模糊の旅人
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2016年 05月 18日 |
エフェス(エフェソス、エペソ)については、今日のプロローグ編を含めて、5~6回にわたって、ブログ記事を掲載する予定です。

エフェスは、古来より有名な場所で、西部アナトリアの最大の都市でもありました。
ヒッタイトに対抗した古代アルザワ王国の首都アパサだったとされ、ミケーネ文明とも交流があったようです。

やがて、ギリシア人の都市となり港湾都市として繁栄しました。
この地域では、もともと地母神の女神アルテミス崇拝が盛んで、古代ギリシア化された後も、アルテミスはギリシア神話ではゼウスとレトの娘として位置づけられ、女神信仰が継続します。

その後、共和制ローマの支配下に入り、アントニウスがクレオパトラと共に滞在した地となります。
現在残るエフェス遺跡の主要部分は、このローマ時代に建てられたものです。

キリスト教関連でも重要で、聖パウロが宣教に訪れ三年間も滞在した町であり、その後、聖母マリアが晩年住んだとされる家が発見された所でもあります。

さらに、皇帝テオドシウス2世が、エフェソス公会議を二度も開いた場所です。
アルテミス信仰が置き換えられた聖母マリア崇敬が盛んな土地柄から、ここが公会議場として選定されたようです。(エフェソス公会議では、マリアが神の母であることを否定するネストリウス派が排除され異端とされた)


これほど幾多の古い歴史に彩られた場所も珍しいものです。エフェスは古代にはエフェソスと言われ、古エフェソスや新エフェソスなど、あちこちの場所に遺跡が分布しています。


現在は世界遺産でもあり、新エフェソスは巨大な都市遺跡として、多くの人が訪れる人気の大観光地です。

まずは、古エフェソスの町があった場所に行ってみます。

古エフェソスには、かつて世界の七不思議の最たるものとされた古代アルテミス神殿がありました。

今は一本の石柱が立つだけの寂しい場所です。(この石柱は復元模型です)
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↓石柱のアップ
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↓後景その一、奥のビザンツ時代の城塞と手前のイスラム教モスクのイーサーベイ・ジャーミィ
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↓後景そのニ、聖ヨハネ教会跡
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聖ヨハネ教会は、使徒ヨハネが聖母マリアを保護して、ここに至り、晩年を過ごしたという伝承のある場所です。


このアルテミス神殿遺跡を見ても、世界の七不思議とされた面影はなく、どんな神殿だったのか想像できません。
ちょっと期待はずれ感がありました・・・

引用・・「私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。」(ビザンチウムのフィロンの言葉)

127本の円柱が並び、アテネのパルテノン神殿よりも大きかったそうです。今は、一本だけというのは、あまりにも寂しい光景です。

↓そこで、アルテミス神殿復元想像図
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↑確かに、こんな神殿が目の前に立っていたら、すごいでしょうね。往時を想像で偲ぶしかありません・・・

アルテミス神殿は、三度建て直されたようですが、一番古いものは、紀元前700年頃の創建です。
2世紀にゴート族に破壊された後、ここにあった大量の石材は、各地の神殿や、キリスト教会、イスラムのモスクなどに転用されました。イスタンブールのアヤ・ソフィアにも利用されたとのことで、驚きます。

この古エフェソスのアルテミス神殿遺跡は、1869年に大英博物館の考古学探検隊により再発見されました。

↓エフェス出土のアルテミス女神の像(エフェス考古学博物館蔵)
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多数の乳房(牛睾丸説もあり)を持ち、明らかに、大地母神としての豊穣や多産の雰囲気がありますね。

ギリシア神話では、アルテミスは処女神で、狩猟・貞潔を象徴し月の女神です。上の像とはイメージが相当違います。
ただ、ギリシア神話でも、レトとゼウスの子であるアルテミスは、生まれた直後に母レトの産褥に立会い、双子の弟であるアポロンを取り上げたとされ、彼女が生殖や出産を司る女神でもあったことが分かります。





さて、今回のトルコ旅行の隠れた目的は、私が個人的に興味を持っている、初期キリスト教の分岐点となった公会議の場所を訪ねるというものでした。

コンスタンティノポリス(現トルコのイスタンブール旧市街中心部)、エフェソス(現トルコのエフェス)、カルケドン(現トルコのイスタンブールのアジア側カドキョイ)といった場所を巡ってみました。
当然のことながら往時そのままの面影は無かったものの、その歴史的場所に立っているのだという、古代幻想的な思いにとらわれました。
私にとって、旅はまずもって「歴史をたどる旅」なのです。プラス自然探勝もできればと欲張っています(笑)



上で述べましたように、紀元431年、ここエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされました。
ネストリウス派は、キリスト教主流派からは、三位一体論を否定したとされています。しかし、これは実際のところ微妙な問題です。
ネストリウス派の衣鉢を継ぐ現在のアッシリア東方教会は、三位一体論を認めています。

このあたりを書き出すと非常に長くなり、かつマニアックな話になってしまいます。
そこで、各公会議の歴史も含めて、まとめて下の 「More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き」を書いてみました。ご興味のある方は、More をクリックしてお読みください。


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More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き
2016年 03月 30日 |
「たびねす」に、私のクロアチアの世界遺産ドゥブロヴニクの記事がアップされました。
ドゥブロヴニクを望むスルジ山からの写真撮影技法という独自の視点から書いていますので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(29)眺望絶佳!世界遺産ドゥブロヴニクを望むスルジ山で撮影を楽しむ
http://guide.travel.co.jp/article/17196/





さて、今回、アンカラやイスタンブールでテロがあり、ベルギーのブリュッセルでも関連した大規模テロがありました。
皆様方には、ご心配をおかけしました。
無事帰国祝いのお言葉や、トルコの状況に関する御質問がメール&コメントでありましたので、レポートさせていただきます。

まず、今年に入ってからのトルコでの主なテロを列挙しておきます。

1/12 イスタンブールの観光地スルタンアフメット地区で自爆テロがあり10人死亡
2/17 アンカラの中心官庁街で軍用車両を狙ったテロがあり28人死亡
3/13 アンカラの都心クジュルライ広場近くでテロによる大規模爆発があり37人が死亡
3/19 イスタンブールの繁華街イスティクラル通りで自爆テロがあり5人が死亡

なお、3/22 ベルギーのブリュッセルで起きた大規模連続テロ事件についてもトルコのテロ事件と関連するとする報道もあります。

↓日本の外務省によるリスクマップよりトルコを抜粋表示(2016.3.30現在)
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トルコではこれまで日本人観光客は年間8万人くらいありましたが、昨年来のテロで約8千人と10分の1に激減しており、今回のアンカラとイスタンブールでのテロでさらに減少するものと予想されます。

トルコの主要産業のひとつである観光業の痛手は大きく、ホテル・レストラン・土産店・絨毯店・旅行社・観光バス運転手業・ガイド業などその影響は測りしれません。
もちろん、観光業関係だけでなく、他のビジネスにも影響があるでしょう。

トルコは風光明媚で世界遺産などの観光名所が非常に多く、良いホテルや温泉プール・ハマム(岩盤浴やアカスリができるトルコ風浴場)などが整備されており、さらに食事も美味しく親日的なところから、日本人に大人気の観光地であっただけに非常に残念なことです。


今のところ、人口の少ない田舎の遺跡や観光地は、テロの現場ではないので、さほど危険な雰囲気はしなかったです。
テロで狙われているのは、人の多く集まる大都市のようです。首都のアンカラやトルコ最大の都市イスタンブールは主たる標的となっています。(それとは別にトルコ南東部シリア国境などは渡航中止勧告地帯です:上記リスクマップ参照)

観光地で気づいたのは、これまで多かったドイツ人団体観光客が全く見当たらなかったことで、これは先般イスタンブールでドイツ人団体を狙ったテロが行われたからです。
全般的に観光客は減少していましたが、中国人・韓国人・マレーシア人・アラブ人などの観光客は比較的多かったです。日本人観光客は目立たないものの各地で少しずつ出会いました。


トルコの観光地では多くの警察官やジャンダルマ(準軍事組織の国家憲兵)が警備しており、私服警官らしき人もよく見かけました。

↓イスタンブールで警戒にあたる警察(車窓より撮影)
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ジャンダルマについては、自動小銃を携行警備しており、さすがの私も撮影できなかったので、ウィキペディアより写真をお借りして下に表示させていただきます。
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トルコでは、この半年の間にテロで犠牲になった人は約190人にのぼるそうです。
エルドアン大統領は3月21日、「トルコは史上最も大きく残忍なテロ攻撃の波と向き合っている。軍や警察、諜報機関などあらゆる能力を結集し、テロ組織やその背後にいる者と戦いを続けている。短期間で成果が出ると信じている」と述べました。
検問も多く、国を挙げてテロ対策に力を投じていることは、各地で実感できました。


トルコ総領事館と警察本部の通達である 「テロ等への注意喚起」 によれば、ネヴルーズ集会の時期に大都市において地下鉄・メトロバス等への攻撃や自動車爆弾によるテロの危険性が高まるとことが指摘されていました。

今回のテロに関係する日本の外務省のスポット情報は、こちら


観光場所の実態ですが、有料入場施設では、手荷物検査のある所が多かったです。
例えば、イスタンブール観光の中心地である、アヤソフィア寺院やトプカピ宮殿では、厳重なセキュリティーチェックがあり、手荷物は空港と同じようにX線で調べられます。
そこで内部に入場してしまえば、安心してゆっくり観光できます。

セキュリティーチェックについては煩わしく感じる方もおられますが、こうしたチェックがあるほうが安全面で良いと思いました。

もっともそこに至る交通機関や人が多く集まる場所を通過する時は、常に警戒を要します。


少し高級なクラス以上のホテルになると、ホテルの入口にセキュリティーチェックがあります。

↓イスタンブールでのホテルの入口
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↓ホテルの荷物用エレベーターにもスーツケース等を透して調べるセキュリティーチェックあり
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したがって、アンカラやイスタンブールといった狙われている大都市であっても、ホテル内では安心して休むことができます。

私はこれまで、ホテル到着後は、カメラひとつ持って近辺の夜の街歩きや徘徊スナップを楽しんできたのですが、今回は夜間の外出はやめました。
これは、もちろん、テロを避けるためでもありますが、私のような怪しい外国人が夜の町を彷徨していると不審な人物として警察やジャンダルマに尋問される可能性が高いからです。こんな時期にトルコ語を喋れない人間がトラブルに巻き込まれては大変です。

中型以上のホテルでは、内部にハマムや温水プール・フィットネスジム設備がありますので、夜の街歩きが出来なくとも、夕食後の時間をホテル内で有意義に過ごすことができます。
私も夜は、プールで泳ぐかフィットネスジムで身体を動かすように心がけました。


また、イスタンブールでは町の夜景が魅力なのですが、ホテルと車窓から撮る以外は、今回は夜景撮影を断念しました。
もっとも、前回トルコに来た時には、夜景を主に撮影していますので、それについては詳しくは こちら を御覧ください。

↓前回、2011.10に撮影したアヤソフィア寺院の夜景
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考えてみれば、前回、上の夜景写真を安全に撮影できた場所が、まさにドイツ人観光客が犠牲になったテロの実行現場となったので、戦慄を覚えました。
たった4~5年でこのように状況が変化してしまったのですね・・・


なお、テロの状況については、ホテルのTVのニュースなどで確認していました。

↓ブリュッセルのテロを伝えるCNNニュース
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■■■■結論■■■■

テロに負けないようベルギーやトルコを応援したいのですが、今現在は、まだテロの可能性があるので、ベルギーやトルコの旅行はオススメできる状況ではありません。

確率的には遭遇する可能性は低いかも知れませんが、現時点の自爆テロというのは自力で避けがたい危険性があり、一度でも遭遇してしまえば最悪の結果を招きます。



安心して旅するためには平和が前提となります。トルコは、テロを除けば政情不安でもなく普通の意味での治安が悪いわけでもありません。人は親切で優しく、歴史遺跡が多く、風光明媚で景観も変化に富んでいます。テロさえ無ければトルコは本当に素晴らしい場所なのです。
またいつか、テロの恐怖が消えたら、トルコを訪問し、ゆっくりと旅して、じっくりと散策してみたいものです・・・


トルコという国は、古来より東西文明の交差点として幾多の歴史的現場となってきました。
現代でも、イスラム世界とヨーロッパ世界の境界上に位置することから、いろいろな面で非常に苦労しています。
観光資源が豊かで親日的なトルコという国に、再び平安が訪れ観光客が安心して楽しめる時が来ることを願ってやみません。


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2015年 09月 18日 |
「たびねす」に、私のイラン考古学博物館のガイド記事がアップされました。
歴史の教科書にも登場する有名な出土品もありますので、ぜひ、お読みください。
どうぞよろしくお願いします。

(20)イラン考古学博物館でペルシアの美の真髄に触れよう!
http://guide.travel.co.jp/article/12680/





さて、前回ブログ記事に関し、著作権切れの『夜明け前』の文章データについて、何人かの方から御質問を受けました。そこで、ご存知の方も多いとは思いますが、著作権切れデータの読み方について簡単に書いておきます。(写真は再掲です)
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著作権は、著者没後50年を経過すると消滅し、誰でも著書を自由に利用できます。
そこで、インターネット上には、過去の名著などが、フリーテキスト(無料電子書籍)ということでデジタル化され、誰でも読める形で公開されつつあります。

無料電子書籍の主なサイトは、近代デジタルライブラリー、青空文庫、プロジェクト杉田玄白、うわづら文庫といったところです。
中でも青空文庫は、対応する公開形式が豊富で、作品数が多いので、一番のおすすめです。(現時点で、青空文庫収録作品数は、13269件です)

利用方法は簡単で、Googleなどの検索サイトで、例えば「青空文庫 夜明け前」と検索すれば良いのです。
また、青空文庫のトップページからは、作家別・作品別・分野別の検索もできます。
こうして得られた画面上のテキストデータを、コピー&ペーストして、前回のブログ記事に利用させてもらいました。(したがって、引用する際は、いちいち打ち込む必要はありません)
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検索またはダウンロードした本のデータは、もちろんパソコンや汎用タブレット、スマートフォンなどで読めますが、専用の電子書籍リーダーの利用が、最も読みやすいです。専用機なので目に優しく、利用法も単純で、パソコンのように将来的な陳腐化という現象も起こりにくいです。

専用の電子書籍リーダーには、アマゾンの Kindle、楽天の kobo、ソニーの Readerなどがあります。
使い勝手は各社そんなに変わりません。機能が増えると値段が高くなるのは各社共通で、お好みで機種を選べば良いのです。
私的には、無料の青空文庫や有料でも一般的書籍を読むだけなら、各社の下位機種で十分だと思います。(旧型の kobo Touch なら今6000円程度で購入できます)
電子機器マニアや、有料の最新電子雑誌を頻繁に購読するようなヘビーユーザーなら、新しい上位機種が必要でしょうが・・・

↓kobo
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私が使用しているのは、古い kobo です。
これは某写真コンテストで賞を受けた際の副賞としていただいたもので、今では旧機種になっていますが、まったく問題なく楽しんでいます。
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ネット有線環境でパソコンを利用の方でも、koboで電子書籍を読めます。つまりWi-Fiを使わなくても青空文庫を利用できるので、新たに無駄な通信料を支払う必要はありません。

最初にkoboデスクトップアプリをパソコンにインストールしておけば、その「ストア」ボタンから楽天のサイトにアクセスし希望する青空文庫を選んで無料購入できます。あとは、付属のUSBケーブルでkoboを同期すれば、koboにデータが落とし込まれ電子書籍が読めます。(セッティングの詳しい方法は、こちら

↓私のkoboデスクトップアプリのパソコンでの画面のごく一部です。
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私の場合、現在は、近代文学を中心として約100冊ほどをkoboに入れています。近代古典文学が割と好きなので青空文庫はとても役立ちます。(翻訳本の場合は、著作権は訳者の死後50年になりますので、青空文庫に翻訳本はまだ少ないです)
河口慧海『チベット旅行記』などの旅行記や、寺田寅彦『花物語』などのエッセイも入れています。
これだけの量の本を紙で持ち歩くのは不可能ですから、非常に便利です。
日常の電車での移動や、旅での飛行機中や乗り換え待ち時間などでも、koboで読書を楽しんでいます。
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紙には紙の優れた点があります。家で本格的に本を読み込む場合は従来型の紙製の書籍の方が優れています。装丁などを含めた「本」の存在感のあり方は電子書籍ではとうてい味わえないものです。
また何より、自分の専門的な分野では、ほとんど電子化した本はありません。

しかし、自宅の書棚がもう一杯なので、古い本の処分も喫緊の課題であるのも事実です。
そこで、無料で手に入る、著作権の切れた近代古典文学類は、なるべくペーパーレス化=電子書籍化していき、必要に応じて、koboで読むようにしています。(蔵書書棚がネット上の青空文庫で、個々の本が kobo という感じでしょうか)

前回ブログ記事で引用した島崎藤村や夏目漱石といった有名文豪は電子化されていますので、必要に応じてダウンロードして kobo で読みます。
いっぽう、谷崎潤一郎など著作権が切れていない又は切れたばかりの作家は電子化されていないので、古い紙の単行本で読みます。村上春樹などの生きている現代作家の作品は、有料電子化発売されたものもありますが、やはり紙の単行本のほうで読んでいます。

なお、電子出版しかしていない本や雑誌もあります。私はあくまで紙と電子の併用ですので、電子書籍オンリーというわけではありません。電子出版だけの本を購入する必要性は感じていません。
あくまで、現時点では、紙の単行本が主で、電子本を従とする、使い分けです。
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現在の時点における、電子書籍リーダーのメリットを並べておきます。

(1)著作権切れのものは無料で読める。
    ただし、著作権切れのものでも、電子化されていないものは読めません。
    専門書やマイナーな本はまだまだ電子化されていないというのが実情です。
    いっぽう、紙製の単行本は、著作権切れのものでも有料で購入しなければなりません。
    人の手垢がついたものでよければ、紙製の本は図書館で借りて読むという有力な方法があります。

(2)著作権のあるものも一部無料あるいは廉価で読める。
    著作権と関係なく「自由に読んでもらってかまわない」という本も多くあり青空文庫で無料で読めます。
    ただし、青空文庫にある著作権の切れていない作品については、私的使用以外は禁止です。
    
    一般的に紙の書籍より電子書籍の方が安価あるいは内容豊富です。
    例えば話題の村上春樹『村上さんのところ』は、単行本と電子書籍が発売されています。
    値段はほぼ同じですが、電子書籍版は単行本の8冊分のボリューム内容となっています。

(3)文字・改行スペースを自在に大小にできる。
    電子書籍リーダーなら自分の好きな文字の大きさや改行表示が可能です。
    これは高齢者や視力に問題のある方にとっては非常に良いことです。
    私自身も、最近は少し老眼になりつつあるので、koboの文字拡大機能はありがたいです。

(4)省スペース化が図れ、持ち運びも便利
    私の古いkoboでも、現在100冊ほど入れていますが、まだまだ数倍以上容量に余裕があります。
    1000冊以上の電子書籍が入る書籍リーダーもあります。
    外出・旅行などには数百冊を手軽に持って歩けるわけで非常に便利です。
    もちろん、電子書籍の入れ替えも容易です。
    ネット上に蔵書書棚あるいは本屋があると考えれば可能性は無限に広がります。
    ただし、高精細の写真など容量の超大きいコンテンツを入れると途端に容量が減ります。
    電子書籍リーダーは文章による作品を主とするのがベターです。

(5)絶版が起こらない。
    紙の単行本では発売部数に限りがあり絶版という現象が起こります。
    電子書籍は一度デジタル化されれば、理論的には絶版は起こりません。
    ただし、将来的に電子データの消失や消去といった事態が全く無いとはいえません。

(6)いつでもどこでも容易に入手できる。
    インターネット環境さえあれば、24時間いつでもどこでも電子書籍を入手できます。
    そして、すぐに読むことができます。
    いったん電子リーダーにダウンロードすれば、ネット環境に関係なく、どこでも読めます。
    
(7)劣化しない。
    紙の単行本は、黄ばんだり、破れたり、手垢・水などで汚れたり、徐々に劣化していきます。
    電子書籍は何十年たっても、同じ品質で読むことができます。
    ただし、電子書籍リーダー自体には寿命があり、落下したりして壊してしまう可能性もあります。
    電子データはネット上にもありますので復旧は容易で、内容そのものは劣化しないのですが、、、

(8)高度な利用も可能
    音声読み上げ機能や辞書機能もあり、ハイパーリンクを使ったジャンプもできます。
    つまり「電子ならではの仕掛け」もあります。
    電子しおりを挿入したり、書き込みメモ機能というのも可能です。
    読書の幅が広がるとも言えますが、ネットサーフィン的な利用が読書と同じものとは言えません。
    また、さらに進んだ、計算編集機能など、あまりに高度な応用的利用は疑問です。
    そうなると、専用リーダーというより、汎用のパソコンあるいはタブレットと同じになってしまいます。
    将来的には、スマートフォンと小型パソコンの境界に埋もれてしまう可能性もなきにしもあらずです。

    私は、専用電子リーダーの場合、シンプルな読書機能さえあれば十分だと考えます。
    読書途中に電話やメールが飛び込んくるスマートフォン的機能はまっぴら御免です(笑)

    
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アルファベット文化の欧米では書籍の電子化が容易なため、専用リーダーが大きく普及しています。
日本では、特異なガラケーやスマートフォン文化のほうが発展しており、専用リーダーの広がりはまだまだのような感じがします。

私自身は、上記で説明したように、紙の本を主としながら電子書籍を併用して使い分けています。
紙と電子は一長一短があります。現在はまだ紙の本のほうが優位性を持っていると思いますが、「本離れ」という現象が起こっていると聞きます。そういえば、町の小さな本屋さんというのは少なくなりましたね・・・

音楽関係では、かつて普及していたレコードどころか、最近はCDの売上も落ち込んでいます。これはひとえに音楽データの配信・ダウンロードという形の普及によります。
単行本の書籍もCDのようになってしまうのでしょうか?

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2015年 07月 22日 |
「たびねす」に、私のパサルガダエ/ナクシュロスタムのガイド記事がアップされました。
パサルガダエにはペルシア庭園の原型があり、ナクシュロスタムには磨崖の王墓があります。いずれも遥か古代の歴史をたどる貴重な遺跡ですので、ぜひ、お読みください。
どうぞよろしくお願いします。

(16)ペルシア帝国の古代遺跡パサルガダエとナグシュ・ロスタムで悠久の歴史をたどる!
http://guide.travel.co.jp/article/11539/



たびねす記事は先行してペルシアの見所を分かりやすく紹介しています。
一方、ブログ記事は、まだヤズドから先に進めませんが、ブログならではの個人的こだわりや私見、そして何より多くの写真を掲載して行きたいので、遅速をお許し下さい。


さて、沈黙の塔の入口に、ゾロアスター教徒の老人がいました。
イスラム世界となったイランでは、ゾロアスター教徒はヤズドでひっそりと生きてきたそうですが、実際にゾロアスター教徒のターバンをした方をはじめて見ましたので感動し、許可を得て写真を撮らせていただきました。

↓くっきりと表現
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↓柔らかく表現
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ターバンが特徴的ですね。温厚なお人柄のようでした。

キりスト教の主教や司教がかぶる冠をミトラと言いますが、一説によればペルシアのゾロアスター教(あるいはミトラ教)のターバンが淵源とも言われます・・・・この老人を見て、ふと、そんなことを思い出しました。

満足感に浸りながら、沈黙の塔を後にしました。

↓さらば、沈黙の塔!
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ゾロアスター教プロパーで詳しく記事にするのは、多分、これが最後になると思いますので、頭の中にたまっていることをはき出すべく、少しまとめて下の More に書いてみました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

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More 古代ペルシアとゾロアスター教に関する覚書き
2015年 06月 06日 |
ゾロアスター教は、BC1500年~BC1000年頃に成立したと考えられ、開祖が明らかなものとしては世界最古の宗教です。

土漠の真ん中の避難都市でもあるヤズドには、現在でもゾロアスター教が生きています。

ヤズドの街中にある「アータシュキャデ」は、ゾロアスター教徒以外の異教徒にも見学を許された貴重な寺院なので、じっくり見学しました。

↓まず寺院の外側入口壁の表示です。「ヤズド・ゾロアスタリアン・ファイアー・テンプル」とあります。
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↓入場すると前庭に丸いプールがあり、そのむこうに拝殿がありました。水鏡風景の綺麗な寺院です。
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↓拝殿の上に、特徴的な翼のある日輪のマークが見えますね。
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↓正面下からシンボルマークを撮影
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↓斜め横からアップで撮影
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この翼のある日輪のマークは、アフラ・マズダだと書かれているガイドブックもありますが、ゾロアスター教の守護霊プラヴァシらしいです。(インドに伝えられて盂蘭盆の起源になったとのこと)・・・・ただし諸説あり、アフラ・マズダとする説も有力です。

↓余談ですが、せっかくゾロアスター教の故地に来たわけですから、なにか自分への記念土産をと思い、帰りにこのシンボルマークのついたTシャツを買ってみました。
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↓拝殿の中に入ると、シンプルな部屋があり、ゾロアスター画像とガラス越しに聖火が拝めるようになっています。
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↓開祖ゾロアスター(ザラシュトラ・スピターマ)
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拝火教とも言われるゾロアスター教の火への崇拝がよく分かる施設です。

↓この寺院だけは聖火の見学と撮影が許されているので、ガラス越しですが、聖火を撮影しました。
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オリンピックの聖火リレーは、ゾロアスター教の火を聖なるものとする習慣から来ているとされています。
また、ゾロアスター教の神官はマギと呼ばれ不思議な力を持つことからマジックの語源となりました。結婚指輪、イスラム教徒の女性の衣装であるヒジャブやチャドルなども、ゾロアスター教に起源があるようです。


この寺院は1934年にインドのゾロアスター教徒の寄進で新しく建てられたものですが、安置されている聖火は、1500年以上前から絶やされることなく燃え続けており、およそ80年ほど前にイラン南部のゾロアスター教神殿から、このヤズドの寺院に運び込まれたものです。

↓表示されていた説明文
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ゾロアスターは「天国と地獄」「世界の終末」「最後の審判」「メシア」「神と悪魔」といった思想をはじめて提示し、世界宗教の源流となり、ユダヤ教や大乗仏教の成立にも大きな影響を与えました。

そうした、ゾロアスター教と他宗教の関係については、マニアックな話になりますので、以下の More に詳しく書きました。御興味のある方は More をクリックしてお読みください。


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More 世界宗教の淵源としてのゾロアスター教
2014年 07月 07日 |
私は京都生れですが、少年時代に大阪に引っ越してきました。
まだ大阪の船場(せんば)がわずかに輝きを残していた頃で、なんとか美しい「大阪弁」を聞くことができました。
私は京都生まれなので、京都弁に通じる、はんなりとした大阪弁には、とても親近感があり好きでした。

私には(もう亡くなりましたが)叔母が三人おり、柔らかい表現で品格のある京言葉を使う方々で、今でもその印象的な言葉遣いは鮮明に記憶しています。
子ども心に、大阪船場の、まろやかな商人言葉は、叔母たちの言葉と似ているなあと思ったものです。


かつて、大阪船場は商業流通の中心地として栄えていましたが、私の少年時代にはすでに落日の雰囲気を漂わせており、その印象的な大阪弁も、実際に商店の店先では、使われることが少なくなっていました。
その、はんなり大阪弁については、下の More で詳しく解説してみました。


「これなど、はんなりとして、ようございまっせ」(服や反物をすすめる船場の店員の言葉)


はんなりというのは、「花なり」と「ほんのり」が合わさったことばで、派手でも地味でもなく、まさに「はんなり」としか言いようのない柔らかい表現です。
多分、京都の御所ことばから来ていると思いますが、子ども時代に私が移り住んだところでは、「はんなり」という言葉自体、まだ使われていました。


そこで、「はんなり」をイメージした模糊流ソフトフォーカス写真です。

↓ハナイカダ
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OLYMPUS OM-D E-M1 with ZUIKO DIGITAL ED 50mm F2.0 Macro + FourThirds Adapter MMF-3


このブログを開設する以前、私はホームページを運営していました。またBBSや裏ブログもやっていたこともありますが、現在ではどれも更新できていません。
そこで、HPや別ブログで書いてきたことなども、改訂して、この模糊の旅人exブログの、More に少しずつ移して行こうと思います。
時間的余裕がないので、なかなか進みませんが、できるだけ一本化して整理できたらなあと考えています。

分りにくい文章が多いので、御興味のない方は読み飛ばしてください。
ハンドルネームのように、曖昧模糊としたところが、私の持ち味でもあり、その積み重ね中から、何らかの意味が立ち現われてくるケースがありますので、もし御興味のある話題でしたら、ゆっくり読んでいただければ幸いです。


今日は、「はんなり」がテーマですので、以前、別ブログで書いた「はんなり大阪弁について」という文章を、下の、More に改訂して掲載します。よろしく御願いします。

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More はんなり大阪弁について・・・・
2014年 06月 28日 |
イエスの墓である聖墳墓教会内部のロトンダ(円形建築物)は、アナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれます
イエスはここで復活したとされるわけですから、ここはヴィア・ドロローサの第14留(イエスの墓)であるとともに、第15留(イエスの復活の場所)とする考え方もあります。いずれにしても、ここがヴィア・ドロローサの終着点です。

なお、御質問を受けた件ですが、イエスは復活したとされるので、ここの墓には遺体はありません。聖書の記述によれば、イエスのの墓は埋葬三日後に、空っぽになっていたそうです。

このイエスの復活についての考え方は、下の More を御覧ください。

↓ロトンダ上部(ファンタジックフォーカス)
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第11~14留だけでなく、聖墳墓教会には沢山の部屋や聖堂があります。
その中で一番大きいのは、中央部のギリシャ正教のマルチュリオンと呼ばれる殉教聖堂です。

↓以下4枚の写真は、殉教聖堂(マルチュリオン)で撮影しました。
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↓いっぽう、小さいけれど品が良いのはカトリックの聖マリア聖堂です。
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↓同じく聖マリア聖堂(ライトトーン)
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巡礼者の十字の落書きがたくさんあります。この中には中世十字軍によるものがあるそうです。

↓壊れかけた柱の落書き(ドラマチックトーン)
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↓太い柱の彫り物風落書き(クロスプロセス)
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↓現代的祭壇もあります。
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聖墳墓教会の中は、多くの人で混み合っており、また非常に暗いので、なかなか思うように写真が撮れません。水平をとったり構図を工夫したりする余裕はありませんでした。それでも撮影禁止ではないので、自分的にはとても堪能しました。

聖墳墓教会自体は、キリスト教各宗派が仲悪く共存しているので、各宗派が競い合って飾り立ててゴチャゴチャした感は否めません。統一された整然とした美しさはなく、いわばごった煮状態ですが、各宗派の熱心な思いが伝わってくるようにも感じました。

思えば、フランスのシャルトル大聖堂の美しさに感動し、その床のラビリンス図が聖地エルサレムへの巡礼の旅の苦難を表していると知ってから、ここに来たいと熱望していたのでした。それについては、 こちら
それから約十年経って、ようやく私のこの念願の旅が実現したのです。

それはともかく、昔、中世の時代の人がここに巡礼に来るのは本当に大変だったでしょうね。
なににろイスラム教国になってしまった中東のど真中にあり、紛争も絶えず、安全は保証されず、言葉も通じず、交通機関もなく、案内もなかったでしょうから・・・まさに苦難の旅だったと思います。

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More 復活信仰とは何か?
2014年 06月 25日 |
聖墳墓教会に入ってすぐ、二階の第11留-第13留へ参る人の行列で、ラッシュアワー状態になります。
これは世界20億人のキリスト教徒の最大の聖地なのですからいたしかたないですが、日本人が少ないのが興味深いです。

↓一階部分で順番待ちをしながら、二階の第12留(十字架処刑場)あたりを撮影してみました。
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第11留<十字架に処せられる>

イエスが十字架に処せられた場所が第11留とされています。

↓長い順番待ちの末やっと二階に上がると、前方に第11留が見えてきました。
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↓岩場に横たえられた十字架の上で広げた両手と足に釘を打たれた姿が描かれています。
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第11留-第13留は隣接しており、そこで祈る人が多いので、なかなか前に進みません。でも皆さん穏やかに順番を待っておられます。
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第12留<イエスが死す>

十字架が立てられイエスが息を引き取った場所が第12留とされています。

↓十字架に処せられたイエス像祭壇(正教の板絵形式で表現されています)
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↓イエスの十字架が立っていたくぼみのある場所に銀製の円形プレートが置かれています。
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↑皆さんここを触って祈ります。穴の中にはゴルゴダの丘の岩場があります。
ここがゴルゴダの丘の天辺であることが分かります。

↓ガラス越しですが、この第12留祭壇の直下のゴルゴダの丘の岩場が見えます。
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イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。(マルコの福音書15.25~27)

↓(参考)クレタのセオファニスによるキリストの磔刑図(スタヴロニキタ修道院蔵)
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昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、なにゆえ我を見捨てたまいしか」という意味である。(マルコの福音書15.33~34)

この「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というアラム語の叫びは戦慄的で悲痛なものです。
この言葉をどう考えるかについては下の More をお読みください。

イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(マルコの福音書15.37~38)


第13留<十字架の下の母マリア>

第11留と第12留の間に、第13留の祭壇がありマリア像が飾られています。
これは、十字架から降ろされるイエスの遺体を受け止めたと後世伝承されるマリアの悲しみの像で、1778年にリスボンより寄進されたものです。

↓第13留祭壇とガラスケースに入った第13留のマリア像
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↓マリア像のアップ
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↓第13留付近の天井
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イエスが死んだとき、逃げ去ったイエスの男性弟子たちは居なかったようです。しかし、ガリラヤからイエスに付き従って来た女性たちが見守っていました。、

遠くの方から見ている女たちがいた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセとの母マリア、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。 (マルコの福音書15.40~41)


以前は、第13留は、聖墳墓教会一階にある「塗油の石」とされていました。
これは、イエスの遺体が横たえられて埋葬処置を施されたとされる板状の石で、現在もこの「塗油の石」にも多くの人がお参りしてます。

↓現第13留の二階部分から、一階の「塗油の石」(左下の板状の石)を見下ろす。
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More 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」について
2014年 06月 01日 |
いよいよイエスの受難物語に入るわけですが、その序章としてエルサレムの聖母マリア永眠教会を紹介します。

史実に近いと考えられるマルコの福音書では、聖母マリアはほとんど登場せず、イエスは家族を語らない人として描かれています。
ところが、聖母マリア信仰は非常に広範囲に深く広がっています。なぜ聖母マリア信仰がこのように根強いのか、その点について私の考え方は下の More に書きましたので、御興味のある方はお読みください。


ここは、聖母マリアが最晩年を過ごした場所を記念して建てられた教会です。
聖母マリアの晩年は正確には不明ですが、伝承があることから、ここが有力なのは事実です。
(トルコのエフェス近郊にも聖母マリアの家というのがありますが、そちらは後世の修道女が神がかりして語ったことを根拠としており、歴史学的に実証されたものではありません。)

↓まずは、聖母マリア永眠教会近くのシオン門から
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シオン門は、弾痕だらけです。1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争での弾痕と、1967年の第3次中東戦争での弾痕が混じっているそうです・・・

さて、聖母マリア永眠教会は、エルサレム南東部の、シオンの丘にあるネオロマネスク様式の教会です。
エルサレムではキリスト教としては最大の教会で、聖母マリア信仰の根深さを感じさせます。

↓ゲッセマネの園から遠望した聖母マリア永眠教会(中央)とシオン門(右端)
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↓聖母マリア永眠教会が見えてきました。
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↓聖母マリア永眠教会内部は、まさにマリア様だらけでした。
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More 聖母マリア信仰について考える
2014年 05月 08日 |
ちょっと御意見を頂戴しました。聖書の文言に対し私説を書くことについて、中途半端で写真紹介にそぐわないという御批判です。
考えてみれば確かにその御指摘は当たっています。そこで、独自の私説展開は今回で終わりにして、次回からは、聖書の引用と、撮影場所の説明というシンプルな形を基本として、ブログの「聖書の大地を行く」シリーズを進めていきたいと思います。

私が長らく考えてきたのは、稀有な古典『マルコの福音書』を著した「マルコとは誰か?」ということです。
それだけは私見を書いてしまいたいので、中途半端にならないよう、マルコについての私の推理を、今日は思い切り展開して、福音書内容に対する独断的私説披露の最後としたいと思います(汗)、、、

↓ガリラヤの聖書の村にて
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・・・そして彼らの舟に乗り込まれた。そして風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。
そして
<kai>彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。 そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。(マルコの福音書6.51~56)

↓上記のマルコの福音書の6章部分の断片らしきものが発見されたクムラン遺跡
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上のクムラン遺跡の第7洞窟で見つかった小さな断片7Q5が、マルコの福音書の最古の写本である可能性があるのです。
スペイン人神父ホセ・オカラハンの説によれば、この7Q5こそ、マルコの福音書6.52-53の断片だそうです。

↓断片7Q5(真ん中に、kai<そして>という言葉が確認できます)
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・・・そして彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に・・・

このホセ・オカラハン説に対しては賛否両論がありますが、私は、「kai」(そして)というマルコが多用する特徴的な、文頭の接続詞が見られることから、マルコの福音書の断片である可能性は高いと考えます。

そして、C.H.ロバーツという古文書学者によれば、断片7Q5の作成年代はどんなに遅くともAC50年であるとしています。

もしこれが正しければ、通説より一挙に10年以上遡ることになります。
つまり、写本が遅くともAC50年ということは、原マルコの福音書が書かれたのは、AC40年代ということです。


イエスが十字架刑に処せられたのはAC30~32年の間というのが最有力ですので、その後、わずか10数年経過後に原マルコの福音書が書かれたという可能性が出てきたわけです。

少し時期が早すぎるような気もしますが、マルコは少年~若者時代にイエスを見ていたと私は考えていますので、その時、マルコは10代中頃だったとすれば、それから20年弱経過して、30代半ばで、原マルコの福音書を書いたことになり、世代的にも整合します。

まあ、余裕をみて、AC50年代に書かれたとしても、遅くともマルコは40歳くらいに福音書を著したのではないでしょうか。。。


「マルコは少年~若者時代にイエスを見ていた」というのは、あくまで私の仮説ですが、マルコの福音書の書かれた状況を考えると、十分にあり得る話です。

マルコは、イエスの姿を正しく伝えねばという強い衝動に駆られたのです。
このモチベーションの高さは、実践行動の人イエスを実際に見ていたからだと思います。
ユダヤ教ナザレ派として小ヤコブのもと妥協をはかるエルサレムの原始キリスト教会や、十字架贖罪論だけを展開するパウロ神学に対し、それは違うという危機感をもったのでしょう。
だから、福音書という形式を発明し、物語の中で生き生きとしたイエスの言行をよみがえらせたのです。


上記の写本断片が発見されたクムランは、死海の北西端にあり、エッセネ派が修行していた場所と考えられ、数多くの古代写本が発見されました。現在その死海文書といわれる写本等の資料は、エルサレムの死海写本館にありますが、それについては後日、紹介する予定です。

↓クムランの場所
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それでは、この著者マルコとは、いったい誰でしょう?

マルコの福音書の書き方から見て、マルコはギリシャ語を母語とはしないユダヤ人であることは確実です。
ペトロの通訳であったという伝承もあり、恐らくは、現イスラエル~パレスチナの人で当時の国際語としてギリシャ語もしゃべっていた人でしょう。
また、ガリラヤに詳しい人であることも間違いありません。福音書を書くにあたって、ガリラヤを歩きイエスの事跡や民間伝承を研究しています。


聖書の中にマルコという名前は何度も登場します。

使徒公伝では、12.25、13.13、15.37に、マルコと呼ばれていたヨハネが書かれています。


バルナバとサウロ(パウロ)とは、その任務を果したのち、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた。(使徒公伝12.25)


パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネ(マルコ)は一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。(使徒公伝13.13)


そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。
しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。
こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
(使徒公伝15.37~40)


このマルコが、福音書著者のマルコであるとは書かれていないので、確実ではないのですが、パウロと喧嘩しているところなどは、いかにもマルコの福音書の著者らしいなあという気はします。
年代的にもこの使徒公伝の出来事はAC50年頃ですので、福音書著者のマルコの年代と重なります。


パウロ書簡でもマルコは登場します。
「フィレモンへの手紙」でパウロはマルコの名前をあげています。

わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。(フィレモンへの手紙1.24)

あと、「コロサイ人への手紙」では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として登場します。

わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。(コロサイ人への手紙4.10~11)

「割礼の者」というのはユダヤ人ということです。
こうした記述も、果たして福音書著者のマルコと同一人物であるかどうかは分りません。
ただ、もし同一人物であれば、パウロとマルコは確執がありながら協力もしあっていたようで、興味深い人間関係が想像されます。

最後の晩餐は、マルコと呼ばれたヨハネの母の家で行われたという伝承もあります。

↓イスラエルの国の花:シクラメン(イスラエルはシクラメンの原産地で、野生の原種シクラメンが自生しています)
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聖書には掲載されていない古い伝承では、福音著者マルコはペトロの通訳であったとされています。

そして、マルコは、エジプトにはじめてキリストの福音を伝え、アレクサンドリアの教会の創始者となったという伝承もあります。
9世紀には、ヴェネツィア商人がアレクサンドリアにあったマルコの聖遺物を持ち帰り、聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となり、サン・マルコ広場やサン・マルコ大聖堂が建築されました。
ヴェネツィア共和国の国旗は、マルコを示す聖書を持った有翼の金のライオンです。

↓ラベンダーと菜の花(まさしくガリラヤの春でした)
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ところで、マルコ自身の姿は、マルコの福音書に見られるでしょうか?

ひとつだけ、古くから言われてる印象的な噂伝承があります。

それは、エルサレムのゲッセマネの園で、イエスが捕えられ、弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去った時、イエスの後を追った若者こそマルコだとする伝承です、、、


弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
(マルコの福音書14.50~52)


弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去った後も、一人の若者がイエスのあとを追ったのです。
ここの書き方が実に微妙です。。。
この若者はイエスを追ったのですが、捕まえられかけたので、亜麻布を剥ぎ取られ、やむを得ず、裸で逃げて行ったのです。
12使徒の直弟子たちより後までイエスを見捨てなかった若者、すなわち直弟子よりイエスを慕っていたというような書き方です。

私はこれぞ、マルコが自分自身を密かに自画像として、福音書に登場させた姿だと思います。

実践するイエスの言行を見て、イエスを慕った少年マルコ、、、、イエスが捕えられても出来るだけその後を追おうとしたマルコ、、、、彼は、イエスの十字架刑まで、イエスの受難を密かに遠くから見守ったのではないでしょうか。

ここからは私の全くの想像ですが、マルコはエルサレムに居住していて、最後のイエスの伝道に同行したのだと思います。まだ少年でしたので、12使徒のように古くからのイエスの弟子だったわけではありませんが、イエスの治癒実践に接して感動し、イエスの弟子となり慕っていたのでしょう。

イエスの死後、マルコはペトロの通訳として奉仕しながら、ペトロからガリラヤ時代のイエスの話を聞いたのです。
後日、マルコは、イエスの生き生きとした福音物語を書きたいという衝動にかられ、自らもガリラヤを歩き、イエスの民間伝承を拾い集めたのでしょう。

そして<kai>、(1)自分の少年時代に見たイエスの言行と受難、(2)通訳としてつかえたペトロから聞いた話、(3)ガリラヤを歩いて得たイエスの民間伝承を、物語的にまとめ、福音書としたのです!

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