模糊の旅人
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2017年 06月 09日 |
オビドスの最終回です。

メインストリートのディレイタ通りの突き当りにはオビドス城があります。石壁がひときわ大きくそびえ、強固な城塞のようで、ポルトガルの七不思議のひとつとされています。
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↓こちらは柔らかく仕上げてみました。
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オビドス城は、現在は、歴史的建造物を利用した国営のホテルである「ポサーダ カステロ デ オビドス(Pousada Castelo de Obidos)」になっています。
ポサーダ は、格式を誇るホテルで非常に人気があります。古城ホテルの一種というべきものですが、内部は綺麗に改装されており、快適に宿泊できます。

↓入り口付近
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このホテルに宿泊すると、オビドスを囲む城壁へ上るプライベートなアプローチを利用できるそうです。とても美しい景色を独り占めできるのです。このホテルは部屋数が少ないのが難点で、私も予約が取れずここには宿泊できませんでしたが、機会があればぜひ宿泊してみてください。きっと、ホテルからの城壁ルートや夕刻から夜にかけてのオビドス街歩きなど、一味違うオビドスを体験できるでしょう。

↓ポサーダ中庭への入り口
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↓中庭を撮影させてもらいました。周囲を城壁に取り囲まれていますが、中庭は石畳が敷き詰められ、白いホテル建屋が落ち着いて上品な雰囲気を醸し出しています。
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オビドス旧市街を囲む城壁へは、何箇所か上り口があり、素敵な景色を楽しむことができます。おすすめは、オビドス城手前から西側城壁に上り、南へ歩き、最初に紹介した城門(ポルタ・ダ・ヴィラ)に至る、半周コース。オビドス城壁は西側が高いので、このコースは見晴らしが良いのです。

↓ただし、城壁は片側が切れ落ちており怖いです。その雰囲気が分かるように、城壁を歩く人を撮影してみました。
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↓以下8枚、城壁の上を歩いて撮影した写真を、一気にお見せします。
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↑オビドスの城壁の内側が旧市街

以上のように、城壁の上を歩けば、スリル満点で素敵な景観も満喫できます。城壁上ルートは一応の道幅はあり、外側には石壁があるのですが、内側は手すりもなく切れ落ちており危険です。かつて観光客の落下事故もあったそうですから、城壁の上をめぐる際は、細心の注意をはらい、用心深く歩いてください。

何より、逆方向から歩いてきた人とのすれ違いが恐怖でした(汗)

↓城壁の穴から見た外側の景色です。田園風景が広がっていました。
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↓城壁の上から見下ろした、外の駐車場と水道橋です。
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2017年 06月 04日 |
今日はオビドスの素敵な教会を二ケ所紹介します。

↓サンタマリア教会
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オビドスのメインストリートであるディレイタ通りをオビドス城へ上っていく途中、右側に大きな広場(サンタマリア広場)があります。その中央正面の美しい白い教会がサンタマリア教会です。ここは村の中心の教会という感じで、外観はシンプルで清楚。内部も必見です。

↓門を入ると、すぐにアズレージョ(青タイル)が出迎えてくれます。
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↓教会内部は元がロマネスク様式ですので暗いのですが、アズレージョが多く明るく感じます。
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この教会は12世紀にロマネスク様式で創建され、何度か立て直されました。ポルトガル国王(アフォンソ5世)が1448年に結婚式をあげた教会としても有名です。王や王妃も若かったそうですから、この可愛い教会に似合っていたことでしょう。

↓祭壇
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祭壇を取り囲むアズレージョが見事。

↓壁も見事なアズレージョに埋め尽くされています。まさに、いかにもポルトガルらしい教会といえるでしょう。
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青いタイルは暗い教会内を明るくしてくれます。
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アズレージョは、かつてイベリア半島を統治したイスラム教徒(ムーア人)が用いていた建物装飾の伝統を受け継いだもので、その源流はペルシアのタイル芸術にあります。

アズレージョという言葉は、アラビア語で「ホーローで覆われた素焼き」を意味します。まさにシルクロードの文化がユーラシア大陸の西の果てのポルトガルで花開いたのです。


↓天井にはフレスコ画が描かれています。
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↓サンタマリア教会の前には、ペロウリーニョという石の柱があります。これは、かつて罪人を晒した柱で、村の自治のシンボル的役割があったそうです。
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↓サンタマリア教会近くの家の壁にも素敵なアズレージョがありました。
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↓サン・ペドロ教会
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サン・ペドロ教会は、オビドス第二の教会です。12世紀に創建されたものですが、リスボン地震で崩壊し再建されました。最近外装の改修を終えたことから綺麗になっていました。


↓内部はサンタマリア教会とまた違った雰囲気で、全体にシンプルですが金泥細工の祭壇だけが派手です。
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↓その祭壇
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↓ここにも聖セバステイアヌスがありました。
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さらに、もうひとつ教会にも入ったのですが、そこは現在は教会ではなく本屋さんになっていました。


オビドスの教会は、いずれも小さな町の素敵な教会という感じで好感が持てました。それぞれアズレージョと金泥細工というポルトガルらしい特徴があり、興味深かったです。



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2017年 05月 30日 |
オビドスは小さな人気観光地。昼間は観光客でいっぱいなので、皆さんカメラを構えて写真を撮っています。そこで、私も思い切り浮き浮きと街角スナップを楽しみました。

ということで、今日はスナップ天国オビドスで、自由気ままに撮影した写真を一挙15枚ご覧ください。
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オビドスでは、ジンジャだけでなく、各種の小物雑貨類がお土産として売られています。中でも可愛い陶器類が人気。その他にも、タイル、コルク製品、人形、バッグ、衣類、缶詰など多種多様で、ウィンドウショッピングいや店先見学だけでも面白いです。
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人の多いメインストリートだけでなく、脇道や路地も絵になるのがオビドスの良さ。静かな街角スナップも満喫しました。
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2017年 05月 25日 |
「たびねす」に、私の ~「王妃の村」ポルトガルのオビドスを完全制覇~ という記事が掲載されました。
オビドスは、ポルトガルの七不思議のひとつで「谷間の真珠」あるいは「中世の箱庭」とも称される美しい村ですので、ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(46)「王妃の村」ポルトガルのオビドスを完全制覇
http://guide.travel.co.jp/article/26512/






ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、オビドスについて4回くらいに渡って詳しく紹介します。


オビドスは、ポルトガルの七不思議のひとつで「谷間の真珠」あるいは「中世の箱庭」とも称される、古い街並みを残す、城壁に囲まれた美しい村です。人口800人ほどしかないのですが、ポルトガル旅行の白眉とされ、昼間は観光客で一杯。小さな空間に凝縮された絵本のような村を散策できます。

1288年にポルトガル王ディニス1世と王妃イサベル(聖エリザベト皇后)は、新婚旅行でオビドスを訪れました。その際、王妃が大変気にいったことから、王はこの地を王妃にプレゼントしたのです。以来、オビドスは代々の皇后の直轄地となり「王妃の村」とされました。今は、中世の面影を残す小さな観光地として、ポルトガル旅行随一の人気スポットです。


リスボンのカンポ・グランデ駅バスターミナルから一時間ほどバスに乗るとオビドスに到着します。リスボンからの日帰り観光に最適です。

↓城壁の外側にあるバスの停車駅から下の駐車場方面を見ると、古い水道橋が見えます。
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オビドスは城壁に囲まれた小さな町(村)です。まずバス停から、城壁に向かいます。

↓外側から見た城壁
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↓ポルタ・ダ・ヴィラという城壁の門に入ると、アーチ上部に18世紀のアズレージョ(タイル装飾)が見られます。この城門は1380年に建造されたもので、中で折れ曲がるクランク型の構造で、敵に直接攻め込まれるのを防いでいます。
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門を抜けるとメインストリートが現れ、青と白の配色が印象的です。

↓写真は城門横の城壁に登る階段から撮ったもの。ここに限らず、オビドスはどこを撮っても絵になりますので、思い切り写真撮影を楽しめます。
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このメインストリートは、ディレイタ通りといい、両側の白壁の家に挟まれた石畳の細い道で、一番奥のオビドス城まで少し上り勾配で続いています。ここには、土産物屋などが立ち並び、昼間は観光客の流れが途絶えることがありません
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城門からオビドス城まで10分ほどで行けるのですが、急がずに、ディレイタ通りを見物したり買い物したりして、ゆっくりと歩きながら楽しみましょう。
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ここでは、さくらんぼの果実酒であるジンジャ・デ・オビドス(Ginja d’Obidos)通称ジンジャが一番の名物です。 瓶の大きさやデザインは各種あり、お土産にも最適。通りのあちこちで販売されており、ほとんどの方が買って行かれます。
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↓せっかくオビドスに来たのですからジンジャを一口飲んでみました。それにはチョコレート製小カップ(お猪口)に注いでくれるジンジャが最適で、通りのあちこちで売られています。1ユーロで、ジンジャとチョコを味わえます。
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ジンジャは、とても甘いリキュールで口当たりは良いのですが、アルコール度数は20度くらいあり、結構強いお酒です。

↓いろいろなジンジャ瓶があるので、それを見て回るだけでもじゅうぶん楽しめます。
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↑私は写真の小さなジンジャとチョコカップを買って帰りました。下戸の私には、ちょうど良いと思ったからです。
甘くて強いお酒なので、これでもちょっときつく、プレーンソーダ水に混ぜて、酎ハイのような感じで飲むと、サクランボ風味が効いて非常に美味しかったです。



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2017年 05月 20日 |
「たびねす」掲載された、私の 「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」 という記事とのコラボ企画の後編です。

今日は、堺の古い街並みの紹介と堺鉄砲の話です。


↓清学院の一筋東側に、鉄砲鍛冶屋敷跡があります。堺市の指定有形文化財ですが、住居として使われているため、内部非公開で外観だけの見学になります。
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安土桃山時代から江戸時代にかけて、技術力のある堺は日本一の鉄砲生産地として栄えました。第二次世界大戦の空襲で堺の中心部は焼失しましたが、この一画は奇跡的に戦災を免れました。鉄砲鍛冶屋敷跡は、江戸時代の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼店舗であったもの。往時の面影を残す堺で唯一の貴重な建築物で、日本の町家建築としても最古級です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡を引いた画角で周辺の街並みと一緒に撮影
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1543年、種子島の門倉岬西村の小浦に漂着したポルトガル人より、初めて日本に南蛮式鉄砲がもたらされました。島主:種子島時堯が、二挺の鉄砲をポルトガル人から買い取ったのです。

当時、琉球との貿易に従事していた堺の貿易商・橘屋又三郎は、種子島に立ち寄り、その鉄砲製造技術を持ち帰り、堺の桜之町に鉄砲工場をつくりました。堺の職人たちは対応できる高い技能を持っていたからです。

また、紀州根来寺(現・和歌山県岩出市根来)でも、堺の刀工・芝辻清右衛門が種子島銃の複製に成功します。
さらに足利将軍義晴に島津経由で献上された鉄砲をもとに、近江国・国友村(現・滋賀県長浜市国友町)の刀工・善兵衛も種子島銃の複製に成功。

すなわち、ほぼ同時期に、日本の三か所で、鉄砲製造に成功し、そのうち二か所で、堺の人間が製造したのです。

戦場の様相を一変させる武器でしたので、戦国大名は競ってこの鉄砲を入手しようとしました。
中でも「尾張の大うつけ」といわれた織田信長は、1553年、舅である美濃の斎藤道三と初対面した際、足軽に500挺もの新兵器の鉄砲を持たせて行進し、驚かせたとのことです。

まさに、この時、鉄砲伝来からわずか10年後なのです!
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上記の堺の橘屋又三郎(鉄砲又)と芝辻清右衛門一族は、堺で本格的な鉄砲生産に乗り出し、堺は日本における鉄砲製造の中心地となりました。(信長が長篠の戦いで使用した3000挺の鉄砲のうち2500挺が堺の製品)

鉄砲の弾丸の鉛や火薬原料の硝石は輸入に頼らざるを得なかったので、海に面した貿易港である堺は鉄砲製造の立地条件としては最適でした。さらに職人の技術力の高い堺では、品質管理による「部品互換方式」の製作システムを確立して大量生産に乗り出しました。
いっぽう、原材料輸入貿易や鉄砲販売をする有力堺商人は、会合衆として堺の都市自治を推し進め、現代でいう商社的役割を果たし、鉄砲のバイヤーかつブローカーとして活躍しました。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下人は、鉄砲を重視し、堺を支配下に治めるべく努力しました。これらの天下人と結んだ堺商人は、財力を蓄え文化をも育成しました。

今井宗久や千利休・津田宗及らは、鉄砲の販売や硝石の貿易で活躍した堺商人で、その経済力の上に、茶の湯という高度な文化を生み出しました。彼らは、単なる武器商人ではなく、日本人の美意識を創り出した優れた文化のプロデューサーでもあったのです。千利休に至っては茶の湯を大成するとともに、「御茶湯御政道」の担い手として秀吉政治のフィクサーにまでなりました。(秀吉の弟:豊臣秀長の言葉「公儀のことは私に、内々のことは宗易【=千利休】に」)
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その結果、鉄砲生産の最盛期:1600年ころには、10万挺近い鉄砲が日本にあったと推測されます。当時、日本の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体の量を超えていたそうです。

この鉄砲普及の驚異的なスピードと国産鉄砲の品質の高さは、日本だけで、ヨーロッパ人が銃を持ち込んだ世界のどの地域にも見られないものです。


有力な説によると、ポルトガル・スペインが日本の植民地化をあきらめた大きな要因は、この日本における鉄砲の普及にあったとされます。

「堺鉄砲が日本を守った」とは言いすぎかも知れませんが、少なくとも「歴史を変えた堺鉄砲」と言えるでしょう。


模倣から出発して、品質を向上させ本家を超えた良いものを大量生産する.....なんだか、現代日本の自動車産業やカメラ産業の話に似ていますね。
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江戸時代に、鎖国して天下泰平になると鉄砲の需要は減りますが、鉄砲鍛冶の伝統が途絶えることはなく、タバコ包丁や打ち刃物でも堺の高度な技術は連綿と受け継がれ、とりわけ高級なプロ用包丁である「堺包丁」は現在でも世界一の切れ味を誇ります。


↓このあたりには多くの鉄砲鍛冶が住んでいたのです。
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そうした、現代に堺鍛冶の伝統を受け継ぐ老舗が、水野鍛錬所です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡から二筋東に紀州街道があります。ここを南に150mほど歩くと水野鍛錬所があります。
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ここは、現在も営業している老舗の鍛冶屋で、伝統の古式鍛錬にのっとりプロ用の和包丁から日本刀に至る極めて優れた刃物を鍛造しています。奈良の法隆寺大改修の際には、国宝五重塔九輪の四方魔除け鎌をを鍛え奉納しました。
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↓水野鍛錬所の門横には、与謝野晶子の歌碑があります。2010年に水野鍛錬所により建立されたもので、鍛冶屋らしく庖丁の形をしています。
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 「住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路

「七まち」とは堺の鍛冶屋用語で、堺製のタバコ庖丁が江戸幕府公認となった際、北旅籠町、桜之町など七つの町に住んでいた37軒の鍛冶屋が指定されたことに由来します。このあたりは、堺の鉄砲製造の伝統を引く鍛冶屋の街区だったのです。

また「菜の花」は、江戸時代から明治時代にかけての堺では、菜種が多く栽培されていたことによります。河口慧海や与謝野晶子が、堺で幼少期を過ごした際、菜の花を見て育った情景が浮かびます。

この歌碑は、最近つくられたものですが、与謝野晶子のふるさとですので、堺には晶子の歌碑・顕彰碑は多く建立されてきており、現在は23基もあります。

なお、堺の与謝野晶子の歌碑については、
 「与謝野晶子のふるさと堺市で歌碑巡り 生家跡などで晶子を偲ぶ」
 「堺市で与謝野晶子の歌碑を辿り歴史ロマン散歩 大仙公園から晶子立像へ」
の記事をお読みください。


↓このあたりは刃物の店が多いです。
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↓紀州街道
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与謝野晶子歌碑の前の紀州街道を南に下り、阪堺線(路面電車)と合流してから次の筋を東に入ると山口家住宅があります。

↓山口家住宅
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山口家住宅は、大坂夏の陣の戦火直後(1615年)に建てられた貴重な建物で、江戸時代初期の町家として重要文化財に指定されています。内部は整備され、堺の伝統的な町家暮らしを感じることが出来る展示があります。

ここは、前回記事で紹介した「清学院」との共通入場券も発行され、連動して見学できます。「慧海と堺展」というイベントが実施された際は、山口家住宅もメイン会場の一つとなり、河口慧海と交流のあった堺の人々の関連資料が展示されました。


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2017年 05月 15日 |
「たびねす」に、私の「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」という記事が掲載されました。
堺が生んだ偉人: 河口慧海と、堺の古い街並み散策について書いていますので、ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(45)河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策
http://guide.travel.co.jp/article/26260/






ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、河口慧海について詳しく紹介します。


↓大阪府堺市の南海本線七道駅前の西側ロータリーの中心に河口慧海の銅像があります。これは、1983年に堺ライオンズクラブの創立25周年記念事業として建立されたもので、ヒマラヤの岩場を行く慧海の姿がリアルに再現されています。彫刻家・田村務によって制作されたものです。
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河口慧海は、日本の仏教の在り方にあきたらず、求道者として梵語・チベット語の仏典を求めて、艱難辛苦の末、日本人として初めてヒマラヤを越え、鎖国していたチベットに入国を果たしました。

多くの梵語仏典やチベット語仏典を持ち帰り、民俗関係資料や植物標本なども蒐集し、大きな成果をあげました。当時の状況から非常に困難な旅でしたが、仏教の原点を究めるという強い意志により成し遂げたのです。その慧海の不撓不屈の精神が感じられる銅像ですね。


↓七道駅前を東に歩くと、河口慧海生家跡周辺マップ看板があり、その後ろに堺の環濠跡が見られます。
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↑ここは、中世に自由な自治都市として栄えた堺の町を取り囲んでいた環濠の一部で、貴重な遺構です。堺環濠の東側は埋め立てられ土居川公園という細長い公園になっています。いっぽう、西側は内川として残されているのですが、現在はこの七道駅前の丸い環濠跡が起点となっています。


↓環濠跡から東へ三筋目の角を南へ曲がって50mほど歩くと、河口慧海の生家跡の碑があります。現在は住宅地の中にあるブロック塀に囲まれた小さな一角です。
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↓正家跡にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は、1866年(慶応2年)に堺山伏町(現・堺市堺区北旅籠町西)で、樽製造業者の長男として生まれました。向学心が旺盛であったため、各所で勉学を重ね仏教へ傾倒します。

懸命に修行し五百羅漢寺の住職にまでなりましたがあきたらず、その地位を捨て、仏陀本来の教えが残る仏典を求めチベット行を決行します。帰国後、チベット仏典研究と一般人への仏教の普及に邁進し、多くの著書を残しました。晩年には還俗し、在家仏教の道を提唱しました。


河口慧海の考え方は、仏陀の道=原始仏教の本来の姿を追求したわけですから、形骸化した現在の仏教の在り方に疑問を持ったのは当然でした。やがて自ら僧籍を捨て、在家仏教こそが真の仏陀の道であると喝破したのです。


あくまで私の独自の考えですが、原始キリスト教や原始仏教の在り方は非常に似ていると思います。したがって慧海の考え方は正しい宗教を究めようする者には当然の結論です。慧海の姿には、すべての優れた宗教家に共通する聖性があると感じます。



また、慧海の思想は別にしても、ヒマラヤを越えチベットに至る記録は素晴らしいもので、慧海の『チベット旅行記』は探検記・紀行・冒険としても、とても面白く素晴らしい著作ですので、ぜひお読みください。一本筋の通ったノンフィクションの名作です。

文庫本もありますし、ネット上で無料で読める青空文庫もあります。ぜひとも、こちら、をご覧ください。


『チベット旅行記』については、私は15年ほど前に感想文を書いて、ホームページに発表したことがあります。それを、下の More に載せてみましたので、ご興味のある方はお読みいただければ幸いです。
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↓河口慧海の生家跡から東へ二筋のところに清学院があります。
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↑ここは、もとは修験道の道場で、江戸後期から明治初期にかけては寺子屋として使われ、町人たちの学習の場でした。

河口慧海もここで、読み書き算盤を学びました。現在は「堺市立町家歴史館 清学院」として保存修理され、河口慧海に関連するパネル展示をはじめ寺子屋の歴史に関する資料を公開しています。

↓清学院前にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は幕末に生まれ、明治維新の激動の時代に堺で幼少期を過ごしたわけですが、当時、堺の旧市街には、22件もの寺子屋があり、約2000名の町民子弟が通っていました。寺子屋は、読み書き算盤を教えるとともに、人の道である道徳や宗教も教えていました。

堺は本格的な商工業者の町ですから、算術は当然必須ですし、商品経済の発展に伴って、証文や手形などの取引に文字教育は必要とされたのです。また商取引には人と人との信頼関係が前提となり、倫理的な教育も施されたのです。

堺の寺子屋の特徴は、教える側の師匠が、すべて町人系か医者で、士族すなわち侍がいなかった点です。いかにも堺らしいですね。
国語系の教科書は「往来物」といわれる往復書簡、地名紹介本、千字文などで、清学院で見ることができます。


寺子屋はいわば初等教育ですが、もう少し上のレベルの教育を行った、郷学所や私塾もありました。経学(四書五経)や詩文(漢詩)を教える中等教育ですね。

河口慧海は勉学熱心で、清学院の寺子屋を出た後も、儒学者・土屋弘の私塾である晩晴塾(現・堺市戎之町)で学びました。慧海は、ここで漢籍・詩文・修身を学び、漢学の素養を身につけるとともに、読書力・文章力に磨きをかけたのです。



かつて自治都市であった堺には清学院のような寺子屋をはじめとして、郷学所や私塾が多く存在し、商工業者の子弟が通っていました。千利休以来の町衆の文化の程度が高く、他所に先駆け鉄砲鍛冶に代表される高度な技術者や優秀な人材を育んだのです。河口慧海と与謝野晶子は、そうした堺の文化的土壌が生んだ偉人といえるでしょう。


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More 『チベット旅行記』について
2017年 05月 10日 |
恐竜博物館の記事が続きましたので、少し巻き戻して、桜と野鳥の写真をアップしてみます。

今春は足の調子が悪く、本格的なフィールド撮影ができませんでした。とはいえ、近所の公園散歩くらいは出来ますので、桜の時期は、おなじみの小さな野鳥をからめた写真を撮影しました。
重い撮影機材を持ち歩けないので、あまり大きく撮れなかったですが、なんとか今年も出会えて嬉しかったです。


↓メジロ
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↓ヒヨドリ
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↓エナガ2景
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↓ヤマガラ
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↓シジュウカラ
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↓桜まつり
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↓紅枝垂れ2景
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↓落桜有情
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2017年 05月 05日 |
福井県立恐竜博物館の最終回です。

春から秋にかけての期間限定ですが、化石発掘体験という有料イベントが恐竜博物館のすぐ近くで実施されており、大きな話題になっています。勝山は中生代の化石の里であり、恐竜博物館を中心とした「かつやま恐竜の森」の町おこし施策の一環として実施されていますが、とても良い所に目を付けたものです。

非常に重要な化石を発掘した場合以外は、発見した化石を持ち帰ることが可能とのことなので、私も体験してみることにしました・

↓化石発掘体験の行われる施設
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↑写真のように雨天でも可能な屋根付きの場所が設えられており、現場では専門家の方が指導してくれます。

ここに置かれている岩石は、すべて約1億年前の恐竜のいた中生代地層の発掘現場から運ばれてきたもの。化石を発掘するという貴重な体験は、とても良い思い出となります。


↓化石発掘体験
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↑写真は実際の化石発掘体験の情景です。配布されるゴーグルを装着し、ハンマー、タガネを使って、石を割っていくという作業になります。軍手だけは参加者が自分で用意する必要があります。もし化石らしいものを見つけたら、待機している専門家に聞いて確かめます。

化石発掘体験をするためには、あらかじめ予約が必要ですので、「かつやま恐竜の森化石発掘体験公式サイト」より開催日程と時間を確かめて予約し、当日は公園管理事務所の受付に行ってゴーグルなどの道具の貸与を受けてください。


石を割っていくわけですが、なかなか見つかりません。それでも私は頑張って以下の三つの化石を見つけました。

↓(1)下部の濃い楔形の模様のように見えるのが、植物化石です。
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↓(2)中央部を斜めに横切っている太くて黒い筋が、植物の葉の化石です。
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↓(3)中央右下部の黒い点々のようなものが小さな巻貝の化石です。
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いずれも約1億年前の化石です。実際に恐竜が闊歩していた時代の化石ですので、見つけると嬉しいものです。
なかなか一目で判然としないのですが、「ん!これは?」というものがあれば、待機している専門家の方の所に持っていき鑑定してもらいます。

このように植物化石が見つかることが多く、巻貝などの小動物化石も見つかります。ごくまれに恐竜などの大型動物の骨の一部が見つかることがあり、夢が広がります。


最後に、「かつやま恐竜の森」から見た周辺の山の写真を掲載します。白山周辺になりますが、まだまだ雪が残っていました。
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<たびねす記事もよろしく>
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2017年 04月 30日 |
私が恐竜博物館で最も刺激を受けたのは、恐竜から鳥への進化の展示でした。
野鳥が好きなので、「恐竜と鳥の関係」というのは、昔から興味を持ち続けてきたテーマだったからです。

私の子どもの頃は、ドイツで発見された始祖鳥の化石は有名だったものの、鳥は恐竜とは別の爬虫類から進化したという説が有力でした。これは、恐竜では鎖骨が退化消失しており、鎖骨を持つ鳥類が恐竜類から進化したという説が支持されなかったからです。

ところが、近年、獣脚類に鎖骨を持つ恐竜が次々見つかり、中国のゴビ砂漠から羽毛恐竜が非常に多数発見されるに至って、鳥は恐竜の獣脚類から進化したことが明らかになりました。

現在では、細かい系統も解明されつつあり、結論を先に言うと「今も生きている恐竜が鳥類」なのです。


福井県立恐竜博物館では、その恐竜から鳥への進化が目で分かる展示がされていました。

↓羽毛恐竜シノサウロプテリクス(中華竜鳥)の展示
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↓オヴィラプトル類の展示
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↓アーケオプテリクス(始祖鳥)の展示
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下の図をご覧ください。
これまで、現生の脊椎動物は、魚類、両生類、哺乳類、爬虫類、鳥類の五つの綱に分類されてきました。しかし、実は鳥類は恐竜に属するわけですから、本当の分類としては、「爬虫・鳥綱」とするか「鳥は爬虫類のひとつ」とすべきなのです。(事実、2015年のRuggiero et al. の分類体系によると、鳥類は爬虫綱の中の下位分類に鳥亜綱として、綱から亜綱へと階級が下げられています)

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それでは、人間中心の分類進化ではなく、鳥類目線で進化系統を解説します。


哺乳類は、はるか昔の古生代の石炭紀に、爬虫類も属する有羊膜類から分岐した単弓類をルーツとし、三畳紀には最初の哺乳類とされるアデロバシレウスが誕生しています。
それに比べると鳥類は新しく、中生代のジュラ紀後期に恐竜の獣脚類の中のマニラプトル類から分岐した、恐竜の進化の最終形です。
つまり、哺乳類は単弓類の後身であるのに対し、鳥類は爬虫類の恐竜から進化したもので、分岐分類学的には鳥は恐竜の一つの枝に過ぎないのです。


<上図の有羊膜類から現生鳥類に至る進化を、一番下に階層分類表を掲げますので参照しながらお読みください>


まず、恐竜(Dinosauria)というのは、爬虫網の双弓類の中の「主竜類」に属する一部の系統です。よく混同されますが、水生の「首長竜」や空を飛ぶ「翼竜」は恐竜ではありません。「翼竜」は恐竜と兄弟系統のいわば近い仲間ですが、「首長竜」は遠い系統で恐竜よりむしろ有鱗類 (現生のトカゲ、ヤモリ、ヘビ類)に近いのです。


恐竜は、大きく「鳥盤類」と「竜盤類」に分かれるとするのが従来の考え方でした。

●「鳥盤類」は、恥骨が後ろを向く鳥のような骨盤を持つ恐竜の仲間で、ほとんどが草食です。剣竜と呼ばれるステゴサウルスや角竜と呼ばれるトリケラトプスが有名です。

●「竜盤類」は、四足歩行の「竜脚類」が主たる構成員です。「竜脚類」は史上最大級のスーパーサウルスやアパトサウルスなどが属する巨大草食恐竜の仲間です。


●「獣脚類」はティラノサウルスに代表される生態系の頂点に君臨した肉食恐竜が多い仲間で、従来は「竜盤類」に属するとされてきました。

ところが、2017年3月に、ケンブリッジ大等のチームの画期的な新説が発表され、「獣脚類」は「鳥盤類」に近い仲間であるとされました。「獣脚類」と「鳥盤類」をまとめる「鳥後脚類(オルニソスケリダ)」という新概念が提唱されたのです。

私はこの獣脚類の新説を支持する者で、恥骨が後ろを向く鳥類の進化の過程が、非常にすっきりしたと考えています。


その「獣脚類」の中で、小型で華奢な体躯で前肢が長い「マニラプトル」(手泥棒という意)という仲間がいます。
マニラプトル類では映画『ジェラシック・パーク』で知能の高い悪役として描かれ脚光を浴びたヴェロキラプトルが有名ですが、鳥類はこのマニラプトル類の中から生まれたと考えられます。マニラプトル類は、多くの種類で何らかの羽毛を持ち、恒温性も有していた可能性が高く、一部には羽毛を利用した簡単な飛行能力も有していました。

鳥類は、このマニラプトル類の中から進化しました。

すなわち、鳥は、爬虫類の中でも亀・蛇・トカゲ類よりずっと恐竜に近く、恐竜を含む「主竜類」の中の「獣脚類」の中の「マニラプトル類」のひとつの群なのです。
表現を変えれば、恐竜は、約1万種の鳥類という形で現在も生存していると言えるでしょう


以下、恐竜から鳥類への進化を中心にして、分岐してきた階層の分類表を示します。(なお、は現生の生き物の説明、は恐竜から鳥類に至る系統の分岐点、は日本産のものを表します。)



鳥への進化の階層分類表

有羊膜類 Amniota - 石炭紀に両生類から進化し、発生の初期段階に胚が羊膜を持つもの・・・爬虫類や哺乳類を含む
 単弓類 Synapsida <哺乳類以外絶滅>
  盤竜類 <絶滅> 石炭紀~ベルム紀に棲息したディメトロドンなど
  獣弓類 ペルム紀前期に盤竜類から派生進化
   獣歯類
    キノドン類
     哺乳形類 アデロバシレウス -- 三畳紀
      哺乳類 現生の獣類
       原獣類 卵を産む哺乳類である単孔類(カモノハシなど)
       獣形類 胎生の哺乳類
        後獣類 腹部に袋を持つ有袋類の仲間でカンガルー、オポッサムなど
        真獣類 胎盤を持つクジラから人間まで現生哺乳類の主流
 竜弓類 Sauropsida
  中竜類 Mesosauria
  爬虫綱 Reptilia  いわゆる爬虫類
   無弓類 Anapsida <絶滅>
   双弓類 Diapsida
    細脚類 <絶滅>
    魚竜類 <絶滅>大型海棲爬虫類(イクチオサウルス、ショニサウルス、ウタツサウルスなど)
    竜類 sauria
     鱗竜形類
      鰭竜類 <絶滅>
       偽竜類 (ノトサウルスなど)
       首長竜類 水中の生態系で頂点。胎生(エラスモサウルス、プレシオサウルス、フタバスズキリュウなど)
      鱗竜類 Lepidosauria
       ムカシトカゲ類 (現在もニュージーランドの極小域に生息する原始的な形質を残した爬虫類)
       有鱗類 (現在も繁栄する爬虫類で、トカゲ、ヤモリ、イグアナ、ヘビ類、モササウルスなど)
     主竜形類 Archosauromorpha
      カメ類 (甲羅をもつ爬虫類で現在も世界中に棲息している亀類
      主竜類 Archosauria
       クルロタルシ類 <ワニ類以外絶滅>
        偽鰐類 <絶滅>
        植竜類 <絶滅>
        ワニ類  (現生の生物としては鳥類に次いで恐竜に近い。クロコダイル、アリゲーターなど
       鳥頸類 Ornithodira
        翼竜類 <絶滅> 初めて空を飛んだ脊椎動物(プテラノドン、ケツァルコアトルス、ヒタチナカリュウなど)
        恐竜類 Dinosauria <鳥類以外絶滅> いわゆる恐竜
         竜盤類
          竜脚類
           古竜脚類 中型の草食恐竜(プラテオサウルス、アンキサウルスなど)
           新竜脚類 四足歩行の超大型草食恐竜
            ディプロドクス類 (ディプロドクス、アパトサウルス、スーパーサウルスなど)
            ティタノサウルス類 (ブラキオサウルス、アルゼンチノサウルス、フクイティタン、丹波竜など)
         鳥後脚類(オルニソスケリダ)2017/3に提唱された新分類で、獣脚類を鳥盤類の仲間とする新概念
          鳥盤類 <絶滅> 恥骨が後ろを向く骨盤を持つ恐竜の仲間で草食が多い
           装盾亜目  背中に剣板や尾にスパイクを持つ剣竜類(ステゴサウルス、アンキロサウルスなど)
           角脚類 
            鳥脚亜目  二足歩行の草食恐竜(イグアノドン、フクイサウルス、コシサウルス、むかわ竜など)
            周飾頭亜目  四足歩行の草食で頭部に突起を持つ(トリケラトプス、石頭竜など)
          獣脚類  二足歩行の主に肉食の恐竜  <鳥類以外絶滅>
           ケラトサウルス類
           テタヌラ類
            スピノサウルス類 背中に帆のような突起を持つ史上最大クラスの肉食(但し魚食)恐竜
            アヴィテロポーダ類 
             カルノサウルス類 大型肉食恐竜の仲間(アロサウルス、シアッツ、フクイラプトルなど)
             コエルロサウルス類 羽毛を持ち始めた恐竜 ティラノサウルス以外は小型が多い
              コンプソグナトゥス類 羽毛を持つ小型肉食恐竜で、秒速17.8mで走った
              ティラノサウルス類 史上最強と言われる肉食恐竜で羽毛を持つ可能性大。日本では歯が出土
              マニラプトル類 長い腕と三本指の手を持つ恐竜で、鳥類など飛翔能力のある種も含む
               アルヴァレスサウルス類 羽毛を持つ小型恐竜で走るのが速かった
               テリジノサウルス類 かぎ爪を持ち原始的な羽毛を有する恐竜
               オヴィラプトル類  羽毛を持ち抱卵する恐竜で、恒温性の可能性が高い
               エウマニラプトル類 羽毛恐竜 (トロオドン、ヴェロキラプトル、ミクロラプトルなど)
               鳥群 Avialae
                始祖鳥  発達した風切羽を持つ鳥類恐竜 -- ジュラ紀後期
                孔子鳥  翼に爪を持つ鳥類恐竜で羽ばたいて飛んでいた -- 白亜紀前期
                エナンティオルニス類  現生の鳥類の姉妹群で前羽に爪を持つ -- 白亜紀
                真鳥類 Ornithurae
                 ヘスペロルニス クチバシに歯を持つ海鳥で白亜紀末期に絶滅
                 新鳥類
                  イクチオルニス 現生鳥類に近い海鳥で白亜紀末期に絶滅
                  現生鳥類 (Neornithes)
                   古顎類(ダチョウ、エミュー、キウイなど)
                   新顎類
                    キジカモ類(キジ、ニワトリ、ライチョウ、カモ、ガン、ハクチョウなど)
                    新顎小綱 (Neoaves)・・・・上記以外の新生代以降に分化した多くの鳥類





以上の階層分類表は私が独自に構成したもので、あくまで代表的なグループ・種類を抜粋して書いています。(完全に網羅した系統分類表ではありません)


始祖鳥以前の後期ジュラ紀に、アンキオルニスという羽毛恐竜がいました。また、アウロルニスという鳥的な種も発見されました。これらが直接の鳥の祖先かどうか諸説あり確定するに至っていません。ただ、この時期、鳥に似た恐竜がいろいろ発生し、この中から真の鳥類が出現したのは間違いありません。

↓アンキオルニス想像図
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アンキオルニスは高さ30センチほどなのですが、この小型化も鳥への大きな一歩でした。小型化することで、鳥類の特徴が途切れることなく徐々に獲得され、飛翔能力も滑空から完全飛行へと発達したのです。
中生代末に多くの恐竜が絶滅しましたが、鳥類だけは生き延びました。これは、小型化と飛翔能力によるという説を唱える学者もいるのです。




さて、上に述べたように、私が福井県立恐竜博物館に行く直前の、2017年3月23日にネーチャーに画期的な論文が発表されたのです。
それが、ケンブリッジ大等のチームの、「獣脚類」は「鳥盤類」に近い仲間であるとする新説です。ここで「獣脚類」と「鳥盤類」をまとめる「鳥後脚類(オルニソスケリダ)」という新グループ概念が提唱されました。(Nature 543, 7646 を参照してください

ネットでこれに言及したサイトでは、「恐竜の新しい系統関係の提唱」 と 「ティラノサウルスとステゴサウルスは親戚関係にあった」 が分かりやすくてオススメです。

私は、「獣脚類」が「竜盤類」より「鳥盤類」に近いというこの新説に大きな共感を覚えましたので、系統分類表を新たにまとめたく思い、今日のこのブログ記事を書いたのです。新説が出たのを機会に、頭の中を整理したかったのです。

この新説が学会で全面的に承認されたわけではないですが、有力説であることは間違いなく、私は非常に説得力があると思います。
新説のおかげで、恐竜の鳥類への進化の道筋が、より分かりやすくスッキリしたと考えています。


これまで、恐竜の定義は、「恐竜は、スズメとトリケラトプスの共通祖先と、そのすべての子孫」でした。
しかし、新説によると、スズメ(鳥類)とトリケラトプス(鳥盤類)の共通祖先は、竜盤類を含まなくなるので、竜盤類が恐竜でなくなってしまいます。
そこで現在の、新しい恐竜の定義は、「恐竜は、スズメ(鳥類)とトリケラトプス(鳥盤類)とディプロドクス(竜盤類)の共通祖先と、そのすべての子孫」 となったのです。



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2017年 04月 25日 |
福井県立恐竜博物館の1階は、柱のない巨大ドームの中に、44体の恐竜全身骨格などが「恐竜の世界ゾーン」として所狭しと展示されています。

↓照明はスポット的にあるものの、全体的には暗く恐ろしげな雰囲気を出しています。
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↓ 1階から2階へは長いスロープがあり、恐竜の世界ゾーンを見下ろすことができます。柱のないドーム空間に展開する恐竜たちの骨格姿を一望できるスポットです。
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44体の恐竜全身骨格展示というのは、日本最大規模で、世界的にも有数なものですが、個々に写真を並べると気分を害される方もおられると思いますので、その主な写真は More に掲載しました。ご興味のある方のみ、下の  More 恐竜の骨格展示写真 をクリックしてご覧ください。

本文では、ティラノサウルスについて書きます。



ティラノサウルスは、地球史上最強の陸上生物として、あまりにも有名ですが、じっくり観察すると様々な謎があります。

↓骨格展示を見る分かるように、巨大な身体のプロポーション的に異常に顔部分が大きく、後肢(足)も大きいのに対し前肢(手)が非常に小さいのがティラノサウルスの特徴です。
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↓前回載せたものですが、ティラノサウルスの等身大復元模型もご覧ください。
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ご覧のように、ティラノサウルスの顔部は巨大で、横にも分厚く、この顔の形は、口が大きく強靭なことと同時に脳が大きいことを示しています。
体長に関しては、より大きい獣脚類恐竜(スピノサウルスやギガノトサウルス)がいますが、いずれも顔部は細長くて薄い形で、顎の力自体は、はティラノサウルスに比して劣ります。

ティラノサウルスの噛む力は、6万ニュートンとされ、ライオンの2000ニュートン、ワニの6000ニュートンと比べて圧倒的に強力です。
知能もあり集団で狩りをした状況の化石もあり、やはり、ティラノサウルスは、地球史上最強の陸上生物であることは間違いないようです。


1990年に米国サウスダコタ州で発見されたティラノサウルスの有名化石「スー」は、骨格がそろったほぼ完全な化石で、体長は約13m、体重は約6t、年齢は28才程度と推測されています。

何故、このように強大に進化していったのでしょうか? これが一番の謎です。


最も有力な説は、主要な獲物であったトリケラトプス類と巨大化競争で共進化したとするものです。
狩られる側の植物食恐竜トリケラトプスは、ティラノサウルスと同時期同地域に生息し、身体全体を巨大化させ首を守る盾(フリル)も大型化させているのです。

↓福井県立恐竜博物館のトリケラトプスの全身骨格展示
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大型化することで捕食されることを防ごうとしたトリケラトプスに対し、ティラノサウルスも大型化で対処し特に顔部を分厚く巨大化させ噛む力と知能を高めたのです。

ティラノサウルスは、特にトリケラトプスの首の肉が好物だったようで、フリルを噛んで首を引きちぎり食べていたようです。くわしくは、こちら <ティラノサウルスがトリケラトプスを食べる時のガイドライン>



ティラノサウルスの前肢(手)が異様に小さいのも謎です。

↓ティラノサウルスの前肢を拡大撮影してみます。
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恐竜の指は三本指のものが多いのですが、ティラノサウルスの前肢は珍しく二本指です。また太い後肢(三本指)と対照的に非常に小さいものです。

ティラノサウルスの前肢が小さい理由については諸説乱立しています。

(1)二足歩行肉食恐竜として顔部<顎の噛む力>を大きくする方向に進化し、重量バランスをとるため前肢が小さくなった。
(2)強大な顔部だけで捕食するスタイルに進化したので、前肢はほとんど不要になった。
(3)「頭が小さく腕が太い肉食恐竜」と「頭が大きく腕が小さい肉欲恐竜」の両方が生まれ、生存競争で後者が勝った。
(4)起き上がる際に、補助的に前肢を使用した。
(5)爪楊枝のように歯の掃除に使った。
(6)比較して小さく見えるだけで、前肢は切り裂きによって獲物にとどめを刺すための武器だった。


私は上記の(1)説プラス(2)説を支持します。捕食方法と重量バランスをとるための進化が一致したと考えます。
顔を大きくすれば脳も大きくなり動作制御や知能も発達します。そのかわり前肢は小さくし重量を減らしたのではないでしょうか。

少なくとも、ティラノサウルスは強大な顎と歯により獲物をかみ砕いたり引きちぎったりして捕食していたので、ライオンのように前肢を使って獲物を倒し捕食するスタイルをとらなかったのです。



ティラノサウルスは、脳が大きく特に嗅球部分が発達しており、嗅覚がとても優れていました。また、視覚も鋭く、立体視ができる数少ない恐竜のひとつであり、非常に進化した三半規管を持っていることから、運動能力も優れていたようです。知能も高く、ある程度の集団で狩りをしていたとする説が有力です。

ティラノサウルスの姿勢については、尻尾を地面につけず、体をほぼ水平に延ばして活動し、尻尾は水平姿勢の重さのバランスをとるために重要な役割を果たしていました。
昔、考えられていた尻尾を垂らしたカンガルー型の姿勢は否定されています。


また、スカベンジャー(腐肉食者)であったという説も、現在では否定されており、生態ピラミッドの頂点に位置するプレデター(捕食者)であったとする説が認められています。


この他の、ティラノサウルスの体温(恒温性かどうか)、羽毛の有無、走行速度については、たくさんの説があり、まだ決定的な証拠が見つかっておらず、謎となっています。
もし派手な羽毛をまとっていたとすれば、外観の雰囲気が全く変わりますので、興味深いところです。

<たびねす記事もよろしく>
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