模糊の旅人
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タグ:マルコの福音書 ( 20 ) タグの人気記事
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2014年 06月 28日 |
イエスの墓である聖墳墓教会内部のロトンダ(円形建築物)は、アナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれます
イエスはここで復活したとされるわけですから、ここはヴィア・ドロローサの第14留(イエスの墓)であるとともに、第15留(イエスの復活の場所)とする考え方もあります。いずれにしても、ここがヴィア・ドロローサの終着点です。

なお、御質問を受けた件ですが、イエスは復活したとされるので、ここの墓には遺体はありません。聖書の記述によれば、イエスのの墓は埋葬三日後に、空っぽになっていたそうです。

このイエスの復活についての考え方は、下の More を御覧ください。

↓ロトンダ上部(ファンタジックフォーカス)
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第11~14留だけでなく、聖墳墓教会には沢山の部屋や聖堂があります。
その中で一番大きいのは、中央部のギリシャ正教のマルチュリオンと呼ばれる殉教聖堂です。

↓以下4枚の写真は、殉教聖堂(マルチュリオン)で撮影しました。
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↓いっぽう、小さいけれど品が良いのはカトリックの聖マリア聖堂です。
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↓同じく聖マリア聖堂(ライトトーン)
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巡礼者の十字の落書きがたくさんあります。この中には中世十字軍によるものがあるそうです。

↓壊れかけた柱の落書き(ドラマチックトーン)
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↓太い柱の彫り物風落書き(クロスプロセス)
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↓現代的祭壇もあります。
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聖墳墓教会の中は、多くの人で混み合っており、また非常に暗いので、なかなか思うように写真が撮れません。水平をとったり構図を工夫したりする余裕はありませんでした。それでも撮影禁止ではないので、自分的にはとても堪能しました。

聖墳墓教会自体は、キリスト教各宗派が仲悪く共存しているので、各宗派が競い合って飾り立ててゴチャゴチャした感は否めません。統一された整然とした美しさはなく、いわばごった煮状態ですが、各宗派の熱心な思いが伝わってくるようにも感じました。

思えば、フランスのシャルトル大聖堂の美しさに感動し、その床のラビリンス図が聖地エルサレムへの巡礼の旅の苦難を表していると知ってから、ここに来たいと熱望していたのでした。それについては、 こちら
それから約十年経って、ようやく私のこの念願の旅が実現したのです。

それはともかく、昔、中世の時代の人がここに巡礼に来るのは本当に大変だったでしょうね。
なににろイスラム教国になってしまった中東のど真中にあり、紛争も絶えず、安全は保証されず、言葉も通じず、交通機関もなく、案内もなかったでしょうから・・・まさに苦難の旅だったと思います。

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More 復活信仰とは何か?
2014年 06月 25日 |
聖墳墓教会に入ってすぐ、二階の第11留-第13留へ参る人の行列で、ラッシュアワー状態になります。
これは世界20億人のキリスト教徒の最大の聖地なのですからいたしかたないですが、日本人が少ないのが興味深いです。

↓一階部分で順番待ちをしながら、二階の第12留(十字架処刑場)あたりを撮影してみました。
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第11留<十字架に処せられる>

イエスが十字架に処せられた場所が第11留とされています。

↓長い順番待ちの末やっと二階に上がると、前方に第11留が見えてきました。
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↓岩場に横たえられた十字架の上で広げた両手と足に釘を打たれた姿が描かれています。
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第11留-第13留は隣接しており、そこで祈る人が多いので、なかなか前に進みません。でも皆さん穏やかに順番を待っておられます。
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第12留<イエスが死す>

十字架が立てられイエスが息を引き取った場所が第12留とされています。

↓十字架に処せられたイエス像祭壇(正教の板絵形式で表現されています)
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↓イエスの十字架が立っていたくぼみのある場所に銀製の円形プレートが置かれています。
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↑皆さんここを触って祈ります。穴の中にはゴルゴダの丘の岩場があります。
ここがゴルゴダの丘の天辺であることが分かります。

↓ガラス越しですが、この第12留祭壇の直下のゴルゴダの丘の岩場が見えます。
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イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。(マルコの福音書15.25~27)

↓(参考)クレタのセオファニスによるキリストの磔刑図(スタヴロニキタ修道院蔵)
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昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、なにゆえ我を見捨てたまいしか」という意味である。(マルコの福音書15.33~34)

この「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というアラム語の叫びは戦慄的で悲痛なものです。
この言葉をどう考えるかについては下の More をお読みください。

イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(マルコの福音書15.37~38)


第13留<十字架の下の母マリア>

第11留と第12留の間に、第13留の祭壇がありマリア像が飾られています。
これは、十字架から降ろされるイエスの遺体を受け止めたと後世伝承されるマリアの悲しみの像で、1778年にリスボンより寄進されたものです。

↓第13留祭壇とガラスケースに入った第13留のマリア像
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↓マリア像のアップ
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↓第13留付近の天井
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イエスが死んだとき、逃げ去ったイエスの男性弟子たちは居なかったようです。しかし、ガリラヤからイエスに付き従って来た女性たちが見守っていました。、

遠くの方から見ている女たちがいた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセとの母マリア、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。 (マルコの福音書15.40~41)


以前は、第13留は、聖墳墓教会一階にある「塗油の石」とされていました。
これは、イエスの遺体が横たえられて埋葬処置を施されたとされる板状の石で、現在もこの「塗油の石」にも多くの人がお参りしてます。

↓現第13留の二階部分から、一階の「塗油の石」(左下の板状の石)を見下ろす。
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More 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」について
2014年 06月 16日 |
大祭司の屋敷でユダヤ当局により有罪とされたイエスは、夜が明けるとローマ帝国の総督ピラトの官邸に連行されます。(当時、十字架刑の執行権はローマ帝国の代官にあったため)
ユダヤ教徒ではないローマ総督ピラトにとってイエスのキリスト自称は有罪でもなんでもないわけです。したがって、ピラト自身はイエスの処刑に消極的だったので、祭のたびに一人の罪人に特赦を施す慣例から、イエスか、暴徒バラバ(ヨハネ福音書では強盗バラバ)のどちらかを釈放しようとはかります。

しかし祭司長たちは、バラバの方を釈放くれるように、群衆を煽動した。そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放してやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。(マルコの福音書15.11~15)

ここで煽動された群衆は、イエスを「十字架につけよ」と叫びます。
総督ピラトは、興奮した群衆が騒動をおこすのを恐れ、群衆がバラバを選んだことで自分の責任を回避し、イエスの十字架刑を認めるのです。

このピラト官邸からイエスの十字架死までの最後の歩みを、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)といい、14の留(ステーション)があります。イエスと同じ道を歩いていると信じることで、わずかながらもイエスの苦しみを追体験し宗教的な歩みを得るという、巡礼の道となっているのです。
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このヴィア・ドロローサの歩みは、いつしか巡礼者によって自然発生的にはじめられたもので、後にローマ教皇からエルサレムの管理を命じられたフランシスコ会が整備し、平和的な巡礼者の行進運動として伝統的に受け継がれてきています。


第1留<ピラトに裁かれる>

第1留は<ピラトに裁かれる>すなわち、総督ピラトの官邸があった場所とされていますが、そこは現在、イスラムの学校の敷地となっていますので見学ができません。ただ、学生が沢山いました。(ヴィア・ドロローサはイスラム化されたアラブ人街の中にあります)

↓そのピラト官邸跡とされる男子校(ウマリヤ小学校)の生徒たち
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ピラト官邸の代わりに、フランシスコ会により、伝承のある「敷石」の上に、有罪判決の教会が建てられ、イエスが祀られています。

ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。(ヨハネの福音書19.13)

↓その敷石ではないかと言われている、有罪判決の教会の古い敷石
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↓有罪判決の教会の内部
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第2留<鞭打ちの教会>

イエスが鞭で打たれたとされる場所に、鞭打ちの教会が建てられています。

兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中庭に連れて行き、部隊全員を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせた。(マルコの福音書15.16~17)

イエスは、鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ、「ユダヤの王様」と嘲笑され、いったん着せられた紫の衣を剥がれ、自分を処刑するための十字架を自ら背負わされたとされています。その場所が第2留です。

↓鞭打ちの教会のファサード
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↓鞭打ちの教会の内部
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↓いばらの冠をイメージした鞭打ちの教会天井
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2014年 06月 13日 |
イエスは捕えられ大祭司の屋敷で尋問と拷問を受けます。
その大祭司カヤパ(カイアファ)の屋敷はシオンの丘の近くにあり、現在は鶏鳴教会が建っています。

イエスはすでに最後の晩餐の後、「弟子たちは皆、私に躓くであろう」と予言していました。

イエスは彼(ペトロ)に言った、「あなたによく言っておく。あなたこそ今日、今夜、にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」。ペトロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならぬとしても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マルコの福音書14.30~31)

↓鶏鳴教会の門扉のレリーフに描かれた、イエスのペトロ三度の否認の予告(イエスが三という指を立てています)
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さて、イエスが捕縛された際、ゲッセマネから逃げ去ったペテロですが、弟子のリーダー格なのですから責任を感じたのでしょう。しばらくして、イエスが連れて行かれた大祭司の屋敷の中庭まで忍び込み、下役どもにまじってすわり、様子をうかがっていました。

ペトロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。するとペトロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。そして、にわとりが鳴いた。ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。ペトロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペトロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペトロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言う」と言われたイエスの言葉を思い出し、身を投げ出して泣いた。(マルコの福音書14.66~72)

↓鶏鳴教会の敷地に立つペトロの「知らない」という否認の像
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↑まさにここで起こった出来事ですから、ペトロの三度の否認を目前で見ているような気分になりました。

↓鶏鳴教会の外観
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↓鶏鳴教会の内部
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↓イエスが拷問を受けた地下牢があります。
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↓当時は階段が無く、上から釣り降ろされる壺型の地下牢でした。
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↓下から天井を見ます。こん棒や鞭で拷問を受けたイエスは、ここに釣り降ろされ瀕死の状態になりました。
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↓鶏鳴教会の二階へ
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↓尋問されるイエス
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↓二階の門扉の内側(外側が一枚目の写真です)
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イエスは大祭司の屋敷で拷問や尋問を受けた際、何も言わなかったのですが、最後に大祭司が問うた質問には答えます。

大祭司は再び聞きただして言った、「お前は、誉むべき者の子、キリストであるか」。イエスは言った、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。 大祭司は衣を引き裂き言った、「これ以上証人の必要があろうか。汝らはこの冒涜を聞いたか。汝らの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。(マルコの福音書14.61~64)



ここで重要なことは、ペトロの三度の否認が、受難物語の中で、非常に印象的な挿話となっているということです。
ペトロさえも否認した---この事実に誰もが愕然たる思いにとらわれます。

マルコは弟子の無理解を正直に多く記した福音著者でしたが、他の福音書著者はその事実を隠そうとしています。ところが、このペトロの否認の挿話は全ての福音書に強く書き残されています。

ペトロは後に、イエス死後のキリスト教団の指導者となった人です。
普通は指導者の失敗や弱さを隠そうとするものです。しかし、このイエスを否認するという挿話だけは隠されていないのです。。。恐らくペトロ自身も隠さず語ったのでしょう。。。

これは、受難物語のひとつのキーポイントとすべく、この部分がイエスの否認予言を核とした劇的構成の重要物語挿話となっているからです。
ペトロはイエスを否認するという裏切りをなしたのですが、そのことを回心し逆説的なエネルギーに変えて、後にイエスの衣鉢を継ぎキリスト教団を指導して行くのです・・・

回心とその責任の取り方、懺悔と改心、人間の弱さと強さ、負の行為を反省し正のエネルギーに変えるあり方、、、、いろいろ考えさせられる話ではないでしょうか。

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2014年 06月 11日 |
オリーブ山の北西麓にゲツセマネの園があります。
ここで祈りから戻ってきたイエスは、イスカリオテのユダに先導された大司祭の僕などに捕縛されました。

現在のゲッセマネの園には、古いオリーブの木があり、中には樹齢1000年以上のものもあるそうです。日本では見られないオリーブの老巨木ですね。
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ただ現在は、ユダヤ教徒の墓地造成が進みオリーブは少なくなりつつあります・・・・
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イエスが捕縛されたとされる場所近くには、「万国民の教会」が建っています。
ここは、4世紀にビザンチン教会として創建されたのですが、その後ペルシャによる破壊~十字軍による再建~イスラムによる破壊といろいろあり、第一次大戦後世界12ヶ国からの献金によりカトリック教会として再建されたことから、万国民の教会と呼ばれるようになりました。
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↓祭壇前の壁画の部分拡大(恐れおののき祈り岩に身をもたれさせるイエス)
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↓この教会内部の中心部には、イエスが祈り身をもたれさせた岩があり、巡礼者の皆さんが触っていました・・・
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イエスの一行は、シオンの丘の館で最後の晩餐を済ませ、夜の道をオリーブ山を通ってベタニヤ村に帰ろうとしていました。
夜中なので、彼らを取り巻く支持者の群衆もなく、イエスを捕縛しやすかったのです。イスカリオテのユダは、そのタイミングを狙って捕縛者を先導してきたようです。
弟子たちはここゲッセマネで休憩し眠っていましたが、イエスは捕縛されることを知っており、恐れおののきながらも祈ったのです。

とうとう逮捕の瞬間がやってきますが、イエスにはもう覚悟ができていました。

イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々はイエスに手をかけてつかまえた。(マルコの福音書14.43~46)

イエスが捕えられた際、一人が大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落したようです。それをイエスは制し「・・・聖書の言葉は成就されねばならない」(マルコの福音書14.49)と捕縛されていきました。

そして、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去ったのです。。。。たったひとり、マルコではないかと思われる若者が後を追いますが、人々が彼をつかまえようとしたので、着物(亜麻布)を捨てて、裸で逃げて行きました。


↓現在、その地には、ユダヤ教徒の墓石が無数に並び、壮絶な風景となっています。(ここは、終末の日にメシアが現れる黄金門の前なので、ユダヤ教徒にとって最高の場所として、墓地造成が進んでいるのです)
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↓墓をバックに輝く、ギリシャ正教の「マグダラのマリア教会」の屋根
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2014年 06月 09日 |
最後の晩餐を済ませたあと、イエスと弟子たちの一行は、シオンの丘からオリーブ山ゲッセマネの園に向かいました。
イエスにとってオリーブ山は祈りの山でした。

彼らは、賛美歌を歌いながら、オリーブ山へと出て行った。(マルコの福音書14.26)

オリーブ山は、イエスが弟子たちに神への祈りを教えたという場所とされ、そこには、「主の祈りの教会」が建っています。

主の祈りの教会は、4世紀にコンスタンティヌス大帝の母エレナにより創建されたもので、現在の建物は19世紀に再建されたものです。
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↓敷地内の洞窟に4世紀の創建当時の教会の遺構があり、崇敬を集めています。
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ここには、世界各国から巡礼者が殺到しています。

↓アフリカからの巡礼団の方々
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この教会の敷地には、世界中の言語で書かれた主の祈りのレリーフが並んでします。
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↓北米インディアン系のクリ―語まであって驚きました。
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↓イエスがしゃべっていたと言われるアラム語(左)と、ヘブライ語(右)。とても似ていることが分ります。
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↓もちろん日本語のレリーフもありました。
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この主の祈りの文言は、マタイの福音書6.9~13とルカの福音書11.2~4に書かれているものです。

↓今は、ここから西を見ると、終末の日にメシアが出現する黄金門に面して、オリーブ山の裾野斜面にユダヤ教徒の墓がズラーッと並んでおり、その向こうに神殿の丘とエルサレムの市街がのぞめます。
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イエスが受難直前、祈り続けたのも、このあたりでした・・・

さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。 (マルコの福音書14.32)

イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて上に登り、さらに三人を待たせて先に進み、ひとり祈り続けます。

そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去ってくれるようにと祈りつづけた。そして言われた、「アッバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの欲することではなく、あなたの欲することを」 (マルコの福音書14.35~36)

「アッバ」というのはアラム語の「父」あるいは「父ちゃん」といった意味の言葉です。「アッバ」というアラム語の祈りが書かれているのは、四福音書の中でも、マルコの福音書のこの部分だけです。それは、弟子たちが聴いたイエスの熱心な祈りがいつも「アッバ」という呼びかけであったことが、弟子たちの心に深く刻み込まれていたことを示しています。

イエスは、直前に迫った受難を認識し、その一身に受ける杯=神の裁きの残酷さに恐れおののき苦悶しながらも、神の意思のままに苦しみを背負うと決意し、弟子たちが眠ってしまった間も、ひたすら祈り続けたのでした。

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2014年 06月 05日 |
前回の聖母マリア永眠教会の近くに、ダビデ王の墓と、最後の晩餐の部屋(シオンの丘のバシリカ教会聖堂)があります。

誰でも知っている最後の晩餐ですが、シオンの丘付近の「二階の部屋(広間)」(マルコの福音書14.15)ということが明らかなだけで、実際にどこで行われたかは実証的に確かめられていません。

↓ひとつの有力な説がこの場所です。
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この建物は実際には十字軍が建てたものですが、最後の晩餐が行われた場所にその雰囲気を再現すべく建てられたとされています。
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古い建物の二階の部屋で、現在はがらんとした殺風景な感じです
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↓アラビア語の書かれたステンドグラス等があり、ここはイスラム寺院として使われた時期もあったようです。
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最後の晩餐は、ヨハネと呼ばれたマルコの母の家で行われたという伝承もあります。
それに基づいて、旧市街の中のシリア正教会が管理する聖マルコ教会が最後の晩餐の場所だとする説もあります。
ただこれも伝承であって、確かな証拠や出典資料があるわけではありません・・・

いずれの場所も我々の想像とは異なる雰囲気ですが、それはあまりにも有名な下の絵画のせいで、我々に予断があるからだと思います。

↓(参考)レオナルド・ダ・ヴィンチ画「最後の晩餐」(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院)
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「アーメン、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを引き渡すであろう」。弟子たちは思い悩んで、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にひたす者が、それである。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を引き渡そうとする者には、わざわいあれ。その者は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
そして一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言った、「取れ、これはわたしの身体である」。また杯を取り、感謝して彼らに与え、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言った、「これは、多くの人々のために流すわたしの契約の血である。」
(マルコの福音書14.18~24)


この場面は、「新しい契約」こと新約聖書の意味が示された箇所として、キリスト教各派における聖餐の儀式の起源です。
カトリック教会では、このパンと葡萄酒の食事を象徴儀式化し、「聖体の秘跡が行われる典礼」として「ミサ」と呼び、最も重要な典礼儀式となっています。

ここはイエス・キリストの死を、人々の救済のための死とする教義を、イエスの受難の物語の最初に織り込んだものです。
パウロがほぼ同じ言葉を引用しており、最も古いイエス文献であるパウロ書簡とマルコ福音書にあることから、原始キリスト教会でも確実にイエスの言葉としての伝承があったようです。

主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしの身体である。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」(コリント人への第一の手紙11.24~25)


イエスがこの最後の晩餐において、自己の死を予見していたのは明らかですが、その晩餐の意味については諸説あります。
過越し祭の特別な食事という考え方が一般的ですが異論もあります。
死海文書の研究から、エッセネ派クムラン教団の聖なる食事に由来するという説もあります。
イエスはエルサレム神殿での動物の生贄を拒否したことから、パンと葡萄酒とは、神殿での生贄に代わる霊的な犠牲を意味するという考え方もあります。

少なくとも、死にゆく身体と血を、パンと葡萄酒に譬えて、「弟子たちよ忘れないでくれ」というイエスの熱い思いがあったのは確かです。(そうでないと偽典「ユダの福音書」で書かれたように、この場面は予定調和の仕組まれた芝居になってしまいます)

弟子たちはイエスの死後、この最後の晩餐のイエスの身体と血の譬を振り返って改めて衝撃を受け、「多くの人々のために流すわたしの契約の血」という言葉にキリスト教の神髄を見たのです。

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2014年 06月 01日 |
いよいよイエスの受難物語に入るわけですが、その序章としてエルサレムの聖母マリア永眠教会を紹介します。

史実に近いと考えられるマルコの福音書では、聖母マリアはほとんど登場せず、イエスは家族を語らない人として描かれています。
ところが、聖母マリア信仰は非常に広範囲に深く広がっています。なぜ聖母マリア信仰がこのように根強いのか、その点について私の考え方は下の More に書きましたので、御興味のある方はお読みください。


ここは、聖母マリアが最晩年を過ごした場所を記念して建てられた教会です。
聖母マリアの晩年は正確には不明ですが、伝承があることから、ここが有力なのは事実です。
(トルコのエフェス近郊にも聖母マリアの家というのがありますが、そちらは後世の修道女が神がかりして語ったことを根拠としており、歴史学的に実証されたものではありません。)

↓まずは、聖母マリア永眠教会近くのシオン門から
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シオン門は、弾痕だらけです。1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争での弾痕と、1967年の第3次中東戦争での弾痕が混じっているそうです・・・

さて、聖母マリア永眠教会は、エルサレム南東部の、シオンの丘にあるネオロマネスク様式の教会です。
エルサレムではキリスト教としては最大の教会で、聖母マリア信仰の根深さを感じさせます。

↓ゲッセマネの園から遠望した聖母マリア永眠教会(中央)とシオン門(右端)
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↓聖母マリア永眠教会が見えてきました。
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↓聖母マリア永眠教会内部は、まさにマリア様だらけでした。
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More 聖母マリア信仰について考える
2014年 05月 23日 |
ユダヤ教のエルサレム神殿は、BC10世紀頃ソロモン王により第一神殿が建設されますが、BC587年バビロニアにより破壊されます(バビロン捕囚)。
そしてBC515年に第二神殿が再建されますが、AC70年にローマにより再び破壊されます(ユダヤ戦争)。
その後、ここはイスラム教の聖地となり、現在は「岩のドーム」が建てられてイスラム教の管理地域となっています。

↓現在、「岩のドーム」に行くためには、厳重な手荷物検査を受け、「嘆きの壁」の上に作られた空中廊下を通って行かねばなりません。
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↓空中廊下を渡ってから、「神殿の丘」に入り、丘の上をさらに登ります。
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↓「岩のドーム」:イスラム教徒にとっては、メッカのカアバ神殿、メディナの預言者のモスクに次ぐ第三の聖地です。
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この建物の中には聖なる岩があり、ユダヤ教においてはアブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした場所と信じられており、イスラム教においては預言者ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅(ミウラージュ)を体験した場所とされています。
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↓下の写真はクリックすると横1000ピクセルに拡大されます。
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この岩のドームのある神殿の丘の西壁が「嘆きの壁」というユダヤ教の聖地であり、少し行くとキリスト教の聖地である聖墳墓教会もあるという、三大一神教の聖地が密集している世界に類を見ない凄い場所です。

↓神殿の丘から東方向ゲッセマネの園方面を撮影(前回のゲッセマネの園からの写真とは逆になります)
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さて、イエスの一行は、エルサレムに到着した翌日に、この神殿に入ります。
ここで、イエスは神殿で生贄の鳩を売る人などを追い出すという、驚くべき行動に出ます。

彼らはエルサレムにきた。イエスは神殿に入り、神殿の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『我が家は、すべての民族のための祈の家と呼ばれるべきである』と書いてあるではないか。あなた達はそれを強盗の巣にしてしまった」。 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教えに感動していたので、イエスを恐れたからである。(マルコの福音書11.15~18)

「両替」というのは、神殿に奉納する特別の貨幣に替えることです。ローマ皇帝の肖像を彫っている一般硬貨は偶像廃止のユダヤ神殿に使うことは出来ないので、境内で高い手数料を払って両替しなければならなかったのです。
「鳩を売る」というのは、生贄用の動物として用いられるためです。エルサレムに参る人は生贄用動物を持参出来ないので、ここでも奉納用の鳩を購入しなければなりませんでした。
こうして神殿と商人は結託して大儲けしていたのです。

ここで、イエスは、神殿の経営的あり方そのものを批判しています。
神殿商人というのは、神殿のユダヤ教的な聖性(偶像廃止と生贄の血)を保つためにあるので、暴利をむさぼっているとしても、その存在自体は当時のユダヤ教の立場からは必要です。したがって、よくこの逸話を「宮清め」と説明するのは不適当です。

この神殿商人らを徹底的に排除する事件は、イエスが、当時の神殿と律法に価値がないと考えていたことを明瞭に示しています。

マルコの福音書の特徴である「イエスの敵側はイエスの正体を知っている」ということがここでも示されます。
すなわち、祭司らは、イエスの言動が、神殿の存立を否定し、ひいてはユダヤ律法そのものを否定することを察知したがゆえに、イエスを殺そうと計るのです。

↓イエスが、神殿商人らを追い出したのは、「神殿の庭」とありますので、このあたりでしょうか?
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↓(参考)エル・グレコ画「神殿から商人を追い払うキリスト」(サン・ヒネス教会)
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祭司らがイエスの意図を察していたのに対し、イエスの弟子らはイエスの言動を理解出来ず、またユダヤ神殿の大きさに感嘆します。

イエスが神殿から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。この一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはないだろう」(マルコの福音書13.2)

イエスは、この神殿はいずれ崩壊すると言っています。
事実、この第二神殿がユダヤ戦争でローマ軍により破壊されるのは、イエスの死から約40年後でした・・・


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2014年 05月 20日 |
ガリラヤから南下しエリコでザーカイの家に宿泊したイエスの一行は、いよいよエルサレムに通じるエリコ街道を上ります。
エリコは標高マイナス240mでエルサレムは標高835mなので、1000m以上も登ることになります。

↓現在のエリコ街道の左右に点在する遊牧民ベドウィンのテント集落(車窓からの撮影)
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イエス一行は、エルサレム近郊オリーブ山南東麓のベタニアに宿泊します。ここにイエスの信者マリア・マルタ・ラザロの兄弟などが住んでいたからです。

いよいよここから、イエスの受難物語がはじまります。
オリーブ山の麓ベタニアからエルサレムに来ると、ゲッセマネの園付近から町に入ることになります。

↓現在のゲッセマネの園から神殿の丘をのぞみます。(西方向になります)
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↓ワイドに神殿の丘全景(この写真はクリックすると横1000ピクセルに拡大されますので大きくして御覧ください)
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↓黄金門のアップ(終末の日にメシアが軍勢を引き連れてここから入城するため、イスラム教徒が閉ざしてしまったと言われています)
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↓少し引いて視点を左に振ると神殿の丘がケデロン渓谷から切り立っているのが分ります。
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↓現在は、丘中央の、神殿の場所にイスラム教の「岩のドーム」(金色のドーム屋根の建物)が建っています。
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↑上の写真の左端の三角頭の細長く高い建物が聖墳墓教会です。

イエスの時代には、この大きな「神殿の丘」には、当然、ユダヤ教の神殿が建っていました。
そのユダヤ教の神殿がある光景は、エルサレム博物館の旧市街復元模型で見ることができます。

↓エルサレム博物館の旧市街復元模型で、上の写真と同じ方から撮影してみました。中央にユダヤ教神殿が見えます。
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↓ユダヤ教神殿の復元模型のアップ
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↓旧市街復元模型で、イエスが市街に入った可能性が高いライオン門(ステパノ門)のあたりを大きく撮影してみました。(イエスが入城したのは黄金門であったという説もあります)
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上の写真にあるような場所を通ってイエスと弟子たちの一行は、エルサレムに入りました。

その際、イエスはエルサレム手前の村でロバを手配し、それに乗ってエルサレムに入ります。子ロバに乗る者は「謙遜のメシア」の象徴とされているからです。
イエスはこうしてメシア的な行動をあえてとったのです。


弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、
「ホサナ、
主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。
いと高き所に、ホサナ」。
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。
(マルコの福音書11.7~11)

↓(参考)「キリストのエルサレム入城」(ジョット画、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂)
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このように、歓迎されてエルサレムに入ったイエスですが、数日後に、人々は手のひらを返したようにイエスを「十字架につけよ」と叫ぶのです・・・歓声と罵声はイエスの受難物語の明と暗の伴奏曲です。

マルコの福音書では、このようにエルサレム入りからイエスの受難物語のプロローグが書かれています。


ところで、フランスの聖書学者エティエンヌ・トロクメの、マルコの福音書の14章以下の受難物語は、後から別の著者により付け加えられたものだ、とする有力な学説があります。

確かに、14章以下は物語の雰囲気が変わり、イエスは弟子たちと離れた孤独な存在となり、ガリラヤでの人間的治癒者からキリスト論的指導者像へと移行します。
また、マルコ特有の接続詞 kai(そして)の多用が減り、文章が少し変化しています。

それでは、果たして、マルコの福音書の14章以下は、別人が書いたものでしょうか?

↓エルサレム入りでイエスを先導する左側の少年は、マルコを彷彿とさせます。
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以下、私的な見解を簡単に述べます。

私は14章以下の受難物語も、福音著者マルコ自身が書いたものだと考えます。

ただ、14章以下は、受難物語として、あらかじめマルコが別に書いておいたものなのです。

私説では、マルコは少年時代にイエスの伝道に同行しており、それがこのエルサレムでの出来事なのです。
14章以下の受難物語は、マルコが実際に見聞きし衝撃体験を得たものであり、これぞマルコがまず力を入れて書いた部分です。
そこには、マルコが自分自身の自画像を滑り込ませた箇所 もあります。

つまり、マルコは受難物語を自分の衝撃経験の中からまず先に著し、つぎにこの受難物語を前提として、遡って、資料をあつめて自らはイエスと同伴していないガリラヤの福音物語を書いたのです。
ガリラヤでの治癒実践のイエス伝承は、エルサレムでマルコが間近に見たイエスの治癒姿と重なり、マルコは、大いに我が意を得たことでしょう。ガリラヤのイエスの伝承を集めて、虐げられた人々を救う実践の人・行動の人イエスの福音物語を、生き生きと書いたのです。

連続して書いたのではなく、後からガリラヤ福音物語とエルサレム受難物語をくっつけたため、このようなやや不自然な形になり、語調も変化したように見えるのです。

エルサレムの受難物語がキリスト論的指導者像へと移行するのは、自己の死期を悟ったイエスの苦悩が描かれているからです。

福音書の最初にイエスがヨハネに洗礼を受けた時「天が裂けて」(マルコの福音書1.10)霊が下りるのですが、最後にイエスが息を引き取った時にも「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコの福音書15.38)のです。
この二つの事象は呼応しており、イエスの公生涯の最初と最後を象徴するものです。まさに物語の円環をなしており、福音物語と受難物語が同じ作者の手になることを示しています。

ガリラヤ福音物語とエルサレム受難物語は、どちらが主であるとか、どちらが付録であるとかいうものではなく、福音物語と受難物語が同格に組み合わされることにより、マルコの福音書が完成されたのです!


なお、16章9節以下の復活後日譚は、あきらかに後世付け加えられたものです。この点については、聖書学者の中でも全く異論は出ていません。(4世紀の学者であるヒエロニムスやエウセビオスでさえ、マルコ福音書は16章8節で終わっているとしています。)
イエスが果たして復活したのか?との暗示的姿勢がマルコらしい醍醐味なのです。
これを復活後日譚のように書いてしまうことは余計な解説で、マルコの福音書の見事なラスト構成から逸脱した蛇足です。

マルコは、「イエスの墓が空っぽである」という非常に劇的な場面を描いて、わざと唐突な形で福音書を終えたのです!
私も若き日マルコの福音書を読み、このダダーンと突然終わる衝撃のラストシーンに、感動しました・・・


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