晶子の文学碑は、堺の環濠に囲まれていた旧市街の東部に多く存在します。
これは、晶子ゆかりの寺や、母校の女学校などがあるからです。
まずは、本願寺堺別院です。
ここは、戦災を受けほとんど壊滅した堺の旧市街の中で奇跡的に焼失をまぬがれた大きな寺院です。
この本願寺堺別院は、北の御坊とも呼ばれ、室町時代に堺御坊として蓮如が布教活動を行った場所で、晶子が生まれた明治時代初期には堺県庁が置かれていました。
堺県というのは、明治初期に存在した県で、現在の大阪府南部(河内と和泉の国)と奈良県全域(大和の国)を合わせた大きな県でした。その後、大阪府の基盤を強化するため今日の大阪府と奈良県の行政区分に変更されました。
正面入った本堂左横に晶子の歌碑があります。
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ
この歌は晶子の創作活動の熟成期に詠まれたもので、晶子の歌人としての自負と創作信念が表現されています。
歌集『草の夢』の巻頭を飾った歌で、晶子の自筆を刻字したものです。
戦災の焼失を逃れた本願寺堺別院の本堂建物にふさわしいといえるでしょう。
本願寺堺別院のすぐ北側に小さな寺である覚応寺があり、晶子の歌碑があります。
この歌碑は傑作で特に美しく、私が一番好きな晶子の歌碑です。
その子はたちくしにながるヽくろかみのおごりの春のうつくしきかな
これは晶子自筆の扇面より刻字されたもので、扇型に草書体で「散らし書き」されています。
この歌は晶子23歳の時に発表された有名な歌集『みだれ髪』の代表的な作品です。
晶子が短歌の創作活動をはじめた当時、覚応寺には、跡取り(後に住職)の河野鉄南がいました。彼は文学青年で、与謝野鉄幹とは少年時代からの竹馬の友であり、晶子とは浪華青年文学会堺支会を通じて親交がありました。その後、東京で「明星」を主宰した鉄幹に晶子を紹介し、二人の仲人と自認していました。
こうした縁から、現在も覚応寺では、晶子の命日5月29日に晶子を偲ぶ「白桜忌」が開催されています。
本願寺堺別院や覚応寺から南へ下った場所に「とさのさむらいはらきりのはか」の道標があります。
これは明治初年にあった堺事件の場所です。
この「とさのさむらいはらきりのはか」の道標の東側に妙国寺があります。(上記写真の後方に見える寺)
この寺は、戦災を受け再建されたものですが、織田信長の大蘇鉄伝説や幕末の堺事件ゆかりの地で、晶子の「故郷」と題された詩碑もあります。
妙国寺は撮影禁止なので写真はお見せ出来ませんが、晶子の詩は堺の風物を見事に織り込んだ名作なので、紹介します。
故郷
堺の街の妙国寺
その門前の包丁屋(はうちよや)の
浅葱(あさぎ)納簾(のれん)の間から 光る刃物のかなしさか
御寺の庭の塀の内 鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく蘇鉄をば 立って見上げたかなしさか
御堂の前の十の墓 佛蘭西船に斬り入った
重い科(とが)ゆゑ死んだ人 その思出(おもひで)のかなしさか
いいえ それではありませぬ 生れ故郷に来は来たが
親の無い身は巡禮の さびしい気持ちになりました
妙国寺の南側すぐに大きな高校があります。
これが府立泉陽高校で、晶子の母校であり当時は堺女学校と呼ばれていましたた。
ここには、有名な「君死にたまふことなかれ」の詩碑があります。泉陽高校には西側の門から入ると泉陽会館の左側奥に詩碑が立っています。授業に差し支えなければ見学できます。
あゝをとうとよ 君を泣く
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
この詩は日露戦争に従軍した晶子の弟・籌三郎への思いを詠んだもので、時代や国を超えて人々の心を打つ作品です。
しかし、明治38年の発表当時は大きなセンセーションを巻き起しました。
大町桂月は「国家観念を藐視したる危険なる思想の発現なり」と非難しましたが、晶子は「当節のやうに死ねよ死ねよと申候事、又なに事にも忠君愛国などの文字や畏おほき教育勅語等を引きて論ずる事の流行は、この方却て危険と申すものに候はずや――」と反論しました。
晶子の勇気と真実を見抜く優れた洞察力に驚くばかりです。
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本願寺堺別院のあるこの場所だけは戦災を免れたのですね。
和歌山市の本願寺堺別院は戦災に遭いました。
堺が和泉・河内・大和を合わせて治めていたとは
知りませんでした。
ポチ♪
青石に散らし書きせる青春の讃美の歌碑を見まほしきかな
反戦の歌高らかに歌ひたる晶子の勇気讃へ継がなん