模糊の旅人
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2016年 07月 26日 |
先日、友人のKF氏と、鎮守の森のアオバズクを撮影してきました。

大阪平野では、真夏は鳥枯れの季節なので、アオバズクは貴重な夏の野鳥です。

今年もまた見られるだろうか?と心配しましたが、雄雌のつがいは例年通り、やってきていました。

ただ、雛の姿は見られませんでした。
私たちと同じように撮影にきていたベテランの方に聞くと、少し前に雛が上から落ちて、保護されているとのことです。
もう一羽、雛がいるはずなのですが、落ちた事件で怖くなって、樹洞に戻ったか隠れてしまったそうです。

昨年は 雛が並んでいる写真が撮れた のですが、今年はちょっと残念でした。

いつもうまく行くとは限らないのが野生の生き物の撮影ですね。それでも、親鳥は撮れましたので、まあまあ良かったです。
以下、同じような写真を並べますが、ご覧ください。

↓まず雌のアオバズクを撮影。ちょっと遠いところにいるので、こちらを見てくれず、なかなか良い写真が撮れません・・・
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↓多分、この雌の近くに雛が隠れているのでしょうが、雛さんは出てきてくれませんでした。
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↓こんどは、少し離れた場所に陣取っている雄を撮影。
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↓こちらは、時々、目線をくれます(笑)
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↓片方の羽を広げた瞬間
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↓最後は、KFさんのカメラを借りて雄を撮影させてもらいました。(レンズは二人とも同じ EF 100-400mmL 2 です)
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↑KFさんのカメラは EOS 5D Mark3 という高級なカメラで三脚付きですので、私の 7D Mark2 手持ち撮影より綺麗に撮れたような気がしますが、どうでしょうか?


落ちた雛や隠れている雛が、無事育ってほしいものです。もし今夏の子育てがうまく行かなかったとしても、めげずに来年も励んでください。

アオバズクさん、これからも、なんとか世代を繋いで、鎮守の森に来てください。そして、下から観察させてください。
頑張れアオバズク夫妻!

小雨がぱらついてきたので撤収し、久しぶりに会ったKFさんと夕食へ。
カメラ談義や旅行談義に花を咲かせました。KFさんは登山家なのでいろいろ貴重な情報をいただきました。楽しい半日でした。




<夏休みのお知らせ>

暑いですね・・・あまりの酷暑で頭が回りませんので、昨夏と同じく都会を脱出することにします。そこで、同じお知らせ記事を書かせてもらいます。

ということで、しばらく信州へ山ごもりしてきます。
人の少ない隠れ家的な安い山小屋で、読書と執筆活動に専念してきます。インターネットにはアクセスせず、ブログもしばらく更新を休止させていただきます。
カメラは持っていきますが、あくまで気分転換用ということで、控え目に撮影するするつもりですが・・・(笑)

それでは、ほんのしばらく、皆さんごきげんよう!


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2016年 07月 23日 |
龍野城を後にして、美作方面へとクルマを走らせます。

国道179号線いわゆる出雲街道が、龍野から北西に美作を経て山陰方面へ通じています。
JR姫新線に沿って走る緑の多い快適な田舎道ですので、しばらくはこの179号線を行くことにします。

新宮交差点を左折してしばらくすると「道の駅しんぐう」というのがありましたので立ち寄ってみました。
トイレ休憩し土産物や地場野菜をざっと見学。

↓道の駅しんぐう
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↓道の駅にいたツバメさん。燕尾のフォルムが好印象です。
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やがて三日月・上月といった場所を通過します。上月城といえば山中鹿之助を思い出しますが、なかなか良いところですね。

このあたり兵庫県中部の山道をクルマで走っていると、途中で、いろいろな野鳥を見かけました。
大型のサギ類が見つけやすく、アオサギやアマサギが飛んでいるのを見ました。

その中で、注目すべき鳥を見ましたので、なんとか道路わきに空き地を見つけて駐車し、窓から望遠レンズを構えて一枚パチリ。
遠くだったので作品的には撮れませんでしたが、証拠写真はゲットできました。

↓撮影してから写真を拡大してみると間違いなくコウノトリです。等倍に拡大トリミングしています。
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兵庫県北部では豊岡で放鳥している関係でコウノトリは多いのですが、兵庫県中部でも見られるのですね。コウノトリは私の名刺写真にしている好きな鳥なので嬉しかったです。

↓緑多き山野
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やがて、佐用に出ましたので、ここからは山陽自動車道に乗り、西へ急ぎ美作国すなわち岡山県北部へと入ります。
岡山県北部には美作三湯と呼ばれる有名温泉地三か所がありますので、そのどこかに泊まりたいものです。露天風呂にゆっくり浸かってみたいな(笑)
ということで、山陽自動車道をしばらく走ると勝央サービスエリアに至りましたので、ここで休憩し宿泊先を決めることにします。

勝央SAで落ち着いて検討してみました。すでに美作三湯のうち湯郷温泉は通過してしまっているので、残るは奥津温泉か湯原温泉になります。どちらも名湯ですが、湯原温泉のほうが大きく宿も多いので飛び込み宿泊では安心です。
それから、時間がまだ余裕があるので、どこかもう一か所観光したいと思い、道路地図や勝央SAの観光マップで検討したところ、湯原温泉に行く途中に「神庭の滝」といういかにも深山幽谷らしきスポットがあること分かりました。

よし、神庭の滝~湯原温泉へ行くことに決定です!

↓中国山地の山間部の田園風景
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山陽自動車道を西へ走り、落合インターで高速を降り、再び出雲街道を走り、中国勝山で北へ折れ、神庭の滝に至りました。

「神庭の滝(かんばのたき)」は西日本随一の迫力を誇る滝とのことで期待が高まります。
ここは有名観光地のようですが、梅雨時の平日午後3時頃ということで、ほとんど観光客は居ませんでした。駐車場にクルマを止め整備された遊歩道を15分ほど登ります。(駐車料金無料、入山料300円)

↓季節柄でしょうか、水量が豊富な渓谷が目の前に広がります。
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↓この深山幽谷の雰囲気は素晴らしいなあ・・・まるで奥入瀬渓谷のようです。
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↓水滴がしたたり落ちる
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↓これは「玉垂の滝」と呼ばれているとのこと
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↓ひのきチップを含んだ舗装道の向こうに巨大な滝が見えてきました。神庭の滝です。
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↓近づくと橋(滝見橋)がかかっており滝と川の景観が見事です。
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↓良い滝ですね。
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神庭の滝は「日本の滝百選」にも選ばれた、高さ110m、幅20mの西日本最大級の名瀑だそうです。
この水系は、中国山地を南流し、岡山市を流れ瀬戸内海に注ぐ旭川の支流神庭川の源流地帯にあたります。
神庭の滝の付近は深い中国山地のど真ん中で、水量が豊富で迫力がありました。
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↓接近するとマイナスイオンいっぱいで滝の轟音も響き渡ります。
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↓ライトトーンで薄味で撮影してみます。
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↓トイフォトでアンダー気味に撮影してみます。
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↓柔らかめに撮影
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↓最後は右下の紫陽花にピントを合わせて滝をバックに撮影してみました。
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2016年 07月 20日 |
再び三木露風生家に戻ってきて、そのすぐ北にある龍野城を見学します。

↓これが龍野城の本丸御殿・・・ぱっと見、お城とは思えません。
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龍野城は、天守閣を持たず平屋の陣屋形式であることが特徴です。城の門や隅櫓は城郭的ですが、城壁内部の本丸御殿は城というより大きな屋敷という感じです。

↓本丸御殿の正面
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龍野城は、16世紀はじめに播磨の守護大名であった赤松政則の子の赤松村秀によって鶏籠山の上に築かれました。現在の本丸御殿の後ろにそびえる山の上にあったわけです。

その後、豊臣秀吉の勢力下となり、蜂須賀氏などが置かれましたが、江戸時代になって一度、破却されました。これは、徳川幕府の一国一城という定めによるものです。播磨の国は姫路城があるため、龍野城は改築されず無用とされたのです。

寛文12年(1672年)、信州飯田藩主であった脇坂安政が播磨龍野藩主(揖東・揖西・三木の三郡)として転封され、幕府の許可を得て再建されました。この際、天守閣はつくらず山麓にある陣屋形式の城となり霞城と呼ばれました。時代は太平の世で、幕府の政策もあり、城壁に囲まれた大きな邸宅といったもので十分だったのです。

当時、江戸においては、明暦の大火(1657年)で江戸城天守閣が焼失しましたが、4代将軍徳川家綱と保科正之の意により「天守は実用的な意味がない」として、再建しないことになりました。以来、江戸城は天守閣のない城になりました。いわんや、転封当時まだ外様大名だった脇坂安政の龍野城においておやですね。

脇坂氏は10代・200年にわたり龍野を治めましたが、明治維新の廃藩置県により龍野城は取り壊されました。現在の龍野城の建物は、昭和50年(1975年)から絵図に基づき順次再建されてきたもので、木造土壁造りで往時の姿を彷彿とさせるものです。

↓本丸玄関付近
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脇坂氏は本来は賤ヶ岳の七本槍として名をあげた外様大名ですが、(龍野に転封してきた)脇坂安政の出自が老中堀田正盛の次男で脇坂氏の養子となったことから、幕府に申請して譜代大名となった「願譜代」です。
その後、脇坂氏は徳川幕府の有力ブレーンとして寺社奉行・老中などを歴任し活躍しました。


↓屋敷的といってもさすが本丸御殿で、内部のつくりは本格的です。
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↓たくさんの部屋があります。(12室あり)
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↓中庭
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↓ここにも赤とんぼの歌がありました。
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↓中央付近の和室
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↓龍の襖絵「龍煌々志」がありました。
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↑この襖絵は、たつの市出身の画家:出口龍憲氏より昭和59年に制作・寄贈されたものだそうです。

↓上には槍がかざってありました。
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↓一番奥に上段の間というのがあり、金色に輝いていました。
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↓ちょっと派手目に写ったので、渋目に撮影してみました。
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↓控えの間にある説明看板
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この説明によると、金泥引・金砂子打の豪華な障壁画で、ヒガシマル醤油株式会社の寄贈とのことです。

脇坂の殿様はここで政務をとったのかと思わせる雰囲気ですね。

龍野城内部の印象は、政庁や藩主の住まいとしては、合理的な構造で、江戸幕府の有力ブレーンとして活躍した脇坂氏の英知を感じました。

↓お城の前の庭は公園となっています。
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↑お昼を過ぎていたので、私はここのベンチに座って、自作レーズンパンを食べて昼食としました。

↓お城を囲む打込ハギの石垣は城壁的です。ここを降りると埋門(うずみもん)です。
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↓復興整備された埋門は、現在の龍野城の正門です。
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↓ちいさな隅櫓で、背景が鶏籠山です。
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↑龍野城というとこの隅櫓が示されることがありますが、実際は古くは無かった建物のようで、私的には龍野城のイメージと少し違います。


山紫水明の龍野城を満喫して、龍野の町を後にしました。

播磨から、次は美作方面へ向かうことにします・・・


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2016年 07月 17日 |
武家屋敷資料館を出て、龍野の旧市街というか小さなメインストリートを東へ歩きます。
このあたりは、「うすくち龍野醤油資料館」「如来寺」「醤油蔵の煙突」など、古い龍野の情緒があふれる街並みが続き、落ち着いて散歩を楽しむことができました。

↓どの家もしっとりとした佇まいです。
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如来寺に三木露風の筆塚があるとのことで入ってみました。

↓如来寺正門。後方の山が鶏籠山(けいろうざん)で、赤松村秀が最初にこの山頂に龍野城を築きました。(龍野城については次回紹介予定)
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↓印象的な鐘楼です。
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↓三木露風の筆塚。昭和41年に三木露風愛用の筆を埋めて建立したとのことです。
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↓筆塚と歌碑の説明
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↓歌碑
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↓境内に沙羅の花が咲いていました。仏教の聖樹であるフタバガキ科の娑羅樹に、日本で擬せられるナツツバキです。無常の象徴とされます。
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如来寺については他にも写真をたくさん撮りましたが長くなるので省略し、行きつ戻りつ醤油の町:龍野を紹介します。
如来寺から少し西に戻ったところに、ヒガシマル醤油の旧本社や「うすくち龍野醤油資料館」があり、街並みも小京都風です。

↓ヒガシマル醤油の旧本社塀
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↓うすくち龍野醤油資料館のレトロな洋館風建物
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龍野は、淡口=「うすくち」醤油の発祥の地で、龍野藩主脇坂氏は醤油産業を保護し、江戸時代に京都の精進料理や懐石料理に用いられたことから関西風日本料理の調味料の王者となりました。もうひとつの龍野の名産である「揖保乃糸」手延べ素麺の調味料としても使われ、あいまって発展してきました。
明治時代以降は大きな産業となり、醤油醸造業は龍野の近代を支えたのです。

淡口醤油の代名詞と言える企業であるヒガシマル醤油は龍野醤油株式會社から発展したもので、現在でも本社は龍野にあります。
「うどんだし」でも関西人はヒガシマルを頻繁に使いますね・・・
私もヒガシマル醤油の愛用者ですので、とても親しみ深いです。

昔の醤油蔵の原料処理場には煙突が必要でした。現在は使用されていませんが、醤油蔵のシンボル的存在として煙突を残している蔵元も見られます。龍野にもいくつか保存されています。

↓醤油蔵の煙突
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↓現在も稼働中のカネヰ醤油の工場入り口。奥に煙突がそびえ、右側に直売所があります。
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龍野は親切な町で、とても好感が持てました。古ぼけた感は少しありますが、歴史文化の香りを色濃く残し、小さく品良くまとまっています。
観光スポットも景観を壊さないように配慮して整備されており、入場料も無料の所が多く、有料の場合も良心的な値段です。
龍野にお金を落としてこれからの発展に少しでも寄与したいと思ったのですが、声高に売り込むような土産売店もなく、落ち着いて散策できるものの何だか申し訳ない気がします。
そこで、私は上記のカネヰ醤油本店の直売所でオススメの醤油を一本買って帰りました。

↓この醤油です。
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うすくち龍野醤油資料館やカネヰ醤油工場も許可を得て少しだけ見学させてもらいました。ただし、内部の撮影は遠慮しました。
うすくち龍野醤油資料館では、一般的な醤油の原料(大豆・塩・小麦)に米(甘酒)を加えて淡口醤油を作るということをはじめて知りました。奥が深いですね。

↓カネヰ醤油工場の煙突だけは、その全容を真下から仰いで一枚だけ撮影させてもらいました。
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↓醤油もろみ自動販売機:これも龍野ならではですね。
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醤油を買った後は、三木露風生家のほうへ戻り、その北にある最後の観光スポット龍野城へ行くことにします。

↓龍野城へと歩く途中の街並み・・・なんだか奈良県の大宇陀に似ていますね。
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<追記> 2016.7.17. 22:35

醤油の歴史についてご質問がありましたので簡単に追記説明します。

龍野は、あくまで淡口(うすくち)醤油の発祥の地です。1666年(寛文6年)に龍野の円尾孫兵衛が、醤油もろみに甘酒を加えて色の薄い淡口醤油を発明しました。
うすくち醤油は、薄口ではなく淡口で、塩分が薄いわけではなく、色が薄く香りが控えめで料理素材の風味を引き出すことを特徴とする醤油です。

日本では、古くから「ひしお」という文献記述が見られ、動物性のものを中心に植物性の発酵食品も連綿と使われていたようです。
その後、味噌・醤油は、鎌倉時代に覚心(法燈国師)という僧が、留学先の宋の径山寺(きんざんじ)から味噌の作り方を紀伊国由良に伝え、その味噌作りの「溜まり汁」が煮物の味付けに適しているところから醤油が生み出されたのです。
やがてそれが紀州由良のすぐ近くの湯浅(現・和歌山県湯浅町)に伝わり本格的生産がはじまりました。これが、日本における、大豆の醤油生産業の起源です。

日本人の好みに合ったのか、大豆製の醤油はやがて調味料のメインとして江戸時代に日本全国を席巻し、日本料理の基礎的役割を果たすようになりました。 生産の中心地は、下総国野田(現・千葉県野田市)と播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)で、それぞれキッコーマンとヒガシマルというブランドが有名ですね。


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2016年 07月 14日 |
赤とんぼ歌碑を見学したので、元来た道を東側に戻り、龍野小学校への横道に入ると武家屋敷資料館がありました。道の角には親切な標識があり迷いません。

↓外観はこじんまりした武家屋敷という雰囲気です。
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ここは龍野の武家屋敷の内部の様子が見られる貴重な場所です。

↓玄関前
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↓前庭縁側も見えます。
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↓いよいよ中に入ります。
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龍野は城下町として知られていますが、一般の武家の住まい内部を見学できる場が少なかったため、国土交通省の「街なみ環境整備事業」により、この武家屋敷の保存と公開活用がされるようになったとのことです。

建物自体を資料とする考え方で整備されており、特別な資料の展示はされていません。
すなわち、後からつけた余計な説明書きやパネル展示はまったく無いので、非常にシンプルな印象です。
これは私のような、旅カメラマンにとっては非常に嬉しいことで、これは有り難いと、いっぱい写真を撮りまくりました(笑)

↓シンプルな床の間
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↓質実な中級武士の住まいという感じがよく出ています。
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この武家屋敷の主屋は、天保8年(1837年)ころに建築されたもので、木造平屋建中二階付本瓦葺、約140㎡です。決して大きな規模ではありませんが、式台のついた玄関から入り、控えの間から8畳の座敷に至る格式ある構成の武家屋敷です。およそ二人扶持の中流武士の住宅と考えられ、江戸時代の武家の生活を知ることのできる貴重な遺構です。

↓和の屋敷の田の字形の美しい構成が見て取れます。
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↓井戸も良いですね。
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↓前庭もこじんまりと設えられているようです。
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↓庭の紫陽花も控えめに咲いています。
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↓中庭奥に離れが見えます。きっとご隠居さんが住んでいたのでしょうね・・・
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和の気品を感じる武家屋敷で、とても気に入りました。
カメラマンとしては、いろいろ昔風の雰囲気に撮影してみたくなる場所です(笑)

↓そこで、アートフィルターのヴィンテージで2枚撮影してみました。
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↓最後に塀に寄ったアングルで撮影して、武家屋敷資料館を後にしました。
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2016年 07月 11日 |
三木露風生家から西へ龍野の町を散策します。
町をぐるっと回って、最後に露風生家の上にある龍野城でお昼とするのが時間的に良さそうです。

↓まず、「龍野小学校水練場」というのを見つけました。堂々たる構えで、単にプールとしていないのが、さすが小京都ですね。
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ぶろぶら歩いていると、「たつの市指定文化財・家老門」というのがありました、

↓立派な門だけが残されていました。
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↓説明文もきちんとあり、分かりやすいです。
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↓次にあるのが「霞城館・矢野勘治記念館」の白壁塀です。
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↓「霞城館・矢野勘治記念館」の説明書きです。
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三木清、三木露風、内海信之、矢野勘治と、龍野は文化人を輩出したのですね。
小さな町ですが、江戸時代より続く龍野の文化の高さを感じます。

三木清の『人生論ノート』は、若いころ読んだ名著ですので、懐かしく感じました。その一節「眞に旅を味ひ得る人は眞に自由な人である。」という言葉を思い出しました。
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↓人の姿が少ない途中の街角をソフトフォーカスで柔らかく撮影
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さて、いよいよ龍野公園の市民グラウンド入り口に来ました。

↓有名な赤とんぼの歌碑です。近づくと突然「赤とんぼ」のメロディーが流れました。センサーで反応するのですね。
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↑左側に山田耕筰絶筆の五線譜、真ん中に赤とんぼの歌碑、右に露風のレリーフがあります。

↓露風のレリーフのアップ~晩年の露風ですね。
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↓赤とんぼの歌碑のアップ
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「赤とんぼ」は日本を代表する童謡で「日本の歌百選」にも選出されています。

この歌は、三木露風が大正10年(1921年)に作詩し、これを読んで感動した山田耕筰が昭和2年(1927年)に曲をつけたものです。
日本人の心を表す「赤とんぼ」の歌碑を読んで、五線譜を見ながらメロディーを口ずさめば、誰しも望郷の思いにとらわれるのではないでしょうか。


少しだけ追加解説します。

露風は、明治34年(1901)13才のとき、俳句を作り始め、「赤賭蛤とまってゐるよ竿の先き」という句も作っています。
こうした故郷の思い出をもとに、大正10年(1921年)函館のトラピスト修道院において「赤とんぼ」の詩を作り、『樫の實』に発表しました。

全体的に平易な言葉で書かれており分かりやすいのですが、ちょっと誤解されやすいのが三番の歌詞です。
「十五でねえやは嫁に行き」の「ねえや」は姉ではありません。露風は長男で姉はおらず、この「ねえや」は家で頼んだいた子守娘のことです。

当時、全国的に女中・子守娘のことを「姐や(ねえや)」と呼んでいました。また、戦前は15歳くらいで嫁に行くのは珍しいことではありませんでした。
また、お里は、「ねえや」の里のことです。「便り」ととは手紙にとどまらず消息のことをいいます。

つまりこの部分の意味は「子守ねえやが15歳で嫁に行ってしまったので、ねえやの家のうわさも聞かなくなった」ということです。

露風自身の解説によると「私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。」と書いています。

子守娘という習慣がなくなった今の日本では分かりにくいかもしれませんが、戦前の田舎の社会風俗が色濃く出ている内容なのです。


↓歌碑の少し右側に三木露風の立像もあります。
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↓立像の脇横にある露風の短歌碑
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 鶏籠の松の緑の色うへぬそれをば常に心ともせめ


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2016年 07月 08日 |
「たびねす」に、私の龍野の記事が掲載されました。
播磨の小さな城下町で、散策に最適な好印象の場所でしたので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(35)播磨の小京都「龍野」を遊歩し文学と歴史の町を楽しむ
http://guide.travel.co.jp/article/19637/





拙ブログではちょうど龍野の記事をはじめようとしていたところですので、たびねす記事とタイアップして今日から龍野を紹介させていただきます。



気ままなドライブ旅を続けます。
国宝・世界遺産の姫路城を後にして、さらに西へ向かって出発です。まだ朝の8時半過ぎです。
道路地図によれば、大手前駐車場を出て西へまっすぐ県道5号線を走ると、龍野(現・たつの市)に突き当たるはずです。

龍野は戦国時代に播磨国守護赤松氏が城を築き、その後、幾多の歴史と文化を刻んだ、播磨の小京都と言われる町です。
私は30年くらい前に一度だけ訪れ、こじんまりした素敵な町だったという好印象を持っていますので、時間的余裕のある今回、ゆっくり歩いてみようかと、ここに来て思いつきました(笑)

しばらく快適な郊外の道を走ると、揖保川に至りました。橋を渡って龍野の市街に入り、細い道を上っていくと裁判所があり、その裏に龍野城の門と駐車場がありました。そこにクルマを止め、まず龍野城下を歩き回ることにしました。

城の直下に、三木露風の生家というのが開いていましたので、さっそく訪問してみます。(以前来たときは公開されていませんでした)
木造平屋建てのごく標準的な家です。

↓入り口(入場無料です)
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童謡「赤とんぼ」の作詩者として知られる三木露風は明治22年に龍野で生まれました。
ここで幼年期を過ごした露風ですが、両親が離婚したため祖父の家に引き取られました。したがって、この生家は露風の母への思いが随所に残されており、見学者を感動させる場所となっています。

↓玄関の間から奥を見る。「露風とともに」というのは三木露風生家の愛称だそうです。
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木造平屋建て、8畳3間に玄関と続き部屋で構成されたシンプルな構造で、武家屋敷の流れを組んだ歴史的な建物です。屋根小屋組は丸太で煙により黒くすすけており、外壁は小舞竹土塗壁の上に漆喰塗りとなっています。できるだけ古い瓦や建具を再利用して維持改修がなされており、当時の面影がしっかりと残されています。

↓前庭
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建物内部の部屋には、資料が沢山あり、露風が龍野に住んでいた10代までを中心として分かりやすく説明されています。特に幼児から中学校時代までの写真や原稿なども展示されています。

露風は「私に詩思を与へ、私の少年時代にして尚且つ思索に耽らしめたのは、故郷の山川である」と語っており、少年時代を過ごした郷土が露風の原点であることが分かります。

↓床の間にある赤とんぼのオブジェが印象的です。
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↓床の間に飾られた露風の句
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  鳶多き龍野なりけり秋の晴れ  露風


↓「ふるさとを思ふ」という原稿
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↓「櫻の下」という詩集ノート
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↑露風の若き日の詩集ノートですが、去った母への思いが横溢しています。

露風が母を詠んだ歌には次のようなものがあります。

 われ七つ因幡に去ぬのおん母を又帰り来る母と思ひし

このあたりの経過を簡単に説明しておきます。

露風の祖父:三木制(すさむ)は、龍野藩の奉行から龍野町長、九十四銀行頭取を勤め、漢学を深く修めた知識人でした。
制は、鳥取藩の家老の娘で漢学の素養のある「かた」を懇望して息子の嫁にしたのですが、肝心の息子:節次郎(露風の父)は大酒飲みで身持ちの悪い男でした。
長男(操のちの三木露風)や次男(勉)が生まれても節次郎の身持ちの悪さは治らず、それを見かねた制が、いつまでも三木家に縛り付けて置くのは忍びないと、かたに対して自由にしてくれと離婚を勧めたのです。
乳飲み子の勉を連れたかたは、長男の操(露風)を残し実家へと帰りました。播磨から因幡に帰る道筋にある峠の上で、かたは播磨の空を振り返り、あとに残した操のことをしのんで涙したとのことです。そこに泣き地蔵があります。

この露風の母「かた」は、鳥取県の生んだ女性解放運動の先駆者として多大な業績を残した「碧川かた」その人です。かたは、東京で看護婦として働いた後、北海道で碧川企救男と再婚し、クリスチャンとなりました。
後に、三木露風も北海道で母と再会し、クリスチャンとなり、函館のトラピスト修道院滞在中に「赤とんぼ」を作詩しました。


碧川かた の晩年の歌に

 よき子供生まるるといひし祖父君に聞かせたく思ふ赤とんぼのうた

というのがあります。
長男三木露風の赤とんぼの歌を聞かせたいと、かつての舅である三木制をなつかしんだものです。

息子の放蕩が原因とはいえ、嫁を自由にしてあげたいという三木制の思いやり。その母に去られて教養ある祖父の下で育てられ詩人となった三木露風。苦労しながらも女性解放運動に尽くし、舅に露風の歌を聞かせてあげたかったという碧川かた。
いくつも複雑な人生ドラマに紡がれた、感動的なエピソードですね。
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露風は、近代日本を代表する詩人・作詞家で、北原白秋と並び「白露時代」と称され、鈴木三重吉の赤い鳥運動にも参加し童謡を手掛けました。
後に、露風は母の影響もありクリスチャンとなり洗礼名をパウロといいます。バチカンからキリスト教聖騎士の称号も授与されたそうです。
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↓この露風生家は、龍野地区の歴史的景観形成地区にあり、龍野城の真下にあることから幕藩時代は政治の中枢の場所であったと思われます。龍野の街なみの中心としてふさわしく、龍野散策の起点となります。
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2016年 07月 05日 |
早朝4時過ぎ、通勤ラッシュが来るまでに大阪市内を抜けようと出発です。
前夜からタイマーセットしていたホームべーカリーのレーズンパンが上手く出来ていたので、どこでも昼食が可能なドライブ旅の弁当として積み込みます。

阪神高速湾岸線に乗り神戸線へ抜けることにしました。早朝は道路もすいていて、快適にドライブできます。
西へまっすぐ走り続け、第二神明道路を通過、どうするか少し迷いましたが明石海峡大橋へは乗らず、最近あまり行っていない播磨方面へ進路をとります。

国道2号線バイパスは、しばらくは立体交差の道路なので、姫路東ランプで降りてJR御着駅付近へ。そこでちょっと止まって道路地図で行き先を検討します。
確かこのあたり、戦国時代に小寺氏の居城だった御着城があったのではと地図を探しますが見当たらず、結局、最近改修された姫路城を表敬訪問することにしました。(旅行後に調べてみると御着城跡は姫路市東出張所になっているとのことです)

姫路城前の大手前駐車場にクルマを入れました。まだ朝の7時前で、がらがらです。

姫路城には過去2度行っていて内部も知っていますが、改修後は、はじめて来たので、曇り空の下、外観だけでも見学することにしました。というか内部は9時にならないと開館しないのです・・・

↓この橋を渡ると姫路城の三の丸広場に入ります。
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↓見えてきました姫路城。やはり噂通り以前より白っぽいです・・・まず真正面から撮影
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↓やや東側から
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↓西側から
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↓扇の勾配と言われる石垣
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↓黒田官兵衛ゆかりの石垣(このあたりは野面石の布積み崩しと言われる古式で、秀吉が官兵衛に命じて築かせた時代のものだそうです)
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↓作品的に撮影
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今回は姫路城の裏側(北側)にあたる姫山公園を歩き、ぐるっと城を回ってみました。

↓裏側から見た姫路城ですが、緑の木々に埋もれた石垣の上方にそびえています。
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↓姫山原生林とされる場所で、鬱蒼たる森の雰囲気です。
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これまで姫路城の裏側を回ったことがなかったので、この原生林はとても興味深かったです。

↓裏側の堀は水面が近く、緑が多いです。
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↓西側に回って行く途中、こういう場所なら時代劇撮影にぴったりですね。
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↓城の南西にある千姫庭園の紫陽花が満開でした。
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↓改修時に取り換えられた旧西大柱が城前の小屋で展示されていました。
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こうして朝の姫路城周辺を歩き回り、ゆっくりと楽しみました。


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2016年 07月 02日 |
小さなドライブ旅から無事帰宅しました。
まだ写真の整理が出来ていませんので、旅の詳しい紹介は次回からの予定です。

今日は、旅の途中で撮った、しっとりとしたアジサイの写真を数枚おおくりします・
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さて、パソコン買い替えに伴う写真の発色に関する質問に、多くの皆様からコメント&メールをいただき、ありがとうございました。
とても参考になりました。深く御礼申し上げます。

9割がたの皆様から、新パソコンの発色のほうが良いとのご意見をいただきました。
そこで、無理に新パソコンで濃厚気味に持ち上げることはせず、新パソコンんで標準的に綺麗に見える現像処理を行うことにします。
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旧パソコンは、薄めの発色をするので、画面上少し濃い目に調整しないと綺麗に見えないので、やや濃厚な写真になっていたようです。
逆に、新パソコンは、濃厚な発色をするので、画面上少し薄めに調整しないと綺麗に見えないので、やや薄色の写真になります。
したがって、今後は、以前より薄味の写真が多くなりますが、ご了解いただきますようお願いします。


例えば前回掲載した二枚目の白い花菖蒲の写真は、新パソコンで現像し白い花弁の質感が出るように調整したのですが、それを旧パソコンで見てみると、花弁が白飛びを起こしたように真っ白に見えてしまったので、うーんこれは困ったなあと感じたのです。
皆さんのご意見をうかがい安心しました。パソコンによって多少白っぽく見えてしまうことがあるかも知れませんが、気にしないことにしました。
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「模糊さん自身は、ヤマガラ写真、どちらがお好きなのですか?」という質問もいただきました。

私自身は、常に自分の意図にあう発色で現像調整しています。
つまり、旧パソコン画面では旧パソコンヤマガラ写真が好きで、新パソコン画面では新パソコンヤマガラ写真が好きなのです。
私自身の感覚基準は一貫しているつもりですが、使うパソコンが変わると、こういう結果になるので戸惑ったわけです。

同じパソコンで拙ブログを見続けていただいた方は、最近、私の写真が薄味に変化したように感じられるでしょうが、以上のような事情がありますので、どうそよろしくお願いします。


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