模糊の旅人
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百舌鳥古墳群の古墳配置と仁徳天皇陵の等高線乱れ  ~百舌鳥古墳群を歩く(1)
2018年 06月 09日 |

Travel.jpの旅行ガイドとして、私の「めざせ世界遺産! 堺市・百舌鳥古墳群の6大古墳を完全制覇!」という記事が掲載されましたのでお知らせします。次の世界遺産指定が期待される百舌鳥古墳群を紹介したものです。ぜひ、ご覧ください。





百舌鳥古墳群については、これまで何度か記事を書いていますが、「百舌鳥古墳群めぐり」的記事はなかったようです。Travel.jpの旅行ガイド記事公開を機会に、タイアップしてブログでも少し詳しく書いてみます。今日は古墳配置と大仙陵古墳の等高線乱れの話です。

百舌鳥古墳群の被葬者については、こちら「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?」 に詳しい推理記事を書いていますのでご覧ください。


古代史は私のライフワーク・テーマのひとつですが、日本史の場合は古墳が非常に重要です。
湿潤な気候の日本では、古代の遺物が綺麗に残っていることが少なく、考古学的な証拠が見つけにくいという難点があります。ところが幸いなことに、日本には「古墳」という類のない古代の証拠が屹然と際立って残されているのです!


跡形もなく消えた大型古墳というのは少なく、可視性と遺跡の捕捉率が非常に高く、古墳は際立った科学的証拠を提示するのです。とはいえ、その証拠をどう解釈するかは、われわれ次第です。


特に巨大古墳は、大王墓とみられ、日本史と直結し、円筒埴輪などの変遷を詳細に研究すれば、造営順を見出すことができます。
この点に注目して大型古墳の編年表を作成して古代史研究を発展させてこられたのが、近つ飛鳥博物館の名誉館長の白石太一郎氏です。私は白石氏の論文や著書をほとんど読破しましたが、それが私の古墳研究の基礎になっています。白石氏はお人柄も魅力的ですが、その謙虚でバランスのとれた論考は、とても好感が持て、参考になります。


巨大古墳を研究すると、大王の真実の系譜が見えてきます。特に後世「天皇」と呼ばれる人たちの墓がもれなくあるはずですから、日本の記紀や中国の宋書などの記述と照らし合わせることによって、比定することが可能となる理屈です。しかし、実際には被葬者の特定はなかなか難しくそれが大いなるミステリーにもなります。古墳被葬者の推理はとても知的興奮を得られる経験なので、その謎にとりつかれた人は多いのです。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵古墳)

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↓百舌鳥(もず)の名前の起源となった野鳥モズ(百舌鳥)を百舌鳥野で見る!

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日本書紀仁徳天皇67年10月条より
「六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、即百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之縁也。」


つまり、造陵中の役民の中へ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳からモズ(百舌鳥)が飛去ったことから百舌鳥耳原と呼ばれるようになったと書かれています。
ここで重要なことは、仁徳天皇が生前に石津原に行幸し、御陵地を定め、古墳を築き始めたということです。


モズは、当時からこのあたりを代表する野鳥だったのです。モズは深い森の中ではなく、開けた疎林や林縁・河原・平原・農耕地などに生息する野鳥です。したがって、この一帯は、古墳時代には開けた疎林または原野地域であったことが分かります。


↓柵塀の間から見る大仙陵古墳の三重目の濠

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↓陪塚の竜佐山古墳付近から大仙陵古墳方面を望む

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私は小学校の時、堺市の上野芝という所に引っ越してきたのですが、近くに履中陵古墳、いたすけ古墳、文殊塚古墳があり、昆虫採集を兼ねてよく古墳を見て回ったものです。私の子供時代の思い出は、小学校低学年は生まれた京都の寺社で遊んだことであり、小学校高学年は堺の古墳めぐりなのです。


小学校6年の頃は、いたすけ古墳の濠でよく魚釣りもしました。その当時、履中陵は巨大な神秘の森という感じでしたが、いたすけ古墳は濠に囲まれた剥げ山で、親しみの持てる可愛い古墳池でした。

上野芝という地名も、履中陵の回りに綺麗な芝が生えていて、それを「神の芝」といったとこから「上之芝」→「上野芝」となったそうです。現在はJR阪和線の目立たない一駅にすぎませんが、戦前の一時は、堺市で最も乗降客の多い駅だったとのことです。
これは私鉄として開業した阪和電気鉄道がベッドタウンとして最初に開発した住宅地ができたからです。そこに上野芝駅を設けて、1年間阪和電鉄乗り放題と大々的に宣伝し住宅を売り出し、鉄道利用者を増やそうとしたそうです。


↓は、1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現・天王寺)― 和泉府中間で部分開業した時の私鉄である「阪和電気鉄道」のパンフレットです。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併され、「南海山手線」となりました。さらに、1944年に戦時買収により国有化され「国有鉄道阪和線」となり、戦後の国鉄を経て現在のJR阪和線となっています。

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↑上野芝駅の次の大阪側の駅は「仁徳御陵前」となっており現在の百舌鳥駅のことです。上野芝駅の上には、こんもりとした山のように三つの天皇陵が描かれていますね。やはり、この時代から百舌鳥古墳群は注目されていたようです。
上野芝駅の下側には、百舌鳥八幡宮と家原文殊が描かれています。家原文殊とは最近は受験の神様:落書寺として有名になった家原寺のことです。両寺社とも私の小学校高学年時の遊びエリアに入っていた懐かしい場所です。


なお、上記地図の左下に粉河という大きな駅が書かれて、赤い点線でつながっているように見えます。これは、阪和電気鉄道の支線として粉河線が予定されており名刹:粉河寺への乗客を呼ぼうとしたものですが、残念ながら財政難により実現しませんでした。


下の図で、上野芝駅の周辺にある大塚山古墳、履中天皇陵、いたすけ古墳、文殊塚古墳に囲まれた一帯が、私の小学校高学年時代の主たる遊びの行動範囲だったわけです。時には自転車に乗って少し遠くの仁徳天皇陵やニサンザイ古墳まで探検的散策に行ったものです。子供にとってはちょっとワクワクする冒険で、古墳周辺には緑が多く、昆虫もたくさん棲息していました。


地元では履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のことを「履中さん」、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のことを「仁徳さん」と呼んでいました。


↓百舌鳥古墳群の配置模式図(あくまで説明のためのイメージ図で正確なものではありません)

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↑上図の下部を東西に流れる百済川は小さな川ですが、丘陵地帯を深くえぐっており、広い谷を形成しています。その谷を望む両側の丘の縁に東西軸の古墳が位置しています。この谷を横断する坂道の昇り降りが自転車では大変でした。


当時の私の印象としては、古墳は意外に丘の縁にあるなあということでした。特に文殊塚古墳は小さな古墳ですが、上野芝駅付近から見ると月見橋のある谷をはさんで丘上の崖のような場所に樹林の塊りが聳えており、意外に存在感がありました。


今思うとそれは重大な証拠を示していたのです。

百舌鳥古墳群の大型墳は綺麗なL字型に配置されており、海に面した古墳はすべて南北軸で、南側の百舌鳥川に沿った古墳はすべて東西軸です。古市古墳群と違って、前方―後円の向く方向も、完全に一致しています。

これについては、私は以前ブログ記事で「大王墓の軸線は地形の構造と見せたい方向に基づいています」と書きました。ここで「見せたい方向」というのは、より大きく見える長辺側を海や川の水運あるいは街道に向けるということで、これは割と簡単に理解できます。川利用の舟運も存在した可能性が高いです。


もうひとつの要素である「地形の構造」というのは、古墳を築造する時に、排水の方向を重視するということです。すなわち、古墳築造の際に濠を掘り土を積み上げていくわけですが、最も問題となるのは濠の排水です。排水をスムースにしなければ、濠を掘り続けられません。
それから、不足する土を得るために段丘崖や開析谷と平行に掘削利用すれば造営が楽になる・・・したがって丘陵の端に古墳を造営するということです。


上図でピンクの〇をしたところが、私が勝手に考えてみた各古墳の排水ポイントです。縦に並んだ反正天皇陵、永山古墳、仁徳天皇陵、履中天皇陵では、西側(海側)に段丘崖があり急に低くなっています。ここに排水ポイントをつくれば自然排水ができます。

横に並んだ大塚山古墳、文殊塚古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳では、百舌鳥川にそって開析谷があり、そこに向かって排水ポイントをつくればよいのです。谷と平行に崖を削れば不足する土を得ることも容易です。これが、百舌鳥川の両側に東西軸の古墳が並ぶ理由です。


上に書いたモズの話からしても、古墳時代この一帯は、海に近い丘陵原野で、そこに仁徳天皇が行幸して、この地をはじめて大規模な墳墓の場所として決めたのです。

それは、高句麗の南下にともなう東アジアの国際情勢の変化に対応し、造営を行う際に排水しやすい地形的な方向を考慮するとともに、海から見える超巨大墳墓を造営することで、海外使節にも権力を誇示しようとしたからです。だから、自分の領土のうち最も西の海に面した百舌鳥の丘陵原野一帯を墳墓の地として新たに開発したのです。

新開発地ですから、古くからの奥津城である古市と違って、古墳は丘陵上に綺麗にL字型に配置され、前方部と後円部の向きも完全にそろっているのです!

前方―後円の向く方向まで完全に一致しているのは、計画的につくられた新しい墓域だということを示しています。


↓古墳散策で見つけた黒いスミレ

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私が子供時代に古墳めぐりをした際、特に好きなのは履中さんこと上石津ミサンザイ古墳でした。当時は履中さんの濠の周りの土手の上を歩くことができましたので、迫力ある古墳主体部を濠越しに目前に見ることができ、とても迫力がありました。それに対し、仁徳さんこと大仙陵古墳は三重の濠に取り囲まれているので、主体部の迫力を直接感じることが難しく、ただ、だだっ広い御陵さんだなあという印象でした。


↓大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳は、非常に等高線が乱れており、現在は美しい構造とはいえません。
専門家によるとこの等高線の乱れは人為的なものではなく、地震による地すべりが原因だそうです。(寒川旭『古代学研究』第131号 参照)
ところが、すぐ近くの上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は全く等高線に乱れがありません(下図参照)
なぜ、このように違うのでしょうか?


↓上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の等高線図

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大仙陵古墳の等高線の乱れは、地震によるとのことですが、上の百舌鳥古墳群の配置模式図にあるように、上町断層帯が古墳群西側を海沿いに走っています。むしろ、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)のほうが断層帯に近いのです!


考古学的調査によると上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は百舌鳥古墳群で最初に築かれた超巨大古墳で、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のほうが半世紀ほど新しい造営です。それなのに、現在の状況は、逆転しているのです。大仙陵古墳は、少なくとも五回も地滑り状の崩れ痕跡があるのに対し、上石津ミサンザイ古墳はまったく地滑りの痕跡がないのです!


大仙陵古墳の規模が地震の波動周期に共鳴してしまったという考え方もあります。しかし何度も何度も大仙陵古墳ばかり周期が合ってしまったのでしょうか?・・・私は周期の問題だけに要因を帰する説には、どうしても納得できません。そういう面もあるでしょうが、むしろ造成構造に最大の原因があると考えます。


すなわち、まず第一に上石津ミサンザイ古墳のほうが丁寧かつ慎重に造成されているのです。最大の要因は、古墳造営の丁寧さ・緻密さということにあるのです。つまり、日本書紀の仁徳帝が生前に行幸し、長い時間をかけて頑丈に造られた寿陵は、現在、履中陵古墳とされる上石津ミサンザイ古墳がふさわしいのです。


第二に、地盤の問題です。
上の百舌鳥古墳群の配置模式図で、仁徳天皇陵古墳の左部分にピンクの〇部分があります。このあたりが「樋の谷」という地形で、排水ポイントなのですが、ここに古墳造成以前から天然の開析谷があって、それが東方向(山側古墳中心部)に向かって走っており、脆弱な地盤があったのです。その上に、土が盛られ古墳が造られたのでしょう。


三番目が、地震の周期と合ってしまったことです。


四番目に、一部に人為的な原因もあると考えられます(川内眷三『大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討』四天王寺大学紀要 参照)


以上のような、種々の要因が組み合わさり、現在の状況が生み出されたと考えられます。


↓上石津ミサンザイ古墳の模式鳥瞰図 とても綺麗な形をした古墳です。

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再掲ですが、以下にまとめてみます。


吉備の超巨大古墳である造山古墳のニュースを聞いた履中大王や反正大王は、大王としてそれををはるかに上回る規模をめざさざるを得なかった・・・・そこで、あわてて超巨大古墳を造成した・・・・ここに、いささか無理があり、1500年たった現在の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は墳丘の崩れがおこり等高線に乱れが生じてしまった・・・つまり地震に弱かった!


それに比べて、より古いにもかかわらず上石津ミサンザイ古墳には現在でも全く等高線の乱れはありません・・・・これは上石津ミサンザイ古墳が、生前に行幸して「始めて陵を築く」(『日本書紀』仁徳帝67年)とあるように、大王の在位中からの長期の工事期間であわてず非常に丁寧につくられた古墳であることを示しています・・・・しっかり造成され地震にも強かった・・・これが、私が上石津ミサンザイ古墳こそ真の仁徳天皇陵であるとする一つの根拠でもあります。


上に掲げた上石津ミサンザイ古墳の等高線図をよく見てください。綺麗な三段築成の構造が見て取れます。注目すべきは、一段目のテラスから斜め下にのびる第一斜面が非常に短い点です。これは現在の水位線を基準に地図が書かれているからで、造営時は第一斜面はもっと長く下にのびていたはずです。


すなわち、この上石津ミサンザイ古墳は近世に濠が農業用水として利用されてきたため水位が大幅に上昇しており、本来の墳丘長は400mをはるかに超えることは確実なのです(『古墳からみた倭国の形成』白石太一郎、209頁 )。誉田御廟山古墳に近い大きさだったのです。
私の子供時代に感じた印象は「圧倒されるような巨大な森の山」という感じでしたが、現在でもビュースポットから見ると巨大な質量を感じる迫力があります。


↓上石津ミサンザイ古墳(ビュースポットから)

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↓陪塚の七観音古墳付近から見た上石津ミサンザイ古墳  大きく山のように背後にそびえているのが分かります。

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by mokonotabibito | 2018-06-09 09:21 | 大阪 | Trackback | Comments(3)
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Commented by youshow882hh at 2018-06-09 10:17
こんにちは。ゆーしょーです。
仁徳天皇御陵、すごく大きいですね。
その大きさは航空写真でなければ
分かりません。
御陵の前の道を歩いたことはあるのですが、
前の道からではその大きさの実感が
出てこなかったです。
ポチ♪
Commented by Lago at 2018-06-10 15:54 x
百舌鳥古墳群研究にかける筆者の情熱が伝わってきますね。
古墳そのものを見る機会はなかったけれど、
遠い昔にこれ程の規模の墳墓をよくも築いたものと感服の至りです。
ぜひ世界遺産に指定され、この先ずっと保存されていってほしいですね。
百舌鳥野の起源や黒すみれの紹介も興深く拝見しました。

世界遺産目指せる百舌鳥の古墳群まこと誇れる遺産とぞ思ふ

もずの名の起源となりし百舌鳥一羽百舌鳥野の主ぞと柵にお出まし
Commented at 2018-06-14 19:41
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