模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
カテゴリ:パレスチナ( 7 )
|
2014年 10月 14日 |
パレスチナ国で撮影したスナップ写真をご覧下さい。
f0140054_871241.jpg

f0140054_872972.jpg

f0140054_874766.jpg

f0140054_88232.jpg

f0140054_881761.jpg

f0140054_883780.jpg

f0140054_822060.jpg

f0140054_8222435.jpg

f0140054_8224172.jpg

f0140054_885471.jpg

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。
2014年 05月 16日 |
ガリラヤ地方の写真は、まだまだ沢山あるのですが、あまりに長くガリラヤにこだわっていては前に進めませんので、いよいよエルサレムの受難へ向かうことにします。
今回は、タボル山とエリコの話です。

六日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登り、彼らだけになられた。ところが、彼らの目の前で姿が変わり、その衣は真っ白に輝き、地上のどんな布さらし職人もそれほど白くすることはできないほどになった。(マルコの福音書46.2~3)

これは主の変容と呼ばれる逸話で、その舞台となったタボル山はガリラヤ南部にあります。

↓タボル山(頂上付近に主の変容の教会があります)
f0140054_17445282.jpg

↓(参考)ヴァティカン美術館にあるラファエロの祭壇画「キリストの変容」
f0140054_17543411.jpg

その後、イエスと使徒の一行は、ガリラヤを後にし、エルサレムへ向かいます。
ヨルダン川に沿って南へ下り、以前、イエスが荒野の試みにあったエリコの町にやってきました。
ここは、エリコ街道がエルサレムに通じており、ヨルダン川地域からエルサレムに上る要衝の町でした。

↓エリコの町(現在はイスラム化したアラブの町としてパレスチナ国に属します)
f0140054_17464095.jpg

f0140054_17465251.jpg

f0140054_1747413.jpg

エリコでは数々の逸話があります。マルコの福音書・マタイの福音書にあるエリコの盲人の話や、ルカの福音書にある善きサマリア人の譬え、ザーカイの話などです。

一番有名な善きサマリア人の譬えを引用してみます。律法学者の「隣人とは誰か?」という問いに答えたイエスの言葉です。

「ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。 おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪い、その上その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。たまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。同じように通りがかったレビ人も見て見ぬふりをした。しかしあるサマリア人は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。翌日、そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います。』」ルカの福音書(10.30~37)

サマリアは、エルサレムのあるユダヤ中心部と、北のガラリヤの間の地域です。アッシリアからの移民が多く混血が進み、サマリア人はユダヤ人にイスラエル人の血を穢した者といわれ忌み嫌われていました。
ユダヤ律法学者からすれば、サマリア人は当然「隣人」たり得ない存在だったわけで、この文脈の前提となっています。

この善きサマリア人の譬えについては、仁慈と助けの解釈、自己義認の誤りの論破としての解釈、人種差別否定の思想という解釈などがあります。

↓(参考)フランソワ=レオン・シカール「傷ついた旅人に救いの手を差し伸べる『善きサマリア人』の彫像」
f0140054_1755197.jpg

この善きサマリア人の譬えは後世に大きな影響を与え、窮地の人を救うための「善きサマリア人の法」がアメリカやカナダなどで施行されています。

エリコでの話はどれも、イエスの差別されている人々への思いが感じられるものばかりです。

↓現在のエリコ街道
f0140054_17481036.jpg

f0140054_17482342.jpg

↓エリコの露店など(アラブ人の露店や土産物店では価格表示がほとんどありません)
f0140054_17485358.jpg

f0140054_17491412.jpg

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。
2014年 04月 18日 |
エリコ(ジェリコ)は世界最古の町と言われ、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区すなわちパレスチナ国に属します。
周辺は荒野ですが、オアシスがあり泉が湧くため、BC8000年紀頃の古くから人が住みついていたようで、多くの遺跡も発掘されています。エリコは古くから栄えた貴重なオアシス都市・交易都市と言えるでしょう。

↓エリコの泉
f0140054_21252216.jpg

↓世界最古であるとともに地球上で最も低い海面下1300フィートの市であると書かれていました。
f0140054_21254811.jpg

ここは旧約聖書の大きな舞台で、東や南の砂漠地帯から来るとカナンの地の入り口に位置することから、出エジプトから荒野を彷徨った民の目標となります。ユダヤの指導者モーセはエリコの攻略を果たせず没し、次の指導者であるヨシュアにより攻略することができました。

・・民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。(ヨシュア記6.20~21)

エリコ(ジェリコ)の戦い、あるいはエリコ大虐殺と呼ばれているものです。はるか紀元前1300年ころの出来事なので、これが史実であったかどうかは分かりませんが、ユダヤ人が先住者を武力で征服して行った過程が反映されているようです。

↓現在のエリコの町(完全にイスラム化されたアラブの町です)
f0140054_21265213.jpg


エリコの戦いからずっと時代は下って、紀元30年ころ、イエスは、ヨハネから洗礼を受けた直後、荒野に行きます。

「それ[受洗]からすぐに御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。」(マルコの福音書1.12~13)

このイエスがサタンの試みに遭った場所が、ここエリコの山(クルントゥル山)であると伝えられます。
クルントゥル山はイエスがサタンの誘惑をしりぞけた山なので「誘惑の山」と称されます。

↓誘惑の山と野鳥
f0140054_21273218.jpg

↑右側の電線のようなものは、ロープウェイ架線で、エリコのテル・アッスルターン遺跡から誘惑の山へ架かっています。
世界で最も低いところにあるロープウェイとしてギネスブックに登録されているとのことです。

↓クルントゥル山のアップ
f0140054_2128444.jpg

↓山に掘られた穴のようなものが見えるでしょうか? 東ローマ帝国時代は、多くの修道士がこのあたりに洞窟を堀ってイエスと同じ瞑想をしたそうです。
f0140054_21284882.jpg

↓イエスが行った荒野のイメージに近いと感じたエリコの無名の山
f0140054_21291138.jpg

イエスは40日のあいだ荒野にいたことになっていますが、この40という数字は厳しい試練を指す定番数字です。(旧約聖書のモーセがシナイ山で40日も神とともに過ごし、出エジプトの民が荒野を彷徨ったのも40年間で、さかのぼればノアの方船の時40日も雨が降り続きます。)


ところで、釈迦は6年の激しい断食苦行の後、断食の無意味を知り、乳かゆを飲み、仏陀伽耶(ブッダガヤ)の菩提樹の下で瞑想し、悪魔の誘惑にあい、それを退け、悟りを開きました。私はイエスの荒野の過ごし方に、釈迦のこの瞑想を強く連想します。


マルコの福音書では、イエスは「荒野にいて、サタンの試みにあわれた。」とあるだけで、断食したとは一言も書かれていません。(私は、ここでイエスはすでに断食の無意味を知っており、瞑想したのだと思います)

これがマタイやルカの福音書になると、余計な解説が加わり、イエスが断食したことになり、こと細かくサタンの誘惑ストーリーが詳しく書かれていますが、サタンの誘惑内容がなぜ細かくイエス以外の人に分かるのでしょうか?これはマタイやルカの考えで付け加えられた脚色だと思います。

それでは、サタンの試みとは何でしょうか?

イエスは、ヨハネの洗礼を受け、救済者となることを決意した後、「心の整理」に静かな荒野に向かったのではないでしょうか。
荒野で静かに瞑想することで、自己の内なるサタンすなわち自分の心の表層意識だけでなく深い潜在意識にまで存在する「迷い」と徹底的に対決したのです。
そしてその「迷い」を克服し、サタンの試みに打ち勝ったのです。

釈迦も瞑想することで悪魔の誘惑を退けています。

私はイエスの荒野の試みは、釈迦の瞑想大悟に極めて近いと考えます。


↓エリコのドライブインで騒ぐ現在のエリコの若者たち
f0140054_2130145.jpg

f0140054_21302031.jpg

↓陽気に騒ぐエリコの若者たちの後方はるかに、誘惑の山が夕陽に輝いていました・・・
f0140054_2131578.jpg

ここエリコは、後にイエスの活動の舞台として再登場します。ザーカイの話や良きサマリア人の話、エリコの盲人の話などです。
それらについては後日また機会があれば書きたいと思います。

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。
2014年 04月 16日 |
マルコの福音書によると、「イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(マルコの福音書1.9)としてイエスが舞台に登場し、ここからイエスの公生活が始まります。

ヨルダン川はガリラヤ湖から南へ流れ出て、地の底の死海に注ぐ川です。ガリラヤ湖付近では緑が多いのですが南下して死海に近づくにつれて周囲の環境は砂漠のようになっていきます。
洗礼者ヨハネはそのヨルダン川に全身を浸かるような形で、民衆に洗礼を施していたようです。

現在のヨルダン川は、ヨルダンとの国境のため一般の人は近づけない場所となっています。
そこで、ヨルダン川そのものは無理としても、ヨルダン川が刻んだヨルダン川渓谷にそって、パレスチナ国の東側ぎりぎりを南下してみました。

↓ガリラヤに近いヨルダン川西岸地区北部から見るヨルダン川渓谷(向こう側の盛り上がった山々はヨルダンです)
f0140054_11152361.jpg

↓ヨルダン川渓谷を川下に南下すると、だんだん乾いた荒野になってきました・・・
f0140054_11154015.jpg

↓死海付近になると、ほとんど砂漠です。
f0140054_1116269.jpg

ヨハネがヨルダン川のどこで洗礼を施していたかは分かりませんが、聖書では荒野という表現がありますので、死海に近い場所であった可能性が高いです。


さて、マルコは洗礼者ヨハネの血筋や生い立ちについて一切語りません。
マルコが強調するのは旧約聖書の預言の実現としての洗礼者ヨハネです。

預言者イザヤの書に、
「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、
あなたの道を整えさせるであろう。
荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と書いてあるように、洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めの洗礼を宣べ伝えていた。
(マルコの福音書1.2~4)

旧約聖書を正確に見ると、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。」(マラキ書3.1)と「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、砂漠にわれわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」(イザヤ書40.3)となっており、マルコはこの二つの預言を一つに合成しています。
つまり、マルコは細かいことより、洗礼者ヨハネは、神の御計画による預言の成就であることを言いたいのす。

すなわち、洗礼者ヨハネはイエス・キリストの先駆者として神から遣わされた預言者であることを簡明に記述しているのです。

↓ヨハネの洗礼を受けるイエス(ナザレの受胎告知教会の扉レリーフの中のアップ)
f0140054_11162714.jpg

↓(参考)アンドレア・デル・ヴェロッキオ「キリストの洗礼」(左下の天使の絵は若きレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたそうです)
f0140054_11185243.jpg

洗礼者ヨハネは、どのような人物だったのでしょうか?

「このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。」 (マルコの福音書1.6)

野蜜と呼ばれているものは、多くの研究者たちがナツメヤシの実のことであるとしています。旧約聖書の出工ジプト記などに出てくる、カナン地帯を形容する言葉 「乳と蜜の流れる地」の蜜は、ナツメヤシのことだからです。

↓生のナツメヤシ(キブツ農場にて撮影)・・・干したデーツとはまた違う風味で美味しかったです。
f0140054_11164448.jpg

「らくだの毛ごろも」というのは、当時の定住しているユダヤ社会においては、異様なものであったようです。
服装も食べ物も、荒野に生きる禁欲的な修行者&預言者にふさわしいものであり、当時の遊牧民にも近く、洗礼者ヨハネがエッセネ派に近接した存在であったことを思わせます。(ヨハネとエッセネ派の関係については諸説あり決め手がありません)

マルコの福音書の記述に近い洗礼者ヨハネの姿の絵画と彫刻作品を挙げてみます。

↓エル・グレコ「洗礼者聖ヨハネ」
f0140054_11191895.jpg

↓フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ「洗礼者聖ヨハネ」
f0140054_11193871.jpg

歴史的には洗礼者ヨハネは、ユダヤ教とキリスト教を橋渡しする役目を果たしたと言えるでしょう。
洗礼と言うのは過去にも例はあったようですが、本格的に洗礼を宣教のメインにおいて強く実施したのはヨハネがはじめてでした。
後世、キリスト教はこの洗礼を儀式として受け継ぐことになります。

マルコの福音書でも、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。 」(マルコの福音書1.7)と洗礼者ヨハネ自身が述べています。

マルコは、ルカの福音書のように洗礼者ヨハネをイエスの親類縁者として血筋で結びつけるのではなく、ヨハネの洗礼による荒野の宣教活動そのものがイエスの到来を準備するものだとして描いています。(必要なことだけを書いて、余計な脚色や説明を加えないのが、マルコの福音書の素晴らしさです)

ヨハネがイエスに洗礼をしたことについては、預言者がメシアを洗礼したことになり不思議な気もしますが、マルコの福音書を読んで考えて見れば了解できます。

すなわち、イエスは世に伝道する公生活をはじめるにあたって、ヨハネの洗礼による宣教を認め師事し、最後にして最大の預言者となるヨハネから洗礼を受けることによって、自らを預言の完成者として旧約聖書の全救済史と結びつけたのです!

だから、マルコは、「イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコの福音書1.1)という言葉の次に、旧約聖書の預言の実現としての洗礼者ヨハネを強調して紹介しているのです。


当時ガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスは、弟の妻であったヘロディアを自分の妻にしました。洗礼者ヨハネはこの婚姻を不義として非難したため、捕えられて投獄されます。

ヘロディアの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」(マルコの福音書6.22~24)

この娘がサロメで、後世にオスカー・ワイルドの「サロメ」として戯曲化されます。

↓(参考)モロー「出現」
f0140054_11202034.jpg

こうして洗礼者ヨハネは殺されました。
後に、イエスが伝道をはじめその噂が流れた時
「ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ』と言った」(マルコの福音書6.16)とあります。


余談ですが、ヨハネという名前は英語で言うジョンで、男の名としては一番多い名前なので混同しやすいです。
洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)と、イエスの直弟子十二使徒のヨハネと、マルコの福音書を書いたマルコと呼ばれるヨハネと、ヨハネの福音書を書いたヨハネと、ヨハネの黙示録を書いたヨハネは、それぞれ全部別人です。

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。

More 追記(マルコの福音書における旧約聖書の引用について)
2014年 04月 08日 |
聖カテリーナ教会は聖誕教会に隣接し、聖誕教会の一部でもあるのですが、カトリックのフランシスコ会の教会で、とても美しく雰囲気が違うので独立したエントリーとしました。

聖誕教会のアルメニア使徒教会礼拝堂のドアから出るとすぐにフランシスコ会の聖カテリーナ教会に続きます。
毎年12月24日には、世界各国へここからクリスマスのミサのテレビ中継が行われます。これをミッドナイトミサといいます。イエスの誕生した場所なのですから、これぞ本物のクリスマスですね。

↓御覧のように聖誕教会とは違ってとても綺麗な教会です。
f0140054_6342925.jpg

この教会内部の上品な美しさは見事で、さすがカトリックと感じました。
思わず夢中でシャッターを切り続けました。

それでは、聖カテリーナ教会の写真をお楽しみください。
f0140054_6495551.jpg

f0140054_6351728.jpg

↓イエス誕生と東方の三博士のステンドグラス
f0140054_6353421.jpg

f0140054_6355139.jpg

f0140054_63651.jpg

f0140054_6362756.jpg

f0140054_6373573.jpg

↓12月25日から翌年1月6日まで、聖誕教会のベツレヘムスター星イコンの上に置かれる生まれたばかりのイエスの像(普段はここ聖カテリーナ教会に置かれています)
f0140054_6365928.jpg

この聖カテリーナ教会にも地下洞窟があります。 ここは迫害を逃れて神学者ヒエロニムスがヘブライ語の旧約聖書をラテン語に翻訳した有名な場所なのです。すなわち非常に長くカトリックの公式スタンダードとなった「ブルガタ(ウルガータ)版ラテン語聖書」の作成された地です。
ヒエロニムス(イエロニム)は後世、聖人とされました。

↓そのヒエロニムス洞窟で行われていたミサ
f0140054_6381641.jpg

↓聖カテリーナ教会出口にはヒエロニムス像が印象的に立っています。
f0140054_6395567.jpg

f0140054_6413822.jpg

↓ヒエロニムス像アップ(足元に見えるしゃれこうべは翻訳助手の婦人パウラで、ヒエロニムスは彼女の死後は骨をそばにおいて翻訳作業を進めたそうです)
f0140054_6402169.jpg

f0140054_642454.jpg

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。
2014年 04月 05日 |
いよいよイエス・キリストの誕生した地下の洞穴に入ります。

↓イエス生誕洞穴へ降りる階段の上の浮き彫り。
f0140054_22282765.jpg

↓階段の下右に人がかがんで、祈っているようです。あそこだ。
f0140054_22291370.jpg

↓おお、見えてきました、イエスが誕生した場所のベツレヘムスターです。
f0140054_22293567.jpg

↓大理石の床に14芒に輝く金属の星があり、その真ん中に穴が開いており、「ここでイエス・キリストは聖母マリアから生まれた」と刻まれています。
f0140054_2230775.jpg

↑皆さん、この星の穴に触ります。私も触り祈らせていただきました。

いささか感動です。これぞまさに、西暦「紀元」の起源の場所ですね!

このベツレヘムスターはフランスから献上されたものです。

↓ベツレヘムスターの上の祭壇です。
f0140054_22304088.jpg

↓洞穴の岩肌を隠すようにタペストリーが架かっていました。
f0140054_231828.jpg

↓イコンの向かい側は掘られて洞穴祭壇となっておりミサが行われていました。
f0140054_22311628.jpg

↓イコンの洞穴の奥のスペースと飾られた絵画など。
f0140054_2231432.jpg

以上のようにイエスが誕生した洞穴は狭く、そこに次々と非常に多くの人が参りますので、圧迫感がありました。
今は大理石が貼られ、いろいろ飾られていますが、イエス誕生当時は床も壁も岩が剥きだしの小さな洞穴でした。庶民であったイエス・キリストが生まれた場所はやはり狭く質素だったのです。

洞穴反対側の階段を登って一階に出ると、アルメニア使徒教会の礼拝堂がありました。
f0140054_22322669.jpg

f0140054_2233652.jpg

↑アルメニア使徒教会の壁や絵画は古ぼけて地味っぽいのですが、歴史を感じました。

↓ギリシャ正教の絵画や飾りは豪華な雰囲気でした。
f0140054_22333389.jpg

f0140054_2234195.jpg

f0140054_22344497.jpg

↓聖誕教会の小さな窓の奥に教会創建時代に描かれたと思われる壁画が見えました。
f0140054_2235997.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。
2014年 04月 04日 |
イエス・キリストはベツレヘムで誕生しました。以下、そこを説明した新約聖書の一節から

そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリアの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリアと共に、登録をするためであった。 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは月が満ちて、 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。(ルカの福音書2.1~2.7)


ヨセフとマリアがベツレヘムにたどり着いた時、彼らは宿を見つけることが出来なかったのです。
それでイエスは馬小屋として使われていた洞穴で生まれたそうです。(当時、庶民には洞穴住居も多かったようです)
今はそこに聖誕教会(降誕教会)が立っています。


ベツレヘムはエルサレムから割と近い町なのですが、ヨルダン川西岸地区にあります。
つまり、現在はパレスチナ国に属しているため、分離壁の向こうにあり検問所を通らなければなりません。
かつて、聖誕教会にパレスチナ・ゲリラが立てこもったことがあるため割と警戒は厳重です。

↓イスラエル側から見た分離壁
f0140054_752199.jpg

↓パレスチナ側から見た分離壁~落書きだらけです。
f0140054_7525292.jpg

ベツレヘム(パレスチナ国)に入ったとたん、ごちゃごちゃした感じになります。

↓乗ったタクシーから見たベツレヘムの市内
f0140054_7531159.jpg

↓ベツレヘムの街
f0140054_753271.jpg

↓いよいよ聖誕教会付近に到着しました。
f0140054_753517.jpg

↓聖誕教会前のメンジャー広場
f0140054_7541470.jpg

聖誕教会(降誕教会)は、イエス・キリストが生まれた洞穴を中心として、その上に立てられている聖堂を、ギリシャ正教会、アルメニア使徒教会、ローマ・カトリック(フランシスコ会)が区分所有しています。現在、周辺はアラブ(イスラム教徒)の町となっています。

ユネスコの世界遺産となった非常に古い教会で、まさに古色蒼然としており、新しく綺麗なナザレの受胎告知教会とは対照的でした。
古い建築様式である聖誕教会の外観は教会というより城壁砦のようで歴史の重みを感じます。

↓後光が差しているような逆光の聖誕教会の塔
f0140054_7545473.jpg

教会内部は古い建築のため窓が小さく、非常に暗く、修復工事もしているようでした。(教会設立以来、最大規模となる修復工事で何年もかかるそうです)

↓聖誕教会の内部
f0140054_7551756.jpg

はじめてキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の時代に、イエスが生まれた洞穴の上に聖堂の建設が始められ、339年に完成しました。
その最初の聖堂は6世紀の火災で一部失われましたが、モザイクの床が現存しています。
現在の床を一部めくって、その下部にある最初のモザイクの床を覗けるようにされていました。

↓ローマ時代に貼られたモザイクの床
f0140054_7561639.jpg

↓古色蒼然たる壁と柱と非常に小さな入口
f0140054_7565277.jpg

↓正面にあるギリシャ正教会の祭壇
f0140054_757141.jpg

ギリシャ正教会の祭壇の下にイエスが生まれた洞穴があるのですが、狭い場所であり、世界中の巡礼者が押し寄せているので、1時間ほど順番待ちをしました。
今回の旅では、エルサレムの聖墳墓教会に次ぐ混み具合でした。これは仕方がありません。
世界中の10億人を超えるキリスト教徒にとっての聖地なのですから当然のことでしょう。順番待ちの皆さんも喧嘩せずマナーを守っておられました。こういう神聖な場所はあわてず心に余裕をもって臨みたいものですね。

↓生誕洞窟に降りる階段で順番待ちする中国系の団体とイギリスから来た巡礼団です。
f0140054_7574537.jpg

↓アルメニア使徒教会の祭壇と混み合う巡礼団の人々
f0140054_7581441.jpg

いよいよイエス生誕の洞穴に入ります・・・

にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチしていただければ幸いです。御覧いただき、ありがとうございます。
PageTop
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Starwort Skin by Sun&Moon