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2017年 01月 19日 |
1月15日まで、大阪の国立国際美術館で「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会が開かれていました。
私もなんとか滑り込みセーフで、見てきました。今日はその独断的感想を、記憶が新しいうちに書いておきます。

↓国立国際美術館外観
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美術館に、朝10時の開館と同時に飛び込んで、悔いのないよう納得するまで見て、出てきたのが13時15分でした(汗)
57作品で、3時間以上使ったわけですから、じゅうぶんにヴェネツィア絵画を堪能しました。

↓入ったところにある宣伝ポスター
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↓併設の展覧会「プレイ展」は写真撮影可でした。
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自由に撮影してSNSやインターネットで写真を拡散してほしいということです。こういう趣旨の展覧会もこれまで何度かありましたが、まだまだ日本では少ないです(曜日によって撮影可だったのが「デトロイト美術館展」、常時一部撮影可なのが東京国立博物館)。海外では当たり前なので、これからは増えてほしいものです。


今回は、本体の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展は、写真撮影は不可ですので、その個々の絵画内容は、別の機会でということで、今日は私が自分で撮った周辺写真やパンフによる、全体的感想と印象的だった作品の解説です。


まず、入場口に音声ガイドのコーナーがあります。私はヴェネツィア派絵画にさほど詳しくないのと、俳優の石坂浩二さんのガイドということで、550円を支払って音声ガイドも聴いてみることにしました。

クリヴェッリを石坂浩二さんがどう解説するかも楽しみだったのですが、残念なことに音声ガイドされる20作品に、クリヴェッリ作品は選ばれていませんでした・・・

ただし、ミュージアムショップで販売されている絵葉書(ベスト25作品)には、クリヴェッリは選ばれていたので、それを自分への土産として購入しました。

↓クリヴェッリ作品の絵ハガキと、ジョヴァンニ・ベッリーニの栞など
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全体的には、たいへん見応えのある美術展でした。これだけのヴェネツィア派の作品を日本に居ながら見られるというのは、すごいことです。
欲を言えば、さらに天才ジョルジョーネの作品もあれば最高でしたが、ジョルジョーネは夭折し寡作ですし、『テンペスタ』 はアカデミア美術館の至宝ですから、やはり来日は無理でしょうね。

それでも、日伊修好条約150周年記念ということで、頑張ってくれた関係者の皆様に感謝です。


個人的感想ですが、ざっと全部見て、私がまず思ったのは、見どころは前半部分にあるということです。

↓パンフレット裏側上部はティツィアーノまでの作品です。
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もっと正確に言えば、全57作品のうち、前半最初部分にある以下9作品が、私にはベストだと感じました。

ジョヴァンニ・ベッリーニ『聖母子』(赤い智天使の聖母)
カルロ・クリヴェッリ『聖セバステイアヌス』
カルロ・クリヴェッリ『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』
ラッザロ・バスティアーニ『聖ヒエロニムスの葬儀』
アントニオ・デ・サリバ『受胎告知の聖母』
ヴィットーレ・カルパッチョ『聖母マリアのエリザベト訪問』
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『受胎告知』
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『聖母子』(アルベルティーニの聖母)
ティツィアーノ工房『ヴィーナス』


以上は、あくまで私の独断的な好みによるベストです。どうもヴェネツィア派に関しては、ティツィアーノまでのルネサンス前期絵画が、私の好みのようです。


他に、ティツィアーノより後で、好き嫌いは別として印象に残った作品は以下のとおりです。

ヤコボ・バッサーノ『悔悛する聖ヒエロニムスと天井に顕れる聖母子』
ヤコボ・ティントレット『サンマルコ財務官ヤコボ・ソランツォの肖像』
ベルナルディーノ・リチーニオ『パルツォをかぶった女性の肖像』
レアンドロ・バッサーノ『ルクレティア』
パルマ・イル・ジョーヴァネ『聖母子と聖ドミニク、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ』
パルマ・イル・ジョーヴァネ『スザンナと長老たち』
フランチェスコ・モンテメッサーノ『ヴィーナスに薔薇の冠をかぶせる二人のアモル』
パドヴァニーノ『オルフェウスとエウリュディケ』

このうち上から三作品は、パンフレット裏側下部に載っていましたので紹介しておきます。

↓バッサーノ『悔悛する聖ヒエロニムスと天井に顕れる聖母子』
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↓ティントレット『サンマルコ財務官ヤコボ・ソランツォの肖像』とリチーニオ『パルツォをかぶった女性の肖像』。
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何度も会場を行ったり来たりし、特にクリヴェッリ作品は合計で30分くらい鑑賞したと思います。音声ガイドも2周しました(笑)
石坂浩二さん音声ガイド解説は声が聞き取りやすく、内容も分かりやすいものでした。


さて、一番最初に展示されていたジョヴァンニ・ベッリーニは、1作品とはいえ、とても好感が持てました。
落ち着いた雰囲気で優しさがあります。

↓外部ポスター(ジョヴァンニ・ベッリーニの聖母子像が一押しになっています)
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この聖母子像は、万人受けすると見えて、絵ハガキ売り上げトップでしたし、関連グッズも多く、いわば展覧会のマスコット的存在でした。
ジョヴァンニ・ベッリーニの明るい色彩と優しい人物描写は、もっと評価されても良いと思います。


そこから次に展示されていたのが、私にとって本命のクリヴェッリ2作品。クリヴェッリの魅力たる聖母マリアやマグダラのマリアではないので、過剰に期待していなかったのですが、実物は予想以上に良かったです。(詳しくはこの記事の最後部分で)

それから、バスティアーニ『聖ヒエロニムスの葬儀』。これは見たことのない構図で興味深いものでした。

↓次は、アントニオ・デ・サリバ『受胎告知の聖母』
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↑これは、アントネッロ・ダ・メッシーナの傑作『受胎告知の聖母』を、甥のデ・サリバが模写したものですが、一時はメッシーナの真筆とされていたもので、とても雰囲気はありました。私のような素人には、メッシーナ作品との区別がつきません(汗)


カルパッチョ『聖母マリアのエリザベト訪問』は、イタリア料理の「カルパッチョ」の名前の由来となった画家の色使いがよく出ており、なるほどと思いました。



そして、いよいよティツィアーノの2作。

ティツィアーノは想定の範囲内でしたが、とても良かったです。やはり絵のうまさは抜群で、巨匠であることは間違いありません。
この展覧会の看板作品である『受胎告知』の祭壇画は、縦4m以上もあって、よく運んで来れたものだと感心しました。

↓パンフレット表紙は、ティツィアーノの『受胎告知』
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この絵は、かのサン・サルヴァドール聖堂の目玉ですから、よく来日許可が下りたものです。

石坂浩二さんの音声ガイドには、スペシャルトラック「石坂浩二のヴェネツィア紀行 サン・サルヴァドール聖堂訪問」というのがあり、楽しめる仕掛けとなっています。この中で石坂浩二さんは「世界に数ある受胎告知の絵の中でも、この作品は最も素晴らしい」と述べていました。

確かに、天使が告知に現れた瞬間をとらえており、聖母マリアの戸惑いと驚きの姿が見事に描かれていますね。(個人的には、世界の受胎告知画の中で一番とは思いませんが・・・・ちょっと、うますぎるんだよなあ・・・)

↓チケットはティツィアーノの『聖母子』(アルベルティーニの聖母)
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これも素敵な作品ですね。

上記両作品ともティツィアーノの晩年に描かれたものですが、石坂浩二さんの音声ガイドによると、こういう晩年作品を通じて、ティツィアーノは後世の印象派に通じる絵画への道を開いたのだそうです。

晩年のティツィアーノはタッチがやや荒々しくなり、その芸術性を高めようとする姿勢が見られます。このあたり、時代は違いますが、同じ多作画家の巨匠であるレンブラントの晩年に似ているなあと思いました。



とはいえ、ヴェネツィア派は、ティツィアーノで頂点を極めてしまったと、私には感じました。ティツィアーノ以降の画家は、印象的な作品はありましたが、全体的には、どうも私の肌には合いませんでした。


↓パンフレット裏側下部に掲載されたティントレット『聖母被昇天』(左)とヴェロネーゼ『レパントの海戦の寓意』(右)
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あくまで私見ですが、ティントレットやヴェロネーゼは、要するに劇画チックなんですよね。こんなに、大げさに描いては、かえって神聖さを損なうように感じてしまいます。バッサーノも、うーん・・・

肖像画作品を見ると筆力はあるし、良いものも多々あるのですが、ティントレットとヴェロネーゼの大作は私の個人的好みではないのです。お好きな方、すいません。



それに比べて、身びいきでしょうが、わがカルロ・クリヴェッリは、とても私の好みです。ティントレットとヴェロネーゼの大仰な作品を見てから、クリヴェッリに戻ってきて再会すると、ほっとしました(笑)

クリヴェッリは小品2点で、テーマ も地味で、全展示品中唯一の板+テンペラという古い方法で描かれているのにも関わらず、静謐な神聖さが漂っており、やはり素晴らしいと感じました。油彩画より色に艶と趣があり、緻密かつクリアに残されているのにも驚きました。

硬質な人物描写に、後ろのタペストリーの精密な文様が独特の雰囲気を醸し出しています。神秘的という観点から見ても、クリヴェッリ作品は展覧会中の随一でした。

↓上で紹介したクリヴェッリ作品の絵ハガキを拡大
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左側の聖セバステイアヌスは、3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殉教した聖人で、矢がささっている姿で描かれるのが通例です。矢で瀕死の状態になりますが、聖女イレーネに救われ命を取り留めます。後に、宣教を続けたため、こん棒で殴打され殺されます。
矢を受けても死ななかったことなどから、後世に黒死病から信者を守る聖人として崇敬されました。

なお、クリヴェッリ『聖セバステイアヌス』と『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』という作品名についている「聖人」と「福者」との違いは、カトリックにおける称号の違いです。「聖人」のほうが位が高く、次いで「福者」となります。(正教会やプロテスタントでは扱いが異なります)

右側のヤコボ・デッラ・マルカは、15世紀の聖職者で、クリヴェッリが後半生を過ごしたアスコリ・ピチェーノで特に人気があったそうです。18世紀に聖人として列聖されましたが、クリヴェッリが描いた15世紀末の時点では、まだ福者であったので、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』という作品名になっているわけです。

↓『聖セバステイアヌス』の光輪部分(左)と『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』の光線部分(右)
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ミュージアムショップで販売さていた図録の解説によると、『聖セバステイアヌス』が頭上に光輪があるのに対し、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』のほうは頭の周りに光線が描かれているのは、聖者(Saint) と福者(Beato) の違いを表しているそうです。

また、図録の解説ですが、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』の下部に「OPVS KAROLI CRIVELLI VENETI」のサインがあるのは、後世の書き加えであるとのことです。なぜなら、クリヴェッリは、祭壇画では中央パネルの聖母子像にしかサインをしなかったからです。この作品は、アスコリ受胎告知教会の多翼祭壇画の端部パネルとされており、独立した絵画ではないのです。

また、X線解析から、複数の人の手による作成痕跡らしきものが見つかっており、全部がクリヴェッリ一人により描かれたというより、クリヴェッリ工房の作品の可能性があると、これも図録の解説にあります。



ヴェネツィアのアカデミア美術館には、クリヴェッリによるアスコリ受胎告知教会多翼祭壇画パネルとしては、聖セバステイアヌス、聖ロッコ、福者ヤコボ・デッラ・マルカ、聖エミディオの4枚が、『4聖人』として収蔵展示されています。そのうち、今回は2枚が来日したわけです。



これで、クリヴェッリ作品は、私にとって実物は、5作品を見たことになります。今後も、海外の教会や美術館を巡って、少しずつ見ていきたいものです。

クリヴェッリ作品は、世界中に散らばってしまっています。とはいえ、そんなに多くの作品は現存しません。(日本の国立西洋美術館にも1点ありますが、常設展示作品ではないのが残念です。)

寡作作家というのは、全作品を実際に見ることが不可能ではないので、ある意味、追いかける対象としては最適です。
私は、これまで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョルジョーネ、フェルメールといった好きな寡作画家の作品を旅の楽しみのひとつとして意識して見てきました。今後は、それにクリヴェッリを加えることにします。



以上、全体的な話と、特に感心した作品について書いてみました。


↓次の展覧会はクラーナハ、これも好きな画家なので行く予定にしています。
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2016年 11月 08日 |
トルコ記事では遺跡案内が続きましたので、今日はトルコの食べ物の話を。

私は魚介が好きなので、世界各国でよくシーフード料理を食べます。
トルコでも、いろいろ食べましたので、まとめて紹介してみます。

日本人なので世界の魚料理にはどうしても辛口評価になりがちですが、トルコは中近東ではベターというか、まずまず魚料理がいけると感じました。

↓トルコで一番美味しかった魚料理。アンタルヤの豪華ホテルのバイキングスタイルの夕食 で食したフエダイ
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↑これは料理が秀逸というよりフエダイという魚自体が非常に美味なので、素材の良さが出ていると思いました。
とはいえ。ここは評判のシェフがいるだけあって全般的に水準が高く、例えば、フエダイの左下がトルコピザで、右下がパプリカの肉詰め(ドルマ)ですが、ともに文句なく非常に美味でした。

↓アンタルヤで味をしめてパムッカレで注文した魚料理・・・うーんいまいち。身が柔らか過ぎうまみが出ていません。
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イスタンブールでは、ちょっと高級なレストランにも一度だけ行ってみたのですが・・・

↓前菜は豪華でした。
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↓メインはサバなんですが・・・・残念、期待外れ。揚げ過ぎパサパサ感・・・
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そこで、別の小さなレストランで再挑戦。

↓ここの前菜サラダはマリーネ風で美味でした。
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↓メインの魚は・・・うーんまあまあ普通でした。
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レストランの魚料理はあきらめて、安いサバサンドを食べてみると・・・

↓自撮りサバサンド。これは行ける!
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結局、イスタンブールの魚料理では、一番安いサバサンドが一番美味しかったという結果でした(汗)

もちろん味は人それぞれの好みに左右されますので、以上の結果はあくまで私の個人的な評価です。

私には全般的に、トルコでは調理過剰気味で、肉類は非常に良いのですが魚はいまいちに感じます。これは、日本人の私は魚の素材の味の良さを知っているので、シンプルな味付けを欲してしまうからでしょう。
あえて言わせてもらえれば、サバはシンプルな塩焼きが一番です(笑)


<補遺>

↓トルコの魚屋さんの店先ディスプレイ。なかなか綺麗です。
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↓これはオコゼ系だと思いますが、何もここまでしなくともと思ってしまいました。
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2014年 08月 06日 |
死海の荒野で貴重な絶滅危惧種であるアイベックスに遭遇しました。
アイベックス類の中でも特に立派な角を持つ雄のヌビアアイベックスらしいです。野生のヌビアアイベックスを見たのははじめてでしたので感動しました。

以下、全ての写真はクリックすると拡大表示されますので、ぜひ大きくして御覧ください。

↓崖の上に現れたヌビアアイベックス
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↓死海をバックに、こちらを意識して警戒しながらもポーズをとってくれました。
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↓死海をバックに、ドアップで。
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アイベックスはユーラーシア~北アフリカの厳しいい自然環境の場所に点々と分布するウシ科の哺乳類で多くの種類・亜種があります。
スイスの山岳地帯に分布するアルプスアイベックスが有名ですが、ピレネーのスペインアイベックス、ロシアのカフカスアイベックス、シベリアアイベックスやエチオピアのワリアアイペックスなどもあります。

今回撮影したアイベックスは、アラビア半島やアフリカ北東部の荒野に棲息するヌビアアイベックスのようです。
ヌビアアイベックスは荒野~砂漠の貴重な肉として、昔から人間に狙われ、生息数が減少しています。現在は絶滅危惧種として保護されていますが、大きな角を標的とする密猟があるそうです。
人間が有用動物として家畜化し増やしてきたラクダとの生存競争もあり、将来絶滅する可能性があります。
もともと厳しい自然の中で人間に追われてなんとか棲息してきた動物です。このアイベックスも頑張って生き抜いてほしいものですね。

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2014年 07月 27日 |
今回は、死海周辺でよく見られた野鳥カバイロハッカを紹介します。

カバイロハッカは通称英名マイナ・バードといい世界中の熱帯~亜熱帯に生息域を広げている中型の野鳥です。
もともとはインド原産ですが、現在はアフリカ・アラビア半島から東南アジア・太平洋の島々やオーストラリアにまで分布しています。私も以前、ハワイで見かけました。

この鳥は、街や村の人間の生活に適応し、人をさほど怖がらず、人家から出るゴミをあさることもある雑食性のたくましい野鳥です。
日本で言えば、ヒヨドリやムクドリにあたる生態的地位を占めていると思われます。

死海リゾートでもホテルや浮遊体験海水浴場でよくみかけ、観光客からも餌をもらいます。
繁殖力の強い鳥なので在来種に害を与えるという指摘があり、実際、死海では本来ここにいる トリストラム という野鳥を駆逐しつつあるように見えました。

ただ、よく見ると可愛い鳥なので、私は宿泊したホテルの部屋から、毎朝飛んでくるこのカバイロハッカを観察し、手のひらカメラLUMIX GM で楽しく写真に収めました。(LUMIX GM は超小型で威圧感がないので野鳥も逃げないような気がします)

以下、カバイロハッカの写真は全てクリックすると拡大表示されますので、ぜひ大きくして御覧ください。
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LUMIX GM with Lumix G Vario 45-150mm F4.0-5.6 MEGA O.I.S

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2014年 07月 18日 |
マサダ要塞は、紀元70年、ユダヤ戦争でエルサレムが陥落した後、1000人のユダヤ人集団が3年半にわたり籠城し、集団自決で幕をおろした有名な古戦場です。

現在は、死海周辺では、浮遊体験とクムラン遺跡に並ぶ、必見の観光スポットで、2001年にユネスコの世界遺産に登録されました。本当にスケールの大きい荒涼とした絶景で、とても日本では見られない類の景色です。

マサダは死海に面した孤立峰の頂上にあり四方を絶壁に囲まれた難攻不落の要塞でした。ローマ軍はここを攻略するために、1万5千人人の軍勢で3年がかりで急峻な斜面に土を盛り、なんとか攻撃用の斜路を造成したのでした。

今日はマサダ紹介の前編として、その壮大な景観の写真を掲載します。


以下、マサダの写真は全て、クリックすると長辺1000ピクセルに拡大されます。ぜひ大きくして御覧ください。

↓マサダ周辺の荒涼とした景観
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↓マサダへはロープウェイを利用して行きます。(クリック拡大すると地上の急斜路=蛇の道を歩いて下ってくる人の姿も見えます)
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↓ロープウェイに搭乗して撮影
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↓岩壁に貼りつくロープウェイ頂上駅に到着。凄い高度感があります。
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↓遺跡を見学します。書庫跡・倉庫跡・住居跡などが並んでいます。
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↓これぞ本物の天空の城ではないでしょうか・・・
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↓北側の「ヘロデの北宮殿」の手すりから身を乗り出すと、スケールの大きい恐ろしい景色です。
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↓突き出した「ヘロデの北宮殿」の壮絶な風景
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↓西側(死海側と反対の山側)の景観も素晴らしいです。
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↓西側台地に残されたローマ軍の野営地跡(左上の四角く囲まれた土塁遺跡)
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↓ローマ軍が造成した攻撃用の斜路が残っています。(ここからローマ軍が侵入した時、マサダには960人の自決遺骸がありました)
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↓南側の景観(下に死海があり、さらに死海対岸のヨルダンの山が見えます)
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↓東側の景観(死海へユダの荒野が広がり草木はほとんどありません)
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↓崖を見下ろす(鉄砲水の跡の涸れ川=ワジが見えます)
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↓マサダ要塞の空撮写真
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2014年 07月 03日 |
先日の日曜日、南森町のMAGにて、ブログの輪写真展の打ち上げがありました。

写真とブログを愛する、同好の志の集まりでしたので、非常に盛り上がり、楽しい時間を過ごさせていただきました。参加の皆様の写真は力作ばかりで、大いに刺激を受けました。打ち上げでも、いろいろなお話を聞くことができ、とても参考になりました。

このブログの輪写真展では、私も一品を出展させていただきましたが、hirosiさんをはじめ世話役の皆さんに、本当にお世話になりました。深く御礼申し上げます。

また、写真展に、ご来場をいただいた皆様に心より感謝いたします。
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↓打ち上げ最後の記念撮影の集合写真を撮らせていただきましたので、その写真をアニメ風に加工して掲載してみます。皆さん、笑顔をありがとう!
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上の集合写真を御希望の方がおられましたら、メールまたは鍵コメで御連絡下さい。データを送付させていただきます。

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2014年 05月 26日 |
神殿の丘に来ましたので、その一部である「嘆きの壁」を紹介します。

前回書きましたように、エルサレムの第二神殿は、ユダヤ戦争の結果、AC70年に破壊されます。

破壊後、西壁の基礎部分だけが残ったので、ユダヤ教の聖地となります。ユダヤ教徒は、神殿の破壊を嘆き悲しみ、残された壁の前で祈り泣きます。そこで「嘆きの壁」と一般的に言われますが、ユダヤ人の正式な言い方は「西の壁」です。

下の写真のように、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」のすぐ上に、イスラム教の聖地「岩のドーム」があるのが分ります。

↓手前の「嘆きの壁」と、奥に見える金屋根の「岩のドーム」と、岩のドームに行くための「空中廊下」(右下)
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↓「岩のドーム」に行くための空中廊下より「嘆きの壁」をのぞむ(左側が男性用の壁で、右側が女性用の壁です)
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↓「嘆きの壁」男性側を望遠で・・・(皆、帽子を被っているのが分ります)
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↓「岩のドーム」見学後、「嘆きの壁」に降りる途中です。。
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↓また別の手荷物検査場を通過して、「嘆きの壁」の場所まで降りてきました。↓
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↓「嘆きの壁」に近づいて見学します。
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↓下の7段目までがヘロデ大王の時代のものです。エルサレム地方で採れる石灰岩エルサレム・ストーンが使用されているとのことです。
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男性は、私のような非ユダヤ教徒の観光客もキッパという帽子をかぶらねばなりません。(壁の前に用意されています)
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頭を隠すことて、神に対しての謙遜の意思を表す意味があるらしいです。(信仰の深い成人男子は黒ずくめでシルクハットを着用しています)

↓キッパいろいろ(エルサレム新市街の店で撮影)
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ユダヤ教の服装に関する律法の規定により、ユダヤ教徒の男性の最低限度の服装として常に頭にキッパを被らねばなりません。「嘆きの壁」のような神聖な場所では、非ユダヤ教徒の観光客(男性)も、キッパを被ることを要求されます。

↓旧約聖書が置かれています。
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↓激しく祈る方々(岩の割れ目に祈りの紙が挟み込まれています)
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ユダヤ戦争でAC70年にエルサレムが陥落すると、ユダヤ人約1000人が死海ほとりのマサダ要塞にたてこもり籠城します。AC73年ユダヤ籠城者の集団自決によりマサダ砦は落ち、ユダヤ戦争は終結しました。

ユダヤ戦争後、原則的にユダヤ教徒のエルサレム立ち入りは禁止され、その後イスラム化したため、この場所への参詣はユダヤ教徒にとってなかなか困難な状況になりました。
ユダヤ教徒が堂々といつでも嘆きの壁に行けるようになったのは、実に西暦1967年の第三次中東戦争以降のことなのです。。。


新約聖書の関係では、このユダヤ戦争後に、「マタイの福音書」と「ルカの福音書」が書かれました。AC80年前後のころと思われます。この両福音書の資料となったのが、ユダヤ戦争前に出来ていた「マルコの福音書」と、ロギアと呼ばれたイエス言葉集「Q資料」です。


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2014年 05月 20日 |
ガリラヤから南下しエリコでザーカイの家に宿泊したイエスの一行は、いよいよエルサレムに通じるエリコ街道を上ります。
エリコは標高マイナス240mでエルサレムは標高835mなので、1000m以上も登ることになります。

↓現在のエリコ街道の左右に点在する遊牧民ベドウィンのテント集落(車窓からの撮影)
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イエス一行は、エルサレム近郊オリーブ山南東麓のベタニアに宿泊します。ここにイエスの信者マリア・マルタ・ラザロの兄弟などが住んでいたからです。

いよいよここから、イエスの受難物語がはじまります。
オリーブ山の麓ベタニアからエルサレムに来ると、ゲッセマネの園付近から町に入ることになります。

↓現在のゲッセマネの園から神殿の丘をのぞみます。(西方向になります)
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↓ワイドに神殿の丘全景(この写真はクリックすると横1000ピクセルに拡大されますので大きくして御覧ください)
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↓黄金門のアップ(終末の日にメシアが軍勢を引き連れてここから入城するため、イスラム教徒が閉ざしてしまったと言われています)
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↓少し引いて視点を左に振ると神殿の丘がケデロン渓谷から切り立っているのが分ります。
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↓現在は、丘中央の、神殿の場所にイスラム教の「岩のドーム」(金色のドーム屋根の建物)が建っています。
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↑上の写真の左端の三角頭の細長く高い建物が聖墳墓教会です。

イエスの時代には、この大きな「神殿の丘」には、当然、ユダヤ教の神殿が建っていました。
そのユダヤ教の神殿がある光景は、エルサレム博物館の旧市街復元模型で見ることができます。

↓エルサレム博物館の旧市街復元模型で、上の写真と同じ方から撮影してみました。中央にユダヤ教神殿が見えます。
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↓ユダヤ教神殿の復元模型のアップ
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↓旧市街復元模型で、イエスが市街に入った可能性が高いライオン門(ステパノ門)のあたりを大きく撮影してみました。(イエスが入城したのは黄金門であったという説もあります)
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上の写真にあるような場所を通ってイエスと弟子たちの一行は、エルサレムに入りました。

その際、イエスはエルサレム手前の村でロバを手配し、それに乗ってエルサレムに入ります。子ロバに乗る者は「謙遜のメシア」の象徴とされているからです。
イエスはこうしてメシア的な行動をあえてとったのです。


弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、
「ホサナ、
主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。
いと高き所に、ホサナ」。
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。
(マルコの福音書11.7~11)

↓(参考)「キリストのエルサレム入城」(ジョット画、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂)
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このように、歓迎されてエルサレムに入ったイエスですが、数日後に、人々は手のひらを返したようにイエスを「十字架につけよ」と叫ぶのです・・・歓声と罵声はイエスの受難物語の明と暗の伴奏曲です。

マルコの福音書では、このようにエルサレム入りからイエスの受難物語のプロローグが書かれています。


ところで、フランスの聖書学者エティエンヌ・トロクメの、マルコの福音書の14章以下の受難物語は、後から別の著者により付け加えられたものだ、とする有力な学説があります。

確かに、14章以下は物語の雰囲気が変わり、イエスは弟子たちと離れた孤独な存在となり、ガリラヤでの人間的治癒者からキリスト論的指導者像へと移行します。
また、マルコ特有の接続詞 kai(そして)の多用が減り、文章が少し変化しています。

それでは、果たして、マルコの福音書の14章以下は、別人が書いたものでしょうか?

↓エルサレム入りでイエスを先導する左側の少年は、マルコを彷彿とさせます。
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以下、私的な見解を簡単に述べます。

私は14章以下の受難物語も、福音著者マルコ自身が書いたものだと考えます。

ただ、14章以下は、受難物語として、あらかじめマルコが別に書いておいたものなのです。

私説では、マルコは少年時代にイエスの伝道に同行しており、それがこのエルサレムでの出来事なのです。
14章以下の受難物語は、マルコが実際に見聞きし衝撃体験を得たものであり、これぞマルコがまず力を入れて書いた部分です。
そこには、マルコが自分自身の自画像を滑り込ませた箇所 もあります。

つまり、マルコは受難物語を自分の衝撃経験の中からまず先に著し、つぎにこの受難物語を前提として、遡って、資料をあつめて自らはイエスと同伴していないガリラヤの福音物語を書いたのです。
ガリラヤでの治癒実践のイエス伝承は、エルサレムでマルコが間近に見たイエスの治癒姿と重なり、マルコは、大いに我が意を得たことでしょう。ガリラヤのイエスの伝承を集めて、虐げられた人々を救う実践の人・行動の人イエスの福音物語を、生き生きと書いたのです。

連続して書いたのではなく、後からガリラヤ福音物語とエルサレム受難物語をくっつけたため、このようなやや不自然な形になり、語調も変化したように見えるのです。

エルサレムの受難物語がキリスト論的指導者像へと移行するのは、自己の死期を悟ったイエスの苦悩が描かれているからです。

福音書の最初にイエスがヨハネに洗礼を受けた時「天が裂けて」(マルコの福音書1.10)霊が下りるのですが、最後にイエスが息を引き取った時にも「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコの福音書15.38)のです。
この二つの事象は呼応しており、イエスの公生涯の最初と最後を象徴するものです。まさに物語の円環をなしており、福音物語と受難物語が同じ作者の手になることを示しています。

ガリラヤ福音物語とエルサレム受難物語は、どちらが主であるとか、どちらが付録であるとかいうものではなく、福音物語と受難物語が同格に組み合わされることにより、マルコの福音書が完成されたのです!


なお、16章9節以下の復活後日譚は、あきらかに後世付け加えられたものです。この点については、聖書学者の中でも全く異論は出ていません。(4世紀の学者であるヒエロニムスやエウセビオスでさえ、マルコ福音書は16章8節で終わっているとしています。)
イエスが果たして復活したのか?との暗示的姿勢がマルコらしい醍醐味なのです。
これを復活後日譚のように書いてしまうことは余計な解説で、マルコの福音書の見事なラスト構成から逸脱した蛇足です。

マルコは、「イエスの墓が空っぽである」という非常に劇的な場面を描いて、わざと唐突な形で福音書を終えたのです!
私も若き日マルコの福音書を読み、このダダーンと突然終わる衝撃のラストシーンに、感動しました・・・


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2014年 05月 18日 |
イスラエルの野鳥も見たいという御要望等をいただきましたので、今回はトリストラムという野鳥です。
この鳥は荒野~オアシスに住む野鳥で、私も今回はじめて見ました。

トリストラムは中型の鳥で、エリコから、死海を見下ろす荒野のマサダ遺跡、そして死海の浮遊体験のできるリゾート地域などで見られました。

学名は Onychognathus tristramii 、英名は Tristram's Starling 、和名は トリストラムクリバネテリムク です。
トリストラムと呼ばれるのは、英国の鳥類学者トリストラム(Henry Baker Tristram)が発見・命名したからです。
和名のクリバネテリムクというのは、翼を広げると風切部分が黄色~栗色で印象的なところから来ています。

↓エンボケック(死海リゾート)にて撮影
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↓以下は全てマサダ遺跡にて撮影
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カラスよりやや小さく、翼を広げると綺麗です。
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マサダ遺跡では群棲しています。人を怖がらないので撮影はしやすいです。
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↓背景に高度感のあるマサダ遺跡が写っています。枯れた川のような所が砂漠のワジ(涸れ川)です。
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↓群れが飛ぶと、黄色い翼が目立って壮観です。
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↓下の写真はクリックすると横1000ピクセルに拡大されます。ぜひ大きくして御覧ください。
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トリストラムは、マサダ遺跡に行けば必ず見れます。
実は、私がマサダ遺跡まで行ったのは、このトリストラムが近くで見られると聞いたからです。実際、間近で大きく撮影できたので、とても嬉しかったです。
なお、マサダ遺跡そのものに関しては、後日、詳しく紹介する予定です。

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2014年 05月 16日 |
ガリラヤ地方の写真は、まだまだ沢山あるのですが、あまりに長くガリラヤにこだわっていては前に進めませんので、いよいよエルサレムの受難へ向かうことにします。
今回は、タボル山とエリコの話です。

六日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登り、彼らだけになられた。ところが、彼らの目の前で姿が変わり、その衣は真っ白に輝き、地上のどんな布さらし職人もそれほど白くすることはできないほどになった。(マルコの福音書46.2~3)

これは主の変容と呼ばれる逸話で、その舞台となったタボル山はガリラヤ南部にあります。

↓タボル山(頂上付近に主の変容の教会があります)
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↓(参考)ヴァティカン美術館にあるラファエロの祭壇画「キリストの変容」
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その後、イエスと使徒の一行は、ガリラヤを後にし、エルサレムへ向かいます。
ヨルダン川に沿って南へ下り、以前、イエスが荒野の試みにあったエリコの町にやってきました。
ここは、エリコ街道がエルサレムに通じており、ヨルダン川地域からエルサレムに上る要衝の町でした。

↓エリコの町(現在はイスラム化したアラブの町としてパレスチナ国に属します)
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エリコでは数々の逸話があります。マルコの福音書・マタイの福音書にあるエリコの盲人の話や、ルカの福音書にある善きサマリア人の譬え、ザーカイの話などです。

一番有名な善きサマリア人の譬えを引用してみます。律法学者の「隣人とは誰か?」という問いに答えたイエスの言葉です。

「ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。 おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪い、その上その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。たまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。同じように通りがかったレビ人も見て見ぬふりをした。しかしあるサマリア人は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。翌日、そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います。』」ルカの福音書(10.30~37)

サマリアは、エルサレムのあるユダヤ中心部と、北のガラリヤの間の地域です。アッシリアからの移民が多く混血が進み、サマリア人はユダヤ人にイスラエル人の血を穢した者といわれ忌み嫌われていました。
ユダヤ律法学者からすれば、サマリア人は当然「隣人」たり得ない存在だったわけで、この文脈の前提となっています。

この善きサマリア人の譬えについては、仁慈と助けの解釈、自己義認の誤りの論破としての解釈、人種差別否定の思想という解釈などがあります。

↓(参考)フランソワ=レオン・シカール「傷ついた旅人に救いの手を差し伸べる『善きサマリア人』の彫像」
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この善きサマリア人の譬えは後世に大きな影響を与え、窮地の人を救うための「善きサマリア人の法」がアメリカやカナダなどで施行されています。

エリコでの話はどれも、イエスの差別されている人々への思いが感じられるものばかりです。

↓現在のエリコ街道
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↓エリコの露店など(アラブ人の露店や土産物店では価格表示がほとんどありません)
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