模糊の旅人
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カテゴリ:奈良( 98 )
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2019年 09月 06日 |

先般、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を記念して行われた福永伸哉教授の特別講演を拝聴しました。
とても印象的な講演で、考古学と歴史学がようやくシンクロし成果をあげてきたことを強く感じました。少年時代から古代史に興味を持ってきた者として嬉しい感慨がありました。

そこでこの機会に、これまでの福永伸哉教授らの成果をもとに、私なりに古墳時代の流れをまとめてみます。特に、これまで触れて来なかった佐紀(盾列)古墳群さき(たてなみ)こふんぐん】 の謎について書いてみます。

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古墳時代は、卑弥呼の墓として有力視される箸墓古墳からはじまります。


かつて単なる百家争鳴の思いつき邪馬台国論が世間を覆っていたのですが、1970年代以降になって考古学的な証拠に基づく邪馬台国研究が可能になってきました。纏向遺跡などの考古学的な発掘調査が大きな役割を果たしたのです。


1980年代になると、考古学的成果をもとに、学問的な成果があらわれてきました。
特に、森岡秀人氏の 王莽の「貨泉」が鋳造からすぐに日本にもたらされた事実を重く見る研究(「弥生時代暦年代論をめぐる近畿第Ⅴ様式の時間幅」『信濃』37-4、1985年など)が発表されます。これによって三角縁神獣鏡が中国(魏)もたらされたことが傍証されました。

続いて、白石太一郎氏の 古墳出現を3世紀中後半とする体系的研究(「年代決定論(2)」『岩波講座 日本考古学』一、岩波書店、1985年など)が発表され、私はいよいよ考古学が歴史学にコミットする段階が来たと感動したものです。いいかえれば、科学的証拠が歴史の謎を解き始めたのです。

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1994年には大阪府池上遺跡で年輪年代法のヒノキ柱がBC52年に伐採されたことが判明して弥生時代後半の絶対年代編年が進みます。前後して。西久米塚古墳・黒塚古墳などの古相の三角縁神獣鏡のみを出土する古墳の調査が相次ぎ、布留0式土器が出土する古墳の出現年代が250年代頃であることが確実になりました。


さらに、2009年に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授らの研究成果が報告されました(炭素年代法による科学的鑑定)。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。


そして、福永伸哉氏の三角縁神獣鏡の詳細な研究が重要で、長方形紐孔・外周突線・特異な銘文を分析し、その技術が中国の魏晋(3世紀)の領域に求められることを明らかにしたのです。


そうこうしているうちに、石野博信氏らによる纏向遺跡の調査がどんどん進み、2世紀末葉に出現し4世紀中葉に消滅した巨大集落で、一種の政治的な都市としての性格を有する遺跡であることが明確になってきました。


2018年には、纏向遺跡で発見された桃の種を放射性炭素(C14)年代測定法で調査したしたところ西暦135~230年のものであることが判明しました。名古屋大と徳島県埋蔵文化センターの二ケ所で測定され同結果ということで極めて信頼性が高く、桜井市纏向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査結果とも合致する」と話しています。


同じく、2018年には、天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から出土した33面の三角縁神獣鏡について、京都市の泉屋博古館が大型放射光施設「スプリング8」で蛍光X線分析したところ、鏡に含まれる銀などの微量元素の割合が、古代中国鏡と一致することが判明しました。これで、箸墓古墳の直後に築かれたとされる黒塚古墳の三角縁神獣鏡が、中国からもたらされたものであることがほぼ確定しました。


以上の調査や研究は、すべて箸墓古墳の築造年代が3世紀後半で、ほぼ同時期に三角縁神獣鏡の配布が開始されたことを示しており、魏志倭人伝の記述とも整合します。

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以上の考古学的証拠から、流れをまとめてみます。


魏と通交する以前の三世紀初、卑弥呼は公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を分配しました。最初は分布が畿内に集中し、倭政権連合体の範囲が限られていることを示しているようです。
ところが、卑弥呼の晩年すなわち三世紀後半には、三角縁神獣鏡の分配が東西に広がり、畿内中心ながら福岡県までも覆い、前方後円墳の誕生と全国展開と時期も分布もこれに一致しています。


なかでも、考古学的証拠として、1997年の黒塚古墳の発掘は画期的でした。三角縁神獣鏡が33面も出たのです! 景初3年銘の三角縁神獣鏡もありました!

黒塚古墳では発掘された三角縁神獣鏡は、7組15面が同范の関係にあります。
三角縁神獣鏡の古いタイプがすべて中国製と判明した今、考えてみてください。もし鏡が一面ずつ中国からもたらされたのなら、偶然が何度も重ならなければ、同范鏡が再び共埋葬されることはおこりません。つまり、これは同范鏡が、セットでまとまった形で日本にもたらされたことを意味しているのです!(これはすでに過去に椿井大塚山古墳出土三角縁神獣鏡に関して小林行雄氏が指摘していたことです。)


三角縁神獣鏡が多数出土した黒塚古墳と椿井大塚山古墳に同范鏡の重複が多いのは当然で、三角縁神獣鏡の数が多ければ、それに比例して同范の数が増えるのは、あたりまえの話です。ごく単純な理由なのです。
両古墳の被葬者が邪馬台国の有力者であったことは確実で、鏡の分配の中心は両古墳の近くにあり、その主体者は、魏帝が銅鏡百枚を与え「ことごとくを以って汝(卑弥呼)が国中の人に示し・・・」という命を受けた卑弥呼その人なのです。時期と考古学的証拠から考えて、卑弥呼以外の人物を考えることは困難です。


239年(景初3年)、魏は卑弥呼に対して、その朝貢に対して「親魏倭王」の金印とともに卑弥呼の「好物」たる鏡を特鋳し贈与しました。それこそが、景初3年銘のある三角縁神獣鏡であることは間違いありません。これは三角縁神獣鏡の最も古いタイプで、時間的にも一致します。アクロバチックな理屈を全く必要としない、ごく自然な結論です。

景初3年銘のある三角縁神獣鏡を偽造とする説は、認められません。魏志倭人伝を読んで偽造したとするのは本末転倒の考え方で、3世紀当時の倭人が魏志倭人伝を読んでいたはずがなく、またそんな大がかりな偽造を行う理由が全くありません。それこそ、アクロバチックな論理です。

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生活の場というより政治的かつ祭祀的な特殊な性格を帯びて三世紀に興隆した纏向遺跡は、初期大和政権の中枢部と考えられます。日本ではじめて誕生した都市とも言えます。
近傍には、古墳時代の開始を告げる全長278mの箸墓古墳を嚆矢として、出現期大型前方後円墳が集中しており、いわゆるオオヤマト古墳群と呼ばれ、黒塚古墳もそのひとつです。


奈良盆地東南部は、奈良県でも本来、ヤマトと呼ばれていた地域で、ヤマト=邪馬台=倭=大和は、時間と空間が一致しました。史書と考古学の証拠が一致したのです。

↓この出現期古墳の分布は、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の地域と一致します。

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邪馬台国から古墳時代そして大和朝廷へと、つながっていることは証明されたと言えるでしょう。ただ、ここから歴史的にはいろいろの紆余曲折があり、日本の記紀などの歴史書との関係を解明する必要があります。その際の手段は、政治思想や願望や町おこしあるいはロマンではなく、科学的証拠と動かしがたい論証でなければなりません。


飛鳥時代に至るまでは、その最大の証拠が古墳です。何より古墳というのは、誰も否定できない歴然たる存在です。大古墳を築いた権力者がいたことは紛れもない事実で、それが記紀に書かれたどの人物にあたるかは、興味深いテーマです。


箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、こちら で書きました。そこで、崇神天皇・景行天皇・垂仁天皇などに比定される古墳についても述べましたので興味のある方はお読みいただければ幸いです。



難しいのは、崇神系政権(三輪王朝)の末期から応神系政権(河内王朝)への移行展開です。
その中間時期に、大王墓規模の古墳がある佐紀古墳群が造営されるているのです。これを、どう考えるのか?

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4世紀中葉に纏向遺跡は幕を閉じます。この時期に大和政権は遷都されたか、王朝交代があって狭い意味での中心地が移動したと考えられます。
佐紀古墳群が造営される時期に相当します。大きさからみると、五社神古墳(神功皇后陵)は、全長約270メートルと大王墓として問題のない規模があります。

そうすると、崇神系政権と応神系政権の間に、奈良盆地北部を根拠地とする佐紀政権があったのか?

しかし、記紀には佐紀地方に根拠があると考えられる大王はおらず、唯一、伝説的な神功皇后が書かれているのみです。
この神功皇后の関連で、記紀に書かれていない大王が存在した可能性はあります。巨大古墳(佐紀古墳群)という証拠が残っているわけですから、それに相当する権力者がいたことは確実です。

それが、記紀に書かれていないのは、後世の歴史書作成の際に、消されてしまった可能性があります。実際には、崇神王朝と応神王朝の間に、一時的に佐紀王朝があり、それが応神王朝に征服されてしまった。応神天皇は崇神王朝の末裔の女性(仲津姫)と婚姻し入婿的に崇神王朝を継いだので、その間に存在した佐紀王朝を歴史としては抹殺した・・・・ヤマトタケルや神功皇后といった神話的人物を挟みこみ応神王朝へとつないだ・・・・これが考えられる有力なストーリーのひとつです。


別の考え方があります。それは崇神系政権が墓域だけを移動させたという説です。これは、政権と墓域を区別するもので、後世にはこうしたあり方が出てきますが、ヤマト政権の最初期に通用するかは疑問です。なぜ、急に墓域だけを移動させるかという理由が見出せません。実際、その後、オオヤマト古墳群と古市古墳群の中間地域に造営された馬見古墳群は、有力豪族である葛城氏の根拠地であることは確実で、根拠地と墓域が一致しているのがこの当時の自然なあり方なのです。

また、纏向の中心地域から王都は移動しているのは確かなので、その場所をどう考えるかという問題もあります。王都はヤマトのどこかに遷都されても、その大王の墓が関係のないところに造られるはずがありません。王都の場所とはずれていても、少なくともその大王のゆかりのある出身地域に造営されるでしょう。



三番目の考え方があります。
それは、佐紀古墳群は、大王としてではなく王妃の出身地に造営された奥津城の古墳群であるとするものです。
佐紀古墳群の造営時期は、微妙に古市古墳群の造営時期と重なっています・・・これは何を意味しているのか?
佐紀政権が河内政権に征服され移ったというより、河内政権の初期大王たちの王妃が佐紀地域から選ばれ、その墳墓たちが佐紀古墳群とするなら時期の重なりが説明できるのではないでしょうか。
それが、記紀に象徴的に残されているのが、仲哀天皇と神功皇后の関係ではないかとするものです。

↓奈良県庁屋上から北を望む。上部左側奥の緑の丘陵が佐紀古墳群。

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私はどちらかというと、三番目の説(佐紀古墳群=王妃の奥津城説=白石太一郎氏の説)に説得力があると考えています。
その理由は二つあります。
ひとつは、もし佐紀王朝というのが存在したとするなら、もう少し記紀などの記録に痕跡をとどめているべきだということ。
もうひとつは、佐紀政権が河内政権に征服されたのなら、時期的に造営時期が重なるはずがないということです。


当時のヤマト政権というのは、現在の奈良盆地と大阪府と京都府の一部にまたがる一帯を中核とし、佐紀の地域も河内の地域もその有力な支え母体でした。外から見れば一体で、内部的には勢力争いはあったのでしょう。

三輪地域の崇神政権が弱体化してくると、一時的には佐紀地域の勢力は大王クラスの人物を出したのかもしれません。しかし、調整の結果、最終的にはヤマト政権河内派とでもいうべき勢力が権力を握り、佐紀派はそれを支える役割を果たしたのではないでしょうか。河内派と佐紀派は協力して大和政権を担ったのです
そこで、しばらくは大王を河内派から、王妃を佐紀派から出したと考えます。それが、歴然たる古墳造営時期の重なりと、仲哀天皇と神功皇后の関係から推測できるのです。

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私が古市古墳群で最初の大王墓である津堂城山古墳の被葬者と考えているのが仲哀天皇ですが、その王妃が神功皇后です。彼女は、近江~南山城地域に勢力のあった息長氏の一族から出ています。神功皇后の古事記での名前が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)であることがその証拠です。

佐紀古墳群のあたりに勢力を有していた豪族は、息長氏だけではありません。佐紀古墳群のすぐ南の春日地域を根拠地とする和邇氏があります。
この和邇氏は、古来よりヤマト政権を支えてきた有力氏族で、記紀による記録の上では、応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出しています!


すなわち、この息長氏と和邇氏から出た王妃の奥津城が佐紀古墳群ではないでしょうか。佐紀古墳群のすべてが王妃の墓であるかは分かりません。例えばヤマト政権で大きな力を持った和邇氏の首長墓というのも存在する可能性があります。私見では皇后級の王妃の墓が中心であったと考えますが、やはり、最終的な結論は、今後の考古学的な古墳の発掘に託したいと思います。



いやあ、古墳というのは確かに歴史の証人であり、今も消せない証拠を我々に提示している場所なのですね!


その後の、倭の五王時代(応神系政権=百舌鳥・古市古墳群の時代)の古墳の比定については、こちら で詳しく書いていますので、ご覧いただければ幸いです。






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2019年 07月 23日 |

韓国激安ツアー取材からは、先週台風前に帰ってきておりました。詳しくは後日、ブログ記事をアップする予定です。
ただ別件で、いろいろありましてブログ更新が遅れましたことをお詫びいたします。ご心配をおかけしました。


さて、LINEトラベルJPの旅行ガイドで、私の「奈良県立美術館で見る『富本憲吉入門』巨匠の足跡が一目瞭然!」という記事が公開されました。
近代陶芸の巨匠:富本憲吉のすべてが分かる企画展の紹介ですので、ぜひ↓お読みください。




この旅行ガイド記事の作成にあたっては、奈良県立美術館の副館長である中川さんと学芸課長の安田さん、学芸員の飯島さんに懇切丁寧な説明案内と指導を賜りました。この場を借りて深く御礼申し上げます。


ブログでは、奈良県立美術館取材時の前後の写真をアップします。

近鉄奈良駅から東へ少し歩くといつもの鹿が出迎えてくれました。

↓鹿に囲まれて飛び上がる中国人観光客

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↓雄鹿の角はもうだいぶ伸びていました。

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↓2018年に再建なった興福寺中金堂(301年ぶりの再建だそうです)

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↓奈良県庁・・・ここの屋上に行きます。

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↓奈良県庁屋上広場・・・ここは奈良観光の穴場ですね。

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↓奈良県庁屋上広場より東側・・・左の大きな建物が大仏殿、右側が若草山

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↓二月堂と若草山

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↓南側・・・左の塔が興福寺五重塔、右の大きな建物が興福寺中金堂

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↓北側・・・直下に、大きな四角形の建物二棟を渡り廊下で繋いだように見えるのが、今回取材した奈良県立美術館です。

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↓県庁の裏側の横断歩道を渡ると奈良県立美術館です。

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↓奈良県立美術館入り口

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↓入館したところにある企画展表示

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↓富本憲吉作品のうち旅行ガイド記事に載せられなかったものを一枚だけアップします。「金銀彩羊歯模様 大飾皿」

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↑富本憲吉晩年の作品で、内側中心部に金彩のシダ模様を、外側に銀彩のシダ模様を市松調に配した大飾皿。余白も効いた粋な作品で、富本憲吉の到達したところを示しています。


 その他の富本憲吉の有名作品については、 LINEトラベルJPの旅行ガイド記事 をご覧ください。







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2019年 04月 18日 |
今年の桜の時期は、忙しくて大きな遠征ができなかったのですが、自宅からクルマなら一時間弱でアクセス可能な、奈良の二上山麓に行ってきました。

竹ノ内街道を軽快にドライブし二上山ふるさと公園に到着。クルマを駐車場に入れてハイキングの開始です。

二上山雄岳をバックに公園の桜を撮影しました。まずは、以下その三枚をご覧ください。
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そこから北へ向かいます。途中の田舎道は、のどかで癒されます。

↓二上山と菜の花
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↓道端に咲く紫のスミレと白いスミレ
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野の花や野鳥を撮影しながら、好物の土筆を採ったりして、のんびり歩いていると、やがて目的地の専称寺(せんしょうじ)に到着しました。
ここは、友人の画峰さんに教えてもらった桜鑑賞の穴場で、とても小さな寺。私にとってははじめての訪問です。
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この時期だけに開かれる山門を入ると見事な枝垂れ桜が迎えてくれます。
これがなんと、たった一本の大きな桜の古木で推定樹齢200年超。本当に素晴らしかったです。
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↓うまく撮られた我峰さんの写真も許可を得て掲載します。
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以下は、私の専称寺一本桜のアップ作品です。
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まさに貴重な銘木といえるでしょう。我峰さんに感謝!

↓桜だけでなく、苔も見事で、桜の花びらが落ちて風情があります。
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専称寺で桜を満喫した後は、折り返して南へ向かい、石光寺(せっこうじ)を経て当麻寺(たいまでら)へ歩きました。


当麻寺は大きな寺で、桜も多く、有名ですね。私もこれまで何度か来ています。
以下、当麻寺の桜を6枚ご覧ください。
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のどかな里山の春を、半日、存分に楽しんだ感じで、とても良かったです。いろいろ寄り道をしながら、合計10kmくらいのハイキングでした。
やはり、都会の喧騒を離れた静かで自然豊かな場所は心がなごみます。リフレッシュできましたので、これからの仕事も頑張れそうです。

専称寺の一本桜に感動しましたので、来年もまた来ようと決心しました。
来年は一日時間をとって、二上山への登山も行いたいです。







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2018年 10月 15日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう」という記事が公開されました。
いわゆる三輪王朝といわれる日本最初の統一政権が出現した古墳群を歩く記事です。ここを、邪馬台国の中心地とする説が有力になりつつあり、まさに日本の夜明けを告げる地域ですので、ぜひお読みください。





本ブログでもタイアップしてオオヤマト古墳群の記事を書いていきます。
ただ、上のトラベルジェイピーの記事は、旅行ガイド記事ですので、歩く順番に紹介していますが、本ブログでは造営順(時代順)にたどり、私の邪馬台国から大和朝廷への被葬者比定説を述べます。


なお、間に旅行記事を挟みますので、断続的な記事展開となりますので、ご承知おきください。


まずは、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳です。

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奈良盆地の東南部、現在の桜井市から天理市にまたがる一帯は、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」と歌われた古代日本の夜明けを告げる場所です。

このヤマトの中のヤマトとされる一帯は、古来よりヤマトと呼ばれており、大和=オオヤマト古墳群地域とされます。
古墳群の定義は学者により異なりますが、邪馬台国から初期大和朝廷への発展を一体と考え、奈良盆地東南部の古墳全体をまとめてオオヤマト古墳群として捉える白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の学説を私は支持します。


このオオヤマト古墳群で巨大前方後円墳が誕生しました。すなわち、日本で最も古い巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、卑弥呼の墓の可能性が最も高いのです。


箸墓古墳の航空写真は こちら の記事の最初の写真をご覧ください。とても美しい形をした前方後円墳であることが分かります。


↓箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の拝所 西側にあります。

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もしかすると卑弥呼が葬られているわけですから、箸墓古墳の前に立つと胸が高まります。ここはまさに古代史ファンの聖地です。


東側に回って、箸墓古墳を一周します。北側以外は濠はなく、地面から直接古墳が立ち上がっています。

ただし、奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の調査では、幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性が高いとされています。

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北側には「卑弥呼の庭」というカフェもできていました。
北側の池は、「箸中大池」として日本ため池百選にも選ばれています。

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箸墓古墳は、墳丘長278mの出現期古墳中の最古の巨大墓で、三世紀後半の築造と考えられます。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とする有力な学説があります。宮内庁の正式名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。日本書紀には「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。」と書かれています。このヤマトトトモモソソヒメは、孝霊天皇の皇女で、三輪山の神と婚姻した伝説的な巫女とされ、祟神天皇は巫女であるヤマトトトモモソソヒメの神託を聞いて政治を行なったとあります。


この古墳は、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えます。
根拠については、以前書いた記事を、下の More に再々掲してみましたので、ご興味のある方は More をクリックしてお読みください。

なお、私は白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の講義や講演を何度も聞きに行っています。館長の主張は一貫していますので、箸墓古墳の被葬者に関して述べられている部分を以下に引用しておきます。

倭国王墓として最初の箸墓古墳は、大型前方後円墳としては最古のもので、3世紀中葉に遡る。その被葬者の候補として卑弥呼以外の人物を考えるのは難しい」(白石太一郎講演レジメ「邪馬台国連合から初期ヤマト王権へ」より抜粋)



箸墓古墳から北へ巻向駅の方へ歩くと、邪馬台国の宮殿跡ではないかとされる纏向遺跡があります。弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地として、現在も発掘調査が進められています。

この遺跡を邪馬台国の首都に比定する説が有力になりつつあります。王宮的な建物跡が発掘され、話題となりました。

最近は、桃のタネ約2000個以上が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようで、炭素年代測定法の計測により西暦135~230年のものであるという研究発表があり、邪馬台国の時代に整合します。

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↑航空写真をご覧ください。奥にある山が聖地:三輪山、右端の大きな古墳が箸墓古墳、左端の団地の右上にある空地が纏向遺跡の中心です。この位置関係が重要で、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。







さて、中国東北地方いわゆる旧・満州の地へ旅に出ることになりました。
関空の台風被害で一度中止した旅ですが、関空が復旧しましたので再チャレンジすることにしました。


10月上旬は非常に多忙でしたので、10月中旬の出発となりました。目的のひとつであるレッドビーチの取材は、一ケ月遅れましたので、もう枯れてしまっているかも知れません。


ただ、どうしても今年に行きたいという思いがあり、挙行することにしたものです。


もうひとつの目的である、私自身の祖父が満鉄社員として赴任し家族(私の父や祖母・伯父・叔母など)とともに住んだ地を見るということは、果たせそうです。


無理したせいか、風邪気味で体調が思わしくないのですが、もうこれ以上順延はできませんので、頑張って行ってきます。


それに伴い、ブログの更新も二週間ほど休ませていただきます。


次のブログ更新は、10月の月末頃になります。
それでは、皆さん、しばらくのあいだ、ごきげんよう!





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More  箸墓古墳は卑弥呼の墓である
2018年 09月 24日 |

台風で被災した関西空港の修復が進んでおり、タンカーがぶつかり大きく破損した連絡橋以外は、ほぼ元にもどったようです。関係者の皆様の努力に感謝します。
そこで、いったん中止した、中国東北地方への旅に、再チャレンジしようと思います。


ただ、仕事などの調整が難しく、来月中旬から末くらいの期間しかありません。
レッドビーチが時期的にぎりぎりで、枯れていないか心配です。そこで、先にレッドビーチに行って、その後、父の育った満州をめぐるという計画を練ってみます。スケジュールがタイトになりそうですが、あまり欲張らず余裕を持った旅にするつもりです。


さて、今日は、ホテイアオイに住んでいるカルガモさんの写真です。


前回お見せした本薬師寺付近のホテイアオイの咲くポイントでは、カルガモさんの一家が見られました。
もう親と見分けがつきにくくなった雛鳥ですが、ここの居心地が良いようで、家族で仲良くホテイアオイの群落の中で、姿を隠しながら過ごしていました。


↓ホテイアオイの群落の中に動くものが!

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↓カルガモさんですね。

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↓家族もいるようです。

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↓ホテイアオイの花の中に見え隠れするので撮影しにくいですが、なんとか一羽を全身アップで

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↓最後はホテイアオイの花で吸蜜するミツバチを撮影

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2018年 09月 17日 |

奈良の古墳調査のついでに、本薬師寺跡周辺のホテイアオイを撮影しました。


まだ夏の暑さが残る季節に、これだけの花の大群落が見れる場所というのは他にありませんね。

以前来た時より、ホテイアオイの花の量が増えており、地元の方々の保護努力が感じられました。

それでは、ホテイアオイの美しい世界を、一挙11枚の写真でお楽しみください。

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↑最後の写真の真ん中・・・分かりますか? 可愛いですね・・・つづく





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2015年 04月 15日 |
大野寺の小糸垂れ桜と又兵衛桜(本郷の瀧桜)を紹介しましたので、その他のいろいろの桜を紹介して、大和路桜めぐりの最終回とします。

↓北向地蔵の桜
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↓室生口大野駅の桜
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↓内牧川の無名の桜
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↓子供のもり公園の紅垂れ桜
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↓天益寺(てんやくじ)の垂れ桜
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↓鹿華苑の桜
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↓水分(みくまり)桜
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↓カエデの郷「ひらら」の桜
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カエデの郷「ひらら」は、昭和初期に建造された旧宇太小学校の木造校舎を利用したもので、レトロな雰囲気があります。
またいずれ詳しく紹介したいと思いますが、木造校舎の温かみは良いものですね。NHKの連続テレビ小説「あすか」のロケ地にもなったそうです。

なお、この旧宇太小学校は、拙ブログによくコメントいただく写友の趣味人さんの母校でもあります。
土産販売コーナーには、趣味人さん撮影の素敵な写真額とポストカードも販売されていました。

↓展示販売されている趣味人さんの写真額とポストカード
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↓大和路の無名のソメイヨシノ
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2015年 04月 13日 |
大和路の宇陀地方には多くの名桜があります。佛隆寺の千年桜牛繋ぎの桜 は、以前紹介しましたが、又兵衛桜はまだブログでは紹介していませんでした。
又兵衛桜は、宇陀で最も有名で、「本郷の瀧桜」ともいい、シーズンになると観光客でごったがえします。

大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像で使われたことから有名になり、いまや一大観光地になってしまいました。日本人は桜が大好きなので、これは仕方がないですね。
晴れた日や休日は非常に混むので、雨上がりの大和路めぐりの際に行ってみたのですが、多くの観光バスが駐車場に並び、そこそこ混んでいました。

それでは又兵衛桜をゆっくり御覧下さい。
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後藤又兵衛(基次)は、黒田官兵衛の家臣で黒田二十四騎の一人として有名です。黒田官兵衛の死後、黒田長政との確執があり、黒田家を出奔し浪人となります。その後、大坂の役が勃発すると大坂城に入り、歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、大坂冬の陣と大坂夏の陣を戦います。

夏の陣で戦死したとされますが、名望家なので数々の伝説があります。堺の南宗寺には又兵衛が徳川家康を槍で殺したとされる家康墓があり、大分県中津には又兵衛が大坂城落城の際に豊臣秀頼を護衛して落ちのびたとされる又兵衛墓があります。
そうした又兵衛伝説のひとつが、この宇陀の又兵衛桜で、大坂夏の陣を生き延びた又兵衛は、この桜の地で隠遁生活を送り僧侶として生涯を終えたとされます。
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又兵衛桜という通称から古武士の風格があると言われますが、むしろ妖艶な雰囲気が漂います・・・・雨上がりのせいか、特にそう感じました。
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大野寺の小糸垂れ桜よりも少しピンクの落ち着いた発色の垂れ桜です。

↓左奥の花桃の強いピンクと手前のソメイヨシノの白色と比較して、又兵衛桜の上品でしっとりとした色が映えます。
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↓全景が分かるように引いて撮影しました。周辺にはソメイヨシノ、花桃、菜の花などが植えられています。
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幹の周りが約3m、高さ約13m、樹齢三百年の巨木です。
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以下、さまざまな又兵衛桜の姿をお楽しみください。
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↓又兵衛桜をバックに花桃を撮影
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2015年 04月 11日 |
次の旅が接近してきており諸般の事情もありますので、季節物である桜の写真を優先的にアップします。
岸和田・堺・大阪の街角スナップや、野鳥の写真、旅写真も多くの在庫があるのですが、それはまたの機会に掲載することとします。

今年は桜の時期に天候が悪く、花冷えが強烈で、なんと関東では雪が降ったそうです。
こちら大阪では、岸和田城の桜を見に行った時は晴天でしたが、その後、雨が多かったです。

その雨の合間をぬって、大和路の桜めぐりをしてみました。
雨上がりの桜の風情も良いものです。

今日は有名どころである大野寺の桜を御覧下さい。大野寺は小さな寺ですが、この季節は花が咲き乱れ見所が多いです。
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この大野寺の小糸垂れ桜の巨木は樹齢三百余年だそうです。昔から大切に守られてきた樹木なのですね。
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↓下からワイドに撮影
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↓一部を切り取り撮影
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↓花びらはほとんど白でほんのりピンク色です。
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↓垂れた枝を
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↓もうひとつの大野寺名物である磨崖仏を右に配して・・・
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↓大野寺から宇陀川をはさんで対岸にある巨大な磨崖仏のアップ
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↓磨崖仏を背景にボカシて、小糸垂れ桜を裏側から撮影
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↓小糸垂れ桜以外にも大野寺には多くの名花があります。
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2014年 11月 08日 |
大台ヶ原は、立ち枯れで有名ですが、その立ち枯れもいつかは倒木となります。多雨地帯のここでは、風水害でいきなり倒木となってしまう木も多いようです。

今回、久しぶりに大台ヶ原を訪れ、昔より倒木が増えている印象でした。なるほど、これはこれで大自然の造形と生命のあり様だなあと、いたく心に響きました。落ち葉の美学の巨大版と言えるかもしれません。
そこで、倒木の美学というテーマで写真を撮ってみました。

倒木はその木にとっては死ですが、生命の輪廻としては死ではありません。
倒木には、菌類、地衣類、バクテリア、昆虫類など多種多様な生命が群がり、分解されていきます。
それらはやがて枯葉などと入り混じり、栄養豊富な土壌へと還元され、次世代の生命の基盤となるのです。この世に、こうして形成される豊かな「土」が供給されるからこそ、植物が育ち動物が生きることが出来るのです。


ということで、以下、大台ヶ原の倒木の美学をご覧下さい。

なお、今日の写真は全て、クリックすると横1000ピクセルに拡大されますので、ぜひ大きくしてお楽しみください。
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↓これは倒木というより、枯れ巨木の空中ブランコ!
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倒木ばかり撮っていると、なんだか現代抽象芸術の彫刻のオブジェのように見えてきました。

↓そこで、モノクロでコントラストを下げたり上げたりしながら、大自然のオブジェ作品も撮ってました・・・
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