模糊の旅人
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2016年 09月 28日 |
湯原温泉には偉大な歌人・与謝野晶子関連の歌碑が二か所あります。夫の鉄幹が少年期を岡山で過ごしたことから、与謝野鉄幹、晶子夫妻は、しばしば岡山県を訪れました。夫妻はこのあたりがお気に入りだったようです。

↓砂湯の近くにある与謝野晶子の単独の歌碑
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  かじか鳴き夕月映りいくたりが岩湯にあるもみな高田川   晶子

高田川(現在の旭川)の清流に月影が揺れ、かじかが鳴く様を情緒たっぷりに詠んでいますね。

現在も清流は美しく、かじかの鳴き声も健在です。なお、かじか蛙は、湯原温泉一帯が特別繁殖地で、春から夏にかけてコロコロと涼やかな声を響かせます。

↓晶子歌碑の説明石碑
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↓湯原温泉の中心地の写真スポットでもある鼓橋(つづみばし)のたもとにある与謝野夫妻の歌碑
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  鼓橋をわがのる乗合自動車(くるま)渡りゆけば礼する娘ありいで湯の街に  寛

  鼓橋湯山の橋を渡るなり奥美作の夏の夕ぐれ  晶子

寛(鉄幹)の歌は乗合自動車に礼をする人を詠んでおり、晶子の歌は奥美作の夕刻に橋を渡る情景をさらりと詠んでいます。


こうして、温泉街を散策しながら、湯原の美しさを象徴する歌碑を訪ねると、しみじみとした気分になります。まさに文学散歩です。

↓鼓橋
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↓鼓橋の歌碑近くにある足湯・手湯
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↓「おふくの方」像の横にある歌碑
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↑ 大悟せる人の如しも水底に川椒魚の動かざりける  木畑貞清


↓湯原温泉薬師堂(失くしたものが帰ってくるお薬師様として信仰を集めています)
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↓薬師堂横の薬湯(効用があるそうです)
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↓田舎風情の食堂・・・昭和レトロっぽくて思わずパチリ
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温泉街の南、湯原大橋を渡った先に、「真庭市役所湯原振興局」があります。この建物は元・湯原町役場であった古い木造庁舎でとても雰囲気があります。誰も注目していませんが、私は興味深く感じて、いろいろな角度から撮影させてもらいました。

↓真庭市役所湯原振興局
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↓中央上部をアップで撮影
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↓今日の最後の自然ショットはトンボ(多分、ニホンカワトンボ)です。旭川に面した緑の中を飛んでいました。
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2016年 09月 25日 |
湯原温泉街を散策していると、菊之湯の前に、おふくの方湯治邸跡があり、印象的な像が立っていました。

おふくの方は、湯原温泉の母ともいうべき存在ですので、少し詳しく書いてみます。(たびねす記事では字数制限があって思うように書けなくてストレスが溜まったので、子・宇喜多秀家のことを含めて、今日はブログでちょっと長めに文章を展開してみます)

↓おふくの方の像
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おふくの方は、才色兼備の女性で、その波乱に満ちた生涯から、戦国のクレオパトラというべき存在です。
幼名は「お鮮」といい、後に秀吉の側室になった際に「おふく」と改名したとする説もあります。

美作に生まれ、類まれなる美貌で三国一の美女と言われました。「美作美人」という言葉が生まれる元になったそうです。


評判の美人だったことから美作の殿様:高田城主・三浦貞勝に嫁ぎ一子をもうけましたが、高田城は備中松山の三村家親に攻められ落城し、夫の貞勝は自害しました。おふくは子・桃寿丸とともに備前に逃れ、戦国乱世の梟雄・宇喜多直家に見初められ妻となります。

宇喜多直家は、おふくの機嫌を得ようと亡夫・三浦貞勝の仇である三村家親を暗殺します。

直家はさらに、近隣の豪族を次々と謀略で倒し、備前・美作を領有する戦国大名になります。

宇喜多直家は、浪人から下剋上でのしあがった権謀術策を駆使する風雲児とされますが、大きな合戦なしに策略や奸計で国盗りを達成したわけですから、ある意味、非凡な才能を有していたと言えるでしょう。また、おふくにはベタ惚れして一筋に愛し浮気もしなかったそうです。
おふくと直家は、大変仲の良い夫婦として岡山城に君臨し、二人の間には女子(後の吉川広家の妻)と男子(後の宇喜多秀家)が生まれます。

しかし、時は戦国末期、備前・美作は、東西有力勢力の中間に位置し、困難な対応を余儀なくされます。
西の毛利、東の織田の勢力が迫り、とうとう、直家は子の秀家を人質として差し出し織田方についた後に、病死します。

(余談ですが、戦国乱世の三梟雄とは、斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家です)

↓現在の岡山城
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おふくは未亡人となり「岡山城の女城主」と呼ばれましたが、羽柴秀吉に接近し、その側室となることでわが子・宇喜多秀家の将来を託します。

このあたりの詳細は諸説あり、宇喜多直家が死の直前、秀吉に、おふくの面倒を見てやってくれと頼んだという説があります。おふくの側から秀吉に近づいたとする説も有力です。宇喜多家の安泰を図ろうとする策であったのかも知れません。
また、秀吉が黒田官兵衛の仲介で評判の美女「おふくの方」を手に入れ、そのかわり、おふくの子に「秀」の字を与えて秀家と命名し元服させ、養子にしたという逸話があります。
いずれにせよ、おふくが才たけた美人であったこと、毛利に対抗したい秀吉との思惑が一致したことは間違いありません。本能寺の変直後・中国の大返しの際にも、秀吉は岡山城にわざわざ一泊しています。まさに、シーザーあるいはアントニウスとクレオパトラの関係に似た話ですね。


↓宇喜多秀家像(岡山城蔵)
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おふくの願いを聞いて、秀吉は宇喜多秀家を養子として重用します。母の血を引いて利発な美少年だった秀家を、秀吉は大いに気に入り、出自は外様にもかかわらず秀吉の一門衆並みに扱います。

秀家も期待に応えて才能を発揮し、やがて秀吉が大切にした養女豪姫(前田利家の娘で洗礼名マリア)を娶り、57万石を安堵され大大名となります。さらに、文禄の役では大将として出陣し、ついには秀吉晩年の五大老の一人にまで出世します。

ちなみに、五大老とは、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元です。秀吉は、朝鮮出兵が成功すれば、宇喜多秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていました。

どうやら、秀吉が養子とした男子の中では、宇喜多秀家が最も優秀だったようです。(秀次・秀勝・小早川秀秋らは凡庸でした)

秀吉の死後、秀家は、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の主力として中央に位置し、福島正則軍と正面衝突し善戦します。しかし、小早川秀秋の裏切りにより敗れます。敗戦後は薩摩まで落ち延びますが、ついには八丈島に流されて、おふくと二度と会えなかったとのことです。


おふくの方の晩年について詳しくは分かりませんが、現存する自筆書状が1600年以降のものだとされています。
また、岡山城下に「おふくの方(お鮮さま)」の墓と伝えられる供養塔が残されており、「お鮮さまのお墓を見れば、さても立派なお墓でござる」と手毬歌が伝わっていることから、法鮮尼と呼ばれ岡山の寺で穏やかに過ごしたと思われます。院号は円融院。

↓岡山市にある「おふくの方」の供養塔(五輪塔)・・・岡山市の重要文化財です。
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後日談ですが、宇喜多秀家は長寿で、流刑地・八丈島で84歳まで生きました。没年は明暦元年(1655年)で、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の御世でした。結局、宇喜多秀家は、関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物となりました。。。。



宇喜多秀家が豊臣秀吉政権下で岡山城主であった当時、病を得た母おふくのために、湯原に湯治場を開設しました。大きな湯屋のほかに寄宿10余棟を造営したと伝えられ、おふくの方は長期間、湯治療養したとのことです。これが、湯原温泉が本格的な大温泉地として利用された最初です。

湯原に湯治する原因となった「おふくの方」の病とは、最初の夫・三浦貞勝との間にもうけた子・三浦桃寿丸が伏見大地震で圧死してしまったショックによるものと伝えられます。(異説あり)
なお、おふくが次の夫・宇喜多直家との間にもうけた娘・容光院は、宇喜多秀家の実姉ですが、母の血を受け継いだ大変な美人で、毛利三家のひとつ吉川家当主・吉川広家の正妻となりました。容光院という名前からも容姿が光り輝いていたと想像されますね。

↓「おふくの方」の像のある菊之湯。現在は湯原国際観光ホテルとも称され湯原温泉の中心的存在です。まさに「おふくの方」の湯治場が継承された現在の姿ですね。
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全くの私見ですが、現在の岡山市の基礎を築いたのは宇喜多直家と秀家ですから「おふくの方」がいなければ岡山の繁栄は無かったと考えます。そういう意味では、おふくの方は、「湯原温泉の母」のみならず「岡山の母」と言えるのではないでしょうか。

『戦国のクレオパトラ』として「おふくの方」を主人公とした大河ドラマか映画でも作られませんかね・・・・直家や秀家の生涯を含めて波乱万丈でドラマチックだと思うのですがね・・・・



「おふくの方」の像の前に立って、戦国時代に自己の美貌と知略で生き抜いた女性の生涯を思い起こし、歴史のロマンにひたってみるのも一興です。

↓今日の最後の写真もユキノシタです。上記の菊之湯のすぐ側の山際に群生しています。おふくの方の時代から咲き続けてきたのでしょうか。
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<追記> 2016.9.26

「おふくの方」を主人公とした大河ドラマか映画でも作られませんかねと書いたところ、何人かの方からメールやコメントで情報をいただきました。以下に整理してみますので、連絡いただいた方々に、深く御礼を申し上げます。

(1)1988年にTBSの『愛に燃える戦国の女』という「おふくの方」を主人公にした3時間ドラマがあったそうです。おふく役は三田佳子さんが演じました。

(2)NHK大河ドラマでは、これまで脇役ですが「おふくの方」が登場しました。

    ひとつは、1996年の『秀吉』で、高瀬春奈さんが「おふく」として演じました。
    
    次は、2014年の『軍師官兵衛』で、笛木優子さんが「おせん」として演じました。この時の宇喜多直家役は陣内孝則さんで、二人の登場シーンは、こちら

(3)宇喜多秀家は、2016年NHK大河ドラマ『真田丸』で、高橋和也さんが演じました。


なお、「おふくの方」は、徳川家光の乳母で春日局と呼ばれた方と同じですかという質問もいただきました。
「おふく」は縁起が良いとして当時から多く用いられた女性の名前ですので、混同しやすいですが、宇喜多秀家の母の「おふくの方」と、徳川家光の乳母「おふく様」は全く違う人物です。
徳川家光の乳母のほうの「おふく様」は、明智光秀の重臣:斎藤利三の娘として生まれ、小早川秀秋の家臣:稲葉正成の妻で、後に徳川家光の乳母から大奥の公務を取り仕切る将軍様御局となり、「春日局」の名号を下賜された女性です。



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2016年 09月 22日 |
「たびねす」に、私の湯原温泉の記事が掲載されました。
砂湯以外の観光スポットに注目した記事ですので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(37)砂湯だけじゃない!岡山県「湯原温泉」で自然と文化の香りに癒されよう!
http://guide.travel.co.jp/article/21453/





拙ブログでも、たびねす記事とタイアップして今日から湯原温泉を紹介させていただきます。


岡山県の北部、美作の国の奥地に湯原温泉があります。

中国山脈の山懐に抱かれた旭川沿いに広がる名湯で、美作三湯のひとつとして親しまれてきました。近年では露天風呂番付で西の横綱に選定され、高速道路が近くを通るようになったにで、人気を集めています。

一番有名なのはダム下の砂湯ですが、それ以外にも、自然と文化の見どころが沢山ありますので、このブログでは四回にわたって紹介させていただきます。


↓湯原ダム・・・このダムの下に無料露天風呂「砂湯」があります。
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↓砂湯の入り口・・・男女混浴の露天風呂ですので、これ以上近づいて写真は撮れません。あしからず。
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↓露天風呂番付の看板・・・西の横綱が湯原になっていますね。
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↓砂湯入湯心得の看板・・・私もこの心得に従って入湯しました。
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↓砂湯付近に架かる「寄りそい橋」
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↓湯原温泉街の風景
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↓和風の旅館が良い雰囲気ですね。
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↓なかでも見事な油屋さんをアップで
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↓独楽の博物館
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↓温泉街が面した旭川の清流
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↓ユキノシタの花が咲いていました。
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さて、台風来襲でご心配をおかけしましたが、無事帰宅しました。
大分県~宮崎県方面を旅したのですが、前半は好天でしたのでいろいろ回りました。後半は風雨で、あまり回れず、一番の目的だった霧島・高千穂峰登山を断念せざるを得なかったのが残念でした。
湯原温泉記事の後は、この九州の旅の模様をアップする予定ですので、どうぞよろしくお願いします。


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2016年 09月 13日 |
巨大墳墓遺跡ナグシュ・ロスタムには、墳墓だけでなくレリーフもあります。

この王墓群を造ったアケメネス朝ペルシアは、紀元前331年、アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)の攻撃により滅亡しました。

アレクサンドロス大王はヨーロッパ人にとっては英雄ですが、ペルシア人にとっては破壊者以外の何者でもありません。聖都ペルセポリスを徹底的に破壊し財宝を略奪し人々を虐殺しました。さらに、ペルシア帝国の創始者キュロス2世墳墓をあばき宝物を持ち去りました。
ただし、ここナグシュ・ロスタムの墳墓群は、からっぽの穴があるだけなので、破壊を免れたのです。


こうしてアケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされてから約500年後のAC3世紀に、ササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシャ)帝国が勃興しました。
ササン朝ペルシアは、本来のペルシア(イラン高原のパールス地方)のゾロアスター教神官階級の出自でしたので、はるか昔の栄光のペルシア帝国の復興をめざしたのです。

そのササン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世は、オリエントの支配者として「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」という君主号を名乗り、このナグシュ・ロスタムに王権神授のレリーフを彫らせました。

↓王権神授のレリーフ(ササン朝ペルシア帝国誕生の場面)
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↑右側には、バルサム(聖枝)を左手に持ったゾロアスター教のアフラ・マズダ神がおり、左側にいるアルダシール1世に王のシンボルであるリボンのついたリングを渡しています。
また、アフラ・マズダ神が乗っている馬は悪神アフリマンを踏みつけており、アルデシール1世が乗っている馬はパルティアの王を踏みつけています。

アルダシール1世は、ゾロアスター教の神官階層からの出身で、ゾロアスター教を重要視し、ペルシア帝国の再興をめざしました。そのため、栄光のアケメネス朝最盛期4代のダフマ(ゾロアスター教的王墓)のあるこの磨崖に、レリーフを刻んだのです。

ペルセポリスやパサルガダエが破壊されていたので、ここナグシュ・ロスタムに刻むしかなかったのでしょう。
われわれ後世の見学者は、ここで、ササン朝ペルシア帝国誕生の瞬間を見ていることになるのです。


ゾロアスター教については、こちら。他の宗教への影響に関しては、こちら

↓同じく関連レリーフと周辺状況
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さらに重要なレリーフがあります。
それは、歴史の教科書に登場する有名なもので、紀元260年にペルシアがローマ皇帝を捕虜とした場面が描かれています。

↓ローマ皇帝を捕虜としたレリーフ
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↑右側の馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをしている左下の人物がローマ皇帝ヴァレリアヌスです。
そのヴァレリアヌス帝の横に立っているのもローマ皇帝のピリップス1世(フィリップス・アラブス)で、ペルシアに降伏しメソポタミアからアルメニアまでペルシアの版図としてしまった人物です。

このように、ペルシア帝国のシャープール1世は、ローマ帝国に対する優位を誇示し、これ以後、「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」(エーラーン=アーリア=イランと非イラン世界全ての王)称号を名乗ったのです。


ササン朝ペルシア帝国のアルダシール1世の後を継いだシャープール1世は、対外戦争や征服事業に従事し、強勢を誇り王権を盤石なものにしました。
ローマ帝国と何度も戦争をしましたが、ほぼペルシア優位に展開し、AC244年にはローマ皇帝のゴルディアヌス3世を敗死させたとされます。このペルシア側資料が、ここナグシュ・ロスタムにあり「ゴルディアヌスは殺され、その軍隊は壊滅した」と刻まれています。
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歴史的文書を多く残しているローマ帝国ですが、ヴァレリアヌス帝が捕虜になった件やゴルディアヌス3世が敗死した件については、暗黙に認めてはいるものの、ほとんど書かれていません。よほど屈辱的で、消し去りたい歴史だったのだと思います。(歴史はヨーロッパ側資料だけでは一方的で真実が見えません)

これに対して、ペルシア側には多くの証拠資料・遺跡が残っています。このナグシュ・ロスタムは、その最も有名な場所です。

ローマ帝国にとって、ゲルマンなどの蛮族はやっかいな侵入者であっても、組織された強国ではありませんでした。あくまで、ローマ帝国にとって、パルティア~ササン朝ペルシア帝国と続くイラン系の東方専制君主帝国が主要な大敵であり、軍事的には常に仮想敵国であり続けました。

ローマ皇帝ヴァレリアヌスがペルシアの捕虜になった時代は、軍人皇帝時代というローマ帝国の危機の時代でもありました。(3世紀の危機と呼ばれ、あやうくローマ帝国が滅びかけたのですが、そのあたりのローマとペルシアの関係について詳しくは下の More  ローマとペルシアの争い をご覧ください))

ディオクレティアヌス帝の登場により何とか危機を脱しますが、以降ローマ帝国はドミナートゥスという皇帝権力を強化した東方専制君主的な支配体制へと移行します。



現在のナグシュ・ロスタムは、高原土漠の中にある長閑な遺跡です。近くに人家もなく、茫漠たる大地の上に巨大な磨崖が静かに佇立しています・・・

↓少しだけ売店があり、観光客が集まっています。
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↓売店に並べられた商品。ペルシア意匠彫物やゾロアスター教関係のものが多かったです。
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↓くさび形文字で名前を書く商売をやっていました。簡易ジュース屋さんでもあります。
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↓最後に駐車場から、遺跡の全容を振り返って、ナグシュ・ロスタムをあとにしました。
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<お知らせ>

ようやく仕事が落ち着きましたので、旅行に出ることにします。国内旅行ですが、しばらく留守にしますので、ブログも休ませていただきます。
今回は、詳細は行き当たりばったりですが、主な目的地は決めています。多分、中程度の旅になりそうです・・・・

それでは、ほんのしばらく、皆さんごきげんよう!



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More ローマとペルシアの争い
2016年 09月 10日 |
久しぶりのペルシア記事です。
まだまだイラン関係の写真は沢山残っているのですが、思うように紹介できません。せめてメインのペルセポリスまでは年内に到達したいと思います。

私の場合、自ら撮影した写真を見れば、はっきりと記憶が蘇えります。それでも、その写真以外の周辺状況などは徐々に忘れていきます。そこで、できるだけ早めにアップしたいのですが、多忙なのと次々と新しい旅がやってくるので、仕方がありません。ただ写真を並べるだけではなく、ある程度の解説をつけて整理していきたいので、どうかご容赦ください。


今日は、一枚岩の崖に刻まれた巨大墳墓遺跡ナグシュ・ロスタム(ナギシェ・ロスタム)の前編です。

ナグシュ・ロスタムは、ペルセポリスの北6kmにある巨大な磨崖遺跡で世界遺産に指定されています。

↓土獏の真ん中に巨大な崖が見えてきました・・・・なるほどこれは権力誇示の墓の場所にふさわしいスケールの大きさです・・・
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ここは、BC6世紀からBC5世紀にかけて造られたアケメネス朝ペルシア(ハカーマニシュ朝ペルシャ)帝国盛期の王墓群です。

帝国の最盛期に君臨したダレイオス1世(ダーラヤワウ1世またはダリウス大王とも表現)をはじめ、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の四基の王墓が認められます。つまり、父-子-孫-曾孫と、ダレイオス1世から連続する四代の王の墓がここにあるわけです。

なお、ダレイオス2世の次代以降の王であるアルタクセルクセス2世、3世、ダレイオス3世の墓はペルセポリス山腹にあります。

↓近づいて王墓群を見ます。下に小さく写っている人間と比較してみてください。(この写真はクリックすると横1200ピクセルに拡大されますので、ぜひ大きくしてご覧ください
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迫力満点ですが、異様な存在感もあり、はるか紀元前の巨大帝国の権力誇示の装置でもあることが実感されます。

↓ダレイオス1世(大王)の墓
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↓少し離れた場所にあるクセルクセス1世の墓
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ダレイオス1世から四代続くここナグシュ・ロスタムの王墓は、いずれも巨大な磨崖に大きな十字形が彫り込まれ、その中心に穴がある形になっています。
これは、曝葬(鳥葬)の後、磨崖横穴に埋葬するゾロアスター教の葬制の最も巨大な形だと考えられます。
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以前紹介した、アケメネス朝ペルシア帝国の創立者キュロス2世の パサルガダエ墳墓 とは、まったく異なります。根本的に形式が違います。

これは、キュロス2世のパサルガダエ墳墓は先行するバビロニアなどのオリエント文明の影響を受けた墳墓形式なのですが、その時代はまだゾロアスター教が国教になっていなかったからです。

世界で初めてオリエント大世界を統一しペルシア帝国最盛期を現出したダレイオス1世によって、ゾロアスター教が国教のような形になり、王権が神授され権威づけが行われたのです。ダレイオス1世は、ゾロアスター教による巨大墳墓を造営し(さらにペルセポリスを建設し)て新たな歴史を作ろうとしたのです。


あくまで私見ですが、一神教的でシンプルなゾロアスター教は、帝国を統一する思想としては都合が良かったのだと思います。ダレイオス1世はキュロス2世の系統の王位を簒奪したとする有力学説もあるくらいですから、余計に自己の王権を神から授けられたものとして正当化する必要があったのでしょう。(後世の、ローマ帝国におけるキリスト教公認の状況を連想しますね)

↓墳墓の中心部分を望遠で拡大撮影。中心の穴は曝葬後の骨が入れられたようです。
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↓クセルクセス1世の墓の上部に刻まれたレリーフ。ゾロアスター教のシンボル「翼のある日輪のマーク」が見えますね。
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↓部分拡大
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この王墓群の前には、ゾロアスター教の神殿とされる石造りの遺跡もあります。
四角の建物で、シンプルな造形からゾロアスター教神殿らしく思われますが、諸説あり詳しいことは判明していません。

↓ゾロアスター教神殿とされる遺跡(ゾロアスターのカアバ en:Ka'ba-i Zartosht と呼ばれます)
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なお、ナグシュ・ロスタムは英雄の絵を意味します。ナグシュとは「模様、絵」のことであり、ロスタムとは『王書』(シャー・ナーメ)に出てくる伝説の英雄の名前です。



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2016年 09月 07日 |
海会寺跡古代史博物館シリーズの最終回です。

現在の海会寺跡は、遺跡公園になっていますが、その中央を占めているのが一岡神社(いちおかじんじゃ)です。この神社は、和泉国日根郡の由緒ある大社で、社伝によれば、崇峻天皇5年(592年)に厩戸皇子(聖徳太子)が海会寺を建立した際に、その鎮守の海営宮として造営されたとされます。

古くより地域の人々に「祇園さん」として親しまれてきた、古代史の謎がからんだ非常に興味深い由来の神社です。

↓一岡神社の拝殿
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主祭神は須佐之男命ですが、他にも数多くの神様が祀られています。

↓一岡神社の由来等の説明板
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説明板内容は次のとおりです。
「第二十九代欽明天皇の御代(西暦五三九年)悪疫日に増して激しく流行するに及び、時の長人一岡神社に平癒祈願をなきしめたる処、神徳顕著に現証され、その寄徳を仰ぎ、山城國に御分霊を斎して疫病除け祈願の神と定められたと云う。その後第三十三代推古天皇の御代(西暦五九二年)に、厩戸王子(聖徳太子)はこの地に七堂伽羅を建立、海営寺と称し一岡神社を海営宮と改め鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬され、又後の第四五代聖武天皇の御代(西暦七二四年)高僧行基は社の南に一大溜池を築造、海営宮池と名付け神社・寺共に修復されしが、第百六代正親町天皇の御代天正五年(西暦一五七七年)織田信長の兵火に罹り焼失、その後第百七代後陽成天皇の御代(西暦一五九六年)に村民氏子によって新築再建、その昔は正一位の神階を賜り境内三二三八坪、境内外実に六七六〇坪に及び、尚一五〇〇坪のお供田を有し日根郡内唯一の大社として栄え祇園さんとして親しまれ現在に至っております。」


↓市杵島姫神社(市杵島姫命と厩戸王子命が合祀されています)
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↓牛神神社(大己貴命)
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↓稲荷神社(宇迦之御魂命)
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最近は、一岡神社に合祀されている知恵の神様の丸い茅の輪くぐりが注目されています。いわゆるパワースポットとして、頭が良くなる願いをこめて、学業成就祈念の受験生などがお参りにくるようです。

↓知恵の神
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↓茅の輪くぐり
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現在、海会寺跡の金堂基壇の上には、半分覆いかぶさるように一岡神社があります。

↓一岡神社の奥本殿を裏から撮影・・・海会寺遺跡の上に建てられていることが分かります。
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海会寺跡の発掘による調査結果と年代的にも整合する可能性があり、海会寺と深く関連しているようです。海会寺は平安時代に火事で焼失し荒廃しましたが、熊野詣が盛んになると神社が崇敬を集めるようになり、やがて熊野九十九王子の厩戸王子社を合祀し、和泉国日根郡の大社となりました。さらに民間の祇園信仰も取り入れて神社は地域の氏神として継続されてきました。

海会寺跡の発掘によると、寺院の建てられたのは大化の改新(645年)の直後ですので、社伝の聖徳太子の時代より少し下ることになります。
おそらく、海会寺の鎮守の海営宮として建てられた神社が、海会寺の焼失後も生き残り、熊野詣の隆盛の時代を経て、海会寺敷地を神社境内に含んで維持され、古代に造られた大寺院の伝説を神社の社伝に取り込んだのではないでしょうか。


大きな寺を造るとき、神社を鎮守として併設するのは、古代から多くの例があります。

興福寺建立の際は春日大社を勧請して鎮守としたとされ、東大寺の大仏殿の建立の際は協力した宇佐八幡宮を勧請し手向山八幡宮を造営しました。
鞍馬寺の鎮守社は由岐神社です。比叡山や高野山を開山するする際にも神社を建立して地鎮と鎮守を祈願しています。

逆に寺院に併設された神社のほうが有名になったのが、金刀比羅宮(松尾寺)、豊川稲荷(妙厳寺)、最上稲荷(妙教寺)といったところです。



一岡神社は、海会寺の鎮守社として出発しましたが、海会寺が焼失した後も熊野詣と祇園信仰に関連する神社として発展し、境内に海会寺遺跡を保護する形で、現在に至ったようです。一岡神社のおかげで海会寺遺跡が残ったとも言えるわけで、長い歴史の鎮護の因縁を感じる話ですね。






<追記注釈> 祇園について  2016.9.8 ; 5:25  (御質問がありましたので簡単に説明します)

「祇園」とは、インドで釈迦が説法を行った場所すなわち祇園精舎から来ています。日本では、民間の習合神「牛頭天王」が祇園精舎の守護神とされ、八坂神社を中心に祇園信仰が広がりました。牛頭天王は、蘇民将来説話の武塔天神でもあり、本地は「スサノオ神」で、垂迹は「薬師如来」とされました。まさに仏教・神道のみならず民間信仰が混合した庶民の習合信仰の典型です。

もともとは、祇園祭りに見られるように、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰ですが、明治の神仏分離令により、神社で「祇園」「牛頭天王」のような仏教語を使用することが禁止されました。そのため、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となったのですが、この一岡神社も、正式名ではなく通称で「祇園さん」と呼ぶことで伝統を守ったと思われます。事実、8月1日に行われる一岡神社の夏祭りは、現在でも「祇園さん」として多くの人々でにぎわいます。

あくまで私見ですが、ここ一岡神社の牛神神社(4枚目写真)は、もともとは祇園信仰の牛頭天王社でもあったと考えます。大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)の荒魂が牛頭天王であると『先代旧事本紀』に書かれ強い関連性があるからです。




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2016年 09月 04日 |
特別展示室には軒丸瓦以外にも多数の出土品があります。

その中で特に興味深いのは、セン仏です。セン仏のセンは漢字で「塼」または「甎」と書き、仏像レリーフタイルとでもいうべき型押し焼成で作られた小型仏です。

↓三尊セン仏の破片を復元図にあてはめ展示したもの
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貴重な仏のレリーフである三尊セン仏は、小さいですが美麗なものです。この三尊セン仏は、明日香の橘寺で最初につくられたもので、各地の古代寺院では橘寺のセン仏を粘土で型取り「踏み返し」という技法で複製化してから焼成・彩色しました。海会寺の三尊セン仏もそのひとつで、五重塔の内壁面に貼る形で飾られていたと思われます。

↓三尊セン仏の拡大撮影
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その他の主な展示物も以下に紹介します。

↓独尊セン仏
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↓見事な陶器・・・これが大化の改新の時代にここで作られていたとは驚きました。
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↓寺という字が刻まれた陶片
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↓鴟尾(しび=屋根頂上の飾り)・・・飛鳥時代に大陸から伝えられたもので海会寺のものは日本で最初期の鴟尾のひとつです。
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↓相輪風鐸(相輪を飾ったベル)
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↓石でできた相輪の部品
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↓風鐸(軒先に吊るされたベル)と風鐸の舌(ベルの打棒)
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この展示室の説明パネル類も平易な文章で詳しく書かれており、とても好感が持てます。

こうして、撮影しながらゆっくり見学し、古代の寺院の実像を知ると、深い感慨が湧いてきました。律令国家のシンボルから信仰の対象となり、やがて歴史の彼方に忘れ去られた存在となった海会寺・・・滅びたからこそ蘇える古代歴史ロマンの世界が、ここにあります。

↓完成時の海会寺の想像図・・・古代を幻想してください・・・
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海会寺がつくられる直前におこった大化の改新は、天皇を中心とする中央集権国家をめざす政治的改革でした。孝徳天皇は新しい政治を行うため、飛鳥の地を離れ、難波(現・大阪市)に都を移します。そして、国家統治の根拠地として「畿内」の範囲を定め、政治基盤の強化をはかったのです。

海会寺は、まさにその当時の「畿内」の南西端にありました。畿内と紀伊国を結ぶ南海道の重要地点だったのです。ここに、当時の最新技術を駆使して、先端文化の象徴であった大きな仏教寺院がつくられたのです。さぞ壮大で他を圧する存在感を放っていたことでしょう。

↓当時の畿内の範囲と海会寺の位置・・・まさに畿内の南西端ですね。
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↑海会寺は、木国(後の紀伊国)の国府とは和泉山脈を挟んだ向かい側にあることが分かります。

当時、木国は南海道の先にある重要な地域でした。雨が多く森林の多い国ということで木国と命名されましたが、現在の和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であることから「紀の国」(紀伊国)となったそうです。
その木国に対する畿内側の出口として海会寺は鎮座しています。斉明天皇は、ここを通り南海道を経て、658年(斉明4年)に紀温湯(牟呂温湯=現在の南紀白浜温泉)に行幸し二ヶ月半も滞在しました。

なお、当時の南海道は、紀伊国や熊野国に行くだけではなく、加太港から淡路国を経て、阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国へ通じる重要ルートでした。当時の一級国道と言えるでしょう。
上図に示されているとおり、南海道は、紀伊国に入った後、西に折れ、海に面した賀田港(現・和歌山市加太)に達しています。



実際に海会寺をつくった人や、詳細な経緯は判明していません。おそらく、この泉南の地を支配し都中央と結つきの強かった豪族が建設したと推測されるだけです。まだまだ、多くの謎が残されており、今後の調査研究の成果が待たれるところです。



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2016年 09月 01日 |
古代史博物館の特別展示室には、発掘され重要文化財に指定されたもののうち優品約100点が、常設展示されています。すべてレプリカではなく、本物が展示されているところが素晴らしいです。

↓展示室に入ってすぐ右側の様子
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↓展示室に入って正面の様子
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古代史博物館の特別展示室で最も重要なものが、「吉備池廃寺式」軒丸瓦です。軒丸瓦とは、古代寺院の屋根下部の軒部分を飾る丸い瓦です。「お寺の顔」といってもいい装飾的な紋様が施されたもので、建築当時の年代・技術由来を実証できる貴重な資料となります。

↓最も初期の金堂の軒先を飾った軒丸瓦
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↓蓮の花がモチーフですね、
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↓単弁蓮華紋を正面から拡大撮影
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↓金堂の単弁蓮華紋軒丸瓦(左)と五重塔の複弁蓮華紋軒丸瓦(右)
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海会寺金堂に使われた軒丸瓦は蓮の花を様式化した単弁蓮華紋で、吉備池廃寺や四天王寺で使われた軒丸瓦と同范関係すなわち同じ木型で作られた瓦なのです。

吉備池廃寺は、日本最初の勅願寺である百済大寺であるとされており、九重塔のある日本最大級の寺院であったようです。この百済大寺という、天皇によって建立された国家第一の寺の瓦と同じものが使われているということから、海会寺が当時の都中央権力ときわめて密接な関係があったことが分かります。

↓瓦の流れの説明
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↓単弁と複弁の比較展示を拡大撮影
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↓長い複弁蓮華紋軒丸瓦の全体が出土したもの
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↓軒丸瓦や平瓦等の出土品の展示
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↓古代史博物館の玄関横で栽培されている蓮ですが、花の中央部はボツボツの模様があり、確かに蓮華紋と似ていますね。
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<補足:8月の異常気象の記憶のために>

9月になりましたが、大阪ではまだ猛暑が続いています。三日前、台風の関係で久しぶりに雨が降り、少し温度が下がりましたが、またカンカン照りが戻り気温も高くなりました。少なくとも、あと一週間くらいは残暑が厳しいようです・・・

大阪の8月の猛暑日(最高気温35度以上)の日数は計23日となり、過去最多を更新しました。過去の最高記録は、2000年と2010年の20日でしたから、2000年以降に温暖化が一層進んで来ていることが分かります。
台風に関しても、8月に 6号、7号、9号、11号、10号が北海道に大きな被害を与えました。このうち、7号、9号、11号の3個がわずか6日間のうちに北海道へ上陸するという前例のない現象が起こりました。また、台風10号は、Uターンして戻ってくるというコースをたどり、観測史上初めて東北地方太平洋側に海から直接上陸するという異例ずくめの展開となりました。



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