模糊の旅人
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2017年 01月 19日 |
1月15日まで、大阪の国立国際美術館で「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会が開かれていました。
私もなんとか滑り込みセーフで、見てきました。今日はその独断的感想を、記憶が新しいうちに書いておきます。

↓国立国際美術館外観
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美術館に、朝10時の開館と同時に飛び込んで、悔いのないよう納得するまで見て、出てきたのが13時15分でした(汗)
57作品で、3時間以上使ったわけですから、じゅうぶんにヴェネツィア絵画を堪能しました。

↓入ったところにある宣伝ポスター
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↓併設の展覧会「プレイ展」は写真撮影可でした。
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自由に撮影してSNSやインターネットで写真を拡散してほしいということです。こういう趣旨の展覧会もこれまで何度かありましたが、まだまだ日本では少ないです(曜日によって撮影可だったのが「デトロイト美術館展」、常時一部撮影可なのが東京国立博物館)。海外では当たり前なので、これからは増えてほしいものです。


今回は、本体の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展は、写真撮影は不可ですので、その個々の絵画内容は、別の機会でということで、今日は私が自分で撮った周辺写真やパンフによる、全体的感想と印象的だった作品の解説です。


まず、入場口に音声ガイドのコーナーがあります。私はヴェネツィア派絵画にさほど詳しくないのと、俳優の石坂浩二さんのガイドということで、550円を支払って音声ガイドも聴いてみることにしました。

クリヴェッリを石坂浩二さんがどう解説するかも楽しみだったのですが、残念なことに音声ガイドされる20作品に、クリヴェッリ作品は選ばれていませんでした・・・

ただし、ミュージアムショップで販売されている絵葉書(ベスト25作品)には、クリヴェッリは選ばれていたので、それを自分への土産として購入しました。

↓クリヴェッリ作品の絵ハガキと、ジョヴァンニ・ベッリーニの栞など
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全体的には、たいへん見応えのある美術展でした。これだけのヴェネツィア派の作品を日本に居ながら見られるというのは、すごいことです。
欲を言えば、さらに天才ジョルジョーネの作品もあれば最高でしたが、ジョルジョーネは夭折し寡作ですし、『テンペスタ』 はアカデミア美術館の至宝ですから、やはり来日は無理でしょうね。

それでも、日伊修好条約150周年記念ということで、頑張ってくれた関係者の皆様に感謝です。


個人的感想ですが、ざっと全部見て、私がまず思ったのは、見どころは前半部分にあるということです。

↓パンフレット裏側上部はティツィアーノまでの作品です。
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もっと正確に言えば、全57作品のうち、前半最初部分にある以下9作品が、私にはベストだと感じました。

ジョヴァンニ・ベッリーニ『聖母子』(赤い智天使の聖母)
カルロ・クリヴェッリ『聖セバステイアヌス』
カルロ・クリヴェッリ『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』
ラッザロ・バスティアーニ『聖ヒエロニムスの葬儀』
アントニオ・デ・サリバ『受胎告知の聖母』
ヴィットーレ・カルパッチョ『聖母マリアのエリザベト訪問』
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『受胎告知』
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『聖母子』(アルベルティーニの聖母)
ティツィアーノ工房『ヴィーナス』


以上は、あくまで私の独断的な好みによるベストです。どうもヴェネツィア派に関しては、ティツィアーノまでのルネサンス前期絵画が、私の好みのようです。


他に、ティツィアーノより後で、好き嫌いは別として印象に残った作品は以下のとおりです。

ヤコボ・バッサーノ『悔悛する聖ヒエロニムスと天井に顕れる聖母子』
ヤコボ・ティントレット『サンマルコ財務官ヤコボ・ソランツォの肖像』
ベルナルディーノ・リチーニオ『パルツォをかぶった女性の肖像』
レアンドロ・バッサーノ『ルクレティア』
パルマ・イル・ジョーヴァネ『聖母子と聖ドミニク、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ』
パルマ・イル・ジョーヴァネ『スザンナと長老たち』
フランチェスコ・モンテメッサーノ『ヴィーナスに薔薇の冠をかぶせる二人のアモル』
パドヴァニーノ『オルフェウスとエウリュディケ』

このうち上から三作品は、パンフレット裏側下部に載っていましたので紹介しておきます。

↓バッサーノ『悔悛する聖ヒエロニムスと天井に顕れる聖母子』
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↓ティントレット『サンマルコ財務官ヤコボ・ソランツォの肖像』とリチーニオ『パルツォをかぶった女性の肖像』。
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何度も会場を行ったり来たりし、特にクリヴェッリ作品は合計で30分くらい鑑賞したと思います。音声ガイドも2周しました(笑)
石坂浩二さん音声ガイド解説は声が聞き取りやすく、内容も分かりやすいものでした。


さて、一番最初に展示されていたジョヴァンニ・ベッリーニは、1作品とはいえ、とても好感が持てました。
落ち着いた雰囲気で優しさがあります。

↓外部ポスター(ジョヴァンニ・ベッリーニの聖母子像が一押しになっています)
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この聖母子像は、万人受けすると見えて、絵ハガキ売り上げトップでしたし、関連グッズも多く、いわば展覧会のマスコット的存在でした。
ジョヴァンニ・ベッリーニの明るい色彩と優しい人物描写は、もっと評価されても良いと思います。


そこから次に展示されていたのが、私にとって本命のクリヴェッリ2作品。クリヴェッリの魅力たる聖母マリアやマグダラのマリアではないので、過剰に期待していなかったのですが、実物は予想以上に良かったです。(詳しくはこの記事の最後部分で)

それから、バスティアーニ『聖ヒエロニムスの葬儀』。これは見たことのない構図で興味深いものでした。

↓次は、アントニオ・デ・サリバ『受胎告知の聖母』
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↑これは、アントネッロ・ダ・メッシーナの傑作『受胎告知の聖母』を、甥のデ・サリバが模写したものですが、一時はメッシーナの真筆とされていたもので、とても雰囲気はありました。私のような素人には、メッシーナ作品との区別がつきません(汗)


カルパッチョ『聖母マリアのエリザベト訪問』は、イタリア料理の「カルパッチョ」の名前の由来となった画家の色使いがよく出ており、なるほどと思いました。



そして、いよいよティツィアーノの2作。

ティツィアーノは想定の範囲内でしたが、とても良かったです。やはり絵のうまさは抜群で、巨匠であることは間違いありません。
この展覧会の看板作品である『受胎告知』の祭壇画は、縦4m以上もあって、よく運んで来れたものだと感心しました。

↓パンフレット表紙は、ティツィアーノの『受胎告知』
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この絵は、かのサン・サルヴァドール聖堂の目玉ですから、よく来日許可が下りたものです。

石坂浩二さんの音声ガイドには、スペシャルトラック「石坂浩二のヴェネツィア紀行 サン・サルヴァドール聖堂訪問」というのがあり、楽しめる仕掛けとなっています。この中で石坂浩二さんは「世界に数ある受胎告知の絵の中でも、この作品は最も素晴らしい」と述べていました。

確かに、天使が告知に現れた瞬間をとらえており、聖母マリアの戸惑いと驚きの姿が見事に描かれていますね。(個人的には、世界の受胎告知画の中で一番とは思いませんが・・・・ちょっと、うますぎるんだよなあ・・・)

↓チケットはティツィアーノの『聖母子』(アルベルティーニの聖母)
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これも素敵な作品ですね。

上記両作品ともティツィアーノの晩年に描かれたものですが、石坂浩二さんの音声ガイドによると、こういう晩年作品を通じて、ティツィアーノは後世の印象派に通じる絵画への道を開いたのだそうです。

晩年のティツィアーノはタッチがやや荒々しくなり、その芸術性を高めようとする姿勢が見られます。このあたり、時代は違いますが、同じ多作画家の巨匠であるレンブラントの晩年に似ているなあと思いました。



とはいえ、ヴェネツィア派は、ティツィアーノで頂点を極めてしまったと、私には感じました。ティツィアーノ以降の画家は、印象的な作品はありましたが、全体的には、どうも私の肌には合いませんでした。


↓パンフレット裏側下部に掲載されたティントレット『聖母被昇天』(左)とヴェロネーゼ『レパントの海戦の寓意』(右)
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あくまで私見ですが、ティントレットやヴェロネーゼは、要するに劇画チックなんですよね。こんなに、大げさに描いては、かえって神聖さを損なうように感じてしまいます。バッサーノも、うーん・・・

肖像画作品を見ると筆力はあるし、良いものも多々あるのですが、ティントレットとヴェロネーゼの大作は私の個人的好みではないのです。お好きな方、すいません。



それに比べて、身びいきでしょうが、わがカルロ・クリヴェッリは、とても私の好みです。ティントレットとヴェロネーゼの大仰な作品を見てから、クリヴェッリに戻ってきて再会すると、ほっとしました(笑)

クリヴェッリは小品2点で、テーマ も地味で、全展示品中唯一の板+テンペラという古い方法で描かれているのにも関わらず、静謐な神聖さが漂っており、やはり素晴らしいと感じました。油彩画より色に艶と趣があり、緻密かつクリアに残されているのにも驚きました。

硬質な人物描写に、後ろのタペストリーの精密な文様が独特の雰囲気を醸し出しています。神秘的という観点から見ても、クリヴェッリ作品は展覧会中の随一でした。

↓上で紹介したクリヴェッリ作品の絵ハガキを拡大
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左側の聖セバステイアヌスは、3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殉教した聖人で、矢がささっている姿で描かれるのが通例です。矢で瀕死の状態になりますが、聖女イレーネに救われ命を取り留めます。後に、宣教を続けたため、こん棒で殴打され殺されます。
矢を受けても死ななかったことなどから、後世に黒死病から信者を守る聖人として崇敬されました。

なお、クリヴェッリ『聖セバステイアヌス』と『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』という作品名についている「聖人」と「福者」との違いは、カトリックにおける称号の違いです。「聖人」のほうが位が高く、次いで「福者」となります。(正教会やプロテスタントでは扱いが異なります)

右側のヤコボ・デッラ・マルカは、15世紀の聖職者で、クリヴェッリが後半生を過ごしたアスコリ・ピチェーノで特に人気があったそうです。18世紀に聖人として列聖されましたが、クリヴェッリが描いた15世紀末の時点では、まだ福者であったので、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』という作品名になっているわけです。

↓『聖セバステイアヌス』の光輪部分(左)と『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』の光線部分(右)
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ミュージアムショップで販売さていた図録の解説によると、『聖セバステイアヌス』が頭上に光輪があるのに対し、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』のほうは頭の周りに光線が描かれているのは、聖者(Saint) と福者(Beato) の違いを表しているそうです。

また、図録の解説ですが、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』の下部に「OPVS KAROLI CRIVELLI VENETI」のサインがあるのは、後世の書き加えであるとのことです。なぜなら、クリヴェッリは、祭壇画では中央パネルの聖母子像にしかサインをしなかったからです。この作品は、アスコリ受胎告知教会の多翼祭壇画の端部パネルとされており、独立した絵画ではないのです。

また、X線解析から、複数の人の手による作成痕跡らしきものが見つかっており、全部がクリヴェッリ一人により描かれたというより、クリヴェッリ工房の作品の可能性があると、これも図録の解説にあります。



ヴェネツィアのアカデミア美術館には、クリヴェッリによるアスコリ受胎告知教会多翼祭壇画パネルとしては、聖セバステイアヌス、聖ロッコ、福者ヤコボ・デッラ・マルカ、聖エミディオの4枚が、『4聖人』として収蔵展示されています。そのうち、今回は2枚が来日したわけです。



これで、クリヴェッリ作品は、私にとって実物は、5作品を見たことになります。今後も、海外の教会や美術館を巡って、少しずつ見ていきたいものです。

クリヴェッリ作品は、世界中に散らばってしまっています。とはいえ、そんなに多くの作品は現存しません。(日本の国立西洋美術館にも1点ありますが、常設展示作品ではないのが残念です。)

寡作作家というのは、全作品を実際に見ることが不可能ではないので、ある意味、追いかける対象としては最適です。
私は、これまで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョルジョーネ、フェルメールといった好きな寡作画家の作品を旅の楽しみのひとつとして意識して見てきました。今後は、それにクリヴェッリを加えることにします。



以上、全体的な話と、特に感心した作品について書いてみました。


↓次の展覧会はクラーナハ、これも好きな画家なので行く予定にしています。
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2016年 12月 15日 |
いろいろあってバタバタしており、海外写真は整理出来ていませんので、帰国後すぐに撮影した近所の公園の紅葉をアップします。

今日は少し寒くなりましたが、それまで大阪はドイツと比べると暖かく穏やかなので、ちょっと驚きました。12月中旬になろうとしているのに、まだ少し紅葉が残っていました。
自宅からすぐの公園で撮影しましたが、やはり日本の紅葉は良いものですね。


紅と黄の残り香
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公園の落ち葉ロード
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浮かぶ薄色
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枝先美色
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落ち葉の美学
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2016年 11月 05日 |
しばらく海外遺跡が続きましたので、今日は身近な小さな生き物の写真を。

秋の公園の野鳥 は、なんとかアップしましたが、昆虫のほうは撮影しているものの、現像してブログアップするタイミングを逸していました。
そこで、少し前になりますが10月の秋の蝶やトンボをご覧ください。

秋の蝶で、一番元気なのがウラギンシジミです。
少し寒くなり他の蝶が姿を消しはじめても、ウラギンシジミは晴れた日には飛び回っています。

山麓から公園そして住宅地の道端に至るまで、人工的な構築物にも平気で寄ってくる生命力を感じる蝶です。

↓公園の階段の手すりに止まるウラギンシジミ2枚。アルミに銀白色の裏翅が反射して、なかなか面白い意匠です。
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ウラギンシジミは、マメ科のクズ、フジ、ハギなどを食草とし、生息域を広げています。
暖地性の昆虫で、しかも成虫越冬なので、地球温暖化という現象はこの蝶にとって有利なのかもしれません。私の子供時代より、良く見かけるようになったような気がします。(他の蝶が減ったので目立つようになった可能性もありますが・・・)

どこにでもいる秋の銀色の妖精です。

↓地面に降りてじっとしているウラギンシジミをアップで
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↓少し翅を広げつつあり・・・
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↓やっと翅を半開きにして、美しい表翅を見せてくれました。オレンジ色なのでこれは雄ですね。
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↓萩の花にキアゲハの舞
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↓先端のトンボ2枚
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More 写真展のお知らせ
2016年 10月 15日 |
春に大阪平野を通過し、山地や北へ繁殖に行った夏鳥たちが、9月下旬から10月にかけて、再び大阪平野を通過して南の国へ帰っていきます。
短期間の滞在ですが、地元の公園の秋は、こうした渡り途中の鳥たちを見るチャンスです。(そして、もうすぐ北から越冬するために冬鳥たちも帰ってくるのです・・・)

今日は、そうした旅の途中に地元公園で一休みしてくれた、夏鳥たちの秋の姿を三種ごらんいただきます。

↓キビタキ(雌)
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↓キビタキ(雄)・・・二枚
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↓コサメビタキ
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↓ツツドリ・・・二枚
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↑ツツドリは、ホトトギスやカッコウに近い中型の野鳥で、東南アジアで越冬し、日本には夏鳥としてやってきて、山地の森林で繁殖します。
繁殖と言っても、カッコウと同じように他の鳥類の巣に卵を産み付け雛を育ててもらう「托卵」という習性があります。

晩春から初夏にかけて、山で「ポポ、ポポ」と鳴くツツドリは印象的で、遠くから撮影したことがありますが、今日の写真のように近くで大きく撮れたのは初めてでした。後姿的なポーズでしたが、地元の公園で、間近に観察出来て嬉しかったです。





さて、以下のとおり、来月11日より、写真展を開催することになりました。
もう6回目を迎えた、手作りの小さな写真展ですが、皆様のお越しをお待ち申し上げております。

なお、写真展案内ハガキ(ダイレクトメール)をご希望の方は、ブログの非公開コメントかメールで送付先をご連絡ください。至急、案内ハガキを送らせていただきます。
どうぞよろしくお願いします。


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第6回 グループ温故斬新 写真展


場所:オリンパスプラザ大阪 オープンフォトスペース
            (大阪市西区阿波座1-6-1 MID西本町ビル 1階)

開催日:2016年11月11日(金)~11月17日(木) <但し日曜は休み>

開催時:午前10時~午後6時  <但し最終日は午後3時まで>


場所の 地図は こちら  

地下鉄本町22・23番出口すぐです。(四つ橋線本町駅が便利です)




4人の仲間による個性豊かな手作りの写真展です。

温故知新ではなく温故斬新ですよ(笑)。
古いものをリスペクトするとともに、現代の斬新な感覚も大切する意です。

皆さまのお越しを心よりお持ち申し上げています。


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2016年 09月 07日 |
海会寺跡古代史博物館シリーズの最終回です。

現在の海会寺跡は、遺跡公園になっていますが、その中央を占めているのが一岡神社(いちおかじんじゃ)です。この神社は、和泉国日根郡の由緒ある大社で、社伝によれば、崇峻天皇5年(592年)に厩戸皇子(聖徳太子)が海会寺を建立した際に、その鎮守の海営宮として造営されたとされます。

古くより地域の人々に「祇園さん」として親しまれてきた、古代史の謎がからんだ非常に興味深い由来の神社です。

↓一岡神社の拝殿
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主祭神は須佐之男命ですが、他にも数多くの神様が祀られています。

↓一岡神社の由来等の説明板
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説明板内容は次のとおりです。
「第二十九代欽明天皇の御代(西暦五三九年)悪疫日に増して激しく流行するに及び、時の長人一岡神社に平癒祈願をなきしめたる処、神徳顕著に現証され、その寄徳を仰ぎ、山城國に御分霊を斎して疫病除け祈願の神と定められたと云う。その後第三十三代推古天皇の御代(西暦五九二年)に、厩戸王子(聖徳太子)はこの地に七堂伽羅を建立、海営寺と称し一岡神社を海営宮と改め鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬され、又後の第四五代聖武天皇の御代(西暦七二四年)高僧行基は社の南に一大溜池を築造、海営宮池と名付け神社・寺共に修復されしが、第百六代正親町天皇の御代天正五年(西暦一五七七年)織田信長の兵火に罹り焼失、その後第百七代後陽成天皇の御代(西暦一五九六年)に村民氏子によって新築再建、その昔は正一位の神階を賜り境内三二三八坪、境内外実に六七六〇坪に及び、尚一五〇〇坪のお供田を有し日根郡内唯一の大社として栄え祇園さんとして親しまれ現在に至っております。」


↓市杵島姫神社(市杵島姫命と厩戸王子命が合祀されています)
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↓牛神神社(大己貴命)
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↓稲荷神社(宇迦之御魂命)
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最近は、一岡神社に合祀されている知恵の神様の丸い茅の輪くぐりが注目されています。いわゆるパワースポットとして、頭が良くなる願いをこめて、学業成就祈念の受験生などがお参りにくるようです。

↓知恵の神
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↓茅の輪くぐり
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現在、海会寺跡の金堂基壇の上には、半分覆いかぶさるように一岡神社があります。

↓一岡神社の奥本殿を裏から撮影・・・海会寺遺跡の上に建てられていることが分かります。
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海会寺跡の発掘による調査結果と年代的にも整合する可能性があり、海会寺と深く関連しているようです。海会寺は平安時代に火事で焼失し荒廃しましたが、熊野詣が盛んになると神社が崇敬を集めるようになり、やがて熊野九十九王子の厩戸王子社を合祀し、和泉国日根郡の大社となりました。さらに民間の祇園信仰も取り入れて神社は地域の氏神として継続されてきました。

海会寺跡の発掘によると、寺院の建てられたのは大化の改新(645年)の直後ですので、社伝の聖徳太子の時代より少し下ることになります。
おそらく、海会寺の鎮守の海営宮として建てられた神社が、海会寺の焼失後も生き残り、熊野詣の隆盛の時代を経て、海会寺敷地を神社境内に含んで維持され、古代に造られた大寺院の伝説を神社の社伝に取り込んだのではないでしょうか。


大きな寺を造るとき、神社を鎮守として併設するのは、古代から多くの例があります。

興福寺建立の際は春日大社を勧請して鎮守としたとされ、東大寺の大仏殿の建立の際は協力した宇佐八幡宮を勧請し手向山八幡宮を造営しました。
鞍馬寺の鎮守社は由岐神社です。比叡山や高野山を開山するする際にも神社を建立して地鎮と鎮守を祈願しています。

逆に寺院に併設された神社のほうが有名になったのが、金刀比羅宮(松尾寺)、豊川稲荷(妙厳寺)、最上稲荷(妙教寺)といったところです。



一岡神社は、海会寺の鎮守社として出発しましたが、海会寺が焼失した後も熊野詣と祇園信仰に関連する神社として発展し、境内に海会寺遺跡を保護する形で、現在に至ったようです。一岡神社のおかげで海会寺遺跡が残ったとも言えるわけで、長い歴史の鎮護の因縁を感じる話ですね。






<追記注釈> 祇園について  2016.9.8 ; 5:25  (御質問がありましたので簡単に説明します)

「祇園」とは、インドで釈迦が説法を行った場所すなわち祇園精舎から来ています。日本では、民間の習合神「牛頭天王」が祇園精舎の守護神とされ、八坂神社を中心に祇園信仰が広がりました。牛頭天王は、蘇民将来説話の武塔天神でもあり、本地は「スサノオ神」で、垂迹は「薬師如来」とされました。まさに仏教・神道のみならず民間信仰が混合した庶民の習合信仰の典型です。

もともとは、祇園祭りに見られるように、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰ですが、明治の神仏分離令により、神社で「祇園」「牛頭天王」のような仏教語を使用することが禁止されました。そのため、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となったのですが、この一岡神社も、正式名ではなく通称で「祇園さん」と呼ぶことで伝統を守ったと思われます。事実、8月1日に行われる一岡神社の夏祭りは、現在でも「祇園さん」として多くの人々でにぎわいます。

あくまで私見ですが、ここ一岡神社の牛神神社(4枚目写真)は、もともとは祇園信仰の牛頭天王社でもあったと考えます。大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)の荒魂が牛頭天王であると『先代旧事本紀』に書かれ強い関連性があるからです。




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2016年 09月 04日 |
特別展示室には軒丸瓦以外にも多数の出土品があります。

その中で特に興味深いのは、セン仏です。セン仏のセンは漢字で「塼」または「甎」と書き、仏像レリーフタイルとでもいうべき型押し焼成で作られた小型仏です。

↓三尊セン仏の破片を復元図にあてはめ展示したもの
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貴重な仏のレリーフである三尊セン仏は、小さいですが美麗なものです。この三尊セン仏は、明日香の橘寺で最初につくられたもので、各地の古代寺院では橘寺のセン仏を粘土で型取り「踏み返し」という技法で複製化してから焼成・彩色しました。海会寺の三尊セン仏もそのひとつで、五重塔の内壁面に貼る形で飾られていたと思われます。

↓三尊セン仏の拡大撮影
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その他の主な展示物も以下に紹介します。

↓独尊セン仏
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↓見事な陶器・・・これが大化の改新の時代にここで作られていたとは驚きました。
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↓寺という字が刻まれた陶片
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↓鴟尾(しび=屋根頂上の飾り)・・・飛鳥時代に大陸から伝えられたもので海会寺のものは日本で最初期の鴟尾のひとつです。
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↓相輪風鐸(相輪を飾ったベル)
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↓石でできた相輪の部品
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↓風鐸(軒先に吊るされたベル)と風鐸の舌(ベルの打棒)
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この展示室の説明パネル類も平易な文章で詳しく書かれており、とても好感が持てます。

こうして、撮影しながらゆっくり見学し、古代の寺院の実像を知ると、深い感慨が湧いてきました。律令国家のシンボルから信仰の対象となり、やがて歴史の彼方に忘れ去られた存在となった海会寺・・・滅びたからこそ蘇える古代歴史ロマンの世界が、ここにあります。

↓完成時の海会寺の想像図・・・古代を幻想してください・・・
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海会寺がつくられる直前におこった大化の改新は、天皇を中心とする中央集権国家をめざす政治的改革でした。孝徳天皇は新しい政治を行うため、飛鳥の地を離れ、難波(現・大阪市)に都を移します。そして、国家統治の根拠地として「畿内」の範囲を定め、政治基盤の強化をはかったのです。

海会寺は、まさにその当時の「畿内」の南西端にありました。畿内と紀伊国を結ぶ南海道の重要地点だったのです。ここに、当時の最新技術を駆使して、先端文化の象徴であった大きな仏教寺院がつくられたのです。さぞ壮大で他を圧する存在感を放っていたことでしょう。

↓当時の畿内の範囲と海会寺の位置・・・まさに畿内の南西端ですね。
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↑海会寺は、木国(後の紀伊国)の国府とは和泉山脈を挟んだ向かい側にあることが分かります。

当時、木国は南海道の先にある重要な地域でした。雨が多く森林の多い国ということで木国と命名されましたが、現在の和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であることから「紀の国」(紀伊国)となったそうです。
その木国に対する畿内側の出口として海会寺は鎮座しています。斉明天皇は、ここを通り南海道を経て、658年(斉明4年)に紀温湯(牟呂温湯=現在の南紀白浜温泉)に行幸し二ヶ月半も滞在しました。

なお、当時の南海道は、紀伊国や熊野国に行くだけではなく、加太港から淡路国を経て、阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国へ通じる重要ルートでした。当時の一級国道と言えるでしょう。
上図に示されているとおり、南海道は、紀伊国に入った後、西に折れ、海に面した賀田港(現・和歌山市加太)に達しています。



実際に海会寺をつくった人や、詳細な経緯は判明していません。おそらく、この泉南の地を支配し都中央と結つきの強かった豪族が建設したと推測されるだけです。まだまだ、多くの謎が残されており、今後の調査研究の成果が待たれるところです。



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2016年 09月 01日 |
古代史博物館の特別展示室には、発掘され重要文化財に指定されたもののうち優品約100点が、常設展示されています。すべてレプリカではなく、本物が展示されているところが素晴らしいです。

↓展示室に入ってすぐ右側の様子
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↓展示室に入って正面の様子
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古代史博物館の特別展示室で最も重要なものが、「吉備池廃寺式」軒丸瓦です。軒丸瓦とは、古代寺院の屋根下部の軒部分を飾る丸い瓦です。「お寺の顔」といってもいい装飾的な紋様が施されたもので、建築当時の年代・技術由来を実証できる貴重な資料となります。

↓最も初期の金堂の軒先を飾った軒丸瓦
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↓蓮の花がモチーフですね、
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↓単弁蓮華紋を正面から拡大撮影
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↓金堂の単弁蓮華紋軒丸瓦(左)と五重塔の複弁蓮華紋軒丸瓦(右)
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海会寺金堂に使われた軒丸瓦は蓮の花を様式化した単弁蓮華紋で、吉備池廃寺や四天王寺で使われた軒丸瓦と同范関係すなわち同じ木型で作られた瓦なのです。

吉備池廃寺は、日本最初の勅願寺である百済大寺であるとされており、九重塔のある日本最大級の寺院であったようです。この百済大寺という、天皇によって建立された国家第一の寺の瓦と同じものが使われているということから、海会寺が当時の都中央権力ときわめて密接な関係があったことが分かります。

↓瓦の流れの説明
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↓単弁と複弁の比較展示を拡大撮影
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↓長い複弁蓮華紋軒丸瓦の全体が出土したもの
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↓軒丸瓦や平瓦等の出土品の展示
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↓古代史博物館の玄関横で栽培されている蓮ですが、花の中央部はボツボツの模様があり、確かに蓮華紋と似ていますね。
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<補足:8月の異常気象の記憶のために>

9月になりましたが、大阪ではまだ猛暑が続いています。三日前、台風の関係で久しぶりに雨が降り、少し温度が下がりましたが、またカンカン照りが戻り気温も高くなりました。少なくとも、あと一週間くらいは残暑が厳しいようです・・・

大阪の8月の猛暑日(最高気温35度以上)の日数は計23日となり、過去最多を更新しました。過去の最高記録は、2000年と2010年の20日でしたから、2000年以降に温暖化が一層進んで来ていることが分かります。
台風に関しても、8月に 6号、7号、9号、11号、10号が北海道に大きな被害を与えました。このうち、7号、9号、11号の3個がわずか6日間のうちに北海道へ上陸するという前例のない現象が起こりました。また、台風10号は、Uターンして戻ってくるというコースをたどり、観測史上初めて東北地方太平洋側に海から直接上陸するという異例ずくめの展開となりました。



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2016年 08月 29日 |
海会寺跡と道を挟んだ向かい側に、古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターがあります。一階の泉南市埋蔵文化財センター部門では、出土品の調査研究と記録保存が行われており観光客は通常は入れませんが、二階の古代史博物館部門は一般開放されており、無料で誰でも見学できます。

↓古代史博物館
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↓一階には泉南市埋蔵文化財センター部門があるのですが、来館者には二階の古代史博物館部門に導くように上手に設計されていますね。
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↓海会寺遺跡で発掘された軒丸瓦の蓮華文様にちなんで蓮の花が栽培され開花していました。
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↓二階の古代史博物館に入館します。
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↓古代史博物館から海会寺跡遺跡方面を望みます。
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↓窓際に展示された海会寺跡遺跡俯瞰図
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↓海会寺の五重塔の頂上にあった相輪(そうりん)の3分の1スケールの復元模型があり、金色に輝いています。
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この模型は発掘調査により得られたデータに基づき細部まで忠実に再現された壮麗なものです。

↓相輪の説明板
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↓フロアに展示された銅剣・銅鏡・銅鐸
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↓二階フロアのサロン
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海会寺跡と一岡神社を一望することができます。サロンの椅子に座って、この目の前に、古代文化の象徴ともいうべき巨大な寺院が建っていたことを想像してみたください。往時の雰囲気を偲び、なぜここに海会寺が建てられたのかという古代史ミステリーの謎解きに挑戦されてはいかがでしょうか。

同フロアの特別展示室には、海会寺跡で発掘され重要文化財に指定されたもののうち優品約100点が、常設展示されています。
次回はこの展示内容を紹介します。


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2016年 08月 20日 |
海会寺跡の発掘調査により、壮大な伽藍の各建築年代も明らかになりつつあります。まず650年ころ丘の中央部を削って金堂が建てられ、次に五重塔の建設がはじまり、最後に講堂や回廊がつくられたようです。その際、金堂の西側は傾斜で低かったため大規模な整地をして平らに盛り土されました。整地には、粘土と砂を交互に積み重ねて突き固める「版築」という方法が用いられたことが判明しました。

↓回廊西側下から見る整地状況・・・ここが版築により強固に盛り土された部分で、今日までしっかりと残っています。
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現在、回廊の西側部分に、版築の様子がわかるトンネルが掘られ、見学できるようになっています。

↓整地層展示トンネル入り口
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中に入ると土層を垂直に切ってあり、透明なガラスを通して、粘土と砂の交互層が一目瞭然です。1300年以上経ったものとは思えません。このように、しっかり整地されているため、高い五重塔などが上に建てられたのです。この整地工事は、多くの労働力を必要とし、当時としては大規模な土木事業だったようです。この見学トンネルは、回廊外周の分かりにくい場所にありますので、見逃さないように注意してください。

↓トンネル中から入り口方面を撮影
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↓トンネル奥
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↓トンネル内の説明看板
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↓海会寺の平面図と整地の範囲(濃いグレー部分が版築で造成整地された範囲)
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↑金堂付近の小山を削って塔西側からの傾斜を版築で埋め、平らな敷地基盤が造成されていたのです。

こうして、海会寺は周辺から見上げる造成された高台の基盤のうえに建てられ、圧倒的な威容を誇っていたことが想像されます。

21世紀の今でも、この海会寺跡は崩れずしっかりと残されており、版築による基礎工事がいかに強固なものであったかが分かります。日本古代の人々の技術力の高さと真面目さを思い知らされる場所といえるでしょう。


↓海会寺基盤遺跡北側の標識
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↓北側に広がる「みどりの散歩道」(一岡神社の鎮守の森であるともいえます)
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↓この遺跡公園敷地に散らばる礎石類
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↓遺跡公園東側に広がる豪族の屋敷跡(ここも自分の足で踏みしめて歩くことができます)
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↓地面に埋め込まれた表示
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↓豪族の屋敷跡の現地説明看板
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大きな正殿や脇殿、柵の跡があり、これは当時の国の役所の構造に似た「官衙風配置」になっています。
このことから中央権力と結びつきの強い海会寺に関係する豪族居館跡であることが示唆されます。


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2016年 08月 17日 |
「たびねす」に、私の海会寺遺跡の記事が掲載されました。
泉南にある貴重な古代遺跡と博物館なので、ぜひ、ご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(36)泉南市「海会寺跡・古代史博物館」で日本古代の歴史ロマンに浸る
http://guide.travel.co.jp/article/20553/





当ブログでも、たびねす記事とタイアップして今日から海会寺(かいえじ)遺跡を詳しく紹介させていただきます。

大阪府南部の泉南市には、国史跡・重要文化財に指定された「海会寺跡」という遺跡があります。訪れる人の少ない場所で、私の長く温めてきた隠し玉観光スポットでしたが、このたび「たびねす記事」になりましたので、ブログでもアップします。
駐車場も遺跡見学も博物館も無料ですので、心ゆくまで落ち着いて散策でき、歴史好きには満足いただける地です。

↓回廊跡
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海会寺(かいえじ)跡は日本における最初期の古代仏教寺院の遺跡で、7世紀の飛鳥時代に建てられた「法隆寺式伽藍配置」の貴重な寺院跡です。

1980年代から発掘が開始され、非常に多くの優れた出土品が発見されたことから、海会寺跡は国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されました。さらに研究を進め出土品を展示するため、1997年に古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターが遺跡に隣接して建設されました。

↓海会寺跡現地説明看板
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海会寺跡では、見学できるよう整備された遺跡が史跡広場として無料で公開されており、金堂基壇や講堂基壇、塔基壇、回廊跡、豪族の屋敷跡などを自分の足で踏みしめて間近に見ることができます。


↓五重塔がたっていた塔基壇
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特に講堂基壇と塔基壇は、約2m盛り上げて整地された当時の土台状況が全面的に復元展示されており、その壮大な規模や配置を手に取るように実感できます。地形的には小高い丘の一番高い場所を平らにして周囲から望める形にしており、当時は非常に目立つ建物がここにあったことが想像されます。

↓塔基壇に登り北側(講堂基壇方面)を見る
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↓講堂基壇
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↓講堂基壇から塔基壇と回廊跡を見る
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↓金堂跡(半分は現在の一岡神社本殿下に埋まっています)
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↓金堂跡から塔基壇と回廊跡を望む
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海会寺の伽藍配置は、中門から入って東側に金堂、西側に五重塔、北側に講堂があり、周囲をぐるっと回廊が囲み中門と講堂に接しているというもので、まさに法隆寺を小さくしたような配置構造の寺であったことが分かります。新しい研究成果に基づき、海会寺は法隆寺よりも先に建てられたとする説が有力です。


博物館で説明してくださった職員の方は、「私個人的には、海会寺のほうが法隆寺より古いのだから、法隆寺式伽藍配置ではなく海会寺式伽藍配置というべきだと思う」とおっしゃっていました。

↓海会寺の伽藍配置
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