキア語は北セム語系です。いっぽう、フェニキア文字は、ギリシア文字のルーツとなり、やがてアルファベットとなります。後のヘブライ文字やアラビア文字の元になったのはもちろんですが、ブラーフミー文字を介してインドやチベット・モンゴル・東南アジアの諸文字へと変化したと考えられます。


有力な説によると、今日世界で使われている全ての文字体系のうち、ほとんどがフェニキア文字を起源としており、漢字とその派生文字体系(日本語など)のみが別の独立の起源を持っているとされます。ハングルはフェニキア文字系や漢字系を参照して新造創出された文字なので両系の子孫ともいえます。(滅んだ完全独立発生文字としてはシュメール文字やマヤ文字など)


↓フェニキア碑文の説明

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フェニキア人は、謎の多い民族で、現在のレバノン~イスラエルあたりが出自と思われます。いわゆるカナンの地の一画を占めていました。(先祖は紅海あるいは小アジアに住んでいたともいわれる)
紀元前15世紀頃に都市国家を築き、やがて、レバノン杉で造った船で地中海世界全域に進出し、イベリア半島から北アフリカ西岸までに至り、交易活動によりアルファベットなどの古代オリエント文明を地中海世界に伝えました。
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やがて、フェニキア本土はアッシリアやアケメネス朝ペルシアに服属し、アレクサンドロス大王により滅ぼされました。しかし、現チュニジアに築かれた植民都市カルタゴは、西地中海世界の中心として長く繁栄し、初期の共和制ローマと覇を競いました。マルタ島は、カルタゴのすぐ近くなので、紀元前1000年頃からフェニキア人に支配されたようで、遺跡が発掘されています。


↓フェニキア人は裕福だったようで、豪華な金の装飾品などが出土しています。下は黄金製でアヌビス神か?

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フェニキア人は滅亡し(ローマに徹底的に破壊され)たため遺跡は少ないのですが、マルタには比較的残されています。フェニキア人を埋葬した木棺も発見されており、エジプト文明の影響も感じさせる興味深いものです。

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マルタは、フェニキア人以降、ローマ、ヴァンダル、ビザンチン、アラブ、ノルマン、スぺインなどの支配を受け、やがてマルタ騎士団の城塞国家となりました。その後、近世もナポレオンのフランスや、イギリスの支配下になり、1964年英連邦王国のマルタ国、最後に1974年マルタ共和国として完全独立を果たします。2004年EUに加盟(現在の公用語はマルタ語と英語で通貨はユーロ)

ちなみに、現在のマルタ語は、アラビア語系の口語を基礎としてシチリア語やイタリア語などの語彙が多く取り入れられたクレオール的な混合言語です。ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の貴重な言語といえます。

あくまで私見ですが、マルタ人にはフェニキア人に支配された時期にセム語系の言葉が根付き、ローマやビザンチン時代には支配者の言語は広がらなかったようです。それより、アラブ支配の時代には農業関係や庶民の生活が変革されアラビア語(口語)が普及し、そこにマルタ騎士団時代のロマンス語系の語彙が取り入れられマルタ語が成立したと思います。
また、それとは全く別物として、イギリス支配時代に英語が広がったのです。現在ではイギリス以外ではヨーロッパでは非常に貴重な英語圏で、日本人の英語留学先として人気があります。


そうした、長く複雑な歴史時代の流れを感じさせるものとして、考古学博物館にはコインのコレクション特別展示室があります。歴史を反映した各種の貨幣が見られ、特に各ローマ皇帝の顔が刻まれたコインがずらりと揃っており、マニアには垂涎の的です。

約16000枚以上のコインがあるそうです。


↓展示室

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↓ローマ皇帝コインのアップ  いわゆるセステルティウス硬貨ですね。

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↑上から第3代カリギュラ帝、第4代クラディウス帝、第5代ネロ帝など、すべて揃っています。


↓硬貨コレクションの説明

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ローマ支配からは歴史時代に入り、考古学博物館の範疇をこえるので展示されていません
したがってコインはあくまで、特別展示という位置づけですが、常設展示だそうです。


最後に小さなミュージアムショップ的なコーナーを見学し、スリーピングレディの銀製品に見入りました。
記念品を少しだけ買って、博物館を出ました。

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小さいながら充実した博物館で、マルタの古代世界を満喫した半日でした。
写真撮影が可能で、ネットでの発信や旅行サイトでの公開も「どんどん宣伝してください」と快く許可いただき、とても好感の持てるミュージアムでした。取材協力いただいた職員の方に深く御礼申し上げます。





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