模糊の旅人
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マルコ福音書の作成時期と著者を推理する ~聖書の大地を行く(22)
2014年 05月 08日 |
ちょっと御意見を頂戴しました。聖書の文言に対し私説を書くことについて、中途半端で写真紹介にそぐわないという御批判です。
考えてみれば確かにその御指摘は当たっています。そこで、独自の私説展開は今回で終わりにして、次回からは、聖書の引用と、撮影場所の説明というシンプルな形を基本として、ブログの「聖書の大地を行く」シリーズを進めていきたいと思います。

私が長らく考えてきたのは、稀有な古典『マルコの福音書』を著した「マルコとは誰か?」ということです。
それだけは私見を書いてしまいたいので、中途半端にならないよう、マルコについての私の推理を、今日は思い切り展開して、福音書内容に対する独断的私説披露の最後としたいと思います(汗)、、、

↓ガリラヤの聖書の村にて
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・・・そして彼らの舟に乗り込まれた。そして風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。
そして
<kai>彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。 そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。(マルコの福音書6.51~56)

↓上記のマルコの福音書の6章部分の断片らしきものが発見されたクムラン遺跡
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上のクムラン遺跡の第7洞窟で見つかった小さな断片7Q5が、マルコの福音書の最古の写本である可能性があるのです。
スペイン人神父ホセ・オカラハンの説によれば、この7Q5こそ、マルコの福音書6.52-53の断片だそうです。

↓断片7Q5(真ん中に、kai<そして>という言葉が確認できます)
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・・・そして彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に・・・

このホセ・オカラハン説に対しては賛否両論がありますが、私は、「kai」(そして)というマルコが多用する特徴的な、文頭の接続詞が見られることから、マルコの福音書の断片である可能性は高いと考えます。

そして、C.H.ロバーツという古文書学者によれば、断片7Q5の作成年代はどんなに遅くともAC50年であるとしています。

もしこれが正しければ、通説より一挙に10年以上遡ることになります。
つまり、写本が遅くともAC50年ということは、原マルコの福音書が書かれたのは、AC40年代ということです。


イエスが十字架刑に処せられたのはAC30~32年の間というのが最有力ですので、その後、わずか10数年経過後に原マルコの福音書が書かれたという可能性が出てきたわけです。

少し時期が早すぎるような気もしますが、マルコは少年~若者時代にイエスを見ていたと私は考えていますので、その時、マルコは10代中頃だったとすれば、それから20年弱経過して、30代半ばで、原マルコの福音書を書いたことになり、世代的にも整合します。

まあ、余裕をみて、AC50年代に書かれたとしても、遅くともマルコは40歳くらいに福音書を著したのではないでしょうか。。。


「マルコは少年~若者時代にイエスを見ていた」というのは、あくまで私の仮説ですが、マルコの福音書の書かれた状況を考えると、十分にあり得る話です。

マルコは、イエスの姿を正しく伝えねばという強い衝動に駆られたのです。
このモチベーションの高さは、実践行動の人イエスを実際に見ていたからだと思います。
ユダヤ教ナザレ派として小ヤコブのもと妥協をはかるエルサレムの原始キリスト教会や、十字架贖罪論だけを展開するパウロ神学に対し、それは違うという危機感をもったのでしょう。
だから、福音書という形式を発明し、物語の中で生き生きとしたイエスの言行をよみがえらせたのです。


上記の写本断片が発見されたクムランは、死海の北西端にあり、エッセネ派が修行していた場所と考えられ、数多くの古代写本が発見されました。現在その死海文書といわれる写本等の資料は、エルサレムの死海写本館にありますが、それについては後日、紹介する予定です。

↓クムランの場所
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それでは、この著者マルコとは、いったい誰でしょう?

マルコの福音書の書き方から見て、マルコはギリシャ語を母語とはしないユダヤ人であることは確実です。
ペトロの通訳であったという伝承もあり、恐らくは、現イスラエル~パレスチナの人で当時の国際語としてギリシャ語もしゃべっていた人でしょう。
また、ガリラヤに詳しい人であることも間違いありません。福音書を書くにあたって、ガリラヤを歩きイエスの事跡や民間伝承を研究しています。


聖書の中にマルコという名前は何度も登場します。

使徒公伝では、12.25、13.13、15.37に、マルコと呼ばれていたヨハネが書かれています。


バルナバとサウロ(パウロ)とは、その任務を果したのち、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた。(使徒公伝12.25)


パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネ(マルコ)は一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。(使徒公伝13.13)


そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。
しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。
こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
(使徒公伝15.37~40)


このマルコが、福音書著者のマルコであるとは書かれていないので、確実ではないのですが、パウロと喧嘩しているところなどは、いかにもマルコの福音書の著者らしいなあという気はします。
年代的にもこの使徒公伝の出来事はAC50年頃ですので、福音書著者のマルコの年代と重なります。


パウロ書簡でもマルコは登場します。
「フィレモンへの手紙」でパウロはマルコの名前をあげています。

わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。(フィレモンへの手紙1.24)

あと、「コロサイ人への手紙」では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として登場します。

わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。(コロサイ人への手紙4.10~11)

「割礼の者」というのはユダヤ人ということです。
こうした記述も、果たして福音書著者のマルコと同一人物であるかどうかは分りません。
ただ、もし同一人物であれば、パウロとマルコは確執がありながら協力もしあっていたようで、興味深い人間関係が想像されます。

最後の晩餐は、マルコと呼ばれたヨハネの母の家で行われたという伝承もあります。

↓イスラエルの国の花:シクラメン(イスラエルはシクラメンの原産地で、野生の原種シクラメンが自生しています)
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聖書には掲載されていない古い伝承では、福音著者マルコはペトロの通訳であったとされています。

そして、マルコは、エジプトにはじめてキリストの福音を伝え、アレクサンドリアの教会の創始者となったという伝承もあります。
9世紀には、ヴェネツィア商人がアレクサンドリアにあったマルコの聖遺物を持ち帰り、聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となり、サン・マルコ広場やサン・マルコ大聖堂が建築されました。
ヴェネツィア共和国の国旗は、マルコを示す聖書を持った有翼の金のライオンです。

↓ラベンダーと菜の花(まさしくガリラヤの春でした)
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ところで、マルコ自身の姿は、マルコの福音書に見られるでしょうか?

ひとつだけ、古くから言われてる印象的な噂伝承があります。

それは、エルサレムのゲッセマネの園で、イエスが捕えられ、弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去った時、イエスの後を追った若者こそマルコだとする伝承です、、、


弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
(マルコの福音書14.50~52)


弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去った後も、一人の若者がイエスのあとを追ったのです。
ここの書き方が実に微妙です。。。
この若者はイエスを追ったのですが、捕まえられかけたので、亜麻布を剥ぎ取られ、やむを得ず、裸で逃げて行ったのです。
12使徒の直弟子たちより後までイエスを見捨てなかった若者、すなわち直弟子よりイエスを慕っていたというような書き方です。

私はこれぞ、マルコが自分自身を密かに自画像として、福音書に登場させた姿だと思います。

実践するイエスの言行を見て、イエスを慕った少年マルコ、、、、イエスが捕えられても出来るだけその後を追おうとしたマルコ、、、、彼は、イエスの十字架刑まで、イエスの受難を密かに遠くから見守ったのではないでしょうか。

ここからは私の全くの想像ですが、マルコはエルサレムに居住していて、最後のイエスの伝道に同行したのだと思います。まだ少年でしたので、12使徒のように古くからのイエスの弟子だったわけではありませんが、イエスの治癒実践に接して感動し、イエスの弟子となり慕っていたのでしょう。

イエスの死後、マルコはペトロの通訳として奉仕しながら、ペトロからガリラヤ時代のイエスの話を聞いたのです。
後日、マルコは、イエスの生き生きとした福音物語を書きたいという衝動にかられ、自らもガリラヤを歩き、イエスの民間伝承を拾い集めたのでしょう。

そして<kai>、(1)自分の少年時代に見たイエスの言行と受難、(2)通訳としてつかえたペトロから聞いた話、(3)ガリラヤを歩いて得たイエスの民間伝承を、物語的にまとめ、福音書としたのです!

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by mokonotabibito | 2014-05-08 08:29 | イスラエル | Trackback | Comments(7)
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Commented at 2014-05-08 16:12
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by vimalakirti at 2014-05-08 20:01
こんばんは。
マルコがだれであったか、たいへん興味深いテーマですね。
手元にある「フランシスコ会訳の新訳聖書」にも、14章51〜52節の
記述について、「この記述は本書にだけ見られる。本書の著者だけが、
この余談的なことを書き記しているので、この若者は著者自身かも
しれないと考えられる」と注が付されています。マルコの熱のこもった
キリスト論に照らして、糢糊さんの推理はさもありなんと思わせるものです。
買っただけでまだ読了していない『治癒神イエスの誕生』を読んでみたいと
思いました。この記事を拝読して、40年以上のむかし、ちょっとだけギリシャ語を
勉強したときのことを思い出しました。「初めに言葉ありき。言葉は神なりき」の
ギリシャ語、あいまいな記憶ですが、「エンアルケー エン ホ ロゴス、
kai ホ ロゴス トン テウー」でkaiが出てきました。ふる〜い思い出が
こんなところでひょっこり出てくるのですから、人間の頭って不思議ですね!
今後の記事も楽しみにしています。ときどきはどうぞ自説を開陳してください。
Commented at 2014-05-09 04:24
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Commented at 2014-05-09 08:12
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2014-05-10 16:06 x
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Commented at 2014-05-10 16:42 x
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Commented at 2014-05-10 18:39
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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