模糊の旅人
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2017年 06月 29日 |
前回紹介しました聖マリア大聖堂から南へ歩くと、空堀町交差点があり、そこをさらに南へ行くと信号が二つ連続しています。そこを左折すると、どんどろ大師、心眼時、大阪明星学園のある場所へ至ります。この付近が真田丸の跡地の最有力候補です。

↓ルートの途中にあるイタリア料理店

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真田丸は、真田信繁(幸村)により築かれ、大坂冬の陣で寄せ手の徳川軍に大打撃を与えた有名な場所。大坂城惣構えの外側に造られた出城で、大坂城の唯一の弱点である南側の防御能力を高め、さらには敵を引きつけ攻撃する拠点ともなりました。

正確な真田丸の場所については諸説ありますが、現在、最も有力な場所とされるのが、大阪明星学園の敷地です。この学園のグラウンド東側には2016年、大河ドラマ「真田丸」のスタートとほぼ同時に「真田丸顕彰碑」が設置されました。

↓真田丸顕彰碑の全体と周辺(後方が大阪明星学園のグラウンドです)

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↓アップで撮影(クリックすると横120ピクセルに拡大表示されます)

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↓大阪明星学園の壁には真田丸放映中は真田信繁(幸村)の絵が掲げられていました。

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現在でも真田丸顕彰碑から北へは下り坂で、真田丸が大坂城に接続した出丸ではなく、大坂城との間に深い谷を有する独立した出城であったことが偲ばれます。確かにここは、真田丸のあった場所として、説得力があります。背後の谷は、空堀町から空堀通りへ続く一帯で、上町台地の天然の侵食谷を利用して広げた大坂城の南側の空堀であったようです。

↓地図の紫のラインが大坂城惣構えの南側の空堀のあった低地です。

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真田丸顕彰碑の道を挟んだ向かい側に「心眼寺」があります。1622年に白牟和尚が真田信繁(幸村)・大助親子の冥福を祈るべく真田丸跡地に建てた堂宇を起源とする寺で、その定紋は六文銭とされ山号は真田山です。正門外側の階段横には「真田幸村 出丸城跡」の碑が立っています。

↓心眼寺の正門

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↓「真田幸村 出丸城跡」の碑

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さすがに江戸時代は徳川家に逆らった真田信繁の墓を建てられなかったようですが、2014年、400回忌に際して心眼寺の境内に信繁の墓が建立されました。

↓真田信繁(幸村)の墓

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↓墓の説明看板

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信繁の墓の横に小さな堂宇「まんなおし地蔵尊」があります。

↓まんなおし地蔵尊

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↑まんなおし地蔵尊は、真田信繁(幸村)が開運の祈願をしたと伝承され、かつて庶民の信仰が篤く参詣者が絶えなかったそうです。
「まんなおし」とは、間直し・運直し・縁起直し・げん直しのことです。まんの悪い時、うまくまん良く行きますようにと、まんなおし地蔵尊に願いをかけたとのことです。

↓地蔵尊の姿

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↓地蔵尊に貼られていあった真田丸ポスター

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真田丸顕彰碑や心眼寺から北へ坂を下った角に「どんどろ大師 善福寺」があります。ここには、大坂の陣の戦死者を弔うべく建てられた鏡如庵大師堂がありましたが明治初期に廃絶。その後、系列の善福寺が移転してきました。

↓「どんどろ大師 善福寺」正門

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通称の「どんどろ大師」は、江戸時代に大坂城代だった土井大炊頭利位が、ここで祀られていた弘法大師を深く信仰し参拝を欠かさなかったことから「土井殿の大師さん」と呼ばれ、それがなまって「どんどろ大師」となったと伝わります。

↓どんどろ大師の本堂

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↓本堂の横にある勝軍地蔵尊

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真田丸跡地としては、もうひとつ有力な候補地があります。それが三光神社で、次回、紹介します。



<たびねす記事もよろしく>
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2017年 06月 24日 |

前回紹介しました「青刻昆布発祥の地」の碑のある越中公園の南側に「聖マリア大聖堂」があります。
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豊臣時代の細川屋敷のあった敷地すなわちガラシャの住んだ地に現代の司教座教会があるわけです。これは意図されたものではないようで、本当に不思議な縁を感じます。


キリスト教のカトリック玉造教会 であるとともに、カトリック大阪大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県)の司教座聖堂であることから、正式名を「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」といいます。

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ここは、1894年に建てられた聖アグネス聖堂を起源としますが戦災で焼失。その後、ザビエル来日400年記念に聖フランシスコ・ザビエル聖堂として再建され、さらに1963年に青銅板葺きの大伽藍として改築され現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」となったものです。


大聖堂内部にはイエス・キリストと聖母マリアの生涯を描いたステンドグラスと細川ガラシャの壁画。さらに小聖堂にはフランシスコ・ザビエルを描いた日本的なステンドグラスがあります。いずれも見事なものなので、余裕があれば見学してください。

↓小聖堂のステンドグラス(フランシスコ・ザビエルが描かれています)

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↓大聖堂紹介看板
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↓大聖堂前の広場には、ファティマのマリアがあります。
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↑ファティマとはポルトガルの小さな村で、1917年に三人の羊飼いの子ども達の前に聖母マリアが出現しました。カトリックが公式に承認した奇跡とされています。その情景を再現したのが、この大聖堂前の大理石群像です。


↓聖マリア大聖堂外側正面の右には、大きな細川ガラシャ像があります。カトリック信徒の彫刻家である阿部政義の制作です。

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↓細川ガラシャの画

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細川ガラシャは日本を代表するキリスト教の女性信徒であり、すぐ近くの細川屋敷で壮絶な死をとげました。

ガラシャ夫人の死を知った司祭オルガンティーノは、女性信徒に命じて焼け跡からガラシャの骨を拾わせ、堺のキリシタン墓地に葬りました。細川忠興も妻の死を悲しみ一周忌を兼ねて行われたキリスト教会葬に参列し涙にくれたそうです。


オルガンティーノは、当時京大阪などを所管するカトリックの司祭で、京都に南蛮寺(聖母マリア被昇天教会)、安土にセミナリヨ(神学校)、本能寺の変後は高槻にセミナリヨを建てました。人柄の優れた人物で「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と日本人から慕われました。伴天連追放令が出ても、非公式に宣教活動を続け、天正遣欧少年使節の帰国時に使節と共に秀吉に拝謁し、再び京都在住を許されました。高山右近を指導し、細川ガラシャに対しては女性信徒を細川屋敷に使わし受洗させました。日本人より西欧人のほうが野蛮だと評価し、日本を愛し日本に生涯を捧げ、1609年に長崎で病没しました。


細川ガラシャの生涯について詳しくは、こちら
ガラシャの供養塔は京都大徳寺の高桐院にあり、大阪の細川家菩提寺である崇禅寺には墓があります。さらに、熊本市の出水神社では祭神の一人として祀られています。
ガラシャの画としては、イスラエルの受胎告知教会にある、長谷川ルカ画伯が描いた『華の聖母子』というモザイク画が有名ですが、それについては【たびねす】受胎告知教会も!イエスの育ったナザレの町を歩こうという記事をご覧ください。



↓大聖堂外側正面の左には、キリシタン大名の高山右近像があります。ガラシャ像と同じく阿部政義の手になります。

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↑高山右近は、三好長慶没後の摂津の混乱の中、下剋上でのしあがった戦国大名の一人で摂津・高槻城主でした。
また、優れた人徳者として知られる敬虔なキリスト教徒でもありました。洗礼名のユストは「正義の人」を意味します。

織田信長や豊臣秀吉につかえ、右近の人柄に惹かれた黒田官兵衛・小西行長・牧村利貞・蒲生氏郷などの戦国大名を受洗させました。高槻では領民に慕われ七割の人がキリスト教徒となったそうです。

細川忠興・前田利家などは洗礼を受けなかったものの、右近の人柄に惹かれ、キリシタンに対して好意的で、細川忠興の妻:細川ガラシャは忠興から右近の噂を聞きキリシタンになりました。

しかし、秀吉の伴天連追放令により、右近は信仰を守るために領地を捨て、小西行長や前田利家の庇護を受けました。さらに、徳川家康のキリシタン国外追放令により、マニラに送られ現地で亡くなりました。右近像は高槻とマニラにもあります。

後世になりますが右近は、ローマ教皇庁により「福者」に認定され、2017年に大阪城ホールで列福式が挙行されました。


↓高山右近の像を詠んだ阿波野青畝の句碑

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「天の虹仰ぎて右近ここにあり」

阿波野青畝は「ホトトギス」同人の俳人でキリスト教徒です。

↓高山右近の紹介看板

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↓品の良い聖母子像

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この近辺から南へ下ると、イエズス修道女会をはじめ城星学園、大阪女学院、大阪クリスチャンセンター、大阪明星学園などキリスト教に関連する施設や学校がたくさんあります。不思議な場所です。

↓城星学園看板

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↓大阪クリスチャンセンター

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↓近辺写真を合成してみました。

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↓道標

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細川屋敷跡や聖マリア大聖堂がある場所から南へ、下り坂になっています。これは、大坂城の南側の空堀のあった地域と考えられます。

もともと、大阪平野に突き出した一本の背骨のような丘陵が上町台地で、その先端に大坂城があります。その地形を利用した大坂城は、南部だけは丘陵地帯で城としての弱点となるので、空堀を造る必要がありました。その際に利用されたのが、自然の浸食谷で、現在の空堀町から空堀通りに続く低地です。

まさに、この堀の北側(城の内側)には細川屋敷跡があり、南側(城の外側)には真田丸があったわけです。ここを歩くと、地形と地名が語る歴史のロマンを感じます。



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2017年 06月 19日 |
旧・日生球場のあった現「もりのみやキューズモール」の西南側一帯は、豊臣秀吉の時代は、武家屋敷が並んでいました。

秀吉の時代の大坂城は、現在の四倍以上の広さがある非常に巨大な城で、惣構え(総構え)の内部には有力大名の武家屋敷も含まれていたのです。現在の大阪城南側にある細川屋敷跡から真田丸跡地などを訪ねると、その広さを実感できます。それが、今回の~細川屋敷跡から真田丸跡地を歩く~シリーズ記事の舞台です。


JR大阪環状線または地下鉄(中央線または長堀鶴見緑地線)の森ノ宮駅から、中央大通りを西へ歩き、ファミリーマートの角を左折し南へ下り100mくらいの所に細川越中守屋敷跡があります。越中井(えっちゅうい)とも呼ばれますが、これは屋敷の当主である細川忠興が越中守であったことから来ています。

石造りの井戸跡と地蔵堂、碑があり、細川屋敷の台所のあった場所と伝えられます。細川忠興の妻の細川ガラシャ最期の地として知られ、その死の際、火がつけられ井戸だけが焼け残ったそうです。

↓ガラシャ歌碑
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「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

この碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句があります。

細川ガラシャは、明智光秀の娘で名を玉(珠子)といい、美人の誉れ高い女性で、光秀の畏友:細川藤孝の子である細川忠興に嫁ぎました。しかし、光秀が本能寺の変をおこしたことから謀反人の娘として一時丹後山中に幽閉され、後に豊臣秀吉の取りなしにより、細川家の大坂屋敷に戻されました。こうした中で、夫:忠興の友人でキリシタン大名だった高山右近のことを聞いた玉はカトリックに興味を持ち、やがて入信し受洗。ガラシャはその洗礼名で賜物(恩寵)を意味し、本名の玉に通じることから名づけられたものです。

関ヶ原の戦いの直前、決起した石田光成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、家臣に命じ胸を貫かせて死にました。キリスト教では自殺は禁じられているからです。

ガラシャの死は、徳川方の大名に大きな衝撃を与え、関ヶ原の戦いにおける東軍の結束を固める一つの要因となりました。後に細川氏は、肥後熊本藩主となり明治維新に至ります。この碑は、その熊本出身の縁から徳富蘇峰が揮毫したものなので、非常に力強い文字になっています。


この越中井のあたりは周囲にマンションが建ち背景が昔風の情緒がありません。説明看板も古ぼけて忘れられた感があったのですが、大河ドラマ真田丸の放送決定を機会に説明看板も新しくなり、雰囲気が少し良くなりました。

↓古い越中井付近
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↓新しい越中井付近
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↓古い説明看板
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↓新しい説明看板
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↓当時の大坂城惣構え内部の武家屋敷をいくつか現在の地に重ねてみました。あくまで私がフリーハンドで描いたもので正確な図ではなく、イメージ的なものとお考え下さい。
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↑ピンクの字が現在のもので、青地が秀吉時代のもの

細川とは細川忠興、宇喜多とは宇喜多秀家、小出とは小出吉政、前田とは前田利長で、いずれも当時の秀吉に近い大名です。

これを見ると、細川屋敷は、現・越中井から現・聖マリア大聖堂にかけてのかなり広い敷地だったことが分かります。



細川ガラシャの長男:細川忠隆の嫁:千世も当時、細川屋敷にいましたが、千世はガラシャのように自害せず、近所の実家である前田利長の屋敷に逃れました。ちなみに千世は、前田利家の七女で、利家とまつ から末娘なので非常に可愛がられた人。

この逃れた経路を上図で推測すると、細川屋敷の西門を出て南へ下り、小出屋敷の前を通って前田屋敷に逃げ込んだようです。宇喜多家は光成派なので、それを避けて小出屋敷の南西側の角を曲がって前田屋敷へ至ったかもしれません。細川家史によれば小出吉政の使者が細川忠興に「当方の屋敷の前をお通り、前田殿屋敷へ御入り候」と報告したとあります。

徳川家にとって有力外様大名同志である前田・細川の姻戚関係は好ましくないことと、ガラシャを失った細川忠興の怒りにより、細川忠隆は千世との離縁を命じられます。しかし、忠隆はこれを拒否し、父:忠興により廃嫡されます。忠隆は剃髪し、千世と子を伴い京都で蟄居し、生活は祖父:細川幽斎が支えました。幽斎の死後、千世は加賀の前田家に帰りました。25年後に、忠興と忠隆は和解しますが、忠隆は京都に留まり続け都の文化サロンの長老的存在となりました。

明智光秀から娘:ガラシャさらにその息子:忠隆に至る、なんとも複雑な人生ですね。(余談ですが、ガラシャの血は、後世の熊本藩の細川家はもちろんのこと、忠隆と千世の子:徳姫を経て、現在の皇室にも繋がっているそうです)


越中井の付近は、近年まで「越中町」とされていました。住居表示施行に伴って、地名が変更されてしまいましたが、その歴史を示す「旧町名継承碑」があります。

↓旧町名継承碑
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↑地元の人たちの、越中守忠興とガラシャ夫妻への思い入れが感じられる史碑といえるでしょう。


↓越中井の南にある越中公園
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↓「青刻昆布発祥の地」の碑のアップ
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越中井の南すぐの越中公園の道路沿いに「青刻昆布発祥の地」の碑があります。 この碑は、2001年に大阪昆布商工同業会が設立100周年を記念し建立したものです。

刻み昆布は、昆布加工食品の原点で、煮た昆布を細かく刻んでから乾燥したもの。この近辺で製造されはじめ、煮物として愛用されました。やがて、とろろ昆布や塩昆布など、大阪の食文化を象徴する高級な細工昆布の隆盛を迎えます。昆布は関西のダシ文化にも欠かせないものとなりました。

北前船が米や酒を北海道に運び、帰りは昆布を買い付けて帰ってくることで、昆布加工産業が発展したわけです。伝説によれば、大坂城を築く際に、巨大な石を運ぶため、昆布を石を滑らせる潤滑剤として大量に使ったことから、この近辺の昆布需要が高まり、それをきっかけに大阪人は昆布に親しむようになったそうです。


↓越中井の側にある謎の石像
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細川ガラシャについて、以前、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事に関連して、こちら  で詳しく書きました。

ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については こちら

ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については次回の記事で書きます。大阪の細川家菩提寺である崇禅寺にあるガラシャ墓については、取材済みなので、今後、機会を見て記事を書く予定にしています。



<追記> 前回の記事で「石山碕とニギハヤヒ」についてのご質問がありましたので、前回記事の下に More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。


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2017年 06月 14日 |
「たびねす」に、私の 「細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く」 と 「真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!」 の2本の記事が掲載されました。
これは連続して読めるコラボ記事として書いたもので、~地形と地名が語る歴史ロマン~ という切り口で、大阪城南部の細川屋敷跡から真田丸跡地へかけて歩くコースになっています。いわば大阪アースダイバーあるいはブラタモリ的大阪地形探索ともなっていますので、2記事を、ぜひ併せてご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(47)細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く
http://guide.travel.co.jp/article/26914/


(48)真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!
http://guide.travel.co.jp/article/26990/








ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、大阪城南部の歴史地区について、私見を交えながら、より詳しく紹介します。
今日はその話のプロローグで、大阪の背骨たる上町台地の地勢的特徴です。



大阪城は、大阪を南から北へ貫いてのびる上町台地の北端にあり、大阪の成り立ちを象徴する場所です。

↓現在の大阪城(江戸時代以前は大坂城)
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この大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にある聖地でした。石山碕と呼ばれたと古い文献にあります(饒速日命=ニギハヤヒの降臨の地ともされる)。

↓夜の大川端から大阪城を撮影して、現代の余計な建物を削除加工してみました。古い時代の聖地:石山碕を海から眺めた情景が浮かんで来るように思えます。
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その後、古墳時代以降になると、少しずつ海が後退していき、周囲の低く平らな大阪平野を見下ろす最も神聖な高台として、国土の神霊を祀る神社が鎮座し生國魂神社となりました。

さらに下って、ここは聖地であるともに要害の地でもあることから、石山本願寺が拠って立ち織田信長に抵抗しました。豊臣秀吉の時代には、生國魂神社は南へ移され、大坂城が築かれます。秀吉は城下に武家屋敷を配し、堺などから商人を集め、大阪を大都市化させたのです。

↓縄文時代の大阪の地形に、後の主要スポットを加えた地図
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↑これを見ると、上町台地の西端側に、聖地あるいはパワースポットが、南北に多く並んでいることが分かります。(例外的に見える四天王寺は移転されたもので、創建当時は現・難波宮跡地にあったとする説が有力)

これは、西の大阪湾という海に面して、神聖な宗教地域性とともに外に向かって王権を輝かせるという意味もあったと思われます。仁徳天皇陵などは海から見られる大王の超巨大墳墓として造営されたのです。

↓仁徳天皇陵
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中沢新一氏は、名著『大阪アースダイバー』の中で、この難波宮から南に伸びる難波大道、さらに南に位置する百舌鳥の大古墳群につながる南北のラインを、大阪を貫く第一の軸として、「アポロン軸」と呼び、王の絶大な権力を現すものと書いています。

私も、この中沢説について、個々の展開には強引な面が多くて異論があるものの、大筋は賛成です。私的には、泉北台地から上町台地にかけての地形は「大阪の背骨」だと考えており、大阪という都市の成り立ちそのものに深く関係し、古代からの歴史を背中に残す重要な場所であると思います。


大阪は全般的には堆積平野と埋立地で坂は少ないのですが、この上町台地だけは大阪の背骨として多くの坂があります。もともと大坂(現・大阪)という地名の由来は、上町台地北端の坂のある地域を「大坂」(小坂・尾坂説もあり)と呼んだことにあります。

上町台地西側は急傾斜で、聖地に関連した名所の坂が多く、天王寺七坂と言われ、古くからの歴史を感じさせます。

↓天王寺七坂のひとつ真言坂(真言坂は生國魂神社と生玉十坊に関連)
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↓天王寺七坂のひとつ愛染坂の説明看板(愛染坂は愛染堂と大江神社に関連)
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↓愛染堂に隣接する大江神社の説明看板より(生國魂神社から四天王寺にかけての一帯を夕陽ケ丘という)
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なお、上の地図で注意すべきは大和川です。この川は、奈良から生駒山地と葛城山地の間を抜け、北流して河内湾(河内湖)に注いで土砂を堆積していました。現在のように西流して大阪湾に注ぐようになったのは、江戸時代に、上町台地と泉北台地の間のやや低い場所を掘削し、大和川の付け替え工事が行われたからです。結果、現在の大阪市と堺市の境界をなす川となったのですが、これによって形状記憶都市:大阪のアポロン軸が分断されたとも言えます。

↓大和川中流域
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大坂城を築いた秀吉も、王権を輝かせる場所として、上町台地の突端を選びました。地勢的・軍事的に要害であったことが最大の理由ですが、縄文時代より大坂の最大の聖地の場所でもありました。そのため、生國魂神社を南へ丁重に遷座させたのです。

↓現在の生國魂神社
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大坂城は、西~北~東側が低地でしたが、南側は上町台地が続いているため、軍事的には攻めやすい弱点となります。そこで、南側に主な武家屋敷街を並べ、その南に天然の浸食谷を利用して空壕を掘り防備を固めたのです。

この武家屋敷街を含んだ大坂城の惣構え(総構え)は巨大で、現在の大阪城の4倍以上あったとされます。


惣構えが巨大となり、古い大坂の商業地だった旧石山本願寺内・渡辺津・旧玉造といったところが、大坂城内に取り込まれたため、そこにいた商人の移転地として、西側の低地が開発されます。さらに、堺から有力商工業者たちを移転させてきます(堺筋に名を残す)。
これが、船場という大商業地の発祥です。

やがて水運に恵まれた船場は各地の物産が集まる日本の経済センターとして発展し、天下の台所:大坂として大都市化していきます。

さらに、江戸時代に大坂は、近松門左衛門や井原西鶴、上田秋成などに代表される町人文化が栄えました。 文化の面でも、江戸と並ぶ中心地となりました。

明治以降、その経済的・文化的地位は低下していきますが、商人の町としての気質は引き継がれていきます。


言葉の面では、商人を中心として、争いや暴力を嫌い、平和を愛する町では、強い言葉ではなく、柔らかい言いまわしが好まれたのです。そうした土壌の中、大阪弁も変化しながら、その持ち味を残してきました。

大阪弁の代表格とされた船場言葉は、もともとは豊臣秀吉の時代に堺から強制移住させられた商人が多かったので、商人の自治都市:堺の言葉が基盤でした。そこに、江戸期になると、平和な商いに役立つ、丁寧かつ上品な京言葉の表現が取り入れられ、まろやかな語感の、はんなりとした大阪弁が発達したのです。


平成の現在、もはや往事の船場の雰囲気は無く、上品な大阪弁の文化は失われつつあり、船場センタービルの上には高速道路が走り、その船場センタービル自体も閉鎖されようとしています・・・

↓現在の船場のワンショット
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<追記> 2017.6.17 石山碕とニギハヤヒについて、ご質問がありましたので、以下の More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

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More ニギハヤヒの謎
2017年 06月 09日 |
オビドスの最終回です。

メインストリートのディレイタ通りの突き当りにはオビドス城があります。石壁がひときわ大きくそびえ、強固な城塞のようで、ポルトガルの七不思議のひとつとされています。
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↓こちらは柔らかく仕上げてみました。
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オビドス城は、現在は、歴史的建造物を利用した国営のホテルである「ポサーダ カステロ デ オビドス(Pousada Castelo de Obidos)」になっています。
ポサーダ は、格式を誇るホテルで非常に人気があります。古城ホテルの一種というべきものですが、内部は綺麗に改装されており、快適に宿泊できます。

↓入り口付近
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このホテルに宿泊すると、オビドスを囲む城壁へ上るプライベートなアプローチを利用できるそうです。とても美しい景色を独り占めできるのです。このホテルは部屋数が少ないのが難点で、私も予約が取れずここには宿泊できませんでしたが、機会があればぜひ宿泊してみてください。きっと、ホテルからの城壁ルートや夕刻から夜にかけてのオビドス街歩きなど、一味違うオビドスを体験できるでしょう。

↓ポサーダ中庭への入り口
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↓中庭を撮影させてもらいました。周囲を城壁に取り囲まれていますが、中庭は石畳が敷き詰められ、白いホテル建屋が落ち着いて上品な雰囲気を醸し出しています。
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オビドス旧市街を囲む城壁へは、何箇所か上り口があり、素敵な景色を楽しむことができます。おすすめは、オビドス城手前から西側城壁に上り、南へ歩き、最初に紹介した城門(ポルタ・ダ・ヴィラ)に至る、半周コース。オビドス城壁は西側が高いので、このコースは見晴らしが良いのです。

↓ただし、城壁は片側が切れ落ちており怖いです。その雰囲気が分かるように、城壁を歩く人を撮影してみました。
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↓以下8枚、城壁の上を歩いて撮影した写真を、一気にお見せします。
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↑オビドスの城壁の内側が旧市街

以上のように、城壁の上を歩けば、スリル満点で素敵な景観も満喫できます。城壁上ルートは一応の道幅はあり、外側には石壁があるのですが、内側は手すりもなく切れ落ちており危険です。かつて観光客の落下事故もあったそうですから、城壁の上をめぐる際は、細心の注意をはらい、用心深く歩いてください。

何より、逆方向から歩いてきた人とのすれ違いが恐怖でした(汗)

↓城壁の穴から見た外側の景色です。田園風景が広がっていました。
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↓城壁の上から見下ろした、外の駐車場と水道橋です。
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2017年 06月 04日 |
今日はオビドスの素敵な教会を二ケ所紹介します。

↓サンタマリア教会
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オビドスのメインストリートであるディレイタ通りをオビドス城へ上っていく途中、右側に大きな広場(サンタマリア広場)があります。その中央正面の美しい白い教会がサンタマリア教会です。ここは村の中心の教会という感じで、外観はシンプルで清楚。内部も必見です。

↓門を入ると、すぐにアズレージョ(青タイル)が出迎えてくれます。
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↓教会内部は元がロマネスク様式ですので暗いのですが、アズレージョが多く明るく感じます。
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この教会は12世紀にロマネスク様式で創建され、何度か立て直されました。ポルトガル国王(アフォンソ5世)が1448年に結婚式をあげた教会としても有名です。王や王妃も若かったそうですから、この可愛い教会に似合っていたことでしょう。

↓祭壇
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祭壇を取り囲むアズレージョが見事。

↓壁も見事なアズレージョに埋め尽くされています。まさに、いかにもポルトガルらしい教会といえるでしょう。
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青いタイルは暗い教会内を明るくしてくれます。
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アズレージョは、かつてイベリア半島を統治したイスラム教徒(ムーア人)が用いていた建物装飾の伝統を受け継いだもので、その源流はペルシアのタイル芸術にあります。

アズレージョという言葉は、アラビア語で「ホーローで覆われた素焼き」を意味します。まさにシルクロードの文化がユーラシア大陸の西の果てのポルトガルで花開いたのです。


↓天井にはフレスコ画が描かれています。
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↓サンタマリア教会の前には、ペロウリーニョという石の柱があります。これは、かつて罪人を晒した柱で、村の自治のシンボル的役割があったそうです。
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↓サンタマリア教会近くの家の壁にも素敵なアズレージョがありました。
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↓サン・ペドロ教会
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サン・ペドロ教会は、オビドス第二の教会です。12世紀に創建されたものですが、リスボン地震で崩壊し再建されました。最近外装の改修を終えたことから綺麗になっていました。


↓内部はサンタマリア教会とまた違った雰囲気で、全体にシンプルですが金泥細工の祭壇だけが派手です。
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↓その祭壇
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↓ここにも聖セバステイアヌスがありました。
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さらに、もうひとつ教会にも入ったのですが、そこは現在は教会ではなく本屋さんになっていました。


オビドスの教会は、いずれも小さな町の素敵な教会という感じで好感が持てました。それぞれアズレージョと金泥細工というポルトガルらしい特徴があり、興味深かったです。



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