模糊の旅人
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2017年 07月 30日 |

トルコ・カッパドキアの朝は、明暗のマジックアワーから、バルーンの浮かぶ不思議な世界へと展開します。

その変化と雄大な景色をご覧ください。

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2017年 07月 24日 |

一昨日、仕事で本町に出たので、ついでにオリンパスプラザに寄って写真展の打ち合わせをしてきました。
その際、オリンパスプラザ大阪のオープン講座で西川 ヒトシ氏の「トンボの撮り方」をやっていましたので、見学させてもらいました。

さすが専門家で、素晴らしいトンボ写真の画像や撮り方エピソードなど、とても参考になり刺激を受けました。

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↓講座の最後に西川 ヒトシ氏からの宣伝があり、8月28に神戸どうぶつ王国で、撮影講座があり講師をするので、ぜひ来てくださいとのことです。

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私も蝶を主体に昆虫写真はよく撮るのですが、トンボはあまり得意ではありません。特に飛翔するトンボは撮影の難易度が高く、うまく撮れません。

西川 ヒトシ氏の素晴らしいお話を聞いて、私もこれからは、トンボも撮ってみようと思いました。

そこで、これまでの整理を兼ねて、私が撮影してきた主なトンボ写真を再掲してみます。

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2017年 07月 18日 |

大阪探索シリーズの補遺ともいうべき記事です。

細川ガラシャの墓を見に、大阪市東淀川区にある崇禅寺に行ってきました。阪急電車京都線の崇禅寺駅から徒歩10分ほどです。
崇禅寺は、天平時代に行基により創建されたとされる古い寺で、悲劇の人々の墓があることで、有名です。

↓何度も戦災で焼失しましたが、1989年に再建されて立派な寺となっています。

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↓重要な三人の墓が、奥に屋根をかけた形でありました。

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↓右から、寺の創建者:隣大和尚の墓、足利義教の首塚墓、細川玉子(ガラシャ)の墓
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↓足利義教の首塚墓

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1441年、将軍:足利義教は赤松満祐に殺害され、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢により、義教の首はこの寺に放置されました。崇禅寺では、首塚をつくり供養しました。この事件は「嘉吉の乱」と呼ばれ、足利幕府の権威は失墜したのです。(赤松満祐は、足利義教の首を播磨坂本城まで持ち帰ったという説もあり、真相は不明です)


↓左側の細川ガラシャこと細川玉子の墓

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ここに細川ガラシャの墓があるのは、当時の細川家の菩提寺が、この崇禅寺であったことによるそうです。
 
 細川ガラシャについて、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事については、こちら 

 ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については、こちら 

 ガラシャの辞世の歌碑のある越中井については、こちら。

 ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については こちら。

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↓遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟の墓

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これは「崇禅寺馬場の仇討」と呼ばれる有名なもので、浄瑠璃、落語、映画などの題材となりました。菊池寛の小説にも『返り討崇禅寺馬場』というのがあります。

1715年、遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟は、末弟の宗左衛門のかたきである生田伝八郎を討とうとしましたが、伝八郎側の多数の加勢により、崇禅寺馬場で返り討ちにあった事件です。

当時の崇禅寺住職:門啓天岑はこの兄弟を哀れに思い、崇禅寺に墓を築き、二人の菩提を弔いました。それがこの供養塔です。


この寺は悲劇の人たちの供養の場所ですね。


↓崇禅寺の奥庭

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↓水場にはヒヨドリが水を飲みに来ていました。

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↓ここは、明治の初めに、摂津県と豊崎県の県庁がおかれたことがありました。その記念碑です。なお、知事は陸奥宗光でした。

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↓南門の絵を描いておれれる方がおられました。平日の午後、私以外に崇禅寺に観光に来ていた唯一の人です。少しお話をして、奥にあるガラシャの墓を案内させてもらいました。

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↓その南門です。

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2017年 07月 13日 |

大阪アースダイバー的地形と歴史散策シリーズの最終回です。

三光神社の東は下り坂になっており、大阪の背骨たる上町台地の東側の低地となります。

↓風の街の暖簾が風にゆれて・・・(真田幸村ロードにて)

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このあたりは、縄文時代は岸辺で河内湾に面しており、最も縄文海進の激しい時代は海の中でした。
そして、北東から淀川が、南東からは大和川が土砂を堆積し、徐々に砂州が発達し、河内湾は河内潟から河内湖となり浅くなり、海が湖となっていきます。

現在の森ノ宮駅から玉造駅にかけては、縄文時代から弥生時代には水辺の環境だったことから、貝塚を中心とした複合遺跡である森ノ宮遺跡が発掘されています。貝塚を見れば当時の食生活が分かるのです。

重要なのは、縄文時代の森ノ宮遺跡の貝塚がマガキを中心としたものであったのが、弥生時代になるとシジミが主体となることです。
これは、この岸辺が最初は海水の湾岸であったものが、徐々に淡水化していったことの明確な証拠です。

↓再掲地図ですが、森ノ宮遺跡の場所をご覧ください。

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この地図でお分かりのように、淀川と大和川の土砂が三角州となり、河内潟を埋め立てて行き、あちこちに砂州が出来ていきます。ちなみに現・大阪城の北に延びる砂州地帯に後世に市場が出来て行ったのが、日本一長い商店街となった天神橋筋商店街です。


日本の古代国家が生まれたのもこの地図に関りがあります。饒速日命(ニギハヤヒ)の降臨の地であり、神武東征伝説でナガスネヒコが立ちはだかったのもこのあたりです。

河内潟に注ぐ大和川をさかのぼり奈良に入ると、3世紀中頃から4世紀の三輪王朝の大きな古墳が並び、邪馬台国王都と有力視される纏向遺跡があります。大和川水系は古代日本の中心地です。

そして、5世紀になると、応神王朝あるいは河内王朝とも言われる大王たちの超巨大古墳が、地図下部にある百舌鳥古墳群と古市古墳群に出現します。いわゆる倭の五王の時代ですね。

仁徳天皇の高津宮や、孝徳天皇の難波宮は、西に海を望む上町台地の上に造営されました。反正天皇の丹比柴籬宮は河内湖の南側に、継体天皇の河内樟葉宮は河内湖の東北岸にあったようです。

この一帯は大和朝廷の誕生を導いた場所なのです。


↓玉造駅近くに南北に伸びるアーケードの日の出通り商店街(まさに古代の河内潟の岸辺に沿った道です)

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↓日の出通り商店街にも真田六文銭の旗が!

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↓日の出通り商店街と直行する玉造駅へ至る路地:幸村ロード

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もともとここは、真田山三光神社への参道で小さな路地でしたが、2013年に大坂の陣400年を迎えたことから、整備されたものです。

今は、真田御膳、真田十勇士玉、六文銭フィナンシェ、幸村ロード缶、幸村鍋など真田にちなんだグルメを提供する店が並び賑わいを見せています。真田十勇士の可愛いパネルもありますので確かめながら散策するのも楽しいものです。

↓幸村ロードのお店いろいろ

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真田幸村にちなんだものだらけでした・・・・



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2017年 07月 08日 |

「たびねす」に、私の <雲上の楽園!滋賀「伊吹山」で美しい花と蝶を観察しよう!> という記事が掲載されました。
これまで何十回と登って自然観察をしてきた伊吹山の花と蝶について、簡単にまとめてみたものです。ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。






伊吹山については、今年の夏(8月)も行きたいと思っていますが、もしそれが実現すれば、またブログ記事でより詳しく本格的に紹介したいと計画しています。
そこで今日は、季節ものを優先して、半夏生について書いておきます。


半夏生(はんげしょう)とは、雑節の1つで季節を示す用語。夏至から11日目の頃をいいます。今年は7月2日でした。
由来は諸説あり、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が半分白くなり、化粧しているように見えるからとも。また、ハンゲ(カラスビシャク)という薬草が生える時期という説もあります。

この時期は、農家にとって節目なので、各地いろいろな風習があります。
私の近所では、蛸を食べます。

↓近くのスーパーでは、半夏生セールをやっていました。

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↑説明によると、「稲の根がタコの足のように大地に広がってしっかり育つように」との願いを込めて、半夏生にタコを食べる風習があります、とのことです。

皆さんのところでは、どんな風習があるでしょうか?


私は、半夏生(ハンゲショウ=カタシログサ)という花が、好きなので、この時期はハンゲショウが必ず見られる所に写真撮影に行きます。近くの緑化センターです。この場所については次回の「たびねす記事」に掲載する予定にしていますが、今日はフライングで、今まさに開花シーズンのハンゲショウをお見せします。

ハンゲショウは地味な花ですが、花が咲くころに、葉の一部が白くなり、なんともいえない良さがあります。確かに半分だけ化粧しているような風情です。


以下、ハンゲショウの様々な表情をご覧ください。

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余談です。

この花の名前ハンゲショウについては、7月はじめの「半夏生」の時期に開花するからという説と、葉の片面が白くなる「半化粧」だからという説があります。
一方、雑節の季節用語「半夏生」は、ハンゲショウの花が咲くから名づけられてという有力な説があります。つまり、どちが先か?、卵が先か鶏が先か?、という循環する話ですね。

思うに、この花名の由来は「半化粧」で、そこから雑節の「半夏生」が名づけられたとすれば、スッキリしますが、いかがでしょうか?



生物学的には、上の写真をご覧いただければお分かりのように、花径に近い葉が、開花時期に白化しますので、この葉が目立つことで、花弁の役割を果たしていると考えられます。この自然の造化の妙と、これを「半化粧=半夏生」と名づけた日本人の優れた感性に、驚かされます。


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2017年 07月 04日 |
善福寺から東へ少し歩くと宰相山西公園があります。南側背後は高い丘が東西に連なり、現在は旧陸軍の墓地で真田山陸軍墓地維持会が管理しています。このあたりが、宰相山あるいは真田山と呼ばれていたことが分かります。
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宰相とは加賀宰相(前田利常)か京極宰相(京極忠高)ですので徳川方になります。いっぽう、真田とは真田信繁を意味しますので真田丸があった場所になります。果たして、どちらが正しいのか? 真田丸の謎がここにあります。


↓宰相山西公園のアジサイ

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↓上記の公園と墓地の東側に「三光神社」があります。

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↑鳥居手前の折れた石柱にも注目ください。三光神社は第二次世界大戦で被災し、鳥居も折れたのですが、その戦災の教訓を後の世に伝えるべく、古い鳥居の基礎部分が残されています。

↓三光神社へのルートの地図

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この神社は反正天皇の御世に創建されたと伝わり、大阪七福神の一つでもあります。現在は、真田信繁が大坂冬の陣で真田丸に拠って、圧倒的大軍の徳川軍に勝利したことから、「勝利のお守り」が人気の神社となり、大河ドラマの放送以降は全国から歴史ファンが押しかけています。

↓真田六文銭の旗が林立する三光神社境内

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↓三光神社拝殿

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↓大阪七福神巡り寿老加味の旗

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↓摂津名所図会より引用の歌と句の碑

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境内の社殿下側には勇壮な真田信繁像があり、その左側に「真田の抜け穴」跡と伝承される岩穴があります。この銅像は、1987年、大阪真田山ライオンズクラブ15周年に建立されたもので、信繁は鹿角の兜をかぶり、采配を振るっています。なお、台座の石は真田家の菩提寺である信州上田の長谷寺から送られた真田石とのことです。

↓真田信繁像と抜け穴跡

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↓抜け穴跡

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「真田の抜け穴」は鉄格子で閉じられていますが、一年に一度「真田まつり」の日には内部開放されます。もっとも、普段でも鉄格子なので入り口付近を覗くことが可能(下の写真参照)。

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↑なかなか頑丈な造りですので、ここから大坂城へ抜け道が繋がっていたという伝説について、さもありなんと思わせます。

諸説ありますが、もし真田丸が顕彰碑のある大阪明星学園敷地とすれば、この穴は前田軍などの徳川方が掘った跡である可能性が高くなります。

↓私が帰ろうとすると数人の見学者が来て、熱心に抜け穴跡を覗いておられました。歴女さんでしょうか。

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真田信繁像のある場所からさらに上部へ階段があり、横を石垣で固められた高台があります。高台の西側は真田山陸軍墓地に繋がっていました。

↓その高台から下の公園を撮影。

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三光神社は高い丘陵の中腹にあり、東側に低い玉造駅方面を望みます。東側階段を降りると下から神社を見上げる形になり、立派な石垣が見て取れます。この高台にある事と丘陵上部へかけて何階層にも高く積まれた城塁のような石垣、さらに抜け穴もあることから、真田丸の故地とされてきたのは当然。雰囲気はピッタリです。

↓東側階段を降りた場所から三光神社側を撮影

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実は、この神社から真田山陸軍墓地を挟んで前回に述べた心眼寺へは、高い丘陵でつながっています。この高台一帯全部が真田丸であったとしても不思議はない地形です。本当は真田丸はどこにあったのか? ここに立って、真田伝説ロマンに浸ってみるのも一興です。




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