近鉄南大阪線土師ノ里駅の南西側に巨大な古墳が横たわっています。仲姫命陵古墳(仲津山古墳、仲ツ山古墳)です。水の無い濠越しに盛り上がった巨大な墳丘が間近に見られる、存在感が半端ない古墳です。
駅に近いことから、現在は住宅に取り囲まれていますが、古墳の周囲には細い道があり、森の縁を歩くような感じで周遊できます。おすすめは、南東側の古墳周回路をたどり、前方部の拝所に至るコースです。
このあたりは、河内の国府台地の最高地点ですので、わざわざここを選んで築かれた超巨大な陵墓は、きわめて重要なものであるはずです。
↓仲姫命陵古墳の南東側に沿った細い周回路から撮影。手前の膨らんだ部分が後円部、その向こうが一旦へこんで先が広がる前方部。
私は長く古墳を調査してきましたが、この仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は古市古墳群の中で最も興味深い存在でした。
何より治定されている仲姫命というのは女性です。造営当時、日本最大級の古墳であったこの陵墓が仲姫命の墓というのが解せないのです。
もちろん、女性の墓としては、卑弥呼の墓と思われる箸墓古墳や、台与の墓説が有力な西殿塚古墳の先例があり、それぞれ造営当時は日本最大級の墳墓でした。ただ、卑弥呼や台与は共立された倭国の女王であり、後世の天皇クラス以上の存在です。仲姫命がそこまでの存在であったとは思えません。
↓私のリスペクトする白石太一郎教授(近つ飛鳥博物館名誉館長)が作成した百舌鳥古墳群と古市古墳群の編年図表をご覧ください。
これを見ると、仲津山古墳は、古市古墳群では津堂城山古墳に次いで造営された大王クラスの巨大古墳で、4世紀末頃にできたものです。
仲ツ山古墳の航空写真については、こちらの 私の旅行ガイド記事 の中の、[仲姫命陵古墳と古室山古墳]という段落の最初の写真をご覧ください。
この航空写真は、藤井寺市から提供を受けたものですが、最新の撮影だそうです。
これを見ると、現状では、濠に水はありません。国府台地の最高地点にあることから、水が溜まりにくい立地のようです。造営当時はどのようなものであったかは不明です。
その後つくられた三大古墳が超巨大なものになったため、後世から見て小さく感じるだけのことです。
4世紀末頃の造営時期と一致する有力な大王として最もふさわしいのは、応神天皇となります。
現在、応神天皇陵として治定されている誉田御廟山古墳については、以下に私見を述べます。仁徳天皇陵の被葬者は誰か? というブログ記事で書いた文章の再掲になりますが、再確認ください。
「誉田御廟山古墳を応神天皇陵とすると」という前提を疑うべきというのが私の意見です。
白石氏は「誉田御廟山古墳の被葬者」という論の中で、誉田八幡宮の由来その他を慎重に調査検討し、誉田御廟山古墳が「律令国家の形成期に応神天皇陵と考えられていた墳墓である可能性が大きいことを考証したに過ぎません」と書かれています。氏は学者としての節度を守っておられます。
「誉田御廟山古墳がこのとき(律令国家の形成期のこと)応神天皇陵とされたものであることはおそらく疑いないと思われますが、果たしてそれが古墳の造営された5世紀以来正しく伝えられてきたものであるかどうかについての保障はない といわざるをえません」(下線は、私が引いたものです)
まさに、そのとおりですね。
私は、そこからより大胆に推理します。
継体天皇は、欽明天皇の父で敏達天皇の祖父にあたり、敏達天皇の曽孫たる天智天皇や天武天皇の直接の祖先です。継体天皇は、応神王朝最後の天皇である武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后とし、入婿のような形で王権を引き継ぐのですが、その際、自分を、応神天皇の子・若沼毛二股王の末裔であるとして、血筋を正当化します。応神天皇の直系子孫と称するのですから、当然、応神天皇は祭り上げられます。その後、応神天皇は、皇祖神や武神として神格化されていきます。八幡神となります。
すなわち「6世紀中葉以降の歴代天皇の直接の祖先」とされる応神天皇が律令国家にとって重視され、神格化されたために、後世から見て古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳を応神天皇の墓として(誤って)治定せざるを得なかった のです
私は、古墳の分布からこの時期以降に、4人の大王級巨大古墳があることを重視します。そこから、精確な名前と詳しい事跡はともかく 、少なくとも応神天皇にあたる人物は実在した と考えています。
確かに、この時期の記紀の記述には、架空の物語や粉飾が多く、全ては信じがたいですが、そのモデルになった大王はいたのではないでしょうか。崇神王朝の末裔の女性である仲津姫命と入婿という形で婚姻し、崇神三輪ヤマトの王統との継続性を保ちながら権力を得た、河内を根拠地とする大王です。(応神大王が征服王であるかどうかについては、古市に先行する割と大きな古墳があることから、征服者というより、崇神王朝に協力してきた河内勢力が有力になり、衰えて途絶えかけた崇神王朝を引き継いだ大王だと考えます。)
ただ、応神天皇の実像は、過大に評価すべきではなく、神格化を差し引かねばなりません。つまり、一般的な大王墓に埋葬されていると考えます。とはいえ、重要な大王ですから、ある程度の真実は伝承されているでしょう。すなわち、大王クラスの墓を持ち、場所的にそれは古市古墳群に求めるべきです。古市一帯は応神王朝の本貫地=勢力根拠地に最も近い墳墓地域なのですから最初の大王墓があるべきです。
また、考古学的には誉田御廟山古墳は5世紀の前半を遡り得ないものです。ところが、現在の応神天皇の在位期間は4世紀末頃とする見解が主流で、考古学の年代と齟齬をきたしています。この矛盾する両者を接近させるのは無理があり、誉田御廟山古墳は応神天皇の子か孫の世代の大王墓とするほうが自然でしょう。
そう考えると、応神天皇墓として時期と場所から最も適切なのは、古市古墳群の最初期の巨大な大王墓である仲津山古墳です。
仲津山古墳からは刀剣・鉾・鏃(やじり)が多く出土しており男王にふさわしく、その近くの墓山古墳は同じ形式で滑石勾玉が多数出土しているところから女性的で、両古墳は大王と妃のカップルの可能性が高いようです。したがって、仲津山古墳を応神天皇陵、墓山古墳を応神妃で仁徳生母の中津姫命(崇神王朝の血をひく女性)の陵とすれば、河内王朝を確立した王と王妃の墓として、非常にスッキリします。
そうすると、仲津山古墳に先行して築かれた大王墓である津堂城山古墳の被葬者は誰かというのが非常に興味深い問題となります。
応神天皇は河内王朝を完全に確立したわけですが、それ以前にすでに有力な大王級の人物がいたわけです。
この河内王朝最初期の人物は誰でしょう?
記紀に載っていない人物の可能性も十分にあり得ます。
ただ、あえて記紀にその人物を求めるなら、仲哀天皇しかないでしょう。
応神天皇の父であり、墳墓が古市にあるとされているのですから、ピッタリです。応神天皇がいきなり出現したはずはなく、仲哀天皇にあたる人物が河内勢力の有力者となり大王級の実力をそなえたからこそ、その権力が子の応神に引き継がれ、さらに強大化したとすれば、自然な流れとなります。
ただ記紀の記述は、あまりにも神功皇后を強調・神格化するために、夫の仲哀天皇は影の薄い存在となっています。このあたりを文字通り信ずるわけには行きません。また、仲哀天皇は、伝説的・神話的人物であるヤマトタケルの子とされることで、出自が不明確になっています。私はその古墳が河内にあるとされ、実際ピタリとそれにあたる古墳があることからも、仲哀天皇は河内勢力に属する大王であったと考えます。
すなわち、仲哀天皇にあたる「応神天皇の父」が河内王朝黎明期の王として君臨し、津堂城山古墳に葬られたのではないでしょうか?
神功皇后はオキナガタラシヒメであり、オキナガ氏=近江の豪族で奈良北部を地盤とする佐紀勢力に近い一派の姫をあらわし、実際、神功皇后は奈良北部の佐紀古墳群に葬られています。すなわち奈良平野北部の有力勢力の姫であるオキナガタラシヒメと結婚し、佐紀勢力と河内勢力と結びつけ、河内王朝の基礎を築いた人物こそ、津堂城山古墳の被葬者なのです。
記紀の記述はともかく、古墳分布を見る限り、オオヤマトすなわち奈良平野東南部の箸墓古墳(卑弥呼)から発する崇神政権勢力は4世紀後半には力を失い、それにかわって奈良平野北東部の佐紀古墳群が築かれます。続いて河内の古市古墳群さらに百舌鳥古墳群に超巨大古墳が築かれ、河内勢力の著しい台頭が見られます。
この考古学的変遷を説明するには、神功皇后に体現される佐紀古墳群の一派の勢力と、津堂城山古墳の被葬者の河内勢力が合体して、最終的には両者の子の世代である応神天皇の河内政権が確立したと考えるべきです。
記紀の記述によると、三韓征伐を終えて帰国した神功皇后は、すぐには大和に入れず、麛坂王・忍熊王の乱を鎮めなければなりませんでした。これは、大和の旧勢力(神功皇后と対立する佐紀勢力の一部と旧・崇神系勢力)の抵抗があったことを明確に示しています。佐紀勢力が分裂し、神功皇后派と麛坂王・忍熊王派に分かれて戦ったようで、河内勢力の支援を受けた神功皇后派が勝利したわけです。
やがて神功皇后はこの混乱を収拾し、その子の応神天皇は、佐紀勢力と河内勢力の統合の上に強力な政権を築くのです。
上の古市古墳群の分布は複雑ですが、大きく見ると巨大古墳はV字型に配置されています。
V字の右側のラインは国府台地上にあり、市の山古墳(現允恭陵)から前の山古墳(現白鳥陵)に至ります。
V字の左側は、岡ミサンザイ古墳と津堂城山古墳を結ぶもので、この二つの巨大古墳は国府台地ラインではなく、平地の氾濫原に築かれています。
最初の巨大古墳と、最後の巨大古墳だけが国府台地上のラインにないというのが意味深です。
私の推理は以下のとおりです。
まず、有力になった河内勢力は、本貫地に最も近い場所に河内政権最初の王の墳墓を築きます。それが津堂城山古墳です。
本貫地は丘の上ではなく平野にあったからです。
ところが、佐紀勢力も統合し大きな権力を得た応神天皇は、平野ではなく丘の上に、国府台地の最高地点に巨大古墳を築き自分の陵墓とします。権力の誇示の意味もあったでしょう。それが仲津山古墳(現・仲姫命陵古墳)です。
仲津山古墳は当時としては日本最大の墓域を誇る巨大古墳でした。国府台地の最も高い場所に聳え立ったのです。
続いて、墓山古墳(応神皇后の中津姫命)、誉田御廟山古墳(私は履中天皇陵と比定)や市野山古墳(現允恭陵これは私も允恭天皇陵と考えます)、前の山古墳(現白鳥陵これは允恭の皇太子だった木梨軽王子墓の可能性大)が造営され、国府台地のラインは埋まってしまいます。
最後の巨大古墳を築こうとした雄略天皇に至っては、もう国府台地上には大きな場所がなくなっていたのです。
そこで、国府台地から少し離れますが、氾濫原中の小高い場所に巨大古墳を築きます。それが岡ミサンザイ古墳(真の雄略陵、現仲哀陵)なのです。
以上が、私見による、古市古墳群の主な巨大古墳の成り立ちと被葬者の推理です。
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古墳に眠る人々は、今は安らかかもしれませんが、歴史を振り返ってみると、
それら多くの方々は、抗争や戦と常に関わってきたのです。
一方、日本は敗戦後73年間、少なくとも戦火にさらされることなくここまできました。
古墳とは直接関係がないかもしれませんが、不思議とそんな感慨を催してしまうのでした。
記述が一日遅れてしまいましたが・・・
緑濃く茂る古墳の丘に佇ち平和いとしむ終戦記念日