模糊の旅人
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2014年 04月 28日 |
遺跡や教会巡礼の話が続きましたので今回は食べ物の話を特集してみます。

前回カファルナウムのペトロ像で紹介した聖ペトロの魚=セント・ピーターズ・フィッシュは、ガリラヤ湖名物の淡水魚です。
これは、マタイの福音書の記述に基づいています。

「シモン(ペトロ)、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」(マタイの福音書17.24~27)

これも非常にマタイ的な逸話ですが、とにかく現在は、この聖ペテロの魚=セント・ピーターズ・フィッシュは、ガリラヤ湖名物の食べ物となり、ガリラヤに来た観光客や巡礼者が必ず食する定番メニューになっています。

ということで、私も魚が好きなので食べてみました。

↓セント・ピーターズ・フィッシュ(一人前です)
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↑長さ30cm強の、大きな魚で、鱗がついたまま揚げられており、これにレモンを絞ってかけて食べます。

皮がパリッとして身がほくほくと淡白で、臭みも無く淡水魚としては非常に美味だと思います。ただ海産魚を食べ慣れ舌が肥えている日本人には美味しくないと感じる方もおられるようです。まあ、味付けと好みの問題でしょうが、私的には同じ大型淡水魚としては、以前に食した中国の草魚や蓮魚より断然美味しいと感じました。

なお、上記のマタイの福音書に書かれている逸話は、あながち荒唐無稽の話ではありません。
というのは、セント・ピーターズ・フィッシュの正体はアフリカ~中近東原産のティラピアという魚で、子どもを口の中で育てる習性があるのです。そしてある程度が大きくなると、石を咥えて子どもが口に入らないようにする行動をとるそうです。
したがって、銀貨を咥えるという話は、有り得ないことではないのです・・・


↓他にメインディッシュの魚としては、ブ―リーというのも食べました。これは日本でボラと呼ばれる魚でやや臭みがあるのでセント・ピーターズ・フィッシュより落ちると感じました。
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このように鱗のある魚はユダヤ教の食事規定で問題がないので、安心して食べられますが、肉を食べる際は注意を要します。

イスラエルでは、特殊な異教徒・外国人用のレストランを除いて、一般的なレストランやホテルやキブツでの食事は、ユダヤ教の食事規定に沿って提供されます。
これは、コーシェル(カシュルート)と呼ばれる規定で、日本人は特に以下の三点を頭に入れておかねばなりません。

(1)4つ足の獣のうち蹄が分かれ反芻をするもの(偶蹄類)以外は食べてはならない。
つまりこの規定により、豚やウサギや肉食獣は絶対に食べられません。当然、豚肉の加工品であるハム・ソーセージ類も食べられません。
牛肉は食べられますが、血抜きなど厳重な屠殺規定を順守する必要があり、血のしたたるステーキは駄目です。

(2)海や川・湖に住む生き物では、ヒレと鱗のあるもの以外は食べられません。
したがって、エビ、カキ、タコ、イカなどは当然食べられません。魚は食べられますが、血のしたたる刺身は駄目です。

(3)親と子すなわち肉類と乳製品を一緒に食べることは出来ません。
したがって、肉料理にチーズやバターや牛乳や玉子を使用できませんし、同一テーブルに載せることもできません。
逆に言えば、チーズやバターや牛乳やヨーグルトや玉子を食べる際は、肉類は食べられません(魚は可)。


他に、昆虫類系規定(イナゴ、バッタ類以外は食べられないのでフランス料理のカタツムリは駄目)、鳥類規定(猛禽類や死肉を食べる鳥は駄目)、死肉規定(自然に死んだ動物の肉は駄目)もあります。

日本人が特に注意せねばならないのは調味料です。上記のセント・ピーターズ・フィッシュを日本的味付けで食べようと、レストランにおいて、日本から持参した醤油などの調味料を、鞄から出し魚にかけて食べるのは厳禁です。
豚エキスなどの成分を含む調味料があるからで、醤油などについては、ユダヤ教の食事規定に沿って検査され、正式に輸入されたものだけが使用できるのです。


日本人の好きな、豚肉や甲殻類は駄目で、肉と乳製品の同時使用も禁止と理解しておかねばなりません。
つまり、牛レアステーキや酢豚や海老フライや鯛の活け造りはもちろん駄目ですが、親子丼やペパロニピザやチーズバーガーや月見バーガーやハムエッグも有り得ないわけです。


野菜や果物、穀物、パン類、デザート系については自由に食べられます。


イスラエルでは美味しい食べ物が多く、ホテルやキブツの食事もビュフェスタイルすなわち日本で言うバイキング形式が多いのですが、上記のユダヤ教の食事規定に沿って出されます。

ということで、ホテルの朝食は以下の写真のようになります。親と子の、子のほう、すなわちチーズややヨーグルトや玉子が主となります。肉類は、ありません。

↓ガリラヤのホテルでの朝食
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↓エルサレムのホテルでの朝食
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ビュフェスタイルの夕食は以下の写真のようになります。牛肉、鶏肉が多く、魚も種類が多く並べられます。当然、乳製品や玉子はありません。

↓死海のホテルでの夕食(上部の皿に入れた肉はローストビーフで、下の大皿に乗っている串刺しのものはケバブすなわち牛肉ミンチの固めたものです)
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↓エルサレムのホテルでの夕食 魚が好きなのでつい種々の魚料理を皿に盛ってしまいました(*^^*)/
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↓私の好きなナツメヤシと甘くて美味しいデザート
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↓レストランでコース料理を選んだ場合は、まず前菜的にピタパンが出てきます。
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このピタパンは、エジプトパンに似て、なかなか美味しいのです。中が空洞のポケット状になっているので、ピタパンを切って中に種々の具材を挟み込んで、前菜として食べるのです。(ピタパンはピザの起源とも言われています)

↓その種々の具材がテーブルに並んでいるのが普通です
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↓そのピタパン用具材の代表的な、ひよこ豆のペースト
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↓メインディッシュには、肉か魚の料理(この写真の場合は牛肉ハンバーグです)
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あとはデザートと、コーヒーorミントティーというのが多かったです。
記事が長くなりましたので、デザート・スイーツや酒類についてはまた機会があれば紹介します。

なるほど、ユダヤ教の律法というのは、食事まで貫徹されて、本当に煩わしいなあという実感はありました。
さらに安息日となると労働禁止なので、火を使うような調理は出来ず、さらに大変です。
でも、全体的に材料は良いものばかりで、味は悪くありません。

ややこしいですが、ユダヤ教の食事規定を別にすれば、イスラエルの食事自体はとても美味しです。
何より野菜と果物が圧倒的に豊富かつ新鮮で、とても健康的な食事が出来ます。また、ドライフルーツがいっぱい入ったデザート類は最高です。
パン類も良いし、ビールがとても美味しいです(笑)
食事全般については、私自身は非常に気に入りました。

治安も良く、食事も美味しく、清潔で、見所が多い、イスラエルへの旅を、自信を持っておすすめします。

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2014年 04月 26日 |
カファルナウムの遺跡の中心にペトロ住居跡上につくられた聖ペトロの家教会があります。

↓なんとも不思議なUFOのような形をしています。
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この形は下にあるペトロの家を柱無しで覆うためだと思われますが、うーん・・・・

イエスに関係のある場所に教会を建てて祭るというのは、10億人以上の信者を抱えるキリスト教としてはいたしかたがないでしょう。おおぜいの巡礼者が参りますので狭い遺跡をちゃんと管理していく必要があります。
ただ、この聖ペトロの家教会のような現代的な建物はそぐわないような気がします。船が十字に交差した形の宙に浮いた構造だそうですが。。。。

さて、この遺跡は上部の教会内部から覗くようになっていますがガラス越しのためよく見えません。下部の横から見たほうがよく分ります。
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↓八角形の壁に囲まれた小さな建物があったようです。
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ここは、ペトロの家と100%確定していないそうですが、集会所として改装された跡が残っており、ペトロ伝承に基づいて5世紀には教会堂が建てられていたようです。シナゴーグに近いのでこのあたりにペトロの家がありイエスが住んでいたのはまず間違いないとのことです。
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会堂での治癒奇跡の後、イエスはこのペトロの家でも多くの治癒奇跡をおこないますが、そのひとつがペトロのしゅうとめの病の治癒です。

それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモン(ペトロ)とアンデレとの家にはいって行かれた。ところが、シモン(ペトロ)のしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。(マルコの福音書1.29~31)

↓ペトロの像
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↑右手に鍵を、左手に羊飼の杖を持っています。鍵は天国の鍵、杖は羊=人々を飼う意で、いずれもマタイの福音書でイエスから託されたとされる、いかにもマタイ的な話です。(マルコの福音書にはこういう話は出てきません)
足元にある魚は、聖ペトロの魚すなわちセント・ピーターズ・フィッシュです。
このガリラヤ湖名物の食べ物セント・ピーターズ・フィッシュについては次回に詳しく紹介する予定です、

↓遺跡に止まる野鳥(種類は分りませんでした)
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カファルナウムは7世紀ころまで人が住んでいたようですが、やがてイスラム化の波の中で衰え、11世紀までには放棄されました。
そして19世紀になってから、西洋人による発掘が開始され遺跡の概要が明らかになってきたのです。

↓現在は世界各国から観光客が来て賑わっていました。
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↓カファルナウム修道院
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↓カファルナウムで売っていた大きなザクロ(注文するとジュースにしてくれます。美味しかったです)
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2014年 04月 23日 |
イエスは、ペトロとアンデレの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネという漁師たちを弟子にすると、ガリラヤ湖北岸の町であるカファルナウム(カペナウム)に入り伝道しました。

「それから、彼らはカファルナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚嘆した。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」(マルコの福音書1.21~22)

カファルナウムは旧約聖書にも登場しない中程度の町でした。当時、ガリラヤ地方で大きな町は旧首都のツイポリ(セフォリス)と新首都のティベリア、及びヘレニズム都市のスキュトポリスで、イエスはこういったローマ帝国的な大都市は避けて伝道しています。

カファルナウムにはペトロの家があったようで、イエスの伝道の本拠地になりました。

現在はカファルナウムの遺跡が発掘され、イエスが教えたといわれるシナゴーグ跡もあります。

↓カファルナウム遺跡の入り口門 ~カファルナウム イエスの町~
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↓発掘されたカファルナウム遺跡
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↓遺跡の向こうに見えるのはギリシャ正教会の七使徒聖堂です。糸杉も印象的です。
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↓ユダヤ教の聖櫃(トーラーの巻物を保管する聖なるアーク)
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↓まずはイエスが伝道活動した会堂(シナゴーグ)跡に行くことにします。
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↓このシナゴーグはイエスが伝道し人々が驚嘆した会堂の場所の上に再建されたものと考えられています。
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↓この下でイエスは話し病人を治癒したのですね・・・
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↓多くの巡礼者が参っていました。
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↓ヨーロッパ系の老婦人がじっと瞑想していました。
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イエスはこのシナゴーグで、旧約聖書の解釈説明に寄りかかって教える律法学者とは全く違い、自らの権威で、つまり旧約聖書によらず、自らの言行のみによって教えたのです。
これは、人々にとって驚嘆する出来事だったのです!

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2014年 04月 21日 |
イエスは、荒野でサタンの試みを退けた後、ガリラヤに向かいました。

「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて・・」(マルコの福音書1.14)とありますので、ひょっとして洗礼者ヨハネの投獄に続く弾圧を避け、故郷に近い北の辺境ガリラヤへ行ったのかも知れません。

イエスは、エッセネ派のように閉鎖的に荒野で孤高に修行するのではなく、また洗礼者ヨハネのようにヨルダン川で人々を待って洗礼活動する姿勢でもなく、荒野から自ら足を運んで庶民が実際に生活している場所であるガリラヤの村々へ赴いたのです。

ガリラヤ湖畔は緑が多く美しい場所ですが、イエスはここで本格的な伝道を開始しました。そしてまず弟子をつくります。

イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコの福音書1.16~18)

この兄のシモンが後にイエスによって「ペトロ」(岩の意)と名付けられる使徒です。
ペトロとアンデレの漁師兄弟はイエスの最初の弟子で、二人がイエスに声をかけられた場所に、現在はペトロの首位権教会(召命教会)が建っています。

↓イエスがペトロとアンデレに声をかけた場所・・・・湖の対岸にうっすら見える山はゴラン高原です。
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この湖畔をイエスが歩いたのですね。。。。そこを約2000年後の今、東洋の端の国から来た一庶民の私も歩いているのか。。。。
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↓イエスのペトロ召命の像(FEED MY SHEEP)
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↓湖畔の岩盤の上に建つペトロの首位権教会(召命教会)・・・やはりカトリックのフランシスコ会が作った聖堂です。
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↓内部
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↓内部祭壇前にあるメンザ・クリスティ(キリストの食卓)と呼ばれる岩
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この小さな教会は、このメンザ・クリスティの上に建てられた聖堂であることが分ります。

ペトロの首位権教会は小さな教会ですが、カトリックにとっては非常に重要な場所です。

このイエスがペトロを最初の弟子にした場所は、十字架刑の後にイエスが復活した際、メンザ・クリスティで弟子たちと食事をした後、イエスがペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言って後継指名をした場所でもあるとされています。ただし、マルコの福音書にはメンザ・クリスティについてや後継指名についての記述はありません。

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。・・・(中略)・・・・ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

(ヨハネの福音書:21.15~17)

カトリック教会はペトロを初代教皇として、その本山はローマの聖ペトロの寺院すなわちサン・ピエトロ大聖堂です。
だから、教皇は就任すると必ずこのペトロの首位権教会をお参りし、このメンザ・クリスティの岩に取りすがり泣き祈るのです。

↓メンザ・クリスティに触って祈る巡礼の人
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つまりカトリックは、ペトロが後継者指名を受けたところから「ペトロの首位権教会」と称するのです。(代々の教皇はペトロの首位権を受け継いで現在にいたると解釈するわけです)

いっぽう、プロテスタントはローマ教皇の権威や序列を認めていませんので、ペトロが弟子として最初に声をかけられたことを重視してここを「ペトロの召命教会」と呼んでいるのです。

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2014年 04月 18日 |
エリコ(ジェリコ)は世界最古の町と言われ、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区すなわちパレスチナ国に属します。
周辺は荒野ですが、オアシスがあり泉が湧くため、BC8000年紀頃の古くから人が住みついていたようで、多くの遺跡も発掘されています。エリコは古くから栄えた貴重なオアシス都市・交易都市と言えるでしょう。

↓エリコの泉
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↓世界最古であるとともに地球上で最も低い海面下1300フィートの市であると書かれていました。
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ここは旧約聖書の大きな舞台で、東や南の砂漠地帯から来るとカナンの地の入り口に位置することから、出エジプトから荒野を彷徨った民の目標となります。ユダヤの指導者モーセはエリコの攻略を果たせず没し、次の指導者であるヨシュアにより攻略することができました。

・・民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。(ヨシュア記6.20~21)

エリコ(ジェリコ)の戦い、あるいはエリコ大虐殺と呼ばれているものです。はるか紀元前1300年ころの出来事なので、これが史実であったかどうかは分かりませんが、ユダヤ人が先住者を武力で征服して行った過程が反映されているようです。

↓現在のエリコの町(完全にイスラム化されたアラブの町です)
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エリコの戦いからずっと時代は下って、紀元30年ころ、イエスは、ヨハネから洗礼を受けた直後、荒野に行きます。

「それ[受洗]からすぐに御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。」(マルコの福音書1.12~13)

このイエスがサタンの試みに遭った場所が、ここエリコの山(クルントゥル山)であると伝えられます。
クルントゥル山はイエスがサタンの誘惑をしりぞけた山なので「誘惑の山」と称されます。

↓誘惑の山と野鳥
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↑右側の電線のようなものは、ロープウェイ架線で、エリコのテル・アッスルターン遺跡から誘惑の山へ架かっています。
世界で最も低いところにあるロープウェイとしてギネスブックに登録されているとのことです。

↓クルントゥル山のアップ
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↓山に掘られた穴のようなものが見えるでしょうか? 東ローマ帝国時代は、多くの修道士がこのあたりに洞窟を堀ってイエスと同じ瞑想をしたそうです。
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↓イエスが行った荒野のイメージに近いと感じたエリコの無名の山
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イエスは40日のあいだ荒野にいたことになっていますが、この40という数字は厳しい試練を指す定番数字です。(旧約聖書のモーセがシナイ山で40日も神とともに過ごし、出エジプトの民が荒野を彷徨ったのも40年間で、さかのぼればノアの方船の時40日も雨が降り続きます。)


ところで、釈迦は6年の激しい断食苦行の後、断食の無意味を知り、乳かゆを飲み、仏陀伽耶(ブッダガヤ)の菩提樹の下で瞑想し、悪魔の誘惑にあい、それを退け、悟りを開きました。私はイエスの荒野の過ごし方に、釈迦のこの瞑想を強く連想します。


マルコの福音書では、イエスは「荒野にいて、サタンの試みにあわれた。」とあるだけで、断食したとは一言も書かれていません。(私は、ここでイエスはすでに断食の無意味を知っており、瞑想したのだと思います)

これがマタイやルカの福音書になると、余計な解説が加わり、イエスが断食したことになり、こと細かくサタンの誘惑ストーリーが詳しく書かれていますが、サタンの誘惑内容がなぜ細かくイエス以外の人に分かるのでしょうか?これはマタイやルカの考えで付け加えられた脚色だと思います。

それでは、サタンの試みとは何でしょうか?

イエスは、ヨハネの洗礼を受け、救済者となることを決意した後、「心の整理」に静かな荒野に向かったのではないでしょうか。
荒野で静かに瞑想することで、自己の内なるサタンすなわち自分の心の表層意識だけでなく深い潜在意識にまで存在する「迷い」と徹底的に対決したのです。
そしてその「迷い」を克服し、サタンの試みに打ち勝ったのです。

釈迦も瞑想することで悪魔の誘惑を退けています。

私はイエスの荒野の試みは、釈迦の瞑想大悟に極めて近いと考えます。


↓エリコのドライブインで騒ぐ現在のエリコの若者たち
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↓陽気に騒ぐエリコの若者たちの後方はるかに、誘惑の山が夕陽に輝いていました・・・
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ここエリコは、後にイエスの活動の舞台として再登場します。ザーカイの話や良きサマリア人の話、エリコの盲人の話などです。
それらについては後日また機会があれば書きたいと思います。

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2014年 04月 16日 |
マルコの福音書によると、「イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(マルコの福音書1.9)としてイエスが舞台に登場し、ここからイエスの公生活が始まります。

ヨルダン川はガリラヤ湖から南へ流れ出て、地の底の死海に注ぐ川です。ガリラヤ湖付近では緑が多いのですが南下して死海に近づくにつれて周囲の環境は砂漠のようになっていきます。
洗礼者ヨハネはそのヨルダン川に全身を浸かるような形で、民衆に洗礼を施していたようです。

現在のヨルダン川は、ヨルダンとの国境のため一般の人は近づけない場所となっています。
そこで、ヨルダン川そのものは無理としても、ヨルダン川が刻んだヨルダン川渓谷にそって、パレスチナ国の東側ぎりぎりを南下してみました。

↓ガリラヤに近いヨルダン川西岸地区北部から見るヨルダン川渓谷(向こう側の盛り上がった山々はヨルダンです)
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↓ヨルダン川渓谷を川下に南下すると、だんだん乾いた荒野になってきました・・・
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↓死海付近になると、ほとんど砂漠です。
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ヨハネがヨルダン川のどこで洗礼を施していたかは分かりませんが、聖書では荒野という表現がありますので、死海に近い場所であった可能性が高いです。


さて、マルコは洗礼者ヨハネの血筋や生い立ちについて一切語りません。
マルコが強調するのは旧約聖書の預言の実現としての洗礼者ヨハネです。

預言者イザヤの書に、
「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、
あなたの道を整えさせるであろう。
荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と書いてあるように、洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めの洗礼を宣べ伝えていた。
(マルコの福音書1.2~4)

旧約聖書を正確に見ると、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。」(マラキ書3.1)と「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、砂漠にわれわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」(イザヤ書40.3)となっており、マルコはこの二つの預言を一つに合成しています。
つまり、マルコは細かいことより、洗礼者ヨハネは、神の御計画による預言の成就であることを言いたいのす。

すなわち、洗礼者ヨハネはイエス・キリストの先駆者として神から遣わされた預言者であることを簡明に記述しているのです。

↓ヨハネの洗礼を受けるイエス(ナザレの受胎告知教会の扉レリーフの中のアップ)
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↓(参考)アンドレア・デル・ヴェロッキオ「キリストの洗礼」(左下の天使の絵は若きレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたそうです)
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洗礼者ヨハネは、どのような人物だったのでしょうか?

「このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。」 (マルコの福音書1.6)

野蜜と呼ばれているものは、多くの研究者たちがナツメヤシの実のことであるとしています。旧約聖書の出工ジプト記などに出てくる、カナン地帯を形容する言葉 「乳と蜜の流れる地」の蜜は、ナツメヤシのことだからです。

↓生のナツメヤシ(キブツ農場にて撮影)・・・干したデーツとはまた違う風味で美味しかったです。
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「らくだの毛ごろも」というのは、当時の定住しているユダヤ社会においては、異様なものであったようです。
服装も食べ物も、荒野に生きる禁欲的な修行者&預言者にふさわしいものであり、当時の遊牧民にも近く、洗礼者ヨハネがエッセネ派に近接した存在であったことを思わせます。(ヨハネとエッセネ派の関係については諸説あり決め手がありません)

マルコの福音書の記述に近い洗礼者ヨハネの姿の絵画と彫刻作品を挙げてみます。

↓エル・グレコ「洗礼者聖ヨハネ」
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↓フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ「洗礼者聖ヨハネ」
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歴史的には洗礼者ヨハネは、ユダヤ教とキリスト教を橋渡しする役目を果たしたと言えるでしょう。
洗礼と言うのは過去にも例はあったようですが、本格的に洗礼を宣教のメインにおいて強く実施したのはヨハネがはじめてでした。
後世、キリスト教はこの洗礼を儀式として受け継ぐことになります。

マルコの福音書でも、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。 」(マルコの福音書1.7)と洗礼者ヨハネ自身が述べています。

マルコは、ルカの福音書のように洗礼者ヨハネをイエスの親類縁者として血筋で結びつけるのではなく、ヨハネの洗礼による荒野の宣教活動そのものがイエスの到来を準備するものだとして描いています。(必要なことだけを書いて、余計な脚色や説明を加えないのが、マルコの福音書の素晴らしさです)

ヨハネがイエスに洗礼をしたことについては、預言者がメシアを洗礼したことになり不思議な気もしますが、マルコの福音書を読んで考えて見れば了解できます。

すなわち、イエスは世に伝道する公生活をはじめるにあたって、ヨハネの洗礼による宣教を認め師事し、最後にして最大の預言者となるヨハネから洗礼を受けることによって、自らを預言の完成者として旧約聖書の全救済史と結びつけたのです!

だから、マルコは、「イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコの福音書1.1)という言葉の次に、旧約聖書の預言の実現としての洗礼者ヨハネを強調して紹介しているのです。


当時ガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスは、弟の妻であったヘロディアを自分の妻にしました。洗礼者ヨハネはこの婚姻を不義として非難したため、捕えられて投獄されます。

ヘロディアの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」(マルコの福音書6.22~24)

この娘がサロメで、後世にオスカー・ワイルドの「サロメ」として戯曲化されます。

↓(参考)モロー「出現」
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こうして洗礼者ヨハネは殺されました。
後に、イエスが伝道をはじめその噂が流れた時
「ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ』と言った」(マルコの福音書6.16)とあります。


余談ですが、ヨハネという名前は英語で言うジョンで、男の名としては一番多い名前なので混同しやすいです。
洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)と、イエスの直弟子十二使徒のヨハネと、マルコの福音書を書いたマルコと呼ばれるヨハネと、ヨハネの福音書を書いたヨハネと、ヨハネの黙示録を書いたヨハネは、それぞれ全部別人です。

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More 追記(マルコの福音書における旧約聖書の引用について)
2014年 04月 13日 |
イエスはガリラヤのナザレで育ちました。

ナザレのあたりのガリラヤ地方は、砂漠や荒野ではなく、平原で緑が多いところから、地勢的にアフリカからアジアに出る回廊として遥かな古代から人の往来が多く、重要な交易ルートや幾多の王国の係争地にもなってきました。

なかでも有名なのがエジプトとメソポタミア(アッシリア)の交易ルート中継地として栄えたイズレルの谷のメギドという都市国家です。このメギドこそ最終戦争ハルマゲドンの地とされています(ハルマゲドンとはヘブライ語でハル=丘+メギドすなわち「メギドの丘」を意味するため)。

↓現在のメギド付近(予想していたより起伏の少ない場所でした)
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↑ここは、紀元前15世紀にトトメス3世率いるエジプト軍とカデシュ王率いるカナン連合軍との戦いの場でもあり、エジプト側が勝利したことがテーベ(現ルクソール)のカルナック神殿のヒエログリフに記録されています。
このメギドの戦いは、複合弓の使用、死者数などの記録が詳細に残る歴史上最古の戦いです。


さて、メギドからほど近いナザレの街は、緑の多いガリラヤの平原に大きく盛り上がった丘の上に位置しています。
ガリラヤの平原を見下ろすような場所ですので、古くから通商交易が行なわれていたようです。イエス父母も含めて商工業者が多い街だったのではないでしょうか。

↓丘の上に遠くナザレの街が見えてきました。
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↓ナザレの街に入ります。
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ナザレの現在は割と大きな街ですが、イエスの育った当時は、小規模の街であったそうです。

すでに 聖書の大地を行く(5)~(7)で紹介したナザレの受胎告知教会のすぐそばに、聖ヨセフ教会があり、ここがイエスの育った場所とされています。

↓聖ヨセフ教会
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↓聖ヨセフ教会外壁のマリア、イエス、ヨセフの家族像
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イエスの父(養父)ヨセフは大工でした。
したがって、イエスも大工として育てられたと考えられています。

↓聖ヨセフ教会入り口にあるヨセフの指導を受けるイエスの図
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↓(参考)ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの傑作絵画「大工の聖ヨセフ」(パリ・ルーヴル美術館)
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↑これは私がルーヴル美術館で最も好きな絵のひとつです。少年イエスのかざすロウソクの灯りに照らされて父ヨセフの梁に穴を開けている大工仕事がリアルです。一本のロウソクが映し出す光と闇の調和が素晴らしい傑作ですね。

聖書にはこうしたイエスの少年時代のことは書かれていないのですが、ここナザレで大工の息子としてイエスは育ったのですから、恐らくこれと似たような情景が実際にあっただろうと想像されます。

↓聖ヨセフ教会内部にあるイエスの住居跡とされるもの
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↓ヨセフの仕事場跡とされ東ローマ帝国時代には地下礼拝所として使われたとのこと。
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ここはまさに
「エルドロンの野に面した丘の岩壁に横穴を掘った何軒かの家・・・その岩窟のひとつが、この子供を、この青年を、この一人前の男を、職人と聖母の間に、かくしていたのである」(モーリヤック『イエスの生涯』)
という一節を彷彿とさせるものでした。

決して豪華ではなく、洞穴住居を改造したものであったようです。ここでイエスは、大工の父の手伝いをしたり技術を教えてもらったのかと思うと、静かな感動を覚えるのでした・・・

↓聖ヨセフ教会の祭壇
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↓聖ヨセフ教会の内部にある父子像
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↓夕暮れのナザレの街にて
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イエスの少年時代は、ほぼ上記の絵画や住居跡が示すような質素な雰囲気であったろうと考えられますが、問題はイエスの青年期です。

前回のエントリーで分析しましたようにイエスは庶民の出身で普通の人として少年期を過ごしています。

現在のナザレの街は、受胎告知教会や聖ヨセフ教会などのキリスト教会を除けば、イスラム教化された普通のアラブの街です。
イエスの頃は、さらに小さかったようですから、さしたる特徴のないごく普通の庶民の街だったのです。

大工の子であるイエスは、どう見ても当時の高等教育や、金持ちの私塾のようなものを経験したとは考えられません。
ましてや当時の一般的ユダヤ人の常識からは「ナザレから何の良いものが出るだろうか」(ヨハネの福音書1.46)と言われたように目立たないナザレとういう街で育ったのです・・・

いったいどこでどうやってどういうわけで、イエスの宗教的覚醒と優れた認識が生まれたのでしょうか?
これこそ、イエスの足跡をたどって行きたい私にとって、最大の疑問点であると言えるのです。

その点についての私の独断による推理を、以下の More で書きましたので、御興味のある方はお読みください。

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More 青年期のイエスの覚醒についての私の考え方
2014年 04月 10日 |
ベツレヘムで誕生したイエス・キリストは、30歳ごろヨハネの洗礼を受け伝道開始するのですが、そうした公生涯の前は、いったいどういう生い立ちと生活をしていたのでしょうか?

私のイエス・キリストの生涯をたどる巡礼の旅も、ベツレヘムでのイエス誕生から30歳頃のイエスの伝道までの間が、大きな空白となってしまい、どうしたら良いのか、正直いって、とまどってしまいます。(そこで、今回はちょっと趣向を変えて西洋絵画などを多く交えてアップしてみます)

実は、このあたりについては聖書にもほとんど記述がないので大いなる謎となっているのです。

まず、一番古いマルコの福音書では全く触れられていませんし、一番新しいヨハネの福音書にもイエスの生い立ちは書かれていません。

マタイの福音書とルカの福音書には記述があるのですが、内容に大きな違いがあります。

まず、イエスの誕生直後ですが、マタイの福音書では東方の三博士(三賢者)が祝賀に来ます。

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マタイの福音書2.1~2.2)

この三博士の来訪礼拝の図は、世界のクリスマスの定番で、クリスマスマーケットでは必ず展示されます。

↓昨年の大阪梅田のクリスマスマーケットで撮影した三博士礼拝の展示
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また絵画でもよく描かれている題材で、代表的なものを以下に三点あげてみます。それぞれの画家の考え方が出ていて興味深いものがあります。
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そして三博士の訪問の後、次のように書かれています。

学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。(マタイの福音書2.13~15)

↓エジプトに逃げるイエスと父母(ナザレの受胎告知教会の扉レリーフの中のアップ)
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↓彫像での表現
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↓同じく映画での一シーン
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↓疑心暗鬼にかられたヘロデ王は、ベツレヘムと近郊の二歳以下の男児の虐殺を命じます。
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↑ジョットの絵画

↓有名なルーベンスの「幼児虐殺」の絵画
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↓ニコラ・プッサンの描いた「幼児虐殺」
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ヘロデ王が死んでからもユダヤの地を避けるようにして「ガリラヤの地方に退き、ナザレという町に行って住んだ。」(マタイの福音書2.22)となっています。

マタイはそうしたイエスの誕生直後の全ての事跡を旧約聖書の預言が成就したものと意義づけています。
またその物語自体が、嬰児虐殺やエジプトへの避難と帰還というモーセの出エジプト記を連想させるものになっています。


ところが、ルカの福音書では、イエスと父母は、エルサレムの神殿で新生児のための正式な儀式を済ませるまで長く滞在し、その後に故郷のナザレに帰ったとあります。
上記のマタイの福音書にある東方の三博士の話やヘロデ王の赤子虐殺の話は全くなく、しばらくベツレヘムに留まり、その後も、何度もエルサレムに家族で訪問したように読めます。(イエス少年時代唯一のエピソードであるエルサレム神殿で律法学者を驚かせる賢きイエス少年の物語も、ルカの福音書だけに書かれています)

マタイの福音書はエルサレムを避ける話であり、ルカの福音書はエルサレムを指向する話であり、イエスの誕生後の逸話としては全く整合しません。

このあたりについては様々な解釈があるのですが、「イエスがヘロデ王の時代にベツレヘムで生まれた」という伝承についての表現と意義づけに関して、マタイの福音書とルカの福音書で異なった結果になったことは間違いありません。


また、イエスの少年時代の逸話は、ルカの福音書にひとつあるだけで、イエスの青年時代や20代のことについては、どの福音書にも全く書かれていません。

それではいったいイエスの若い日々は、本当はどうだったのでしょうか?


こうした若き日のイエスの謎について、マルコの福音書を最重視する私の立場からの独断による考え方を以下の More で書きましたので、御興味のある方はお読みください。

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More  若き日のイエスの謎についての私の考え方
2014年 04月 08日 |
聖カテリーナ教会は聖誕教会に隣接し、聖誕教会の一部でもあるのですが、カトリックのフランシスコ会の教会で、とても美しく雰囲気が違うので独立したエントリーとしました。

聖誕教会のアルメニア使徒教会礼拝堂のドアから出るとすぐにフランシスコ会の聖カテリーナ教会に続きます。
毎年12月24日には、世界各国へここからクリスマスのミサのテレビ中継が行われます。これをミッドナイトミサといいます。イエスの誕生した場所なのですから、これぞ本物のクリスマスですね。

↓御覧のように聖誕教会とは違ってとても綺麗な教会です。
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この教会内部の上品な美しさは見事で、さすがカトリックと感じました。
思わず夢中でシャッターを切り続けました。

それでは、聖カテリーナ教会の写真をお楽しみください。
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↓イエス誕生と東方の三博士のステンドグラス
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↓12月25日から翌年1月6日まで、聖誕教会のベツレヘムスター星イコンの上に置かれる生まれたばかりのイエスの像(普段はここ聖カテリーナ教会に置かれています)
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この聖カテリーナ教会にも地下洞窟があります。 ここは迫害を逃れて神学者ヒエロニムスがヘブライ語の旧約聖書をラテン語に翻訳した有名な場所なのです。すなわち非常に長くカトリックの公式スタンダードとなった「ブルガタ(ウルガータ)版ラテン語聖書」の作成された地です。
ヒエロニムス(イエロニム)は後世、聖人とされました。

↓そのヒエロニムス洞窟で行われていたミサ
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↓聖カテリーナ教会出口にはヒエロニムス像が印象的に立っています。
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↓ヒエロニムス像アップ(足元に見えるしゃれこうべは翻訳助手の婦人パウラで、ヒエロニムスは彼女の死後は骨をそばにおいて翻訳作業を進めたそうです)
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2014年 04月 05日 |
いよいよイエス・キリストの誕生した地下の洞穴に入ります。

↓イエス生誕洞穴へ降りる階段の上の浮き彫り。
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↓階段の下右に人がかがんで、祈っているようです。あそこだ。
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↓おお、見えてきました、イエスが誕生した場所のベツレヘムスターです。
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↓大理石の床に14芒に輝く金属の星があり、その真ん中に穴が開いており、「ここでイエス・キリストは聖母マリアから生まれた」と刻まれています。
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↑皆さん、この星の穴に触ります。私も触り祈らせていただきました。

いささか感動です。これぞまさに、西暦「紀元」の起源の場所ですね!

このベツレヘムスターはフランスから献上されたものです。

↓ベツレヘムスターの上の祭壇です。
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↓洞穴の岩肌を隠すようにタペストリーが架かっていました。
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↓イコンの向かい側は掘られて洞穴祭壇となっておりミサが行われていました。
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↓イコンの洞穴の奥のスペースと飾られた絵画など。
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以上のようにイエスが誕生した洞穴は狭く、そこに次々と非常に多くの人が参りますので、圧迫感がありました。
今は大理石が貼られ、いろいろ飾られていますが、イエス誕生当時は床も壁も岩が剥きだしの小さな洞穴でした。庶民であったイエス・キリストが生まれた場所はやはり狭く質素だったのです。

洞穴反対側の階段を登って一階に出ると、アルメニア使徒教会の礼拝堂がありました。
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↑アルメニア使徒教会の壁や絵画は古ぼけて地味っぽいのですが、歴史を感じました。

↓ギリシャ正教の絵画や飾りは豪華な雰囲気でした。
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↓聖誕教会の小さな窓の奥に教会創建時代に描かれたと思われる壁画が見えました。
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