模糊の旅人
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2017年 07月 08日 |

「たびねす」に、私の <雲上の楽園!滋賀「伊吹山」で美しい花と蝶を観察しよう!> という記事が掲載されました。
これまで何十回と登って自然観察をしてきた伊吹山の花と蝶について、簡単にまとめてみたものです。ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。






伊吹山については、今年の夏(8月)も行きたいと思っていますが、もしそれが実現すれば、またブログ記事でより詳しく本格的に紹介したいと計画しています。
そこで今日は、季節ものを優先して、半夏生について書いておきます。


半夏生(はんげしょう)とは、雑節の1つで季節を示す用語。夏至から11日目の頃をいいます。今年は7月2日でした。
由来は諸説あり、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が半分白くなり、化粧しているように見えるからとも。また、ハンゲ(カラスビシャク)という薬草が生える時期という説もあります。

この時期は、農家にとって節目なので、各地いろいろな風習があります。
私の近所では、蛸を食べます。

↓近くのスーパーでは、半夏生セールをやっていました。

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↑説明によると、「稲の根がタコの足のように大地に広がってしっかり育つように」との願いを込めて、半夏生にタコを食べる風習があります、とのことです。

皆さんのところでは、どんな風習があるでしょうか?


私は、半夏生(ハンゲショウ=カタシログサ)という花が、好きなので、この時期はハンゲショウが必ず見られる所に写真撮影に行きます。近くの緑化センターです。この場所については次回の「たびねす記事」に掲載する予定にしていますが、今日はフライングで、今まさに開花シーズンのハンゲショウをお見せします。

ハンゲショウは地味な花ですが、花が咲くころに、葉の一部が白くなり、なんともいえない良さがあります。確かに半分だけ化粧しているような風情です。


以下、ハンゲショウの様々な表情をご覧ください。

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余談です。

この花の名前ハンゲショウについては、7月はじめの「半夏生」の時期に開花するからという説と、葉の片面が白くなる「半化粧」だからという説があります。
一方、雑節の季節用語「半夏生」は、ハンゲショウの花が咲くから名づけられてという有力な説があります。つまり、どちが先か?、卵が先か鶏が先か?、という循環する話ですね。

思うに、この花名の由来は「半化粧」で、そこから雑節の「半夏生」が名づけられたとすれば、スッキリしますが、いかがでしょうか?



生物学的には、上の写真をご覧いただければお分かりのように、花径に近い葉が、開花時期に白化しますので、この葉が目立つことで、花弁の役割を果たしていると考えられます。この自然の造化の妙と、これを「半化粧=半夏生」と名づけた日本人の優れた感性に、驚かされます。


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2017年 06月 24日 |

前回紹介しました「青刻昆布発祥の地」の碑のある越中公園の南側に「聖マリア大聖堂」があります。
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豊臣時代の細川屋敷のあった敷地すなわちガラシャの住んだ地に現代の司教座教会があるわけです。これは意図されたものではないようで、本当に不思議な縁を感じます。


キリスト教のカトリック玉造教会 であるとともに、カトリック大阪大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県)の司教座聖堂であることから、正式名を「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」といいます。

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ここは、1894年に建てられた聖アグネス聖堂を起源としますが戦災で焼失。その後、ザビエル来日400年記念に聖フランシスコ・ザビエル聖堂として再建され、さらに1963年に青銅板葺きの大伽藍として改築され現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」となったものです。


大聖堂内部にはイエス・キリストと聖母マリアの生涯を描いたステンドグラスと細川ガラシャの壁画。さらに小聖堂にはフランシスコ・ザビエルを描いた日本的なステンドグラスがあります。いずれも見事なものなので、余裕があれば見学してください。

↓小聖堂のステンドグラス(フランシスコ・ザビエルが描かれています)

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↓大聖堂紹介看板
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↓大聖堂前の広場には、ファティマのマリアがあります。
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↑ファティマとはポルトガルの小さな村で、1917年に三人の羊飼いの子ども達の前に聖母マリアが出現しました。カトリックが公式に承認した奇跡とされています。その情景を再現したのが、この大聖堂前の大理石群像です。


↓聖マリア大聖堂外側正面の右には、大きな細川ガラシャ像があります。カトリック信徒の彫刻家である阿部政義の制作です。

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↓細川ガラシャの画

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細川ガラシャは日本を代表するキリスト教の女性信徒であり、すぐ近くの細川屋敷で壮絶な死をとげました。

ガラシャ夫人の死を知った司祭オルガンティーノは、女性信徒に命じて焼け跡からガラシャの骨を拾わせ、堺のキリシタン墓地に葬りました。細川忠興も妻の死を悲しみ一周忌を兼ねて行われたキリスト教会葬に参列し涙にくれたそうです。


オルガンティーノは、当時京大阪などを所管するカトリックの司祭で、京都に南蛮寺(聖母マリア被昇天教会)、安土にセミナリヨ(神学校)、本能寺の変後は高槻にセミナリヨを建てました。人柄の優れた人物で「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と日本人から慕われました。伴天連追放令が出ても、非公式に宣教活動を続け、天正遣欧少年使節の帰国時に使節と共に秀吉に拝謁し、再び京都在住を許されました。高山右近を指導し、細川ガラシャに対しては女性信徒を細川屋敷に使わし受洗させました。日本人より西欧人のほうが野蛮だと評価し、日本を愛し日本に生涯を捧げ、1609年に長崎で病没しました。


細川ガラシャの生涯について詳しくは、こちら
ガラシャの供養塔は京都大徳寺の高桐院にあり、大阪の細川家菩提寺である崇禅寺には墓があります。さらに、熊本市の出水神社では祭神の一人として祀られています。
ガラシャの画としては、イスラエルの受胎告知教会にある、長谷川ルカ画伯が描いた『華の聖母子』というモザイク画が有名ですが、それについては【たびねす】受胎告知教会も!イエスの育ったナザレの町を歩こうという記事をご覧ください。



↓大聖堂外側正面の左には、キリシタン大名の高山右近像があります。ガラシャ像と同じく阿部政義の手になります。

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↑高山右近は、三好長慶没後の摂津の混乱の中、下剋上でのしあがった戦国大名の一人で摂津・高槻城主でした。
また、優れた人徳者として知られる敬虔なキリスト教徒でもありました。洗礼名のユストは「正義の人」を意味します。

織田信長や豊臣秀吉につかえ、右近の人柄に惹かれた黒田官兵衛・小西行長・牧村利貞・蒲生氏郷などの戦国大名を受洗させました。高槻では領民に慕われ七割の人がキリスト教徒となったそうです。

細川忠興・前田利家などは洗礼を受けなかったものの、右近の人柄に惹かれ、キリシタンに対して好意的で、細川忠興の妻:細川ガラシャは忠興から右近の噂を聞きキリシタンになりました。

しかし、秀吉の伴天連追放令により、右近は信仰を守るために領地を捨て、小西行長や前田利家の庇護を受けました。さらに、徳川家康のキリシタン国外追放令により、マニラに送られ現地で亡くなりました。右近像は高槻とマニラにもあります。

後世になりますが右近は、ローマ教皇庁により「福者」に認定され、2017年に大阪城ホールで列福式が挙行されました。


↓高山右近の像を詠んだ阿波野青畝の句碑

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「天の虹仰ぎて右近ここにあり」

阿波野青畝は「ホトトギス」同人の俳人でキリスト教徒です。

↓高山右近の紹介看板

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↓品の良い聖母子像

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この近辺から南へ下ると、イエズス修道女会をはじめ城星学園、大阪女学院、大阪クリスチャンセンター、大阪明星学園などキリスト教に関連する施設や学校がたくさんあります。不思議な場所です。

↓城星学園看板

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↓大阪クリスチャンセンター

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↓近辺写真を合成してみました。

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↓道標

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細川屋敷跡や聖マリア大聖堂がある場所から南へ、下り坂になっています。これは、大坂城の南側の空堀のあった地域と考えられます。

もともと、大阪平野に突き出した一本の背骨のような丘陵が上町台地で、その先端に大坂城があります。その地形を利用した大坂城は、南部だけは丘陵地帯で城としての弱点となるので、空堀を造る必要がありました。その際に利用されたのが、自然の浸食谷で、現在の空堀町から空堀通りに続く低地です。

まさに、この堀の北側(城の内側)には細川屋敷跡があり、南側(城の外側)には真田丸があったわけです。ここを歩くと、地形と地名が語る歴史のロマンを感じます。



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2017年 06月 19日 |
旧・日生球場のあった現「もりのみやキューズモール」の西南側一帯は、豊臣秀吉の時代は、武家屋敷が並んでいました。

秀吉の時代の大坂城は、現在の四倍以上の広さがある非常に巨大な城で、惣構え(総構え)の内部には有力大名の武家屋敷も含まれていたのです。現在の大阪城南側にある細川屋敷跡から真田丸跡地などを訪ねると、その広さを実感できます。それが、今回の~細川屋敷跡から真田丸跡地を歩く~シリーズ記事の舞台です。


JR大阪環状線または地下鉄(中央線または長堀鶴見緑地線)の森ノ宮駅から、中央大通りを西へ歩き、ファミリーマートの角を左折し南へ下り100mくらいの所に細川越中守屋敷跡があります。越中井(えっちゅうい)とも呼ばれますが、これは屋敷の当主である細川忠興が越中守であったことから来ています。

石造りの井戸跡と地蔵堂、碑があり、細川屋敷の台所のあった場所と伝えられます。細川忠興の妻の細川ガラシャ最期の地として知られ、その死の際、火がつけられ井戸だけが焼け残ったそうです。

↓ガラシャ歌碑
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「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

この碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句があります。

細川ガラシャは、明智光秀の娘で名を玉(珠子)といい、美人の誉れ高い女性で、光秀の畏友:細川藤孝の子である細川忠興に嫁ぎました。しかし、光秀が本能寺の変をおこしたことから謀反人の娘として一時丹後山中に幽閉され、後に豊臣秀吉の取りなしにより、細川家の大坂屋敷に戻されました。こうした中で、夫:忠興の友人でキリシタン大名だった高山右近のことを聞いた玉はカトリックに興味を持ち、やがて入信し受洗。ガラシャはその洗礼名で賜物(恩寵)を意味し、本名の玉に通じることから名づけられたものです。

関ヶ原の戦いの直前、決起した石田光成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、家臣に命じ胸を貫かせて死にました。キリスト教では自殺は禁じられているからです。

ガラシャの死は、徳川方の大名に大きな衝撃を与え、関ヶ原の戦いにおける東軍の結束を固める一つの要因となりました。後に細川氏は、肥後熊本藩主となり明治維新に至ります。この碑は、その熊本出身の縁から徳富蘇峰が揮毫したものなので、非常に力強い文字になっています。


この越中井のあたりは周囲にマンションが建ち背景が昔風の情緒がありません。説明看板も古ぼけて忘れられた感があったのですが、大河ドラマ真田丸の放送決定を機会に説明看板も新しくなり、雰囲気が少し良くなりました。

↓古い越中井付近
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↓新しい越中井付近
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↓古い説明看板
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↓新しい説明看板
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↓当時の大坂城惣構え内部の武家屋敷をいくつか現在の地に重ねてみました。あくまで私がフリーハンドで描いたもので正確な図ではなく、イメージ的なものとお考え下さい。
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↑ピンクの字が現在のもので、青地が秀吉時代のもの

細川とは細川忠興、宇喜多とは宇喜多秀家、小出とは小出吉政、前田とは前田利長で、いずれも当時の秀吉に近い大名です。

これを見ると、細川屋敷は、現・越中井から現・聖マリア大聖堂にかけてのかなり広い敷地だったことが分かります。



細川ガラシャの長男:細川忠隆の嫁:千世も当時、細川屋敷にいましたが、千世はガラシャのように自害せず、近所の実家である前田利長の屋敷に逃れました。ちなみに千世は、前田利家の七女で、利家とまつ から末娘なので非常に可愛がられた人。

この逃れた経路を上図で推測すると、細川屋敷の西門を出て南へ下り、小出屋敷の前を通って前田屋敷に逃げ込んだようです。宇喜多家は光成派なので、それを避けて小出屋敷の南西側の角を曲がって前田屋敷へ至ったかもしれません。細川家史によれば小出吉政の使者が細川忠興に「当方の屋敷の前をお通り、前田殿屋敷へ御入り候」と報告したとあります。

徳川家にとって有力外様大名同志である前田・細川の姻戚関係は好ましくないことと、ガラシャを失った細川忠興の怒りにより、細川忠隆は千世との離縁を命じられます。しかし、忠隆はこれを拒否し、父:忠興により廃嫡されます。忠隆は剃髪し、千世と子を伴い京都で蟄居し、生活は祖父:細川幽斎が支えました。幽斎の死後、千世は加賀の前田家に帰りました。25年後に、忠興と忠隆は和解しますが、忠隆は京都に留まり続け都の文化サロンの長老的存在となりました。

明智光秀から娘:ガラシャさらにその息子:忠隆に至る、なんとも複雑な人生ですね。(余談ですが、ガラシャの血は、後世の熊本藩の細川家はもちろんのこと、忠隆と千世の子:徳姫を経て、現在の皇室にも繋がっているそうです)


越中井の付近は、近年まで「越中町」とされていました。住居表示施行に伴って、地名が変更されてしまいましたが、その歴史を示す「旧町名継承碑」があります。

↓旧町名継承碑
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↑地元の人たちの、越中守忠興とガラシャ夫妻への思い入れが感じられる史碑といえるでしょう。


↓越中井の南にある越中公園
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↓「青刻昆布発祥の地」の碑のアップ
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越中井の南すぐの越中公園の道路沿いに「青刻昆布発祥の地」の碑があります。 この碑は、2001年に大阪昆布商工同業会が設立100周年を記念し建立したものです。

刻み昆布は、昆布加工食品の原点で、煮た昆布を細かく刻んでから乾燥したもの。この近辺で製造されはじめ、煮物として愛用されました。やがて、とろろ昆布や塩昆布など、大阪の食文化を象徴する高級な細工昆布の隆盛を迎えます。昆布は関西のダシ文化にも欠かせないものとなりました。

北前船が米や酒を北海道に運び、帰りは昆布を買い付けて帰ってくることで、昆布加工産業が発展したわけです。伝説によれば、大坂城を築く際に、巨大な石を運ぶため、昆布を石を滑らせる潤滑剤として大量に使ったことから、この近辺の昆布需要が高まり、それをきっかけに大阪人は昆布に親しむようになったそうです。


↓越中井の側にある謎の石像
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細川ガラシャについて、以前、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事に関連して、こちら  で詳しく書きました。

ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については こちら

ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については次回の記事で書きます。大阪の細川家菩提寺である崇禅寺にあるガラシャ墓については、取材済みなので、今後、機会を見て記事を書く予定にしています。



<追記> 前回の記事で「石山碕とニギハヤヒ」についてのご質問がありましたので、前回記事の下に More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。


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2017年 06月 14日 |
「たびねす」に、私の 「細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く」 と 「真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!」 の2本の記事が掲載されました。
これは連続して読めるコラボ記事として書いたもので、~地形と地名が語る歴史ロマン~ という切り口で、大阪城南部の細川屋敷跡から真田丸跡地へかけて歩くコースになっています。いわば大阪アースダイバーあるいはブラタモリ的大阪地形探索ともなっていますので、2記事を、ぜひ併せてご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(47)細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く
http://guide.travel.co.jp/article/26914/


(48)真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!
http://guide.travel.co.jp/article/26990/








ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、大阪城南部の歴史地区について、私見を交えながら、より詳しく紹介します。
今日はその話のプロローグで、大阪の背骨たる上町台地の地勢的特徴です。



大阪城は、大阪を南から北へ貫いてのびる上町台地の北端にあり、大阪の成り立ちを象徴する場所です。

↓現在の大阪城(江戸時代以前は大坂城)
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この大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にある聖地でした。石山碕と呼ばれたと古い文献にあります(饒速日命=ニギハヤヒの降臨の地ともされる)。

↓夜の大川端から大阪城を撮影して、現代の余計な建物を削除加工してみました。古い時代の聖地:石山碕を海から眺めた情景が浮かんで来るように思えます。
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その後、古墳時代以降になると、少しずつ海が後退していき、周囲の低く平らな大阪平野を見下ろす最も神聖な高台として、国土の神霊を祀る神社が鎮座し生國魂神社となりました。

さらに下って、ここは聖地であるともに要害の地でもあることから、石山本願寺が拠って立ち織田信長に抵抗しました。豊臣秀吉の時代には、生國魂神社は南へ移され、大坂城が築かれます。秀吉は城下に武家屋敷を配し、堺などから商人を集め、大阪を大都市化させたのです。

↓縄文時代の大阪の地形に、後の主要スポットを加えた地図
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↑これを見ると、上町台地の西端側に、聖地あるいはパワースポットが、南北に多く並んでいることが分かります。(例外的に見える四天王寺は移転されたもので、創建当時は現・難波宮跡地にあったとする説が有力)

これは、西の大阪湾という海に面して、神聖な宗教地域性とともに外に向かって王権を輝かせるという意味もあったと思われます。仁徳天皇陵などは海から見られる大王の超巨大墳墓として造営されたのです。

↓仁徳天皇陵
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中沢新一氏は、名著『大阪アースダイバー』の中で、この難波宮から南に伸びる難波大道、さらに南に位置する百舌鳥の大古墳群につながる南北のラインを、大阪を貫く第一の軸として、「アポロン軸」と呼び、王の絶大な権力を現すものと書いています。

私も、この中沢説について、個々の展開には強引な面が多くて異論があるものの、大筋は賛成です。私的には、泉北台地から上町台地にかけての地形は「大阪の背骨」だと考えており、大阪という都市の成り立ちそのものに深く関係し、古代からの歴史を背中に残す重要な場所であると思います。


大阪は全般的には堆積平野と埋立地で坂は少ないのですが、この上町台地だけは大阪の背骨として多くの坂があります。もともと大坂(現・大阪)という地名の由来は、上町台地北端の坂のある地域を「大坂」(小坂・尾坂説もあり)と呼んだことにあります。

上町台地西側は急傾斜で、聖地に関連した名所の坂が多く、天王寺七坂と言われ、古くからの歴史を感じさせます。

↓天王寺七坂のひとつ真言坂(真言坂は生國魂神社と生玉十坊に関連)
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↓天王寺七坂のひとつ愛染坂の説明看板(愛染坂は愛染堂と大江神社に関連)
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↓愛染堂に隣接する大江神社の説明看板より(生國魂神社から四天王寺にかけての一帯を夕陽ケ丘という)
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なお、上の地図で注意すべきは大和川です。この川は、奈良から生駒山地と葛城山地の間を抜け、北流して河内湾(河内湖)に注いで土砂を堆積していました。現在のように西流して大阪湾に注ぐようになったのは、江戸時代に、上町台地と泉北台地の間のやや低い場所を掘削し、大和川の付け替え工事が行われたからです。結果、現在の大阪市と堺市の境界をなす川となったのですが、これによって形状記憶都市:大阪のアポロン軸が分断されたとも言えます。

↓大和川中流域
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大坂城を築いた秀吉も、王権を輝かせる場所として、上町台地の突端を選びました。地勢的・軍事的に要害であったことが最大の理由ですが、縄文時代より大坂の最大の聖地の場所でもありました。そのため、生國魂神社を南へ丁重に遷座させたのです。

↓現在の生國魂神社
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大坂城は、西~北~東側が低地でしたが、南側は上町台地が続いているため、軍事的には攻めやすい弱点となります。そこで、南側に主な武家屋敷街を並べ、その南に天然の浸食谷を利用して空壕を掘り防備を固めたのです。

この武家屋敷街を含んだ大坂城の惣構え(総構え)は巨大で、現在の大阪城の4倍以上あったとされます。


惣構えが巨大となり、古い大坂の商業地だった旧石山本願寺内・渡辺津・旧玉造といったところが、大坂城内に取り込まれたため、そこにいた商人の移転地として、西側の低地が開発されます。さらに、堺から有力商工業者たちを移転させてきます(堺筋に名を残す)。
これが、船場という大商業地の発祥です。

やがて水運に恵まれた船場は各地の物産が集まる日本の経済センターとして発展し、天下の台所:大坂として大都市化していきます。

さらに、江戸時代に大坂は、近松門左衛門や井原西鶴、上田秋成などに代表される町人文化が栄えました。 文化の面でも、江戸と並ぶ中心地となりました。

明治以降、その経済的・文化的地位は低下していきますが、商人の町としての気質は引き継がれていきます。


言葉の面では、商人を中心として、争いや暴力を嫌い、平和を愛する町では、強い言葉ではなく、柔らかい言いまわしが好まれたのです。そうした土壌の中、大阪弁も変化しながら、その持ち味を残してきました。

大阪弁の代表格とされた船場言葉は、もともとは豊臣秀吉の時代に堺から強制移住させられた商人が多かったので、商人の自治都市:堺の言葉が基盤でした。そこに、江戸期になると、平和な商いに役立つ、丁寧かつ上品な京言葉の表現が取り入れられ、まろやかな語感の、はんなりとした大阪弁が発達したのです。


平成の現在、もはや往事の船場の雰囲気は無く、上品な大阪弁の文化は失われつつあり、船場センタービルの上には高速道路が走り、その船場センタービル自体も閉鎖されようとしています・・・

↓現在の船場のワンショット
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<追記> 2017.6.17 石山碕とニギハヤヒについて、ご質問がありましたので、以下の More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

<たびねす記事もよろしく>
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More ニギハヤヒの謎
2017年 02月 12日 |
エルミタージュ美術館のルネサンス絵画については、すでに こちら で書きましたので、今回は残されたヴェネツィア派絵画について書いてみます。


エルミタージュ美術館には、ヴェネツィア派最大の巨匠ティツィアーノの作品が10点もあります。

ティツィアーノはヴェネツィア派を代表する画家で、長命であったことから多くの作品を残しました。
上手さ抜群の筆使いで、大胆かつ表現力豊かな世界を展開し、祭壇画、宗教画、神話画から肖像画・風景画に至るまで多様な作品を描き、盛期ルネサンス期のヴェネツィアの芸術をけん引しました。


ティツィアーノ『懺悔するマグダラのマリア』(悔悛するマグダラのマリア)
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『懺悔するマグダラのマリア』は、ティツィアーノ作品として宗教性と官能性を併せ持つことから絶大な人気があり、広く賞賛を受けたテーマで、何度も描かれました。

エルミタージュ美術館のものは、1560年代のティツィアーノの晩年の作品で、シリーズ作品の中では表情が最も迫真的で見事なもの。ティツィアーノが到達した円熟の境地を示しています。


<参考>
↓最初期のティツィアーノ『懺悔するマグダラのマリア』(ピッティ美術館蔵)1533年ころ
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↓中期のティツィアーノ『懺悔するマグダラのマリア』(J・ポール・ゲティ美術館蔵)1560年ころ
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↓晩年のティツィアーノ『懺悔するマグダラのマリア』(カンポディモンテ美術館蔵)1565年ころ
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エルミタージュの『懺悔するマグダラのマリア』は、時期的に、おそらくJ・ポール・ゲティ美術館蔵の作品とカンポディモンテ美術館蔵の間に入るものと考えられます。

後期になればなるほど、マグダラのマリアの着衣が多くなっています。これは当時、北ヨーロッパで宗教改革の嵐が吹き荒れたのと、それを意識したカトリック側の宗教会議「トリエント公会議」で教義の再確認と風紀引き締めが行われた影響と思われます。


新約聖書の登場人物としては、マグダラのマリアは最も興味深い存在で、聖書外典として2世紀頃、すでに『(マグダラの)マリアの福音書』が書かれていました。
その後、長い歴史の中で、元娼婦と類推する考え方からイエス・キリストの妻という説まであり、マグダラのマリアほど芸術家たちの想像力と制作意欲をかき立てた聖女はいないでしょう。その典型が、ティツィアーノの『懺悔するマグダラのマリア』です。(いつか、マグダラのマリアをテーマに記事を書きたいのですが、トンデモ本も多く資料の真偽判断に迷う題材なので、なかなか難しいです。いろいろ調べてはいるのですが、ちょっと先送り中です。)




ティツィアーノ『ダナエ』
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『ダナエ』もティツィアーノが好んで描いたモチーフです。ギリシャ神話で、娘ダナエの生む子により殺さるという神託を受けたアルゴス王アクリシオスは、ダナエを幽閉しますが、オリンポスの主神ゼウスが黄金の雨となって部屋に侵入し、ダナエを妊娠させます。その結果、生まれたのがメドゥーサ退治を成し遂げた英雄ペルセウス。後に祖父アクリシオスを円盤投げ競技会の事故により殺してしまい図らずも神託が成就します。

この絵は、ゼウスが部屋に侵入した瞬間を描いており、裸で横たわるダナエの右側で侍女が降り注ぐ金貨を集めようと布を広げています。エルミタージュ美術館には、全く同じテーマの レンブラントの作品 もあります。時代は違いますが、二人の巨匠が描いた同名作品を比較して、どちらが好みか、鑑賞してみるのは一興です。


ティツィアーノ『聖セバステイアヌス』
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この作品は、ヨーロッパの人々には非常に人気があり、団体客が絶えず観覧していました。アジア人観光客はほとんど観覧していないので、やはりキリスト教文化圏に影響力のあるモチーフなんだなあと感じました。

ここは光線状況が難しいのと、観覧者が多いので、斜めから撮影してみました。

聖セバステイアヌスは、3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殉教した聖人で、矢がささっている姿で描かれるのが通例です。矢で瀕死の状態になりますが、聖女イレーネに救われ命を取り留めます。後に、宣教を続けたため、こん棒で殴打され殺されます。
矢を受けても死ななかったことなどから、後世に黒死病から信者を守る聖人として崇敬されました。


ティツィアーノ工房『鏡の前のヴィーナスと二人のキューピッド』
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割と大きな作品で目立っていました。同モチーフ作品が、先般の国立国際美術館「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展で、ティツィアーノ工房作品『ヴィーナス』(フランケッティ美術館蔵)として展示されていました。やはりこれもティツィアーノが好んで描いたテーマだったようです。

二人のキューピッドが鏡を支えて、そこ写った自分の姿を、ヴィーナスが身体をひねって見ています。古代ギリシャの彫刻に由来するポーズで、「鏡を見るヴィーナス」のヴァリアントのひとつです。

このエルミタージュの作品自体は、ティツィアーノの真筆ではなく、工房による模写作品です。ただし、正直言って、私には真作と模写の区別はつきませんでした。



ジョルジョーネ『ユディト』
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ジョルジョーネは、ティツィアーノの兄弟子にあたる天才画家で、ジョヴァンニ・ベッリーニの工房で修行し、レオナルド・ダ・ヴィンチが1500年にヴェネツィアを訪れると、その画法に大きな影響を受けて開眼したと伝えられます。
若くして夭折したため残された作品はわずかですが、どれも素晴らしいもので、その傑作のひとつが、エルミタージュにある『ユディト』です。

哀愁を帯びた詩情ゆたかなこの作品は本当に見事です。エルミタージュのヴェネツィア派の部屋ではひときわ抜きんでて存在感がありました。
ただ、非常に縦長で大きな作品であるのと、敵将ホロフェルネスの首を切って足で踏みつけるというモチーフが残酷なので、撮影した全体写真の上下左右をカットして掲載しています。お許しください。

なお、この作品は、絵画の修復という観点からも注目に値するものです。
すなわち、もともと板絵だった作品をカンヴァスに移し替え移植して、さらに変色したワニス皮膜を取り除き、大規模な修復が行われたものです。今日の姿によみがえったのは、1971年のことです。

板絵をカンヴァスに移し替えた例は、エルミタージュ美術館に比較的多く、有名作品としてはこのジョルジョーネ『ユディト』以外に、レオナルド・ダ・ヴィンチの『ブノワの聖母』があります。



ヴェロネーゼ『聖カタリナの神秘の結婚』
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ルネサンス後期にはヴェネツィアを代表する画家としてヴェロネーゼが活躍しました。ティツィアーノの人間表現や色彩を受け継ぎ、神話や聖書逸話に題材をとった物語性豊かな作品を多く生み出しました。

聖カタリナは、4世紀はじめにアレキサンドリアで殉教した聖人で、イエスと結婚するという神秘的な幻想を体験しました。この絵では、聖カタリナが聖母マリアに抱かれた幼児キリストの祝福を受けています。



ベネデット・カリアリ『聖家族と聖カタリナ、聖アンナ、聖ヨハネ』
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ベネデット・カリアリは、ヴェロネーゼ(本名パオロ・カリアリ)の弟で、結構多くの作品を残しており、エルミタージュ美術館には3枚の絵が収蔵されています。この『聖家族と聖カタリナ、聖アンナ、聖ヨハネ』は、ベネデット・カリアリの代表的な作品です。

ヴェロネーゼ工房は、ヴェロネーゼの死後も、二人の息子とベネデット・カリアリが運営し、活躍していたようです。先般の国立国際美術館「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」にも、ヴェロネーゼ没後の工房作品『羊飼いの礼拝』(アカデミア美術館蔵)が展示されていました。


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More 余談
2017年 02月 04日 |
「たびねす」に、私の「ロシア・エルミタージュ美術館でルネサンス美術を見る!」という記事が掲載されました。

以前、掲載した「世界最大規模!ロシア・エルミタージュ美術館を完全制覇」という記事が好評だったので、エルミタージュのルネサンス美術を専門的に取り上げて書いたものです。
絵画など15枚の写真をアップしていますので、ぜひ、この紹介記事をご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(42)ロシア・エルミタージュ美術館でルネサンス美術を見る!
http://guide.travel.co.jp/article/24310/






今日は、上記の、たびねす記事とタイアップして、エルミタージュのルネサンス絵画のうち、あまり知られていない初期ルネサンスのものを中心に紹介します。

エルミタージュ美術館の初期ルネサンス美術群は注目に値するものです。多くの作品が展示されていますので、時間の許す限り、ゆっくりと鑑賞しました。その中で、圧倒的に多い「聖母子」というテーマは、分かりやすいので、ルネサンス美術をたどる道しるべになると感じました。

それでは、なるべく描かれた年代順に、「聖母子」という切り口で選んだ、初期ルネサンス絵画をご覧ください。


14世紀のシエナの画家『聖母子』
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1320~1325年ころに書かれたと説明板にありました。
「14世紀のシエナの画家」とあるだけで詳しくは不明ですが、いかにも中世的な古色が横溢しています。作者不詳というのがまた古さを感じさせて良いですね。

シエナは、中世に金融業と羊毛取引で栄えた都市国家で、トスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競うとともに、プロト・ルネサンス芸術活動が盛んでした。そうした歴史を感じさせる作品ですね。



ロレンツォ・ディ・ニッコロ・ジェリニ『聖母子』
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ロレンツォ・ディ・ニッコロ・ジェリニは、14世紀末から15世紀初に活躍したフィレンツェの画家で、この絵は1400年ごろに描かれたものと思われます。
板にテンペラで、上に掲載した「14世紀のシエナの画家」の作品と、下に掲載しているフラ・アンジェリコの作品のちょうど中間の雰囲気です。

フィレンツェは、 メディチ家のによる統治の下、ルネサンス芸術が花開いた場所です。初期ルネサンスから、文化の中心地となり、多くの建築家や芸術家を生み出しました。



フラ・アンジェリコ『聖母子と天使』
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フラ・アンジェリコは、15世紀前半に活躍した修道士画家で、その優しい画風と優れた人格からとても人気があります。

この絵は、聖母子の周りに天使たちを配して、いかにもフラ・アンジェリコらしい作品。古いゴシック的要素と新しいルネサンス的要素が混在しており、少し古色を残した雰囲気が素朴感を漂わせています。
1425年ごろの作品で、板にテンペラで描かれて額装と一体化しており、祭壇画の中心部パネルであった可能性もあります。




ポッティチーニ『聖女バルバラと聖マルティヌスのいる幼児キリストの礼拝』
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ポッティチーニは、ボッティチェリとほぼ同年代で名前が似ているため、混同された画家ですが、最近ようやくそのアイデンティティーが整理され、研究途上にあります。この『聖女バルバラと聖マルティヌスのいる幼児キリストの礼拝』という作品は、完成度が高く大型であることから、きわめて貴重なもので、今後注目されていくことが期待されます。





ヴェロッキオ『聖母子』
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ヴェロッキオは、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめボッティチェリ、ペルジーノ、ギルランダイオらの師匠で、当時フィレンツェで最も優れた美術工房を運営していました。やがてペルジーノはラファエロの師匠となり、ギルランダイオはミケランジェロの師匠となったわけですから、ヴェロッキオ工房は、歴史的にも非常に重要です。

ヴェロッキオが、『キリストの洗礼』という作品を描いた時、弟子レオナルドにキリストのローブを捧げ持つ天使を担当させたのですが、レオナルドがあまりに見事に描いたことから、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなく彫刻に専念するようになったとする逸話があります(事実かどうかは不明)。

写真の『聖母子』を見ると、すでにゴシック的な古さは無く垢抜けしており、ルネサンス絵画の描き方になっています。ヴェロッキオの工房から出た画家たちが、ルネサンス盛期をかざる作品を描く時代が到来したことを感じさせます。

なお、この絵については、ポッライオーロの作品とする説(コリン・アイスラー)もありましたが、現在ではヴェロッキオの作品とされており、エルミタージュ美術館の現場ではヴェロッキオ作という説明板がかかっていました。





レオナルド・ダ・ヴィンチ『リッタの聖母』
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↑ルネサンス盛期。レオナルド・ダ・ヴィンチによりルネサンス絵画が頂点に達したことをうかがわせる作品です。エルミタージュでも、一番人気の絵画です。

この作品の成立年代については諸説ありますが、レオナルドが発明したスフマート技法がふんだんに使われており、中期の作品である可能性が高く、1490~1491年に描かれたとするのが最も有力です。
レオナルドが描いた元絵に、弟子たちによる加筆修正が加えられた可能性があるとされています。弟子ボルトラッフィオ作品という説もありますが、 逆に、この絵がレオナルド作品の中で最も美しい真作で本人単独作成とする意見もあります。エルミタージュ美術館はレオナルドの真作としています。

『リッタの聖母』のリッタは、ロシア皇帝アレクサンドル2世が、1865年にミラノ貴族アントーニオ・リッタ侯から買い取ったことに由来します。




同じ「聖母子」を描いていますが、このように年代順に見てくると、やはり時代によって雰囲気が変化していくことが分かります。ここがとても興味深いですね。

聖母子画は、最後は、ラファエロに至り、究極の形となります。37歳でラファエロが夭折すると、やがて安定感を脱したマニエリスム様式が主流となり、ラファエロの優雅で調和に満ちた世界から遠ざかっていきます。



今日、紹介できなかったエルミタージュのルネサンス画作品の詳細に関して、
レオナルド・ダ・ヴィンチについては、こちら
ラファエロについては、こちら
北方ルネサンスのクラーナハについては、こちら
をご覧ください。

ヴェネチア派については、いずれ機会を見て記事を書くつもりです。<追記> こちら に書きました。



↓エルミタージュ美術館は、インテリアとしての内装も素晴らしく、天井構造も見事。このようにルネサンスの芸術品は、部屋そのものも素敵な場所にありますので、全体的な雰囲気も楽しめます。
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なお、エルミタージュ美術館の全体的な概要や注意点については、「【たびねす】世界最大規模!ロシア・エルミタージュ美術館を完全制覇」をお読みください。


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2016年 02月 13日 |
今日は、前二回で紹介しきれなかったセルギエフ・ポサードです。

↓セルギエフ・ポサードを超広角で撮るといろいろな建物が写ります。
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↓一番目立つのは鐘楼です。
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↑色合いも白色と水色を主体とし、金色の屋根が乗っている、とても素敵な塔屋です。

この鐘楼は、高さ88mあり、建設当時は、ロシア一の高層建築でした。
パリのノートルダム寺院(63m)、サンジャックの塔(60m)より高いのですから、当時としては大したものです。

↓鐘楼の横にある、聖水の湧き出る泉があります。
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ロシア正教の信者の方は、ここで聖水をいただき、ペットボトルで持ち帰る人もいます。
日本にもこういう御利益があるとされる名水スポットはありますね。

↓上部に物見台を有するドゥホフスカヤ聖堂
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↓大食堂横の小聖堂
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↓宿舎
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↓建物の部分拡大
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↓地面に置かれた梵鐘
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↓いかにもロシアらしい団体巡礼者
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↓ここから奥へは立ち入り禁止になっていました。
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お土産物ショップも多かったです。

↓イコンのレプリカ売り場
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↓ロシア正教にちなんだ童話絵本が興味深かったです。
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↓マトリョーシカ売り場
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マトリョーシカと呼ばれる入れ子型人形は、日本の箱根細工人形を参考にして、ここセルギエフ・ポサードの修道士が作成したのがはじまりとされています。
博物館にはそのマトリョーシカ第一号が飾られていました。いわば名物土産ですね。

↓最後にこの地の創立者;聖セルギイ(ラドネジの克肖者)の像を撮影して、セルギエフ・ポサードを後にしました。
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2016年 02月 09日 |
セルギエフ・ポサードの続編で、今日はウスペンスキー聖堂と大食堂教会です。

13世紀に聖セルギイが住んだ小聖堂は、その後、至聖三者聖セルギイ修道院となったのですが、16世紀には、修道院の横に、ウスペンスキー聖堂(生神女就寝大聖堂)が建設されました。

ウスペンスキーとは、ロシア語で「永眠」を意味するウスペニイェに由来し、ウスペンスキー大聖堂とは、カトリックにおける聖母マリア被昇天教会にあたります。
従って、ロシアにはウスペンスキー教会はいくつもあります(モスクワのクレムリンにあるものが一番有名です)。

ここセルギエフ・ポサードのウスペンスキー聖堂の外観は、キリストをあらわす金色屋根を中心に、周囲に聖母マリアをあらわす青色屋根が配された、とてもポップな色合いの美しいもので、まるでおとぎの国のお城のようです。
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聖堂内部は、イコンで覆われた壁(イコノスタシス)が印象的で、びっしりと絵が描き込まれており驚かされます。
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サンクトペテルブルグの血の上の救世主教会の内部イコン画もすごかったですが、こちらのほうが古く由緒があるそうです。
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このイコノスタシスは、主に17世紀に作られたもので、近世ロシアの代表的画家シモン・ウシャコフの最高傑作とされています。
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↓イコンに頭をすりつけ祈る人
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↓ロシア正教の普及に尽くし膨大な著作・翻訳があるマクシム・グレクの聖櫃があります。
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↑彼の業績を記念して、その聖櫃の上には、石で作られたギリシア語・ラテン語・ロシア語の三つの聖書があります

マクシム・グレクは、キリスト教史においてエイレナイオスに匹敵するとされています。晩年をセルギエフ・ポサードで過したことから、死後は不朽体を聖櫃に納め安置されています。
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↓大食堂教会(トンペザ聖堂)外観
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至聖三者聖セルギイ修道院のすぐ横に、大食堂教会があります。
修道僧達の食堂だったものですが、非常に豪華な建物です。これは、皇帝などの迎賓館としての機能を有していたからです。
若き日のピョートル大帝も、17世紀末に政争に巻き込まれ、この修道院に避難してきました。こうした場合、皇帝の御成御殿としての役割を果たしたのです。

↓大食堂教会内部
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この大食堂は、中央に柱などの支えが無い広い室内空間を誇り、当時ロシア最大規模510平方mもありました。教会の機能も有し、いろいろな奇跡が起こった場所であると伝承されています。
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↓奥の祭壇は金色の装飾に飾られたイコンで埋め尽くされています。
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2016年 02月 06日 |
「たびねす」に、私のセルギエフ・ポサードの記事がアップされました。
ロシア正教のテーマパークともいうべき美しい教会群のある場所ですので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(27)ロシアのセルギエフ・ポサード教会群で美しい宗教世界に酔いしれよう!
http://guide.travel.co.jp/article/15720/





上記の、たびねす記事とタイアップして、当ブログでも世界遺産セルギエフ・ポサードを三回に渡って紹介します。

本日は、セルギエフ・ポサードの概要と本殿にあたる至聖三者聖セルギイ修道院です。


モスクワの北東部に「黄金の環」と呼ばれる古い都市がいくつもあります。
セルギエフ・ポサード、ヤロスラヴリ、ロストフ、スーズダリ、ウラジーミルなど12の町です。
これらは、中世以来、ロシア諸公国の首都など重要な役割を果たした場所で、いずれも城塞(クレムリン)や修道院・教会と町並みで構成され、ロシアの宗教・芸術・建築などの文化揺籃の地となりました。

中でもセルギエフ・ポサードは、ひときわ美しい宗教都市で、世界遺産に指定され、モスクワから日帰り観光ができる立地条件にあるため、多くの巡礼者や観光客で賑わいます。

↓セルギエフ・ポサードの城壁です。
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↓城壁の中に、セルギエフ・ポサードの教会群が見えてきました。とても綺麗です。
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セルギエフ・ポサードは、典型的な門前町で、至聖三者聖セルギイ修道院本館・ウスペンスキー聖堂・鐘楼・大食堂・小教会・小修道院・総主教館・博物館・土産物店など多くの建物が、城壁内に林立しています。

↓鐘楼とウスペンスキー聖堂をアップで
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↓さらにウスペンスキー聖堂(生神女就寝大聖堂)だけをアップに
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↑なんかポップで派手というか、おとぎの国の城のようですね・・・

↓チケットを買う管理建物は重厚です。
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↓入場チケット(下)とカメラ撮影チケット(上)
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セルギエフ・ポサードの城塞に囲まれた場所に入るのは有料です。
さらに写真を撮りたい場合は、入場券とは別にカメラチケットの購入が必要で、その場合おまけとして讃美歌のCDまたはDVDがついてきます。
なお、カメラチケットを購入しても、本殿にあたる至聖三者聖セルギイ修道院の内部だけは信者優先なので撮影禁止です。

↓二重門になっており、白い門の建物から奥の茶色っぽい建物を通って中に入ります。
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↓内部門の建物
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↓内部門のアーチの下には綺麗なフレスコ画が描かれています。
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↑創立者の聖セルギイの絵ですね。
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↓本殿にあたる至聖三者聖セルギイ修道院(トロイツキー聖堂)
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正教会でラドネジの克肖者聖セルギイと呼ばれる聖人が、1340年代に森に分け入り小さな教会堂を建設したのが、セルギエフ・ポサードの起源です。
聖セルギイは熊とパンを分け合う清貧な生活を行い、至聖三者(トロイツキーすなわち父と子と聖霊)に生涯をささげました。

その後、聖セルギイの徳を慕う修道僧が多く集まり弟子となり、修道院を建設しました。
聖セルギイは、ロシアをモンゴルの支配から守ったとされることから、守護聖人として崇敬されました。その死後、ロシア正教会により列聖され、遺体は不朽体として至聖三者聖セルギイ修道院に収められました。

そして、ロシア正教会の中心的修道院として発展し、その周囲に新たな教会や鐘楼が建てられ、門前町が形成されていき、「黄金の環」のひとつとなりました。

現在でも、聖セルギイの不朽体が収められている聖櫃にお参りするのが、セルギエフ・ポサードへの巡礼者の大きな目的です。

↓写真の奥に見える至聖三者聖セルギイ修道院はシンプルな外観で、清貧の聖者にふさわしいものです。
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内部はとても敬虔な雰囲気に包まれています。

至聖三者聖セルギイ修道院の内部は写真撮影禁止で、私語も厳禁です。きわめて厳粛なムードに身が引き締まります。
女性グループが上品な賛美歌を歌い、ロシア正教の信者が順番にお参りし修道僧から祝福を受けていました。


ここは、ロシア革命後は国有化され、一時、閉鎖されていました。
1945年に、大修道院跡はロシア正教会に返還され、1960~70年代にかけて、復元修理が行われました。
現在は、「セルギエフ・ポサードの至聖三者セルギイ大修道院の建築的遺産群」として世界遺産に指定され、ロシア正教の一大宗教センターとして発展し続けています。

いわば、正教徒以外の観光客にとっては、神聖かつ華麗なロシア正教の宗教テーマパークのような感じで、モスクワやサンクトペテルブルグとは全く異なった雰囲気を味わうことができます。
また、マトリョーシカ発祥の地でもあることから様々なお土産物も多く、買い物を楽しむこともできます。

ここは、モスクワから唯一日帰りできる「黄金の輪」ですので、私はモスクワのホテルに宿泊して、軽装で日帰り観光しました。


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2016年 02月 03日 |
サンクトペテルブルグの写真はまだまだ沢山あるのですが、ちょっと長くなりすぎました。
そろそろロシア二都物語のもう一方であるモスクワ方面に移ることとします。

ということで、本日は、サンクトペテルブルグの中締めとして、朝と夜の写真を中心におおくりします。

サンクトペテルブルグは高緯度にあるため、10月も中頃を過ぎると、朝明るくなるのが遅く、夕方暗くなるのが早くなります。

ホテルの朝食を食べて部屋に戻ってくると、ちょうど窓の外は朝焼けタイムでした。

↓ホテルの窓から・・・朝日に赤く輝く教会の塔屋が綺麗でした。
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↓早朝の落ち葉の美学
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↓朝の元老院広場
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↓朝の元老院広場から見るネヴァ川対岸のペトロパヴロフスキー大聖堂
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↓昼間、エルミタージュ美術館の中から見るペトロパヴロフスキー大聖堂
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↓夜の、ペトロパヴロフスキー大聖堂
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↓夕刻の聖アンナ教会
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↓帰宅ラッシュ時のネフスキー通り
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↓夜の横断歩道(ロシアの横断歩道は歩行者のための時間が短く困りものです。)
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↓雰囲気のあるビルの向こうに月がかかっています。
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↓サンクトペテルブルグの夜が素敵なのは、運河に上品な街並みの光が揺らめくからです・・・
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サンクトペテルブルグ近郊の、エカテリーナ宮殿などの写真は、またいつか機会を見て掲載する予定です。


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