模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
カテゴリ:トルコ( 33 )
|
2017年 01月 01日 |
f0140054_7514037.jpg

マハトマ・ガンジーの有名な言葉に

 『 Learn as if you will Live Forever, Live as if you will Die Tomorrow. 』

 (明日死ぬかのように生きて、永遠に生きるかのように学べ)

というのがあります。

年齢を重ねるにしたがって、ますます心にしみる言葉ですね。


毎日、悔いないように力を尽くして生きること。
そして、永遠に、ときめきを忘れず、勉強を続けていくことです。


そんな気持ちで、今年も頑張っていこうと思います。


本年も、どうぞよろしくお願いいたします。


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2016年 11月 18日 |
昨日、「第6回グループ温故斬新写真展」が無事閉幕しました。

多くの方々に来場いただき、本当にありがとうございました。

遠方から来ていただいた方もおられ、感激しております。

私が在廊していない折に、私の作品を見に来ていただいた方もおられたようで、申し訳ありません。

↓写真展の全体展示
f0140054_15464161.jpg

四人それぞれの個性が溢れる写真展だという御評価が多く、とても嬉しかったです。

↓私の作品展示・・・「明暗の世界」というテーマで、トルコの旅の写真からセレクトしたものです。
f0140054_1547074.jpg

↓私の出品作から一枚大きく載せます。

『静寂の時間』
f0140054_15471999.jpg

感想メモを残していただいた方々も多く、ひとつひとつ読ませていただきました。
熱心に見ていただき、感想まで残していただき、感謝するばかりです。

↓今回、「感想&名刺投入箱」に残されていた感想メモの数々(小さいサイズで掲載させていただきます)
f0140054_15555981.jpg


ご来場いただきました皆様には、本当に心より感謝しています。
オリンパスプラザの係員の皆さんをはじめ、御協力を賜りました方々には、深く御礼申し上げます。
また、ネット上のコメントやメール等で温かい応援を送っていただいた方々にも、感謝いたします。


皆さん、ありがとうございました!



にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
2016年 11月 08日 |
トルコ記事では遺跡案内が続きましたので、今日はトルコの食べ物の話を。

私は魚介が好きなので、世界各国でよくシーフード料理を食べます。
トルコでも、いろいろ食べましたので、まとめて紹介してみます。

日本人なので世界の魚料理にはどうしても辛口評価になりがちですが、トルコは中近東ではベターというか、まずまず魚料理がいけると感じました。

↓トルコで一番美味しかった魚料理。アンタルヤの豪華ホテルのバイキングスタイルの夕食 で食したフエダイ
f0140054_7252640.jpg

↑これは料理が秀逸というよりフエダイという魚自体が非常に美味なので、素材の良さが出ていると思いました。
とはいえ。ここは評判のシェフがいるだけあって全般的に水準が高く、例えば、フエダイの左下がトルコピザで、右下がパプリカの肉詰め(ドルマ)ですが、ともに文句なく非常に美味でした。

↓アンタルヤで味をしめてパムッカレで注文した魚料理・・・うーんいまいち。身が柔らか過ぎうまみが出ていません。
f0140054_7261533.jpg

イスタンブールでは、ちょっと高級なレストランにも一度だけ行ってみたのですが・・・

↓前菜は豪華でした。
f0140054_7264345.jpg

↓メインはサバなんですが・・・・残念、期待外れ。揚げ過ぎパサパサ感・・・
f0140054_72775.jpg

そこで、別の小さなレストランで再挑戦。

↓ここの前菜サラダはマリーネ風で美味でした。
f0140054_7273393.jpg

↓メインの魚は・・・うーんまあまあ普通でした。
f0140054_727489.jpg

レストランの魚料理はあきらめて、安いサバサンドを食べてみると・・・

↓自撮りサバサンド。これは行ける!
f0140054_7281026.jpg

結局、イスタンブールの魚料理では、一番安いサバサンドが一番美味しかったという結果でした(汗)

もちろん味は人それぞれの好みに左右されますので、以上の結果はあくまで私の個人的な評価です。

私には全般的に、トルコでは調理過剰気味で、肉類は非常に良いのですが魚はいまいちに感じます。これは、日本人の私は魚の素材の味の良さを知っているので、シンプルな味付けを欲してしまうからでしょう。
あえて言わせてもらえれば、サバはシンプルな塩焼きが一番です(笑)


<補遺>

↓トルコの魚屋さんの店先ディスプレイ。なかなか綺麗です。
f0140054_7284899.jpg

↓これはオコゼ系だと思いますが、何もここまでしなくともと思ってしまいました。
f0140054_729892.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More  写真展のお知らせ
2016年 11月 02日 |
ハットゥシャ遺跡の最終回です。

スフィンクス門を後にして、城壁にそって南東に行くと、ちょうどライオン門の向かい側という位置に、王の門があります。

↓王の門
f0140054_8381066.jpg

ここは、ヒッタイト王ではないかと思われたレリーフが発見されたので「王の門」と名づけられたのですが、後にそのレリーフは王ではなく「戦いの神」であることが判明しました。

↓そのレリーフです。
f0140054_8384087.jpg

確かに、このレリーフは、ヤズルカヤ遺跡で見た浮彫りと同じで、とんがり帽子で短いスカートを履いており、身体は前向きで、顔は横向きというヒッタイトの男神像様式そのものです。

↓胸のあたりをアップで撮影。鉄の武器を持っているように見えます。
f0140054_8393094.jpg

↓王の門の外側の景色です。切れ込んだ谷になっています。
f0140054_8394826.jpg


この王の門にある像はレプリカで、オリジナルはアンカラのアナトリア文明博物館に収蔵されています。

↓アナトリア文明博物館に収蔵されている「戦いの神」のオリジナル浮彫り
f0140054_924299.jpg

↑石灰岩でつくられており高さは225cmあります。王の門の内側で発見されたそうです。BC14世紀。深彫りで彫刻のようですね。

せっかくヒッタイトを紹介している良い機会なので、アナトリア文明博物館に収蔵されているハットゥシャ遺跡出土品を以下、いくつか紹介します。

いずれも、まさにここハットゥシャ遺跡にあったオリジナルの本物ですので、この写真を見ながら、遺跡の風景や復元俯瞰想像図も参考にして、ヒッタイト帝国首都の古代ロマンに思いを馳せてください。

↓双頭のアヒル小像。焼成粘土で20.2cm。BC14世紀。小さいながら存在感のある見事なものです。
f0140054_845521.jpg

↓牛の形の儀式用器。焼成粘土で90cm。BC16世紀。牡牛はヒッタイトの嵐の神で主神のテシュプを象徴しています。
f0140054_8463234.jpg

↓楔型文字のタブレット。焼成粘土で26.5cm。BC16世紀。儀式の生贄について書かれているそうです。
f0140054_846525.jpg

↓ヒッタイト王ウリーテシュブの印刻。焼成粘土で3.95cm。BC13世紀。この時代からハンコが重要な役割を果たしていました。
f0140054_8471730.jpg

↓リング状容器。焼成粘土で30cm。BC14世紀。秀逸なデザインの見事な焼き物です。
f0140054_84741100.jpg

↑最後のリング状容器は素晴らしいもので、現代陶芸の作品と言っても通用するよう斬新な造形です。

ヒッタイトは滅亡してしまい、首都ハットゥシャが風雨の強い山岳地帯にあったため目立つ遺跡も多くは風化してしまいましたが、残された遺跡出土品を見ると、なかなか見事で、あらためてヒッタイト文化の素晴らしさを実感しました。

ヒッタイトは、派手なエジプトと比べると無味単純な古代軍事国家と考えられがちですが、実は建築や宗教・芸術も盛んな当時としては最先端の文明国であったのです!



さて、ハットゥシャ遺跡について、周囲の尾根の城壁と門などを紹介してきましたが、北側の下界に開かれた部分がどのようであったのかを最後にお見せします。

↓北側の平地に建てられていた城壁(復元されたもの)
f0140054_8412090.jpg

↑手前の礎石が並んでいる場所が大神殿と下市の遺跡最下部で、その向こう側下方(南側)には最近建てられた復元城壁がありました。現在の遺跡入り口横です。

周囲6kmの尾根城壁の北側平地には、このような城壁が横にまっすぐ佇立し谷を横切り、敵の侵入を防いでいたのです。



 ~ エピローグ ~

紀元前17世紀から約500年に渡り、鉄器文明を擁してオリエント世界に勇名を轟かせたヒッタイトですが、紀元前12世紀の終りごろ、突然滅亡しました。

これは「前1200年のカタストロフ」と呼ばれる大きな災厄で、古代エジプトからアナトリア半島、ギリシア本土に至る東地中海世界を震撼させました。中でもヒッタイト帝国とミケーネ文明の崩壊が最も大きな出来事です。

原因は「海の民」と呼ばれる異民族の侵入によるとされてきましたが、急激な天候異変による飢饉や巨大地震説も有力で、いまだ結論が出ていません。


「海の民」というのは大きな謎で、エジプトの古代文書にも書かれており、戦闘的な民族が当時の先進地帯であるオリエントに攻め込んで来たのは事実のようです。
彼らは、現在のイタリアから来たエトルリア人であるとか、後に レトーンとクサントスの遺跡 を建設したリキア人であるとか、西方諸蛮族の混成民族移動であるとする説もあります。


後のゲルマン人やノルマン人の侵入のような大きな出来事が古代に起こったわけで、通説によるとヒッタイト帝国はそれにより滅亡し、歴史上から姿を消したのです。ただ、そのおかげで、ヒッタイトが秘密にしていた鉄の精錬技術が周辺に広がり、鉄器文明の時代を現出したのです。


ヤズルカヤ遺跡やハットゥシャ遺跡に立って、我々はこの失われたヒッタイト帝国の歴史に思いを馳せます。

栄枯盛衰は世の常とはいえ、ここまで巨大な当時の文明国が一瞬に滅んでしまい、記憶の彼方に忘れ去られてしまった事実に、驚くとともに茫漠たる思いにとらわれます。

名作長編アニメ『天は赤い河のほとり』の舞台でもありますので、トルコに行かれた際は、ぜひこの古代文明の跡をご覧なり、遥かなる歴史世界を旅してください。


↓最後は遺跡に咲いていた印象的な野の花(野生のスミレの一種)を掲載します。さらば、ヒッタイトの遺跡!
f0140054_843315.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More 写真展のお知らせ
2016年 10月 30日 |
ライオン門からさらに南へ上っていくと、標高が1236mとハットゥシャでの最も高い部分に、スフィンクス門があります。

↓スフィンクス門。ここはハットゥシャ遺跡の一番頂上ですので、3月でしたが雪が残っていました。
f0140054_8464778.jpg

写真のように、門の両側のスフィンクスの像は、有翼人面で身体はライオンの立った姿勢に作られています。顔はややふっくらしており女性的な感じがします。このスフィンクス像はレプリカで、オリジナルは海外流出などの紆余曲折があったものの現在はボアズカレの博物館に収蔵されています。

↓顔部分をアップ
f0140054_8471693.jpg

↓後方から撮影。翼部や尻尾部分の彫り込みも、なかなか見事なものです。
f0140054_8474588.jpg

エジプトのギザの大スフィンクスは座った姿勢で翼はありません。有翼で女性の顔をしたスフィンクス像は、古代オリエント世界によく見られるもので、ここハットゥシャのスフィンクスもその系統に属すると考えられます。

また、嘴を持つ鳥のような頭部のスフィンクスも多く、ペルシアやギリシアのグリフィン像系にも通じるものがあります。アジアの狛犬やシーサー文化にも影響を与えた可能性もあります。

このスフィンクス門を見ると、こうした各種のスフィンクスが世界の広い文化交流の基盤にあることが実感されます。

↓縦構図で撮影
f0140054_8484724.jpg

このスフィンクス門は、ライオン門(前回紹介済)や王の門(次回紹介予定)と違って、トンネル状の門の脇柱に彫り込まれたものではなく、城壁の頂上部に置かれている感じです。

↓スフィンクス門の付近は大城壁上の大きな長方形の広場になっており、ライオン門や王の門とはまったく雰囲気が違います。
f0140054_8494248.jpg

スフィンクス門には、城壁下部から登っていかねばならないこともあり、ひょっとして、この門のある頂上部分は、通常通路ではなく儀式用の場所ではないかと考えられます。それは、以下に述べる地下道(イェルカプ)との関連性からも導き出されます。


スフィンクス門の真下に、地下道(イェルカプ)があり、城壁の中のトンネルを通って外に出ることができます。
長さが約70mもあり、天井高は約3mで、結構、本格的なものです。これが大いなる謎のトンネルなのです。

↓地下道(イェルカプ)入り口
f0140054_8503989.jpg

地下道は明かりが無いので暗いですが、高さは3mくらいあり屈む必要はなく、先に出口の明かりが見えるので、足元さえ注意すれば通り抜けるのは、そんなに怖くありあせん。

↓遠くに出口が見えます。
f0140054_8513026.jpg

↓地下道内部
f0140054_8521516.jpg

↓尖塔アーチ状に積み上げられた巨石で構成された内部構造で、これは後から掘られたトンネルではありません。
f0140054_8523939.jpg

↓通り抜けて振り返って撮影した地下道出口。しっかりした巨石で目立つ門です。
f0140054_8531656.jpg

↓地下道を出た、城壁外側の景色・・・雪をかぶった渓谷が見下ろせ、遠くに山々が広がっていました。
f0140054_8534524.jpg


この、地下道(イェルカプ)は、いったい何のために作られたのか?
これは大きな謎で、諸説あります。主な説は三つあります。

(1)隠し抜け道
(2)非常時に兵士を繰り出すための通路
(3)通常利用の外部への近道通路

(1)については、内側も外側も相当目立つ巨石による頑丈な構造になっており、隠された抜け道というのは解せません。
(2)については、可能性はありますが、ここだけに兵士用特別門があるというのは何故なのかという疑問が残ります。
(3)は、この上にあるスフィンクス門は宗教的儀式用の門で、通常はこの地下道を出入り口に使ったとする考え方です。

そこで、じっくりと現場で考えてみました。

↓ハットゥシャ遺跡(前編)でアップした遺跡地図の南側を部分的に拡大して再掲します。
f0140054_855375.jpg

↑南端のスフィンクス門の下の黄色い線が、地下道(イェルカプ)で私がパソコンで加筆しました。

西のライオン門と、東の王の門は、ペアで作られており、それに対してスフィンクス門は南側頂上の造成された大城壁上の特殊な場所にあります。

さらに、地図を見るとスフィンクス門の南北両側は、極端に等高線が込み合っており、直線的で、巨大な人工的石垣の積み上げ城壁構造であることが、分かりますね。

↓地下道の出口外側から振り返って見上げる城壁。巨大な規模の石垣積みの構造物で、しっかりと造られています。驚くべき見事な石垣で、そのど真ん中下部に地下道出口が鎮座しています。
f0140054_8571549.jpg

↓地下道を戻って、遺跡の内側から城壁を撮影。北斜面になるので雪をかぶっていますが、こちら側も巨大な造成斜面であることが分かります。
f0140054_8574624.jpg

つまり、ここは地形的な高い場所に、さらに石垣を積み上げて造られており、地下道は、あらかじめ造成時に石垣をアーチ状にして通路として残された空間建造物なのです。
地下道のアーチ構造空間の上に、さらに石垣が積み上げられ、その最上部に、スフィンクス門が置かれているのです!

地下道は外側に向かって傾斜していますが、これは本来のこの尾根の向こう側に傾斜していく山の地形がそのまま残されているからでしょう、


以下の記述は、あくまで私見です。

現場を体験してみると上記(3)の説が、正しいように思えました。
この地下道は堂々たる門構えで目立ち、南端巨大城壁の中心に位置し、隠し抜け道ではありません。
もし、王族用の脱出抜け道を造るなら、こんな南端の高い場所ではなく、王城要塞(ブユックカレ)に造るべきでしょう。

次に、この地下道は3200年以上経過しても崩れない構造で、人が屈まなくても余裕を持って通れる内部の3mという高さも、前回の記事で掲載したライオン門の復元想像図のトンネル構造とそっくりです。このことからも、地下道は通常利用の外部への通路門であったと想像されます。
城壁が超巨大になったので、通用門も70mという長いトンネルになってしまったのです。(もしここの城壁が小さければ、このトンネルはライオン門と同じ規模であったでしょう)

普段は、わざわざ城壁頂上のスフィンクス門を通らず、地中をトンネルでショートカットすれば便利です。

また、スフィンクス門は、ライオン門や王の門とまったく違い、儀式用の雰囲気がしました。
スフィンクス門は、首都ハットゥシャで最も高い場所にあります。位置的にも首都南端にあり、周囲6kmにわたるハットゥシャを囲む城壁の中でも一番大きくて頑丈に造られた高い城壁のてっぺん中央です。
ここには、何か、象徴的あるいは宗教的な意味があったのではないでしょうか?



↓今日の最後は、遺跡に咲いていたワタスゲのような花です。
f0140054_90575.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More 写真展のお知らせ
2016年 10月 27日 |
ハットゥシャ遺跡は、北が低く南が高い広い谷に位置し、東~南~西に尾根のある防御に優れた形になっています。ここが、ヒッタイトの首都に選ばれると、尾根上に外周6km強の城壁が築かれ全体を取り囲み、大きな城塞都市として機能していました。

北側低地のグリーンストーンのある大神殿遺跡の一帯が「下市」と呼ばれ当時の住居跡もあります。ここから南西に向けて、現在は整備された急な道路を上っていくと「上市」と呼ばれる山の手の遺跡跡に至ります。この上市の最西にある城壁の門がハットゥシャのシンボルとして有名な「ライオン門」です。
f0140054_332638.jpg

↑写真のように、向かって右側のライオンは古いオリジナルで、左側のライオンの顔は破損していたため復元された新しいものです。

↓左側ライオンの横顔・・・顔の部分だけが新しいので少し違和感があります。年月が経過すれば馴染むかも知れませんね。
f0140054_3323715.jpg

↓右側ライオンの横顔・・・やはりこちらの古いほうがナチュラルで風格があります。ライオンの身体に模様もわずかに残っています。
f0140054_3335679.jpg

↓右側ライオンの上部も入れて斜め前から撮影
f0140054_3342899.jpg

本来は上部を巨大な石垣アーチ壁に取り囲まれたトンネル状の強固な門で、門扉は一説によるとヒッタイトらしく鉄製であったとのことです。

このライオン像は城壁の外側を向いており、城壁内に悪霊が入るのを防ぐ役目を持っていました。また、はじめてここを訪れた者に対しても、圧倒的な威圧感を与えていたと想像されます。

↓説明看板
f0140054_3354361.jpg

↓説明看板右下のライオン門の復元想像図を拡大してみます。巨大な石垣が上部を取り巻いていたのです!
f0140054_336182.jpg

↑ライオン門は、まるで頑丈なトンネルのような感じで、非常に大きな建造物であったことが分かります。
これは、次回に掲載するスフィンクス門地下道(イェルカプ)の謎を解くカギになる写真です。


この復元想像図のライオン門を見ると、門番のライオンが巨大な石垣トンネル門を両側から保護しているように感じられました。
これは、まさに後にアジアに広がる、狛犬やシーサー文化のルーツではないでしょうか?


↓昼食レストランのテーブルクロスにデザインされたライオン門。やはりここは、遺跡のシンボル的存在です。
f0140054_3375514.jpg


ハットゥシャに入るのは、北側の谷の入り口以外では、この南西尾根にあるライオン門と、南側頂上尾根にあるスフィンクス門と、南東尾根にある王の門の三か所でした。しかも、三つの門はいずれも外側が谷に面した要害にあります。

↓現在のライオン門の外側です。巨大な岩のある谷が広がっていました。
f0140054_3384669.jpg

↓ライオン門の外側から内側の門を撮影してみました。この石垣に囲まれた場所は、往時は、上部も石垣に覆われたトンネルであったわけです。
f0140054_3402812.jpg

↓内側に戻って遺跡を撮影。手前が上市の跡で、左奥の台地上の遺跡が皇帝が住んでいた王城要塞(ブユックカレ)の跡です。
f0140054_3413863.jpg

↓ライオン門の近くで咲いていた梅の木です。
f0140054_3415945.jpg

3月のトルコは、白からピンク系の木の花がたくさん咲いており、梅、アーモンド、桜をよく見かけました。中でも、梅が一番多かったです。日本の梅(ジャパニーズ・プラム)とは少し違いアンズ(アプリコット)に近いようです。

<参考> 梅とアンズとは、植物学的には近縁で、自然状態でも容易に交雑します。
  栽培品種としてはスモモも含めて複雑に交配進化しているため、園芸上の分類についても諸説があります。
  世界のアンズ(ウメを含む)生産量では、トルコがトップで、第2位はイランです。


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More 写真展のお知らせ
2016年 10月 24日 |
ヤズルカヤの西に巨大な城塞都市遺跡のハットゥシャがあります。古代ヒッタイト帝国の首都だった場所で、標高1000~1236mの山の斜面に位置しています。ここは、文明は大河のほとりに生まれるとという我々の常識をくつがえす驚くべき遺跡です。

↓ハットゥシャの大神殿遺跡全貌(上方を望む)・・・遠くに咲いている花木は梅です。
f0140054_8193594.jpg

↓下方を望む
f0140054_8195458.jpg

ハットゥシャ遺跡に入場して、まず最初にあるのが王都の大神殿遺跡です。規模が大きく神殿の中央を100近い貯蔵室が取り囲んでいたようですが、現在は礎石が多数並んでいるだけなので、当時の様子を明確に想像するのは困難です。

↓大神殿遺跡の説明看板
f0140054_8203665.jpg

↓貯蔵室跡と貯蔵甕の復元(大量の食糧を保管していたようです)
f0140054_821351.jpg

↓井戸跡
f0140054_8214035.jpg

大神殿遺跡で、ただひとつ、無傷で残っているのは、宗教行事を行っていた堂宇中央に鎮座しているグリーンストーンです。下の写真をご覧ください。中央にある四角い石がグリーンストーンで、その背後に広がる大神殿遺跡と、色合いの違いが一目瞭然です。
f0140054_8224568.jpg

当時、ヒッタイトはここハットゥシャを首都として、西はアパサ(現在のエフェス)から東はカデシュ(現在のシリア南部)まで支配し、南の強国エジプトと係争していました。紀元前1274年、カデシュにおいて大きな戦争が行われた後、ヒッタイトとエジプトの間で平和条約が締結されましたが、その事実を楔形文字で記した粘土板が、ここハットゥシャから出土したのです。これが世界最初の平和条約とされ、レプリカが平和を理念とする国連本部ビルに飾られ、2001年にユネスコ記憶遺産に登録されました。

そして、和平の証として、ヒッタイトの王女がエジプトのラムセス2世に嫁ぎ、ラムセス2世からは巨大な宝石岩であるグリーンストーンが贈られたのです。その3200年以上前の時代から、グリーンストーンは霊力のある石として崇拝され、誰も破壊することも持ち去ることもできない不思議な存在感を示し続けてきました。

↓グリーンストーンのアップ
f0140054_822062.jpg

現在でも、パワースポットとして多くの観光客がこのグリーンストーンに触れて、御利益にあずかろうとしています。
私も、この石に手のひらを当ててみましたが、なぜか温かく感じました。
多分、熱を吸収する性質を持った石だと思いますが、確かに不思議です・・・


↓ここで出土した平和条約の粘土板(イスタンブール考古学博物館蔵)
f0140054_8283543.jpg

   「いにしえの時より、エジプトの偉大なる主とヒッタイトの偉大なる王に関し、神々は条約によってそれらの間に戦争を起こさせなかった。ところが、我が兄、ヒッタイトの偉大なる王、ムワタリの時代、エジプトの偉大な主と戦ったが、しかし、今日この日より、見よ、ヒッタイトの偉大なる王、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラー神とセト神が作った、恒久的に戦いを起こさせないための条約に同意する。――我々の平和と友好関係は永久に守られるであろう。――ヒッタイトの子とその子孫は偉大なる主の子とその子孫の間も平和であろう。なぜなら、彼らも平和と友好関係を守って生きるからである。」


エジプト側でも、ラムセス2世の葬祭殿に同じ内容のレリーフがあり、まさに両大国間で平和条約の証拠が、悠久の時を超えて発見されたわけですから、すごいことです。

ということで、カデシュの戦いは、史上初の公式な軍事記録に残された戦争であり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いでもあります。

かくして、ここヒッタイト遺跡は、ユネスコの文化遺産であると同時に記憶遺産として、二重の世界遺産指定を受けたわけです。


↓大神殿遺跡の彫像の痕跡・・・多分、ライオンではないかと思われますが、摩耗が進んで判別できません。
f0140054_824857.jpg


ここ、ハットゥシャはヒッタイトの首都遺跡であるため、規模が大きいので地図を掲載しておきます。

↓の写真は、遺跡入り口の案内看板を撮影したものに、私が主要スポットを日本語(赤字)で加筆加工したものです。
f0140054_8243744.jpg

↑写真の上側が北で低い谷になっており、下側が南で高くなっており頂上がスフィンクス門です。標高は、大神殿跡が1000mで、一番高いスフィンクス門が1236mです。

↓全体が城塞に囲まれた首都ハットゥシャの往時の俯瞰想像図です。
f0140054_8293661.jpg

↑ハットゥシャが、オリエント最強とうたわれたヒッタイト帝国の精強さを象徴する本格的城塞都市であったことが分かりますね。天空の都と言えるかも知れません・・・

↓最後は大神殿遺跡に咲いていた野の花です。
f0140054_8252255.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More  写真展のお知らせ
2016年 10月 21日 |
ヤズルカヤ遺跡では、小ギャラリーの下に、通称大ギャラリーがあります。

↓これが大ギャラリーです。
f0140054_8332573.jpg

小ギャラリーより開けた場所にあるので、より風化が進んでいますが、まさに岩のカンヴァスという感じです。

ヤズルカヤには、多くの神々が描かれており、当時は多神教の世界であったことが分かります。主神テシュプとその配偶神ヘバト、息子のシャルマ神、さらには有翼の神、剣の神、太陽神、月の神、冥府の神なども見られます。男性神はとんがり帽子に丈の短いスカート状の衣類を身に着けており、女性神は円筒状の被り物に長衣姿が多いようです。

↓多くの神が描かれているようですが、判然としません。
f0140054_8342113.jpg

↓下の説明看板の下部の神々のようです。
f0140054_835082.jpg

↓これは、トゥドハリヤ4世のレリーフです。上の写真(説明看板)上部では Great King すなわち大王と説明されています。
f0140054_835371.jpg

↓左側から男神が、右側から女神が描かれています。
f0140054_8361068.jpg

神のレリーフは、ほとんどが身体は正面を向いて、顔は横を向いて刻まれており、これがヒッタイトの正式な様式と考えられます。バビロニアやエジプトの彫像とも似ている部分もあり、後のペルシアなどにも影響を与えました。古代オリエント世界の文化の交流は、想像以上に活発であったのです。

↓相当風化が進んでいます。
f0140054_8371224.jpg

↓黄泉の国の12神像(前回、紹介しました小ギャラリーの12神像より摩耗しています)
f0140054_8374114.jpg

↓そこで、風化しているレリーフにドラマチックトーンを使ってみました。長衣姿なので女性神のようです。
f0140054_838305.jpg

↑アートフィルターのドラマチックトーンで現像すると陰影が強調されるので、こうした風化した遺跡を撮する際には役に立ちます。私は日本の  石仏  などにも使います。


ヒッタイトの遺跡は、エジプトのような乾いた砂漠地帯ではなく、高度1000m以上の山岳地帯で風雨に晒される場所にあるため風化が進んでいますが、それでも3000年以上前の浮彫が多く残されていることが素晴らしいです。ヒッタイト帝国の隆盛していた当時は、さぞ見事な装飾が施された岩壁と神殿が佇立していたことでしょう。


ヤズルカヤ遺跡の入り口には、土産物店の小屋が並んでいましたが、3月という季節柄、一軒だけが開店していました。

↓右端に立っている男性が土産物屋の店主です。後方遠くにトルコの山々が雪をかぶっているのが見えます。
f0140054_8391265.jpg

↓単なる土産物屋ではなく、黒い石を削ってレリーフを浮きだたせる本格的なものを売っていました。茶色いのは粘土板のようです。
f0140054_8394049.jpg

↓石彫りを実演してくれました。確かにテクニックは見事で、絵柄も双頭鷲や動物などセンスが良いです。
f0140054_8401025.jpg

↓最後は、ヤズルカヤ遺跡に咲いていた野の花です。とても綺麗でした。人の手による工芸も良いですが、自然の造形もまた素晴らしいものです。
f0140054_8403336.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More 写真展のお知らせ
2016年 10月 17日 |
「たびねす」に、私のヒッタイト帝国の遺跡に関する記事が掲載されました。
史上はじめて鉄器文明を興し、エジプトと覇を競った古代帝国の遺跡案内ですので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(38)トルコ・ヒッタイト帝国の遺跡に古代世界の謎と幻影を求めて…
http://guide.travel.co.jp/article/22095/






上記の、たびねす記事とタイアップして、当ブログでも、より詳しいヒッタイト帝国の遺跡記事を5回くらいに渡って掲載することにします。今日は、ヒッタイトの聖所遺跡であるヤズルカヤの前編です。

ヒッタイト遺跡は、今から約3500年前に栄えた文明の遺跡で、そんな悠久の古代遺跡が見られることに驚かされます。ここは、私がトルコ旅行でぜひ行きたかった場所のひとつで、その地に立って胸がときめきました・・・



古代ギリシアや古代ペルシア帝国が勃興する以前、その中間のアナトリア(現・トルコ)に、紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけて強大な王国があり、エジプトと覇を競っていました。それがヒッタイトです。史上はじめて鉄器を使用し、絶大な武力をもってオリエント世界に君臨しました。しかし、突然の滅亡後は歴史の彼方に忘れ去られ、その都の場所さえ不明となっていました。

やがて、3000年の時が流れ、19世紀になって旅行者によりボアズカレ近郊で大きな遺跡が発見され、20世紀にドイツの考古学者の発掘調査が行われ、ヒッタイトの遺跡であることが確かめられました。聖所や神殿跡、城壁跡、貯蔵庫跡、王城跡、市街跡などが明らかになり、その重要性により、1986年にユネスコの世界遺産に登録されました。以降、注目を浴びつつあります。我々は今、その遥かなる古代文明の栄華の跡に立つことができるのです。

↓ヒッタイト遺跡付近の岩山には、背の低い梅の花が、まるで日本のサツキのように張り付いて点々と咲いていました。不思議な景色でした。
f0140054_11272817.jpg

<追記>
上記の写真について、分かりにくいというご指摘がありましたので、現像し直し、部分拡大し横1500ピクセルのJPG写真にしてみました。画質は落ちますが、梅の木の張り付いている様子が見えると思います。下の写真を押して鑑賞ください。

↓写真をクリックすると、横1500ピクセルに拡大されます。ぜひ大きくしてご覧ください。
f0140054_162637100.jpg

トルコの首都アンカラより東に145kmのボアズカレ近郊にあるヤズルカヤは、トルコ語で「碑文の岩場」を意味し、ヒッタイト時代には最も重要な聖所として、崇められていました。

ヤズルカヤには、まず祭殿跡の遺跡がありますが、現在は礎石だけが残る状態となっています。祭壇跡の奥に大きな岩場があり、便宜上、広い空間のあるほうを大ギャラリー、狭くて深い割れ目のほうを小ギャラリーと呼んでいます。ここには様々なレリーフが残されており、特に小ギャラリーのほうは鮮明な作品が多くみられ、きわめ重要です。

↓これが、小ギャラリーです。巨石の岩の狭間といった感じで、その岩面に浮彫がたくさん刻まれています。
f0140054_11284819.jpg

↓一番有名な「黄泉の国の12神像」
f0140054_11291181.jpg

↑とんがり帽子をかぶった12神像は、鮮明な浮彫で、神々が並んで行進しているように見える印象的なものです。

ヒッタイト遺跡は見どころが多く、見学は一日がかりになります。そこで昼食もヤズルカヤの側のレストランでとりました。その際、レストランのテーブルクロスなどに、ヒッタイト遺跡の有名なモチーフがいろいろデザインされていました。

↓レストランのテーブルクロスの12神像
f0140054_11295111.jpg


↓冥府の神の像
f0140054_11301976.jpg

ちょっと摩耗していますが、その横に説明看板があり、この像の素描がありました。写真と照らし合わせると、よく分かります。

↓冥府の神の像の素描説明
f0140054_11304728.jpg

ヤズルカヤ遺跡には、神だけではなく現実の王の姿も描かれており、その代表的なものがトゥドハリヤ4世を抱くシャルマ神のレリーフです。これは、王が死んで神に抱かれて冥界に旅立つ姿ではないかとも考えられ、この場所がヒッタイト王の葬儀の際に使われていたとする説が有力です。

↓トゥドハリヤ4世を抱くシャルマ神の像
f0140054_1131306.jpg

↓私がここで一番驚いたのは、このレリーフです。
f0140054_11324759.jpg

↑有翼の神が刻まれているのですが、これはまるで、イランで見たゾロアスター教のシンボルと同じではないですか!

このデザインが洗練されていくと、こちら のように、ペルシアのゾロアスター教のシンボルになります。

ペルシアの勃興は、ヒッタイトが滅んでから後になりますが、ペルシアの宗教文化がヒッタイトに端を発する文化の影響を受けたのは明らかです。古代オリエント世界の文化交流は、想像以上に活発であったのです。


↓小ギャラリーの一番奥。巨石が迫り、狭い通路に岩が覆いかぶさっています。
f0140054_11335267.jpg

世界の聖地のパターンの一つが、巨石あるいは岩場・崖ですね。

イランの ナグシュ・ロスタム が典型的ですが、日本でも、厳島神社の弥山の岩場や、沖縄最高の聖地 斎場御嶽  、和歌山の  神倉神社  、宮崎の 天岩戸神社 なども岩の聖地です。

ヤズルカヤ遺跡はそうした世界の岩の聖地のルーツかも知れません。やはり神聖な雰囲気に満ちていました。



最後は、小ギャラリーに大勢のトルコ人家族が観光に来ていましたので、許可を得て、撮影させてもらった母子の写真です。

↓「母と子」
f0140054_11345396.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。

More 写真展のお知らせ
2016年 06月 11日 |
「たびねす」に、私のエフェスの記事が掲載されました。
少し変わった視点から世界遺産エフェスを紹介した記事ですので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(34)トルコ「世界遺産エフェス」女神信仰の歴史と知的冒険を楽しもう!
http://guide.travel.co.jp/article/18937/





エフェスは人気の観光地で、すでに多くの記事で紹介されています。そこで、一般的な視点ではなく、女神信仰とキリスト教の聖母マリア崇拝という切り口で書いてみたのが上に紹介した「たびねす」記事です。

このブログでは、すでに「ああ、エフェスの地にて・・(その一)~(その五)」で、世界遺産エフェスの主要部分をアップしていますので、今日は「たびねす」記事の最後部分に関連させて「マリアの家」を紹介し、エフェスの最終記事とします。



エフェス遺跡から南東7kmの山の中に「マリアの家」という巡礼スポットがあります。ここは、イエス・キリストの磔刑死後、使徒ヨハネが聖母マリアを保護してこの地に至り、余生を過ごしたという伝説のある場所です。

↓まずマリア像が出迎えてくれます。
f0140054_8191512.jpg

19世紀はじめ、ドイツ人のアンナ・カタリナ・エンメリックという病身の修道女が、イエスの受難、聖母マリアの晩年などを幻視し、詩人ブレンターノにその内容を伝えました。その後、1881年に、フランス人のジュリアン・ゴヤット神父が、この地でアンナのヴィジョンのとおりの家の遺跡を発見しました。

歴代のローマ教皇も訪問し聖地としてしたことから、キリスト教徒の重要な巡礼地となり、1951年には小さな聖堂が建てられ、今は人気の観光地となっています

↓これが「マリアの家」入口です。
f0140054_8194116.jpg

↓「マリアの家」出口です。
f0140054_820451.jpg

とても小さな聖堂で、内部は簡素ですが良い雰囲気でした。黒い聖母子像もあり印象的でした。

↓内部は撮影禁止なので、外側にある説明看板を撮影しておきました。
f0140054_8203219.jpg

↓ロウソクを灯す場所も外にあります。
f0140054_8205512.jpg

↓「マリアの家」の下にある「マリアの泉」は人が列をつくり聖水を飲んでいました。
f0140054_8211698.jpg

マリアの泉は飲むと奇跡が起こるとされ、多くの巡礼者が並んでいます。
三つの蛇口があり、向かって左側から健康運、愛情運、金運を授かるそうです。まさに、御利益のあるパワースポットということですね。

↓マリアの泉とその横壁の願い事紙縒りコーナー
f0140054_8214651.jpg

願いを書いた紙縒りでびっしりと埋まっており、日本の神社の願い絵馬やおみくじ紙縒りを彷彿とさせるものです。今も一般庶民の聖母マリア信仰が生きていることを感じる場所です。
f0140054_8221984.jpg

f0140054_822482.jpg


f0140054_8231075.jpg

↓お土産店が並んでいます。
f0140054_8233375.jpg

郵便局もありここからハガキを出すと聖母がデザインされたスタンプを押してくれます。富士山五合目の郵便局と同じですね・・・

↓貯水池跡
f0140054_824162.jpg

↓貯水池跡に咲く花
f0140054_8242268.jpg

↓周辺の山に咲く花
f0140054_8244589.jpg

山中の自然豊かな場所にあり、ここでゆっくりするのも良さそうです。野花も多く野鳥も囀っていました。


なお、ここはエフェスといっても、世界遺産に指定された場所ではありません。
「マリアの家」は学術的に解明されたものではなく、聖堂も1951年に建てられたものだからです。

マリアの晩年については諸説あり、むしろ定説は無いといえるでしょう。
その中で、マリア終焉の地として、多くの巡礼者を集めているのが、ここエフェスのマリアの家と、イスラエルのエルサレムにある聖母マリア永眠教会です。
聖母マリア永眠教会については、こちら を御覧ください。


最後に私見を述べます。
雰囲気的には、ここエフェスの自然豊かな「マリアの家」のほうが良いでしょう。マリアがこんな鄙びた穏やかな場所で最晩年を過ごしてほしい感じがします。
しかし、歴史的事実と個人的な願望は別のものです。

年代的に考えて、現在のイスラエルにいたマリアが、キリスト教がまだ広まっていない紀元40年(マリアの没年とされている)前に、ここエーゲ海に面するエフェスの地に至ったとするのは無理があります。多分、使徒ヨハネ伝説と入り混じったのでしょう。
普通に考えるなら、エルサレムにある聖母マリア永眠教会のほうが、はるかに可能性が高いです。

アンナ・カタリナ・エンメリックが幻視したそうですが、考古学的に裏付けられたものはありません。幻視は科学的証拠ではないのです。
歴史的事実と信仰とは位相が違います。信仰により事実を捻じ曲げることは出来ません。
信仰の生む文化や芸術は素晴らしいもので、計り知れない価値があります。また信仰の力が時代を動かしてきたのも確かです。しかし、それはそれとして、理性による実証的な歴史研究は止めてはなりません。


とにもかくにも、「マリアの家」は、素敵な巡礼地でした。


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
PageTop
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Starwort Skin by Sun&Moon