模糊の旅人
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カテゴリ:チュニジア( 12 )
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2019年 03月 28日 |

古代カルタゴの遺跡の中心であるピュルサの丘・・・・ここは高台にあり城壁に囲まれたカルタゴ誕生の地です。

↓ピュルサの丘から地中海を望む

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紀元前814年、フェニキアからここへ避難してきた女王エリッサは、地元のベルベル人から「牛の皮一枚で覆える地」なら貸すと言われました。そこで賢いエリッサは牛の皮を細長く切り裂いて丘を囲い土地を得たという建国伝説があります。
そこで、この建国の地は、ピュルサ(=皮の意)の丘と呼ばれるようになったのです。

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フェニキア本国史によれば、テュロス王家の10代目の王ムット(マッテン一世)は美貌の娘エリッサと息子ピュグマリオンを死後の相続人として残しました。
ピュグマリオンは王となり、エリッサは王に次ぐ地位の神官アケルバスと結婚します。
しかし、ピュグマリオンは、アケルバスの財宝と宗教権力に嫉妬し、彼を殺害します。

夫を殺され危機が迫ったエリッサは、王に反対する貴族や元老院議員とともに、フェニキアの王都テュロスをからくも脱出します。

↓ピュルサの丘にある、エリッサの逃避行ルートの説明板

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エリッサらの一行は、まずキプロスに上陸します。
キプロスの神官らはエリッサに同行を申し入れ、約80人のキプロスの娘を脱出したテュロス人の妻として同乗させ、逃避行に協力するのです。


そして、ディードー(さすらう者)とも称されたエリッサらの船団は、苦労の末、ピュグマリオンの追及の手の届かない遠い場所=現在のカルタゴに至ったのです。


カルタゴとは、カルト・ハダシュトの略で、フェニキア語で「新しい都」を意味します。つまり、新天地につくられた新しい聖なる都でした。

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女王エリッサの逃避行伝説は、まさに貴種流離譚ですが、重要なのは政治的宗教的な亡命者によりカルタゴが建設されたことです。

エリッサはフェニキア最高位の神官の妻であり、宗教的にはフェニキア王ピュグマリオンより正統で、聖なる本山の移動ともいえる出来事だったのです。
これはつまり、後にイギリスでの迫害を逃れてメイフラワー号でアメリカ新大陸に渡り懸命に働き、アメリカ建国への道を切り開いた清教徒の移住に似ています!


こうして、ピュルサの丘に定着したフェニキア人たちは、宗教的理想に燃え、都市建設に一所懸命に励み、カルタゴを完成させ西地中海世界の盟主としていきます。


しかし、美貌の女王エリッサゆえの悲劇が待っていました。すなわち先住民の王ヒアルバスはエリッサに結婚を強要し、拒否すれば戦争を仕掛けると脅します。テュロスから苦難を共にしてきた10人の有力者は先住民の王に屈してしまい、進退窮まったエリッサは、亡き夫アケルバスの名を叫びながら、ピュルサの丘に築かせた薪の山に上り、「私も夫の所へ行きます」と言いつつ剣で命を絶ちます。

この後、カルタゴではエリッサは女神として崇拝されたのです。

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栗田伸子氏は、『通商国家カルタゴ』(講談社学術文庫)の中で次のように書いています。
「非業の死を遂げた神官にしてテュロスの王族のアケルバスの妻が、メルカトル神に守られつつ建設した新たな聖都、というのがカルタゴ建国の理念であったとすれば、それは女王エリッサが亡夫への貞節を貫いて死んで初めて完全なものとなるのである。」


カルタゴは、地政的に西地中海の中央に位置しただけでなく、聖都であったがゆえに、地中海フェニキア世界の新たなる中心となったのです。

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↑は、ピュルサの丘で発掘された古代カルタゴ時代の居住区で、ハンニバル街と呼ばれます。

わずかに残されたフェニキア人時代の非常に貴重な遺跡です。ここは有名なポエニ戦役で、カルタゴ側の最後の砦となり、ローマに破壊され埋められたのですが、近年発掘され見学できるようになりました。


カルタゴの建設は紀元前814年で、ポエニ戦役で徹底的に破壊されたのが紀元前146年です。
そうすると、フェニキア人のカルタゴは約670年ほどの歴史を有したことになります。非常に長く繁栄した都だったのです。


ローマ側は一度徹底的にカルタゴを破壊しましたが、やがてカルタゴの地政的な重要性に気づき、アフリカ属州の中心地として、カルタゴを再建しました。

現在、ピュルサの丘に見られる遺跡は、ほとんどローマの支配時代のものです。

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↓ローマ時代の遺物を中心に展示しているカルタゴ博物館。

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↓サンルイ大聖堂
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↑現在、ピュルサの丘の上に立つ最も大きな建築物はサンルイ大聖堂です。これは1884年にフランスにより造営された美しいカトリック教会で、十字軍のチュニス包囲戦で没したフランス王聖ルイ9世に捧げられました。

すなわち、フランスもまた、このピュルサの丘を聖地として位置付け大聖堂を建てたのです。



ピュルサの丘は、カルタゴの象徴です。エリッサの時代から、幾多の複雑な歴史を刻んできました。ローマの後もヴァンダル、ビザンチン、カヒーナ(ベルベル人)、イスラム、オスマン、ノルマン(シチリア)、十字軍、フランス、チュニジア独立、ジャスミン革命・・・この丘の上に立って、長く演じられてきた歴史ドラマに思いを馳せれば、本当に興味の尽きない場所なのです。。。。







↓LINEトラベルジェイピーの旅行ガイド記事「チュニジアで必見!古代遺跡のカルタゴと白壁青扉のシティブサイドを巡る!」もよろしく!








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2019年 03月 20日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「チュニジアで必見!古代遺跡のカルタゴと白壁青扉のシティブサイドを巡る!」という記事が3月14日に公開されました。
チュニジアで最も有名なカルタゴ遺跡と人気のシティブサイドを紹介したガイド記事ですので、ぜひ↓お読みください。






当ブログでもこの旅行ガイド記事とタイアップして、より詳しく紹介していきます。


かつて紀元前の古代、地中海を制覇した海洋国家がありました。フェニキア=カルタゴです。

後にローマに敵対し徹底的に滅ぼされたため、不当に歴史上から消されてしまいましたが、アルファベットの発明や、地中海各地にオリーブ栽培と小麦栽培を広げ、交易網を築き、経済文化が結ばれた地中海世界を開いた都市国家連合です。
その政治組織や交易ルートはギリシャやローマに受け継がれ、やがてヨーロッパ文明の礎となったのです。



そのフェニキア人の地中海ネットワークの中心がカルタゴで、現在のチュニジアの首都チェニスの北隣のカルタゴ市にあたり、貴重な遺跡が残され、チュニジア観光の目玉になっています。


↓カルタゴには、フェニキア人時代から使われたという軍港跡があります。半円形は当時のままだそうです。

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私は、フェニキア人によるカルタゴ遺跡に非常に興味を持っており、今回の旅の目的の一つとして楽しみにしていました。
それは、古代宗教=地母神信仰の研究というのが私の持続している密かな旅テーマであり、カルタゴには絶大な信仰を得ていた「タニト女神」の遺跡であるトフェ遺跡があるからです。


それでは、簡単にフェニキア・カルタゴの歴史をからめてトフェ遺跡を見て行きます。

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起源前1200年頃、BC1200年のカタストロフという大事件がおこりました。
それについては、以下のブログ記事の ~ エピローグ ~ で書きましたので詳細はそちらをお読みください。


↓ 「ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャ遺跡(エピローグ)」



このBC1200年のカタストロフの結果としてフェニキア人にとって重要な事は、ミケーネ文明とヒッタイト帝国が滅び、エジプトも弱体化し、東地中海地域に権力の空白地帯が生じた事です。

もともと、フェニキア人は現在のレバノンからイスラエルあたりの海岸地域に住んでいましたが、ユダヤ=イスラエル人からの攻撃と圧迫があり、メソポタミア地方にはミタンニやアッシリアという大国が興亡していました。

そこで、レバノン杉という船を造る素材にも恵まれていたことから、海洋貿易を行うこととし、BC1200年のカタストロフによるヒッタイトの滅亡からは、その権力空白地帯へ本格的に進出したのです。


地中海に季節的に吹く風と海流を利用し、フェニキア人は航海術を磨き、どんどん西へと進出しました。
地中海全域に商人として貿易に従事し、主にオリエントで不足する鉱物資源を運びました。特に現スペインからポルトガルにあたるイベリア半島西岸の「銀」が重要だったようです。


フェニキア人は、現イギリスやアフリカ西岸からギニア湾の現カメルーンまで至りました。スカンジナビアにも行ったのは確実です。
俗説ですが、アメリカ大陸まで渡ったという説まであります。
ギリシア人ヘロドトスの「歴史」によると、紅海からアフリカ東岸をめぐり喜望峰を回ってアフリカ大陸を周回したという事が書かれています。(ヴァスコダガマの逆コースですね)


地中海はフェニキア人の海となり、経済と文化の交流がおこりました。地中海沿岸各地にフェニキア人の植民都市が築かれました。
そうした、フェニキア人の地中海ネットワークの中心がカルタゴでした。


私が旅したマルタ島はカルタゴから海を隔てたすぐ近くで、フェニキア人の遺物が発掘されており、マルタ考古学博物館での展示の一画を占めていました。
それについては、以下の記事をご覧ください。


↓ 「マルタ考古学博物館(その四)フェニキア人遺跡とコインコレクション 」 




また、地母神信仰とキリスト教のマリア信仰の関係につきましては、以下の記事の「More 聖母マリア信仰について考える」をお読みください。


↓「聖母マリア永眠教会と聖母マリア信仰 ~聖書の大地を行く(31)」



カルタゴのタニト神も、男神バアル・ハモンと組みになった女神です。ただ、カルタゴではタニト女神のほうが男神たるバアル神より人気がありました。

カルタゴで発見される碑文は全て、タニト神がバアル神より先に書かれているという特徴があり、タニト神の重要性がうかがえるのです。


残された石碑文は必ず、女主人「バアルの顔」であるタニトへ・・・・、という句からはじまります。

↓タニト神の祀られたトフェの外観

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↓タニト神の神域 トフェの遺跡内部 聖石ペテュロスが描かれた石碑

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トフェはタニト神の聖域とされており、写真にあるような遺跡が発掘されています。


↓タニトの印が刻まれた石碑

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↑トフェにはタニト神の印が刻まれています。この形はカルタゴの国章であり、後にギリシャ・ローマに伝わり、金星(ビーナス)を表すマークから、女性を示すロゴになりました。

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タニト神は古代地中海周辺にポピュラーな豊饒の女神たる地母神信仰と結びつき、古代エジプトのイシス神との共通性も指摘されています。



問題は、タニト神は、カルタゴで絶大な信仰を集めた女神であるとともに、多数の赤子の生贄を捧げられたという伝承がある点です。


フロベールが有名小説「サランボー」で、この伝承とポリビュオス「歴史」をもとに、カルタゴ人が赤子を火の中に投げ入れる幼児犠牲の様子を描いたことから、西欧人にカルタゴ人の残虐なイメージを植え付ける結果となりました。


↓幼児犠牲の様子のイメージ(ローマ側の想像による絵)

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↓幼児用石棺

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ここで幼児の石棺や骨が見つかったのは事実ですが、果たしてこれが生贄であったかどうかは学説が分かれています。当時の新生児の生存率が低かったことから、赤子を大切に葬った墓所である可能性もあるからです。


カルタゴが完全に滅ぼされてしまったため、敗者側の資料がなく、全てはポリビュオス(ローマ共和政時代の歴史家)など勝者ローマ側の解釈です。そこが問題を複雑にしています。


1970年に、トフェ遺跡の再調査が行われ科学的分析が行われました。
この分析解釈については、ピッツバーグ大学のシュバルツ教授が幼児犠牲を否定し、ヘブライ大学のスミス教授が幼児犠牲を肯定する、それぞれ違った意見を報告しています!

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以下、私見を述べておきます。

他のカルタゴの遺跡から幼児の墓がほとんど見つからないことから、このトフェは最初は死産や早世した子の埋葬場として造られたのは間違いないと思います。
そこで、地母神と融合したタニト女神が、その幼児葬礼を司る神として重要視されたのでしょう。

祭祀の結果として、天候が好転したリ戦役に勝利したことから、死んだ赤子を生贄的な祈りの用途にも多少は使ったと思われます。神へ捧げ祈り聖別したのです。
ただ、その幼児犠牲が祈りの中心であったわけではなく、子供の冥福を祈るということが主目的でした。火に投げ込んだなら遺骨も残っていないはずですが棺に丁寧に葬られた骨が残されています。

その幼児葬礼の様子を見聞したローマ人が、残虐な面を強調し、フェニキア人を野蛮人として評価することで、徹底的に滅ぼすための材料として利用したのです。あくまで、ポエニ戦役の本質は、ローマのカルタゴに対する政治経済的な利権争いです。

現場に立ってみて、そんな古代史の一コマが浮かんでくるようでした・・・


カルタゴ史の研究者である佐藤育子氏は、名著『通商国家カルタゴ』(講談社学術文庫)の中で次のように述べています。
「人間を神への生贄に捧げること、つまり人身供犠は人間の歴史において何も珍しいことではなく、さまざまな民族にによってあらゆる時代に行われてきた慣習であるが、カルタゴの場合は特に、その対象が幼い子供であるという点で喧伝された感は否めない。」


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母国フェニキアは、アッシリアや新バビロニア、ペルシア帝国と次々と興亡する大国に服属しましたが、統治は自主性を得ていました。しかし、アレクサンドロス大王により完全に滅亡させられました。
ペルセポリスと同じく、またもや、テュロス(フェニキアの中心都市)を徹底的に破壊したのは、ヨーロッパでは英雄とされるアレキサンダーだったのです。イランでも感じましたが、私はアレキサンダーは英雄というより破壊者だと思います。


こうして母国フェニキアが滅んだ後も、カルタゴは地中海を支配し数百年の間、大いに繁栄しました。イベリア半島西岸の銀を主として交易し、現在のイギリスや、アフリカ西岸のギニア湾方面まで至ったようです。


しかし、ローマが興隆してきたため覇権争いとなりました。三度にわたる戦争(ポエニ戦役)で、アルプス越えで有名な名将ハンニバルを擁して善戦しましが、最後はローマに敗れ、徹底的に破壊され市民は虐殺されました。紀元前146年の事でした。



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2019年 03月 12日 |

メディナを東へ突っ切ると、フランス門がありそこから新市街になります。このあたりはフランス通りと言い、一転して欧州的な街並みとなります。

マガザン・ジェネラルやモノプリといったスーパーマーケットがあり、価格が安く値札が付いているので、メディナで苦労した買い物が嘘のようです。

↓モノプリ

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さらに東へ進むと道が広くなる独立広場があり、カトリックの大聖堂である重厚なカテドラルが建っています。ここから東側は、町のメイン・ストリートであるハビブ・ブルギバ通りとなり、新市街の中心地です。

↓独立広場のエンブレム

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↓カトリックのチュニス大聖堂

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大聖堂の前の緑地には、チュニジア出身の中世イスラム世界を代表する社会学者イブン・ハルドゥーンの像が立っています。フランスの巨大建築物の間にある偉大な学者の姿は、チュニジアの誇りと意地を象徴しているようです。


↓イブン・ハルドゥーン像

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ハビブ・ブルギバ通りは幅が広く、中央部は歩行者天国で市民の憩いの場となっています。パリのシャンゼリゼ通りを意識してつくられ、洒落た雰囲気がします。オープンカフェや噴水、時計塔などもあります。


↓ハビブ・ブルギバ通り中央部

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↓印象的な建物

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↓夕刻のハビブ・ブルギバ通りを横切るトラム

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↓書店があったので入ってみました。

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↓フランス語版の村上春樹の本が並べられていました。チュニジアでも人気のようです。

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ハビブ・ブルギバ通り沿いの中央南側に聳えている巨大な青いビルが、チュニスのランドマークであるホテル・アフリカです。ロケーションが最高で、チュニス観光には最も適したおすすめのホテルです。ここに滞在すれば縦横無尽にチュニスの街歩きを楽しめます。


↓アフリカホテル

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↓アフリカホテルの高層階から新市街を撮影したもの。眼下に新市街が広がり、シティービューを満喫できます。

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部屋の設備やアメニティーも申し分なく、上品で清潔。Wi-Fiもフリーでした。普段は中級ホテル専門の私ですが、チュニジアは物価が安いので、たまにはこのような高級ホテルも良いでしょう。


↓ホテルの部屋からのチュニス湖の夕景

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チュニス湖は海とつながった浅く広い塩湖=自然のラグーンで、シーズンになると野生のフラミンゴが舞い降ります。フラミンゴの群れが舞う時期にも来てみたいものだと思いました・・・


↓望遠レンズでチュニス湖の彼方の山をアップで撮影

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アフリカ・ホテルに泊まれば、夕刻でも早朝でもハビブ・ブルギバ通りの散策を楽しめます。


↓通りの東端には1月14日広場があり、時計台とブルギバ元大統領の像が佇立しています。旧市街から東へ歩いた終点がここです。

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2019年 03月 05日 |
グランド・モスク前広場の東側に最も多くの人が出入りする通りがあり、これがモスクと同じ名前のジャーミア・ズィトーナ通り。メディナのメインストリートです。

↓前回の記事の最後の写真で、多くの方が曲がって行く情景がありますが、これがジャーミア・ズィトーナ通りに入っていく人々です。
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↓入り口付近・・・こんなに混んでいます。
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ここは新市街へと繋がるメインルートなので、中へ入りどんどん東へとまっすぐ歩きます。やや下り坂になっており歩きやすいですが、非常に混み合う雑踏ですので手荷物には注意が必要。

このジャーミア・ズィトーナ通りには沢山の店が軒を連ねており、露天も所狭しと並んでいます。あらゆる種類の雑貨や衣類、香料、食べ物、装飾品、お土産物などなど・・・見て歩くだけでもわくわくします。

ファティマの手
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↓金属製土産物の打ち出し実演販売
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↓デーツやヌガーなどのお菓子類
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↓チュニジアの印が印象的
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↓ランプ類
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↓香料鉱物や香辛料
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↓結婚祝い用品
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↓陶器類
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↓男性用帽子
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↓少しすいてきました。
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↓衣料品。ディスプレイが見事です。
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これぞアラブの商店街。
雑踏感が心地よく非常に面白いのですが、値札が無いので、買い物は交渉次第。まず、ふっかけてくるので値段交渉がたいへんです。それが苦にならない方は、身振り手振りで買い物を楽しめるでしょう。

このストリートの印象は、他のアラブの国の商店街と比べると、女性の買い物客が多いので華やかに感じました。アラブ諸国の中でも、チュニジアは特に自由な国だなあと実感した次第です。






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2019年 02月 26日 |

シディ・ユセフ・モスクの東裏側あたりの曲がり角に、CAFE LA MEDINA という看板があります。景色が良いので有名なカフェです。看板デザインが ファティマの手 なのが素敵ですね。

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そこを入って三階へ上ってみましょう。位置関係をつかむのとカフェでの休憩に最適です。


↓カフェに上がる途中に多くの装飾があります。なかなか見事で、これも見ものです。

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↓屋上にはテーブルと椅子が並べられカフェになっています。

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↑休憩しながらチュニスのパノラマを楽しめます。写真正面下にあるのはグランド・モスクで、左側に四角柱のチュニジアスタイルのミナレットが見えています。正面奥には新市街が広がっており、右側遠くにそびえる青い高層ビルは目的地のアフリカ・ホテルです。


↓ミナレットのアップ

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↓チュニスを代表する双耳峰(ヤギの角という名前)と市街

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↓隣の建物の屋上も「パノラマ」として開放されています。

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眼下のグランド・モスクは、698年から建設が始まったチュニジアで二番目に古いモスクで、国内全土の信仰を集め、ジャーミア・ズィトーナ・モスク(オリーブの木のモスク)という別名を持っています。


カフェを降りて路地を回ればグランド・モスク前広場に出ます。

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↑ここはメディナの中心地で、路地やスークが四方に広がり、多くの人で賑わっています。

↓チュニスのメディナが世界遺産に指定された際の銘板もここにあります。

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2019年 02月 18日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「美しきチュニジアの首都チュニスを歩く!」という記事が公開されました。
チュニジアの首都の街歩きを紹介したガイド記事ですので、ぜひ↓お読みください。







当ブログでもこの旅行ガイド記事とタイアップして、より詳しくチュニスを紹介していきます。


カスバ広場の東からメディナ(旧市街)へ入ると、まず目立つのがシディ・ユセフ・モスク。これは1616年にオスマン帝国のユセフ王によって建てられたもので、八角形のトルコスタイルのミナレットが特徴です。
王冠のような頂端部も綺麗です。

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チュニジアの街が、モロッコの街と異なるのは、この八角形の塔がある点です。

これは歴史に原因があります。オスマン帝国は、15世紀に東ローマ帝国を滅ぼし、現アゼルバイジャンから現アルジェリアまで征服しました。
したがって、このトルコスタイルの八角形ミナレットは、オスマン帝国の版図に分布しています。
いっぽう、オスマン帝国に飲み込まれなかった現イランや現モロッコには分布していません。

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↓確かに無骨な感じのする四角形のミナレットに比べて、洗練された雰囲気があります。

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もちろん、チュニジアでも、オスマン帝国の支配以前につくられたミナレットは四角柱スタイルです。
↓その例(旧市街のあちこちから垣間見られるグランドモスクのミナレット・・・・チュニジアで二番目に古いもの)

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↓スーク街へ入ります。

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旧市街は道が錯綜しています。特にスーク(市場)の中は屋根があるので薄暗く圧迫感があります。様々な店が並んでおり、歩き回ると、ちょっとした迷宮のようです。

ただ、規模はそんなに大きくないので実は迷宮というほどのことはありません。そこがモロッコのフェズやマラケシュとは違います。


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彷徨っても迷子になることはありません・・・

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店のおじさんたちは濃い顔で目つきが鋭いので怖い感じがしますが、話してみると陽気で、日本人が少ないので「ニーハオ」とまず声をかけられます。
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2019年 02月 12日 |
チュニジア北部にある首都チュニスは海に近い二つの湖の間の低地に位置する大都会で、西側が旧市街で東側が新市街です。

そこで、チュニスの散策観光は、西から東へ、すなわち旧市街の西外側にあるカスバ広場からはじめ、そこから旧市街へ入り新市街中心地へ抜けていくという、西→東という徒歩ルートをとることにします。


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中央にモニュメントがあり、チュニジアの国旗が四方に翻っています。
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このカスバ広場は独立を記念するため再開発された大きな空間で、昔はチュニジアの政治の中心地として、高官の屋敷などがあった場所です。

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カスバ広場の横には、チュニス市庁舎の美しい建物があります。イスラム的造形が素晴らしい建築美を鑑賞することにしました。
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網目の組み合わせのような壁面が見事です。
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↓家族連れ
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↓市庁舎の門
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↓市庁舎の中庭
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カスバ広場の東からメディナ(旧市街)へ入ります。

↓地図表示がありましたので撮影。左中央の矢印で示される赤丸が入り口です。

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↑私はアラビア語は全く読めないので、フランス語表示は有り難いです。(チュニジアでは、アラビア語が主で、フランス語も通じます。むしろ英語が通じません)


↓夕日に輝くカスバモスクのミナレット
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2019年 02月 04日 |

少し前に帰国しておりました。
帰ると用事が多く、なかなかブログ更新ができなかったことをお詫びいたします。今日はチュニジアの印象を簡単に述べます。

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チュニジアは、これまで私が訪問した中近東のイスラム圏では最も開明的で、人物の写真撮影もお願いするとたいてい承知してもらえ、カメラマンとしては居心地の良い国でした。


↓マトマタ(映画スターウォーズのロケ地):タトウィン星の酒場

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↓水タバコ

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また、これまで必要だった観光地でのカメラチケット制度(観光地を撮影するのにお金が必要なシステム)が廃止され、自由に撮影できるようになったのも好印象でした。(ただ政府・軍用施設だけは撮影禁止です)


↓聖地カイロワンのグランドモスク(アフリカ最古のモスク)

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さらに物価が安いのも過ごしやすい点です。
1チュニジア・ディナールが現地では、日本の100円感覚なのは10年前とさほど変化していなかったですが、ディナール安と円高という為替相場の関係から、今の1チュニジア・ディナール=36円というのは、とても安く感じます。


チュニジアは、石油資源が少なく、経済的には苦しい状況にあります。しかし、独裁体制からアラブの春と言われるジャスミン革命を経て、民主的な国家運営になり、国民の表情は明るく、平和な生活を楽しんでいるという印象を受けました。


治安の面でも、ジャスミン革命後の混乱期には不安定となり、イスラム原理主義者のテロもあり、観光客が撤退したことがありました。
現在では、警察の取り締まりが厳しくなったことから、治安が非常に良くなり、観光客も復活しています。


気候も温暖で、1月でも日中は15度くらいで、快適でした。花もちらほら咲いていました。

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カルタゴやローマ時代の遺跡をはじめ、イスラム信仰の根拠地となったカイロアンなどの歴史的見どころが多く、最近では映画スターウォーズのロケ地(タトウィン星など)が観光スポットとして注目されています。

イランの絨毯やトルコの貴金属類のような高級品は無いですが、リーズナブルな雑貨が多いので、B級品の買い物が好きな方には最適です。私的には、モロッコより安く感じました。
国が小さいので観光スポット間の移動時間が短いのも利点で、リゾート・避寒地・冬の観光地としても、おススメです。
機会があれば、ぜひ行って見てください。







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2019年 01月 29日 |
Tunisian women !
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Congratulations on winning the The Australian Open Tennis Championships , Naomi OSAKA .

And I hope for Asian Cup victory of the Japanese national soccer team , MORIYASU JAPAN .





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2019年 01月 25日 |

Tunisian men

SMILE !

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Jikai wa jyosei-syasin desu.
Otanosimi ni!

Next time , Tunisian women .
Look forward !



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