模糊の旅人
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2017年 06月 19日 |
旧・日生球場のあった現「もりのみやキューズモール」の西南側一帯は、豊臣秀吉の時代は、武家屋敷が並んでいました。

秀吉の時代の大坂城は、現在の四倍以上の広さがある非常に巨大な城で、惣構え(総構え)の内部には有力大名の武家屋敷も含まれていたのです。現在の大阪城南側にある細川屋敷跡から真田丸跡地などを訪ねると、その広さを実感できます。それが、今回の~細川屋敷跡から真田丸跡地を歩く~シリーズ記事の舞台です。


JR大阪環状線または地下鉄(中央線または長堀鶴見緑地線)の森ノ宮駅から、中央大通りを西へ歩き、ファミリーマートの角を左折し南へ下り100mくらいの所に細川越中守屋敷跡があります。越中井(えっちゅうい)とも呼ばれますが、これは屋敷の当主である細川忠興が越中守であったことから来ています。

石造りの井戸跡と地蔵堂、碑があり、細川屋敷の台所のあった場所と伝えられます。細川忠興の妻の細川ガラシャ最期の地として知られ、その死の際、火がつけられ井戸だけが焼け残ったそうです。

↓ガラシャ歌碑
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「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

この碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句があります。

細川ガラシャは、明智光秀の娘で名を玉(珠子)といい、美人の誉れ高い女性で、光秀の畏友:細川藤孝の子である細川忠興に嫁ぎました。しかし、光秀が本能寺の変をおこしたことから謀反人の娘として一時丹後山中に幽閉され、後に豊臣秀吉の取りなしにより、細川家の大坂屋敷に戻されました。こうした中で、夫:忠興の友人でキリシタン大名だった高山右近のことを聞いた玉はカトリックに興味を持ち、やがて入信し受洗。ガラシャはその洗礼名で賜物(恩寵)を意味し、本名の玉に通じることから名づけられたものです。

関ヶ原の戦いの直前、決起した石田光成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、家臣に命じ胸を貫かせて死にました。キリスト教では自殺は禁じられているからです。

ガラシャの死は、徳川方の大名に大きな衝撃を与え、関ヶ原の戦いにおける東軍の結束を固める一つの要因となりました。後に細川氏は、肥後熊本藩主となり明治維新に至ります。この碑は、その熊本出身の縁から徳富蘇峰が揮毫したものなので、非常に力強い文字になっています。


この越中井のあたりは周囲にマンションが建ち背景が昔風の情緒がありません。説明看板も古ぼけて忘れられた感があったのですが、大河ドラマ真田丸の放送決定を機会に説明看板も新しくなり、雰囲気が少し良くなりました。

↓古い越中井付近
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↓新しい越中井付近
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↓古い説明看板
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↓新しい説明看板
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↓当時の大坂城惣構え内部の武家屋敷をいくつか現在の地に重ねてみました。あくまで私がフリーハンドで描いたもので正確な図ではなく、イメージ的なものとお考え下さい。
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↑ピンクの字が現在のもので、青地が秀吉時代のもの

細川とは細川忠興、宇喜多とは宇喜多秀家、小出とは小出吉政、前田とは前田利長で、いずれも当時の秀吉に近い大名です。

これを見ると、細川屋敷は、現・越中井から現・聖マリア大聖堂にかけてのかなり広い敷地だったことが分かります。



細川ガラシャの長男:細川忠隆の嫁:千世も当時、細川屋敷にいましたが、千世はガラシャのように自害せず、近所の実家である前田利長の屋敷に逃れました。ちなみに千世は、前田利家の七女で、利家とまつ から末娘なので非常に可愛がられた人。

この逃れた経路を上図で推測すると、細川屋敷の西門を出て南へ下り、小出屋敷の前を通って前田屋敷に逃げ込んだようです。宇喜多家は光成派なので、それを避けて小出屋敷の南西側の角を曲がって前田屋敷へ至ったかもしれません。細川家史によれば小出吉政の使者が細川忠興に「当方の屋敷の前をお通り、前田殿屋敷へ御入り候」と報告したとあります。

徳川家にとって有力外様大名同志である前田・細川の姻戚関係は好ましくないことと、ガラシャを失った細川忠興の怒りにより、細川忠隆は千世との離縁を命じられます。しかし、忠隆はこれを拒否し、父:忠興により廃嫡されます。忠隆は剃髪し、千世と子を伴い京都で蟄居し、生活は祖父:細川幽斎が支えました。幽斎の死後、千世は加賀の前田家に帰りました。25年後に、忠興と忠隆は和解しますが、忠隆は京都に留まり続け都の文化サロンの長老的存在となりました。

明智光秀から娘:ガラシャさらにその息子:忠隆に至る、なんとも複雑な人生ですね。(余談ですが、ガラシャの血は、後世の熊本藩の細川家はもちろんのこと、忠隆と千世の子:徳姫を経て、現在の皇室にも繋がっているそうです)


越中井の付近は、近年まで「越中町」とされていました。住居表示施行に伴って、地名が変更されてしまいましたが、その歴史を示す「旧町名継承碑」があります。

↓旧町名継承碑
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↑地元の人たちの、越中守忠興とガラシャ夫妻への思い入れが感じられる史碑といえるでしょう。


↓越中井の南にある越中公園
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↓「青刻昆布発祥の地」の碑のアップ
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越中井の南すぐの越中公園の道路沿いに「青刻昆布発祥の地」の碑があります。 この碑は、2001年に大阪昆布商工同業会が設立100周年を記念し建立したものです。

刻み昆布は、昆布加工食品の原点で、煮た昆布を細かく刻んでから乾燥したもの。この近辺で製造されはじめ、煮物として愛用されました。やがて、とろろ昆布や塩昆布など、大阪の食文化を象徴する高級な細工昆布の隆盛を迎えます。昆布は関西のダシ文化にも欠かせないものとなりました。

北前船が米や酒を北海道に運び、帰りは昆布を買い付けて帰ってくることで、昆布加工産業が発展したわけです。伝説によれば、大坂城を築く際に、巨大な石を運ぶため、昆布を石を滑らせる潤滑剤として大量に使ったことから、この近辺の昆布需要が高まり、それをきっかけに大阪人は昆布に親しむようになったそうです。


↓越中井の側にある謎の石像
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細川ガラシャについて、以前、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事に関連して、こちら  で詳しく書きました。

ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については こちら

ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については次回の記事で書きます。大阪の細川家菩提寺である崇禅寺にあるガラシャ墓については、取材済みなので、今後、機会を見て記事を書く予定にしています。



<追記> 前回の記事で「石山碕とニギハヤヒ」についてのご質問がありましたので、前回記事の下に More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。


<たびねす記事もよろしく>
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2017年 06月 14日 |
「たびねす」に、私の 「細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く」 と 「真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!」 の2本の記事が掲載されました。
これは連続して読めるコラボ記事として書いたもので、~地形と地名が語る歴史ロマン~ という切り口で、大阪城南部の細川屋敷跡から真田丸跡地へかけて歩くコースになっています。いわば大阪アースダイバーあるいはブラタモリ的大阪地形探索ともなっていますので、2記事を、ぜひ併せてご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(47)細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く
http://guide.travel.co.jp/article/26914/


(48)真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!
http://guide.travel.co.jp/article/26990/








ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、大阪城南部の歴史地区について、私見を交えながら、より詳しく紹介します。
今日はその話のプロローグで、大阪の背骨たる上町台地の地勢的特徴です。



大阪城は、大阪を南から北へ貫いてのびる上町台地の北端にあり、大阪の成り立ちを象徴する場所です。

↓現在の大阪城(江戸時代以前は大坂城)
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この大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にある聖地でした。石山碕と呼ばれたと古い文献にあります(饒速日命=ニギハヤヒの降臨の地ともされる)。

↓夜の大川端から大阪城を撮影して、現代の余計な建物を削除加工してみました。古い時代の聖地:石山碕を海から眺めた情景が浮かんで来るように思えます。
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その後、古墳時代以降になると、少しずつ海が後退していき、周囲の低く平らな大阪平野を見下ろす最も神聖な高台として、国土の神霊を祀る神社が鎮座し生國魂神社となりました。

さらに下って、ここは聖地であるともに要害の地でもあることから、石山本願寺が拠って立ち織田信長に抵抗しました。豊臣秀吉の時代には、生國魂神社は南へ移され、大坂城が築かれます。秀吉は城下に武家屋敷を配し、堺などから商人を集め、大阪を大都市化させたのです。

↓縄文時代の大阪の地形に、後の主要スポットを加えた地図
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↑これを見ると、上町台地の西端側に、聖地あるいはパワースポットが、南北に多く並んでいることが分かります。(例外的に見える四天王寺は移転されたもので、創建当時は現・難波宮跡地にあったとする説が有力)

これは、西の大阪湾という海に面して、神聖な宗教地域性とともに外に向かって王権を輝かせるという意味もあったと思われます。仁徳天皇陵などは海から見られる大王の超巨大墳墓として造営されたのです。

↓仁徳天皇陵
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中沢新一氏は、名著『大阪アースダイバー』の中で、この難波宮から南に伸びる難波大道、さらに南に位置する百舌鳥の大古墳群につながる南北のラインを、大阪を貫く第一の軸として、「アポロン軸」と呼び、王の絶大な権力を現すものと書いています。

私も、この中沢説について、個々の展開には強引な面が多くて異論があるものの、大筋は賛成です。私的には、泉北台地から上町台地にかけての地形は「大阪の背骨」だと考えており、大阪という都市の成り立ちそのものに深く関係し、古代からの歴史を背中に残す重要な場所であると思います。


大阪は全般的には堆積平野と埋立地で坂は少ないのですが、この上町台地だけは大阪の背骨として多くの坂があります。もともと大坂(現・大阪)という地名の由来は、上町台地北端の坂のある地域を「大坂」(小坂・尾坂説もあり)と呼んだことにあります。

上町台地西側は急傾斜で、聖地に関連した名所の坂が多く、天王寺七坂と言われ、古くからの歴史を感じさせます。

↓天王寺七坂のひとつ真言坂(真言坂は生國魂神社と生玉十坊に関連)
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↓天王寺七坂のひとつ愛染坂の説明看板(愛染坂は愛染堂と大江神社に関連)
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↓愛染堂に隣接する大江神社の説明看板より(生國魂神社から四天王寺にかけての一帯を夕陽ケ丘という)
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なお、上の地図で注意すべきは大和川です。この川は、奈良から生駒山地と葛城山地の間を抜け、北流して河内湾(河内湖)に注いで土砂を堆積していました。現在のように西流して大阪湾に注ぐようになったのは、江戸時代に、上町台地と泉北台地の間のやや低い場所を掘削し、大和川の付け替え工事が行われたからです。結果、現在の大阪市と堺市の境界をなす川となったのですが、これによって形状記憶都市:大阪のアポロン軸が分断されたとも言えます。

↓大和川中流域
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大坂城を築いた秀吉も、王権を輝かせる場所として、上町台地の突端を選びました。地勢的・軍事的に要害であったことが最大の理由ですが、縄文時代より大坂の最大の聖地の場所でもありました。そのため、生國魂神社を南へ丁重に遷座させたのです。

↓現在の生國魂神社
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大坂城は、西~北~東側が低地でしたが、南側は上町台地が続いているため、軍事的には攻めやすい弱点となります。そこで、南側に主な武家屋敷街を並べ、その南に天然の浸食谷を利用して空壕を掘り防備を固めたのです。

この武家屋敷街を含んだ大坂城の惣構え(総構え)は巨大で、現在の大阪城の4倍以上あったとされます。


惣構えが巨大となり、古い大坂の商業地だった旧石山本願寺内・渡辺津・旧玉造といったところが、大坂城内に取り込まれたため、そこにいた商人の移転地として、西側の低地が開発されます。さらに、堺から有力商工業者たちを移転させてきます(堺筋に名を残す)。
これが、船場という大商業地の発祥です。

やがて水運に恵まれた船場は各地の物産が集まる日本の経済センターとして発展し、天下の台所:大坂として大都市化していきます。

さらに、江戸時代に大坂は、近松門左衛門や井原西鶴、上田秋成などに代表される町人文化が栄えました。 文化の面でも、江戸と並ぶ中心地となりました。

明治以降、その経済的・文化的地位は低下していきますが、商人の町としての気質は引き継がれていきます。


言葉の面では、商人を中心として、争いや暴力を嫌い、平和を愛する町では、強い言葉ではなく、柔らかい言いまわしが好まれたのです。そうした土壌の中、大阪弁も変化しながら、その持ち味を残してきました。

大阪弁の代表格とされた船場言葉は、もともとは豊臣秀吉の時代に堺から強制移住させられた商人が多かったので、商人の自治都市:堺の言葉が基盤でした。そこに、江戸期になると、平和な商いに役立つ、丁寧かつ上品な京言葉の表現が取り入れられ、まろやかな語感の、はんなりとした大阪弁が発達したのです。


平成の現在、もはや往事の船場の雰囲気は無く、上品な大阪弁の文化は失われつつあり、船場センタービルの上には高速道路が走り、その船場センタービル自体も閉鎖されようとしています・・・

↓現在の船場のワンショット
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<追記> 2017.6.17 石山碕とニギハヤヒについて、ご質問がありましたので、以下の More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

<たびねす記事もよろしく>
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