模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
タグ:OM-D E-M5 MarkⅡ ( 109 ) タグの人気記事
|
2017年 07月 24日 |

一昨日、仕事で本町に出たので、ついでにオリンパスプラザに寄って写真展の打ち合わせをしてきました。
その際、オリンパスプラザ大阪のオープン講座で西川 ヒトシ氏の「トンボの撮り方」をやっていましたので、見学させてもらいました。

さすが専門家で、素晴らしいトンボ写真の画像や撮り方エピソードなど、とても参考になり刺激を受けました。

f0140054_12591340.jpg

↓講座の最後に西川 ヒトシ氏からの宣伝があり、8月28に神戸どうぶつ王国で、撮影講座があり講師をするので、ぜひ来てくださいとのことです。

f0140054_08000506.jpg
私も蝶を主体に昆虫写真はよく撮るのですが、トンボはあまり得意ではありません。特に飛翔するトンボは撮影の難易度が高く、うまく撮れません。

西川 ヒトシ氏の素晴らしいお話を聞いて、私もこれからは、トンボも撮ってみようと思いました。

そこで、これまでの整理を兼ねて、私が撮影してきた主なトンボ写真を再掲してみます。

f0140054_07590324.jpg
f0140054_08014366.jpg
f0140054_08015069.jpg
f0140054_08015407.jpg
f0140054_07585604.jpg
f0140054_08015731.jpg
f0140054_08020044.jpg
f0140054_08032592.jpg
f0140054_08032986.jpg
f0140054_08033423.jpg
f0140054_08033797.jpg
f0140054_08033914.jpg
f0140054_08034280.jpg
f0140054_08034546.jpg


<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 07月 18日 |

大阪探索シリーズの補遺ともいうべき記事です。

細川ガラシャの墓を見に、大阪市東淀川区にある崇禅寺に行ってきました。阪急電車京都線の崇禅寺駅から徒歩10分ほどです。
崇禅寺は、天平時代に行基により創建されたとされる古い寺で、悲劇の人々の墓があることで、有名です。

↓何度も戦災で焼失しましたが、1989年に再建されて立派な寺となっています。

f0140054_18035827.jpg
f0140054_18041824.jpg
↓重要な三人の墓が、奥に屋根をかけた形でありました。

f0140054_18045040.jpg
↓右から、寺の創建者:隣大和尚の墓、足利義教の首塚墓、細川玉子(ガラシャ)の墓
f0140054_18055980.jpg

↓足利義教の首塚墓

f0140054_18064418.jpg
1441年、将軍:足利義教は赤松満祐に殺害され、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢により、義教の首はこの寺に放置されました。崇禅寺では、首塚をつくり供養しました。この事件は「嘉吉の乱」と呼ばれ、足利幕府の権威は失墜したのです。(赤松満祐は、足利義教の首を播磨坂本城まで持ち帰ったという説もあり、真相は不明です)


↓左側の細川ガラシャこと細川玉子の墓

f0140054_18084645.jpg
f0140054_18091023.jpg
ここに細川ガラシャの墓があるのは、当時の細川家の菩提寺が、この崇禅寺であったことによるそうです。
 
 細川ガラシャについて、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事については、こちら 

 ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については、こちら 

 ガラシャの辞世の歌碑のある越中井については、こちら。

 ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については こちら。

f0140054_18142294.jpg

↓遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟の墓

f0140054_18145081.jpg

これは「崇禅寺馬場の仇討」と呼ばれる有名なもので、浄瑠璃、落語、映画などの題材となりました。菊池寛の小説にも『返り討崇禅寺馬場』というのがあります。

1715年、遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟は、末弟の宗左衛門のかたきである生田伝八郎を討とうとしましたが、伝八郎側の多数の加勢により、崇禅寺馬場で返り討ちにあった事件です。

当時の崇禅寺住職:門啓天岑はこの兄弟を哀れに思い、崇禅寺に墓を築き、二人の菩提を弔いました。それがこの供養塔です。


この寺は悲劇の人たちの供養の場所ですね。


↓崇禅寺の奥庭

f0140054_18151230.jpg

↓水場にはヒヨドリが水を飲みに来ていました。

f0140054_18153007.jpg

↓ここは、明治の初めに、摂津県と豊崎県の県庁がおかれたことがありました。その記念碑です。なお、知事は陸奥宗光でした。

f0140054_18155545.jpg

↓南門の絵を描いておれれる方がおられました。平日の午後、私以外に崇禅寺に観光に来ていた唯一の人です。少しお話をして、奥にあるガラシャの墓を案内させてもらいました。

f0140054_18163049.jpg

↓その南門です。

f0140054_18170488.jpg




<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 07月 13日 |

大阪アースダイバー的地形と歴史散策シリーズの最終回です。

三光神社の東は下り坂になっており、大阪の背骨たる上町台地の東側の低地となります。

↓風の街の暖簾が風にゆれて・・・(真田幸村ロードにて)

f0140054_17081489.jpg
このあたりは、縄文時代は岸辺で河内湾に面しており、最も縄文海進の激しい時代は海の中でした。
そして、北東から淀川が、南東からは大和川が土砂を堆積し、徐々に砂州が発達し、河内湾は河内潟から河内湖となり浅くなり、海が湖となっていきます。

現在の森ノ宮駅から玉造駅にかけては、縄文時代から弥生時代には水辺の環境だったことから、貝塚を中心とした複合遺跡である森ノ宮遺跡が発掘されています。貝塚を見れば当時の食生活が分かるのです。

重要なのは、縄文時代の森ノ宮遺跡の貝塚がマガキを中心としたものであったのが、弥生時代になるとシジミが主体となることです。
これは、この岸辺が最初は海水の湾岸であったものが、徐々に淡水化していったことの明確な証拠です。

↓再掲地図ですが、森ノ宮遺跡の場所をご覧ください。

f0140054_17124410.jpg

この地図でお分かりのように、淀川と大和川の土砂が三角州となり、河内潟を埋め立てて行き、あちこちに砂州が出来ていきます。ちなみに現・大阪城の北に延びる砂州地帯に後世に市場が出来て行ったのが、日本一長い商店街となった天神橋筋商店街です。


日本の古代国家が生まれたのもこの地図に関りがあります。饒速日命(ニギハヤヒ)の降臨の地であり、神武東征伝説でナガスネヒコが立ちはだかったのもこのあたりです。

河内潟に注ぐ大和川をさかのぼり奈良に入ると、3世紀中頃から4世紀の三輪王朝の大きな古墳が並び、邪馬台国王都と有力視される纏向遺跡があります。大和川水系は古代日本の中心地です。

そして、5世紀になると、応神王朝あるいは河内王朝とも言われる大王たちの超巨大古墳が、地図下部にある百舌鳥古墳群と古市古墳群に出現します。いわゆる倭の五王の時代ですね。

仁徳天皇の高津宮や、孝徳天皇の難波宮は、西に海を望む上町台地の上に造営されました。反正天皇の丹比柴籬宮は河内湖の南側に、継体天皇の河内樟葉宮は河内湖の東北岸にあったようです。

この一帯は大和朝廷の誕生を導いた場所なのです。


↓玉造駅近くに南北に伸びるアーケードの日の出通り商店街(まさに古代の河内潟の岸辺に沿った道です)

f0140054_17133440.jpg

↓日の出通り商店街にも真田六文銭の旗が!

f0140054_17135785.jpg

↓日の出通り商店街と直行する玉造駅へ至る路地:幸村ロード

f0140054_17143138.jpg

もともとここは、真田山三光神社への参道で小さな路地でしたが、2013年に大坂の陣400年を迎えたことから、整備されたものです。

今は、真田御膳、真田十勇士玉、六文銭フィナンシェ、幸村ロード缶、幸村鍋など真田にちなんだグルメを提供する店が並び賑わいを見せています。真田十勇士の可愛いパネルもありますので確かめながら散策するのも楽しいものです。

↓幸村ロードのお店いろいろ

f0140054_17164716.jpg


f0140054_17170866.jpg
f0140054_17180602.jpg
f0140054_17182858.jpg
f0140054_17184677.jpg
真田幸村にちなんだものだらけでした・・・・



<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 07月 08日 |

「たびねす」に、私の <雲上の楽園!滋賀「伊吹山」で美しい花と蝶を観察しよう!> という記事が掲載されました。
これまで何十回と登って自然観察をしてきた伊吹山の花と蝶について、簡単にまとめてみたものです。ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。






伊吹山については、今年の夏(8月)も行きたいと思っていますが、もしそれが実現すれば、またブログ記事でより詳しく本格的に紹介したいと計画しています。
そこで今日は、季節ものを優先して、半夏生について書いておきます。


半夏生(はんげしょう)とは、雑節の1つで季節を示す用語。夏至から11日目の頃をいいます。今年は7月2日でした。
由来は諸説あり、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が半分白くなり、化粧しているように見えるからとも。また、ハンゲ(カラスビシャク)という薬草が生える時期という説もあります。

この時期は、農家にとって節目なので、各地いろいろな風習があります。
私の近所では、蛸を食べます。

↓近くのスーパーでは、半夏生セールをやっていました。

f0140054_08005333.jpg

↑説明によると、「稲の根がタコの足のように大地に広がってしっかり育つように」との願いを込めて、半夏生にタコを食べる風習があります、とのことです。

皆さんのところでは、どんな風習があるでしょうか?


私は、半夏生(ハンゲショウ=カタシログサ)という花が、好きなので、この時期はハンゲショウが必ず見られる所に写真撮影に行きます。近くの緑化センターです。この場所については次回の「たびねす記事」に掲載する予定にしていますが、今日はフライングで、今まさに開花シーズンのハンゲショウをお見せします。

ハンゲショウは地味な花ですが、花が咲くころに、葉の一部が白くなり、なんともいえない良さがあります。確かに半分だけ化粧しているような風情です。


以下、ハンゲショウの様々な表情をご覧ください。

f0140054_08014796.jpg
f0140054_08015095.jpg
f0140054_08015377.jpg
f0140054_08015623.jpg
f0140054_08015844.jpg
f0140054_08020307.jpg
f0140054_08020696.jpg
f0140054_08020960.jpg


余談です。

この花の名前ハンゲショウについては、7月はじめの「半夏生」の時期に開花するからという説と、葉の片面が白くなる「半化粧」だからという説があります。
一方、雑節の季節用語「半夏生」は、ハンゲショウの花が咲くから名づけられてという有力な説があります。つまり、どちが先か?、卵が先か鶏が先か?、という循環する話ですね。

思うに、この花名の由来は「半化粧」で、そこから雑節の「半夏生」が名づけられたとすれば、スッキリしますが、いかがでしょうか?



生物学的には、上の写真をご覧いただければお分かりのように、花径に近い葉が、開花時期に白化しますので、この葉が目立つことで、花弁の役割を果たしていると考えられます。この自然の造化の妙と、これを「半化粧=半夏生」と名づけた日本人の優れた感性に、驚かされます。


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 07月 04日 |
善福寺から東へ少し歩くと宰相山西公園があります。南側背後は高い丘が東西に連なり、現在は旧陸軍の墓地で真田山陸軍墓地維持会が管理しています。このあたりが、宰相山あるいは真田山と呼ばれていたことが分かります。
f0140054_11295231.jpg

宰相とは加賀宰相(前田利常)か京極宰相(京極忠高)ですので徳川方になります。いっぽう、真田とは真田信繁を意味しますので真田丸があった場所になります。果たして、どちらが正しいのか? 真田丸の謎がここにあります。


↓宰相山西公園のアジサイ

f0140054_11305153.jpg

↓上記の公園と墓地の東側に「三光神社」があります。

f0140054_06334256.jpg

↑鳥居手前の折れた石柱にも注目ください。三光神社は第二次世界大戦で被災し、鳥居も折れたのですが、その戦災の教訓を後の世に伝えるべく、古い鳥居の基礎部分が残されています。

↓三光神社へのルートの地図

f0140054_06341842.jpg

この神社は反正天皇の御世に創建されたと伝わり、大阪七福神の一つでもあります。現在は、真田信繁が大坂冬の陣で真田丸に拠って、圧倒的大軍の徳川軍に勝利したことから、「勝利のお守り」が人気の神社となり、大河ドラマの放送以降は全国から歴史ファンが押しかけています。

↓真田六文銭の旗が林立する三光神社境内

f0140054_06345158.jpg

↓三光神社拝殿

f0140054_06352064.jpg

↓大阪七福神巡り寿老加味の旗

f0140054_06354424.jpg

↓摂津名所図会より引用の歌と句の碑

f0140054_06360655.jpg

境内の社殿下側には勇壮な真田信繁像があり、その左側に「真田の抜け穴」跡と伝承される岩穴があります。この銅像は、1987年、大阪真田山ライオンズクラブ15周年に建立されたもので、信繁は鹿角の兜をかぶり、采配を振るっています。なお、台座の石は真田家の菩提寺である信州上田の長谷寺から送られた真田石とのことです。

↓真田信繁像と抜け穴跡

f0140054_06363430.jpg

↓抜け穴跡

f0140054_06370063.jpg

「真田の抜け穴」は鉄格子で閉じられていますが、一年に一度「真田まつり」の日には内部開放されます。もっとも、普段でも鉄格子なので入り口付近を覗くことが可能(下の写真参照)。

f0140054_06373917.jpg

↑なかなか頑丈な造りですので、ここから大坂城へ抜け道が繋がっていたという伝説について、さもありなんと思わせます。

諸説ありますが、もし真田丸が顕彰碑のある大阪明星学園敷地とすれば、この穴は前田軍などの徳川方が掘った跡である可能性が高くなります。

↓私が帰ろうとすると数人の見学者が来て、熱心に抜け穴跡を覗いておられました。歴女さんでしょうか。

f0140054_06385100.jpg

真田信繁像のある場所からさらに上部へ階段があり、横を石垣で固められた高台があります。高台の西側は真田山陸軍墓地に繋がっていました。

↓その高台から下の公園を撮影。

f0140054_06392074.jpg
三光神社は高い丘陵の中腹にあり、東側に低い玉造駅方面を望みます。東側階段を降りると下から神社を見上げる形になり、立派な石垣が見て取れます。この高台にある事と丘陵上部へかけて何階層にも高く積まれた城塁のような石垣、さらに抜け穴もあることから、真田丸の故地とされてきたのは当然。雰囲気はピッタリです。

↓東側階段を降りた場所から三光神社側を撮影

f0140054_06403155.jpg

実は、この神社から真田山陸軍墓地を挟んで前回に述べた心眼寺へは、高い丘陵でつながっています。この高台一帯全部が真田丸であったとしても不思議はない地形です。本当は真田丸はどこにあったのか? ここに立って、真田伝説ロマンに浸ってみるのも一興です。




<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 06月 29日 |
前回紹介しました聖マリア大聖堂から南へ歩くと、空堀町交差点があり、そこをさらに南へ行くと信号が二つ連続しています。そこを左折すると、どんどろ大師、心眼時、大阪明星学園のある場所へ至ります。この付近が真田丸の跡地の最有力候補です。

↓ルートの途中にあるイタリア料理店

f0140054_08140384.jpg

真田丸は、真田信繁(幸村)により築かれ、大坂冬の陣で寄せ手の徳川軍に大打撃を与えた有名な場所。大坂城惣構えの外側に造られた出城で、大坂城の唯一の弱点である南側の防御能力を高め、さらには敵を引きつけ攻撃する拠点ともなりました。

正確な真田丸の場所については諸説ありますが、現在、最も有力な場所とされるのが、大阪明星学園の敷地です。この学園のグラウンド東側には2016年、大河ドラマ「真田丸」のスタートとほぼ同時に「真田丸顕彰碑」が設置されました。

↓真田丸顕彰碑の全体と周辺(後方が大阪明星学園のグラウンドです)

f0140054_08151834.jpg

↓アップで撮影(クリックすると横120ピクセルに拡大表示されます)

f0140054_08153881.jpg

↓大阪明星学園の壁には真田丸放映中は真田信繁(幸村)の絵が掲げられていました。

f0140054_08161335.jpg

現在でも真田丸顕彰碑から北へは下り坂で、真田丸が大坂城に接続した出丸ではなく、大坂城との間に深い谷を有する独立した出城であったことが偲ばれます。確かにここは、真田丸のあった場所として、説得力があります。背後の谷は、空堀町から空堀通りへ続く一帯で、上町台地の天然の侵食谷を利用して広げた大坂城の南側の空堀であったようです。

↓地図の紫のラインが大坂城惣構えの南側の空堀のあった低地です。

f0140054_08184473.jpg
真田丸顕彰碑の道を挟んだ向かい側に「心眼寺」があります。1622年に白牟和尚が真田信繁(幸村)・大助親子の冥福を祈るべく真田丸跡地に建てた堂宇を起源とする寺で、その定紋は六文銭とされ山号は真田山です。正門外側の階段横には「真田幸村 出丸城跡」の碑が立っています。

↓心眼寺の正門

f0140054_08193031.jpg

↓「真田幸村 出丸城跡」の碑

f0140054_08195312.jpg

さすがに江戸時代は徳川家に逆らった真田信繁の墓を建てられなかったようですが、2014年、400回忌に際して心眼寺の境内に信繁の墓が建立されました。

↓真田信繁(幸村)の墓

f0140054_08202977.jpg

↓墓の説明看板

f0140054_08205208.jpg

信繁の墓の横に小さな堂宇「まんなおし地蔵尊」があります。

↓まんなおし地蔵尊

f0140054_08212601.jpg

↑まんなおし地蔵尊は、真田信繁(幸村)が開運の祈願をしたと伝承され、かつて庶民の信仰が篤く参詣者が絶えなかったそうです。
「まんなおし」とは、間直し・運直し・縁起直し・げん直しのことです。まんの悪い時、うまくまん良く行きますようにと、まんなおし地蔵尊に願いをかけたとのことです。

↓地蔵尊の姿

f0140054_08221866.jpg

↓地蔵尊に貼られていあった真田丸ポスター

f0140054_08224595.jpg

真田丸顕彰碑や心眼寺から北へ坂を下った角に「どんどろ大師 善福寺」があります。ここには、大坂の陣の戦死者を弔うべく建てられた鏡如庵大師堂がありましたが明治初期に廃絶。その後、系列の善福寺が移転してきました。

↓「どんどろ大師 善福寺」正門

f0140054_08235530.jpg

通称の「どんどろ大師」は、江戸時代に大坂城代だった土井大炊頭利位が、ここで祀られていた弘法大師を深く信仰し参拝を欠かさなかったことから「土井殿の大師さん」と呼ばれ、それがなまって「どんどろ大師」となったと伝わります。

↓どんどろ大師の本堂

f0140054_08243087.jpg

↓本堂の横にある勝軍地蔵尊

f0140054_08245596.jpg

真田丸跡地としては、もうひとつ有力な候補地があります。それが三光神社で、次回、紹介します。



<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 06月 24日 |

前回紹介しました「青刻昆布発祥の地」の碑のある越中公園の南側に「聖マリア大聖堂」があります。
f0140054_07495677.jpg
豊臣時代の細川屋敷のあった敷地すなわちガラシャの住んだ地に現代の司教座教会があるわけです。これは意図されたものではないようで、本当に不思議な縁を感じます。


キリスト教のカトリック玉造教会 であるとともに、カトリック大阪大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県)の司教座聖堂であることから、正式名を「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」といいます。

f0140054_07514518.jpg
ここは、1894年に建てられた聖アグネス聖堂を起源としますが戦災で焼失。その後、ザビエル来日400年記念に聖フランシスコ・ザビエル聖堂として再建され、さらに1963年に青銅板葺きの大伽藍として改築され現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」となったものです。


大聖堂内部にはイエス・キリストと聖母マリアの生涯を描いたステンドグラスと細川ガラシャの壁画。さらに小聖堂にはフランシスコ・ザビエルを描いた日本的なステンドグラスがあります。いずれも見事なものなので、余裕があれば見学してください。

↓小聖堂のステンドグラス(フランシスコ・ザビエルが描かれています)

f0140054_07531089.jpg
↓大聖堂紹介看板
f0140054_07542129.jpg
↓大聖堂前の広場には、ファティマのマリアがあります。
f0140054_07555382.jpg

↑ファティマとはポルトガルの小さな村で、1917年に三人の羊飼いの子ども達の前に聖母マリアが出現しました。カトリックが公式に承認した奇跡とされています。その情景を再現したのが、この大聖堂前の大理石群像です。


↓聖マリア大聖堂外側正面の右には、大きな細川ガラシャ像があります。カトリック信徒の彫刻家である阿部政義の制作です。

f0140054_07571494.jpg

↓細川ガラシャの画

f0140054_07581771.jpg

細川ガラシャは日本を代表するキリスト教の女性信徒であり、すぐ近くの細川屋敷で壮絶な死をとげました。

ガラシャ夫人の死を知った司祭オルガンティーノは、女性信徒に命じて焼け跡からガラシャの骨を拾わせ、堺のキリシタン墓地に葬りました。細川忠興も妻の死を悲しみ一周忌を兼ねて行われたキリスト教会葬に参列し涙にくれたそうです。


オルガンティーノは、当時京大阪などを所管するカトリックの司祭で、京都に南蛮寺(聖母マリア被昇天教会)、安土にセミナリヨ(神学校)、本能寺の変後は高槻にセミナリヨを建てました。人柄の優れた人物で「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と日本人から慕われました。伴天連追放令が出ても、非公式に宣教活動を続け、天正遣欧少年使節の帰国時に使節と共に秀吉に拝謁し、再び京都在住を許されました。高山右近を指導し、細川ガラシャに対しては女性信徒を細川屋敷に使わし受洗させました。日本人より西欧人のほうが野蛮だと評価し、日本を愛し日本に生涯を捧げ、1609年に長崎で病没しました。


細川ガラシャの生涯について詳しくは、こちら
ガラシャの供養塔は京都大徳寺の高桐院にあり、大阪の細川家菩提寺である崇禅寺には墓があります。さらに、熊本市の出水神社では祭神の一人として祀られています。
ガラシャの画としては、イスラエルの受胎告知教会にある、長谷川ルカ画伯が描いた『華の聖母子』というモザイク画が有名ですが、それについては【たびねす】受胎告知教会も!イエスの育ったナザレの町を歩こうという記事をご覧ください。



↓大聖堂外側正面の左には、キリシタン大名の高山右近像があります。ガラシャ像と同じく阿部政義の手になります。

f0140054_07593523.jpg

↑高山右近は、三好長慶没後の摂津の混乱の中、下剋上でのしあがった戦国大名の一人で摂津・高槻城主でした。
また、優れた人徳者として知られる敬虔なキリスト教徒でもありました。洗礼名のユストは「正義の人」を意味します。

織田信長や豊臣秀吉につかえ、右近の人柄に惹かれた黒田官兵衛・小西行長・牧村利貞・蒲生氏郷などの戦国大名を受洗させました。高槻では領民に慕われ七割の人がキリスト教徒となったそうです。

細川忠興・前田利家などは洗礼を受けなかったものの、右近の人柄に惹かれ、キリシタンに対して好意的で、細川忠興の妻:細川ガラシャは忠興から右近の噂を聞きキリシタンになりました。

しかし、秀吉の伴天連追放令により、右近は信仰を守るために領地を捨て、小西行長や前田利家の庇護を受けました。さらに、徳川家康のキリシタン国外追放令により、マニラに送られ現地で亡くなりました。右近像は高槻とマニラにもあります。

後世になりますが右近は、ローマ教皇庁により「福者」に認定され、2017年に大阪城ホールで列福式が挙行されました。


↓高山右近の像を詠んだ阿波野青畝の句碑

f0140054_08011411.jpg
「天の虹仰ぎて右近ここにあり」

阿波野青畝は「ホトトギス」同人の俳人でキリスト教徒です。

↓高山右近の紹介看板

f0140054_08020015.jpg

↓品の良い聖母子像

f0140054_08022552.jpg
この近辺から南へ下ると、イエズス修道女会をはじめ城星学園、大阪女学院、大阪クリスチャンセンター、大阪明星学園などキリスト教に関連する施設や学校がたくさんあります。不思議な場所です。

↓城星学園看板

f0140054_08030450.jpg

↓大阪クリスチャンセンター

f0140054_08033072.jpg

↓近辺写真を合成してみました。

f0140054_08043802.jpg

↓道標

f0140054_08051253.jpg

細川屋敷跡や聖マリア大聖堂がある場所から南へ、下り坂になっています。これは、大坂城の南側の空堀のあった地域と考えられます。

もともと、大阪平野に突き出した一本の背骨のような丘陵が上町台地で、その先端に大坂城があります。その地形を利用した大坂城は、南部だけは丘陵地帯で城としての弱点となるので、空堀を造る必要がありました。その際に利用されたのが、自然の浸食谷で、現在の空堀町から空堀通りに続く低地です。

まさに、この堀の北側(城の内側)には細川屋敷跡があり、南側(城の外側)には真田丸があったわけです。ここを歩くと、地形と地名が語る歴史のロマンを感じます。



<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 06月 19日 |
旧・日生球場のあった現「もりのみやキューズモール」の西南側一帯は、豊臣秀吉の時代は、武家屋敷が並んでいました。

秀吉の時代の大坂城は、現在の四倍以上の広さがある非常に巨大な城で、惣構え(総構え)の内部には有力大名の武家屋敷も含まれていたのです。現在の大阪城南側にある細川屋敷跡から真田丸跡地などを訪ねると、その広さを実感できます。それが、今回の~細川屋敷跡から真田丸跡地を歩く~シリーズ記事の舞台です。


JR大阪環状線または地下鉄(中央線または長堀鶴見緑地線)の森ノ宮駅から、中央大通りを西へ歩き、ファミリーマートの角を左折し南へ下り100mくらいの所に細川越中守屋敷跡があります。越中井(えっちゅうい)とも呼ばれますが、これは屋敷の当主である細川忠興が越中守であったことから来ています。

石造りの井戸跡と地蔵堂、碑があり、細川屋敷の台所のあった場所と伝えられます。細川忠興の妻の細川ガラシャ最期の地として知られ、その死の際、火がつけられ井戸だけが焼け残ったそうです。

↓ガラシャ歌碑
f0140054_7283668.jpg

「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

この碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句があります。

細川ガラシャは、明智光秀の娘で名を玉(珠子)といい、美人の誉れ高い女性で、光秀の畏友:細川藤孝の子である細川忠興に嫁ぎました。しかし、光秀が本能寺の変をおこしたことから謀反人の娘として一時丹後山中に幽閉され、後に豊臣秀吉の取りなしにより、細川家の大坂屋敷に戻されました。こうした中で、夫:忠興の友人でキリシタン大名だった高山右近のことを聞いた玉はカトリックに興味を持ち、やがて入信し受洗。ガラシャはその洗礼名で賜物(恩寵)を意味し、本名の玉に通じることから名づけられたものです。

関ヶ原の戦いの直前、決起した石田光成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、家臣に命じ胸を貫かせて死にました。キリスト教では自殺は禁じられているからです。

ガラシャの死は、徳川方の大名に大きな衝撃を与え、関ヶ原の戦いにおける東軍の結束を固める一つの要因となりました。後に細川氏は、肥後熊本藩主となり明治維新に至ります。この碑は、その熊本出身の縁から徳富蘇峰が揮毫したものなので、非常に力強い文字になっています。


この越中井のあたりは周囲にマンションが建ち背景が昔風の情緒がありません。説明看板も古ぼけて忘れられた感があったのですが、大河ドラマ真田丸の放送決定を機会に説明看板も新しくなり、雰囲気が少し良くなりました。

↓古い越中井付近
f0140054_7291710.jpg

↓新しい越中井付近
f0140054_7293441.jpg

↓古い説明看板
f0140054_7294820.jpg

↓新しい説明看板
f0140054_73024.jpg

↓当時の大坂城惣構え内部の武家屋敷をいくつか現在の地に重ねてみました。あくまで私がフリーハンドで描いたもので正確な図ではなく、イメージ的なものとお考え下さい。
f0140054_7385125.jpg

↑ピンクの字が現在のもので、青地が秀吉時代のもの

細川とは細川忠興、宇喜多とは宇喜多秀家、小出とは小出吉政、前田とは前田利長で、いずれも当時の秀吉に近い大名です。

これを見ると、細川屋敷は、現・越中井から現・聖マリア大聖堂にかけてのかなり広い敷地だったことが分かります。



細川ガラシャの長男:細川忠隆の嫁:千世も当時、細川屋敷にいましたが、千世はガラシャのように自害せず、近所の実家である前田利長の屋敷に逃れました。ちなみに千世は、前田利家の七女で、利家とまつ から末娘なので非常に可愛がられた人。

この逃れた経路を上図で推測すると、細川屋敷の西門を出て南へ下り、小出屋敷の前を通って前田屋敷に逃げ込んだようです。宇喜多家は光成派なので、それを避けて小出屋敷の南西側の角を曲がって前田屋敷へ至ったかもしれません。細川家史によれば小出吉政の使者が細川忠興に「当方の屋敷の前をお通り、前田殿屋敷へ御入り候」と報告したとあります。

徳川家にとって有力外様大名同志である前田・細川の姻戚関係は好ましくないことと、ガラシャを失った細川忠興の怒りにより、細川忠隆は千世との離縁を命じられます。しかし、忠隆はこれを拒否し、父:忠興により廃嫡されます。忠隆は剃髪し、千世と子を伴い京都で蟄居し、生活は祖父:細川幽斎が支えました。幽斎の死後、千世は加賀の前田家に帰りました。25年後に、忠興と忠隆は和解しますが、忠隆は京都に留まり続け都の文化サロンの長老的存在となりました。

明智光秀から娘:ガラシャさらにその息子:忠隆に至る、なんとも複雑な人生ですね。(余談ですが、ガラシャの血は、後世の熊本藩の細川家はもちろんのこと、忠隆と千世の子:徳姫を経て、現在の皇室にも繋がっているそうです)


越中井の付近は、近年まで「越中町」とされていました。住居表示施行に伴って、地名が変更されてしまいましたが、その歴史を示す「旧町名継承碑」があります。

↓旧町名継承碑
f0140054_7311464.jpg

↑地元の人たちの、越中守忠興とガラシャ夫妻への思い入れが感じられる史碑といえるでしょう。


↓越中井の南にある越中公園
f0140054_7314615.jpg

↓「青刻昆布発祥の地」の碑のアップ
f0140054_7322456.jpg

越中井の南すぐの越中公園の道路沿いに「青刻昆布発祥の地」の碑があります。 この碑は、2001年に大阪昆布商工同業会が設立100周年を記念し建立したものです。

刻み昆布は、昆布加工食品の原点で、煮た昆布を細かく刻んでから乾燥したもの。この近辺で製造されはじめ、煮物として愛用されました。やがて、とろろ昆布や塩昆布など、大阪の食文化を象徴する高級な細工昆布の隆盛を迎えます。昆布は関西のダシ文化にも欠かせないものとなりました。

北前船が米や酒を北海道に運び、帰りは昆布を買い付けて帰ってくることで、昆布加工産業が発展したわけです。伝説によれば、大坂城を築く際に、巨大な石を運ぶため、昆布を石を滑らせる潤滑剤として大量に使ったことから、この近辺の昆布需要が高まり、それをきっかけに大阪人は昆布に親しむようになったそうです。


↓越中井の側にある謎の石像
f0140054_7325196.jpg


細川ガラシャについて、以前、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事に関連して、こちら  で詳しく書きました。

ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については こちら

ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については次回の記事で書きます。大阪の細川家菩提寺である崇禅寺にあるガラシャ墓については、取材済みなので、今後、機会を見て記事を書く予定にしています。



<追記> 前回の記事で「石山碕とニギハヤヒ」についてのご質問がありましたので、前回記事の下に More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。


<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg



にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 04月 05日 |
北陸地方への旅から帰ってきました。
ちょっとアクシデントがあり、持病のヒールストライクを再発し、かかとが痛いです。
旅の前半はのんびり温泉に浸かったり博物館を見たりしてゆっくりしたのですが、その後、どうしても山に登りたくなり、きつめの登山をしたところ山の下り道で、古傷のヒールストライクが発症してしまいました。山が好きなので、つい無理をしてしまったようです。
帰宅後、毎朝の野鳥観察公園散歩にもさしつかえる状態です。かかと部分以外は万全の健康体なのですが、歩く際に身体の重さを支える場所が痛いというのは困りものです。。。うーん




さて、前回のブログ記事が~ポルトガルのクロジョウビタキ~だったので、今日は ~日本のジョウビタキ~を掲載させていただきます。
今冬に近くの公園の朝散歩で撮影してきたものです。ヒタキつながりということで、良い機会だとアップします。


ヒタキの仲間の習性でしょうか、あまり人を怖がらず、チラチラと私を見ながら周辺を飛び回ります。存分に被写体として楽しませてくれました。
今回は雄のジョウビタキですが、雌については こちら をご覧ください。
f0140054_7492128.jpg

f0140054_7493844.jpg

f0140054_7495431.jpg

f0140054_7509100.jpg

f0140054_7502942.jpg

f0140054_7504153.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2017年 02月 16日 |
<お知らせ>

しばらく、日本語ネット環境の無い場所を旅しますので、ブログ更新を休ませていただきます。
主にスペイン~ポルトガル方面の田舎を回ります。

来月上旬には帰国して、ブログを再開する予定ですので、その節は、またよろしくお願いいたします。




さて、フランクフルトのマイン川沿いのベンチに座って休憩していると、大きな鴨のような野鳥が集団で舞い降りてきて、目の前に寄ってきました。
トラムのレールの上を餌をさがして歩き回っています。

最初エジプトガンかと思ったのですが、よく見ると地味な顔をした大きな鴈です。これは間違いなく、ハイイロガンです!
このハイイロガンは、日本ではめったに見られないので、あわてて撮影しました。以下、4枚の写真をご覧ください。
f0140054_8302914.jpg

f0140054_8305944.jpg

f0140054_831224.jpg

f0140054_8315217.jpg

ハイイロガンは、先般お見せしました エジプトガン より、さらに大きくがっしりした体形の鴈で、ロシア方面で夏に繁殖し、冬はアフリカ北部に渡って越冬します。
ドイツ南部で初冬に居たわけですが、渡りの途中であったのかも知れません。

なお。家畜のヨーロッパ系ガチョウ(goose)は、このハイイロガンを飼いならしたものです。(ちなみに、中国系ガチョウはサカツラガンを、アヒルはマガモを家畜化したもの。)

フォアグラをはじめ、ダウンジャケット、羽根布団、『マザーグース』、『ニルスのふしぎな旅』、シャトルコックなど人間の文化に大きく貢献してきた生き物の元の姿が、この野鳥なのです。





それでは、皆さん、しばらくの間、ごきげんよう!


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
PageTop
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Starwort Skin by Sun&Moon