トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「中国遼寧省・瀋陽観光で行きたい!ベストスポット5選」という記事が公開されました。
瀋陽(奉天)の代表的観光スポットを紹介したものですので、ぜひ記事をお読みください。
本ブログでもタイアップして記事を書いております。
今日は、瀋陽(奉天)の第1回目で、プロローグ的な話です。
私の中国東北地方の旅の目的のひとつは、父の足跡を辿ることでした。
誰にでも家族史というものがあり、祖父母や両親の住んだ場所への思いはあるでしょう。私の場合、それは満州です。
今回の旅で、ようやく私は、長年の宿題を終えた気分です。
↓父の残した絵日記アルバム ~父の少年時代がここにあります~
満州は多くの日本人が生活した舞台で150万人以上はいたようです。したがって、父母や祖父母が満州で暮らしたという方は多いと思います。
私の父は、7才のときに、両親に連れられて、実家の京都から満州にやってきました。
大連まで船で来て、大連駅から奉天までは列車で来ました。
↓奉天への列車にて(父の絵日記アルバムの最初のヒトコマ)
始めて洋服を着た 僕は7才であった」
当時の列車は、1等、2等、3等があり、父の家族は2等コンパートメントに乗ったようです。
上のマンガで、帽子を被ってメガネをしているオジサンが祖父で、祖父が手をにぎっているのが父の弟(つまり私の叔父)、祖父の横で窓を見ている後姿が父
左側に描かれているのは、手前が祖母で、その膝に抱かれているのが父の妹(つまり私の叔母)。その向こうが父の兄(つまり私の伯父)、その奥のメガネをした年配の女性が祖父の母(つまり私の曾祖母)
満州に来てから、祖母は二人の女の子を生み、父は6人兄弟の二人目。上三人が男の子、下三人が女の子という家族構成になったわけです。
曾祖母を入れて、総勢9人家族。現在は全て物故者ですが、当時の仲の良い家族が偲ばれます。
↓当時の鉄道地図も貼ってありました。
つまり、父が乗った列車は営口の一つ手前の大石橋で北へ曲がり、遼陽や蘇家屯を経て、奉天に着いたのでしょう。
↓現代の高速鉄道から見る大連~瀋陽(奉天)の間の車窓風景
↓父の絵日記より
↓当時の奉天駅(絵葉書より)
父が奉天で過ごしたのは昭和ですが、まだ馬車が多くあったことが分かります。というか、今のタクシーの役割を馬車が果たしていたようです。
それよりだいぶ前、明治42年(1909年)に、親友で満鉄総裁だった中村是公に招待された夏目漱石は、胃痛に悩まされながら満州を旅し、奉天にもやってきました。
漱石には、馬車が激しく行き交う奉天の街は驚きだったのです。↓は奉天駅から宿へ馬車に乗った漱石の感想です・・・
「・・・奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ騾馬を六頭もつけた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに無人の境を行くがごとく飛ばしてみせる。我々のような平和を愛する輩(ともがら)はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。」(『満韓ところどころ』 夏目漱石全集7 ちくま文庫 545頁)
今は昔、時代は変わりました。現在の瀋陽駅前は馬車の馬もなく、クルマが激しく行き交う、せわしない都会の駅です・・・・
↓現在の瀋陽駅(旧・奉天駅)
↓そして父たちは、用意された家に落ち着きます。
満鉄の管理職として奉天に赴任した祖父は、当然ながら奉天で日本人のために開発された満鉄付属地の家に住みました。
当時の八幡町ということで、私はそこを訪ねてみました。
父のイラストによると、のどかな新しい住宅街という感じですが、現在は・・・
↓父が住んだ家の番地付近は、今はビルが立て込んだ大都会の一画になっていました。
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汽車の二等車とは懐かしいです。
日本でも昔は一等車・二等車・三等車とあり、
窓の下に一等車に白いライン、二等車に青いライン、
三等車に赤いラインが入っていました。
三等車は今の普通車で、二等車は今のグリーン車です。
一等車は見たことがなく、展望車だったそうです。
ポチ♪
何よりも戦火を免れて手元に残っていた父上の絵日記アルバムや書簡類が、
この旅の意味合いを一層深くしているように思えます。
読むほどに、直接関係のない読者の心にもとても響くものを秘めています。
絵日記がとりわけ興深く面白い。
今後の展開を期待しています。
満州に父祖の過ごせし跡尋ね在りし日偲ぶ無上の旅よ