模糊の旅人
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旅行ガイド記事公開 と 海外旅 のお知らせ ~邪馬台国のロマンを求めて~
2018年 10月 15日 |

トラベルジェイピーの旅行ガイドで、私の「日本の夜明けだ!邪馬台国のロマンを求めて奈良・オオヤマト古墳群を歩こう」という記事が公開されました。
いわゆる三輪王朝といわれる日本最初の統一政権が出現した古墳群を歩く記事です。ここを、邪馬台国の中心地とする説が有力になりつつあり、まさに日本の夜明けを告げる地域ですので、ぜひお読みください。





本ブログでもタイアップしてオオヤマト古墳群の記事を書いていきます。
ただ、上のトラベルジェイピーの記事は、旅行ガイド記事ですので、歩く順番に紹介していますが、本ブログでは造営順(時代順)にたどり、私の邪馬台国から大和朝廷への被葬者比定説を述べます。


なお、間に旅行記事を挟みますので、断続的な記事展開となりますので、ご承知おきください。


まずは、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳です。

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奈良盆地の東南部、現在の桜井市から天理市にまたがる一帯は、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」と歌われた古代日本の夜明けを告げる場所です。

このヤマトの中のヤマトとされる一帯は、古来よりヤマトと呼ばれており、大和=オオヤマト古墳群地域とされます。
古墳群の定義は学者により異なりますが、邪馬台国から初期大和朝廷への発展を一体と考え、奈良盆地東南部の古墳全体をまとめてオオヤマト古墳群として捉える白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の学説を私は支持します。


このオオヤマト古墳群で巨大前方後円墳が誕生しました。すなわち、日本で最も古い巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、卑弥呼の墓の可能性が最も高いのです。


箸墓古墳の航空写真は、こちら の記事の最初の写真をご覧ください。とても美しい形をした前方後円墳であることが分かります。


↓箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の拝所 西側にあります。

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もしかすると卑弥呼が葬られているわけですから、箸墓古墳の前に立つと胸が高まります。ここはまさに古代史ファンの聖地です。


東側に回って、箸墓古墳を一周します。北側以外は濠はなく、地面から直接古墳が立ち上がっています。

ただし、奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の調査では、幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性が高いとされています。

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北側には「卑弥呼の庭」というカフェもできていました。
北側の池は、「箸中大池」として日本ため池百選にも選ばれています。

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箸墓古墳は、墳丘長278mの出現期古墳中の最古の巨大墓で、三世紀後半の築造と考えられます。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とする有力な学説があります。宮内庁の正式名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。日本書紀には「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。」と書かれています。このヤマトトトモモソソヒメは、孝霊天皇の皇女で、三輪山の神と婚姻した伝説的な巫女とされ、祟神天皇は巫女であるヤマトトトモモソソヒメの神託を聞いて政治を行なったとあります。


この古墳は、邪馬台国の女王:卑弥呼の墓である可能性が非常に高いと考えます。
根拠については、以前書いた記事を、下の More に再々掲してみましたので、ご興味のある方は More をクリックしてお読みください。

なお、私は白石太一郎近つ飛鳥博物館名誉館長の講義や講演を何度も聞きに行っています。館長の主張は一貫していますので、箸墓古墳の被葬者に関して述べられている部分を以下に引用しておきます。

倭国王墓として最初の箸墓古墳は、大型前方後円墳としては最古のもので、3世紀中葉に遡る。その被葬者の候補として卑弥呼以外の人物を考えるのは難しい」(白石太一郎講演レジメ「邪馬台国連合から初期ヤマト王権へ」より抜粋)



箸墓古墳から北へ巻向駅の方へ歩くと、邪馬台国の宮殿跡ではないかとされる纏向遺跡があります。弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地として、現在も発掘調査が進められています。

この遺跡を邪馬台国の首都に比定する説が有力になりつつあります。王宮的な建物跡が発掘され、話題となりました。

最近は、桃のタネ約2000個以上が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようで、炭素年代測定法の計測により西暦135~230年のものであるという研究発表があり、邪馬台国の時代に整合します。

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↑航空写真をご覧ください。奥にある山が聖地:三輪山、右端の大きな古墳が箸墓古墳、左端の団地の右上にある空地が纏向遺跡の中心です。この位置関係が重要で、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。







さて、中国東北地方いわゆる旧・満州の地へ旅に出ることになりました。
関空の台風被害で一度中止した旅ですが、関空が復旧しましたので再チャレンジすることにしました。


10月上旬は非常に多忙でしたので、10月中旬の出発となりました。目的のひとつであるレッドビーチの取材は、一ケ月遅れましたので、もう枯れてしまっているかも知れません。


ただ、どうしても今年に行きたいという思いがあり、挙行することにしたものです。


もうひとつの目的である、私自身の祖父が満鉄社員として赴任し家族(私の父や祖母・伯父・叔母など)とともに住んだ地を見るということは、果たせそうです。


無理したせいか、風邪気味で体調が思わしくないのですが、もうこれ以上順延はできませんので、頑張って行ってきます。


それに伴い、ブログの更新も二週間ほど休ませていただきます。


次のブログ更新は、10月の月末頃になります。
それでは、皆さん、しばらくのあいだ、ごきげんよう!





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More  箸墓古墳は卑弥呼の墓である


以下の記事は、基本を20年くらい前に某誌に書いたものです。考え方は全く変わっておらず、その後も邪馬台国畿内説を補強する科学的証拠が次々に上がっています。
それについては、一番下の<再・追記 2018.5.15>、<再々・追記 2018.10.14>に記しております。


考古学的な実証がなされていくのは非常に嬉しく感じます。40年前から邪馬台国畿内説で箸墓古墳が卑弥呼の墓であると考え、長く研究してきた私にとっては、とても感慨があります。報われた感があります。
ということで、以下の記事をぜひお読みください。


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古代史ミステリーというのも非常に面白いテーマですね。
私は、遺跡が結構好きなのと、古墳が身近に見られるので、機会があれば古代史スポットを歩き回り我流で調査研究し、いろいろ関連本を読んで来ました。

中でも邪馬台国論争というのは興味深く、若き日から何十冊、本を読んだか分かりません。
ただ、どの論者も、論理の飛躍が大きくて、なかなか説得力に欠けるというのが、正直な感想でした。特に歴史文献系だけからアプローチする方の論法は、実証性が乏しく、想像に想像を重ねる手法で妄想の類と思われるものもありました。あまり悪口は言いたくないので、具体的な指摘は避けますが、百家争鳴の割には、成果があまりないというのが実情でしょう。

九州説の場合、ヤマトという発音の女王国を無理やり創作せねばならないのと、魏志倭人伝の里程の解釈を自分の場所に持って行くため苦しい説明を何度も積み重ねることになります。さらに大和朝廷への移行を説明する必要もあり、神武東征伝説をからめたトンデモ本がたくさん出版されています。邪馬台国は幻想的神話フィクションでもなければ町おこしのためにあるのではありません。あくまで、歴史的な考証と考古学的な証拠を積み重ねて実証していく合理的で科学的な世界にあるものです。

何より、わずか二~三日でたどり着ける北九州圏内に、邪馬台国があったということはあり得ません。連続式読み方であろうが放射式読み方であろうが「水行10日、陸行1月」という距離感と完全に矛盾します。
沖縄説や南九州説は、フィクションとしては面白いですが、考古学的には全く成り立ちません。

纏向遺跡の発掘や、年輪年代測定法や炭素年代法などの考古学の科学的な研究が進み、現在の日本の考古学の学会では、95%以上が邪馬台国大和説になっています。歴史愛好家には今でも九州説がありますが、それも箸墓の古さを認めざるを得ず、よくあるのは、魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあって、台与の時に大和に東征してきて箸墓を造って台与が葬られたとするものです。倭人伝を二つに分断するアクロバチックなこの解釈は、考古学的証拠が全く無く認められません。

このあたり、歴史学の立場からの最新で妥当な本としては、塚口義信氏の『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』(原書房、2016)が、考古学の立場からは、白石太一郎氏の『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎、2013)があります。
どちらも非常にオーソドックスな考え方で、意外性はありませんが、もし詳しく研究される場合は、まずこれらの書籍をお読みください。

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私は、以前から、古墳の考古学的な実証と分析の手法により、年代順序を確定させていけば、必ず卑弥呼の墓の確定も可能だと思っていました。

その点から見て、考古学的見地をもとに論じられた著作として、まず私が一番分かりやすいと思うのが、近つ飛鳥博物館長である白石太一郎氏の『古墳とヤマト政権』(文春新書、1999年)です。

ここでは、古墳の歴史が考古学的分析の成果をもとに、見事に整理されており、非常に分かりやすく説明されています。なにより、論理が一貫しており、常識的ですが非常に信頼性があります。白石氏の著作は多々ありますが、この本が一番読みやすいです。

ここで問題の三世紀中ごろの古墳の発生期から、四世紀中ごろにかけての巨大古墳がつぎのように造営順が整理されています。

(1)箸墓古墳(現倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行灯山古墳(現祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現景行天皇陵)


重要なことは、これらの初期巨大古墳は、いずれも奈良盆地東南部、すなわち本来の「やまと」に営まれたことです。

そして、(1)の箸墓古墳については、「巨大な出現期の前方後円墳の被葬者が三輪山の神に仕える巫女であると伝えられていることは、きわめて興味深い。」と書かれています。
この、出現期の巨大古墳を生み出した政治秩序は、その後のヤマト政権の政治秩序そのものにほかならないとされています。

そして、箸墓古墳の築造年代を260年ごろとして、「箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は決して少なくない」と結論づけられています。

2009年5月30日に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授らの研究成果が報告されました(炭素年代法による)。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。
白石太一郎氏の説が大きく補強され、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性は、さらに高まったといえるでしょう。


すなわち、考古学的には、最近の三角縁神獣鏡の詳細な編年研究や、出現期古墳の分布研究の進展により、三世紀中頃には、畿内のヤマトを中心とする西日本一帯に、広域の政治連合が成立していたことは疑いないことです。これは魏志倭人伝の邪馬台国の記述とも整合します。


こうした考古学の成果に基づき、白石太一郎氏は「三世紀前半から中葉の邪馬台国は、その直後に箸墓古墳など隔絶した規模の前方後円墳の営まれる近畿の大和にあったと考えるほかないというのが、私の結論である。」(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、敬文社、209頁)と書いておられます。


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↑出現期の古墳の分布を見れば、邪馬台国連合の中心地が畿内にあったことが一目瞭然です。北九州から瀬戸内海を通って大和に至る道=勢力範囲は、魏志倭人伝の記述と整合します。


魏の王から下賜され卑弥呼に送られた鏡については諸説ありますが、その疑いのない景初三年・正始元年の紀年銘鏡は、北九州からは一面も出土していません。このあたりの魏の鏡の分布は近畿を中心としており、ここから各地に配られたことを示しています。

魏鏡全体は多く出土していますが、これが中国製であろうが日本で複製されたものであろうが、それらが畿内を中心として分布していることが重要です。私見では、福永伸哉教授の中国製説を支持しますが、それについては こちら
また三角縁神獣鏡が中国で発見されていないことを根拠とする複製説がありましたが、その後、中国の洛陽でも三角縁神獣鏡が発見されました。(また、その後、三角縁神獣鏡が中国製であることが成分分析により判明。それについては一番下の追記を参照してください)

卑弥呼に送られた魏の鏡の本体が、畿内を中心に大量に分布するということは、中国の歴史書の明確な実証であり、卑弥呼とヤマトは完全につながったのです。

そして決定的なのが、三角縁神獣鏡は、箸墓古墳直前の墳丘墓であるホケノ山古墳には全く見られず、箸墓古墳直後の黒塚古墳から大量に副葬されるようになるという厳然たる事実です。最初の大古墳:箸墓がキーポイントなのです。箸墓の主にはじめて送られたからこそ、そこから魏の鏡の副葬がはじまるのです。
どんなアクロバチックな理屈を展開しようが、邪馬台国畿内説以外には、この事態を説明できません。


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以下、独断的な私見です。

奈良平野の中でも本来は、東南部だけを、ヤマトと言いました。佐紀古墳群のある奈良平野北部でもなく、馬見古墳群のある奈良平野西部でもなく、一番古い古墳がある地域をヤマトと言うのです! 一番古い伝承と時代的にピタリと合う遺跡のある地域がヤマトで、魏志倭人伝の邪馬台国(ヤマト-こく)と音が同一なのは偶然の一致でしょうか? こんな偶然はあり得ません。


邪馬台国の終わり頃の時代に、「やまと」の地域に巨大古墳が出現した事実は、誰も否定することはできません。
中でも最も古い箸墓古墳は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)とされており、伝承・巫女的な、「やまとのひめみこ様」ともいうべき女性が葬られていることからも、卑弥呼の墓である蓋然性が高いと思います。

邪馬台国の呼び名は「やまと(こく)」=記紀の書き方では山跡・野麻登・夜麻苔など、8世紀以降の呼び方で大和国であるのは間違いありません。

では、卑弥呼の呼び方と意味は本来なんでしょうか。考えられるのは「姫」か「巫女」か「日御子」でしょう。1975年公開され国宝となった籠神社の古系図によると、「日女命」が登場し「またの名を倭迹迹日百襲姫命」「またの名を神大市姫命」「日神ともいう」とあります。太陽神のような意味も伺える記述ですが、倭迹迹日百襲姫命がヒノミコ=ヒミコとも呼ばれるという記述は非常に興味深いものです。


普通に考えればよいのです。本来の「やまと」は、現在の奈良平野の東南部付近の本大和=オオヤマトとされる地域です。三輪山という神聖な山のふもと一帯でもあります。
まさに、全国からの土器などが発見され、邪馬台国の王都所在地ではないかと注目される纏向遺跡の存在する一帯であり、考古学的なデータとも全く矛盾しません。

そこに、三世紀中旬、他を圧する巨大な古墳が突如出現したのです。それが、箸墓古墳です。しかも、その被葬者は伝説的な巫女とされているのです。こんな偶然があるでしょうか?
この箸墓の直後に造営された黒塚古墳以降、卑弥呼に魏帝がら贈られた鏡と思われる魏の三角縁神獣鏡の副葬がはじまっているのです!(残念ながら、箸墓や西殿塚古墳は陵墓参考地のため本格的発掘はできません)

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纏向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していることや他の考古学的証拠から、箸墓古墳は、弥生時代の墳丘墓が、飛躍的に巨大化したものであることが確かめられました。
また、その後つくられる他の天皇陵クラスの古墳は三段築成が多いのに、箸墓古墳だけは、なんと五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)なのです!

被葬者の格付けという意味からも、三世紀中頃に、神格的ともいうべき、ものすごい古墳が突然つくられたのです。被葬者として考えられるのは、卑弥呼以外にないでしょう。私は、箸墓古墳こそ卑弥呼の墓であると確信しています。

広域の政治連合の最初の盟主であり、神格的な存在であった卑弥呼の墓を契機として、これ以降、大王級の首長は大きな古墳を造営することになります。
ここから、いわゆる、巨大古墳の時代がはじまるのです。

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なお、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」という『魏志倭人伝』の記述に整合しています。

『日本書紀』では、箸墓が「日也人作、夜也神作」と書かれています。すなわち「昼は人が作り、夜は神が作る。大坂山の石を墓に至るまで人民あいつぎて、手渡しにて運ぶ」時の人歌して曰く「大坂に継ぎ登れる石群を手ごしに越さば越しかてむかも」。多くの人々が力を合わせて石を運んだ様子がうかがえます。巨大さと畏敬が感じられる表現です。『日本書紀』で墳墓についてこのように詳しく書かれた人物は他にいません。

単なる一巫女のためにこのような墓(日本で最初の巨大前方後円墳)をつくるでしょうか? 偉大な巫女であるとともに、最初期のヤマト政権を指導した女王的存在であったからこその記述でしょう。
いわゆる三輪山伝説として。倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神である大物主神との神婚伝説も書かれており、畏怖すべき神秘的な存在として記憶されていたのは確かです。



卑弥呼の死後、男王を立てたが治まらず、卑弥呼の親族で13歳の少女だった台与(壹與)が立てられたことになっています。

この台与の墓としては、箸墓古墳につぐ古さで大王級の古墳とされる、(2)西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)があります。編年的にも、この西殿塚古墳は、3世紀末に造営された可能性が最も高く、まさに台与の時代と合います。

『晋書』起居註に秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、この女王が台与と考えられます。
上の古墳の編年図を見てください。卑弥呼の箸墓が、240~260年頃になりますので、266年に朝貢している台与の墓は280~300年あたりが適切でしょう。そうなると、その時期の巨大古墳は西殿塚古墳しかないことが分かりますね。ということで、私は西殿塚古墳こそ台与の墓であると考えます。

西殿塚古墳の特徴は、前方部と後円部の両方に方形壇があることです。白石太一郎氏は、これを「一方が台与を、他方がその男性キョウダイの政治的、軍事的な執政王を葬ったものではなかろうか」(『古墳から見た倭国の形成と展開』174頁)と述べておられます。

↓西殿塚古墳の二つの方形壇の模式図

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さて、男王としてヤマト政権の初期大王となったのが崇神天皇と考えられます。

倭迹迹日百襲姫命が登場する有名な「三輪山伝説」は、『日本書紀』崇神天皇10年の条にあるのです!
祟神天皇が巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて政事(まつりごと)を行なっているという記述もあり、女性の巫女が神託を示し、男が政務を司る関係は、魏志倭人伝の女王と男弟の関係と似ています。これは当時の王権の政治手法のあり方を示しています。

倭迹迹日百襲姫命は、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹であるとされており、この点からも、倭迹迹日百襲姫命として卑弥呼が伝承された可能性が高いと考えます。

また、崇神天皇の皇女に豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)があり、天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った初代斎宮とされています。天照大神には、先代の偉大な女王であった卑弥呼の性格が反映されているとも考えられ、それを祀った初代斎宮が台与であるのは説得力があります。

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実際に、この台与と崇神天皇の距離がどうなのか? そこが課題です。上記の、古墳造営順でも、台与の墓と思われる(2)西殿塚古墳から(3)外山茶臼山古墳、(4)メスリ山古墳 という大王級の墳墓を経てから、祟神天皇陵に比定される(5)行灯山古墳(現祟神天皇陵)が出現します。もし行灯山古墳=崇神大王墓なら、台与の後、二代の大王か準大王クラスの指導者(女王か男弟か男王か王族は不明)がいたことを示しています。ただ、この二人については、大王か準大王級というだけで詳しくは分かりませんし。

私見では、(3)外山茶臼山古墳、(4)メスリ山古墳の両古墳の被葬者は、考古学的遺物に武器が多いことから男性の可能性が高いのと、古墳の場所から推理して、邪馬台国=最初期大和政権を支えた準大王級の王族将軍の墓だと考えます。その候補としては、崇神大王の叔父とその子とされるオホビコ(大毘古命または大彦命)とタケヌナカハワケ(建沼河別または武淳川別)が最有力です。二人は重要王族(崇神天皇の皇后の父と兄で、垂仁天皇の外戚)で英雄的な四道将軍でもありランク的には準大王です。

稲荷山古墳で発見された鉄剣の銘に「意富比危=オホヒコ」が記されていることから、少なくとも四道将軍オホビコのモデルとなった人物の実在性は非常に高いと考えます。

また、二人は阿倍氏の祖とされており、現・桜井市市谷に、オホヒコ(大彦命)の後裔である伊波我加利命を祭神とする若桜神社があるなど、メスリ山古墳などがあるこの一帯の磐余の地が阿倍氏の元々の本貫地であると考えられます。

これで、(1)箸墓古墳=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼の墓、(2)西殿塚古墳=豊鍬入姫命=台与、(3)外山茶臼山古墳=オホビコ、(4)メスリ山古墳=タケヌナカハワケ と比定してきました。


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問題は崇神大王墓です。これまで、治定どおり(5)行灯山古墳がそれであるとしてきたのですが、再検討すべきでしょう。上で書いたように(3)外山茶臼山古墳=オホビコ、(4)メスリ山古墳=タケヌナカハワケ とすれば、崇神大王と同時代の人物たちですので、台与と崇神の間は(二代の大王をはさむ必要はなくなるので)近づき、同時代人同士であっても構わないことになります。

西殿塚古墳については、その二つの方形壇のうちのひとつに台与が葬られている可能性が高いと述べましたが、もう一人の被葬者は誰でしょうか?
もし、これが崇神大王なら、(5)行灯山古墳は垂仁天皇にあたる大王となり、(6)渋谷向山古墳は景行天皇にあたる大王になり、ある意味、系譜的にはもれなく整合します。そこで、私は、台与と崇神大王は、西殿塚古墳に埋葬されていると思います。これは西川寿勝氏の説でもあることを後に知り、勇気づけられました(『邪馬台国―唐古・鍵遺跡からは箸墓古墳へ―』 P172)


そうすると、崇神大王が台与との聖俗二元的統治者のうちの俗を担当する者であったことになります。台与が女王として立てられた時、わずか13才であったのですから、崇神はその父の可能性があります。そうなると台与は記紀の崇神の系譜から、娘の豊鍬入姫命でピッタリです。(このあたりは、崇神が台与の兄弟であった可能性もあり、記紀が豊鍬入姫命を崇神の娘として加工したのかも知れません)


崇神は、台与との共同統治の中で、徐々に権力を強くし、台与に卑弥呼を祀る斎宮的役割を担わせたのではないでしょうか。崇神共同王が大王へ、すなわち、共立された巫女的女王国からの男王中心の政権へと脱皮を図りはじめたのです。オホビコらの強力な四道将軍を各地に遣わし支配体制を固め、連合的体質から強権的大王体制へ変化させ、かつて台与が立てられた時のように「男王を立つも国中服さず」という事態が起こらないようにしたのです。

先代の卑弥呼は、鬼道=呪術的性格の女性を中心として男弟が補佐する、女性優位の聖俗二元的な支配体制の指導者です。これが、台与と崇神の共治の中で、聖俗二元的な支配の体制でありながら、男性優位へと変化して行ったと推測します。

すなわち崇神大王によって、共立された女王の時代から、男系大王による血筋の継承の時代へと変化したと思われます。ここからは世襲になるので王朝と呼べるわけです。崇神王朝あるいは三輪政権とも呼ばれる時代の幕開けです。

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崇神の最初の大王としての業績と血筋が重視され、後世には、御肇國天皇=ハツクニシラススメラミコト(はじめて国をつくった天皇)と呼ばれることとなります。そこでは、箸墓古墳が一番最初のヤマト王権の偉大な女王の王墓であっては困ります。
そこで、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命として(崇神の大叔母として)崇神天皇10年の条の中で、より軽く加工されます。はじめて巨大墓を造営した伝承と箸墓という証拠は残っていますので、三輪山の神婚伝説という形で、似て非なる新たな意味付けがなされ囲い込まれたのです。

特に後世の権力者や記紀の制作者にとっては、父子直系主義による皇統の統治を日本の起源としなければなりません。そのためには、女王制やヒメ・ヒコ制(兄妹・姉弟による首長制の組織)が天皇制の前史である事実を認めるわけにはいかなかったのです。
実際の崇神統治時は、男性優位ながら共治ですので、崇神と台与は、西殿塚古墳の二つの方形壇に葬られたのでしょう。しかし、記紀の記述の際には、その事は伏せられ、より男系直系支配が強調された形でハツクニシラススメラミコト崇神天皇の巻が書かれたのです。

ただし、女性が巫女的指導者として光り輝いたという大きな伝承は残っているので、あくまで巨視的な意味においてですが、天照大神の神話伝説に反映したと愚考します。そして、卑弥呼は換骨奪胎され神話的女王様になり、畏怖され祀られる形で、祟りを避けられ、斎宮に祈られ、神社の祭神となって抽象的存在となっていきます。

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伊勢神宮の祭神が内宮の天照大神と外宮の豊受大神(トヨウケノオオカミ)という二人の女神というのは意味深です。トヨ=台与という言葉が冠されるのは偶然でしょうか?

↓豊受大神を祖神とする伊勢の外宮

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『日本書紀』によると、崇神天皇は宮中に祀られていた天照大神の勢いを恐れ、外部に祀るべく、娘の豊鋤入姫命に命じて笠縫邑に天照大神を祀り、檜原神社(現・大神神社付近で三輪山と箸墓古墳を望める場所です!)を建てました。その後、崇神天皇の孫たる倭姫命が豊鋤入姫命の後を継いで、大神の御杖として日本各地(いわゆる元伊勢)を点々として、最後に伊勢に至ったとされています。

つまり、天照大神は宮中で祀られていたのですが、霊威が強すぎるということで、鎮座すべき地を探し回り、いろいろ苦労して外に出されてしまったわけです。でも考えてみれば、当時でもはるか昔で天皇家自身の祖神とされる神話上の天照大神を、なぜ天皇がそんなに恐れたのでしょうか?

私見では、直前に天皇制の前史として輝いた卑弥呼という偉大な巫女的女王の威光がまだ残っているからこそ、女神として外部に祭り、あがめ奉り、魂を鎮め、祟りを避けようとしたのだと考えます。
崇神の娘または姉妹である台与(=豊鋤入姫命)なら、コントロールできます。崇神にとって、先代の女王であり大叔母(または叔母)の偉大な巫女であった卑弥呼(=倭迹迹日百襲姫命)は、その統治手法を崇神が男性優位へと塗り替えてしまっただけに後ろめたさがあり、死しても恐ろしかったのです。強力なシャーマンだった卑弥呼の記憶は大王とて怖いものです。心理学的にいうと、崇神天皇のサバイバーズ・ギルトと言えるかも知れませんね。

私の結論は、卑弥呼の箸墓として証拠が残る三輪山の巫女という部分は倭迹迹日百襲姫命として囲い込まれ、他のヤマト政権最初の偉大な女王として輝いた部分は宮中から出され伊勢で祀られる天照大神へと昇華されたということです。


祟神天皇は、御間城入彦(みまきいりひこ)、又、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)、と称えられ、ヤマト政権の最初期に君臨した大王です。そして、考古学的に比定される古墳があることから、現代の日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇であり、いわゆる三輪王朝の大王として、その周辺には、卑弥呼や台与に比定可能な女性もいます。

さらに、四道将軍として活躍し古墳の被葬者と思われる準大王クラスの王族も記載されるなど、日本書紀において崇神天皇からは一挙に詳しくなり内容が充実するわけです。祟神天皇の巻にはいろいろ詰め込まれており、その内容との整合性を持たせる形で孝霊・孝元・開化天皇の巻が後から書かれたものです(欠史八代が最終編纂期の書き加えであることについては『解析「日本書紀」』相原精次、彩流社、2017、49頁 を参照)。

歴史学の主流の認識でもありますが、史実が含まれた、本当の記紀のはじまりは崇神天皇の記述の部分(日本書紀なら巻五)からと考えられます。ということで、祟神天皇の巻は、限りなく興味深いですね。

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<再・追記 2018.5.15>
新聞報道によると、纏向遺跡で発見された桃の種を放射性炭素(C14)年代測定法で調査したしたところ西暦135~230年のものであることが判明したとのこと。桃の種は神託などに使われた古代祭祀の供物と考えられ、魏志倭人伝に鬼道を行なったとされる卑弥呼に相応しいものです。

名古屋大と徳島県埋蔵文化センターの二カ所で測定され同結果ということで極めて信頼性が高いそうです。

桜井市纏向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査結果とも合致する」と話しています。
邪馬台国畿内説を補強する新たな科学的証拠が見つかったといえるでしょう。



<再々・追記 2018.10.14>
天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から出土した33面の三角縁神獣鏡について、京都市の泉屋博古館が大型放射光施設「スプリング8」で蛍光X線分析したところ、鏡に含まれる銀などの微量元素の割合が、古代中国鏡とほぼ一致することが判明しました。

これで、箸墓古墳の直後に築かれたとされる黒塚古墳の三角縁神獣鏡が、中国からもたらされたものであることがほぼ確定しました。福永伸哉教授の三角縁神獣鏡の中国製説が別の面からも科学的に証明されたと言えるでしょう。邪馬台国畿内説のさらなる大きな証拠です。

このことは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡が、魏から卑弥呼に贈られた鏡であり、その鏡が黒塚古墳の被葬者に下賜されことを示しています。

私が個人的に白石太一郎先生に、この泉屋博古館の蛍光X線分析について質問したところ、「従来から三角縁神獣鏡の編年研究により、黒塚古墳のものは中国製であると考えてきました。このことが、別の科学的手法により実証されたことは、大変ありがたいことです。」との回答をいただきました。


なお、私見では、黒塚古墳の三角縁神獣鏡は葬儀の際に与えられたと考えます。三角縁神獣鏡は、黒塚古墳の割竹形大型木棺の北半分を取り囲むように棺内部に向けてずらりと並べられており、これはおそらく呪術的な意味があると思われます。(霊を封じ込める?)
いっぽう、被葬者が日常使っていた画文帯神獣鏡一枚は遺体の頭の部分近くに埋葬されたのです。

黒塚古墳は箸墓古墳の直後に築かれたものですから、被葬者は卑弥呼に近い人物でしょう。また、これだけ多くの三角縁神獣鏡がある結構大きな中型前方後円墳なのですから、重要な人物であることは間違いありません。

私見を述べると、被葬者は、魏志倭人伝に書かれた、卑弥呼を補佐する男弟(若い男性)ではないでしょうか?
つまり、黒塚古墳の被葬者は、崇神天皇の前の世代の男の執政王であると考えます。




by mokonotabibito | 2018-10-15 08:45 | 奈良 | Trackback | Comments(4)
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Commented by engel777engel at 2018-10-15 18:18
いってらっしゃい。。お元気で!!!

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Commented by Lago at 2018-10-15 23:09 x
古墳探求もいよいよ佳境に入ってきましたね。
今夜のニュースで、仁徳陵の官民共同の発掘研究がいよいよ始まると報じていましたね。
世界遺産のこともあり、古墳がにわかにクローズアップされてきました。

さて、ようやく海外の旅に出掛けられるようになったとのこと、収穫を期待いたしております。
お体に気をつけて、無理はなさいませぬよう、旅の安全をお祈りいたしております。

卑弥呼眠る古墳か否か謎秘めし緑の島はロマンの宝庫
Commented at 2018-10-17 08:21
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2018-10-24 22:39
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