模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
2020年 11月 23日 |

五島列島シリーズのプロローグです。


五島列島と長崎の旅から帰って、コロナ禍の第三波に驚いています。筆者の取材仕事にも大いに響いてくる状況で、なんとも残念です。

筆者は、このたびGOTOトラベルを利用して最果て三か所行きを企てていました。すなわち日本の三果て、11月=西の果て(長崎・五島列島)、12月=南の果て(沖縄・八重山)、1月=北の果て(北海道・礼文か根室)それぞれに住むように旅するという長期滞在を目論んでいたのです。

↓礼文島スコトン岬

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08370515.jpg

コロナ第三波は、特に北海道がひどく、筆者が行きたい僻地は影響ないと思うもののリスクはあり、厳冬期のことで吹雪く可能性も考えて、北海道行きは中止します。冬のタンチョウやオジロワシには会えなくなりました......。12月の八重山は今のところなんとか実現したいと切望していますが、GOTOトラベル見直しでどうなるか・・・・。

↓石垣島マーペー岳よりの展望

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08373188.jpg

北海道や八重山はこれまで何度も行っていますが、五島列島ははじめてです。だからまず、11月=西の果て(長崎・五島列島)を優先したのです。


筆者がはじめて五島列島に興味を持ったのは確か中学一年生だったかと・・・TVで五島列島を取り上げた番組を見たのです。
当時、筆者の好きだったTV番組はスタートレックなどの宇宙ものと、新日本紀行というNHKの硬派ドキュメンタリー旅番組でした。その新日本紀行の中で今でも覚えている最も印象的な回は「五島列島」だったのです。


五島列島の二次離島である黄島(おうしま)の小中学校の少女が、3月の卒業式を終えると、ただひとり黄島の港からはるかな都会へと去っていくという場面は涙が止まりませんでした。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08382276.jpg
五島列島各地から集められた中卒生たちは、福江港から大きな船に乗り集団就職で東京・大阪などへ出ていくのです。当時の筆者より3~4年ほど年上の若者たちの涙の旅立ちシーンが続き、忘れられない番組となりました。この記事を書くにあたってYouTubeで再見し感動を新たにした次第です。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08384871.jpg
黄島は、かつて捕鯨基地があり大いに栄え、鯨が減ってからはカツオ漁が主となりました。番組では、子牛を購入し牧場をつくり牛の島として生きる自立の道を模索しているとのこと。
ところが、最近、五島列島行きを決めてから読んだ本『長崎・五島 世界遺産、祈りが刻まれた島』(江濱丈裕、書肆侃侃房、2020年)によると、「黄島 ねこたちの楽園」という一章が設けられ人間より数が多い猫にフォーカスした紀行が書かれており、牛の話は全く出てきません。どうやら、黄島の牧畜産業の試みは失敗したようです・・・・ネットで調べても黄島は「猫の島」と「磯釣りの島」の情報しかヒットしません・・・・

黄島の人口は、捕鯨最盛期は1000人を超えていたものが、1955年は651人、新日本紀行放映時は270人となり、番組に登場した黄島小中学校も廃校となり、現在は総人口約30名・・・どんどん過疎化が進み将来は無人島になる可能性があります。(福江島周辺の有人離島では、すでに姫島が無人島になり、赤島も10人、黒島は2人)


この新日本紀行は「若い人が去って島は年ごとに老いていきます。残る人々にとってこの別れは単なる惜別以上の悲しみを意味しています」とナレーションしています。なお、この番組はYouTubeで見ることが出来ます ので、ご興味のある方はどうぞ。

↓現在の黄島

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08424966.jpg


さて、次は五島列島の歴史を少し。

新日本紀行から30年くらい経って、筆者が五島列島に再会したのは、古墳の被葬者の比定の趣味研究を進めていた時です。古墳の比定を記してある『延喜式』を読み進めていた際、延喜式 巻16 陰陽寮 20 に、

千里の外、四方の堺(さかい=境界の意)、東の方は陸奥、西の方は遠値嘉、南の方は土佐、北の方は佐渡より・・・・(虎尾俊哉『延喜式 中』、集英社、2007年、377ページ)

という文章を見つけました。
すなわち、当時の日本の東西南北の境界の指標は、陸奥・遠値嘉・土佐・佐渡ということが示されていたのです。

この遠値嘉(おぢか)というのが、現在の小値賀島(おぢかじま)のことであり五島列島を意味していたのです!
このことをはじめて知って筆者は驚いたものです。


この日本の版図の西の果て五島列島は、中国への文明の窓であり、遣唐使の日本からの出口でした(古代の国際情勢の変化により遣唐使は朝鮮半島沿岸経由ルートが使えなくなり、五島列島から東シナ海を直接渡るルートが主となる)。

肥前の国風土記には「遣唐使は美弥良久(現・五島市三井楽)の岬を経て西をめざして渡海する」と書かれており、福江島西端の玉之浦と大瀬崎を示しています。
現在の灯台のある場所には当時、松明が焚かれ渡海する人々の無事が祈られたそうです。

↓大瀬崎灯台

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08444361.jpg

第16次遣唐使は、空海、最澄、橘逸勢、霊仙という四人の傑出した俊英たちを乗せ、五島列島を後にしたのです。

司馬遼太郎の名著『空海の風景』によれば、現五島市の田ノ浦に空海らが乗った遣唐使船が立ち寄り、風待ちと補給をしたそうです。(『空海の風景 上』司馬遼太郎、中公文庫、1994年、237ページ)

この決死の遣唐使の運命的な旅自体が一つの大ドラマで日本の歴史を変えたのですが、それは別の長話になるので、ここでは割愛します。

↓空海が日本の果てを去るという意味の言葉「辞本涯」の碑が五島市三井楽町柏崎の丘に立っています。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08462025.jpg
空海の著書『性霊集』に「・・・死ヲ冒シテ海ニ入ル。既ニ本涯ヲ辞シ・・・」とあることから、選定された言葉で、揮毫は高野山清涼院住職の静慈彰氏によるもの。弘法大師空海之語辞本涯と刻まれています。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08471506.jpg

長安で密教の正統を継いだ空海は、帰国時に福江島の大寶寺付近に漂着したと伝わり、日本で最初の真言宗の講釈を行いました。そこで寺は三論宗から真言宗に改宗。ここから真言密教を広めたので、大寶寺は「西の高野山」とも呼ばれています。

↓西高野山大寶寺の案内碑「弘法大師ゆかりの地 最初之霊地 西高野山 大寶寺」とありました。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08480059.jpg

現在でも福江島では大寶寺を結願88番札所とする五島八十八ヵ所霊場巡りが盛んで、空海の軌跡をたどる方も多いのです。下の写真はそのひとつの第3番札所の来光坊。福江港から徒歩20分で行くことができます。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08482895.jpg
このように、五島は潜伏キリシタンの島であるより以前に、空海伝説の島でありその伝統も受け継がれているのです。


もちろん、五島列島の他にない独特の魅力は潜伏キリシタンの歴史と教会です。いまや「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の典型として世界遺産に登録され人気の観光スポットとなりました。


もともと長崎県の教会を世界遺産にしようという運動があり「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」というテーマでした。ところが2015年「明治日本の産業革命遺産」の一つとして軍艦島(端島)が世界遺産に登録されてしまいました。
軍艦島に先を越されたことは関係者にショックを与えたようで、方針を変更したのです。すなわち登録申請をいったん取り下げ、イコモスの指導の下に「もっと禁教期を重視する」という方針に変更し「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」という形で国の推薦を受け、2018年に世界遺産に登録されたのです。

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08540255.jpg


潜伏キリシタンについては、今後、徐々に書いていくつもりです。ただ、潜伏キリシタン関連遺産を紹介していくに先立って、言葉の問題だけは整理しておく必要があります。すなわち「隠れキリシタン」・「潜伏キリシタン」・「カクレキリシタン」・「復活キリシタン」の言葉の使い分けです。

考察過程を書くと長くなりますので、結論だけを述べると

隠れキリシタン」:古くから用いられてきた曖昧な表現で、以下の三つの意味を包含
潜伏キリシタン」:約250年の禁教期間の潜伏教徒たち
カクレキリシタン」:禁教が解かれたあともカトリックに戻らず独自の信仰を続けている人々
復活キリシタン」:禁教令撤廃後カトリックに属するようになった人々。復帰キリシタンとも言う。

これは潜伏キリシタン研究の泰斗である宮崎賢太郎氏の説に、おおむね従っています。氏は有名な宗教学者ですが、長崎県出身で両親ともに先祖が潜伏キリシタンだったという経歴は貴重なものです。カクレキリシタンの人々は、同じキリシタンの血を持つ氏に胸襟を開いて語り、フィールドワークは多くの成果をあげたのです。

↓五島市の水ノ浦教会

五島列島談義 ~あこがれの五島の島々(1)_f0140054_08524104.jpg






<筆者のLINEトラベルJP記事の一覧はこちらをご覧ください>


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。


2020年 11月 17日 |

軍艦島(端島)は、1810年頃に石炭が発見され、1890年に三菱合資会社の経営となり海底炭鉱として操業開始。海底炭田として開発され、島の上には炭鉱町が大いに繁栄。
戦後の1950年台の最盛期には5300人もの人々が暮らし、当時の東京都の9倍の人口密度だったそうです。おそらく世界一の人口密度の海上都市だったと思われます。


三交代制の24時間操業で、過酷でしたが8時間労働で、給料は当時の公務員平均給与の2~3倍もらえました。
インフラや教育・娯楽施設も整備され、寺社・病院・郵便局・プールやパチンコ屋・映画館もありました。
狭いながらも家族が暮らせる社宅アパートがあり、戦後は長崎県下随一の電化製品普及率を誇ったそうです。


軍艦島の大きさは、東西160m、南北480m。

↓軍艦島北地図

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_09201550.jpg
↓軍艦島南半分地図と見学コース

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08181517.jpg
↑倒壊の可能性があり危険なため、見学は決まった南部の一部コースで三か所のみ。
ワッペンの有無・色で、班に分けられ、三つの見学広場を効率的に回り、ガイドから説明を受けます。


軍艦島(端島)は、2015年「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。 明治日本の産業革命遺産は、韮山反射炉や三池炭鉱など全国各地に点在するものですが、長崎県としては端島炭鉱(軍艦島)が最初の世界遺産登録でした。



↓第1見学広場にある世界遺産表示

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08192294.jpg
↓第1見学広場から北を望む

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08192590.jpg
↑手前の広い空間が貯炭場で、ここから石炭は、ベルトコンベアで積込桟橋に運ばれ、運搬船に引き渡されたのです。ここで採掘された良質の石炭は、八幡製鉄の溶鉱炉などで使われ日本の産業近代化に貢献したのです。


↓奥正面の大きな建物が、70号棟「端島小中学校」最盛期には1170名の子供が通ったとのこと。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08192993.jpg
↑奥左側の65号棟(報国寮)は最大の鉱員社宅で、屋上には幼稚園もありました。317戸10階建て。


↓ガイドさんが65号棟の地図を掲げて巨大施設の説明してくれます。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08193223.jpg
↓3号棟の高級職員用アパート。ここは室内風呂完備だったそうです。(他の鉱員社宅は公衆浴場利用とのこと)

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08210476.jpg

↓第2見学広場から南方面

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08214367.jpg
↓第2見学広場正面 赤煉瓦の建物は総合事務所

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08214977.jpg
↓中央右が主力抗だった竪抗 ここから地下へエレベーターで坑道に入ります。水面下1000mまで掘り下げられた海底の坑道は、世界遺産のコアゾーンに指定されていますが危険なため一般非公開。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08215509.jpg
↑中央丘の上に立つ長方形の建物が貯水槽。その左横の白い灯台が端島燈台で、軍艦島が無人島となると、夜間は真っ暗闇となったため、1975年(昭和50年)に鉄製灯台として建設され、今は二代目のプラスチック製の灯台(1998年建設)。


↓第3見学広場へ向かうガイドさん。ながさきヘリテージクルーズガイドとあります。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08215927.jpg
↓第3見学広場から北を望む 草木一本も生えていない瓦礫の廃墟世界・・・・うーん、全く美しさはないけれど衝撃的ではあります・・・

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08243822.jpg
↓30号棟 大正5年に建てられた当時日本最大最古の鉄筋コンクリート造の高層アパート。140戸7階建て。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08244492.jpg
↑日本最古のRC構造アパートは、徐々に崩壊が進んでいます。

↓僅かに生える緑の丘の上に立つ端島神社

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08244812.jpg

↓第3見学広場に近い海沿いの見学道。多くの見学者がすれ違います。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08255615.jpg
↓壁構造の分かる場所

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08260038.jpg
↓海が見える場所もありました。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08260455.jpg
見学者の中に、この軍艦島で生まれたという高齢のご婦人もおられました。足腰達者なうちに生まれ故郷を見たいと考え来られたそうです。
元島民コラム というサイトもあり、日本の成長を支えた多くの人々の人生の一端が見られる場所でもあるのですね・・・・


↓さらば軍艦島

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08261028.jpg
↓長崎の桟橋に帰着すると上陸証明書というのをもらえました。

嗚呼、軍艦島(後編) ~軍艦島上陸~_f0140054_08261339.jpg





<筆者のLINEトラベルJP記事の一覧はこちらをご覧ください>


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ
にほんブログ村 ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。


PageTop
XML | ATOM

会社概要
プライバシーポリシー
利用規約
個人情報保護
情報取得について
免責事項
ヘルプ
Starwort Skin by Sun&Moon