模糊の旅人
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2017年 05月 15日 |
「たびねす」に、私の「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」という記事が掲載されました。
堺が生んだ偉人: 河口慧海と、堺の古い街並み散策について書いていますので、ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(45)河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策
http://guide.travel.co.jp/article/26260/






ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、河口慧海について詳しく紹介します。


↓大阪府堺市の南海本線七道駅前の西側ロータリーの中心に河口慧海の銅像があります。これは、1983年に堺ライオンズクラブの創立25周年記念事業として建立されたもので、ヒマラヤの岩場を行く慧海の姿がリアルに再現されています。彫刻家・田村務によって制作されたものです。
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河口慧海は、日本の仏教の在り方にあきたらず、求道者として梵語・チベット語の仏典を求めて、艱難辛苦の末、日本人として初めてヒマラヤを越え、鎖国していたチベットに入国を果たしました。

多くの梵語仏典やチベット語仏典を持ち帰り、民俗関係資料や植物標本なども蒐集し、大きな成果をあげました。当時の状況から非常に困難な旅でしたが、仏教の原点を究めるという強い意志により成し遂げたのです。その慧海の不撓不屈の精神が感じられる銅像ですね。


↓七道駅前を東に歩くと、河口慧海生家跡周辺マップ看板があり、その後ろに堺の環濠跡が見られます。
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↑ここは、中世に自由な自治都市として栄えた堺の町を取り囲んでいた環濠の一部で、貴重な遺構です。堺環濠の東側は埋め立てられ土居川公園という細長い公園になっています。いっぽう、西側は内川として残されているのですが、現在はこの七道駅前の丸い環濠跡が起点となっています。


↓環濠跡から東へ三筋目の角を南へ曲がって50mほど歩くと、河口慧海の生家跡の碑があります。現在は住宅地の中にあるブロック塀に囲まれた小さな一角です。
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↓正家跡にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は、1866年(慶応2年)に堺山伏町(現・堺市堺区北旅籠町西)で、樽製造業者の長男として生まれました。向学心が旺盛であったため、各所で勉学を重ね仏教へ傾倒します。

懸命に修行し五百羅漢寺の住職にまでなりましたがあきたらず、その地位を捨て、仏陀本来の教えが残る仏典を求めチベット行を決行します。帰国後、チベット仏典研究と一般人への仏教の普及に邁進し、多くの著書を残しました。晩年には還俗し、在家仏教の道を提唱しました。


河口慧海の考え方は、仏陀の道=原始仏教の本来の姿を追求したわけですから、形骸化した現在の仏教の在り方に疑問を持ったのは当然でした。やがて自ら僧籍を捨て、在家仏教こそが真の仏陀の道であると喝破したのです。


あくまで私の独自の考えですが、原始キリスト教や原始仏教の在り方は非常に似ていると思います。したがって慧海の考え方は正しい宗教を究めようする者には当然の結論です。慧海の姿には、すべての優れた宗教家に共通する聖性があると感じます。



また、慧海の思想は別にしても、ヒマラヤを越えチベットに至る記録は素晴らしいもので、慧海の『チベット旅行記』は探検記・紀行・冒険としても、とても面白く素晴らしい著作ですので、ぜひお読みください。一本筋の通ったノンフィクションの名作です。

文庫本もありますし、ネット上で無料で読める青空文庫もあります。ぜひとも、こちら、をご覧ください。


『チベット旅行記』については、私は15年ほど前に感想文を書いて、ホームページに発表したことがあります。それを、下の More に載せてみましたので、ご興味のある方はお読みいただければ幸いです。
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↓河口慧海の生家跡から東へ二筋のところに清学院があります。
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↑ここは、もとは修験道の道場で、江戸後期から明治初期にかけては寺子屋として使われ、町人たちの学習の場でした。

河口慧海もここで、読み書き算盤を学びました。現在は「堺市立町家歴史館 清学院」として保存修理され、河口慧海に関連するパネル展示をはじめ寺子屋の歴史に関する資料を公開しています。

↓清学院前にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は幕末に生まれ、明治維新の激動の時代に堺で幼少期を過ごしたわけですが、当時、堺の旧市街には、22件もの寺子屋があり、約2000名の町民子弟が通っていました。寺子屋は、読み書き算盤を教えるとともに、人の道である道徳や宗教も教えていました。

堺は本格的な商工業者の町ですから、算術は当然必須ですし、商品経済の発展に伴って、証文や手形などの取引に文字教育は必要とされたのです。また商取引には人と人との信頼関係が前提となり、倫理的な教育も施されたのです。

堺の寺子屋の特徴は、教える側の師匠が、すべて町人系か医者で、士族すなわち侍がいなかった点です。いかにも堺らしいですね。
国語系の教科書は「往来物」といわれる往復書簡、地名紹介本、千字文などで、清学院で見ることができます。


寺子屋はいわば初等教育ですが、もう少し上のレベルの教育を行った、郷学所や私塾もありました。経学(四書五経)や詩文(漢詩)を教える中等教育ですね。

河口慧海は勉学熱心で、清学院の寺子屋を出た後も、儒学者・土屋弘の私塾である晩晴塾(現・堺市戎之町)で学びました。慧海は、ここで漢籍・詩文・修身を学び、漢学の素養を身につけるとともに、読書力・文章力に磨きをかけたのです。



かつて自治都市であった堺には清学院のような寺子屋をはじめとして、郷学所や私塾が多く存在し、商工業者の子弟が通っていました。千利休以来の町衆の文化の程度が高く、他所に先駆け鉄砲鍛冶に代表される高度な技術者や優秀な人材を育んだのです。河口慧海と与謝野晶子は、そうした堺の文化的土壌が生んだ偉人といえるでしょう。


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More 『チベット旅行記』について
2017年 05月 10日 |
恐竜博物館の記事が続きましたので、少し巻き戻して、桜と野鳥の写真をアップしてみます。

今春は足の調子が悪く、本格的なフィールド撮影ができませんでした。とはいえ、近所の公園散歩くらいは出来ますので、桜の時期は、おなじみの小さな野鳥をからめた写真を撮影しました。
重い撮影機材を持ち歩けないので、あまり大きく撮れなかったですが、なんとか今年も出会えて嬉しかったです。


↓メジロ
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↓ヒヨドリ
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↓エナガ2景
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↓ヤマガラ
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↓シジュウカラ
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↓桜まつり
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↓紅枝垂れ2景
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↓落桜有情
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