模糊の旅人
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カテゴリ:大阪( 493 )
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2019年 05月 23日 |
LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「いよいよ世界遺産へ!堺市の仁徳天皇陵古墳を一周しよう!」という記事が公開されました。
世界遺産の指定がほぼ決定し注目を集めている百舌鳥古墳群の盟主墓:仁徳天皇陵古墳を一周するコースの紹介記事ですので、ぜひ↓お読みください。




この記事は、百舌鳥・古市古墳群についてユネスコ諮問機関(イコモス)の世界遺産への登録勧告が出て、2019年7月に世界遺産になることがほぼ確定したので、各方面からご指導を受け、緊急に作成したものです。

仁徳天皇陵については、多くの記事が出ていますが、今は注目度が高いので、タイムリーな記事として読んでいただければ幸いです。



私は次の海外への長旅を計画しており、この記事が正式にアップされてから、行くことにしていました。
次記事で旅内容について書きますが、これで心置きなく日本脱出できますので、ほっとしているところです。


旅前に、最近撮影の、近所で見られる身近な野鳥写真もアップしておきます。

晩春から初夏にかけて、野鳥は子育てのシーズンです。

↓まずは、美しい声で鳴くイソヒヨドリ。
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↑この鳥は、本来は海岸の岩壁地帯に生息していたのですが、人間の都市化に適応し、どんどん生息域を広げています。
多分、人間のつくる家屋・ビル・マンションといった建造物が、岩壁的な環境に似ており、鷹などの天敵が少ないこともあり、都会が大好きなようです。


↓次に今の季節に飛び回るツバメ
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↑おなじみツバメさんで、春になると南国から飛んできて、軒下などに巣をつくって子育てをする典型的な渡り鳥です。
日本の街や村の5月の風物詩ですね。


↓田んぼの野鳥:ケリです。
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↑田んぼの畝が耕されると、縄張りを主張し夫婦で子育てをする気の強い野鳥です。
これも田植えシーズンの風物詩ですね。



イソヒヨドリ、ツバメ、ケリ・・・これらの野鳥は、人家を怖がらず、イソヒヨドリやケリは田んぼなどの虫を食べ、ツバメにあっては蚊などを食べてくれます。
カラスのようにゴミをあさったり、スズメのように穀物を食べるわけではありません。いわば直接害を及ぼすわけではないので、人間にもさほど嫌がられず、春から夏にかけての風物詩として親しまれています。少しばかり人と共生しており、親しまれている野鳥です。これからも長く人間世界とつきあって姿を見せてほしいものです。






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2019年 05月 12日 |

今日は、日常に見られる田んぼの野鳥:ケリです。

田起こしがはじまると、ケリの季節がやってきます。

田や畦などの地面に藁を敷いて巣をつくり子育てを行うので、田んぼの風物詩になっています。

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身体の下部・羽の裏部は白くて綺麗です。

その羽が見えた写真を3枚、ご覧ください。

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ちょと巣に近づきすぎたのでしょうか、カップルで鳴きあって「キリッ、キリッ」と大きな声で警戒しはじめました。

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↓「出ていけ!」と言っているかのように、こちらを見ながら鋭く鳴いています。

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とうとう私の周りを飛翔しだし、「キリッ、キリッ」と鳴きながら、ぶつかるかのように追い出しにかかります。

ケリは、羽を広げると、結構大きいので、近くを飛び回られると怖いです。

これは申し訳ないことをしました。もう帰りますよ、ケリさん。

↓飛翔姿を一枚撮ってから、退散しました。

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2019年 04月 12日 |
今年の桜を掲載します。今日は大阪篇です。

近所の公園や寺院で桜が開花しました。今年は例年より遅く、昨年秋の台風の影響から折れた枝があり、少し寂しげですが、桜が華やかに咲くと気持ちの良いものです。

それでは、花の世界を楽しんでください。
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園芸植物たちも負けずに開花し、癒してくれました。
今日は青系を中心に園芸植物もいくつかご覧ください。
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次回は、桜~奈良篇~ をお送りします。








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2019年 04月 06日 |
非常に忙しくてチュニジア写真を現像整理する時間がないので、身近な花の写真をアップします。

三月から四月にかけて春の花が咲きだしました。
まずは好きなスプリング・エフェメラルと呼ばれる春の妖精のような小さな野草をいくつか撮りました。

近所の山で見られるのが、ショウジョウバカマ。
少し湿った場所に咲いており、色合いも様々で可憐な姿はなんともいえない風情があります。
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↓アップでやわらかめに撮影
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↓シハイスミレも可愛い花で素敵です。
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スイセンなどの園芸植物も近くの公園で見事に咲き誇っており、撮影を満喫できました。美しい花たちの競演をお楽しみください。
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2019年 01月 08日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「泉州の和泉市久保惣記念美術館で美を体験する!」という記事が公開されました。
静かで穏やかな時間を過ごせる印象的な美術館ですので、ぜひ↓記事をお読みください。





この旅行ガイド記事の作成に関しましては、和泉市久保惣記念美術館の学芸員である上仁さんの御協力をたまわり、とても参考になりました。この場を借りて、深く御礼申し上げます。


本ブログでも、タイアップして、和泉市久保惣記念美術館を紹介することにします。



久保惣記念美術館は、日本と中国の古美術を中心に約11,000点を所蔵し、所蔵品をいかした企画展や、個性的な特別展を開催しています。国宝も二点あり、人気の宮本武蔵の作品もあることから、泉州の名物美術館と言えます。


↓和風の佇まいの久保惣記念美術館

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和風を基調としており、静かで穏やかな時間を過ごる印象的な美術館です。

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↓新館と本館の間にある黒竹の小路は、とても趣きがあり、私のお気に入りです。

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↓松の緑に映えるカエデの紅葉も良いです。

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この久保惣記念美術館で一番人気の作品は、宮本武蔵の「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず、重要文化財)です。
これについては、旅行ガイド記事の中に、大きな写真がありますので、まずそれをご覧ください。(ブログには掲載許可を得ていないので直接掲載できません)

この作品が公開展示される企画展があると、この絵を見るために遠方から来られる方があり、剣豪:宮本武蔵のファンの多いことが分かります。


この作品に関して、学芸員の上仁さんによると、「枯木鳴鵙図」というのは作品が収められていた箱蓋に記されていた、いわゆる箱書きにあった名前だそうです。
また、文人画家である渡辺崋山が所有していた旨が銘記してあるとのことです。崋山は武士出身であり、宮本武蔵に共感するところがあったのでしょう、この絵に強く惹かれていたと思われます。


「鵙(げき)」とは獰猛な小鳥である百舌鳥(モズ)のこと。
「枯木鳴鵙図」というのを文字通り解釈すると「枯木でモズが鳴いている図」ということになります。しかし、この絵を見て「モズが鳴いている」ように見えるでしょうか?

事実、上仁さんによると、「この絵のモズは鳴いていない」という意見が多くあるそうです。
確かに、モズの目が鋭く獲物を狙う張り詰めた空気が感じられる作品です。動いて鳴くと獲物が逃げてしまいますよね・・・


場の緊張感が伝わってきます。そして鮮やかな筆さばき・・・この絵の筆致には迷いが無く、無駄な装飾も排し、武芸者としての武蔵の真っ直ぐな気迫が表現されているようです。


モズは、百舌鳥という地名のとおり「大阪府の鳥」であり、仁徳天皇の百舌鳥野伝説があるように、仁徳天皇陵がある泉州を代表する野鳥です。
そのモズを描いた宮本武蔵の水墨画が、この和泉市久保惣記念美術館にあるというのは、とても因縁を感じますね。


その他にも、国宝が二点
(1)青磁 鳳凰耳花生 銘「万声」(ほうおうみみはないけ めい「ばんせい」 )
(2)「歌仙歌合」(柿本人麻呂や紀貫之などの著名な30人の歌人による130種の歌の書写)
あります。


また、人気のある葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の中の一図「凱風快晴」(通称「赤富士(あかふじ)」の浮世絵もあります。
東洋美術中心ではありますが、西欧美術もモネ、モディリアニ、ゴッホ、ルオー、ロダン、ルノワールなどがあります。


私は最低でも年一回はこの美術館を訪問しています。
最近では大和絵の特別展(土佐派と住吉派―やまと絵の荘重と軽妙―)があり、日本画の繊細かつ優美な世界を堪能しました。
自宅から歩いて行ける唯一の美術館でもありますので、今後の企画展や特別展を楽しみにしています。


↓久保惣記念美術館の庭に咲いていたホトトギス

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2018年 09月 10日 |

台風21号の被害は思ったより激しく、いつも散歩する公園でも倒木や無残に折れた木が目立ちます。
野鳥さんたちは大丈夫なのだろうかと、いろいろ回ってみました。やはり、従来より見かける野鳥の数は少なく、心配です・・・


↓台風の爪あと

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樹木の悲鳴が聞こえてくるようですね・・・・


さて、先週のブログで海外旅予定と書きましたが、台風21号による関西空港の被害のため、出発できませんでした。

いろいろ、すったもんだしたのですが、関空からの大連出発便が欠航のままですので、いたしかたありません。


私の予約していた中国の航空会社は、代替便は出ないということなので、とりあえずチケット払い戻しをして、いったん取り消しました。

セントレアなどの他空港からの出発も試みましたが、唯一スケジュール的に合う便は満席で、キャンセル待ちをしましたが、取れませんでした。


関空の修復を待って行くことを検討中ですが・・・・


ただ、問題は、レッドビーチです。取材をしたかったレッドビーチは、日本でいう天然のサンゴ草の大群落で、10月中旬をすぎると枯れてしまいシーズンオフとなります。


サンゴ草は日本では北海道のサロマ湖などでも少し見られますが、中国のレッドビーチは東京ドーム約2,000個分と大規模なのです。このサンゴ草の一番きれいな時期に合わせて、ゆっくりと満州をめぐるスケジュールを組んだのですが、まさか台風で関空が大きな被害を受けるとは思いもしませんでした。残念です。


初夏に四川省の四姑娘山に登って高山植物を見る計画も骨折で中止しましたし、ようやく快復して初秋の満州への旅もこの始末・・・今年はどうも運がありません。


私は、今回の中国旅の関係で、10月上旬に他の仕事や用事を集中させていたために、そこでの長旅は無理です。
つまり、10月上旬を過ぎた中旬はじめのワンチャンスしかレッドビーチへの可能な時期がなく、そこに飛行機や宿などが取れるか、関空の発着はどうなっているか、非常に微妙な状況です。
関空が早く修復されうまく日程が合えば可能ですが、いずれにせよタイトなスケジュールになりそうで、無理して行くべきかどうか迷っております。


とりあえずの現況報告でした。


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2018年 08月 30日 |

仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)の拝所の向かい側、前方部を向き合わせる形で中型の古墳があります。これが古室山古墳で、全長約150mもある結構迫力ある前方後円墳です。

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このような前方部を接近させて位置する中大型の古墳同士の配置というのは、百舌鳥・古市古墳群では他に例がありません。
これは不思議なことです。

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古室山古墳は皇族墳墓に治定されていないので、これまで発掘され詳しい研究書も発刊されています。
1986年の調査では、後円部から葺石が多量に見つかりました。その状況が下の写真です。
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古市古墳群は、百舌鳥古墳群と違って、実際に登ることのできる古墳が多いのが特徴です。
特に古室山古墳は、おススメで、古市古墳群を回るコースの中で、休憩するのに絶好です。ぜひ、南側の後円部から登って、景色を楽しんでください。

↓古室山古墳に登る途中から頂上を見上げる。
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↓古室山古墳の頂上よりの風景 はるかに、あべのハルカスが見えますね。
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古室山古墳の自然も良いものです。下は木に生えていたキノコ

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古室山古墳の謎はもうひとつあります。
白石先生の古市古墳群の編年図表によると、古室山古墳は古市古墳群の中では初期の造営で、ほぼ津堂城山古墳とほぼ同じような時期に位置付けられています。


ところが、古室山古墳の様式は古い形で、その周濠は墳丘に沿って前方後円形をしています。この形は、前期の前方後円墳によくみられるもので、出土した壷形埴輪も古い形式を表わしています。
津堂城山古墳になると、周濠は盾形となり、造出しや二重濠という新形式になります。これ以降の巨大古墳の周濠はすべて盾形です。


↓古室山古墳と隣接する仲津山古墳の周濠と墓域

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↑この赤の周濠と、緑の墓域は、私がフリーハンドで描いたものです。


これは一体何を意味しているのでしょうか?

天野末喜氏は、「大和政権が河内地域を領有」した際に征服された在地首長が葬られていると考えています。(『古室山・大鳥塚古墳』藤井寺市教育委員会事務局 2017 168頁)


逆に、白石太一郎教授は、河内を含むヤマト王権内部から河内政権が有力となっていく証拠であると考えています。


「筆者(白石太一郎氏のこと)は、ヤマト王権の本来の地域的基盤は畿内全体ではなく、その南の大和川水系及びその周辺、すなわち後の大和・河内(北河内をのぞく)・和泉の地域であったと考えている。それは、まさに大和・河内(和泉を含む)連合にほかならなかったのである。おそらくこの範囲は邪馬台国の原領域でもあったのではないだろうか。(『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』大阪府立近つ飛鳥博物館図録60 2013 13~14頁))


私は、後者の白石先生の考え方を支持するものです。


私は、古市古墳群に先行する河内の玉手山古墳群を築いた集団は、決して大和の政権と対立する勢力ではなく、むしろ大和の政権を支えるもっとも有力な集団だったと思います。大和川水運を掌握し、一番大切な西への出口を押さえ、佐紀古墳群の政権一族とも交流したのでしょう。

オオヤマトすなわち原ヤマト国家は、箸墓や柳本古墳群のある場所を中心としますが、そこだけで成立したのではありません。周辺の地域から支持された連合国家(卑弥呼や台与の共立という事実があります)でした。白石先生が述べるように、大和・河内連合を基盤とした体制だったのです。

もともとヤマト政権というのは、邪馬台国時代からずっと大和川水系が中心でした。古市古墳群のある河内は、大和川を下って河内湖に出ていく要所であり、最重要拠点です。
地形的には、大和川が金剛生駒山脈を穿った渓谷=ボトルネックから大阪平野に広がるポイントで、畿内から瀬戸内へ西日本へ、さらには半島・大陸への門戸を確保できる場所です。


ここにすでに古来よりヤマト政権の機関が置かれており、その機関を担ってきた集団が在地勢力と融合し、佐紀古墳群の王権血縁者とも交流していく中で有力となったのが河内政権です。(したがって、私は、津堂城山古墳の段階で大和政権が河内を征服したとする天野末喜氏の説を支持しないのです。もともと大和政権というのは河内勢力との連合政権であったのです。)

また、その大和川が金剛生駒山脈につきあたる奈良県側のポイントに栄えたのが葛城氏で、馬見古墳群があります。葛城氏は応神王朝期に多くの皇后を輩出し、河内集団とも強いつながりを持ちました。


その河内集団のトップで、私が仲哀天皇にあたる人物と考える津堂城山古墳の被葬者は、河内地域をおさえ、西方諸集団との関係を構築することによって、王権内部での地位を高め、佐紀古墳群の姫(神功皇后)と婚姻し、佐紀勢力同士の権力争いを制し大王クラスになったのです。


その次代にあたる仲津山古墳の被葬者=応神天皇にあたる人物は、ついに佐紀政権に代わる強力な大王として河内政権をゆるぎないものにします。その次の仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘である磐之媛命を皇后として履中・反正・允恭の皇子を成しました。このことは、応神系の政権が佐紀古墳群の集団より、馬見古墳群の葛城氏系の集団を盟友とし、提携重点をそこに移していったことを意味しています。

↓大和川水系に集中する巨大古墳群

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↑ご覧のように、奈良盆地の大和川水系が古ヤマトの場所ですが、大和川が西の山脈に当たる場所に馬見古墳群があり、そこから山脈を出て大阪平野に出る場所に古市古墳群があります。
また、奈良盆地の北で大和川水系の北部には佐紀古墳群があり、山城・近江方面の淀川水系と接しています。
こうした大和川水系の重要地点に、政権が移り変わり、巨大古墳が築かれたわけですが、これはまたヤマト政権が大和~河内地方を基盤とする連合の政権であったことを示しています。



さて、津堂城山古墳の被葬者は、河内政権で最初に大王クラスとなった人物です。そこで自らの墳墓は、二重の盾形周濠・周堤、造出し、巨大石棺、水鳥形埴輪など新企画で豪華なものとしました。
この時期、巨大な大王墓クラスの古墳ほど新しい装いで登場し、逆に中規模以下の前方後円墳は、旧の伝統的な形態である例が多いのです。その中規模古墳の代表が、古室山古墳であり続いて造られた野中宮山古墳です。


古室山古墳は、大王たる津堂城山古墳の被葬者の下の、有力家臣クラスの墳墓であり、旧来の形態の古墳を希望した人物が葬られていると考えます。多分、老臣といったイメージの被葬者像が浮かびます。


次の世代になると、巨大な仲津山古墳という大王墓が築かれます。
この巨大古墳は、国府台地の最高地点に造られるのですが、そこにはすでに先代の老臣の墳墓である古室山古墳がありました。そこで異例ですが、前方部を接した形で、仲津山古墳が誕生したのです。

古室山古墳と非常に接近させる形にはなりますが、あえてそうしてまでも、国府台地の最高地点に造営することを選んだのです。これには、最も良い場所を使うという大王の強い意志が感じられます。

前に、仲姫命陵古墳の真の被葬者は誰か? という記事で書きましたように、この最重要地に造営された仲津山古墳の被葬者としては、応神天皇にあたる人物以外には考えられないと思います。



本記事を書くに際して、特に参考にした書籍は以下の三冊です。

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2018年 08月 14日 |

近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。

駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。

このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。

↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。

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私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。


もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。


↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。

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これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。

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仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。

これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。

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白石氏らの研究によると、この古墳は造営当時は外溝などを含めた墓域が非常に広く、300mをこえ、当時としては日本最大の墓域を誇る古墳でした。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。

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つまり、この巨大古墳は、河内政権初期の大王級の墳墓であることは間違いありません。


4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。


現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。



「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。

白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。

「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。


私は、そこからより大胆に推理します。

継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。


すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです


私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。

確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)


ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。

また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。

そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。


仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。

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そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。

応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。

この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?

記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。


応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。

ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。


すなわち、仲哀天皇にあたる応神天皇の父が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。


記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。


記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。

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上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。


私の推理は以下のとおりです。

まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。


ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。


続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。

最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。

以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。



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2018年 08月 06日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「もうすぐ世界遺産!大阪・河内の古市古墳群を歩こう!」という記事が公開されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、期待が高まっている古市古墳群を紹介する記事です。古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて地味ではありますが、魅力的な古墳が多数分布していますので、ぜひ、ご覧ください。






拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、古市古墳群について少し詳しく書いてみます。



古市古墳群は、百舌鳥古墳群に比べて複雑で、やや分かりにくいです。古墳の案内標識類もまだ完全に整備されておらず、特に小型古墳が見つけるのに結構、苦労します。


入門コースは近鉄南大阪線土師ノ里駅から古市駅にかけてほぼ南へ歩く分かりやすい道筋になりますので、これをまず紹介することにします。


まず、出発は土師ノ里駅北側の信号を渡って下ったところにある、允恭天皇陵古墳です。

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允恭天皇陵は、墳丘長230mで古市古墳群としては4番目の大きさの古墳です。5世紀中~後期に造られたもので、市野山古墳とも呼ばれています。
駅に近いので現在は住宅に取り囲まれていますが、濠をはさんで巨大な墳丘が見られる存在感のある古墳です。

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↑允恭天皇陵こと市野山古墳は、思ったより巨大で存在感のある古墳でした。造営年代だけでなく、つくりから見ても、これが本物の允恭天皇陵の古墳であっても問題ないなあ・・・というのが近くで見た実感でした。


↓允恭天皇陵の周囲を歩いて行くと、途中で綺麗な花が咲いていました。こういうのも古墳散策の楽しみです。

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↓宮の南塚古墳 この古墳は允恭天皇陵の陪塚で、こんもりした小山のようでした。

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↓国府八幡神社 宮の南塚古墳の北隣にある神社です。

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↓潮音寺 国府八幡神社の北隣にある寺です。

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↓土師ノ里駅へ戻ってくる途中撮影した唐櫃山古墳

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↑この古墳は工事現場のようでした。これから整備されるそうです。


↓土師ノ里駅の西側の信号を渡ると、こんもりした一辺63mの方墳である鍋塚古墳があります。

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↓鍋塚古墳の説明板

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↑この古墳は仲姫命陵古墳の陪塚の可能性が高く、上まで階段がありますので、登って展望を楽しめます。次に向かう仲姫命陵古墳が目の前に聳えています。


↓鍋塚古墳の頂上から見る仲姫命陵古墳・・・なんとも巨大に見えます。

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2018年 07月 22日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「大阪に世界遺産を!百舌鳥・古市古墳群をめぐり古墳カードを集めよう」という記事が掲載されましたのでお知らせします。

世界遺産登録へ向けて、古墳カードを作り古墳に興味を持ってもらおうという行政の取り組みですが、私も古墳カード記事を書いて、民間から支援しようとするものです。ぜひ、ご覧ください。





拙ブログでも、Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップして、大仙公園の小型古墳について少し詳しく書いてみます。



古墳群の楽しみ方は大きな盟主古墳だけでなく周辺の陪塚など小型古墳を見て回ることにあります。
ただ、むやみに散策するだけでなく、古墳カードを集めて行けば、楽しく歩けます。

いわばスタンプラリーのような形で、たくさんの古墳をカメラに収めていけば、古墳群を制覇した気分になり、その規模や形そして出土した埴輪などを知ることで、古墳に対する理解が深まります。


↓古墳カード MOZU-FURU CARD 全60種あります。

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私は百舌鳥古墳群については全ての古墳カードをコンプリートしていますが、古市古墳群についてはまだ全部に行けていません。古市古墳群の小さな古墳については標識が整備されておらず、住宅街の中に点在することもあり、場所が分かりにくいものが多いからです。


ということで、とりあえずは百舌鳥古墳を小さな古墳を紹介します。


前回~百舌鳥古墳群を歩く(2)~で、大仙陵古墳の陪塚を紹介しましたので、今日は大仙公園内に点在する小さな古墳たちです。



↓前回紹介した長塚古墳の裏側にあたる大仙公園東部にあるのが、鳶塚古墳。ここは古墳というより盛り土という感じです。

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↓鳶塚古墳から南へ歩くと原山古墳があります。これもやや大きな盛り土という感じで目立ちません。

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↓原山古墳の説明:失われた古墳をイメージして造られたものですね。したがってこの古墳には古墳カードはありません。

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↓大仙公園は生き物の宝庫。美しい蛾も翅を休めていました。

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↓原山古墳から大仙公園を横断した場所にあるのがグワショウ坊古墳(円墳)

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↓「ぐわしょう坊古墳林のすがた」という説明看板 植物の遷移のことがよく分かります

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↓グワショウ坊古墳の西側隣にある旗塚古墳

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↓旗塚古墳の説明板

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↓旗塚古墳の西側を少し歩き、道を渡ったところにある寺山南山古墳(方墳)

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↓寺山南山古墳の説明板 寺山南山古墳はゲートボール場があって近くで見れません。

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↓最後は寺山南山古墳の向かい側にある七観音古墳

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↓七観音古墳の説明板

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