模糊の旅人
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2022年 11月 10日 |
長い文章の記事が続きましたので、今回は模糊の料理教室の軽い内容です。冬瓜を使った餃子を紹介します。

冬瓜餃子(とうがんぎょうざ)というのは、満州育ちの父に教えてもらった料理です。
自家菜園で冬瓜が出来たのと、父の満州記事を書いたので、良い機会だと思い、冬瓜餃子を作ってみることにしました。

冬瓜(冬瓜としては中くらいの大きさですが、これでも存分に使い手があります)
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満州の長い冬では、長持ち保存できる野菜は白菜と冬瓜くらいしかありません。
中国では冬瓜は喜ばれる食材で、消化が良く、保存が効くことから、日本よりポピュラーな野菜です。白菜は日本でも餃子の餡材料としてよく使われますが、冬瓜を使う餃子は珍しいので、紹介することにしました。

満州は、前回記事に大きく載せた父の温度グラフ図表で分かるように、夏は京都並みに暑いので冬瓜やコウリャンなどの夏作物は作ることができます。(一方、グラフ図の下のほうにある樺太の敷香の場合、冬の寒さは満州と同じでも、夏は最高15度くらいのため、冬瓜のような南方系夏野菜は作れません)

冬瓜餃子の作り方

冬瓜を半分に切ると、こんな感じ。この半分を餃子に、もう半分を煮物料理と炒め料理にしてみます。
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まず、冬瓜の外皮と中ワタを取り、適当に切ります。
↓次に、半分の身をみじん切りにします。これでも半分の半分くらいで量が嵩張ります。
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みじん切りにしたら、鍋で軽く茹でて、ギュッと絞ります。そうすると、身の量が半分以下になります。(あまり長く茹でると冬瓜餃子の美味しい特徴であるシャキシャキ感が消えますので、茹ですぎないことがコツです)
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先に冬瓜を茹でて絞る理由は、(1)生のままだと餃子を焼いた際に身が縮み皮との間に隙間ができてクシャっとした餃子になってしまう、(2)生臭さが消える、(3)何より量を圧縮することで沢山の温野菜を食べられるので身体に良いオカズになるからです。

↓お好みの量の刻み肉(今回は合い挽きミンチを使いました)、少々の塩コショウ・スリおろし生姜(チューブでも良い)を混ぜ込み餡を作ります。味付けはお好みですが、あっさりした優しい風味が冬瓜の持ち味なので薄味が良く、食する際に餃子のたれで調整すれば十分です。(なお、中国では基本的に餃子にニンニクは使いません。なぜなら、中国の家庭で一般的な水餃子は、ニンニクを入れると不味くなるからです)
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本来ならば、餃子の皮も手作りすると非常に美味しいのですが、コツが必要で練ったり寝かしたり成形したりの手間がかかります。今回は餃子皮が特価だったので30枚入りの市販の皮を使用しました。

餡を皮に包んでいきます。30個はフライパンに入れて焼くのにちょうど良い量。一人で食する場合は多すぎるので、焼いた半分は冷蔵庫で翌日、あるいは冷凍しておきます。
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満州の家庭の餃子は水餃子が主流(水餃子というのは鍋で茹でてから取り出し皿に並べて食べるもので、スープ餃子ではありません)。餃子専門店では蒸餃子が主流で、それについては、この記事の最後をご覧ください。

そして大量に作り残ったものを翌日に焼餃子にしたそうです。つまり、日本風の焼き餃子は残り物二番餃子なのです(笑)・・・というより「ライスカレー」や「ナポリタン」「とんかつ」と同じようにもう焼餃子」は日本料理でしょう。

↓今回は日本的にフライパンで焼きます。
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↓うまく焼けました! タレは酢醤油でじゅうぶんです。
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冬瓜餃子の特徴は、シャキシャキした食感。それも固くはなく、適度の優しい歯触りに、上品な風味が出てとても美味しいです。
筆者は餃子の中では、この冬瓜餃子が一番好きで、秋のシーズンになると何度も作って食べます。

つけあわせ


餡が残った場合は、つなぎに少しのパン粉か卵を加えて、ハンバーグを作ります。

↓今回も残った具で冬瓜ハンバーグを焼きました。
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余ったら冷蔵か冷凍しましょう。残り物利用ながら、立派なメイン料理になります。
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次に、冬瓜にあり合わせの野菜と豚肉を入れて、冬瓜の煮物を作りました。こちらのほうが、一般的な冬瓜料理でしょうね。

↓小分けして必要な分だけ食べます。大きい具が冬瓜で、大根ではありませんよ。
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↓さらに、冬瓜の炒め物:つまりは冬瓜イリチーも作ってみました。煮物より冬瓜をやや薄切りにします。やはり冬瓜には豚肉が合いますね。
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これだけ作ってやっと冬瓜が無くなりました。煮物も炒め物も、沢山できるので、冷蔵・冷凍にもしておきます。


ということで、中くらいの冬瓜をさばいて、料理を各種つくり、冷蔵冷凍を駆使して、一週間くらい冬瓜関連料理を楽しみました・・・見方によっては、冬瓜で一週間生き延びたといえるかも(爆)

冬瓜追補

↓こんな文庫本大の可愛い冬瓜もできましたので、切らずに冷暗所に保存すれば正月までいけそうです。
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父によると、満州の秋冬の餃子の具は白菜と冬瓜が主ですが、もうひとつ酸菜(スヮンツァイ)というのがあったそうです。酸菜とは白菜を塩漬けして発酵させたもので、冬から春まで長持ちするので満州の冬のおかずの代表的なものです。ただ、京都出身である父の家族は漬物類には強いこだわりがあり、もっぱら美味しい京漬物を樽ごと日本から取り寄せ、酸菜は食べなかったそうです
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冬瓜が中国で喜ばれる食材である理由のひとつは、満州族が中国全土を制して開いた王朝である清国において宮廷料理としてもてはやされたことにあります。豪華な宮廷料理の中心として冬瓜は細工を施され食べられる容器的に用いられたのです。
現在では広東料理の冬瓜盅(とうがんちゅう、トンクワチョン)という料理名で、宴会料理の主役となっています。

↓広東料理店での冬瓜盅
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もちろん、冬瓜は中国では薬膳料理の重要な素材であり、種は干して冬瓜子と称される生薬になります。


著者が愛好する沖縄料理に「ンブシー」というのがあり、シブイ(冬瓜)かナーベラー(へちま)を主にして、豚肉や豆腐も加えた味噌煮です。つまり、今回つくった上記のつけあわせ煮物に味噌と豆腐を加えればンブシーになるのですが、冷凍に適さないので、今回はパスしました。
正確に言うと、ウチナーグチで「蒸す」を「ンブシュン」ということから「ンブシー」という言葉は来ており、味噌煮というより味噌蒸しなので、本来は水を使わず味噌・ダシと冬瓜などの野菜自身の水分だけでじっくり蒸し煮する料理です。

冬瓜ンブシー
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なお、沖縄方言では、冬瓜のことを本島でシブイ、宮古でスープ、八重山でスブルといいいます。
南方系野菜だけに、沖縄は日本一の冬瓜生産県。現在日本中で栽培されている冬瓜は、沖縄で品種改良された琉球冬瓜系のものがほとんどで、その特徴は、表面にブルームという粉をふかず、グリーンでつるっとしている点です。


最後に、余談ですが、父の足跡を訪ねて旧満州を旅した際、本場の餃子を食べようと、奉天(現・瀋陽随一の餃子専門の老舗「老辺餃子店」に行ってみました。美味しい蒸餃子(蒸籠に盛ってある)と水餃子(皿に盛ってある)はありましたが、やはり焼餃子はありませんでした(笑)。また、冬瓜や法蓮草を使った餃子はありましたが、ニンニクを使った餃子はありませんでした。

↓蒸餃子
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↑店では蒸餃子が主流で、蒸籠が何段にも重なって出てきます。

水餃子もありました。
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2022年 10月 16日 |
父の足跡を訪ねて旧満州への旅シリーズは、次回で最終回を迎える予定です。

今日は、「父の愛した映画たち」と題して、父が満州で見た映画を中心に書いてみます。

その旧満州紀行関連のブログ記事の一覧については、こちら をクリックしてご覧ください。

↓父の残したアルバムには絵日記や図表なども豊富に貼ってあります。
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旧満州の気候

父の残したアルバムには、当時住んでいた奉天などの昭和7年の平均気温を記録したグラフ図が貼ってあります。
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↑丹念な父の性格が出ているのみならず、地球温暖化の歴史を見るようです。(当時27度だった京都は、今や、2022年8月9日の一日平均気温は32度、最高気温は36度)
満州はといえば・・・8月頃はあまり京都と変わらないものの、冬の満州各地は旭川よりもはるかに寒いのです。この図の記録はあくまで昼夜の平均気温ですので、日中の最低気温は、奉天でマイナス20度以下だったそうです。新京(現在の長春)に至ってはマイナス35度の日も!・・・

ということで、満州の生活・・・夏の日曜日は楽しく昆虫採集やハイキングに行けましたが、満州の夏は短く、長い冬ともなれば最低気温はマイナス20度以下・・・こんな世界で思春期を迎えた父の娯楽と言えば「映画」でした。
当時、テレビやゲームやコミックがあるわけもなく、30年代に本格化したトーキー(同期した音声入り映画)は若者の娯楽の王様として君臨しました。満州まで来てくれる優れた劇団や音楽家は少ないですが、「映画」なら映画館さえあれば内地と同じものが見れます・・・

映画たちの残照


↓父が残したアルバムに書かれた七年間に見た映画リスト・・・(クリックすると横1000ピクセルに拡大します)
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↑1934~1940年とあります。1941年には太平洋戦争が勃発し、日本では洋画の上映が禁止され、父は映画を見なくなったのです・・・・

映画の種類を見てみると、多くは洋画で、当時主流だったチャンバラ(時代劇)やプロパガンダ軍隊映画はありません。
唯一の軍事的映画は『土と兵隊』です。この映画は火野葦平原作のヒューマニズム溢れる兵隊の行動を描いた名作で、その兄弟作『麦と兵隊』の原作については「この小説の著者たる日本人青年が善良であること、そしてこの作品が偉大なものであることを否定できない」と日本の大陸進出に批判的だったノーベル賞作家パール・バック(『大地』の原作者)も褒めています。

ヒューマンという意味では、喜劇やアニメの世界が新たな展開を見せます。それが心温まる作品をつくったディズニーとチャップリンです。
父が「全く楽しい珠玉篇」とコメントしているように、当時売り出し中のウォルト・ディズニーは、1928年にミッキーマウスをデビューさせ、トーキー映画の短編アニメを成功させ、やがてミッキーはディズニーの象徴にまでなりました。
チャップリンはトーキー化を拒否したものの、喜劇でありながら人情味があり、ヒューマンタッチと楽しさを兼ね備えた作品『街の灯』『モダン・タイムス』は「しかも楽しいチャップリン」と父が書くように、大衆の人気を得た成功作となりました。
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こうして、大衆娯楽というか大衆芸術の王道として映画がもてはやされたのです。

奉天など満州の都会は僻地ではなく、日本人街に住む人たちは、普通の人でも映画を楽しみました。入場料も安く話題作には人々はどっと押しかけました。
内地では大震災や金融危機を脱し、1930年代になると、ある程度景気が上昇しはじめ、文化的には「モダン ライフ」がもてはやされ、その先端が映画でした。満州の日本人街も敏感に反応し、あだ花を咲かせるかのように流行を取り入れたのです。最盛期の1939年~40年はじめには満州各地で150館もの映画館があり、日本人向けの日系館では日本映画や欧米映画が上映され、中国人向けの満系館では上海映画や満州映画が上映されました。
十代の半ばにさしかかった思春期の父にとって、欧米の物語の現場に生きることができる映画館はまさに夢のような世界でした。貴重な小遣いを握りしめて日系館に通ったのです。
いわゆる「昭和モダニズム」とか「昭和モダン」と言われる時代でした。もちろん実は、すぐそばに、戦争の足音が刻々と近づいて来ていたのですが・・・

満州には、満映という映画制作会社があり、かの甘事件で知られる甘粕正彦が理事長として君臨し、国策映画を多数作成しました。結構、需要があったようで、啓民・時事ニュース映画を含めた合計で906本を作成しました。ただ、上の父のリストには満映作成の映画はありません。父はこうした映画は好きではなかったようです。

満映の看板スターは李香蘭で、長谷川一夫と共演した『白蘭の歌』などの大作もあります。↓
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フランス映画

父のリストで目立つのはフランス映画です。『巴里の屋根の下』『巴里祭』『乙女の湖』『みどりの園』『外人部隊』『白き処女地』『我等の仲間』『望郷』『地の果てを行く』『自由を我等に』『格子なき牢獄』『商船テナンシチー』『どん底』『女だけの都』『にんじん』『シュヴァリエの流行児』『禁男の家』『夜の空を行く』『南方飛行』『不思議なヴィクトル氏』『家なき兒(1934年版『レ・ミゼラブル(1934年版)』『罪と罰(1935年版)『巨人ゴーレム(1936年版)』・・・と30年代フランス映画の名作が並んでいます。

1938年を例にとると、日本映画は534本製作公開され、外国映画はアメリカ103本、ドイツ14本フランス12本、イギリス12本が日本公開されています。公開本数の割合からすると、父のフランス映画への偏愛ぶりが分かりますね。

当時のフランス映画は、トーキー時代に適応した天才監督ルネ・クレールの登場により、詩情があるということで人気を誇っていました。『巴里の屋根の下』『巴里祭』『自由を我等に』はその代表作です。その『自由を我等に』の一部を剽窃したのがチャップリンの『モダン・タイムス』なのですが、それを指摘されたルネ・クレールは気にせず相手にしませんでした。人が良すぎるのか、太っ腹なのか? 両方を同時代的に見た父はどう思ったのでしょうか・・・

詩的レアリスムと呼ばれる30年代フランス映画の特徴は、敗北の美学とでもいうべき、暗さの美化にあります。それが父のようにナイーブな青少年たちの心の琴線に触れたのでしょう。おそらく、詩的レアリスムの背景には、隣国ドイツでヒトラーのナチスが台頭し、戦争が迫ってくるというフランス知識人の危機感と絶望感が反映していると思われます。

↓フランス映画の詩的レアリスムの出発点『巴里の屋根の下』
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↑父が「歌声云々・・・」と書いているように、トーキー初のフランス映画として音の使い方が見事。ストーリーは大したことないものの、酒場のドアを開ければ音楽と声が聞こえたり、喧嘩の怒声が機関車の騒音でわざと消されたり、、、、音の遠近感が素晴らしいです。

さて、特に父が評価するフランス映画が『我等の仲間』で「僕の好きな映画だ」とコメントが残されています。お気に入りの男優は当然『我等の仲間』のジャン・ギャバン、女優は『格子なき牢獄』のコリンヌ・リシェール。
たしかに、『白き処女地』『我等の仲間』『望郷』『地の果てを行く』『自由を我等に』『どん底』『女だけの都』・・・ギャバンの魅力が溢れる作品たちが沢山リストアップされていますね。ただ、残念なことに、ギャバ主演で30年代フランス映画の最高傑作とされる『大いなる幻影』は、リストアップされいません。なぜなら、その反戦的内容から輸入されたものの検閲により上映禁止となってしまったのです。

↓若き日のジャン・ギャバン
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ジャン・ギャバンは、最初は地味な俳優で鳴かず飛ばずでしたが、『地の果てを行く』で人気となり、『我等の仲間』『望郷』によりその名声を不動のものとしました。
父が好きだった『我等の仲間』(原題 La belle equipe =美しい組班)には、悲劇版(フランス公開)とハッピーエンド版(アメリカ公開)があるのですが、筆者は両方収録されているDVDを見つけたのでさっそく手に入れました。
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↑両方を見てみましたが、予想通り、悲劇版のほうが良かったです。詩的レアリスムの旗手たるジュリアン・デュヴィヴィエ監督なのですから当然ラストは努力が報われず悲劇で終わるのです。ただアメリカ人にはハッピーエンドが受けるのでしょう。当然ながら、父が見たのも悲劇版で、ハッピーエンド版は日本では公開されませんでした。

筆者などは、ジャン・ギャバンといえばアラン・ドロンと共演した『シシリアン』で見られる65歳の老境に達した貫禄あるオヤジというイメージです。父のおかげで1930年代の若き日のギャバンの魅力を知ることができました。ギャバンは本当に長い間、銀幕のトップスターでありつづけたわけですね。


次は逆に短期間で消えたフランス映画女優の話を簡単に・・・

↓父のお気に入りフランス女優:コリンヌ・リシェール
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『格子なき牢獄』は日本では1939年に公開され大ヒット。たった一本の作品で、しかも三人の主役の一人に過ぎないのに、リュシェールは当時の日本の知的な青年たちに熱狂的に支持されました。日本だけで彼女のブロマイド売り上げは、2ヶ月間で15万枚! 父もファンの一人で、リュシェールの作品をもっと見たかったようですが、数少ない他の作品は残念ながら満州では配給されなかったそうです。
実際の彼女は佳人薄命そのもの。病弱で家庭環境は放埓で最悪、戦後は彼女の父が対独協力の罪で銃殺刑となり、彼女自身も投獄され、わずか二年で銀幕を去り28歳で没しました。

コリンヌ・リシェールは、一瞬の光を放って消えた、いわゆる戦中派~焼け跡世代の幻のアイドルのような存在だったのです。シェールについて識者などが語った言葉を以下に少し引用します。

遠藤周作われわれの青春時代の象徴である
野坂昭如「戦死者をもっとも多く出した世代の、銀幕の恋人なのだ
堀口大学「これは大した女優である
亀井勝一郎「恐らく現代フランス女性の一番見事な典型
東郷青児「又巴里が一つの新しい型を発見した
河上徹太郎「コリンヌ・リュシェールに溢れる『思春期の処女の色気』ともいふべきものは、実に素晴らしく輝かしい
阿倍十三「この映画を一度でも観た人は、女優コリンヌ・リュシェールのことを決して忘れないだろう
パリ・ミディ紙映画評有名スターの大作より、コリンヌ・リュシェールのような才能ある若い役者を世に送ったこのような映画に、拍手を送りたい

父は「コリンヌ・リシェールの新鮮さ」とコメントを残しています。筆者がこの映画を見たのは父の死後、教育TVの世界名画劇場で、確かにとても印象的だったのを思い出します。少女感化院の話で、ピュアで美貌の不良少女役は、コリンヌ・リシェールにぴったりのハマり役でした。妖艶系ではもちろん駄目で、上品なだけでも駄目です。つまりマレーネ・デートリヒはもちろんのことグレタ・ガルボでもオードリー・ヘプバーンでも原節子でもこの役は無理なのです。

グレタ・ガルボ

グレタ・ガルボは戦前最も人気があった女優です。

父のアルバムにある映画リストの横に、簡単な外人女性のスケッチがあり「映画を見始めた頃 畫く」とあります。
頬のこけたマレーネ・デートリヒとは明らかに違い、コリンヌ・リシェールはまだ出ていない時期ですので、多分、グレタ・ガルボをモデルにして描いたと思われます。ただ、グレタ・ガルボにしては少し柔らかい雰囲気だし父もグレタ・ガルボとはあえて記していません。つまり、これはグレタ・ガルボをベースにした父の想像上の女性像なのでしょう。↓
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↓グレタ・ガルボ
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父のリストが頭にあって、筆者がグレタ・ガルボの作品をはじめて見たのは『グランド・ホテル』でした。最初に見た動くグレタ・ガルボで驚いたのは、眉間にしわの寄る美人女性だったことで、それまでスティル写真で見ていた彼女と違う面に戸惑いました。

『グランド・ホテル』のDVD 相手役はジョン・バリモア(ドリュー・バリモアの祖父)
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父と一度だけ女優談義をした記憶があって「マレーネ・デートリヒとグレタ・ガルボなら、グレタ・ガルボのほうだったけれど、名作がないんだよな。コリンヌ・リシェールが好みだったけれど、たった一作で消えてしまった。両方とも残念だ。」という意味の内容でした。

確かに、マレーネ・デートリヒは『モロッコ』でアカデミー賞の主演女優賞を取りましたが、グレタ・ガルボは『グランド・ホテル』が作品賞を受賞しているものの主演女優賞はノミネートだけで個人受賞はしていません。あれだけの大女優でありながら、あくまで、グレタ・ガルボは造型的な美人女優であり演技派女優とは認められなかったと思われます。絶大な人気を誇り、無声映画からトーキー開始時代にかけて最高のカリスマ的スターは、美貌すぎる故に作品に恵まれなかった・・・そんな気がします。

グレタ・ガルボは、1905年スウェーデン生まれのハリウッドにとっての輸入女優で、サイレント映画からトーキー映画初期にかけての伝説的大女優として世界を席巻しました。
トーキーになって、ガルボが初めて主演した『アンナ・クリスティ』は、「ガルボが話す!」というのが宣伝文句でした。ガルボの一挙手一投足に注目が集まり、↓の『ニノチカ』のポスターでは「ガルボが笑う」というのがキャッチ・フレーズになっています。
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当時のガルボには世界中に熱狂的なファン「ガルボマニア」がおり、『マタ・ハリ』公開時は「警官が群衆整理に駆り出された」そうです。いわば「神聖ガルボ帝国の女王」だったのです。
彼女は、あばずれ役でも気品があり、神秘的な雰囲気が素晴らしかったと評されます。ただ、マレーネ・デートリヒのような妖艶な色気はなく、退廃的な魅力というのは醸し出せません。
代表作となると・・・あくまで、筆者の独善的な好みとなりますが、グレタ・ガルボの持ち味が出ているという観点から『クリスチナ女王』が一番適した作品だと思います。

クリスチナ女王』
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ただ、彼女は社交的な性格ではなく、マスコミからのインタビューもほとんど断り、ファンサービス的なこともしませんでした。生涯独身で、まだ魅力的だった35歳に引退し、以降、公の場所には一切姿を見せず隠棲生活のうちに84歳で死去しました。ということで、無口で孤高の神秘的な女優というイメージが残った存在です。

原節子

父は、日本映画が嫌いだったわけではありません。当時、毎年500本以上、粗製乱造される日本映画はどうしても駄作が多くなります。嫌いだったというより、貴重な小遣いを使うので、厳選の結果として公開本数の多さの割に日本映画が少なくなったのだと思います。
それから、10代半ばになった多感な少年にとって、あこがれはまずヨーロッパの文化だったのです・・・・

リストを見ると、日本映画では、『土』『残菊物語』『妻よ薔薇のやうに』といった名作、『泣虫小僧』『鶯』『冬の宿』『小島の春』といった豊田四郎作品、『南十字星は招く』『路傍の石(1938年版)』『樋口一葉』といった真面目な秀作があります。つまり質の高い作品を見ています。

逆に言えば、質の高い作品ならば日本の国策映画であっても見るということです。
それが、リストの右上一番最初にアップされている『新しき土』という作品です。

この映画は、日独合作の大作で、大ヒットしました。「新しき土」とは満州の大地を意味し、ドイツ語版のタイトルは「サムライの娘」『Die Tochter des Samurai』。主人公(原節子)の父親役の早川雪舟が知名度の高い国際俳優で、士族役だったからと思われます。

ヒロイン役は当時16歳の原節子。彼女は、まさに明眸皓歯といった清純派でハイカラな感じの美人で、当時の日本女性としては長身でスタイルも良く、日本のグレタ・ガルボと言われました。
『新しき土』の日本人ヒロイン役を探していた巨匠アーノルト・ファンク監督は、京都撮影所を見学中に時代劇を撮影していた美少女:原節子に魅了され、周囲の反対を押し切ってヒロイン役に抜擢しました。

↓原節子
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父の映画リストには『新しき土』について「美しきカメラ 原節子 満州へ」とコメントされています。
この「原節子 満州へ」というのは二つの意味が考えられます。
ひとつは、この映画はほとんど日本の話ですが、最後は満州です。満州に生きることを決意した夫婦(小杉勇と原節子)が満州の大地新しき土をトラクターで耕すラストシーンがまさに「原節子 満州へ」なのです。

もうひとつは、実際に原節子が、満州経由でドイツへ行き、この映画のプレミア記念式典に出席したからです。下関から船で大連、そして満鉄の あじあ号 に乗りシベリア鉄道経由でベルリンというルートでした。
原節子は、途中、奉天に立ち寄り、奉天で生活する実兄の会田武夫に出迎えられ感激のひとときを過ごします。
筆者の父は原節子と同世代で、当時奉天で生活する思春期の若者。だから、自分と同じルートで奉天にやって来た女優に「原節子 満州へ」と身近に感じたのではないかと愚考します。

奉天を出発して北へ向かう日は、原節子の実兄がホームで見送ってくれました。「展望車に乗った私は、ホームに立っていつまで見送ってくれる兄の姿が、だんだん小さくなってゆくのを見ながら・・」と後日、原節子は述懐しています。(のち、この実兄はシベリアで戦病死)

↓原節子が乗った「特急あじあ号」の最後尾の展望車
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↓宣伝ポスターには「満一ヶ年の日子と70万円の巨額を投じた日本で最初の世界的大名画」とあります。新しき土』は大成功し、原節子はスターダムを駆け上がりました。日本での完成披露試写会は、世界各国の大使や外交団が招待され、秩父宮殿下ご夫妻をはじめ九皇族が列席の世紀の大イベントとなり、それより少し前に秘密裏に天皇皇后両陛下も観覧されたとのです。大規模な国策映画でした。
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ドイツでもこの映画は好評で、ヒットラー総統とゲッペルス宣伝大臣が天覧。興行的にも成功し、ファンク監督はフィルム最高賞を授与されました。

もともと、この映画は日独防共協定と深く関わっており、ファンク監督一行が一年もの長期に日本滞在し続けたのは、日本の名所や自然を本格的撮影するためだけでなく、日独防共協定を成功裏に達成する目的があったとする説があります。
この映画を見てみると、火山・桜・富士山・厳島神社・京都・海岸美・地震など日本の案内といった雰囲気が濃厚です。ヒットラーやゲッペルスには、この映画により、防共協定を結ぶこととなった日本という国をドイツ国民に紹介して、協定への理解を深めてもらおうという意図があったのです。

そのためファンク監督一行は、当時、ナチス・ドイツが威信をかけて開発した高級映画機材をたくさん持ち込み、映画関係者の垂涎の的となったそうです。中でもアスカニアという望遠レンズは素晴らしく、当時、満映の映画編集技師だった岸富美子氏は「『新しき土』の冒頭、桜の枝越しに遠く富士山の全景を映したシーンがあるが、それも、このアスカニアで撮った、すばらしいカットだった」(『満映とわたし』151ページ)と書いています。

父が「美しきカメラ 原節子 満州へ」とコメントした美しいカメラシーンとは、このことでしょう。

↓『満映とわたし』
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アスカニアは、非常に高価で有用な機材だったので、日本の映画会社が欲しがり、折衝しましたが金額面で折り合わず、結局、満州の金持ち国策映画会社の満映がサクッと買いっとったのです。アスカニアは、満映で活躍し『娘々廟会』『風説四十年』などで使われました。
ただ、このレンズは、不可侵条約を破ってソ連軍が満州に侵攻してくると、ソ連に略奪され持ち去られてしまったそうです。

↓筆者が買ったDVDの盤面の左上に、アスカニアで撮った桜の枝越しの富士山が!
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この映画は、奉天では新富座という大きな映画館で東京・大阪より少し早く上映されました。原節子一行が奉天に到着するより早めに公開し、プロモーションとして成功させるためだと思われます。

↓戦後、解放電影院として利用された時代の新富座。今は解体されています。
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↑曲線が印象的な洒落たファサードだった新富座。父はここで『新しい土』を観覧しました。

新富座は、四階建てで座席数2400!東アジア最大の映画館とも称されたのです。
それ以外にも、奉天の日本人街の中心繁華街だった春日町にいくつも映画館がありました。(奉天だけで日系の映画館が28館もあった)

↓筆者が父の足跡を訪ねて奉天に行った際、旧・春日町はやはり繁華街で歩行者天国になっていました。
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父は原節子の『麦秋』『冬の宿』も見ています。戦後、原節子の『東京物語』を見ていた父のことも記憶していますから、結構、原節子を気にいっていたようです。

原節子は日本の代表的女優ですが、演技派とは言えません。一部には原節子大根役者説というのがあって、美貌がわざわいして演技が上手いとは評価されなかったふしもあります。
そして、1963年以降、公の場所には一切姿を見せなくなり、生涯独身で、隠棲生活のうちに95歳で死去しました。
うーん、生き方も評価のされ方も誰かに似ていますね。そう、グレタ・ガルボそっくりです!

まとめ

ところで、父はどれが上質な映画というのを何で知ったのでしょう。映画館の予告で上映される映画名は分かりますが、それらの映画が質の高いものかどうかは判断し難いはずです。
筆者の推理は、父はキネマ旬報』を読んでいたのではないかと考えます。テレビもネットもない時代ですから、詳細な情報や評判は、満州まで来るのは専門の雑誌しかないでしょう。

↓グレタ・ガルボが表紙の『キネマ旬報』
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キネマ旬報は、1917年創刊で映画マニア必携の書として有名です。特にそのベスト・テンは選出方法が明朗で、信頼性が高く評価されています。

実際、父の最初のリストに書かれている映画は、ほとんどがキネマ旬報ベスト・テンの選出作品なのです。
例えば戦前映画の最盛期1939年度のベスト・テンを見てみると

第16回(1939年度)日本映画ベスト・テン
1 (内田吐夢監督)
2 残菊物語(溝口健二監督)
3 土と兵隊(田坂具隆監督)
4 兄とその妹(島津保次郎監督)
5 上海陸戦隊(熊谷久虎監督)
6 子供の四季(清水宏監督)
7 暖流(吉村公三郎監督)
8 爆音(田坂具隆監督)
9 花ある雑草(清水宏監督)
10 海援隊(辻吉朗監督)

となっており、5位と10位を除いて、父は他の8作品を見ているのです。
さらに、同年の外国映画ベスト・テンの1位がジャン・ギャバンの『望郷』で、2位がコリンヌ・リュシェールの『格子なき牢獄』なのですから、キネマ旬報の影響は明らかだと思います。

ちなみに、日本映画第1位の『』は、父も「日本映画最高名作ならんか」とコメントしています。
原作は長塚節、監督は内田吐夢の農民映画で、現在、当時上映された完全版は残っていないそうです。
この監督の内田吐夢氏は、満州に深く関わっており、方針の違いで日活を退社後、満州に渡り満映で働きます。その後、満州に取り残された内田吐夢氏は、ソ連軍の侵攻の際、満映理事長:甘粕正彦の自決現場に立ち会います。その後、上記アスカニアで紹介した満映とわたし』の著者:岸富美子氏らの満映技術者達と行動を共にし、満州最北部の炭鉱などを転々とした末、新京で新中国の映画作成に協力させられ、1953年(昭和28年)にようやく日本へ帰国します。そして戦後は名作『飢餓海峡』などの傑作を作成します。
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父は、左右のプロパガンダ映画が嫌いで、質の高い映画を好んでいました。せっかくの小遣いを、駄作ではなく心に残る映画を見ることで有効に使いたいという気持ちもあったでしょう。奉天では二番館・三番館もあり、過去の名映画を安く見ることができました。

何よりジャン・ギャバンに代表されるフランス映画の詩的レアリスムの世界が好きで心酔しました。これは、刻々と軍国主義が広がりつつあり軍靴の響きが迫ってくることから、危機感があるゆえに、フランス映画のペシミズムに共感したのでしょう。

戦前の生活は真っ黒だったというのは真っ赤な嘘で、昭和モダンという言葉が示すように、1930年代は欧米の文化を取り入れた日本の近代生活が都会を中心に花開いた時期でもあったのです。
1934年~1936年は日本経済は戦前で最高の繁栄期を迎え、下降しながらも1940年まで持続しました。これは上記の父の映画リストの掲載時期とぴったり一致します。
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洋装を着こなしたモダンガール(モガ)が街を闊歩し、ライスカレーやカツレツやオムライスといった洋食が人気となり、ビクター蓄音機・ナショナル製ラジオ・セイコー腕時計(銀座和光本館)・喫茶店・文化住宅・三矢サイダー・カルピス・森永ミルクキャラメル・ネスカフェ・サントリー角瓶・キンチョール・文芸春秋・岩波文庫そしてトーキー映画といった現代にも残る商品やアイテムが広がったのです。(昭和モダンは1941年に急激に終わりを告げ、戦争へ突入していきます)

そんな中、父は、右翼思想も左翼思想にも興味がなく、奉天という田舎都会で昆虫採集と洋画鑑賞を趣味とする満州モダンボーイだったのです。


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