模糊の旅人
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カテゴリ:イラン( 35 )
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2016年 09月 13日 |
巨大墳墓遺跡ナグシュ・ロスタムには、墳墓だけでなくレリーフもあります。

この王墓群を造ったアケメネス朝ペルシアは、紀元前331年、アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)の攻撃により滅亡しました。

アレクサンドロス大王はヨーロッパ人にとっては英雄ですが、ペルシア人にとっては破壊者以外の何者でもありません。聖都ペルセポリスを徹底的に破壊し財宝を略奪し人々を虐殺しました。さらに、ペルシア帝国の創始者キュロス2世墳墓をあばき宝物を持ち去りました。
ただし、ここナグシュ・ロスタムの墳墓群は、からっぽの穴があるだけなので、破壊を免れたのです。


こうしてアケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされてから約500年後のAC3世紀に、ササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシャ)帝国が勃興しました。
ササン朝ペルシアは、本来のペルシア(イラン高原のパールス地方)のゾロアスター教神官階級の出自でしたので、はるか昔の栄光のペルシア帝国の復興をめざしたのです。

そのササン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世は、オリエントの支配者として「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」という君主号を名乗り、このナグシュ・ロスタムに王権神授のレリーフを彫らせました。

↓王権神授のレリーフ(ササン朝ペルシア帝国誕生の場面)
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↑右側には、バルサム(聖枝)を左手に持ったゾロアスター教のアフラ・マズダ神がおり、左側にいるアルダシール1世に王のシンボルであるリボンのついたリングを渡しています。
また、アフラ・マズダ神が乗っている馬は悪神アフリマンを踏みつけており、アルデシール1世が乗っている馬はパルティアの王を踏みつけています。

アルダシール1世は、ゾロアスター教の神官階層からの出身で、ゾロアスター教を重要視し、ペルシア帝国の再興をめざしました。そのため、栄光のアケメネス朝最盛期4代のダフマ(ゾロアスター教的王墓)のあるこの磨崖に、レリーフを刻んだのです。

ペルセポリスやパサルガダエが破壊されていたので、ここナグシュ・ロスタムに刻むしかなかったのでしょう。
われわれ後世の見学者は、ここで、ササン朝ペルシア帝国誕生の瞬間を見ていることになるのです。


ゾロアスター教については、こちら。他の宗教への影響に関しては、こちら

↓同じく関連レリーフと周辺状況
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さらに重要なレリーフがあります。
それは、歴史の教科書に登場する有名なもので、紀元260年にペルシアがローマ皇帝を捕虜とした場面が描かれています。

↓ローマ皇帝を捕虜としたレリーフ
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↑右側の馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをしている左下の人物がローマ皇帝ヴァレリアヌスです。
そのヴァレリアヌス帝の横に立っているのもローマ皇帝のピリップス1世(フィリップス・アラブス)で、ペルシアに降伏しメソポタミアからアルメニアまでペルシアの版図としてしまった人物です。

このように、ペルシア帝国のシャープール1世は、ローマ帝国に対する優位を誇示し、これ以後、「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」(エーラーン=アーリア=イランと非イラン世界全ての王)称号を名乗ったのです。


ササン朝ペルシア帝国のアルダシール1世の後を継いだシャープール1世は、対外戦争や征服事業に従事し、強勢を誇り王権を盤石なものにしました。
ローマ帝国と何度も戦争をしましたが、ほぼペルシア優位に展開し、AC244年にはローマ皇帝のゴルディアヌス3世を敗死させたとされます。このペルシア側資料が、ここナグシュ・ロスタムにあり「ゴルディアヌスは殺され、その軍隊は壊滅した」と刻まれています。
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歴史的文書を多く残しているローマ帝国ですが、ヴァレリアヌス帝が捕虜になった件やゴルディアヌス3世が敗死した件については、暗黙に認めてはいるものの、ほとんど書かれていません。よほど屈辱的で、消し去りたい歴史だったのだと思います。(歴史はヨーロッパ側資料だけでは一方的で真実が見えません)

これに対して、ペルシア側には多くの証拠資料・遺跡が残っています。このナグシュ・ロスタムは、その最も有名な場所です。

ローマ帝国にとって、ゲルマンなどの蛮族はやっかいな侵入者であっても、組織された強国ではありませんでした。あくまで、ローマ帝国にとって、パルティア~ササン朝ペルシア帝国と続くイラン系の東方専制君主帝国が主要な大敵であり、軍事的には常に仮想敵国であり続けました。

ローマ皇帝ヴァレリアヌスがペルシアの捕虜になった時代は、軍人皇帝時代というローマ帝国の危機の時代でもありました。(3世紀の危機と呼ばれ、あやうくローマ帝国が滅びかけたのですが、そのあたりのローマとペルシアの関係について詳しくは下の More  ローマとペルシアの争い をご覧ください))

ディオクレティアヌス帝の登場により何とか危機を脱しますが、以降ローマ帝国はドミナートゥスという皇帝権力を強化した東方専制君主的な支配体制へと移行します。



現在のナグシュ・ロスタムは、高原土漠の中にある長閑な遺跡です。近くに人家もなく、茫漠たる大地の上に巨大な磨崖が静かに佇立しています・・・

↓少しだけ売店があり、観光客が集まっています。
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↓売店に並べられた商品。ペルシア意匠彫物やゾロアスター教関係のものが多かったです。
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↓くさび形文字で名前を書く商売をやっていました。簡易ジュース屋さんでもあります。
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↓最後に駐車場から、遺跡の全容を振り返って、ナグシュ・ロスタムをあとにしました。
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<お知らせ>

ようやく仕事が落ち着きましたので、旅行に出ることにします。国内旅行ですが、しばらく留守にしますので、ブログも休ませていただきます。
今回は、詳細は行き当たりばったりですが、主な目的地は決めています。多分、中程度の旅になりそうです・・・・

それでは、ほんのしばらく、皆さんごきげんよう!



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More ローマとペルシアの争い
2016年 09月 10日 |
久しぶりのペルシア記事です。
まだまだイラン関係の写真は沢山残っているのですが、思うように紹介できません。せめてメインのペルセポリスまでは年内に到達したいと思います。

私の場合、自ら撮影した写真を見れば、はっきりと記憶が蘇えります。それでも、その写真以外の周辺状況などは徐々に忘れていきます。そこで、できるだけ早めにアップしたいのですが、多忙なのと次々と新しい旅がやってくるので、仕方がありません。ただ写真を並べるだけではなく、ある程度の解説をつけて整理していきたいので、どうかご容赦ください。


今日は、一枚岩の崖に刻まれた巨大墳墓遺跡ナグシュ・ロスタム(ナギシェ・ロスタム)の前編です。

ナグシュ・ロスタムは、ペルセポリスの北6kmにある巨大な磨崖遺跡で世界遺産に指定されています。

↓土獏の真ん中に巨大な崖が見えてきました・・・・なるほどこれは権力誇示の墓の場所にふさわしいスケールの大きさです・・・
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ここは、BC6世紀からBC5世紀にかけて造られたアケメネス朝ペルシア(ハカーマニシュ朝ペルシャ)帝国盛期の王墓群です。

帝国の最盛期に君臨したダレイオス1世(ダーラヤワウ1世またはダリウス大王とも表現)をはじめ、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の四基の王墓が認められます。つまり、父-子-孫-曾孫と、ダレイオス1世から連続する四代の王の墓がここにあるわけです。

なお、ダレイオス2世の次代以降の王であるアルタクセルクセス2世、3世、ダレイオス3世の墓はペルセポリス山腹にあります。

↓近づいて王墓群を見ます。下に小さく写っている人間と比較してみてください。(この写真はクリックすると横1200ピクセルに拡大されますので、ぜひ大きくしてご覧ください
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迫力満点ですが、異様な存在感もあり、はるか紀元前の巨大帝国の権力誇示の装置でもあることが実感されます。

↓ダレイオス1世(大王)の墓
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↓少し離れた場所にあるクセルクセス1世の墓
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ダレイオス1世から四代続くここナグシュ・ロスタムの王墓は、いずれも巨大な磨崖に大きな十字形が彫り込まれ、その中心に穴がある形になっています。
これは、曝葬(鳥葬)の後、磨崖横穴に埋葬するゾロアスター教の葬制の最も巨大な形だと考えられます。
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以前紹介した、アケメネス朝ペルシア帝国の創立者キュロス2世の パサルガダエ墳墓 とは、まったく異なります。根本的に形式が違います。

これは、キュロス2世のパサルガダエ墳墓は先行するバビロニアなどのオリエント文明の影響を受けた墳墓形式なのですが、その時代はまだゾロアスター教が国教になっていなかったからです。

世界で初めてオリエント大世界を統一しペルシア帝国最盛期を現出したダレイオス1世によって、ゾロアスター教が国教のような形になり、王権が神授され権威づけが行われたのです。ダレイオス1世は、ゾロアスター教による巨大墳墓を造営し(さらにペルセポリスを建設し)て新たな歴史を作ろうとしたのです。


あくまで私見ですが、一神教的でシンプルなゾロアスター教は、帝国を統一する思想としては都合が良かったのだと思います。ダレイオス1世はキュロス2世の系統の王位を簒奪したとする有力学説もあるくらいですから、余計に自己の王権を神から授けられたものとして正当化する必要があったのでしょう。(後世の、ローマ帝国におけるキリスト教公認の状況を連想しますね)

↓墳墓の中心部分を望遠で拡大撮影。中心の穴は曝葬後の骨が入れられたようです。
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↓クセルクセス1世の墓の上部に刻まれたレリーフ。ゾロアスター教のシンボル「翼のある日輪のマーク」が見えますね。
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↓部分拡大
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この王墓群の前には、ゾロアスター教の神殿とされる石造りの遺跡もあります。
四角の建物で、シンプルな造形からゾロアスター教神殿らしく思われますが、諸説あり詳しいことは判明していません。

↓ゾロアスター教神殿とされる遺跡(ゾロアスターのカアバ en:Ka'ba-i Zartosht と呼ばれます)
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なお、ナグシュ・ロスタムは英雄の絵を意味します。ナグシュとは「模様、絵」のことであり、ロスタムとは『王書』(シャー・ナーメ)に出てくる伝説の英雄の名前です。



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2016年 05月 01日 |
イスファハーンのヴァーンク教会に隣接して、アルメニア使徒教会博物館があります。

以前ブログ記事で紹介したヤズドのゾロアスター教博物館 と同ようなじ形で、一般の観光客に公開された宗教博物館です。少数派の宗教にも、博物館の建造を認め、観光をすすめるイランという国の懐の深さを感じます。

アルメニア使徒教会については、以前から調べているので、興味深く見学しました。

↓博物館の外観
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↓内部は広く、いろいろなものが展示説明されていました。
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↓アルメニア人のアイデンティティーの原点・・・ノアの方舟が洪水後に漂着したアララト山(現トルコ領内)
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アララト山に象徴される大アルメニア王国は、かつてはアナトリア半島東部に位置し、カスピ海から地中海に至る広い地域を支配していた時期もありました。現在のアルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にある内陸の小国です。

↓アルメニア使徒教会らしい宗教画がたくさん展示されていました。
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↓髪の毛に書かれた聖書を顕微鏡で見ました。
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世界最小の聖書や聖具、キリスト教関連の遺物などの展示もありました。

↓貴重な小物の展示
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↓キリストの洗礼(ヨハネによる)
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↓アッバス大帝による調停の勅令書も展示されていました。古くからアルメニア使徒教会が公式に認められていたことが分かります。
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↓中国から伝えられた陶器
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↓外にあるアルメニア人虐殺(トルコによる)の慰霊碑
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↓最後に教会の回廊を撮影して、ヴァーンク教会と博物館をあとにしました。
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2016年 04月 29日 |
イラン中南部にある古都イスファハーンには、見どころがたくさんあります。その中で、ちょっと変わった観光スポットが、キリスト教のアルメニア使徒教会であるヴァーンク教会です。

イランではイスラム教シーア派一色と思われがちですが、少数派として、けっこう様々な宗教が存在しています。
その例として、ゾロアスター教については 、以前にブログ記事として掲載しました が、今回はアルメニア使徒教会です。

16世紀に都としてイスファハーンを造営したサファヴィー朝のアッバース1世は、労働力及び商人としてのアルメニア人を評価し、現在のイラン西北部から多くのアルメニア人を動員しました。
その後、歴代の皇帝も、アルメニア正教の保護に努め、イスファハーンのアルメニア使徒教会はペルシアにおけるアルメニア人コミュニティーの拠り所となってきました。

現在もイスファハーンには13ものアルメニア使徒教会があり、そのうちこのヴァーンク教会が観光客に公開されています。


↓道を曲がると、ヴァーンク教会が見えてきました。
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↓建物外観
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ドームとタイルが印象的で、ペルシアの伝統との見事な融合が見られます。
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↓建物内部
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聖書の逸話や最後の審判の場面など、壁一面が絵に埋め尽くされていました。
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↓ドーム天井は、ペルシアのモスクのようで、モザイクが素晴らしいです。
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内部も、ペルシアの様式との融和を図っていることが分かります。
この雰囲気には、ペルシアで生きていこうというアルメニア使徒教会の意気込みを感じました。
イスラエルの エルサレムにあるアルメニア使徒教会 とはまた違っていますね。


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2016年 03月 06日 |
【予約投稿】

海外旅では、私にとって見るもの全てが興味深く、あらゆるものが被写体です。
チャンスがあれば、野鳥も撮影します。
ただ、野鳥に関しては、種類の同定が困難で、なんという鳥か分からない場合もあります。
鳥の名前が判明すれば、その生態などを詳しく調べられるので、理解が深まります。

それについて、フォトパスで問合わせたのですが、解決しませんでしたので、ブログで公開質問することにしました。

↓この鳥はなんでしょうか?
(1)

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↑2015.5月イラン首都テヘランで撮影しました。
割と大きく、7~8羽の集団で公園の上空を飛び回り耳障りな声で鳴いていました。

私の持っている簡単な世界野鳥図鑑では、ミドリワカケインコ(学名:Psittacula columboides)が一番似ているように思います。
確かに色合いや耳障りな声はミドリワカケインコに似ていますが、体長がミドリワカケインコより大きいようで、ちょっと違う気もします。
中~大型のインコの種類のようです。いかがでしょうか?

ミドリワカケインコは本来インド西部に分布するのですが、当時インドは熱波でイラン北部に逃れてきたのではないかとも推測できます。
詳しくご存知の方ぜひご教示ください。


↓次は、クロアチアで撮影した鳥です。
(2)

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↑2011年10月、クロアチア北東部のプリトヴィツェ湖群国立公園で撮影しました。
宿泊したホテルの1階ベランダから前の森を観察していると飛んできました。スズメくらいの大きさでした。

分布域と、紋付がうっすら見える黒い羽から、クロジョウビタキ(学名:Phoenicurus ochruros)の雌ではないかと推測するのですが、全く自信はありません。どうでしょうか?

これも、詳しくご存知の方いたら、ぜひご教えてください。


↓最後はポーランドで撮影した鳥です。
(3)

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↑2013年6月、ポーランド中央部の村ジェラゾヴァ・ヴォラで撮影したものです。

有名なクロウタドリやチャフチャフを撮影していた場所で、ヒタキの類と思われる小鳥もいましたので撮影しました。
雰囲気はノビタキ(学名:Saxicola torquata)なのですが、羽に白斑模様が無く少し色合いが違うような気がしました。
ノビタキの幼鳥か、クロジョウビタキ、ハシグロヒタキ(学名: Oenanthe oenanthe)といった可能性もあるように思います。

二番目にあげたクロアチアの鳥とも似ています。

このあたりは同定が難しく、よく分かりません。
詳しい方がおられましたら、御教示ください。



他にも観察はしたものの、種類の不明な野鳥がいろいろあります。やはり海外で多いです。
見ただけの鳥なら諦めもつくのですが、写真を撮ったのに分からないと、もどかしさと未解決感が残ります。
このままでは、宿題をほったらかしにしているような感覚で、どうも落ち着きません。
私は、野鳥の専門家ではないので、未見の鳥に遭遇するとワクワクドキドキ感があり、学習していく楽しみもあるのですが、種類が分からないと、達成感に欠けるのです。


長い旅行に出ますので、しばらくの間、この記事がブログのトップに来るように、予約投稿しておきます。
皆さんの目に触れる機会が長く続くので、問題解決には、最適なタイミングだと判断しました。
すっきりさせたいので、ご存知の皆様、どうぞよろしくお願いします。


なお、お名前・連絡先など個人情報関係も書き込まれる際は、非公開コメントあるいはメールをいただければ幸いです。
メールアドレスについては、詳しくは こちら を御覧ください。


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2016年 03月 03日 |
「たびねす」に、私のイラン絨毯博物館の記事がアップされました。
世界最高の工芸美の世界ですので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(28)イラン絨毯博物館で世界最高水準のペルシアの美にはまる!
http://guide.travel.co.jp/article/16366/





上記の、たびねす記事とタイアップして、当ブログでもイラン絨毯博物館を紹介します。
ただ、旅直前で詳細に説明する時間がありませんので、まずは上記の、たびねす記事をお読みいただければ幸いです。絨毯の歴史などを簡単にまとめております。

ペルシア絨毯は、紀元前のアケメネス朝ペルシア帝国時代より作られており、イランの伝統工芸・調度品として世界最高のものです。

テヘランにあるイラン絨毯博物館をじっくり見学しましたが、本当にためいきが出るような素晴らしい芸術的な絨毯ばかりでした。

↓イラン絨毯博物館の水平展示
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↓巨大な絨毯展示風景
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↓イラン中央部のカーシャーン産の絹の絨毯(より大きな写真でご覧になりたいはこちら 
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↑伝統的な「ゴルダニ意匠(花瓶柄)」に花や動物を散りばめたもので、絹糸を使った素晴らしい作品です。
花瓶に活けられた草茎がぐんぐん伸びて、フィールド全体に様々な花をたくさん咲かせて広がっていく様子は、とても綺麗で感嘆するばかりです。
また、カーシャーンで作られた絹の絨毯らしい艶やかな輝きも見事なものです。

↓ボテ意匠(ペイズリー柄)の絨毯
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ボテ意匠(ペイズリー柄)は、各地にある草花文様が起源となり、オリエント世界を中心として作られてきました。ゾロアスター教の聖火やイーヴィルアイ(悪魔の目)を形どったという説もあります。
そして、ペルシア絨毯にあるボテ意匠が、東インド会社によりイギリスに伝えられ、スコットランドのペイズリー市の職人がボテ意匠のショールを量産したことから、ペイズリー柄という呼称がポピュラーになったものです。

↓イラン東部のケルマン産の名作絨毯(より大きな写真でご覧になりたいはこちら 
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↑中央部は「生命の木意匠」に果物・野鳥・蝶が埋め尽くされ、周辺部には多くの動物と人間の肖像が配された、とても美しいケルマン産の絨毯です。
複雑に絡み合った大木に、実り豊かな果物とたくさんの生き物が描かれ、荒涼たる砂漠に生きる人々にとっての夢の楽園が象徴されているようです。
この絨毯は「全人類」とも呼ばれている名作で、その描かれた人類とは、左上隅から時計回りに、ペルシア人、ゲルマン人、ラテン(イタリア)人、インド人、中国人、アラビア人、オーストラリア人、トルコ人、アメリカ人、アフリカ人となっています。


↓絨毯の織糸と染色原料の展示
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↓絨毯の手織機の原理を説明した展示
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絨毯は、張った経糸(たていと)にパイル糸を結んで、横の緯糸(ぬきいと)を通して織っていきます。パイル糸とは染色された結び糸のことで、一目一目経糸に結ばれ、その先を切ってけば状に立毛し絵柄を作り出します。
この糸の材料、結び方、密度で絨毯の基本が構成され、織機や文様・意匠デザインは産地ごとに独特の個性があります。


↓ゾロアスター教の意匠がありましたので、アップで撮影
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↓見事な動物流紋柄の絨毯
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↓上の絨毯の右下部分を拡大撮影・・・鹿・虎・鳥などが分かります。
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↓貴重な500年前のアンティーク絨毯
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↑16世紀初頭に作られたアンティークの絨毯で、いわゆるサングスコ絨毯と呼ばれている逸品のひとつです。(生産地はタブリーズではないかと推測されます)
サングスコとはポーランドの王族で、16世紀にトルコのオスマン帝国に対する戦争でペルシア絨毯を戦利品として獲得しました。その絨毯はサングスコ家の宝物として伝承され、ヨーロッパにおける高級絨毯ブームの原点となったのです。
サングスコ絨毯には動物闘争文様が見られ、このような意匠は、日本の豊臣秀吉の陣羽織キリムと強い関連性があると指摘する学説があり、非常に興味深いものです。
このイラン絨毯博物館の現物は、500年以上経過しているため、いささか痛んでおり文様が完全には判断できませんが、ヨーロッパ~トルコ~ペルシア~日本と広がる歴史のロマンを実感できるのではないでしょうか。

 【注】キリムとは、絨毯とは違いパイル糸(結び糸)を使わず、毛足の無い平織りの毛織物。イラン~トルコなどの遊牧民が織ってきた歴史があります。


↓博物館の入口は重い鉄製門扉
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↓絨毯の織機をイメージした博物館の外観
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2016年 03月 02日 |
パサルガダエは、考古遺跡として世界遺産に登録されているだけでなく、ペルシア式庭園のひとつとしても世界遺産に登録されています。

世界遺産に登録されているペルシア式庭園は、ここパサルガダエ以外に、カーシャーンのフィーン庭園 ヤズドのドラウト・アーバード庭園 、シーラーズのエラム庭園(後日紹介予定) などがあります

パサルガダエの庭園は、イラン最初(おそらく世界最初)の四分法に基づいて建設されたペルシア式庭園で、非常に貴重なものですが、現在では遺構が残っているだけです。
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写真はパサルガダエの宮殿と庭園の跡ですが、直線的なラインにより区分されています。
これを見ると、現在イスラム的とされる庭園様式は、はるか紀元前のこの場所から出現したことが分かります。
すなわち、スペインのアルハンブラからインドのタージマハルに至る美しいイスラム様式庭園の起源は、ここにあるのです。
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↓世界最古の大帝国アケメネス朝ペルシアの最初の宮殿址
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↓倒れている柱
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↓立っている柱
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↓くさび形文字による、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の三言語で併記された碑文です。「我はアケメネス族のキュロス」 と書かれているそうです。
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↓魚と人物の合体したような姿のレリーフ
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↑バビロニアのオアンネスと思われる魚のような体をした神です。

くさび形文字といい、レリーフといい、メソポタミア文明の影響を強く感じる遺跡でした。

キュロス2世は、ユダヤ教徒をバビロン捕囚から解放した逸話で知られるように、征服した土地の宗教や習慣を尊重した人だったようです。(大英博物館にあるキュロス2世の円筒印章には、諸民族を解放し弾圧を廃した様が描かれています)

とはいえ、当時の最も有力な宗教は、ゾロアスター教でした。その証拠とされるのが次の写真で紹介する遺跡です。(ゾロアスター教のユダヤ教等に対する影響については、こちら

↓ゾロアスター教の神殿跡とされる遺跡です。
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↑あまりにも古いものなので詳しくは判明しておらす、センダーネ・ソレイマーン(ソロモンの牢獄)と呼ばれてきました。

↓タレ・タフト要塞 キュロス2世の時代からササン朝後期まで城塞として使われた遺跡です。
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パサルガダエとは、「ペルシア人の本営」という意味で、ペルシア帝国の最初の都として栄えたようです。
2500年経った今は、茫漠たる荒野が広がるばかりです・・・

↓はるか彼方に牧畜する光景が見えました。ペルシアの遊牧民の伝統が息づいているように思えました。
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2016年 03月 01日 |
次の海外取材旅行が迫ってきましたが、イランもロシアもまだ半分も紹介できていません。
そこで、出発までに可能なかぎり記事を沢山掲載するように頑張っています。

今日は、イラン(ペルシア)のザグロス山中の高原にある古代遺跡パサルガダエの前編です。


パサルガダエは、紀元前546年に、アケメネス朝ペルシア帝国の最初の首都として、キュロス2世により建設が開始されました。

ここは、パサルガダエ考古遺跡として世界遺産に登録されているだけでなく、ペルシア式庭園のひとつとしても世界遺産に登録されています。

↓見えて来ました。
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パサルガダエで最も重要な場所は、キュロス2世の墳墓です。

キュロス2世は、紀元前6世紀に、世界ではじめて古代オリエント諸国を統一して、空前の大帝国を建設しました。
ユダヤ教徒をバビロン捕囚から解放しエルサレムに帰還させた王として旧約聖書にも載っており、現代のイラン人はキュロス2世をイランの建国者としています。

↓キュロス2世の墳墓
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この墳墓は、ピラミッド状の6段の階段の上に家形石室墳墓が乗っている独特の形をしています。
この形は、多分、キュロス2世が征服したリディアやエラム、バビロニアなどの様式の影響を受けたと思われます。

ダレイオス1世(ダリウス大王)の時代以降になると、王の墳墓は巨大断崖に彫り込まれたゾロアスター教の磨崖洞穴式墳墓になり、全く形が異なります。
これは不思議な謎ですが、私見では、ダレイオス1世の時代からゾロアスター教が国教のような形になったと推測します。(ダレイオス1世がキュロス2世の系統の王位を簒奪したからとする説もあります)

↓キュロス2世の墳墓をいろいろな角度から撮影
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↓墳墓の頭頂部
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↓この墳墓を住処としている野鳥がいましたので、アップで撮影しました。ヨーロッパイエスズメですね、
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BC331年に。アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼしペルセポリスを破壊しつくしたアレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)は、この墓にも至り墓室をあばきました。その中には、金のベッドや杯、テーブル、棺桶、高価な宝石装飾品などとともに、キュロス2世の墓碑もあったそうです。


また、7世紀にササン朝ペルシア帝国を滅ぼしたアラブ人イスラム教徒軍は、この地にも来襲しましたが、当時の墓守は、「パサルガダエはキュロス2世の墓ではなくソロモン王の母を奉じて造られたもの」と説明し、破壊をまぬがれたと伝えられます。
そのため、墓碑は、クルアーンの韻文に取って代わられ、ソロモン王の母の墓として伝承保存されてきたのです。

↓墳墓に刻まれたクルアーンの韻文
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2015年 11月 22日 |
今回の写真展で一番ご質問の多かったのが、 イスファハーンのイマームモスク天井の写真でした。

4000万画素のハイレゾショットで全紙の大きさにプリントしたことで、「これ、どのように撮影したのですか?」というお話がよくありました。

そこで、今日は、その写真をアップし撮影技法を解説します。

ただし、エキサイトブログの画像は一枚につき500KB未満という制限があるため、画質を非常に低下させねばアップロードできません。
とはいえ、この写真は小さなサイズでは意味がないので、横1200ピクセルのサイズにして、フォトショップで画質40%まで下げて、490KBのデータにしました。

ということで、以下に掲載する写真はブログ用に画質を落としたもので、全紙プリントした写真展のものと少し違いますが、雰囲気は味わっていただけると思います。

↓写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大されますので、ぜひ大きくして御覧ください。
f0140054_92090.jpg

撮影データです。
  OLYMPUS OM-D E-M5 Mark II
  M.ZUIKO DIGITAL ED 9-18mm F4.0-5.6
  ピクチャーモードNatural、絞り優先F8オート
  セルフタイマー使用
  モスクの床にカメラを置いて、JPGハイレゾショット設定で撮影

元JPGデータ(4000万画素):17200KB
横1200ピクセル縮小データ:1000KB
さらに画質40%にしたブログ掲載用データ:490KB


ハイレゾショットとは、0.5ピクセル単位でセンサーを動かしながら、8回撮影した画像をもとに、4000万画素の高解像写真をカメラ内で生成するものです。
OM-D E-M5 Mark II に搭載している機能ですが、8回露光するため、手持ち撮影ではブレて使えません。

上記のイマームモスク内部では、三脚やストロボは使用禁止ですので、モスクの床にカメラを上に向けて置いて、4秒セルフタイマーを使ってハイレゾショット撮影しました。
もちろん周囲の人が写らないよう、すいている時を見計らって撮影しました(笑)


オリンパスのハイレゾショットは、センサーサイズが小さいゆえに、深度のある高画素写真が手軽に撮れるという特徴があります。
上記の写真でも、天井はドーム構造なので、中心と端では非常に高さが違いますが、F8で全域にピントが合っていました。

旅カメラマンにとって、普段は小型軽量機の手ぶれ補正機能で、手持ちでサクサク撮影し、ごくたまにハイレゾショットという方法は理想的です。
私の場合、マイセッティング2にハイレゾショット設定を登録しており、旅先で4000万画素を試してみたいというシチュエーションに遭遇した時にだけ、ハイレゾショットを利用しています。


もう一枚、モスクで天井向けハイレゾショット撮影をしましたので、掲載してみます。
上の写真は14mmあたりで撮影していますが、下の写真は広角端9mmで撮影しています。(画角以外は撮影データはほぼ同じなので省略します)

↓これも写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大されますので、ぜひ大きくして御覧ください。
f0140054_924293.jpg

「高画素=良い写真」というわけではありません。むしろ低画素のほうが気楽に撮影できるのでチャンスに強い場合が多いです。
また、写真の鑑賞媒体がブログの場合は、写真データの大きさに制限がありますので、必要以上の高画素写真のメリットがなく、まあ1000万画素もあれば十分でしょう。

ただ、今回のモスクの天井の写真のように、非常に細かい模様があり、できれば高画素で撮影し大きく紙プリントしたいという被写体には、ハイレゾショットは有効です。

写真展では、一枚目の写真をもっと大きくプリントしたかったのですが、諸般の事情により、全紙版のプリントとなりました。


余談ですが、オリンパスプラザの写真展担当者のKさんに、この写真について「オリンパスのカメラの宣伝になり、ありがとうございました」と言われました(笑)

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2015年 11月 19日 |
本日、第5回 グループ温故斬新 写真展 が無事閉幕いたしました。

多くの方々に来場いただき、本当にありがとうございました。

遠方から来ていただいた方もおられ、感激しております。

私が在廊していない折に、私の作品を見に来ていただいた方もおられたようで、申し訳ありません。お詫び申し上げます。
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それぞれ四人の個性が溢れる写真展だという御評価が多く、とても嬉しかったです。
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↓私の出品作から一枚大きく載せます。シーラーズのローズモスクの礼拝室に朝日が差し込む瞬間です。床に敷かれたペルシア絨毯にステンドグラスからの光が落ちて、とても綺麗に感じました。

『色彩の饗宴』
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写真展の撤収作業が終わった後は、ohkujiraTさん miyatan.naotanさん と一緒に、つまり大阪のおっさん3人で、簡単な打ち上げに行ってきました。

↓下戸の私は生ビールの小で乾杯!
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↓打ち上げでの食べ物については、一枚だけ紹介します。真ん中の赤っぽいのは大阪名物の紅生姜の串カツです。
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大きな仕事を終えた後の静かな飲み会という感じで、とても楽しかったです。



いつもこの写真展の後は、抜け殻というか腑抜け状態になるのですが、今年はとても元気で充実感があります。見に来ていただいた方との思い出と、5回目を終えたという節目の達成感があるからでしょう。
今後もなんとか頑張っていけそうです。これも皆さんの声援のおかげです。


やはり写真展は大きな励みになります。
皆さんに直接見に来てもらえるということ、そして普段あまりやらない大きくプリントして展示するという作業は、得がたい貴重な経験となりました。

ご来場いただいた皆様、そしてオリンパスプラザの係員の皆様はじめ、御協力を賜りました方々には、深く御礼申し上げます。
また、ネット上のコメントやメール等で温かい応援を送っていただいた方々にも、感謝いたします。


皆さん、ありがとうございました!


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