模糊の旅人
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カテゴリ:大阪( 486 )
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2018年 08月 14日 |

近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。

駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。

このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。

↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。

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私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。


もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。


↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。

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これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。

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仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。

これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。

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白石氏らの研究によると、この古墳は造営当時は外溝などを含めた墓域が非常に広く、300mをこえ、当時としては日本最大の墓域を誇る古墳でした。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。

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つまり、この巨大古墳は、河内政権初期の大王級の墳墓であることは間違いありません。


4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。


現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。



「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。

「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、そこからより大胆に推理します。

継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。


すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。

確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。


仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。

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そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。

応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。

この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?

記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。


応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。

ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。


すなわち、仲哀天皇にあたる応神天皇の父が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。


記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。


記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。

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上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。


私の推理は以下のとおりです。

まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。


ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。


続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。

最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。

以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。



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2018年 08月 06日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!」という記事が公開されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、期待が高まっている古市古墳群を紹介する記事です。古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて地味ではありますが、魅力的な古墳が多数分布していますので、ぜひ、ご覧ください。






拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、古市古墳群について少し詳しく書いてみます。



古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて複雑で、やや分かりにくいです。古墳の案内標識類もまだ完全に整備されておらず、特に小型古墳が見つけるのに結構、苦労します。


入門コースは近鉄南大阪線土師ノ里駅から古市駅にかけてほぼ南へ歩く分かりやすい道筋になりますので、これをまず紹介することにします。


まず、出発は土師ノ里駅北側の信号を渡って下ったところにある、允恭天皇陵古墳です。

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允恭天皇陵は、墳丘長230mで古市古墳群としては4番目の大きさの古墳です。5世紀中~後期に造られたもので、市野山古墳とも呼ばれています。
駅に近いので現在は住宅に取り囲まれていますが、濠をはさんで巨大な墳丘が見られる存在感のある古墳です。

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↑允恭天皇陵こと市野山古墳は、思ったより巨大で存在感のある古墳でした。造営年代だけでなく、つくりから見ても、これが本物の允恭天皇陵の古墳であっても問題ないなあ・・・というのが近くで見た実感でした。


↓允恭天皇陵の周囲を歩いて行くと、途中で綺麗な花が咲いていました。こういうのも古墳散策の楽しみです。

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↓宮の南塚古墳 この古墳は允恭天皇陵の陪塚で、こんもりした小山のようでした。

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↓国府八幡神社 宮の南塚古墳の北隣にある神社です。

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↓潮音寺 国府八幡神社の北隣にある寺です。

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↓土師ノ里駅へ戻ってくる途中撮影した唐櫃山古墳

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↑この古墳は工事現場のようでした。これから整備されるそうです。


↓土師ノ里駅の西側の信号を渡ると、こんもりした一辺63mの方墳である鍋塚古墳があります。

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↓鍋塚古墳の説明板

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↑この古墳は仲姫命陵古墳の陪塚の可能性が高く、上まで階段がありますので、登って展望を楽しめます。次に向かう仲姫命陵古墳が目の前に聳えています。


↓鍋塚古墳の頂上から見る仲姫命陵古墳・・・なんとも巨大に見えます。

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2018年 07月 22日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「大阪に世界遺産を!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう」という記事が掲載されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、古墳カードを作り古墳に興味を持ってもらおうという行政の取り組みですが、私も古墳カード記事を書いて、民間から支援しようとするものです。ぜひ、ご覧ください。





拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、大仙公園の小型古墳について少し詳しく書いてみます。



古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚など小型古墳を見て回ることにあります。
ただ、むやみに散策するだけでなく、古墳カードを集めて行けば、楽しく歩けます。

いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、その規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓古墳カード MOZU-FURU CARD 全60種あります。

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私は百舌鳥古墳群については全ての古墳カードをコンプリートしていますが、古市古墳群についてはまだ全部に行けていません。古市古墳群の小さな古墳については標識が整備されておらず、住宅街の中に点在することもあり、場所が分かりにくいものが多いからです。


ということで、とりあえずは百舌鳥古墳を小さな古墳を紹介します。


前回~百舌鳥古墳群を歩く(2)~で、大仙陵古墳の陪塚を紹介しましたので、今日は大仙公園内に点在する小さな古墳たちです。



↓前回紹介した長塚古墳の裏側にあたる大仙公園東部にあるのが、鳶塚古墳。ここは古墳というより盛り土という感じです。

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↓鳶塚古墳から南へ歩くと原山古墳があります。これもやや大きな盛り土という感じで目立ちません。

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↓原山古墳の説明:失われた古墳をイメージして造られたものですね。したがってこの古墳には古墳カードはありません。

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↓大仙公園は生き物の宝庫。美しい蛾も翅を休めていました。

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↓原山古墳から大仙公園を横断した場所にあるのがグワショウ坊古墳(円墳)

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↓「ぐわしょう坊古墳林のすがた」という説明看板 植物の遷移のことがよく分かります

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↓グワショウ坊古墳の西側隣にある旗塚古墳

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↓旗塚古墳の説明板

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↓旗塚古墳の西側を少し歩き、道を渡ったところにある寺山南山古墳(方墳)

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↓寺山南山古墳の説明板 寺山南山古墳はゲートボール場があって近くで見れません。

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↓最後は寺山南山古墳の向かい側にある七観音古墳

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↓七観音古墳の説明板

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2018年 07月 08日 |

足が良くなって久しぶりに本格的野鳥撮影に行ってきました。
クルマで20分走ったところにある秘密のスポットへ行き、時おり上空を飛ぶオオタカを撮りました。


飛ぶ鳥を撮るのは久しぶり、なかなか勘が戻らなくてバッチリ撮影とは行きませんでしたが、なんとか証拠写真はゲットできました。
それではオオタカの舞姿5枚をご覧ください。

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さて、7月5日~8日にかけて記録的大雨が降り続き、西日本各地に大きな被害をもたらしました。134人死亡、60人が行方不明。
長崎・佐賀・福岡・広島・岡山・鳥取・兵庫・京都・愛媛・高知・岐阜各県に大雨特別警報が発令されました。これだけ広い範囲に特別警報が出たのは前例がありません。


交通網もあちこちで寸断され大規模な運休状態となりました。


私は7月6日に大阪市内に仕事で出たのですが、まず駅に着くまで歩道が冠水していました。

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駅に着くと電車が難波まで動いていません。
地下鉄は大丈夫でしたので、なんとか乗り継いで目的地に辿り着くことは出来ましたが、大幅に予定が遅れました。

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大阪市内では冠水道路が多く見られ、先日歩いた京都の鴨川も↓のようになりました。

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岡山県では、水没した家が多く、屋根に取り残された人がヘリで救助される映像もTVで放送されていました。まさに水びたしの日本列島という感じでした。






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2018年 06月 21日 |

いろいろ併行連載中ですが、今日はアジサイの花と近況ニュースです。

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ここ10日間、私的なことを含めて大きな事件が続きましたので、記録として記事に残しておきます。
2018年6月は忘れられない月になりました。


(1)米朝会談


   6/12 シンガポールで、トランプ米大統領と金正恩委員長の会談が実施され、北朝鮮の非核化が約束されました。

ショー的要素もある会談で、果たして本当に非核化が実現できるかどうか予断を許しません。とはいえここが第一歩。旅行関係に従事する私のような者にとっては、安全に世界を旅するということが、生活の必須条件です。ぜひ、核兵器の無い平和な世界を実現して行ってほしいものです。



(2)写友の死


   6/15 世界を股にかけて活躍された写友のJさんが逝去されました。

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ダンディーな先輩写友のjさんが亡くなられました。辛い出来事です。jさんのご冥福をお祈りいたします。
jさんは世界中をめぐり活躍されリスペクトしている先輩でした。酒豪でヘビースモーカーという私には真似できない豪快な面を持っておられました。最近は闘病生活でしたが、その中でも写欲を失わず撮影を続けておられました。ネット上には、jさんの写真ブログが残されています。それについては こちら をご覧ください。


6年前、一緒に活動していた写友が突然亡くなられた経験があり、追悼の写真展をしたことがあります。その模様は こちら。 一緒に写真活動をしてきた仲間を失うというのは非常にショックな経験で、今回またひとつ心の傷が増えました・・・・



(3)地震


   6/18 大阪で震度6弱の大きな地震があり、死者5人、負傷者400人以上、交通が寸断されました。

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6/18 朝の8時少し前、突然ガタガタと家が揺れ、本が落下してきました。私の住む堺市は大阪府南部なので大丈夫でしたが、大阪府北部では大きな被害が出ました。震源に近い高槻市に住む友人からの連絡によると、非常に大きな揺れがあり、本棚が倒れ部屋に寝ていた親族の方があやうく下敷きになりかけたとのことです。被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。


今回の地震は、マグニチュード6.1で、南海地震・東南海地震とは関係ないそうです。これからさらに大きな地震に見舞われる可能性があるので注意が必要ですね。やはり、大地が動くというのは怖いです。
私は自治会関係の役もやっていますので、近辺をまわり建物の亀裂や倒壊が無いか、孤立した支援を必要とする高齢者がないかを検証しました。
幸い大きな問題は無く、直接的な人のケガ等はありませんでしたが、ひび割れのようなものが何カ所か見られ、詳しい検査が必要かどうか検討中です。これからは耐震性の問題がクローズアップされることになるでしょう。責任重大です。



(4)ワールドカップ初戦勝利


   6/19 ロシアで開催中のサッカーW杯で、日本チームは初戦を迎え、南米の強豪コロンビアに2-1で勝利


W杯で、日本が南米のチームに勝利したのは初めてです。この試合は日本の夜9時からでしたのでTV中継を見ていました。あまり期待されていなかったにもかかわらず強豪のコロンビアに勝利したのは嬉しいことです。
サッカーは世界で最も人気のあるスポーツで、世界を旅する際に最適な共通話題ツールです。今後勝ち進めば世界から日本のサッカーが注目されさらに話題テーマが増えるので、頑張ってほしいものです。


↓イランのヤズドの広場でサッカーする少年たち 先進国だけでなく、世界のどこに行ってもサッカーは盛んで広場で子供たちがやっています。

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今回のW杯でも、旅した国々が出場していて、発展途上国は特に応援したくなります。最近は中近東に行くことが多いので、イラン、エジプト、チュニジア、モロッコといった国々です。
モロッコ旅では、今回のW杯出場を決めた瞬間に町に出ていて印象的な経験をしました。それについては、こちら の記事 をご覧ください。


さて、せっかくなのでコロンビア戦の独断と偏見に満ちた私的解説と感想を紋切型に少し。

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開始後3分、相手ディフェンスのハンド反則によるPKを決めて日本が1-0。レッドカードでコロンビアは一名退場となり日本が有利な展開に。
これはFW大迫のDFをかわす動きが生んだもの。詰めていた香川も見事だが、思わず手を出したD・サンチェスは不運。エスコバルの悲劇の二の舞にならないように祈りたい。


数的優位となり何度も攻め上がる日本だが、こういう状況にとまどいがあるのか、どうも動きがぎごちない。とうとう前半39分、長谷部が相手を倒してしまい、そのFKをキンテロに決められて1-1。これは、明らかに誤審だが、審判にはレッドカードをコロンビアに与えてしまった代償心理があり、そのために生まれた忖度FKだったと思う。


後半戦になると、日本は落ち着きを取り戻し、コロンビアには疲れが見えてきた気配・・・・この時点で、私は多分日本は勝利するだろうと感じ、いつ得点するかとワクワクしながらTV観戦。原口、長友、酒井宏樹が走り回り、これは行けそう。特に柴崎のパフォーママンスが見事で、期待を膨らます。


そして、後半28分、香川にかわって投入された本田のCKから、大迫が素晴らしいヘディングを決めて2-1。その後は、守備的ながら安全運転で日本が勝利した。欲をいえば後半、もう一点欲しかったが、攻撃の起点となる柴崎が足を踏まれて交代してからは守り切る作戦を徹底せざるを得なかった。これは妥当な判断だと思う。


この試合で大迫が攻撃だけでなく守備でも貢献し、大きく注目された。とはいえ、大迫はW杯前は得点できず評価を落としていた。
マークされる有名FWが全試合で結果を残すのは至難の業・・・今大会でも、今のところメッシもネイマールもエムバぺもレバンドフスキもまだ得点出来ていない。期待どおりあるいはそれ以上の結果を残しているスターFWは、4得点のクリスティアーノ・ロナウドだけだろう。


逆に言えば、大迫はW杯前に機能していなかったので、ある意味、隠し玉となり活躍できたといえる。直前のパラグアイ戦で爆発した乾の切れ込みは、不発に終わった。しかし、大迫のDFをくるりかわす動きや的確なヘディングシュートは日本では定評あるものだが、おごりのあるコロンビア側は、真剣に考えていなかった。大迫の情報は得ていただろうが大したことないと本気の対策を練っていなかったのだ。
だから、
先発組では、次は乾の番だ。また、まだ出場していないが、宇佐美や武藤嘉紀だって秘密兵器として意外に通用する可能性はある。要するに様々なパターンが可能な攻撃の多様性と厚みだ。
あと、守備面では、川島と長谷部にミスがあるのが気になる。技術半端ないMF大島や、才能あるGK中村航輔の活躍を期待したいものだ。


後半、疲れを見せ始めた香川を下げて本田、足を痛めた柴崎に代わっての山口蛍、最後に追いかけまわす岡崎の投入と、後半の西野監督の選手交代も的確だった。今後も勝負師らしい采配をお願いしたい。


まあ、開始3分で数的優位を得たとかロドリゲスの体調不良といった日本にとってラッキーな面もある勝利だった点は忘れてなならない。W杯本番の怖さ、サッカーという競技の面白さも感じた試合だった。今度は、テランガのライオンこと、(FIFAランキング8位のポーランドを倒した)セネガルという勢いのある手強い相手、何度もラッキーな事が起こるわけではない、油断せず戦ってほしい。


個人的には柴崎の攻撃的MFらしい前を向いた切れ味のあるプレーが好きなので、司令塔として今後も頑張ってほしい。

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(5)足の怪我が全治


   6/21 ご心配をおかけしましたが、ようやく足の怪我が全治しました。


本日、医者に行って、もうこれで大丈夫ですとのお墨付きをいただきました。レントゲンを見せていただくと、足の亀裂骨折の部分は完全にふさがっており、剥離骨折の部分は骨がくっついて盛り上がった状態が形成されつつありました。
無理しない普段の生活なら支障なく、大きな痛みが出なければもう医者に来なくても良いと言われました。


つまり、足首を酷使する登山や激しいスポーツさえしなければ良いとのこと。ヒールストライクという持病もかかえているので、ハードな本格的登山はあきらめますが、一般的な旅や軽登山なら問題ありません。やっとこれからです。


ということで復活しましたので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。





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2018年 06月 15日 |

古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚(陪冢・ばいちょう)など小型古墳を見て回ることにあります。
いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、それぞれの規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓まずJR百舌鳥駅を降りると、線路をまたいで陸橋がありますので、そこに登って大仙陵古墳の森を見てみます。

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↑最近、ピンク色の大きな建物ができたので、残念ながら大仙陵古墳の森はよく見えなくなりました。以前はもう少し良く見えたのですが・・・・やはり巨大古墳を上から見れないというのが問題ですね。


陸橋を渡らずに戻り、西へ少し歩くと大仙陵古墳の拝所へ至りますが、途中に二基の小型古墳があります。


↓まず駅前広場のようになっている古墳が収塚古墳(おさめづかこふん)です。

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この古墳の濠内などから、須恵器の土台や円筒埴輪、朝顔形埴輪、衣笠形埴輪などが出土しており、築造は5世紀中頃と推定されています。
時期的にも場所的にも、大仙陵古墳の付属墓の陪塚であることは間違いありません。


↓収塚古墳の前は広場になっており、カラー舗装で失われた前方部が形取られています。

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↓広場の前には、お土産ショップもず庵があります。

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↓収塚古墳の道路をはさんだ向かい側を南へ50mくらい行くと長塚古墳があります。

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長塚古墳は住宅に囲まれており、一部からしか墳丘を見られません。墳丘長が106.4mもあり、場所的にもやや離れていることから、大仙陵古墳の陪塚ではないようです。


↓この古墳にある石柱は、史跡長山古墳となっています。

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↑これは、1920年に仮指定された時の名称で。1958年に文化財保護法による史跡指定の際に長塚古墳に改められたのです。


↓経過を示した説明板

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↓収塚古墳に戻ると西側に観光用有料駐車場があります。その北側に遊歩道があり、大仙陵古墳の三重目の濠を近くで見られます。

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↓大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の拝所 神主さんが座って祈っておられました。

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↓拝所の正面 道路を挟みますが真ん前にあるのが孫大夫古墳です。

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↑この古墳は大仙陵古墳の中心線上にあり、時期的にも合うことから、大仙陵古墳の陪塚として最も重要なものです。


孫大夫古墳は帆立貝形の前方後円墳で、墳頂から勾玉が出土したことから、私見では、大仙陵古墳被葬者の女性の近親が葬られていると予想します。大王の寵愛した側室という可能性もありますね。


↓孫大夫古墳横の池に咲いていたスイレン

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↓孫大夫古墳の西側50mにある竜佐山古墳

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竜佐山古墳は、孫大夫古墳より新しく5世紀後半の築造です。したがって、大王没後しばらく時間を経過してから死んだ大王関係者が葬られていると思います。


↓竜佐山古墳北側の車道沿いの歩道が少し高く立体的になっているので、古墳墳形が見やすくなっています。前方部角を撮影しました。

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↓竜佐山古墳の濠にいたアオサギ

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↓竜佐山古墳の西側にある狐山古墳

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狐山古墳は、直径約27mの円墳で、位置的に大仙陵古墳の陪塚でない可能性もあります。

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↓狐山古墳の北側、車道を渡って大仙陵古墳の周遊歩道に入ったところにある銅亀山古墳

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銅亀山古墳は、百舌鳥古墳群としては珍しい方墳で、一辺が約26mの正方形ですが、最近の発掘調査の結果、帆立貝型古墳あるいは前方後方墳の可能性もあるとされています。5世紀中頃の築造で、大仙陵古墳の陪塚であることは確実です。


この記事を書くため、リハビリを兼ねて百舌鳥野へ撮影に行ってきたのですが、杖をついているので大型カメラでの両手撮影は出来ませんでした。コンパクトデジカメの片手撮影ですので、厳密な構図や水平線がとれておりませんが、ご容赦願います。





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2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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2018年 04月 18日 |

昨日、仕事で京都の民泊体験取材中に転倒し骨折してしまいました。全治2か月と医者に言われました。

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歩き回って稼ぐ仕事の多い私には辛い状況です。明後日から予定していた高知プレスツアーも参加できなくなりました。
今後いろいろ計画していた旅も難しくなりそうです。もちろん好きな花や昆虫・野鳥観察などには行けないです(泣)
当分は松葉杖え生活ですが、足以外は元気ですので、めげずに頑張ります。

しばらく新鮮な記事は書けそうにないので、これを機会に書き溜めてきた原稿から、先ほど下に「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?  百舌鳥古墳群と古市古墳群の被葬者の比定」という記事をアップしてみました。歴史マニア向けで、長いですが、お読みいただければ幸いです。





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2018年 04月 18日 |

文責:菊池模糊

私が堺市に引っ越してきた時、最初に住んだのが上野芝という町だったのですが、ここは百舌鳥駅から一駅南で、いわゆる百舌鳥古墳群に近い場所でした。歴史好きな私は、当然、大きな古墳に興味が湧き、時間を見つけては自分なりに歩き回って調べたものです。
以来、証拠として最も科学的なものである考古学調査研究の成果にも、常に気を配って情報を得て来たつもりですので、大古墳の被葬者に関して自分の中では一応の結論を得ました。


このたび、「百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)」の世界文化遺産登録への推薦が決まったことから、いずれ古墳の被葬者の問題は、避けては通れないものとなります。
世界遺産の指定はたいへん喜ばしいことですが、いまだに被葬者が誰かは諸説あり不明確な上に、築造時に天皇という言葉はなかったわけですから、「仁徳天皇陵古墳」という名称には大いに疑問があります。


そこで私は、いわゆる「仁徳天皇陵古墳」については考古学者らの提唱にあるように「大仙陵古墳」とし、同じように現・応神陵については「誉田御廟山古墳」、現・履中陵については「上石津ミサンザイ古墳」、現・反正陵については「田出井山古墳」という名称で以下に記述し考察を進めます。

ということで、私が40年近く考え続けてきた、百舌鳥古墳群の大王墓の被葬者についての見解を、この機会に披露します。

↓百舌鳥古墳群

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百舌鳥古墳群で、大王墓の可能性のある大きな古墳を全長順に並べると以下のようになります。誉田御廟山古墳については古市古墳群に属しますが、関連性が非常に重要なので紺色で参考に入れました。


大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵  (築造順5)
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵  (築造順2)
上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  (築造順1) 実際は400m以上
土師ニサンザイ古墳  300m           (築造順7)
御廟山古墳      203m           (築造順4) 
田出井山古墳     148m ←現・反正天皇陵  (築造順6)
いたすけ古墳     146m           (築造順3)


【*大仙陵古墳の全長は、2018.4.13の宮内庁書陵部の測量を取材した新聞報道記事による】

最近の堺市の調査により土師ニサンザイ古墳の全長は約300m以上とされました(全国第7位)ので、上位4つの古墳が300mを越す(それ以下は200m程度以下なので)隔絶して大規模な、大王墓であることは疑いようがありません。


203mの御廟山古墳は、微妙です。大王墓としては小さいですが、陪塚(大古墳の付属墓)とするには大きいです。それでも、田出井山古墳を天皇陵とするのに比べれば、はるかにましです。大王墓の可能性はなきにしもあらずですが、やはり大王の血縁者か、大王に次ぐ有力な権力者の墓の可能性が高いでしょう。

↓御廟山古墳(1)・・・・なかなか大きな規模で現在は住宅に取り囲まれています。

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↓御廟山古墳(2)
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反正天皇陵に治定されている田出井山古墳は、土師ニサンザイ古墳や御廟山古墳に比べてはるかに小さく、大王墓としては、大きさの点からは、全くふさわしくありません。したがって、田出井山古墳が反正天皇陵であるという説は否定されます。

↓田出井山古墳(1)・・・方違神社の裏にあり半周するのにさほど時間のかからないやや小さな古墳です。

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↓田出井山古墳(2)
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田出井山古墳と同規模の、いたすけ古墳も小さすぎ、大王墓ではありません。私が近くに引っ越してきた頃は、いたすけ古墳は丸裸で周壕は釣り池として利用されていました。丸裸の古墳の規模は、確かに大王墓としては小さいなあというのが実感でした。いたすけ古墳は御廟山古墳の近くで築造時期もかぶるので、両古墳の被葬者は関連性があるのかも知れません。

↓いたすけ古墳(1)・・・手に取るように近くで見られるやや小型の古墳です。

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↓いたすけ古墳(2)
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古墳の造られた時代については、最新の精密な考古学の知見により、絶対的な年代については完全ではないものの、相対的な造営の順番というのは明らかになってきています。特に、百舌鳥古墳群の三つの巨大古墳では、築造順1(上石津ミサンザイ古墳)→築造順5(大仙陵古墳)→築造順7(土師ニサンザイ古墳)という順番は入れ替えがたいものです。


そこで、上記のうち田出井山古墳と、いたすけ古墳を除き、大王墓の可能性がある巨大古墳を、築造順に並べてみます。


上石津ミサンザイ古墳 365m ←現・履中天皇陵  
誉田御廟山古墳    420m ←現・応神天皇陵
御廟山古墳      203m
大仙陵古墳      525m ←現・仁徳天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m 


これを見てみると、仁徳天皇の子である履中天皇が一番古くなってしまい、現在の治定とは矛盾します。少なくとも一番最初につくられた上石津ミサンザイ古墳が、一番若い履中天皇の陵である可能性は全くないでしょう。


もし、百舌鳥古墳群だけを考えれば


上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵
大仙陵古墳      525m ←履中天皇陵
土師ニサンザイ古墳  300m ←反正天皇陵


とすれば簡単に確定できます。


ところが、誉田御廟山古墳を筆頭とする古市古墳群を考慮すると話が変わってきます。
なぜなら、上石津ミサンザイ古墳は誉田御廟山古墳より古いわけですから、応神天皇の子である仁徳天皇の陵墓が先に造営されたことになり、歴史的系譜と矛盾します。


↓私の尊敬する白石太一郎教授が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表

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↑この編年図表は円筒埴輪の変遷などの精緻な考古学的研究から作成されたもので、絶対年代はともかく古墳の造営順については非常に信頼性が高いものです。

以下に論述する私の被葬者比定は、この編年表を最も重視し、これと矛盾しないように考えたものです。


この考古学的編年表と歴史文献の整合性が部分的に得られないことが大きな課題です。(私見では、歴史文献に迎合しない結果が出るということこそ、この編年表の正しさを表わしていると思います)


ここで、いったん考古学的視点を留保して、文献歴史学的考察をしてみます。


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文献的な歴史学については、中国と日本の文献があります。


まず、中国の『宋書』巻九七(倭国伝)に登場する「倭の五王」は年代が確実なので有力な手掛かりになります。
すなわち、讃・珍・済・興・武の五王となります。


日本側の文献は、絶対年代が非常に不確定なので問題がありますが、少なくとも大王の系譜と業績が書かれているので比定することは可能なはずです。
また、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に象嵌された文字「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が『日本書紀』にある「大泊瀬幼武(おおはつせのワカタケル)」の雄略天皇と考えられ、『宋書』の倭王「武」とピタリと符合します。

この「武」が雄略天皇であることから逆算して、「興」は安康天皇または木梨軽王子(この二人の関係問題は後述)、「済」は允恭天皇であることはほぼ確実です。済の子が興と武であるという『宋書』の記述が、『日本書紀』の允恭天皇の子が木梨軽王子(か安康天皇)と雄略天皇という系図と一致するからです。


問題は、讃と珍です。
ここは、応神、仁徳、履中、反正の各天皇の誰を当てるか諸説が入り乱れており、まさにこの記事の課題である、百舌鳥古墳群の三大王墓(プラス誉田御廟山古墳)の時期と一致し、応神王朝論や河内王朝論ともからんで、複雑です。
『宋書』を重視すれば、讃と珍は兄弟とありますので、履中天皇と反正天皇であるとするのが自然です。
ところが、記紀の記述から重要な天皇である応神と仁徳の両天皇のいずれかを讃としたいという思惑が論者にあるのです。(それは誉田御廟山古墳を応神陵、大仙陵古墳を仁徳陵とするべく、その造営年代を整合させたいからです)


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そこで、日本文献での百舌鳥古墳群の大王墓の説明を整理してみます。


応神天皇については、『日本書紀』では場所についての記述はなく、『古事記』では川内恵賀之裳伏岡となっています。これは、現在の河内恵我之荘のことです。

応神天皇の子とされる仁徳天皇については、『日本書紀』では百舌鳥野陵、『古事記』では毛受之耳原となっています。これは現在の百舌鳥耳原にあたります。また、生前に石津原に行幸し陵墓の場所を決めたという意味の重要な記述があります。

仁徳天皇の子とされる履中天皇については、『日本書紀』では百舌鳥耳原陵、『古事記』では毛受となっています。

履中天皇の弟とされる反正天皇については、『日本書紀』では耳原陵、『古事記』では毛受野となっています。

この、記紀の記述は、考古学的な編年と整合しません。
考古学的な大王墓の造営順は、ほぼ古市と百舌鳥の交互になっており、百舌鳥に三代連続したとする記紀と矛盾するのです。(履中天皇が古市であるとすると、うまく行くのですが・・・・)


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次に、905年に書かれた『延喜諸陵式』によれば、仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵、履中天皇陵は百舌鳥耳原南陵、反正天皇陵は百舌鳥耳原北陵となっています。

これに基づき宮内庁の現在の陵墓の治定がなされているわけですが、この『延喜諸陵式』についてはどこまで信じてよいか疑問があります。何より平安時代の10世紀に書かれたものですので、5世紀の陵墓については、築造後約500年となり確実な証拠があったとは思えません。『延喜諸陵式』の記述自体、記紀に基づいており、その点からすれば、まだしも記紀のほうが信用できるでしょう。

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『延喜諸陵式』による百舌鳥三陵の治定に関連して、反正天皇陵については、南北軸線で北側に前方後円墳の円墳側があることが天皇陵の証拠とする説があります。しかし、実際には大王墓は南北軸線であるとは限らず、いろいろな方向を向いています。(例えば、下に掲げた古市古墳群の分布図を見ていただければ分かるように、同時期の重要古墳である現・応神陵の誉田御廟山古墳は南南東を向いています)
『延喜諸陵式』自身でも、反正天皇陵は「兆域東西3町、南北2町」としており、これは南北に長いのではなく東西に長い古墳であることを示しています。

私見では、大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています。この記事の一番最初に掲げた百舌鳥古墳群の配置された地図をご覧ください。小さな陪塚を除けば、西側の海に面した古墳は全て南北軸で、そこから内陸へ向かう街道に沿った古墳は全て東西軸であることが一目瞭然です!
百舌鳥古墳群はこの地形の構造と見せたい方向(より大きく見える長辺側を海と街道に見せる)に基づいたL字型の配置になっており、軸線方向は大王墓であるかどうかとは関係ないのです。


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考古学でも文献歴史学からでも、百舌鳥古墳群だけでは解決しないというのが20年くらい前の私の結論でした。
そこで、古市古墳群を含めて総合的に判断する必要があると考え、そこから調査研究の範囲を広げ、いろいろ考えてきました。


その際、指標となったのが、やはり、考古学的立場を基礎としながらバランスのある総合的判断をされる白石太一郎教授の論考です。 参考:『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』(文春新書、1999年)、『考古学と古代史の間』(筑摩書房・ちくまプリマーブックス、2004年)のち学芸文庫 、『近畿の古墳と古代史』(学生社、2007年)、『天皇陵古墳を考える』編 今尾文昭,高橋照彦,森田克行共著(学生社 2012年)、『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎 2013年)など


白石氏は古墳時代の大王墓を、畿内の大型古墳の編年を明確にすることで明らかにしようとされています。
具体的には、たとえば3世紀中葉から4世紀中葉の大王墓は、造営順に

(1)箸墓古墳(現・倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現・手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行燈山古墳(現・祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現・景行天皇陵)

の6基であるとされています。

そして、被葬者については、箸墓古墳は女王卑弥呼、西殿塚古墳は女王台与、行燈山古墳は崇神天皇を比定されています。


私は、この白石氏の3世紀~4世紀の考察は、きわめて理にかなったものと思います。
(なお、卑弥呼と箸墓古墳については、こちら で私見を書いていますのでご覧ください)


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では、私のリスペクトする白石氏は倭の五王時代については、どう考えておられるでしょうか?

「・・・・四世紀末葉になると今度は大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に(9)仲津山古墳(現仲津媛陵、286m)→(10)上石津ミサンザイ古墳(現履中天皇陵、365m)→(11)羽曳野誉田御廟山古墳(420m)→(12)大仙陵古墳(486m)が営まれます。」「それ以降は、百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳、あるいは古市古墳群の岡ミサンザイ古墳(現仲哀陵)のように大王墓と考えざるをえない大型古墳もありますが、全体的に古墳の小型化の趨勢もあって、大王墓を選び出すことが難しくなります。」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012、P143)


つまり、百舌鳥古墳群と古市古墳群を合わせた造営順の大王墓としては以下の古墳があるとされています。(市ノ山古墳は現・允恭陵なので私が独自に掲載)
そして、以下の←印で示すように、白石氏は誉田御廟山古墳については応神天皇に、大仙陵古墳は仁徳天皇に比定されています。

仲津山古墳      290m ←?
上石津ミサンザイ古墳 365m ←?    (現・履中天皇陵) 
誉田御廟山古墳    420m ←応神天皇陵(現・応神天皇陵)
大仙陵古墳      525m ←仁徳天皇陵(現・仁徳天皇陵)
市ノ山古墳      230m       (現・允恭天皇陵)
土師ニサンザイ古墳  300m          
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵)


私が特に目を開かれたのは、「大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に」大王墓が営まれたとする記述です。
上記に市ノ山古墳を入れたのは、ご覧のように見事に大王墓が、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に並ぶからです。


古市古墳群と百舌鳥古墳群の一体性については、白石氏は次のように述べています。

大阪平野南部に大王墓が営まれるようになったということは、大阪平野南部の河内・和泉の勢力が、大王権を掌握した結果にほかならない。」
「また、それは高句麗の南下にともなう、四世紀後半の東アジアの国際情勢の大きな変化に連動する政治変動と捉えることができます。」

邪馬台国以来の呪術的性格の強い大和の王権では対応できず、それ以前からヤマト王権の基盤であった大和・河内・和泉連合の中で、朝鮮半島などとの外交や交易を担当していた大阪沿岸に近い河内・和泉の勢力が王権内のリーダーシップを担うようになったのは、むしろ当然の成り行きでしょう。」


このあたりの時代把握についての総論は、私は白石氏の考え方に全面的に賛同します。さすがの慧眼だと敬服します。


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ただし、各論というか各古墳の被葬者の比定については、私は白石氏と違った考えを持っています。以下、私見を述べます。


白石氏自身が述べておられますが、「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」それ以前に、この地に二人の大王が君臨し、「応神天皇はそれにつづく河内王家としては三代目の大王と考えるほかはありません」(『天皇陵古墳を考える』学生社)

まさにここが大きな問題です。
上石津ミサンザイ古墳のように超巨大な古墳を築いた者が、大王(=後世の天皇クラス)以外に可能でしょうか?
私はそれは無理だと思います。白石氏も紛れもなく大王墓であることは認めています。ただ、造営当時は日本最大で、現在に至っても日本で三番目の超巨大古墳である上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵)の被葬者が無名(記紀に載った天皇クラスではない)というのは苦しいです。


よって「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきではないでしょうか?

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。
「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はないといわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、より大胆に推理します。
継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。

すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです

↓古市古墳群の分布図

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なにしろ応神天皇は、記紀で、神功皇后が三韓征伐におもむいた際に、父とされる仲哀天皇の死後、1年以上たってから生まれたという胎中天皇で、伝説に彩られています。仁徳天皇の事跡を応神天皇のものとする部分もあり記紀の記述の混乱もみられます。八幡神とも一体化されます。

そこで、応神天皇は途絶えた崇神王朝を征服した河内王朝創始者であるとか、祖先神であって実在しない天皇であるとか、仁徳天皇と同一人物であるとか、応神天皇こそが神武東征にあたることを実施した大王だとか、大陸からの騎馬民族の征服王であるとか、河内勢力に入婿してきた外部からの大王とか、いろいろな考え方もあります。


特にこの時期は、崇神王朝末期の混乱期でもあり、武内宿禰、ヤマトタケル、神功皇后、仲哀天皇といった神話的人物が多く登場し、にわかには信じがたい記述も多くあるところです。


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。
確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初の大王墓である仲津山古墳です。

仲津山古墳は、造営された当時としては最大級の300m近い堂々たる古墳で、現在でも全国第9位で、造営時には現・景行陵とされる渋谷向山古墳に次いで2位です。この古墳の特徴は広い墓域で、濠や外堤を含むと総全長は440mにも及び造営当時は日本最大の墓域の古墳です。その後つくられた三古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるのです。

あくまで独断的私見ですが、上で書いた白石氏の3世紀~4世紀の大王墓(1)~(6)の中の崇神王朝最大の渋谷向山古墳の規模をこえない配慮が見られます。応神の次の仁徳の代になると、その配慮は不要になり超巨大な上石津ミサンザイ古墳が築かれたのです。また、仲津山古墳が国府台地の最高地点に築かれた古墳であるのも意味があると考えます。

仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。


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次の仁徳天皇については、造営順に上石津ミサンザイ古墳(現・履中陵)が当てられます。この天皇は記紀での記述が多く、仁政をひいたとして重要視されてきました。長命で、上町台地の上に難波高津宮を築き、現・大阪府に大規模な治水土木事業を行いました。まさに父の応神天皇の後を継いで河内王朝の覇権をゆるぎないものにした人物です。

『日本書紀』を読んでみて印象的なのは、仁徳天皇が「石津原に幸して、以て陵地を定めたまふ」とあるところです。私のように近くに住んだ経験のある者はよく分かるのですが、まさに上石津ミサンザイ古墳は石津川沿いにあるのに対し、大仙陵古墳は上石津ミサンザイ古墳が造営された後では石津川沿いとは言いにくいのです。このくだりで、私は現・履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳こそが、真の仁徳天皇陵にふさわしいと感じました。

石津川沿いで海に面した百舌鳥の広大な原野に、はじめて超巨大な大王墓が築かれたからこそ、日本書紀の行幸のエピソードが強く記憶に残り伝承され、記録されたのでしょう。また。考古学的にも上石津ミサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群で最初に造営された巨大墳墓であることは実証されています。

当時、現・応神陵とされる誉田御廟山古墳や現・仁徳陵とされる大仙陵古墳は、まだ存在しませんから、上石津ミサンザイ古墳は、日本最大の画期的な超巨大古墳でした。

上石津ミサンザイ古墳は、近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをこえることは確実です(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁)。誉田御廟山古墳に近い大きさなのです。現在でも巨大な質量を感じる迫力があります。

仁徳天皇が、生前に行幸して、この百舌鳥の地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです(百舌鳥は好立地なのですでに豪族墓である乳岡古墳がありましたが大王級の墓は仁徳天皇が最初)。それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

私の独断的想像では、仁徳天皇は皇太子(後の履中天皇)に対し、次は応神の眠る古市の地に大きな墳墓を作ることを指示し、その次は、百舌鳥の地につくるという形で、両墳墓地の併立を決めたのでしょう。旧の奥津城である古市の地を忘れないようにするとともに、新しい百舌鳥にはさらに誇示する墳墓地として巨大墓を造成するように息子たち(後の履中と反正)に願いを託したのです。
こうして、大王墓は、河内王権の中心地に近い古市の地と海に面した百舌鳥の地に交互に造営されることになります。


↓上石津ミサンザイ古墳(1)・・・まさに巨大なマッスを感じさせる形の崩れのない美しい大古墳。非常に丁寧に造られています。

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↓上石津ミサンザイ古墳(2)

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次の履中天皇と反正天皇は、父の仁徳天皇の遺言を守り、根拠地の中心である古市と新開発した百舌鳥に交互に巨大古墳を造成します。

おそらく、父の超巨大古墳(上石津ミサンザイ古墳)に強く刺激され、父をこえることを目指したのでしょう。これは、履中と反正の二人が、倭の五王の讃と珍として、宋に朝貢しはじめたことに繋がりがあります。

すなわち、高句麗の南下により倭国と同盟関係にあった百済が危機に陥りました。そこで、当時、中国の南朝に建国された宋王朝に接近し、その官号や爵号を得て朝鮮半島での高句麗との争いを優位に運ぼうと目論んだのです。その倭国の力を誇示するためにも、墳墓をさらに巨大化し、超巨大古墳をつくる必要があったのです。

それが、誉田御廟山古墳であり大仙陵古墳です。ということで、私は、誉田御廟山古墳を倭王讃である履中天皇の墳墓に、大仙陵古墳を倭王珍である反正天皇の墳墓に比定します。

誉田御廟山古墳と大仙陵古墳は同じ設計で、誉田御廟山古墳をより引き延ばしたのが大仙陵古墳というのがよく知られた定説で、記紀に書かれた仲の良い兄弟天皇としての順番にも、『宋書』の讃と珍が兄弟であるという記述にも整合します。

履中天皇の治世がやや短いことから、誉田御廟山古墳では大きすぎると考える方もいるかもしれません。しかし、仁徳天皇は長命で履中は皇太子でしたから実質的な政務をとった期間は長かった可能性が高いのです。『日本書紀』では70歳、『古事記』では64歳で崩じたと書かれており、履中天皇もある程度は長命であったと思われます。

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ここからは、独断的私見ですが、岡山県の造山古墳の影響もあると考えます。この造山古墳は5世紀中ごろつくられた350mの超巨大古墳です。場所的には、古くは福岡の伊都国から大和の邪馬台国に至る中継地として栄えた投馬国の流れをひく岡山県吉備地方にあり、この地域の有力者の墓と思われます。時期的には上石津ミサンザイ古墳の後で、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳の少し前と考えられます。おそらく当時新たに大阪湾にそびえることとなった上石津ミサンザイ古墳を見て刺激された吉備の王が我も力を誇示しようと自領に造営したのでしょう。

この吉備勢力は古くから力を有し畿内の大王一族とも通婚関係があり敵対するものではないので、大きさは上石津ミサンザイ古墳をわずかに下回る350m(但し周濠なし)で、当時最大の大王墓を凌駕しないよう配慮して造営されています。とはいえ、吉備勢力の実力を体現し、畿内の大王なにするものぞという対抗心も表現されています。

想像するに、吉備で巨大古墳が造営されているという情報が伝わり、履中天皇や反正天皇は大王としての面子にかけて大きさで負けるわけにはいかなかったのです。造山古墳をはるかに上回る規模がめざされたのです。

ということで、あわてて造成された超巨大古墳であったために、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまったのです。
それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも等高線の乱れはありません。これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しており、私が上石津ミサンザイ古墳こそ仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。

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最近、大仙陵古墳から出土した須恵器の甕については5世紀の中頃以降とされ、明治時代に県令・税所篤が発掘させた時の絵図の長持式石棺・眉庇付冑などが5世紀中頃以降という鑑定とも一致しました。つまり、これらからも大仙陵古墳は、仁徳天皇時代とするには新しすぎ、やはり仁徳天皇の子の世代の大王墓でしょう。


私が大仙陵古墳の被葬者と考える反正天皇は、仁徳天皇の三男で、母は葛城襲津彦の娘である仁徳皇后:磐之媛命です。つまり履中天皇の同母弟で、仁徳の次男である墨江中王の反乱を鎮め皇太弟となりました。反正天皇の在位期間は短いものの治世は「五穀成熟れり。天下太平なり」と『日本書紀』にあります。古事記では60歳で没したと書かれています。穀物が豊作で大きな事件もおこらず平和な御世であったようで、国力も充実していたと想像されます。

江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀に「治天下□□□歯大王世」とあり、これは雄略天皇説があるものの、反正天皇説もあります。これは、歯という字を持つ天皇は瑞歯別尊たる反正天皇しかいないからです。
さらに、宋書における倭王武の上表文に「昔より祖禰、みずから甲冑を着て・・・」とあり、この祖禰の解釈の一説に、武(=雄略)の祖である禰(=珍=反正)があり、統一事業の実践者としての強力な大王=反正天皇が浮かび上がるのです。

また、反正天皇の都は丹比柴籬宮で、現在の松原市上田の柴籬神社が伝承地とされていますが、ここは古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に位置し、当時の大王の都としては最も百舌鳥古墳群に近い場所です。私見では、反正天皇は大仙陵古墳の被葬者としてふさわしいのです。

大仙陵古墳が先王の誉田御廟山古墳より大きいのは、国力が充実していたのと、海に面した百舌鳥の地が古市の地より、古墳の大きさを誇示する場所として価値があったからです。



↓大仙陵古墳(1)

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↓大仙陵古墳(2)
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次の倭王の済は、当然、允恭天皇となり、墳墓は順番からして古市に造営されますから、市ノ山古墳が整合します。
もっとも、允恭の墳墓としては小さいという問題があり、それを重要視すると、より大きな土師ニサンザイ古墳が允恭墳墓である可能性も残されています。

ただ私は、允恭から雄略に至る段階では、宋王朝に対して繰り返し求めてきた朝鮮半島での軍政権が思うように認められず、巨大墳墓を誇示して大陸外交を進めていく意味が薄れてきたのではないかと考えます。

また、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳で、吉備など地方勢力に対する近畿の大王の権力を完全に示すことができたので、それ以降は、より巨大な古墳を築く必要もなくなったのです。

したがって、古墳の規模は大仙陵古墳を頂点として縮小していく流れにあり、その先鞭をつけたのが允恭天皇の市ノ山古墳であると思います。とはいえ、市ノ山古墳は全長230mの堂々たる巨大古墳で、允恭天皇陵としてはふさわしいものです。


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その次の土師ニサンザイ古墳は、市ノ山古墳より大きく、全国第7位の大きさの美しい古墳です。先王の市ノ山古墳より大きいのですが、これは百舌鳥古墳群は海に近く、誇示という価値が古市古墳群より少し残っていたからだと推測します。

大王墓は古市と百舌鳥に交互に造営されたわけですが、古市古墳群におかれた先王の古墳より、百舌鳥古墳群におかれた次の新王の古墳がより大きいという法則は、ここでも貫徹しています。仲津山古墳<上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳<大仙陵古墳、市ノ山古墳<土師ニサンザイ古墳。私見ですが、これは百舌鳥の地が特に誇示する場所だったからです。古墳の配置から見ても、従来からの奥都城であった古市は古墳の方向などがバラバラでゴチャゴチャしているのに対し、百舌鳥の古墳は海からと内陸への街道から見られることを意識して綺麗なL字型に配置されています。このことは、百舌鳥は海と街道沿いに新たに開発された計画的な墓域であることを示しています。

土師ニサンザイ古墳の被葬者は、倭王の興が該当しますが、この人物が安康天皇であるかどうかが問題です。

実は記紀において、安康天皇の即位には不自然な記述が多々あります。まず、允恭の皇太子であった木梨軽王子が兄妹相姦の罪をかぶせられて失脚し、それを訴えた穴穂皇子が安康天皇となるのですが、天皇となって短期間で暗殺(眉輪王の変)されます。そして、なぜかこれまでの応神王朝で安康天皇だけが大和方面に葬られます。このあたり、詳しくは分かりませんが、とてもキナ臭い雰囲気が漂っています。

いっぽう、『宋書』では、倭王の興は「世子興」という表現が使われており、世子とはあらかじめ指名された王位継承者のことをいいますから、允恭天皇の長男で皇太子であった木梨軽王子のほうが、興にふさわしいようです。(わざわざ世子という表現にしたのは大王として即位しなかった意味か?)

允恭天皇は長命でしたから、在位中に皇太子の木梨軽王子が政務を取って外交を行った可能性があり、後に大王となる予定の皇太子(木梨軽王子)のために巨大墳墓(土師ニサンザイ古墳)が用意されたのではないでしょうか?

いっぽう安康天皇は急死(暗殺)だったので古墳が用意されておらず、やむを得ず大和地方に葬られたのでしょう。ただ、該当する奈良県の巨大古墳に適切な候補は見当たらず、大きな墳墓ではなかったのかも知れません。

あるいは、ひょっとして、木梨軽王子と安康天皇がバタバタと崩御したため、木梨軽王子用に造営されていた土師ニサンザイ古墳に、とりあえずという形で安康天皇が葬られのかも?・・・このあたりは全く想像の域を出ず、決定できるものではありません。

もし、安康墓が土師ニサンザイ古墳とするなら、木梨軽王子墓は少し小さい規模の前の山古墳(白鳥陵)ということになり、この可能性も十分にあり得ます。このあたりは、まだ確定させず判断留保したいです。そこで、私は土師ニサンザイ古墳については、現時点では「木梨軽王子または安康天皇陵」としておきます。


↓土師ニサンザイ古墳(1)・・・百舌鳥古墳群の最後を飾る最高に美しい古墳です。

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↓土師ニサンザイ古墳(2)
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その次の、倭王武は、雄略天皇であることは確実で、墳墓も岡ミサンザイ古墳で間違いないでしょう。
これは、現在の学会の主流の学説ですが、私も武=雄略天皇=墳墓:岡ミサンザイ古墳ということに関しては全く異論はありません。


この後、古市と百舌鳥の古墳群には巨大な古墳は造営されなくなります。(大王墓がここにつくられなくなったかどうかは別問題で、大王墓が小さくなったという可能性大)
ただし唯一、古市と百舌鳥と中間に、河内大塚古墳という謎の巨大古墳が出現します。河内大塚古墳は私も野鳥観察を兼ねて何度も足を運んで調査しており興味深い話があるのですが、応神王朝とは関係がないので、またいつか稿を改めて書くことにします。



<結論 私の百舌鳥・古市古墳群の被葬者比定 造営順>


仲津山古墳      290m ←応神天皇陵
上石津ミサンザイ古墳 365m ←仁徳天皇陵(現・履中天皇陵)
誉田御廟山古墳    420m ←履中天皇陵(現・応神天皇陵) 讃
大仙陵古墳      525m ←反正天皇陵(現・仁徳天皇陵) 珍
市ノ山古墳      230m ←允恭天皇陵(現・允恭天皇陵) 済
土師ニサンザイ古墳  300m ←木梨軽王子または安康天皇陵  興
岡ミサンザイ古墳   242m ←雄略天皇陵(現・仲哀天皇陵) 武


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この私の比定は、誉田御廟山古墳を応神天皇陵とせず、大仙陵古墳を仁徳天皇陵としないので、現在の主流の説ではありません。
しかし、考古学的に精密に実証されてきた古墳の編年表に全面的に整合しています。
また、中国の史書にも整合しており、『日本書紀』や『古事記』とも、ほとんど整合しています。
記紀の記述と大きく異なるのは、ただ一か所、履中天皇の墓所が百舌鳥ではなく古市であるという点だけです。






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2018年 04月 12日 |

今の時期は、イベントや行事が多く、取材依頼の仕事で、いろいろ狩りだされて忙しくています。

そうしたもののひとつですが、先日、新しい桜の品種「与謝野晶子」の開花イベントの取材がありましたので、そこからお伝えします。


平成30年2月20日付けで(公財)日本花の会より「与謝野晶子」として品種認定されたそうです。

公開された木は、まだ小さい幼木ですが、花を精一杯咲かせて、けなげな雰囲気でした。

↓公開された幼木

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花色が濃く、繊細な雰囲気なので、アップで撮るとまた魅力的です。

↓以下四枚、アップで撮影した晶子桜

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↓晶子桜の説明

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この晶子桜は、品種としては、大島桜や河津桜をかけ合わせてつくられたもののようで、早咲き品種で、ソメイヨシノよりは一週間ばかり早く咲くそうです。ただし、今年はソメイヨシノの開花が早く、晶子桜のほうがやや早い程度で、ほとんど同時に満開を迎えていました。


↓大仙公園の晶子の歌碑の横にも晶子桜が植えられていました。

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↑右側に1本、左側に2本植えられています。まだ、両脇で小さいので目立ちませんが、これからここで大きくなっていくのが楽しみですね。


 花の名は一年草もある故に忘れず星は忘れやすかり

この歌碑は、季節に応じて花が植え替えられています。以前の様子も二枚ご覧ください。

↓(1)

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↓(2)

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↓図書館前の有名な歌碑
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↑有名な歌碑の左側横にも植えられていました。右側から歌碑を覆うように茂っているのが大島桜で、左横の小木が晶子桜です。
これも、今後どのように大きくなるか楽しみなので、これからも見守っていきたいと思います。

 堺の津南蛮船の行き交へば春秋いかに入りまじりけむ

↓左側から斜めに撮影 晶子桜はまだ小さくて可愛いですね。

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↓歌碑のアップ

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↓与謝野晶子の桜の歌といえば、この桜月夜の作品ですね。堺市の山之口商店街のアーケードで撮影しました。
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なお、与謝野晶子のふるさと堺市での歌碑巡りについては、私の書いた以下の二本の旅行ガイド記事をご覧いただければ幸いです。







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