模糊の旅人
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2018年 12月 10日 |

LINEトラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「名著を読んで中国遼寧省・大連をめぐる!旧満州玄関口の昔と今」という記事が公開されました。
瀋陽(奉天)の代表的観光スポットを紹介したものですので、ぜひ↓記事をお読みください。




本ブログでも、タイアップ企画として、数回ほど奉天を離れて、大連を紹介することにします。


大連は、ロシア人と日本人が力を入れて造った都会で、港町でもあり、魅力的な町として知られています。


明治以来、多くの文人が大連を旅して文章を書き、そこに暮らした人々は大連を愛し記録を残しました。戦後も多くの大連テーマの書物が刊行され続けています。そうした名著による大連紹介を試みたのが上記の「名著を読んで中国遼寧省・大連をめぐる!旧満州玄関口の昔と今」というトラベルジェイピーの旅行ガイド記事です。

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「ロシア人と、日本人とは、ここに自己流の楽園を築こうとした。」(『大連・旅順はいま』 宇田博)


「大連という都会における、このような矛盾のすべてにもかかわらず、彼は南山麓をはじめとするさまざまな場所を、切ないような苦しさで愛さずにはいられなかった」(『アカシヤの大連』 清岡卓行)


「日本には滅多にない煉瓦づくりの建物や住宅が並び、広場を中心に放射状の道路がひろがり、北海道を除くとあまり日本に見られぬアカシアやポプラの街路樹が植えられ・・・・」(『深い河』 遠藤周作)


↑ 一端を紹介しましたが、このように大連を書いた名著は数え切れません。。。。


私は「なぜ大連がこんなに日本人の心をとらえ続けるのか」という疑問を持っていました。今回、大連を存分に歩き回ってみて、少しその謎が解けたような気がします。確かに、大連は不思議な魅力を持った町でした・・・・


今日は、その大連の中心である中山広場を紹介します。


↓現在の中山広場の航空写真(絵葉書より) この写真はクリックすると横1200ピクセルに拡大されます。

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孫文の号である中山をその名称にした中山広場は、直径およそ200mの大きな円形を成しているが、さらにその外周を幅20数mの道路がめぐっている。そして、その輪状の道路から、今度は放射状に十条の道路が、ほぼ等しい間隔をもって描く方向に発しているのである。(『中山広場』清岡卓行)


↓1920年ころの中山広場(大連賓館こと旧ヤマトホテルの二階のカフェにあった写真を撮影) 当時はビルが無いので奥に海が見えますね・・・

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↑写真中央奥は、旧・横浜正金銀行大連支店。横浜正金銀行は、日本の半官半民の貿易決済・外国為替専門銀行で、後に東京銀行を経て三菱UFJ銀行となりました。


↓現在の横浜正金銀行大連支店の建物、中国銀行遼寧省分行となっています。

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↑3連のバロックドームを持つタイル貼りの美しい建物で中山広場の象徴ともいえます。設計は妻木頼黄と太田毅です。


この中山広場とそこから放射状に発する十条の道路は、かつて確かに日本の管理、資本、技術によって建設されたものであった。用いられた設計はほとんど、ロシアが残していったものであった。その設計に含まれていた主な特徴は、フランスの首都に学んだものであった。(『中山広場』清岡卓行)


ロシア人のパリへのあこがれにより構想された不凍港ダルニーは、日本人によって現実化され、大連と名付けられたのです。


ここは青泥窪という田舎の村でした。それをダルニー(遠大を意味する言葉)と名付けた市長サハロフは、日露戦争の進展に伴い、大連市街をほとんど破壊せず、日本へ引き渡すかのように旅順へと撤退しました。このあたりのサハロフの気持ちを推測して書かれたのが清岡卓行の『サハロフ幻想』です。


サハロフはダルニーを愛しており、日本軍の進駐に際して、愛する街を破壊するに忍びず、旅順要塞司令官ステッセルの破壊命令に反して、形だけ爆破行為を行い、ほぼ無傷のダルニーを日本に譲りました。おそらく、日本軍を押し返し、またダルニー帰ってくるという強い思いがあったのでしょう。しかし、その夢はかなわず、サハロフは旅順で病没しました・・・・



↓旧 大連民政署(大連警察署) 現在は遼寧省対外貿易経済合作庁。

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↑時計塔を持つ建物で、ヨーロッパの市庁舎を参考にした。レンガは大連市内の満州煉瓦会社製、石材は山東省産の薄紅色花崗岩。


↓中山広場に面した旧・ヤマトホテル(現・大連賓館)の一階のテラスから撮影

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↑手前が旧・市役所 奥が旧・東洋拓殖大連支店
 旧・市役所は、真ん中に塔があります。この塔は、京都祇園祭の山車をイメージしたそうです。設計者は関東都督府土木課長の松室重光で、施工は清水建設です。
この建物は戦後、大連市人民政府庁舎として使用され、現在は中国工商銀行大連市分行となっています。


↓戦前の旧・市役所(旧ヤマトホテルの二階のカフェにあった写真を撮影)

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中山広場は、夜はライトアップされます。
以下、夜の中山広場をご覧ください。

↓旧・市役所

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↓旧 英国領事館  

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現在は建替えられてCGB銀行の建物になりましたが、高さは抑えられ中山広場の他の建物と調和しています。

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↓上のほぼ同じ場所からの昼間の写真
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やはり夜の方が綺麗ですね・・・昼間は背後の高層ビルに紛れてしまいがちですが、夜は古い建物だけが照明されて浮き立ちます。

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今日の最後は、与謝野寛・晶子夫妻の大連を詠んだ歌でしめくくります。



与謝野寛・晶子夫妻の大連の歌(『満蒙遊記』より)


 大連のアカシヤの街ただ少しこころを濡らす朝露もがな  寛(鉄幹)

 アカシヤに風の騒げば山の灯もいさり灯のごと心もとなし  晶子






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2018年 12月 03日 |

家族ぐるみで満州に移住した祖父・・・・私の祖父はどんな人物だっかのか?・・・・それが私の知りたい疑問でした。


祖父は戦前に死去しましたので、私は祖父を全く知りません。「飲む打つ買う」は全くしない実直な人間だったと聞いているだけです。
ただ、父のおかげで写真は残されています。

↓実直な雰囲気で写る祖父(父のアルバムより)

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↓祖父が撮影した家族 (ソフトフォーカス処理しました)

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↑後列左から私の祖母、父、曾祖母、叔父、伯父
 前列左から私の叔母たち(つまり祖父の次女、三女、長女)
 この9人の家族は、満州で仲良く暮らしました。



やがて、この満州に移り住んだ一家では、曾祖母がまず亡くなり、ついで祖父が脳溢血で急逝しました。そして、学徒出陣した父の弟(私の叔父)は戦死しました。
9人家族が6人になってしまったわけです。


戦後しばらくして父の家族は苦心惨憺して京都に引揚げ、内地でも苦労したようです。


戦後の家族史は、すべての日本人のそれぞれの個人の歩みの重要な一ページとして、別の物語になるでしょう。
その年月の中で、やがて父は、私の母とめぐりあい、結婚し私が生まれたわけです。(面白いことに父の家族より一世代若い母の家族は、ブラジル移民というのが重要な位置を占めることになります)


したがって今、私が祖父のことを知るのは、父が残した、この満州アルバムしかありません。
そこには、辛い話よりも、家族の楽しい思い出がつづられているのが嬉しいです。


では、祖父は、なぜ満州へ行ったのでしょうか?


日露戦争以降、大正から昭和にかけて、日本のやる気のある若者は満州へ行くというのが大きな夢でした。


----狭い日本で何をする? 男児骨を埋むる天地は支那だ。満蒙だ。(『満鉄外史』菊池寛 原書房 2011.6.16 124頁)


「馬賊の唄」
僕も行くから君も行け
狭い日本に住みあいた
(永清文二『満洲奉天の写真屋物語』ほかの資料より)


このような風潮はあったでしょうが、祖父は真面目な性格であったはず・・・そのような堅物も満州に夢を描いたのだろうか・・?


政府の帝国主義的政策に乗せられたというのは今だから言えますが、当時、真摯に生きようとする日本人は、誰しも満州進出を日本の希望と考えていたのではないでしょうか?

「ロシア人と、日本人とは、ここに自己流の楽園を築こうとした。」(『大連・旅順はいま』宇田博 54頁)


堅実で真面目であったからこそ、政府の言葉を信じ、祖父は日本の国のためと思い、満州へ行ったのではないかというのが私の推測です。



仕事に懸命に取り組んだ祖父は、休みの日には息子たちを連れ、奉天の街を歩き、周辺の自然に親しむ事にも取り組みました。


↓父の絵日記より

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「お父さんに城内に連れて行って貰うのが たのしみだった
 冬は志那靴にゴムバンドをつけて、はき、マントの裏に羊の皮をつけた」


男三人兄弟は、休日はお父さん(私の祖父)にくっついて一緒に過ごしたのです。仲の良い親子でした。


よく行った城内とは、奉天旧市街の中にさらに四角い城壁に囲まれた故宮の一帯で、出店や大道芸人などで賑わっていました。
中国の歴史を学び、庶民の屋台などを見学するのが楽しみだったようです。


↓現在の瀋陽故宮付近

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このあたりは、昔とさほど変わっていないと思います。


また祖父は、特に男の子たちに、自然に親しむ事も教えました。


特に熱心だったのは昆虫採集。


↓父のイラストより

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父は後に、昆虫採集に熱中し、満州で新種の昆虫を発見し日本の学者に標本を送り、自分の名前のついたハゴロモ(セミの近縁種)が図鑑に載ることになります。


奉天のすぐ近くを流れる渾河(コンガ)の河畔は、野鳥や昆虫が多く、日曜日は親子で通ったようです。


↓渾河の採集地の詳細図(何枚も細かい図が残されていますが、そのひとつです)

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渾河といえば、太祖ヌルハチの「瀋陽は形成の地である。西、明国を征し、北、蒙古を征し、南、朝鮮を征するのに絶好の位置である。山岳地帯で木を伐り渾河に流せば財となり、野に猟し河に漁すればたらふく食うことができる」という有名な宣布を思い出します。

やがて、ヌルハチはここに後金国の都を建設し奉天府となづけ、その子ホンタイジは明国を倒し中国に満州民族の国家「清」を打ち立てるのです。



事実、この要衝の地、渾河一帯は、ヌルハチが建国してから約300年後、日露戦争の決戦「奉天会戦」の舞台となります。



児玉は、口述した。
「敵ハ、渾河ノ左岸ニ集結シツツアリ」

             司馬遼太郎『坂の上の雲 四』 文春文庫 268頁



↓父の少しふざけた渾河の詩

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↓父が撮影したコーリャン畑の写真

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祖父自身は野鳥が大好きで、家に野鳥を飼っていました。


↓父のイラストより 当時は野鳥を自由に飼うことが可能でした。

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「二階の小部屋はお父さんによって数十羽の小鳥の室となった
 ノゴマ オガワコマドリ カワリサンコウチョウ トラツグミ マミジロ ウソ 等々
 お父さんは あらゆる鳥を飼った」

上記の祖父が飼った野鳥のうち、私が撮影した最近の鳥をいくつか・・


↓トラツグミ

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↓マミジロ

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↓ウソ

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オガワコマドリ カワリサンコウチョウ は日本内地では珍しい野鳥で私はまだ撮影に成功していません・・・この点は、祖父がうらやましいです。


この祖父の自然志向は、父を通じて、私にも受け継がれています。私も昆虫と野鳥は大好きです(笑)



↓現在の瀋陽の市街と南を流れる渾河(絵葉書より)

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「おい、渾河(コンガ)じゃないか」
鉄橋を渡れば奉天、いや現在は瀋陽とよばれているわたしたちの故郷である。
                         宇田博『落葉の市街図』 42頁








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