おふくの方は、湯原温泉の母ともいうべき存在ですので、少し詳しく書いてみます。(たびねす記事では字数制限があって思うように書けなくてストレスが溜まったので、子・宇喜多秀家のことを含めて、今日はブログでちょっと長めに文章を展開してみます)
↓おふくの方の像
おふくの方は、才色兼備の女性で、その波乱に満ちた生涯から、戦国のクレオパトラというべき存在です。
幼名は「お鮮」といい、後に秀吉の側室になった際に「おふく」と改名したとする説もあります。
美作に生まれ、類まれなる美貌で三国一の美女と言われました。「美作美人」という言葉が生まれる元になったそうです。
評判の美人だったことから美作の殿様:高田城主・三浦貞勝に嫁ぎ一子をもうけましたが、高田城は備中松山の三村家親に攻められ落城し、夫の貞勝は自害しました。おふくは子・桃寿丸とともに備前に逃れ、戦国乱世の梟雄・宇喜多直家に見初められ妻となります。
宇喜多直家は、おふくの機嫌を得ようと亡夫・三浦貞勝の仇である三村家親を暗殺します。
直家はさらに、近隣の豪族を次々と謀略で倒し、備前・美作を領有する戦国大名になります。
宇喜多直家は、浪人から下剋上でのしあがった権謀術策を駆使する風雲児とされますが、大きな合戦なしに策略や奸計で国盗りを達成したわけですから、ある意味、非凡な才能を有していたと言えるでしょう。また、おふくにはベタ惚れして一筋に愛し浮気もしなかったそうです。
おふくと直家は、大変仲の良い夫婦として岡山城に君臨し、二人の間には女子(後の吉川広家の妻)と男子(後の宇喜多秀家)が生まれます。
しかし、時は戦国末期、備前・美作は、東西有力勢力の中間に位置し、困難な対応を余儀なくされます。
西の毛利、東の織田の勢力が迫り、とうとう、直家は子の秀家を人質として差し出し織田方についた後に、病死します。
(余談ですが、戦国乱世の三梟雄とは、斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家です)
↓現在の岡山城
おふくは未亡人となり「岡山城の女城主」と呼ばれましたが、羽柴秀吉に接近し、その側室となることでわが子・宇喜多秀家の将来を託します。
このあたりの詳細は諸説あり、宇喜多直家が死の直前、秀吉に、おふくの面倒を見てやってくれと頼んだという説があります。おふくの側から秀吉に近づいたとする説も有力です。宇喜多家の安泰を図ろうとする策であったのかも知れません。
また、秀吉が黒田官兵衛の仲介で評判の美女「おふくの方」を手に入れ、そのかわり、おふくの子に「秀」の字を与えて秀家と命名し元服させ、養子にしたという逸話があります。
いずれにせよ、おふくが才たけた美人であったこと、毛利に対抗したい秀吉との思惑が一致したことは間違いありません。本能寺の変直後・中国の大返しの際にも、秀吉は岡山城にわざわざ一泊しています。まさに、シーザーあるいはアントニウスとクレオパトラの関係に似た話ですね。
↓宇喜多秀家像(岡山城蔵)
おふくの願いを聞いて、秀吉は宇喜多秀家を養子として重用します。母の血を引いて利発な美少年だった秀家を、秀吉は大いに気に入り、出自は外様にもかかわらず秀吉の一門衆並みに扱います。
秀家も期待に応えて才能を発揮し、やがて秀吉が大切にした養女豪姫(前田利家の娘で洗礼名マリア)を娶り、57万石を安堵され大大名となります。さらに、文禄の役では大将として出陣し、ついには秀吉晩年の五大老の一人にまで出世します。
ちなみに、五大老とは、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元です。秀吉は、朝鮮出兵が成功すれば、宇喜多秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていました。
どうやら、秀吉が養子とした男子の中では、宇喜多秀家が最も優秀だったようです。(秀次・秀勝・小早川秀秋らは凡庸でした)
秀吉の死後、秀家は、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の主力として中央に位置し、福島正則軍と正面衝突し善戦します。しかし、小早川秀秋の裏切りにより敗れます。敗戦後は薩摩まで落ち延びますが、ついには八丈島に流されて、おふくと二度と会えなかったとのことです。
おふくの方の晩年について詳しくは分かりませんが、現存する自筆書状が1600年以降のものだとされています。
また、岡山城下に「おふくの方(お鮮さま)」の墓と伝えられる供養塔が残されており、「お鮮さまのお墓を見れば、さても立派なお墓でござる」と手毬歌が伝わっていることから、法鮮尼と呼ばれ岡山の寺で穏やかに過ごしたと思われます。院号は円融院。
↓岡山市にある「おふくの方」の供養塔(五輪塔)・・・岡山市の重要文化財です。
後日談ですが、宇喜多秀家は長寿で、流刑地・八丈島で84歳まで生きました。没年は明暦元年(1655年)で、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の御世でした。結局、宇喜多秀家は、関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物となりました。。。。
宇喜多秀家が豊臣秀吉政権下で岡山城主であった当時、病を得た母おふくのために、湯原に湯治場を開設しました。大きな湯屋のほかに寄宿10余棟を造営したと伝えられ、おふくの方は長期間、湯治療養したとのことです。これが、湯原温泉が本格的な大温泉地として利用された最初です。
湯原に湯治する原因となった「おふくの方」の病とは、最初の夫・三浦貞勝との間にもうけた子・三浦桃寿丸が伏見大地震で圧死してしまったショックによるものと伝えられます。(異説あり)
なお、おふくが次の夫・宇喜多直家との間にもうけた娘・容光院は、宇喜多秀家の実姉ですが、母の血を受け継いだ大変な美人で、毛利三家のひとつ吉川家当主・吉川広家の正妻となりました。容光院という名前からも容姿が光り輝いていたと想像されますね。
↓「おふくの方」の像のある菊之湯。現在は湯原国際観光ホテルとも称され湯原温泉の中心的存在です。まさに「おふくの方」の湯治場が継承された現在の姿ですね。
全くの私見ですが、現在の岡山市の基礎を築いたのは宇喜多直家と秀家ですから「おふくの方」がいなければ岡山の繁栄は無かったと考えます。そういう意味では、おふくの方は、「湯原温泉の母」のみならず「岡山の母」と言えるのではないでしょうか。
『戦国のクレオパトラ』として「おふくの方」を主人公とした大河ドラマか映画でも作られませんかね・・・・直家や秀家の生涯を含めて波乱万丈でドラマチックだと思うのですがね・・・・
「おふくの方」の像の前に立って、戦国時代に自己の美貌と知略で生き抜いた女性の生涯を思い起こし、歴史のロマンにひたってみるのも一興です。
↓今日の最後の写真もユキノシタです。上記の菊之湯のすぐ側の山際に群生しています。おふくの方の時代から咲き続けてきたのでしょうか。
<追記> 2016.9.26
「おふくの方」を主人公とした大河ドラマか映画でも作られませんかねと書いたところ、何人かの方からメールやコメントで情報をいただきました。以下に整理してみますので、連絡いただいた方々に、深く御礼を申し上げます。
(1)1988年にTBSの『愛に燃える戦国の女』という「おふくの方」を主人公にした3時間ドラマがあったそうです。おふく役は三田佳子さんが演じました。
(2)NHK大河ドラマでは、これまで脇役ですが「おふくの方」が登場しました。
ひとつは、1996年の『秀吉』で、高瀬春奈さんが「おふく」として演じました。
次は、2014年の『軍師官兵衛』で、笛木優子さんが「おせん」として演じました。この時の宇喜多直家役は陣内孝則さんで、二人の登場シーンは、こちら。
(3)宇喜多秀家は、2016年NHK大河ドラマ『真田丸』で、高橋和也さんが演じました。
なお、「おふくの方」は、徳川家光の乳母で春日局と呼ばれた方と同じですかという質問もいただきました。
「おふく」は縁起が良いとして当時から多く用いられた女性の名前ですので、混同しやすいですが、宇喜多秀家の母の「おふくの方」と、徳川家光の乳母「おふく様」は全く違う人物です。
徳川家光の乳母のほうの「おふく様」は、明智光秀の重臣:斎藤利三の娘として生まれ、小早川秀秋の家臣:稲葉正成の妻で、後に徳川家光の乳母から大奥の公務を取り仕切る将軍様御局となり、「春日局」の名号を下賜された女性です。
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レリーフ像を見ても、いわゆる古代美人ではなく、現代にも通用するチャーミングさを感じます。
殿方は美人に弱いんですね。でもおふくの方は単なる人形美ではなく、
戦国の男どもを掌中に巡らすだけの知的器量があったのでしょう。
それと、岡山城の写真に立ち止まってしまいました。
日本の地方都市には案外、城が多いんですね。
城というと、何となく古城をイメージするのですが、
大抵は修復されてきらきらと新しい。
う〜〜ん・・・ちょっと言葉に詰まるのですが、
名園の後楽園をひかえた岡山城でもあるし、ひと時おふくの方が住まいした事に鑑みて、
訪ねてみたい旅心を誘う佇まいを感じました。
おふくの方美人なればの数奇なる一生 (ひとよ ) を駈けし戦国の華
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模糊さんの旅のお話は面白く興味がつきません。。
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