模糊の旅人
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巨大磨崖ナグシュ・ロスタム(後編) ~ペルシアの旅(34)  <お知らせあり>
2016年 09月 13日 |
巨大墳墓遺跡ナグシュ・ロスタムには、墳墓だけでなくレリーフもあります。

この王墓群を造ったアケメネス朝ペルシアは、紀元前331年、アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)の攻撃により滅亡しました。

アレクサンドロス大王はヨーロッパ人にとっては英雄ですが、ペルシア人にとっては破壊者以外の何者でもありません。聖都ペルセポリスを徹底的に破壊し財宝を略奪し人々を虐殺しました。さらに、ペルシア帝国の創始者キュロス2世墳墓をあばき宝物を持ち去りました。
ただし、ここナグシュ・ロスタムの墳墓群は、からっぽの穴があるだけなので、破壊を免れたのです。


こうしてアケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされてから約500年後のAC3世紀に、ササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシャ)帝国が勃興しました。
ササン朝ペルシアは、本来のペルシア(イラン高原のパールス地方)のゾロアスター教神官階級の出自でしたので、はるか昔の栄光のペルシア帝国の復興をめざしたのです。

そのササン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世は、オリエントの支配者として「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」という君主号を名乗り、このナグシュ・ロスタムに王権神授のレリーフを彫らせました。

↓王権神授のレリーフ(ササン朝ペルシア帝国誕生の場面)
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↑右側には、バルサム(聖枝)を左手に持ったゾロアスター教のアフラ・マズダ神がおり、左側にいるアルダシール1世に王のシンボルであるリボンのついたリングを渡しています。
また、アフラ・マズダ神が乗っている馬は悪神アフリマンを踏みつけており、アルデシール1世が乗っている馬はパルティアの王を踏みつけています。

アルダシール1世は、ゾロアスター教の神官階層からの出身で、ゾロアスター教を重要視し、ペルシア帝国の再興をめざしました。そのため、栄光のアケメネス朝最盛期4代のダフマ(ゾロアスター教的王墓)のあるこの磨崖に、レリーフを刻んだのです。

ペルセポリスやパサルガダエが破壊されていたので、ここナグシュ・ロスタムに刻むしかなかったのでしょう。
われわれ後世の見学者は、ここで、ササン朝ペルシア帝国誕生の瞬間を見ていることになるのです。


ゾロアスター教については、こちら。他の宗教への影響に関しては、こちら

↓同じく関連レリーフと周辺状況
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さらに重要なレリーフがあります。
それは、歴史の教科書に登場する有名なもので、紀元260年にペルシアがローマ皇帝を捕虜とした場面が描かれています。

↓ローマ皇帝を捕虜としたレリーフ
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↑右側の馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをしている左下の人物がローマ皇帝ヴァレリアヌスです。
そのヴァレリアヌス帝の横に立っているのもローマ皇帝のピリップス1世(フィリップス・アラブス)で、ペルシアに降伏しメソポタミアからアルメニアまでペルシアの版図としてしまった人物です。

このように、ペルシア帝国のシャープール1世は、ローマ帝国に対する優位を誇示し、これ以後、「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」(エーラーン=アーリア=イランと非イラン世界全ての王)称号を名乗ったのです。


ササン朝ペルシア帝国のアルダシール1世の後を継いだシャープール1世は、対外戦争や征服事業に従事し、強勢を誇り王権を盤石なものにしました。
ローマ帝国と何度も戦争をしましたが、ほぼペルシア優位に展開し、AC244年にはローマ皇帝のゴルディアヌス3世を敗死させたとされます。このペルシア側資料が、ここナグシュ・ロスタムにあり「ゴルディアヌスは殺され、その軍隊は壊滅した」と刻まれています。
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歴史的文書を多く残しているローマ帝国ですが、ヴァレリアヌス帝が捕虜になった件やゴルディアヌス3世が敗死した件については、暗黙に認めてはいるものの、ほとんど書かれていません。よほど屈辱的で、消し去りたい歴史だったのだと思います。(歴史はヨーロッパ側資料だけでは一方的で真実が見えません)

これに対して、ペルシア側には多くの証拠資料・遺跡が残っています。このナグシュ・ロスタムは、その最も有名な場所です。

ローマ帝国にとって、ゲルマンなどの蛮族はやっかいな侵入者であっても、組織された強国ではありませんでした。あくまで、ローマ帝国にとって、パルティア~ササン朝ペルシア帝国と続くイラン系の東方専制君主帝国が主要な大敵であり、軍事的には常に仮想敵国であり続けました。

ローマ皇帝ヴァレリアヌスがペルシアの捕虜になった時代は、軍人皇帝時代というローマ帝国の危機の時代でもありました。(3世紀の危機と呼ばれ、あやうくローマ帝国が滅びかけたのですが、そのあたりのローマとペルシアの関係について詳しくは下の More  ローマとペルシアの争い をご覧ください))

ディオクレティアヌス帝の登場により何とか危機を脱しますが、以降ローマ帝国はドミナートゥスという皇帝権力を強化した東方専制君主的な支配体制へと移行します。



現在のナグシュ・ロスタムは、高原土漠の中にある長閑な遺跡です。近くに人家もなく、茫漠たる大地の上に巨大な磨崖が静かに佇立しています・・・

↓少しだけ売店があり、観光客が集まっています。
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↓売店に並べられた商品。ペルシア意匠彫物やゾロアスター教関係のものが多かったです。
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↓くさび形文字で名前を書く商売をやっていました。簡易ジュース屋さんでもあります。
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↓最後に駐車場から、遺跡の全容を振り返って、ナグシュ・ロスタムをあとにしました。
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<お知らせ>

ようやく仕事が落ち着きましたので、旅行に出ることにします。国内旅行ですが、しばらく留守にしますので、ブログも休ませていただきます。
今回は、詳細は行き当たりばったりですが、主な目的地は決めています。多分、中程度の旅になりそうです・・・・

それでは、ほんのしばらく、皆さんごきげんよう!



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More ローマとペルシアの争い


ペルシアというのは、ヨーロッパにとって常に脅威でした。
はるか古代のギリシアは、アケメネス朝ペルシアが主要敵国であり、ペルシア戦争というのがギリシア文明にとって対外的な最大の事件です。

当時、西欧は僻地で価値が無く、文明の中心地はオリエントであり、そのオリエント世界を完全に統一した最初の国はアケメネス朝ペルシア帝国でした。
ギリシアのすぐ北のマケドニア出身のアレクサンドロス大王の世界征服は、ペルシア帝国を打倒するというのが主要目的でした。


その後、ローマ帝国の前期は、旧ペルシアの地を支配した、アルサケス朝パルティアが主要敵国となりました。パルティアは、イラン系の遊牧民だったパルニ氏族を中心とした王国で、中国資料では「安息」と書かれます。

ローマの天才的指導者カエサルは、パルティア侵攻を計画しますがその準備中に暗殺され、ローマとパルティアは一進一退の攻防を続けます。ローマのトラヤヌス帝は対パルティア戦役を有利に展開しますが、ハドリアヌス帝は国境安定化路線に転換するなど、両国間は時期により温度差はあるものの緊張状態で推移します。

↓パルティアの王子像(イラン考古学博物館にて撮影しました)
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やがて、パルティア王国は国内の混乱で衰微し、ササン朝ペルシア王アルダシール1世の侵攻を受け滅亡します。アルダシール1世は、230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、東ではインドのクシャーナ朝に勝利し、大きな帝国を築きました。

いっぽう、ローマ帝国側は、3世紀の前半、軍人皇帝時代という危機を迎えていました。

235年から268年の33年間に14人の皇帝が次々と擁立され、他にも多くの実力者がローマ皇帝を僭称したため、皇帝の権威が失墜しました。
その象徴が、弱腰でペルシア帝国と講和を結ばされたフィリップス・アラブスと、ローマ皇帝として史上初めて他国の捕虜となったヴァレリアヌスです。


ササン朝ペルシア帝国とローマ帝国の争いについては、ローマ側から書かれた歴史資料が多いため、ローマ寄りの解釈となり、ローマ帝国の強さを強調する本が多いですが、実際はこの時期は、ペルシア優位に戦況は展開したようです。

なにしろ、ローマ側は、33年間に14人の皇帝が交代するわけですから政策が一貫せず、内部争いも多かったのです。この軍人皇帝時代は3世紀の危機とも呼ばれます。

いっぽう、ササン朝ペルシア帝国は、建国者アルダシール1世と次のシャープール1世の時代で、500年前のアケメネス朝ペルシア帝国の復興をめざし、パルティアを滅ぼして日の出の勢いで、勢力を拡大しつつある時期でした。


当時、北メソポタミアで、ユーフラテス河上流と緩衝地帯にあるアルメニア王国の帰属をめぐり、ローマとペルシアは争っていました。

↓ササン朝ペルシアの版図(ウィキペディアより転載)・・クリックすると横1200ピクセルに拡大されます。
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244年、ナグシェ・ロスタムにあるペルシア側史料によれば、現在のファルージャの近くでペルシアとローマの戦闘があり、ペルシアはこれに大勝し、ローマ皇帝ゴルディアヌス3世はこの戦いで死んだとされます。

ローマ側ではこの戦いの詳しい記録は残されておらず、ゴルディアヌス3世は別のユーフラテス河辺で急死したとだけあり、あまり触れないことから、ゴルディアヌス3世の親衛隊長官フィリップス・アラブスに雇われた兵士に殺されたとする説もあります。これは、ペルシアとの不利な戦況を糊塗する説のように思われ、ペルシア側史料のほうが価値が高いです。

このフィリップス・アラブス(ピリップス1世)は、ゴルディアヌス3世の後を継いで戦地シリアでローマ皇帝になり、動揺するローマ軍を鎮めるため、ペルシア帝国のシャープール1世に講和を申し込みました。
シャープール1世は、講和の条件として、ローマ側が北部メソポタミアを全面放棄し、係争地のアルメニア王国がペルシアの傘下に入ることを要求したのです。
フィリップス・アラブスは、ローマ皇帝として首都ローマ入りを実現したいこともあり、この屈辱的な条件を全面的に受け入れました。


上記の講和から16年後の260年初、フィリップス・アラブスから三代目のローマ皇帝ヴァレリアヌスがペルシア帝国のシャープール1世の捕虜になるという極端な事態が起こります。
これも例によって、ローマ帝国にとって恥辱的な事件のため、ローマ側の資料は詳しくは語りません。ヴァレリアヌスが列席したトップ会談の際、シャープール1世の謀略で一網打尽にされたとするのが、ローマ側歴史家たちの苦心の想像推理ですが、もちろんペルシア側資料では、そのようなことは書かれれいません。

ということで、実際の詳しい経緯は不明ですが、ローマ皇帝ヴァレリアヌスが、生きたままペルシアの手に落ちたということは紛れもない事実です。
このため、シャープール1世は、このペルシアにとっては誇らしい歴史的事実を記念して、ナグシュ・ロスタムのダレイオス1世の王墓の横下に、レリーフを刻ませたのです。

なお、ヴァレリアヌスはローマ帝国から奪還交渉もなく完全に見捨てられ、高齢だったこともあり、ペルシアで数年後に捕虜のまま死去したそうです。


↓シャープール1世の宮廷で制作されたカメオ・・・ウァレリアヌスと戦うシャープール1世 (ウィキペディアより転載)
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ローマ側では、この後、284年ディオクレティアヌスが帝位につくまで、8人の軍人皇帝が次々に皇帝となっては殺されるという不安定な時代が続きます。



このローマ帝国の危機を克服したディオクレティアヌス帝は、政権体制を、初代ローマ皇帝アウグストゥス以来の「プリンキパトゥス(元首政)」ではなく、より皇帝権力の強い「ドミナートゥス(専制君主制)」へと移行させます。
「市民の第一人者」は「皇帝にして神」へと変貌し、いわば、建前としての共和制遵守を排して明確な君主制になったといえます。

帝政ローマが、対ペルシアとの死闘の中で軍人皇帝が乱立し、その結果、東方専制君主制に似た政治体制になっていったという事実に、歴史の皮肉を感じざるを得ません・・・・



歴史は止まりません。
やがて、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵により、あっけなく滅ぼされます。

ササン朝ペルシア帝国は、6世紀中頃ホスロー1世の時代に最盛期を迎え、東ローマ帝国に侵入し、東方ではバクトリア地方まで領土を拡大します。爛熟したペルシア文明を誇りましたが、内乱などで弱体化していき、7世紀に勃興したイスラム勢力に攻撃され、651年に滅亡します。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、何度か王朝を変えながらも長く命脈を保ちますが、首都コンスタンティノポリス(現・イスタンブール)周辺のみを有する小国となり、最後は1453年に、オスマン帝国により滅ぼされます。
by mokonotabibito | 2016-09-13 11:41 | イラン | Trackback | Comments(10)
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Commented by Lago at 2016-09-13 14:46 x
土漠にありながら、自国の史実をレリーフによって永遠化しているのですね。
風雨に曝されながらも、こんなに奇麗に残っているとは!
また副葬品がなくて幸運でした。
それはさて置き、3枚のお土産屋のスナップが大変興深く、面白かったです。
こうした土地柄ならではのスナップこそ、主目的の遺跡と並んで、旅便りの楽しみです。
そこで、歌はそれにしぼって詠んでみました。

土漠なる遺跡の売店古き世をしのぶグッズの賑はしきかな

ペルシアのくさび形文字面白し我がイニシアル見事に書けり
Commented by youshow882hh at 2016-09-13 15:44
こんにちは。ゆーしょーです。
ここには素晴らしいレリーフが彫られているのですね。
長い間の風雪に耐えて今も残っているのですね。
観光客の車がずらりと並んでいます。
売店もあるのですね。
ポチ♪
Commented by engel777engel at 2016-09-13 23:15
ペルシャのこと学校では良く習わなかったので勉強になります。。ペルシャとローマの戦いはお留守の間にゆっくり読ませていただきます。。では、よい旅を!!!

応援ポチッ!!!
Commented by youshow882hh at 2016-09-14 11:05
おはようございます。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2016-09-16 21:17
こんばんは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2016-09-17 12:43
こんにちは。
ポチ♪
Commented by ゆーしょー at 2016-09-18 23:06 x
こんばんは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2016-09-19 16:32
こんにちは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2016-09-20 13:56
こんにちは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2016-09-21 11:20
おはようございます。
ポチ♪
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