模糊の旅人
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松永久秀の再評価のために ~松永久秀は三悪を行っていない~
2020年 08月 14日 |

筆者は20年くらい前から、三好長慶と松永久秀に興味を持って調べていました。ほぼ近畿全域を含む12ケ国を制し、天下人の先駆者となった長慶と久秀に対する評価があまりにも低すぎると感じでいたからです。


特に「悪人」「奸雄」というレッテルの貼られた松永久秀については、江戸時代の俗書によって無理やり造型されたイメージがそのまま流通しており、歴史学者によるまともな研究がされてこなかったのが実情です。

以下、筆者の研究の経緯を述べることで、久秀悪人説を覆す要点を示すことにします。

最初、資料を調べていく中で感じたのは、久秀の悪行とされるものに関して、信頼できる一次資料が全く無いなあということでした。
ほとんど噂や憶測で、江戸時代の中期以降に書かれた根拠のない創作ばかりです。


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↑典型的な悪人顔に描かれた松永久秀(1867年の落合芳幾の俗画)


戦国時代の悪人役を引き受けた松永久秀

久秀は、三悪事=「主家乗っ取り」「将軍弑逆」「大仏殿焼き討ち」の主として知られますが、これは江戸中期に書かれた『常山紀談』により世間に広がった事実無根の逸話です。
さらに、その後、話を面白くするため典型的な悪役として「残虐」「好色」「強欲」「吝嗇」といった全く根拠のない性格も付け加えられていきました。現代(第二次大戦後)でも、平蜘蛛釜に爆薬を仕込んで身体に巻き付けて爆死したという新たな俗説(ほら話)が生まれる始末です。まさに悪人役を一手に引き受けた役者のようです・・


明智光秀の場合は、歴史学者高柳光寿氏が名著『明智光秀』(1958年)で詳細に論述し、江戸時代の俗書や講談でつくられた「いじめられ役」光秀の本能寺の変:怨恨原因説が否定され、まともな光秀像が出来つつあります。


悪人役」松永久秀はどうでしょう?
虚構を前提とするフィクションならまだ許せます。例えば芥川賞作家花村萬月氏が『弾正星』で悪のピカレスクロマンとして久秀が描かれダークヒーローの魅力を輝かせました。これはこれで傑作だと思いますが、これを史実だと誤解する人がいるので困ります。


実際、歴史学者である方々が、まともな検証もせず、久秀の三悪事をそのまま信用して歴史解説書を著しているのは、全くいただけません。このことは、これまで一次資料を精確に検討して、真剣に久秀の実像に迫ろうとする歴史学者がほとんどいなかったことに原因があります。


三好長慶については、1968年に長江正一氏の『三好長慶』という先駆的な著作があり、最近では今谷明氏の『戦国三好一族』が発刊されました。しかし、松永久秀に関する真面目な歴史書はごく最近まで無かったのです。

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↑大仏殿


大仏殿焼き討ちの犯人は松永久秀ではない

そんな状況に一石を投じたのが、藤岡周三氏の『松永久秀の真実』(文芸社、2007年)です。


その本で「(松永)弾正の数多い悪評も、ちょっと見方を変えると、いずれもさしたる根拠のないものであることに気づいた。むしろ、主君・三好長慶に終始変わらぬ忠誠を尽くし、日本の近世城郭建築を創始し、織田信長に先立って、この国に近世の歴史の扉を開いた偉人ではなかったか」(藤岡周三『松永久秀の真実』P265)とあり共鳴しました。


藤岡氏は、大仏殿炎上についても「松永方が放火して焼けたのではなく、罪があるとしても、過失により、大火を招いたものだろう。まして久秀が指示して大仏殿を焼いたということはあり得ない。比叡山延暦寺を焼き討ちし、山内の僧俗を皆殺しにした信長と違って、久秀はどちらかというと、敬虔な日蓮宗の仏教徒であった。京都時代、日蓮宗の寺同士の争いを仲立ちして和解させたこともあった。」(同上書 P42)と書いています。


大仏殿大火は、キリシタン放火説(ルイス・フロイス『日本史』)、わざと大仏殿に陣を置いた三好三人衆側の一部兵による放火説、三好側が誤って火薬に引火させてしまったという説などがあります。藤岡氏の指摘したとおり、久秀に大仏を焼くという意思は無く、百歩譲っても失火でしょう。
確信犯である信長の比暦山焼き討ちとは、全く次元が違うのです。


ただ藤井周三氏は、新聞記者だった人で、あくまで歴史愛好家であって専門の学者ではありません。『松永久秀の真実』は、好事家のマニア本として受け取られ、世間一般の久秀の悪評を覆すまでは至らず、2007年の段階では、歴史学会に影響を及ぼすことはできませんでした。
しかし、一石を投じた功績は大きいです。おかげで、後に天野忠幸氏のような歴史学者が生まれる土壌を作ったのです。私はこの本を読んで、もともと私見として主張していた「久秀三悪無実説」に自信を深めました。

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↑後方の丘上に久秀が心血を注いだ多聞城があった(奈良県庁屋上より)



松永久秀は主家を乗っ取ってはいない

天野忠幸氏については、私は2012年にはじめて知りました。当時は天野氏はまだ有名とは言えない若手研究者でした。


私は2012年春に、堺市の図書館で資料をあさっていた時、出たばかりの『堺市博物館研究報告31』(2012年3月)を手に取ったのです。そこに収録されていたのが「松永久秀を取り巻く人々と堺の文化」(天野忠幸)という論文でした。


私は思わず目を見張りました、こんな研究者がいたのかと驚きました。


この論文では久秀の正当な評価が論述されており、例えば久秀の出世については「松永久秀は、阿波以来の三好氏の譜代家臣ではなく、三好長慶の登用により出世していった。・・・・・久秀自身は、自らを取り立てた長慶個人に対して忠誠を尽くし、その在世中に専横な振舞などはなかった。長慶の死後に三好家から自立するのは、久秀が三好家譜代ではなく、長慶個人による登用という経緯を踏まえれば、当然で、久秀が不忠であるとか節操がないとの評価は当てはまらない。」(天野忠幸「松永久秀を取り巻く人々と堺の文化」P47)


すなわち、久秀は三好長慶に命じられて大和支配を確立していったのですが、長慶が病死してしまいました。すると阿波の三好氏譜代の三好三人衆がクーデターを起こし、外様の久秀の権力を奪うため、長慶が倒そうとしてきた敵:大和旧勢力側の筒井順慶と結託し、久秀を攻めたのです。そこで、久秀は自立しました。久秀は、むしろ亡き主君三好長慶の方針に忠実であったと言えるでしょう。(実際、長慶の後継者三好義継は、最初はやむを得ず三好三人衆側でしたが、後に、久秀こそが三好本宗家に「大忠」であるとして、三人衆を見捨て久秀側に組しました)


天野氏は、論文最後を、「数ある戦国大名の中で、将軍候補の足利氏を擁立せずに、首都京都を支配し室町幕府と戦ったのは、三好長慶と織田信長の二人だけである。その双方から重用された久秀を・・・・様々な要素からも明らかにしていくことは、室町幕府に代わる新たな武家政権の形成過程を検討するうえで、必要な視角であると思われる。」( 同上書 P47)と結んでいます。


私はこれを読んで、天野氏の今後へ向けて久秀研究の決意表明と解釈し、大変嬉しく感じました。
やっと、これで、ちゃんと松永久秀を研究してくれる学者が現れたのです!


そこで私は、天野氏の過去の論文を渉猟し、続く研究をフォローしていくことにしました。
その後、天野氏は私の期待どおり、次々と研究成果を発表していき、三好長慶と松永久秀に関する書籍も以下のように刊行しています。


『三好長慶 - 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』2014年 ミネルヴァ書房
『戦国期三好政権の研究』2015年(増補版) 清文堂出版
『三好長慶 河内飯盛城より天下を制す』共著 2016年 風媒社
『三好一族と織田信長 - 「天下」をめぐる覇権戦争』2016年 戎光祥出版
『松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像』編著 2017年 宮帯出版社
『松永久秀と下剋上 - 室町の身分秩序を覆す』2018年 平凡社


入門書としては『松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像』が良く、詳細な久秀研究書としては『松永久秀と下剋上 - 室町の身分秩序を覆す』が素晴らしいものです。


久秀に関する誤認がまだまだ流通しています。それを修正したいというのが、筆者の願いであり、トラベルJP記事 “松永久秀の足跡をたずねて幻の天空の城へ!奈良「信貴山城」“ を書いた真の目的もそこにあります。その内容や今回のブログ記事については、主に上記の天野忠幸氏の書籍や諸論文を参考にして、筆者独自の解釈や私見を加えて書いています。


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↑松永久秀終焉の地:信貴山城址


松永久秀は信長上洛時には同盟者であった

永禄11年(1568)の信長上洛時の松永久秀について、「信長の勢いを見て茶器を献上して降伏した」とする誤った認識があります。これについては、天野氏は次のように述べています。
「従来、久秀は信長に降伏したとか、名器茶器を信長に献上したことで大和一国を安堵されたと理解されてきた。しかし、これは完全な誤りである。久秀は、義昭や信長にとって敵ではなく、二年前からの味方である。それどころか、久秀は三好三人衆や篠原長房の攻撃を一手に引き受け、その東進を食い止めた。」(天野忠幸『松永久秀と下剋上 - 室町の身分秩序を覆す』P126)

すなわち、久秀は永禄9年の足利義昭の第一次上洛作戦の段階で、畠山秋高・織田信長・武田義統・仁木長頼などと協力して義昭の上洛を実現しようとしていました。しかし、信長の美濃攻略が遅れ、義昭側は、三好三人衆や篠原長房・筒井順によって打ち破られたのです。そこで、義昭は、敦賀に逃れ朝倉義景に庇護を求めました。いっぽう、三好三人衆らは、摂津国の富田で足利義栄を14代将軍とします。

やがて、朝倉義景が動かないので、義昭は、美濃に移り、織田信長・松永久秀・三好義継・畠山秋高・村上武吉・毛利元就らが、三好三人衆側に対する包囲網を作り上げたのです。その近畿での連携作戦の中心は久秀でした。
三好三人衆側は、この包囲網形成と将軍足利義栄の病没(永禄11年9月)により、状況不利を悟り、いったん阿波に退いたのです。

こうして義昭は上洛を果たし、15代将軍となり、久秀は大和一国を領することになりました。この時点では、義昭と信長は、大和で久秀に敵対した筒井順慶を許さず、討伐の対象としました。


俗書にあるように、信長が降伏した久秀を面白い数寄者と見て許したわけではありません。久秀は有力な同盟者だったのです。

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↑信貴山の松永屋敷跡にて



松永久秀は将軍を弑逆していない

いまだに13代将軍足利義輝は、松永久秀に殺されたと思っている人がいます。久秀と三好三人衆が犯人とされているのです。しかし、実際は、永禄の変が起こった時、久秀は京都に出陣すらしておらず、後に久秀を失脚させるために形成された三好三人衆はまだ成立すらしていないのです。

永禄8年5月、三好義継や三好長逸らは約1万の兵を率いて上洛し、将軍足利義輝を討ち取ります。暗殺ではなく白昼堂々の事件(永禄の変)でした。
この事件の理由については諸説ありますが、最も説得力があるのが、三好義継が徳無き足利幕府を倒し三好政権を打ち立てようとしたとする説です。これは、義継が事件後、「義重」から「義継」へ改名して、「義」を通字とする将軍家の地位を継ぐという意思を示したことから、明らかだと思われます。

足利義輝については剣豪将軍などと称揚する向きもありますが、実際の義輝は北畠具教や細川藤孝と同じように塚原卜伝から指導を受けただけで、免許皆伝の事実はありません。永禄の変に際して「名刀をいくつも畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」というのは、江戸時代後期に頼山陽が『日本外史』で創作した「ほら話」です。

また、義輝は、何度も三好長慶の暗殺を謀るも失敗し、何度も京都から追放され、何度も和解するも常に和睦を破り、21年の将軍在任期間のうち京にいたのは6年半だけです。京に基盤のない将軍で、将軍の重要仕事である改元義務も怠っていました。京のほとんどの公家や寺社は、この殺害事件をすぐに受容し、天皇は三好氏を公認する姿勢を示し、大きな騒ぎになっていません。

三好長慶と足利義輝の関係は、後年の織田信長と足利義昭の関係と同じ構図で、足利将軍側が策謀で実力者を倒そうとあがいた足利幕府の末期的症状です。太田牛一は『信長公記』の中で、足利義輝が天下執権の三好氏に御謀反を企てたため先手を打たれた、と解釈しています。

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↑奈良市街を見下ろす多聞城跡(現在は若草中学校の敷地)



松永久秀は足利義昭にとって命の恩人だった

さて、永禄の変当時、松永久秀はすでに家督を子の松永久通に譲っており、前年の三好長慶の病死と自分の妻(広橋保子)の死、そして自分の年齢(58歳)から、本格的に引退するつもりで多聞(山)城に居て茶などに親しんでいました。表向きではなく、実際に、政治の表舞台から退いて、実権を子の久通に与えました。だから、久通は独自判断で三好義継の命に逆らわず、永禄の変に加わったのです。

久秀は、事件を聞くと驚き、引退していられないと悟り行動を起こします。
久秀が仕えた三好長慶は、何度も将軍義輝に裏切られましたが、義輝を殺害しようとはしませんでした。ところが、長慶死後の後継者となった三好義継は、(三好長逸にけしかけられた可能性も大だが)義輝の卑怯なやり方に業を煮やして将軍を殺せばうまく行くという単純な発想で暴走してしまったのです。長慶や久秀は、追放はまだしも、将軍を弑逆してしまっては、逆に各地の戦国大名に上洛の大義名分を与えてしまうという、まっとうな認識を持っていたのです。

そこで久秀は、多聞城すぐ近くの興福寺一条院にいた僧侶:覚慶(後の足利義昭)の身を確保し安全を図りました。久秀は「覚慶を害さない」という誓紙を提出して安心させ、子の松永久通の説得にかかりました。

これは、三好義継らが覚慶の殺害も図る可能性があるので、それを防ぐという目的がひとつ。
次に、前将軍義輝の弟を迎え入れることで、三好家は将軍を尊重するという意思を示すためです。
さらに、すぐに三好幕府ができるわけがなく、いざとなれば、保護した覚慶を擁して傀儡の将軍とすることで、虎視眈々と権力を狙う戦国大名に大義名分を与えないようにする意図があったと思われます。

そして久秀は事態の収拾を図ろうと奔走し、朝廷所有の足利尊氏伝来の御小袖を引き渡してもらい、朝廷が三好家を次の将軍家として許容しているというアピールもします。

後に、久秀は足利義昭の上洛へ向けて、強力な同盟者となります。これは永禄の変の時点で、久秀は義昭にとって命の恩人であり、同盟の障害がなかったからです。

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↑松永久秀墓(供養塔)


松永久秀は悪人どころか善人だった


久秀は、後世、悪人として「残虐」「好色」「強欲」「吝嗇」といった性格を押し付けられ軍記物などの俗書や講談などの悪役となります。もちろん、これらは話を面白くするため創作されたものですが、実際の久秀は、どんな人物だったのでしょうか?

宣教師ルイス・フロイスは、『日本史』で「(久秀は)偉大なまた稀有な天稟をもち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」と書いています。
ルイス・フロイスが豊臣秀吉に関して述べた「醜悪な容貌」「好色」で「尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼を残酷で嫉妬深く不誠実な人物、欺瞞者、虚言者、横着者たらしめた」といった酷評に比べれば、久秀のほうがましな人物に書かれています。

ルイス・フロイスは布教を許した信長を高く評価し、伴天連追放令を出した秀吉に批判的なのは事実で、性格描写も秀吉嫌い・秀吉憎しのバイアスがかかっており、そのまま信用できません。久秀像についても、久秀が敬虔な法華宗の信者であったことから、批判的な記述が多数見られます。法華宗は、宣教師にとってキリスト教を最も敵視している宗派と思われていました。つまり、久秀は配下にキリスト教徒高山右近を生んだとはいえ、その人物評は、実像より悪く辛辣に書かれている可能性が大です。

久秀は政治に関しては稀有な天稟と博識と辣腕を持ち、狡猾とも見える戦略家であったことについては予想どおりです。いっぽう、家庭面では、家族思いで優しい人物であったようです。天野氏は、「病気の母を心配して体調を崩し、妻とは円満で、自分を取り立ててくれた主君や主家に忠節を尽くす善人としての姿が垣間見える」(天野忠幸『松永久秀と下剋上』 P278)と述べています。 

久秀の妻は武家伝奏(武家の奏上を朝廷に取り次ぐ公家)の広橋国光の妹で、一定の政治的影響力を持ち夫:久秀を支えてきましたが、永禄7年に死去しました。久秀は悲しみ、奈良の芸能を一時中止し、葬礼は正覚普通国師:大林宗套によりました。そして、妻の菩提を弔う寺院として、三好長慶が創建し大林宗套が開山した堺の巨大寺院:南宗寺の内に、勝善院を建立しました。

久秀の母は、堺に居住しており、法華宗の世話役であったようです。久秀が法華宗の内紛を調停したことから、堺の多くの僧侶が久秀の母の宿所に御礼したとの記録があります。永禄13年に堺で84歳という長寿を全うしました。法要も堺で行われています。

久秀は、妻や母の菩提を弔う場所として、堺を選んでいます。この理由については、久秀と堺の非常に深いつながりが考えられ、筆者の今後の研究課題です。
また、久秀は堺で茶道を大成した武野紹鴎に師事し、千利休の兄弟子にあたります。茶道の発達していく中で久秀の果たした文化的役割も大きいと思われますが、これも詳しくは判明しておらず検討していきたいと思います。


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松永久秀の再評価へ


以上、主に「久秀三悪無実説」つまり、不当に犯人扱いされてきた松永久秀の名誉回復の一助となるよう、微力ながら要点を論述したつもりです。時系列に従った久秀の詳細な生涯については、天野忠幸氏の著作『松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像』『松永久秀と下剋上 - 室町の身分秩序を覆す』をお読みください。


最近は、徐々に松永久秀の再評価がなされつつあり、さすがに久秀が将軍足利義輝を殺害したとする記述は少なくなって来ました。
金松誠氏の『松永久秀』(戎光祥出版)も、久秀三悪無実説をとっています。

フィクションの世界でも、従来のヒール役のダークヒーロー久秀という類型を脱して、偉人として描く小説も出てきました。それが、今村翔吾氏の第163回直木賞候補作『じんかん』です。これは久秀三悪無実説に基づく、とても良い作品なので、機会があればぜひ読んでください。

TVでは、NHK『歴史秘話ヒストリア』で久秀が取り上げられ、「戦国最強のナンバー2 天下を動かした男 松永久秀」とういう回が放送されました。番組後半には、天野忠幸氏が登場し忠義で徳のある人物という久秀の実像を解説しました。
そして、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも、脇役ながら従来の久秀像とは一味違った演出がなされているようです。コロナ禍の中断があり、今後の展開は不明ですが、光秀像とともに久秀像が刷新される可能性があり楽しみにしています。

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結論

松永久秀の真の再評価のためには、三悪の否定のみならず他の面での積極的な解釈も必要です。

例えば近世城郭史においては、久秀は画期的な試みをなしています。久秀が発明した信貴山城の天守(閣)と、多聞(山)城の多聞櫓は、後に多くの戦国武将が真似をしました。特に信長は、安土城の建築に際し、多聞城の高矢倉を移築するように命じ、多聞城の装飾を担当した太阿弥と狩野氏を用いました。信長は久秀の築城の才を高く評価していたのです。

人材活用の面でも、当時の常識を脱しています。久秀は、足利将軍家にとってはタブーだった南朝の功臣:楠木正成を復権させ、その末裔である書道家:楠木正虎を抜擢採用しました。正虎は久秀の部下として活躍し、後に秀吉の祐筆となり重用されました。

他の久秀の部下としては、高山一族と柳生一族が有名です。摂津国人だった高山友照は久秀に命じられ大和国宇陀郡の沢城を任せられます。永禄6年、大和の僧侶たちが宣教師の追放を領主の松永久秀に依頼すると、久秀は正しく論争させようと場を設けキリスト教側はロレンソ了斎に議論させます。その場で、審査役だった高山友照は感銘を受け、のちに友照は宣教師ヴィレラを沢城に招いて嫡子の右近をはじめとする家族とともに洗礼を受けました。その子:高山右近はキリシタン大名として活躍。後に伴天連追放令が出ると、領地と財産すべてを捨て信仰を貫き、マニラに追放されました。2017年にはローマ教皇により右近は列福され顕彰されています。

柳生宗厳(石舟斎)は、大和の柳生荘の国人で、大和旧勢力の筒井淳昭に征服されるも、雌伏して勢力を保ち、やがて松永久秀が大和征服に乗り出すと、筒井氏を離反して久秀の部下となります。剣術家としても知られ、剣聖上泉伊勢守に師事し、柳生新陰流の祖となります。その後、宗厳は松永久秀の取次(外交官)を務め、一貫して久秀の部下として大活躍しました。久秀没後は豊臣政権に隠田問題から所領没収されます。しかし再び雌伏し、徳川政権下で復権、家康に剣術を教え、五男の宗矩は徳川将軍家兵法指南役となり大名になります。


まだまだ久秀関連の魅力的人物は多くありますが、長くなるのでこのくらいにします。文化人としての面も今後高く評価すべきでしょう。

久秀は無名の土豪から成り上がり、三好本家にとっては外様でしたが、主君三好長慶の信頼は絶大でした。長慶死後は、三好三人衆側が攻めてきたため自立します。
また、大和支配では一貫して筒井順敬などの旧勢力と敵対し、信長の将来性を見抜いて同盟し協力者となり義昭上洛作戦を支援します。その信長が、後に手のひらを返し、大和支配を筒井順慶に与えようとしたことから、信長から離反したのは当然の成り行きでしょう。これは謀反ではなく、信長側の路線変更による同盟破棄です。


久秀は、自らも実力第一主義で、旧来の家格という身分秩序と戦った人でした。秀吉が豊臣に、家康が徳川に、光秀は惟任に、謙信は長尾から上杉に、斎藤義龍は一色にという風に改姓し、戦国の実力者も家格というものから自由になれませんでした。その真っ只中の時代に、名門でもないのに、あえて終生「松永」という姓を変更せず、生き抜いた久秀の姿勢は見事というしかありません。時代の身分秩序なにするものぞと貫いたことは、ある意味、久秀らしい下克上であると筆者は考えます。







<筆者のLINEトラベルJP記事の一覧はこちらをご覧ください>


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by mokonotabibito | 2020-08-14 10:09 | 奈良 | Trackback | Comments(5)
Commented by タクヤ@Takuya at 2020-08-15 11:36 x
コメントいただきまして、ありがとうございました。
以前に松永久秀の再評価を持論にされている郷土史研究家、北村雅昭先生の講演会に参加したことがあり、そのことをブログにアップしたこともあります。
https://ameblo.jp/elephant-dogfight/entry-12543528935.html
再評価された松永久秀像が、これからの主流になっていきそうな気がします。
「戦国の梟雄」として逆にそれが魅力として取られていた久秀像がこれから先どう語られているのか、みどころだと思います。
Commented by PC-otasukeman at 2020-08-15 16:18
ブロ友パソコン相談室のお助けマンです。
いつもご訪問いただきありがとうございます。
コメント欄についてのご提案がありますので、8月15日の相談室の記事をご覧ください。
https://sukettopc.exblog.jp/28199289/
Commented by Lago-7 at 2020-08-16 16:28
筆者は歴史学者ではなく、あくまでも趣味だと言っておられますが、
こうなったらもはや「病膏肓に入る」ですね。
連日の酷暑のなか、一般訪問者がこの論文を通読するだけでも大変でしたが、
勉強だと思って理解だけはしたいと頑張りました。
一心不乱になれるものを持ちうることは、人生の宝ですから、大切にしたいです。

久秀を俗説より解き放ち史的真実に渾身で迫る
Commented at 2020-08-17 08:11
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2020-08-17 14:47
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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