模糊の旅人
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カテゴリ:大阪( 470 )
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2017年 07月 18日 |

大阪探索シリーズの補遺ともいうべき記事です。

細川ガラシャの墓を見に、大阪市東淀川区にある崇禅寺に行ってきました。阪急電車京都線の崇禅寺駅から徒歩10分ほどです。
崇禅寺は、天平時代に行基により創建されたとされる古い寺で、悲劇の人々の墓があることで、有名です。

↓何度も戦災で焼失しましたが、1989年に再建されて立派な寺となっています。

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↓重要な三人の墓が、奥に屋根をかけた形でありました。

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↓右から、寺の創建者:隣大和尚の墓、足利義教の首塚墓、細川玉子(ガラシャ)の墓
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↓足利義教の首塚墓

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1441年、将軍:足利義教は赤松満祐に殺害され、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢により、義教の首はこの寺に放置されました。崇禅寺では、首塚をつくり供養しました。この事件は「嘉吉の乱」と呼ばれ、足利幕府の権威は失墜したのです。(赤松満祐は、足利義教の首を播磨坂本城まで持ち帰ったという説もあり、真相は不明です)


↓左側の細川ガラシャこと細川玉子の墓

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ここに細川ガラシャの墓があるのは、当時の細川家の菩提寺が、この崇禅寺であったことによるそうです。
 
 細川ガラシャについて、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事については、こちら 

 ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については、こちら 

 ガラシャの辞世の歌碑のある越中井については、こちら。

 ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については こちら。

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↓遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟の墓

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これは「崇禅寺馬場の仇討」と呼ばれる有名なもので、浄瑠璃、落語、映画などの題材となりました。菊池寛の小説にも『返り討崇禅寺馬場』というのがあります。

1715年、遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟は、末弟の宗左衛門のかたきである生田伝八郎を討とうとしましたが、伝八郎側の多数の加勢により、崇禅寺馬場で返り討ちにあった事件です。

当時の崇禅寺住職:門啓天岑はこの兄弟を哀れに思い、崇禅寺に墓を築き、二人の菩提を弔いました。それがこの供養塔です。


この寺は悲劇の人たちの供養の場所ですね。


↓崇禅寺の奥庭

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↓水場にはヒヨドリが水を飲みに来ていました。

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↓ここは、明治の初めに、摂津県と豊崎県の県庁がおかれたことがありました。その記念碑です。なお、知事は陸奥宗光でした。

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↓南門の絵を描いておれれる方がおられました。平日の午後、私以外に崇禅寺に観光に来ていた唯一の人です。少しお話をして、奥にあるガラシャの墓を案内させてもらいました。

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↓その南門です。

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2017年 07月 13日 |

大阪アースダイバー的地形と歴史散策シリーズの最終回です。

三光神社の東は下り坂になっており、大阪の背骨たる上町台地の東側の低地となります。

↓風の街の暖簾が風にゆれて・・・(真田幸村ロードにて)

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このあたりは、縄文時代は岸辺で河内湾に面しており、最も縄文海進の激しい時代は海の中でした。
そして、北東から淀川が、南東からは大和川が土砂を堆積し、徐々に砂州が発達し、河内湾は河内潟から河内湖となり浅くなり、海が湖となっていきます。

現在の森ノ宮駅から玉造駅にかけては、縄文時代から弥生時代には水辺の環境だったことから、貝塚を中心とした複合遺跡である森ノ宮遺跡が発掘されています。貝塚を見れば当時の食生活が分かるのです。

重要なのは、縄文時代の森ノ宮遺跡の貝塚がマガキを中心としたものであったのが、弥生時代になるとシジミが主体となることです。
これは、この岸辺が最初は海水の湾岸であったものが、徐々に淡水化していったことの明確な証拠です。

↓再掲地図ですが、森ノ宮遺跡の場所をご覧ください。

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この地図でお分かりのように、淀川と大和川の土砂が三角州となり、河内潟を埋め立てて行き、あちこちに砂州が出来ていきます。ちなみに現・大阪城の北に延びる砂州地帯に後世に市場が出来て行ったのが、日本一長い商店街となった天神橋筋商店街です。


日本の古代国家が生まれたのもこの地図に関りがあります。饒速日命(ニギハヤヒ)の降臨の地であり、神武東征伝説でナガスネヒコが立ちはだかったのもこのあたりです。

河内潟に注ぐ大和川をさかのぼり奈良に入ると、3世紀中頃から4世紀の三輪王朝の大きな古墳が並び、邪馬台国王都と有力視される纏向遺跡があります。大和川水系は古代日本の中心地です。

そして、5世紀になると、応神王朝あるいは河内王朝とも言われる大王たちの超巨大古墳が、地図下部にある百舌鳥古墳群と古市古墳群に出現します。いわゆる倭の五王の時代ですね。

仁徳天皇の高津宮や、孝徳天皇の難波宮は、西に海を望む上町台地の上に造営されました。反正天皇の丹比柴籬宮は河内湖の南側に、継体天皇の河内樟葉宮は河内湖の東北岸にあったようです。

この一帯は大和朝廷の誕生を導いた場所なのです。


↓玉造駅近くに南北に伸びるアーケードの日の出通り商店街(まさに古代の河内潟の岸辺に沿った道です)

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↓日の出通り商店街にも真田六文銭の旗が!

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↓日の出通り商店街と直行する玉造駅へ至る路地:幸村ロード

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もともとここは、真田山三光神社への参道で小さな路地でしたが、2013年に大坂の陣400年を迎えたことから、整備されたものです。

今は、真田御膳、真田十勇士玉、六文銭フィナンシェ、幸村ロード缶、幸村鍋など真田にちなんだグルメを提供する店が並び賑わいを見せています。真田十勇士の可愛いパネルもありますので確かめながら散策するのも楽しいものです。

↓幸村ロードのお店いろいろ

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真田幸村にちなんだものだらけでした・・・・



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2017年 07月 08日 |

「たびねす」に、私の <雲上の楽園!滋賀「伊吹山」で美しい花と蝶を観察しよう!> という記事が掲載されました。
これまで何十回と登って自然観察をしてきた伊吹山の花と蝶について、簡単にまとめてみたものです。ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。






伊吹山については、今年の夏(8月)も行きたいと思っていますが、もしそれが実現すれば、またブログ記事でより詳しく本格的に紹介したいと計画しています。
そこで今日は、季節ものを優先して、半夏生について書いておきます。


半夏生(はんげしょう)とは、雑節の1つで季節を示す用語。夏至から11日目の頃をいいます。今年は7月2日でした。
由来は諸説あり、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が半分白くなり、化粧しているように見えるからとも。また、ハンゲ(カラスビシャク)という薬草が生える時期という説もあります。

この時期は、農家にとって節目なので、各地いろいろな風習があります。
私の近所では、蛸を食べます。

↓近くのスーパーでは、半夏生セールをやっていました。

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↑説明によると、「稲の根がタコの足のように大地に広がってしっかり育つように」との願いを込めて、半夏生にタコを食べる風習があります、とのことです。

皆さんのところでは、どんな風習があるでしょうか?


私は、半夏生(ハンゲショウ=カタシログサ)という花が、好きなので、この時期はハンゲショウが必ず見られる所に写真撮影に行きます。近くの緑化センターです。この場所については次回の「たびねす記事」に掲載する予定にしていますが、今日はフライングで、今まさに開花シーズンのハンゲショウをお見せします。

ハンゲショウは地味な花ですが、花が咲くころに、葉の一部が白くなり、なんともいえない良さがあります。確かに半分だけ化粧しているような風情です。


以下、ハンゲショウの様々な表情をご覧ください。

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余談です。

この花の名前ハンゲショウについては、7月はじめの「半夏生」の時期に開花するからという説と、葉の片面が白くなる「半化粧」だからという説があります。
一方、雑節の季節用語「半夏生」は、ハンゲショウの花が咲くから名づけられてという有力な説があります。つまり、どちが先か?、卵が先か鶏が先か?、という循環する話ですね。

思うに、この花名の由来は「半化粧」で、そこから雑節の「半夏生」が名づけられたとすれば、スッキリしますが、いかがでしょうか?



生物学的には、上の写真をご覧いただければお分かりのように、花径に近い葉が、開花時期に白化しますので、この葉が目立つことで、花弁の役割を果たしていると考えられます。この自然の造化の妙と、これを「半化粧=半夏生」と名づけた日本人の優れた感性に、驚かされます。


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2017年 07月 04日 |
善福寺から東へ少し歩くと宰相山西公園があります。南側背後は高い丘が東西に連なり、現在は旧陸軍の墓地で真田山陸軍墓地維持会が管理しています。このあたりが、宰相山あるいは真田山と呼ばれていたことが分かります。
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宰相とは加賀宰相(前田利常)か京極宰相(京極忠高)ですので徳川方になります。いっぽう、真田とは真田信繁を意味しますので真田丸があった場所になります。果たして、どちらが正しいのか? 真田丸の謎がここにあります。


↓宰相山西公園のアジサイ

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↓上記の公園と墓地の東側に「三光神社」があります。

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↑鳥居手前の折れた石柱にも注目ください。三光神社は第二次世界大戦で被災し、鳥居も折れたのですが、その戦災の教訓を後の世に伝えるべく、古い鳥居の基礎部分が残されています。

↓三光神社へのルートの地図

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この神社は反正天皇の御世に創建されたと伝わり、大阪七福神の一つでもあります。現在は、真田信繁が大坂冬の陣で真田丸に拠って、圧倒的大軍の徳川軍に勝利したことから、「勝利のお守り」が人気の神社となり、大河ドラマの放送以降は全国から歴史ファンが押しかけています。

↓真田六文銭の旗が林立する三光神社境内

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↓三光神社拝殿

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↓大阪七福神巡り寿老加味の旗

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↓摂津名所図会より引用の歌と句の碑

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境内の社殿下側には勇壮な真田信繁像があり、その左側に「真田の抜け穴」跡と伝承される岩穴があります。この銅像は、1987年、大阪真田山ライオンズクラブ15周年に建立されたもので、信繁は鹿角の兜をかぶり、采配を振るっています。なお、台座の石は真田家の菩提寺である信州上田の長谷寺から送られた真田石とのことです。

↓真田信繁像と抜け穴跡

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↓抜け穴跡

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「真田の抜け穴」は鉄格子で閉じられていますが、一年に一度「真田まつり」の日には内部開放されます。もっとも、普段でも鉄格子なので入り口付近を覗くことが可能(下の写真参照)。

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↑なかなか頑丈な造りですので、ここから大坂城へ抜け道が繋がっていたという伝説について、さもありなんと思わせます。

諸説ありますが、もし真田丸が顕彰碑のある大阪明星学園敷地とすれば、この穴は前田軍などの徳川方が掘った跡である可能性が高くなります。

↓私が帰ろうとすると数人の見学者が来て、熱心に抜け穴跡を覗いておられました。歴女さんでしょうか。

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真田信繁像のある場所からさらに上部へ階段があり、横を石垣で固められた高台があります。高台の西側は真田山陸軍墓地に繋がっていました。

↓その高台から下の公園を撮影。

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三光神社は高い丘陵の中腹にあり、東側に低い玉造駅方面を望みます。東側階段を降りると下から神社を見上げる形になり、立派な石垣が見て取れます。この高台にある事と丘陵上部へかけて何階層にも高く積まれた城塁のような石垣、さらに抜け穴もあることから、真田丸の故地とされてきたのは当然。雰囲気はピッタリです。

↓東側階段を降りた場所から三光神社側を撮影

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実は、この神社から真田山陸軍墓地を挟んで前回に述べた心眼寺へは、高い丘陵でつながっています。この高台一帯全部が真田丸であったとしても不思議はない地形です。本当は真田丸はどこにあったのか? ここに立って、真田伝説ロマンに浸ってみるのも一興です。




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2017年 06月 29日 |
前回紹介しました聖マリア大聖堂から南へ歩くと、空堀町交差点があり、そこをさらに南へ行くと信号が二つ連続しています。そこを左折すると、どんどろ大師、心眼時、大阪明星学園のある場所へ至ります。この付近が真田丸の跡地の最有力候補です。

↓ルートの途中にあるイタリア料理店

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真田丸は、真田信繁(幸村)により築かれ、大坂冬の陣で寄せ手の徳川軍に大打撃を与えた有名な場所。大坂城惣構えの外側に造られた出城で、大坂城の唯一の弱点である南側の防御能力を高め、さらには敵を引きつけ攻撃する拠点ともなりました。

正確な真田丸の場所については諸説ありますが、現在、最も有力な場所とされるのが、大阪明星学園の敷地です。この学園のグラウンド東側には2016年、大河ドラマ「真田丸」のスタートとほぼ同時に「真田丸顕彰碑」が設置されました。

↓真田丸顕彰碑の全体と周辺(後方が大阪明星学園のグラウンドです)

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↓アップで撮影(クリックすると横120ピクセルに拡大表示されます)

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↓大阪明星学園の壁には真田丸放映中は真田信繁(幸村)の絵が掲げられていました。

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現在でも真田丸顕彰碑から北へは下り坂で、真田丸が大坂城に接続した出丸ではなく、大坂城との間に深い谷を有する独立した出城であったことが偲ばれます。確かにここは、真田丸のあった場所として、説得力があります。背後の谷は、空堀町から空堀通りへ続く一帯で、上町台地の天然の侵食谷を利用して広げた大坂城の南側の空堀であったようです。

↓地図の紫のラインが大坂城惣構えの南側の空堀のあった低地です。

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真田丸顕彰碑の道を挟んだ向かい側に「心眼寺」があります。1622年に白牟和尚が真田信繁(幸村)・大助親子の冥福を祈るべく真田丸跡地に建てた堂宇を起源とする寺で、その定紋は六文銭とされ山号は真田山です。正門外側の階段横には「真田幸村 出丸城跡」の碑が立っています。

↓心眼寺の正門

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↓「真田幸村 出丸城跡」の碑

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さすがに江戸時代は徳川家に逆らった真田信繁の墓を建てられなかったようですが、2014年、400回忌に際して心眼寺の境内に信繁の墓が建立されました。

↓真田信繁(幸村)の墓

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↓墓の説明看板

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信繁の墓の横に小さな堂宇「まんなおし地蔵尊」があります。

↓まんなおし地蔵尊

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↑まんなおし地蔵尊は、真田信繁(幸村)が開運の祈願をしたと伝承され、かつて庶民の信仰が篤く参詣者が絶えなかったそうです。
「まんなおし」とは、間直し・運直し・縁起直し・げん直しのことです。まんの悪い時、うまくまん良く行きますようにと、まんなおし地蔵尊に願いをかけたとのことです。

↓地蔵尊の姿

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↓地蔵尊に貼られていあった真田丸ポスター

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真田丸顕彰碑や心眼寺から北へ坂を下った角に「どんどろ大師 善福寺」があります。ここには、大坂の陣の戦死者を弔うべく建てられた鏡如庵大師堂がありましたが明治初期に廃絶。その後、系列の善福寺が移転してきました。

↓「どんどろ大師 善福寺」正門

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通称の「どんどろ大師」は、江戸時代に大坂城代だった土井大炊頭利位が、ここで祀られていた弘法大師を深く信仰し参拝を欠かさなかったことから「土井殿の大師さん」と呼ばれ、それがなまって「どんどろ大師」となったと伝わります。

↓どんどろ大師の本堂

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↓本堂の横にある勝軍地蔵尊

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真田丸跡地としては、もうひとつ有力な候補地があります。それが三光神社で、次回、紹介します。



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2017年 06月 24日 |

前回紹介しました「青刻昆布発祥の地」の碑のある越中公園の南側に「聖マリア大聖堂」があります。
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豊臣時代の細川屋敷のあった敷地すなわちガラシャの住んだ地に現代の司教座教会があるわけです。これは意図されたものではないようで、本当に不思議な縁を感じます。


キリスト教のカトリック玉造教会 であるとともに、カトリック大阪大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県)の司教座聖堂であることから、正式名を「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」といいます。

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ここは、1894年に建てられた聖アグネス聖堂を起源としますが戦災で焼失。その後、ザビエル来日400年記念に聖フランシスコ・ザビエル聖堂として再建され、さらに1963年に青銅板葺きの大伽藍として改築され現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」となったものです。


大聖堂内部にはイエス・キリストと聖母マリアの生涯を描いたステンドグラスと細川ガラシャの壁画。さらに小聖堂にはフランシスコ・ザビエルを描いた日本的なステンドグラスがあります。いずれも見事なものなので、余裕があれば見学してください。

↓小聖堂のステンドグラス(フランシスコ・ザビエルが描かれています)

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↓大聖堂紹介看板
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↓大聖堂前の広場には、ファティマのマリアがあります。
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↑ファティマとはポルトガルの小さな村で、1917年に三人の羊飼いの子ども達の前に聖母マリアが出現しました。カトリックが公式に承認した奇跡とされています。その情景を再現したのが、この大聖堂前の大理石群像です。


↓聖マリア大聖堂外側正面の右には、大きな細川ガラシャ像があります。カトリック信徒の彫刻家である阿部政義の制作です。

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↓細川ガラシャの画

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細川ガラシャは日本を代表するキリスト教の女性信徒であり、すぐ近くの細川屋敷で壮絶な死をとげました。

ガラシャ夫人の死を知った司祭オルガンティーノは、女性信徒に命じて焼け跡からガラシャの骨を拾わせ、堺のキリシタン墓地に葬りました。細川忠興も妻の死を悲しみ一周忌を兼ねて行われたキリスト教会葬に参列し涙にくれたそうです。


オルガンティーノは、当時京大阪などを所管するカトリックの司祭で、京都に南蛮寺(聖母マリア被昇天教会)、安土にセミナリヨ(神学校)、本能寺の変後は高槻にセミナリヨを建てました。人柄の優れた人物で「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と日本人から慕われました。伴天連追放令が出ても、非公式に宣教活動を続け、天正遣欧少年使節の帰国時に使節と共に秀吉に拝謁し、再び京都在住を許されました。高山右近を指導し、細川ガラシャに対しては女性信徒を細川屋敷に使わし受洗させました。日本人より西欧人のほうが野蛮だと評価し、日本を愛し日本に生涯を捧げ、1609年に長崎で病没しました。


細川ガラシャの生涯について詳しくは、こちら
ガラシャの供養塔は京都大徳寺の高桐院にあり、大阪の細川家菩提寺である崇禅寺には墓があります。さらに、熊本市の出水神社では祭神の一人として祀られています。
ガラシャの画としては、イスラエルの受胎告知教会にある、長谷川ルカ画伯が描いた『華の聖母子』というモザイク画が有名ですが、それについては【たびねす】受胎告知教会も!イエスの育ったナザレの町を歩こうという記事をご覧ください。



↓大聖堂外側正面の左には、キリシタン大名の高山右近像があります。ガラシャ像と同じく阿部政義の手になります。

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↑高山右近は、三好長慶没後の摂津の混乱の中、下剋上でのしあがった戦国大名の一人で摂津・高槻城主でした。
また、優れた人徳者として知られる敬虔なキリスト教徒でもありました。洗礼名のユストは「正義の人」を意味します。

織田信長や豊臣秀吉につかえ、右近の人柄に惹かれた黒田官兵衛・小西行長・牧村利貞・蒲生氏郷などの戦国大名を受洗させました。高槻では領民に慕われ七割の人がキリスト教徒となったそうです。

細川忠興・前田利家などは洗礼を受けなかったものの、右近の人柄に惹かれ、キリシタンに対して好意的で、細川忠興の妻:細川ガラシャは忠興から右近の噂を聞きキリシタンになりました。

しかし、秀吉の伴天連追放令により、右近は信仰を守るために領地を捨て、小西行長や前田利家の庇護を受けました。さらに、徳川家康のキリシタン国外追放令により、マニラに送られ現地で亡くなりました。右近像は高槻とマニラにもあります。

後世になりますが右近は、ローマ教皇庁により「福者」に認定され、2017年に大阪城ホールで列福式が挙行されました。


↓高山右近の像を詠んだ阿波野青畝の句碑

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「天の虹仰ぎて右近ここにあり」

阿波野青畝は「ホトトギス」同人の俳人でキリスト教徒です。

↓高山右近の紹介看板

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↓品の良い聖母子像

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この近辺から南へ下ると、イエズス修道女会をはじめ城星学園、大阪女学院、大阪クリスチャンセンター、大阪明星学園などキリスト教に関連する施設や学校がたくさんあります。不思議な場所です。

↓城星学園看板

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↓大阪クリスチャンセンター

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↓近辺写真を合成してみました。

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↓道標

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細川屋敷跡や聖マリア大聖堂がある場所から南へ、下り坂になっています。これは、大坂城の南側の空堀のあった地域と考えられます。

もともと、大阪平野に突き出した一本の背骨のような丘陵が上町台地で、その先端に大坂城があります。その地形を利用した大坂城は、南部だけは丘陵地帯で城としての弱点となるので、空堀を造る必要がありました。その際に利用されたのが、自然の浸食谷で、現在の空堀町から空堀通りに続く低地です。

まさに、この堀の北側(城の内側)には細川屋敷跡があり、南側(城の外側)には真田丸があったわけです。ここを歩くと、地形と地名が語る歴史のロマンを感じます。



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2017年 06月 19日 |
旧・日生球場のあった現「もりのみやキューズモール」の西南側一帯は、豊臣秀吉の時代は、武家屋敷が並んでいました。

秀吉の時代の大坂城は、現在の四倍以上の広さがある非常に巨大な城で、惣構え(総構え)の内部には有力大名の武家屋敷も含まれていたのです。現在の大阪城南側にある細川屋敷跡から真田丸跡地などを訪ねると、その広さを実感できます。それが、今回の~細川屋敷跡から真田丸跡地を歩く~シリーズ記事の舞台です。


JR大阪環状線または地下鉄(中央線または長堀鶴見緑地線)の森ノ宮駅から、中央大通りを西へ歩き、ファミリーマートの角を左折し南へ下り100mくらいの所に細川越中守屋敷跡があります。越中井(えっちゅうい)とも呼ばれますが、これは屋敷の当主である細川忠興が越中守であったことから来ています。

石造りの井戸跡と地蔵堂、碑があり、細川屋敷の台所のあった場所と伝えられます。細川忠興の妻の細川ガラシャ最期の地として知られ、その死の際、火がつけられ井戸だけが焼け残ったそうです。

↓ガラシャ歌碑
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「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

この碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句があります。

細川ガラシャは、明智光秀の娘で名を玉(珠子)といい、美人の誉れ高い女性で、光秀の畏友:細川藤孝の子である細川忠興に嫁ぎました。しかし、光秀が本能寺の変をおこしたことから謀反人の娘として一時丹後山中に幽閉され、後に豊臣秀吉の取りなしにより、細川家の大坂屋敷に戻されました。こうした中で、夫:忠興の友人でキリシタン大名だった高山右近のことを聞いた玉はカトリックに興味を持ち、やがて入信し受洗。ガラシャはその洗礼名で賜物(恩寵)を意味し、本名の玉に通じることから名づけられたものです。

関ヶ原の戦いの直前、決起した石田光成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、家臣に命じ胸を貫かせて死にました。キリスト教では自殺は禁じられているからです。

ガラシャの死は、徳川方の大名に大きな衝撃を与え、関ヶ原の戦いにおける東軍の結束を固める一つの要因となりました。後に細川氏は、肥後熊本藩主となり明治維新に至ります。この碑は、その熊本出身の縁から徳富蘇峰が揮毫したものなので、非常に力強い文字になっています。


この越中井のあたりは周囲にマンションが建ち背景が昔風の情緒がありません。説明看板も古ぼけて忘れられた感があったのですが、大河ドラマ真田丸の放送決定を機会に説明看板も新しくなり、雰囲気が少し良くなりました。

↓古い越中井付近
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↓新しい越中井付近
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↓古い説明看板
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↓新しい説明看板
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↓当時の大坂城惣構え内部の武家屋敷をいくつか現在の地に重ねてみました。あくまで私がフリーハンドで描いたもので正確な図ではなく、イメージ的なものとお考え下さい。
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↑ピンクの字が現在のもので、青地が秀吉時代のもの

細川とは細川忠興、宇喜多とは宇喜多秀家、小出とは小出吉政、前田とは前田利長で、いずれも当時の秀吉に近い大名です。

これを見ると、細川屋敷は、現・越中井から現・聖マリア大聖堂にかけてのかなり広い敷地だったことが分かります。



細川ガラシャの長男:細川忠隆の嫁:千世も当時、細川屋敷にいましたが、千世はガラシャのように自害せず、近所の実家である前田利長の屋敷に逃れました。ちなみに千世は、前田利家の七女で、利家とまつ から末娘なので非常に可愛がられた人。

この逃れた経路を上図で推測すると、細川屋敷の西門を出て南へ下り、小出屋敷の前を通って前田屋敷に逃げ込んだようです。宇喜多家は光成派なので、それを避けて小出屋敷の南西側の角を曲がって前田屋敷へ至ったかもしれません。細川家史によれば小出吉政の使者が細川忠興に「当方の屋敷の前をお通り、前田殿屋敷へ御入り候」と報告したとあります。

徳川家にとって有力外様大名同志である前田・細川の姻戚関係は好ましくないことと、ガラシャを失った細川忠興の怒りにより、細川忠隆は千世との離縁を命じられます。しかし、忠隆はこれを拒否し、父:忠興により廃嫡されます。忠隆は剃髪し、千世と子を伴い京都で蟄居し、生活は祖父:細川幽斎が支えました。幽斎の死後、千世は加賀の前田家に帰りました。25年後に、忠興と忠隆は和解しますが、忠隆は京都に留まり続け都の文化サロンの長老的存在となりました。

明智光秀から娘:ガラシャさらにその息子:忠隆に至る、なんとも複雑な人生ですね。(余談ですが、ガラシャの血は、後世の熊本藩の細川家はもちろんのこと、忠隆と千世の子:徳姫を経て、現在の皇室にも繋がっているそうです)


越中井の付近は、近年まで「越中町」とされていました。住居表示施行に伴って、地名が変更されてしまいましたが、その歴史を示す「旧町名継承碑」があります。

↓旧町名継承碑
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↑地元の人たちの、越中守忠興とガラシャ夫妻への思い入れが感じられる史碑といえるでしょう。


↓越中井の南にある越中公園
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↓「青刻昆布発祥の地」の碑のアップ
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越中井の南すぐの越中公園の道路沿いに「青刻昆布発祥の地」の碑があります。 この碑は、2001年に大阪昆布商工同業会が設立100周年を記念し建立したものです。

刻み昆布は、昆布加工食品の原点で、煮た昆布を細かく刻んでから乾燥したもの。この近辺で製造されはじめ、煮物として愛用されました。やがて、とろろ昆布や塩昆布など、大阪の食文化を象徴する高級な細工昆布の隆盛を迎えます。昆布は関西のダシ文化にも欠かせないものとなりました。

北前船が米や酒を北海道に運び、帰りは昆布を買い付けて帰ってくることで、昆布加工産業が発展したわけです。伝説によれば、大坂城を築く際に、巨大な石を運ぶため、昆布を石を滑らせる潤滑剤として大量に使ったことから、この近辺の昆布需要が高まり、それをきっかけに大阪人は昆布に親しむようになったそうです。


↓越中井の側にある謎の石像
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細川ガラシャについて、以前、供養塔のある京都大徳寺の高桐院の記事に関連して、こちら  で詳しく書きました。

ガラシャ画のあるイスラエルの受胎告知教会については こちら

ガラシャ石像のある 聖マリア大聖堂については次回の記事で書きます。大阪の細川家菩提寺である崇禅寺にあるガラシャ墓については、取材済みなので、今後、機会を見て記事を書く予定にしています。



<追記> 前回の記事で「石山碕とニギハヤヒ」についてのご質問がありましたので、前回記事の下に More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。


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2017年 06月 14日 |
「たびねす」に、私の 「細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く」 と 「真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!」 の2本の記事が掲載されました。
これは連続して読めるコラボ記事として書いたもので、~地形と地名が語る歴史ロマン~ という切り口で、大阪城南部の細川屋敷跡から真田丸跡地へかけて歩くコースになっています。いわば大阪アースダイバーあるいはブラタモリ的大阪地形探索ともなっていますので、2記事を、ぜひ併せてご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(47)細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く
http://guide.travel.co.jp/article/26914/


(48)真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!
http://guide.travel.co.jp/article/26990/








ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、大阪城南部の歴史地区について、私見を交えながら、より詳しく紹介します。
今日はその話のプロローグで、大阪の背骨たる上町台地の地勢的特徴です。



大阪城は、大阪を南から北へ貫いてのびる上町台地の北端にあり、大阪の成り立ちを象徴する場所です。

↓現在の大阪城(江戸時代以前は大坂城)
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この大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にある聖地でした。石山碕と呼ばれたと古い文献にあります(饒速日命=ニギハヤヒの降臨の地ともされる)。

↓夜の大川端から大阪城を撮影して、現代の余計な建物を削除加工してみました。古い時代の聖地:石山碕を海から眺めた情景が浮かんで来るように思えます。
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その後、古墳時代以降になると、少しずつ海が後退していき、周囲の低く平らな大阪平野を見下ろす最も神聖な高台として、国土の神霊を祀る神社が鎮座し生國魂神社となりました。

さらに下って、ここは聖地であるともに要害の地でもあることから、石山本願寺が拠って立ち織田信長に抵抗しました。豊臣秀吉の時代には、生國魂神社は南へ移され、大坂城が築かれます。秀吉は城下に武家屋敷を配し、堺などから商人を集め、大阪を大都市化させたのです。

↓縄文時代の大阪の地形に、後の主要スポットを加えた地図
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↑これを見ると、上町台地の西端側に、聖地あるいはパワースポットが、南北に多く並んでいることが分かります。(例外的に見える四天王寺は移転されたもので、創建当時は現・難波宮跡地にあったとする説が有力)

これは、西の大阪湾という海に面して、神聖な宗教地域性とともに外に向かって王権を輝かせるという意味もあったと思われます。仁徳天皇陵などは海から見られる大王の超巨大墳墓として造営されたのです。

↓仁徳天皇陵
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中沢新一氏は、名著『大阪アースダイバー』の中で、この難波宮から南に伸びる難波大道、さらに南に位置する百舌鳥の大古墳群につながる南北のラインを、大阪を貫く第一の軸として、「アポロン軸」と呼び、王の絶大な権力を現すものと書いています。

私も、この中沢説について、個々の展開には強引な面が多くて異論があるものの、大筋は賛成です。私的には、泉北台地から上町台地にかけての地形は「大阪の背骨」だと考えており、大阪という都市の成り立ちそのものに深く関係し、古代からの歴史を背中に残す重要な場所であると思います。


大阪は全般的には堆積平野と埋立地で坂は少ないのですが、この上町台地だけは大阪の背骨として多くの坂があります。もともと大坂(現・大阪)という地名の由来は、上町台地北端の坂のある地域を「大坂」(小坂・尾坂説もあり)と呼んだことにあります。

上町台地西側は急傾斜で、聖地に関連した名所の坂が多く、天王寺七坂と言われ、古くからの歴史を感じさせます。

↓天王寺七坂のひとつ真言坂(真言坂は生國魂神社と生玉十坊に関連)
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↓天王寺七坂のひとつ愛染坂の説明看板(愛染坂は愛染堂と大江神社に関連)
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↓愛染堂に隣接する大江神社の説明看板より(生國魂神社から四天王寺にかけての一帯を夕陽ケ丘という)
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なお、上の地図で注意すべきは大和川です。この川は、奈良から生駒山地と葛城山地の間を抜け、北流して河内湾(河内湖)に注いで土砂を堆積していました。現在のように西流して大阪湾に注ぐようになったのは、江戸時代に、上町台地と泉北台地の間のやや低い場所を掘削し、大和川の付け替え工事が行われたからです。結果、現在の大阪市と堺市の境界をなす川となったのですが、これによって形状記憶都市:大阪のアポロン軸が分断されたとも言えます。

↓大和川中流域
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大坂城を築いた秀吉も、王権を輝かせる場所として、上町台地の突端を選びました。地勢的・軍事的に要害であったことが最大の理由ですが、縄文時代より大坂の最大の聖地の場所でもありました。そのため、生國魂神社を南へ丁重に遷座させたのです。

↓現在の生國魂神社
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大坂城は、西~北~東側が低地でしたが、南側は上町台地が続いているため、軍事的には攻めやすい弱点となります。そこで、南側に主な武家屋敷街を並べ、その南に天然の浸食谷を利用して空壕を掘り防備を固めたのです。

この武家屋敷街を含んだ大坂城の惣構え(総構え)は巨大で、現在の大阪城の4倍以上あったとされます。


惣構えが巨大となり、古い大坂の商業地だった旧石山本願寺内・渡辺津・旧玉造といったところが、大坂城内に取り込まれたため、そこにいた商人の移転地として、西側の低地が開発されます。さらに、堺から有力商工業者たちを移転させてきます(堺筋に名を残す)。
これが、船場という大商業地の発祥です。

やがて水運に恵まれた船場は各地の物産が集まる日本の経済センターとして発展し、天下の台所:大坂として大都市化していきます。

さらに、江戸時代に大坂は、近松門左衛門や井原西鶴、上田秋成などに代表される町人文化が栄えました。 文化の面でも、江戸と並ぶ中心地となりました。

明治以降、その経済的・文化的地位は低下していきますが、商人の町としての気質は引き継がれていきます。


言葉の面では、商人を中心として、争いや暴力を嫌い、平和を愛する町では、強い言葉ではなく、柔らかい言いまわしが好まれたのです。そうした土壌の中、大阪弁も変化しながら、その持ち味を残してきました。

大阪弁の代表格とされた船場言葉は、もともとは豊臣秀吉の時代に堺から強制移住させられた商人が多かったので、商人の自治都市:堺の言葉が基盤でした。そこに、江戸期になると、平和な商いに役立つ、丁寧かつ上品な京言葉の表現が取り入れられ、まろやかな語感の、はんなりとした大阪弁が発達したのです。


平成の現在、もはや往事の船場の雰囲気は無く、上品な大阪弁の文化は失われつつあり、船場センタービルの上には高速道路が走り、その船場センタービル自体も閉鎖されようとしています・・・

↓現在の船場のワンショット
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<追記> 2017.6.17 石山碕とニギハヤヒについて、ご質問がありましたので、以下の More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

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More ニギハヤヒの謎
2017年 05月 20日 |
「たびねす」掲載された、私の 「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」 という記事とのコラボ企画の後編です。

今日は、堺の古い街並みの紹介と堺鉄砲の話です。


↓清学院の一筋東側に、鉄砲鍛冶屋敷跡があります。堺市の指定有形文化財ですが、住居として使われているため、内部非公開で外観だけの見学になります。
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安土桃山時代から江戸時代にかけて、技術力のある堺は日本一の鉄砲生産地として栄えました。第二次世界大戦の空襲で堺の中心部は焼失しましたが、この一画は奇跡的に戦災を免れました。鉄砲鍛冶屋敷跡は、江戸時代の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼店舗であったもの。往時の面影を残す堺で唯一の貴重な建築物で、日本の町家建築としても最古級です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡を引いた画角で周辺の街並みと一緒に撮影
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1543年、種子島の門倉岬西村の小浦に漂着したポルトガル人より、初めて日本に南蛮式鉄砲がもたらされました。島主:種子島時堯が、二挺の鉄砲をポルトガル人から買い取ったのです。

当時、琉球との貿易に従事していた堺の貿易商・橘屋又三郎は、種子島に立ち寄り、その鉄砲製造技術を持ち帰り、堺の桜之町に鉄砲工場をつくりました。堺の職人たちは対応できる高い技能を持っていたからです。

また、紀州根来寺(現・和歌山県岩出市根来)でも、堺の刀工・芝辻清右衛門が種子島銃の複製に成功します。
さらに足利将軍義晴に島津経由で献上された鉄砲をもとに、近江国・国友村(現・滋賀県長浜市国友町)の刀工・善兵衛も種子島銃の複製に成功。

すなわち、ほぼ同時期に、日本の三か所で、鉄砲製造に成功し、そのうち二か所で、堺の人間が製造したのです。

戦場の様相を一変させる武器でしたので、戦国大名は競ってこの鉄砲を入手しようとしました。
中でも「尾張の大うつけ」といわれた織田信長は、1553年、舅である美濃の斎藤道三と初対面した際、足軽に500挺もの新兵器の鉄砲を持たせて行進し、驚かせたとのことです。

まさに、この時、鉄砲伝来からわずか10年後なのです!
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上記の堺の橘屋又三郎(鉄砲又)と芝辻清右衛門一族は、堺で本格的な鉄砲生産に乗り出し、堺は日本における鉄砲製造の中心地となりました。(信長が長篠の戦いで使用した3000挺の鉄砲のうち2500挺が堺の製品)

鉄砲の弾丸の鉛や火薬原料の硝石は輸入に頼らざるを得なかったので、海に面した貿易港である堺は鉄砲製造の立地条件としては最適でした。さらに職人の技術力の高い堺では、品質管理による「部品互換方式」の製作システムを確立して大量生産に乗り出しました。
いっぽう、原材料輸入貿易や鉄砲販売をする有力堺商人は、会合衆として堺の都市自治を推し進め、現代でいう商社的役割を果たし、鉄砲のバイヤーかつブローカーとして活躍しました。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下人は、鉄砲を重視し、堺を支配下に治めるべく努力しました。これらの天下人と結んだ堺商人は、財力を蓄え文化をも育成しました。

今井宗久や千利休・津田宗及らは、鉄砲の販売や硝石の貿易で活躍した堺商人で、その経済力の上に、茶の湯という高度な文化を生み出しました。彼らは、単なる武器商人ではなく、日本人の美意識を創り出した優れた文化のプロデューサーでもあったのです。千利休に至っては茶の湯を大成するとともに、「御茶湯御政道」の担い手として秀吉政治のフィクサーにまでなりました。(秀吉の弟:豊臣秀長の言葉「公儀のことは私に、内々のことは宗易【=千利休】に」)
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その結果、鉄砲生産の最盛期:1600年ころには、10万挺近い鉄砲が日本にあったと推測されます。当時、日本の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体の量を超えていたそうです。

この鉄砲普及の驚異的なスピードと国産鉄砲の品質の高さは、日本だけで、ヨーロッパ人が銃を持ち込んだ世界のどの地域にも見られないものです。


有力な説によると、ポルトガル・スペインが日本の植民地化をあきらめた大きな要因は、この日本における鉄砲の普及にあったとされます。

「堺鉄砲が日本を守った」とは言いすぎかも知れませんが、少なくとも「歴史を変えた堺鉄砲」と言えるでしょう。


模倣から出発して、品質を向上させ本家を超えた良いものを大量生産する.....なんだか、現代日本の自動車産業やカメラ産業の話に似ていますね。
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江戸時代に、鎖国して天下泰平になると鉄砲の需要は減りますが、鉄砲鍛冶の伝統が途絶えることはなく、タバコ包丁や打ち刃物でも堺の高度な技術は連綿と受け継がれ、とりわけ高級なプロ用包丁である「堺包丁」は現在でも世界一の切れ味を誇ります。


↓このあたりには多くの鉄砲鍛冶が住んでいたのです。
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そうした、現代に堺鍛冶の伝統を受け継ぐ老舗が、水野鍛錬所です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡から二筋東に紀州街道があります。ここを南に150mほど歩くと水野鍛錬所があります。
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ここは、現在も営業している老舗の鍛冶屋で、伝統の古式鍛錬にのっとりプロ用の和包丁から日本刀に至る極めて優れた刃物を鍛造しています。奈良の法隆寺大改修の際には、国宝五重塔九輪の四方魔除け鎌をを鍛え奉納しました。
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↓水野鍛錬所の門横には、与謝野晶子の歌碑があります。2010年に水野鍛錬所により建立されたもので、鍛冶屋らしく庖丁の形をしています。
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 「住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路

「七まち」とは堺の鍛冶屋用語で、堺製のタバコ庖丁が江戸幕府公認となった際、北旅籠町、桜之町など七つの町に住んでいた37軒の鍛冶屋が指定されたことに由来します。このあたりは、堺の鉄砲製造の伝統を引く鍛冶屋の街区だったのです。

また「菜の花」は、江戸時代から明治時代にかけての堺では、菜種が多く栽培されていたことによります。河口慧海や与謝野晶子が、堺で幼少期を過ごした際、菜の花を見て育った情景が浮かびます。

この歌碑は、最近つくられたものですが、与謝野晶子のふるさとですので、堺には晶子の歌碑・顕彰碑は多く建立されてきており、現在は23基もあります。

なお、堺の与謝野晶子の歌碑については、
 「与謝野晶子のふるさと堺市で歌碑巡り 生家跡などで晶子を偲ぶ」
 「堺市で与謝野晶子の歌碑を辿り歴史ロマン散歩 大仙公園から晶子立像へ」
の記事をお読みください。


↓このあたりは刃物の店が多いです。
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↓紀州街道
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与謝野晶子歌碑の前の紀州街道を南に下り、阪堺線(路面電車)と合流してから次の筋を東に入ると山口家住宅があります。

↓山口家住宅
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山口家住宅は、大坂夏の陣の戦火直後(1615年)に建てられた貴重な建物で、江戸時代初期の町家として重要文化財に指定されています。内部は整備され、堺の伝統的な町家暮らしを感じることが出来る展示があります。

ここは、前回記事で紹介した「清学院」との共通入場券も発行され、連動して見学できます。「慧海と堺展」というイベントが実施された際は、山口家住宅もメイン会場の一つとなり、河口慧海と交流のあった堺の人々の関連資料が展示されました。


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2017年 05月 15日 |
「たびねす」に、私の「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」という記事が掲載されました。
堺が生んだ偉人: 河口慧海と、堺の古い街並み散策について書いていますので、ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(45)河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策
http://guide.travel.co.jp/article/26260/






ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、河口慧海について詳しく紹介します。


↓大阪府堺市の南海本線七道駅前の西側ロータリーの中心に河口慧海の銅像があります。これは、1983年に堺ライオンズクラブの創立25周年記念事業として建立されたもので、ヒマラヤの岩場を行く慧海の姿がリアルに再現されています。彫刻家・田村務によって制作されたものです。
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河口慧海は、日本の仏教の在り方にあきたらず、求道者として梵語・チベット語の仏典を求めて、艱難辛苦の末、日本人として初めてヒマラヤを越え、鎖国していたチベットに入国を果たしました。

多くの梵語仏典やチベット語仏典を持ち帰り、民俗関係資料や植物標本なども蒐集し、大きな成果をあげました。当時の状況から非常に困難な旅でしたが、仏教の原点を究めるという強い意志により成し遂げたのです。その慧海の不撓不屈の精神が感じられる銅像ですね。


↓七道駅前を東に歩くと、河口慧海生家跡周辺マップ看板があり、その後ろに堺の環濠跡が見られます。
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↑ここは、中世に自由な自治都市として栄えた堺の町を取り囲んでいた環濠の一部で、貴重な遺構です。堺環濠の東側は埋め立てられ土居川公園という細長い公園になっています。いっぽう、西側は内川として残されているのですが、現在はこの七道駅前の丸い環濠跡が起点となっています。


↓環濠跡から東へ三筋目の角を南へ曲がって50mほど歩くと、河口慧海の生家跡の碑があります。現在は住宅地の中にあるブロック塀に囲まれた小さな一角です。
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↓正家跡にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は、1866年(慶応2年)に堺山伏町(現・堺市堺区北旅籠町西)で、樽製造業者の長男として生まれました。向学心が旺盛であったため、各所で勉学を重ね仏教へ傾倒します。

懸命に修行し五百羅漢寺の住職にまでなりましたがあきたらず、その地位を捨て、仏陀本来の教えが残る仏典を求めチベット行を決行します。帰国後、チベット仏典研究と一般人への仏教の普及に邁進し、多くの著書を残しました。晩年には還俗し、在家仏教の道を提唱しました。


河口慧海の考え方は、仏陀の道=原始仏教の本来の姿を追求したわけですから、形骸化した現在の仏教の在り方に疑問を持ったのは当然でした。やがて自ら僧籍を捨て、在家仏教こそが真の仏陀の道であると喝破したのです。


あくまで私の独自の考えですが、原始キリスト教や原始仏教の在り方は非常に似ていると思います。したがって慧海の考え方は正しい宗教を究めようする者には当然の結論です。慧海の姿には、すべての優れた宗教家に共通する聖性があると感じます。



また、慧海の思想は別にしても、ヒマラヤを越えチベットに至る記録は素晴らしいもので、慧海の『チベット旅行記』は探検記・紀行・冒険としても、とても面白く素晴らしい著作ですので、ぜひお読みください。一本筋の通ったノンフィクションの名作です。

文庫本もありますし、ネット上で無料で読める青空文庫もあります。ぜひとも、こちら、をご覧ください。


『チベット旅行記』については、私は15年ほど前に感想文を書いて、ホームページに発表したことがあります。それを、下の More に載せてみましたので、ご興味のある方はお読みいただければ幸いです。
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↓河口慧海の生家跡から東へ二筋のところに清学院があります。
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↑ここは、もとは修験道の道場で、江戸後期から明治初期にかけては寺子屋として使われ、町人たちの学習の場でした。

河口慧海もここで、読み書き算盤を学びました。現在は「堺市立町家歴史館 清学院」として保存修理され、河口慧海に関連するパネル展示をはじめ寺子屋の歴史に関する資料を公開しています。

↓清学院前にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は幕末に生まれ、明治維新の激動の時代に堺で幼少期を過ごしたわけですが、当時、堺の旧市街には、22件もの寺子屋があり、約2000名の町民子弟が通っていました。寺子屋は、読み書き算盤を教えるとともに、人の道である道徳や宗教も教えていました。

堺は本格的な商工業者の町ですから、算術は当然必須ですし、商品経済の発展に伴って、証文や手形などの取引に文字教育は必要とされたのです。また商取引には人と人との信頼関係が前提となり、倫理的な教育も施されたのです。

堺の寺子屋の特徴は、教える側の師匠が、すべて町人系か医者で、士族すなわち侍がいなかった点です。いかにも堺らしいですね。
国語系の教科書は「往来物」といわれる往復書簡、地名紹介本、千字文などで、清学院で見ることができます。


寺子屋はいわば初等教育ですが、もう少し上のレベルの教育を行った、郷学所や私塾もありました。経学(四書五経)や詩文(漢詩)を教える中等教育ですね。

河口慧海は勉学熱心で、清学院の寺子屋を出た後も、儒学者・土屋弘の私塾である晩晴塾(現・堺市戎之町)で学びました。慧海は、ここで漢籍・詩文・修身を学び、漢学の素養を身につけるとともに、読書力・文章力に磨きをかけたのです。



かつて自治都市であった堺には清学院のような寺子屋をはじめとして、郷学所や私塾が多く存在し、商工業者の子弟が通っていました。千利休以来の町衆の文化の程度が高く、他所に先駆け鉄砲鍛冶に代表される高度な技術者や優秀な人材を育んだのです。河口慧海と与謝野晶子は、そうした堺の文化的土壌が生んだ偉人といえるでしょう。


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