ヒッタイトを滅亡させエジプトに攻め込んだ「海の民」とされる古代リキア民族の首都であった貴重な遺跡です。
「海の民」は多くの海洋民族の集合と言われていますが、詳しいことは判明していません。その鍵を握るのが、このクサントスを建設したリキア民族なのです。
↓クサントス遺跡全景
後期青銅器時代から地中海沿岸に居住したインド・ヨーロッパ語族系の人々が、クサントス、レトーン、トロス、ミラ、オリンポスといった都市を建設していきました。この都市国家の連合体がリキアという国で、ヒッタイトのボアズキョイ文書やエジプトのアマルナ文書ではルッカという名前で登場し、大いに繁栄したようです。
紀元前6世紀には、アケメネス朝ペルシアの侵攻を受け征服されましたが、自治を認められて共和制が行われたそうです。ペルシア帝国の盛期には、ダレイオス1世が実施したサトラップ(総督制)の一つに組み込まれました。
↓クサントス「柱の墓」と「ハーピーの墓」
紀元前6世紀に、アケメネス朝ペルシアの将軍ハパルグスは、クサントスを包囲し、勇敢に立ち向かうリキア人を全滅させたと伝えられています。いっぽう、ペルシア側もリキアの文化に影響を受け、現在イランのパサルガダエにあるキュロス2世墳墓は、ここクサントスの「柱の墓」=家形墳墓を真似たものだとする説もあります。
↓「柱の墓」のアップ
ペルシアのキュロス2世の墓については、 たびねす記事 か、 ブログ記事 を御覧ください。
「柱の墓」と比較しながら古代史の謎を楽しんでみるのも一興です。皆様のご意見は、いかがでしょうか?
この屋根のついたような「柱の墓」は、古いクサントスの様式を受け継いで作られたようで、パルミラの塔墓に似ていると感じる方もおられるでしょう。果たしてペルシアに影響を与えたかどうかは謎のままです・・・
↓「ハーピーの墓」のアップ
ハーピー(ハルピュイア)とは下半身が鳥で上半身が女性の怪物でギリシア神話に登場します。このハーピーのレリーフが上部に見られることから名付けられました。なお、この墓はレプリカで、オリジナルは大英博物館に所蔵されています。
↓「ハーピーの墓」の説明看板
↓「柱の墓」と「ハーピーの墓」を下からあおってドラマチックトーンで撮影
↓だいぶ崩れた塔屋
クサントスは、アケメネス朝ペルシアの後、アレクサンドロス大王の征服によっても略奪を受けました。そして、ギリシア・ローマに征服され円形劇場(アンフィテアトルム)やアクロポリスなどが建設されました。
このように、クサントスは重要地点として、何度も征服・破壊されましたが、そのたびに再建され、7世紀まで栄えたようです。
下の写真はクサントスの円形劇場の遺構です。エフェスやアスペンドスの円形劇場のように巨大なものではないですが、とても雰囲気があるもので、花が咲き旅情を誘います。
円形劇場のある場所から、現在の道路や駐車場を挟んだ反対側にも、クサントスの遺跡が広がっています。ローマ化された時代の大通り跡が見られ、第二のアクロポリスや、墓地遺跡であるネクロポリスもあります。
↓大通り跡をデイドリーム風に
さらに、キリスト教の教会跡もあり、海側に向かって下っていく形で遺跡が続いています。広大な場所に長期わたって繁栄した都市であったことが分かります。
このエリアで特に印象的なのは、あちこちに散らばっているモザイクです。ちょっとした道端にも鮮やかな下の写真のようなモザイクの跡を見つけることができます。まだまだ、発掘調査の途中ですが、今後も美しいモザイク装飾が発見されることが期待されます。
↓海の方に下って広がるクサントス遺跡
↓教会跡
↓クサントス遺跡の野花
↓印象的な看板ををウォーターカラー風に撮影して、クサントス遺跡を後にしました。
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ここにも円形のスタジアムがあるのですね。
大勢の人に何を見せたのでしょう?
ポチ♪
唯やはり、大通り跡や円形劇場を見ると、威光を誇っていた時代が忍ばれます。
広大なネクロポリスがいまや遺跡のメインかしら?
栄光を讃へんために築かれし塔なす墓も野の花に如かじ