模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)
2014年 04月 13日 |
イエスはガリラヤのナザレで育ちました。

ナザレのあたりのガリラヤ地方は、砂漠や荒野ではなく、平原で緑が多いところから、地勢的にアフリカからアジアに出る回廊として遥かな古代から人の往来が多く、重要な交易ルートや幾多の王国の係争地にもなってきました。

なかでも有名なのがエジプトとメソポタミア(アッシリア)の交易ルート中継地として栄えたイズレルの谷のメギドという都市国家です。このメギドこそ最終戦争ハルマゲドンの地とされています(ハルマゲドンとはヘブライ語でハル=丘+メギドすなわち「メギドの丘」を意味するため)。

↓現在のメギド付近(予想していたより起伏の少ない場所でした)
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22475715.jpg

↑ここは、紀元前15世紀にトトメス3世率いるエジプト軍とカデシュ王率いるカナン連合軍との戦いの場でもあり、エジプト側が勝利したことがテーベ(現ルクソール)のカルナック神殿のヒエログリフに記録されています。
このメギドの戦いは、複合弓の使用、死者数などの記録が詳細に残る歴史上最古の戦いです。


さて、メギドからほど近いナザレの街は、緑の多いガリラヤの平原に大きく盛り上がった丘の上に位置しています。
ガリラヤの平原を見下ろすような場所ですので、古くから通商交易が行なわれていたようです。イエス父母も含めて商工業者が多い街だったのではないでしょうか。

↓丘の上に遠くナザレの街が見えてきました。
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_20553629.jpg

↓ナザレの街に入ります。
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22484465.jpg

ナザレの現在は割と大きな街ですが、イエスの育った当時は、小規模の街であったそうです。

すでに 聖書の大地を行く(5)~(7)で紹介したナザレの受胎告知教会のすぐそばに、聖ヨセフ教会があり、ここがイエスの育った場所とされています。

↓聖ヨセフ教会
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22495727.jpg

↓聖ヨセフ教会外壁のマリア、イエス、ヨセフの家族像
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22502613.jpg

イエスの父(養父)ヨセフは大工でした。
したがって、イエスも大工として育てられたと考えられています。

↓聖ヨセフ教会入り口にあるヨセフの指導を受けるイエスの図
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22512038.jpg

↓(参考)ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの傑作絵画「大工の聖ヨセフ」(パリ・ルーヴル美術館)
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22521212.jpg

↑これは私がルーヴル美術館で最も好きな絵のひとつです。少年イエスのかざすロウソクの灯りに照らされて父ヨセフの梁に穴を開けている大工仕事がリアルです。一本のロウソクが映し出す光と闇の調和が素晴らしい傑作ですね。

聖書にはこうしたイエスの少年時代のことは書かれていないのですが、ここナザレで大工の息子としてイエスは育ったのですから、恐らくこれと似たような情景が実際にあっただろうと想像されます。

↓聖ヨセフ教会内部にあるイエスの住居跡とされるもの
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22535528.jpg

↓ヨセフの仕事場跡とされ東ローマ帝国時代には地下礼拝所として使われたとのこと。
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22541996.jpg

ここはまさに
「エルドロンの野に面した丘の岩壁に横穴を掘った何軒かの家・・・その岩窟のひとつが、この子供を、この青年を、この一人前の男を、職人と聖母の間に、かくしていたのである」(モーリヤック『イエスの生涯』)
という一節を彷彿とさせるものでした。

決して豪華ではなく、洞穴住居を改造したものであったようです。ここでイエスは、大工の父の手伝いをしたり技術を教えてもらったのかと思うと、静かな感動を覚えるのでした・・・

↓聖ヨセフ教会の祭壇
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_22551925.jpg

↓聖ヨセフ教会の内部にある父子像
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_2256618.jpg

↓夕暮れのナザレの街にて
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_1455685.jpg

イエスの少年時代は、ほぼ上記の絵画や住居跡が示すような質素な雰囲気であったろうと考えられますが、問題はイエスの青年期です。

前回のエントリーで分析しましたようにイエスは庶民の出身で普通の人として少年期を過ごしています。

現在のナザレの街は、受胎告知教会や聖ヨセフ教会などのキリスト教会を除けば、イスラム教化された普通のアラブの街です。
イエスの頃は、さらに小さかったようですから、さしたる特徴のないごく普通の庶民の街だったのです。

大工の子であるイエスは、どう見ても当時の高等教育や、金持ちの私塾のようなものを経験したとは考えられません。
ましてや当時の一般的ユダヤ人の常識からは「ナザレから何の良いものが出るだろうか」(ヨハネの福音書1.46)と言われたように目立たないナザレとういう街で育ったのです・・・

いったいどこでどうやってどういうわけで、イエスの宗教的覚醒と優れた認識が生まれたのでしょうか?
これこそ、イエスの足跡をたどって行きたい私にとって、最大の疑問点であると言えるのです。

その点についての私の独断による推理を、以下の More で書きましたので、御興味のある方はお読みください。

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。



More 青年期のイエスの覚醒についての私の考え方

以下は、全くの私の独断と偏見による意見ですので、あくまで参考として読んでいただければ幸いです。


マルコの福音書などに見られるイエスの、ユダヤ教に対する深い理解、硬直化したユダヤ律法に対する問題意識、弱者に対する温かく大きな器の人格、癒しの奇跡能力、たとえ話や逆説的表現を可能とする説話術、そしてなによりも透徹した世界認識と宗教的見識というものが、いったいどのようにして、このナザレという田舎の寒村で培われたのでしょうか?

イエスは本来こうした資質は有していたでしょうが、その資質が大きく開花したしたのは、何ゆえなのか?
突然このような能力が降ってわいたように身についたとはどうしても思えません。

イエスの青年期は聖書には全く書かれていませんので、ここはもう歴史的な状況証拠を集めるか、想像するしかありません。

そこで、これまで論じられてきた研究者や識者の理論などを参考に、私なりの独断で整理してみます。

(1)「ガリラヤ地方は古くからの交易の要衝であり多くの文化が交錯する場所で、ユダヤ教の中心地から少し距離を置く外縁地域でもあったことが広い視野をもたらし、イエスのような存在を生んだ」

と一応は考えられますが、それだけではキリストたるイエスが出現したことを説明し得ません。


(2)「ガリラヤ地方はローマ支配とユダヤ教支配から二重に搾取されており、さらに社会的に差別されてきた下層民が多く存在して、いわば社会矛盾が集積した場所であったゆえに、救世主を必要とし、イエスを生んだ」

とする革命家イエス説のような考え方もあります。
辺境ガリラヤに生きる民衆の立場を重視するわけですが、こういう面もあったでしょうが、少し現代的に解釈しすぎのような気がします。


(3)「ガリラヤ地方のユダヤ教のシナゴーグに若き日より足しげく通い、律法学者ラビの説教や討論の中でイエスは優れた認識を得て来た、あるいはラビそのものであった」

ということは大いに考えられる状況です。ラビ=先生という意味では聖書でイエスはそう呼ばれています。
しかし、ガリラヤ地方のシナゴーグだけでは、ここまで大胆なイエスの言動を得られるでしょうか。ラビのような存在であった可能性もありますが、そこから大きく踏み出したイエスの伝道を説明しきれません。


(4)「エッセネ派の宗教活動に身を投じ、特に洗礼者ヨハネの集団に青年期から参加していた」

ユダヤ教の一派で俗世間から離れて自らの宗教的清浄さを徹底しようとしたグループであるエッセネ派は、洗礼者ヨハネに近い集団で、イエスがそこに参加していた可能性は十分にあります。
ただ、聖書にはサドカイ派やパリサイ派のことは何度も出てくるのに、エッセネ派のことは全く出てきません。また、エッセネ派は荒野に住む閉じた集団であり、イエスのように一般世間に向かって伝道していくことはないはずです。
イエスの師ともいうべき洗礼者ヨハネについては別に検討する必要がありますが・・・


(5)「若い時から親元を離れ、大工の技を生かした流浪生活をして体験を積み認識を広げていた」

確かにユダヤ教本線から距離を置くイエスの広い見識は、ナザレという狭い田舎街に暮らすだけでは得られないでしょう。
大工といっても当時は季節労働者のようにあちこちを移動していた可能性が高いですし、またひょっとして若いうちに家を飛び出して放浪していたのかも知れません。
コリン・デ・シルヴァの『イエスの若き日』という小説では、イエスは12歳でナザレから消えインドでの厳しい修行を経て救世主として帰還したとされています。これはちょっと無理があるストーリーですが、ブッダとイエスには共通点があるので、なかなか面白い発想です。
イエスの育ったナザレの街 ~聖書の大地を行く(12)_f0140054_23202152.jpg

(6)「イエスに独自の個人的覚醒体験があった」

とも考えられます。
これは、まさに独特の宗教的な霊感体験を得たか、ユダヤ教の枠組みを超える宗教の普遍的真理を神からの啓示で突然得たとするものです。
宗教者のこうした霊的体験はよくあるもので、これを否定するわけではありませんが、福音書に垣間見られるイエスの透徹した認識は、単に宗教的啓示のみでは説明しきれないように感じます。また奇跡を可能とする力は救世主イエスだからで、突然の啓示で獲得したとする聖書の説明はありません。


以上、(1)~(6)のような状況が重なってキリストたるイエスが誕生したのだと思います。
私見では、(3)(4)(5)の原因が不可欠で、特に(4)のエッセネ派的な洗礼者ヨハネの影響は最も大きいと考えます。


私の勝手な大体の想像は以下のとおりです。。。


イエスは、ガリラヤ地方というユダヤ教中心部から離れた諸文化の交流する場所で育ち、社会と宗教についての批判的問題意識を得られる環境にありました。
実直な父から大工仕事を学ぶとともに、若き日からユダヤ教のシナゴーグに真面目に通い、ラビの話を聞き、ある程度の素養を身に着けていたのです。
ナザレという街は寒村で、貧困や病や差別で苦しみを味わう人も多かったことが、人々を救いたいという若い青年意識を生んだのかも知れません。
そして、季節労働者の大工としてあちこちを移動して働くようになり、大きな街の文化にも接し、さらに深く社会的矛盾や宗教的な問題点も感じたのです。
各地のシナゴーグなどに入って議論したりラビ的な経験も積むこともありました。

しかし、それだけでは納得できる回答を得られず、ナザレの家から20歳くらいで出たのではないでしょうか。
放浪をしてたどりついたのは、エッセネ派が活動する場所でした。きっとエッセネ派のように荒野で修業もしたことでしょう。
ただ、エッセネ派の孤高な態度だけでは世を変えたり人々を救うことはできません。
そして、エッセネ派から出て、民衆を洗礼する活動をしている洗礼者ヨハネに出会ったのです・・・

やがてイエスは宗教的覚醒体験を経て、ヨハネの洗礼を受け、伝道の活動に踏み出します!


ということで、次回は、洗礼者ヨハネとの関連へ進むことにします。
by mokonotabibito | 2014-04-13 22:58 | イスラエル | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : https://mokotabi.exblog.jp/tb/21784785
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented at 2014-04-14 12:04
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2014-04-14 14:31
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
<< 洗礼者ヨハネとイエス ~聖書の... PageTop 若き日のイエスの謎 ~聖書の大... >>
XML | ATOM

会社概要
プライバシーポリシー
利用規約
個人情報保護
情報取得について
免責事項
ヘルプ
Starwort Skin by Sun&Moon