模糊の旅人
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カテゴリ:大阪( 462 )
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2017年 05月 20日 |
「たびねす」掲載された、私の 「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」 という記事とのコラボ企画の後編です。

今日は、堺の古い街並みの紹介と堺鉄砲の話です。


↓清学院の一筋東側に、鉄砲鍛冶屋敷跡があります。堺市の指定有形文化財ですが、住居として使われているため、内部非公開で外観だけの見学になります。
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安土桃山時代から江戸時代にかけて、技術力のある堺は日本一の鉄砲生産地として栄えました。第二次世界大戦の空襲で堺の中心部は焼失しましたが、この一画は奇跡的に戦災を免れました。鉄砲鍛冶屋敷跡は、江戸時代の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼店舗であったもの。往時の面影を残す堺で唯一の貴重な建築物で、日本の町家建築としても最古級です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡を引いた画角で周辺の街並みと一緒に撮影
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1543年、種子島の門倉岬西村の小浦に漂着したポルトガル人より、初めて日本に南蛮式鉄砲がもたらされました。島主:種子島時堯が、二挺の鉄砲をポルトガル人から買い取ったのです。

当時、琉球との貿易に従事していた堺の貿易商・橘屋又三郎は、種子島に立ち寄り、その鉄砲製造技術を持ち帰り、堺の桜之町に鉄砲工場をつくりました。堺の職人たちは対応できる高い技能を持っていたからです。

また、紀州根来寺(現・和歌山県岩出市根来)でも、堺の刀工・芝辻清右衛門が種子島銃の複製に成功します。
さらに足利将軍義晴に島津経由で献上された鉄砲をもとに、近江国・国友村(現・滋賀県長浜市国友町)の刀工・善兵衛も種子島銃の複製に成功。

すなわち、ほぼ同時期に、日本の三か所で、鉄砲製造に成功し、そのうち二か所で、堺の人間が製造したのです。

戦場の様相を一変させる武器でしたので、戦国大名は競ってこの鉄砲を入手しようとしました。
中でも「尾張の大うつけ」といわれた織田信長は、1553年、舅である美濃の斎藤道三と初対面した際、足軽に500挺もの新兵器の鉄砲を持たせて行進し、驚かせたとのことです。

まさに、この時、鉄砲伝来からわずか10年後なのです!
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上記の堺の橘屋又三郎(鉄砲又)と芝辻清右衛門一族は、堺で本格的な鉄砲生産に乗り出し、堺は日本における鉄砲製造の中心地となりました。(信長が長篠の戦いで使用した3000挺の鉄砲のうち2500挺が堺の製品)

鉄砲の弾丸の鉛や火薬原料の硝石は輸入に頼らざるを得なかったので、海に面した貿易港である堺は鉄砲製造の立地条件としては最適でした。さらに職人の技術力の高い堺では、品質管理による「部品互換方式」の製作システムを確立して大量生産に乗り出しました。
いっぽう、原材料輸入貿易や鉄砲販売をする有力堺商人は、会合衆として堺の都市自治を推し進め、現代でいう商社的役割を果たし、鉄砲のバイヤーかつブローカーとして活躍しました。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下人は、鉄砲を重視し、堺を支配下に治めるべく努力しました。これらの天下人と結んだ堺商人は、財力を蓄え文化をも育成しました。

今井宗久や千利休・津田宗及らは、鉄砲の販売や硝石の貿易で活躍した堺商人で、その経済力の上に、茶の湯という高度な文化を生み出しました。彼らは、単なる武器商人ではなく、日本人の美意識を創り出した優れた文化のプロデューサーでもあったのです。千利休に至っては茶の湯を大成するとともに、「御茶湯御政道」の担い手として秀吉政治のフィクサーにまでなりました。(秀吉の弟:豊臣秀長の言葉「公儀のことは私に、内々のことは宗易【=千利休】に」)
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その結果、鉄砲生産の最盛期:1600年ころには、10万挺近い鉄砲が日本にあったと推測されます。当時、日本の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体の量を超えていたそうです。

この鉄砲普及の驚異的なスピードと国産鉄砲の品質の高さは、日本だけで、ヨーロッパ人が銃を持ち込んだ世界のどの地域にも見られないものです。


有力な説によると、ポルトガル・スペインが日本の植民地化をあきらめた大きな要因は、この日本における鉄砲の普及にあったとされます。

「堺鉄砲が日本を守った」とは言いすぎかも知れませんが、少なくとも「歴史を変えた堺鉄砲」と言えるでしょう。


模倣から出発して、品質を向上させ本家を超えた良いものを大量生産する.....なんだか、現代日本の自動車産業やカメラ産業の話に似ていますね。
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江戸時代に、鎖国して天下泰平になると鉄砲の需要は減りますが、鉄砲鍛冶の伝統が途絶えることはなく、タバコ包丁や打ち刃物でも堺の高度な技術は連綿と受け継がれ、とりわけ高級なプロ用包丁である「堺包丁」は現在でも世界一の切れ味を誇ります。


↓このあたりには多くの鉄砲鍛冶が住んでいたのです。
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そうした、現代に堺鍛冶の伝統を受け継ぐ老舗が、水野鍛錬所です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡から二筋東に紀州街道があります。ここを南に150mほど歩くと水野鍛錬所があります。
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ここは、現在も営業している老舗の鍛冶屋で、伝統の古式鍛錬にのっとりプロ用の和包丁から日本刀に至る極めて優れた刃物を鍛造しています。奈良の法隆寺大改修の際には、国宝五重塔九輪の四方魔除け鎌をを鍛え奉納しました。
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↓水野鍛錬所の門横には、与謝野晶子の歌碑があります。2010年に水野鍛錬所により建立されたもので、鍛冶屋らしく庖丁の形をしています。
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 「住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路

「七まち」とは堺の鍛冶屋用語で、堺製のタバコ庖丁が江戸幕府公認となった際、北旅籠町、桜之町など七つの町に住んでいた37軒の鍛冶屋が指定されたことに由来します。このあたりは、堺の鉄砲製造の伝統を引く鍛冶屋の街区だったのです。

また「菜の花」は、江戸時代から明治時代にかけての堺では、菜種が多く栽培されていたことによります。河口慧海や与謝野晶子が、堺で幼少期を過ごした際、菜の花を見て育った情景が浮かびます。

この歌碑は、最近つくられたものですが、与謝野晶子のふるさとですので、堺には晶子の歌碑・顕彰碑は多く建立されてきており、現在は23基もあります。

なお、堺の与謝野晶子の歌碑については、
 「与謝野晶子のふるさと堺市で歌碑巡り 生家跡などで晶子を偲ぶ」
 「堺市で与謝野晶子の歌碑を辿り歴史ロマン散歩 大仙公園から晶子立像へ」
の記事をお読みください。


↓このあたりは刃物の店が多いです。
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↓紀州街道
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与謝野晶子歌碑の前の紀州街道を南に下り、阪堺線(路面電車)と合流してから次の筋を東に入ると山口家住宅があります。

↓山口家住宅
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山口家住宅は、大坂夏の陣の戦火直後(1615年)に建てられた貴重な建物で、江戸時代初期の町家として重要文化財に指定されています。内部は整備され、堺の伝統的な町家暮らしを感じることが出来る展示があります。

ここは、前回記事で紹介した「清学院」との共通入場券も発行され、連動して見学できます。「慧海と堺展」というイベントが実施された際は、山口家住宅もメイン会場の一つとなり、河口慧海と交流のあった堺の人々の関連資料が展示されました。


<たびねす記事もよろしく>
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2017年 05月 15日 |
「たびねす」に、私の「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」という記事が掲載されました。
堺が生んだ偉人: 河口慧海と、堺の古い街並み散策について書いていますので、ぜひご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(45)河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策
http://guide.travel.co.jp/article/26260/






ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、河口慧海について詳しく紹介します。


↓大阪府堺市の南海本線七道駅前の西側ロータリーの中心に河口慧海の銅像があります。これは、1983年に堺ライオンズクラブの創立25周年記念事業として建立されたもので、ヒマラヤの岩場を行く慧海の姿がリアルに再現されています。彫刻家・田村務によって制作されたものです。
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河口慧海は、日本の仏教の在り方にあきたらず、求道者として梵語・チベット語の仏典を求めて、艱難辛苦の末、日本人として初めてヒマラヤを越え、鎖国していたチベットに入国を果たしました。

多くの梵語仏典やチベット語仏典を持ち帰り、民俗関係資料や植物標本なども蒐集し、大きな成果をあげました。当時の状況から非常に困難な旅でしたが、仏教の原点を究めるという強い意志により成し遂げたのです。その慧海の不撓不屈の精神が感じられる銅像ですね。


↓七道駅前を東に歩くと、河口慧海生家跡周辺マップ看板があり、その後ろに堺の環濠跡が見られます。
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↑ここは、中世に自由な自治都市として栄えた堺の町を取り囲んでいた環濠の一部で、貴重な遺構です。堺環濠の東側は埋め立てられ土居川公園という細長い公園になっています。いっぽう、西側は内川として残されているのですが、現在はこの七道駅前の丸い環濠跡が起点となっています。


↓環濠跡から東へ三筋目の角を南へ曲がって50mほど歩くと、河口慧海の生家跡の碑があります。現在は住宅地の中にあるブロック塀に囲まれた小さな一角です。
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↓正家跡にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は、1866年(慶応2年)に堺山伏町(現・堺市堺区北旅籠町西)で、樽製造業者の長男として生まれました。向学心が旺盛であったため、各所で勉学を重ね仏教へ傾倒します。

懸命に修行し五百羅漢寺の住職にまでなりましたがあきたらず、その地位を捨て、仏陀本来の教えが残る仏典を求めチベット行を決行します。帰国後、チベット仏典研究と一般人への仏教の普及に邁進し、多くの著書を残しました。晩年には還俗し、在家仏教の道を提唱しました。


河口慧海の考え方は、仏陀の道=原始仏教の本来の姿を追求したわけですから、形骸化した現在の仏教の在り方に疑問を持ったのは当然でした。やがて自ら僧籍を捨て、在家仏教こそが真の仏陀の道であると喝破したのです。


あくまで私の独自の考えですが、原始キリスト教や原始仏教の在り方は非常に似ていると思います。したがって慧海の考え方は正しい宗教を究めようする者には当然の結論です。慧海の姿には、すべての優れた宗教家に共通する聖性があると感じます。



また、慧海の思想は別にしても、ヒマラヤを越えチベットに至る記録は素晴らしいもので、慧海の『チベット旅行記』は探検記・紀行・冒険としても、とても面白く素晴らしい著作ですので、ぜひお読みください。一本筋の通ったノンフィクションの名作です。

文庫本もありますし、ネット上で無料で読める青空文庫もあります。ぜひとも、こちら、をご覧ください。


『チベット旅行記』については、私は15年ほど前に感想文を書いて、ホームページに発表したことがあります。それを、下の More に載せてみましたので、ご興味のある方はお読みいただければ幸いです。
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↓河口慧海の生家跡から東へ二筋のところに清学院があります。
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↑ここは、もとは修験道の道場で、江戸後期から明治初期にかけては寺子屋として使われ、町人たちの学習の場でした。

河口慧海もここで、読み書き算盤を学びました。現在は「堺市立町家歴史館 清学院」として保存修理され、河口慧海に関連するパネル展示をはじめ寺子屋の歴史に関する資料を公開しています。

↓清学院前にある説明書き(写真をクリックすると横1200ピクセルに拡大表示されます。大きくしてご覧ください)
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河口慧海は幕末に生まれ、明治維新の激動の時代に堺で幼少期を過ごしたわけですが、当時、堺の旧市街には、22件もの寺子屋があり、約2000名の町民子弟が通っていました。寺子屋は、読み書き算盤を教えるとともに、人の道である道徳や宗教も教えていました。

堺は本格的な商工業者の町ですから、算術は当然必須ですし、商品経済の発展に伴って、証文や手形などの取引に文字教育は必要とされたのです。また商取引には人と人との信頼関係が前提となり、倫理的な教育も施されたのです。

堺の寺子屋の特徴は、教える側の師匠が、すべて町人系か医者で、士族すなわち侍がいなかった点です。いかにも堺らしいですね。
国語系の教科書は「往来物」といわれる往復書簡、地名紹介本、千字文などで、清学院で見ることができます。


寺子屋はいわば初等教育ですが、もう少し上のレベルの教育を行った、郷学所や私塾もありました。経学(四書五経)や詩文(漢詩)を教える中等教育ですね。

河口慧海は勉学熱心で、清学院の寺子屋を出た後も、儒学者・土屋弘の私塾である晩晴塾(現・堺市戎之町)で学びました。慧海は、ここで漢籍・詩文・修身を学び、漢学の素養を身につけるとともに、読書力・文章力に磨きをかけたのです。



かつて自治都市であった堺には清学院のような寺子屋をはじめとして、郷学所や私塾が多く存在し、商工業者の子弟が通っていました。千利休以来の町衆の文化の程度が高く、他所に先駆け鉄砲鍛冶に代表される高度な技術者や優秀な人材を育んだのです。河口慧海と与謝野晶子は、そうした堺の文化的土壌が生んだ偉人といえるでしょう。


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More 『チベット旅行記』について
2017年 05月 10日 |
恐竜博物館の記事が続きましたので、少し巻き戻して、桜と野鳥の写真をアップしてみます。

今春は足の調子が悪く、本格的なフィールド撮影ができませんでした。とはいえ、近所の公園散歩くらいは出来ますので、桜の時期は、おなじみの小さな野鳥をからめた写真を撮影しました。
重い撮影機材を持ち歩けないので、あまり大きく撮れなかったですが、なんとか今年も出会えて嬉しかったです。


↓メジロ
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↓ヒヨドリ
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↓エナガ2景
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↓ヤマガラ
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↓シジュウカラ
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↓桜まつり
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↓紅枝垂れ2景
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↓落桜有情
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2017年 04月 05日 |
北陸地方への旅から帰ってきました。
ちょっとアクシデントがあり、持病のヒールストライクを再発し、かかとが痛いです。
旅の前半はのんびり温泉に浸かったり博物館を見たりしてゆっくりしたのですが、その後、どうしても山に登りたくなり、きつめの登山をしたところ山の下り道で、古傷のヒールストライクが発症してしまいました。山が好きなので、つい無理をしてしまったようです。
帰宅後、毎朝の野鳥観察公園散歩にもさしつかえる状態です。かかと部分以外は万全の健康体なのですが、歩く際に身体の重さを支える場所が痛いというのは困りものです。。。うーん




さて、前回のブログ記事が~ポルトガルのクロジョウビタキ~だったので、今日は ~日本のジョウビタキ~を掲載させていただきます。
今冬に近くの公園の朝散歩で撮影してきたものです。ヒタキつながりということで、良い機会だとアップします。


ヒタキの仲間の習性でしょうか、あまり人を怖がらず、チラチラと私を見ながら周辺を飛び回ります。存分に被写体として楽しませてくれました。
今回は雄のジョウビタキですが、雌については こちら をご覧ください。
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2017年 01月 19日 |
1月15日まで、大阪の国立国際美術館で「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会が開かれていました。
私もなんとか滑り込みセーフで、見てきました。今日はその独断的感想を、記憶が新しいうちに書いておきます。

↓国立国際美術館外観
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美術館に、朝10時の開館と同時に飛び込んで、悔いのないよう納得するまで見て、出てきたのが13時15分でした(汗)
57作品で、3時間以上使ったわけですから、じゅうぶんにヴェネツィア絵画を堪能しました。

↓入ったところにある宣伝ポスター
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↓併設の展覧会「プレイ展」は写真撮影可でした。
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自由に撮影してSNSやインターネットで写真を拡散してほしいということです。こういう趣旨の展覧会もこれまで何度かありましたが、まだまだ日本では少ないです(曜日によって撮影可だったのが「デトロイト美術館展」、常時一部撮影可なのが東京国立博物館)。海外では当たり前なので、これからは増えてほしいものです。


今回は、本体の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展は、写真撮影は不可ですので、その個々の絵画内容は、別の機会でということで、今日は私が自分で撮った周辺写真やパンフによる、全体的感想と印象的だった作品の解説です。


まず、入場口に音声ガイドのコーナーがあります。私はヴェネツィア派絵画にさほど詳しくないのと、俳優の石坂浩二さんのガイドということで、550円を支払って音声ガイドも聴いてみることにしました。

クリヴェッリを石坂浩二さんがどう解説するかも楽しみだったのですが、残念なことに音声ガイドされる20作品に、クリヴェッリ作品は選ばれていませんでした・・・

ただし、ミュージアムショップで販売されている絵葉書(ベスト25作品)には、クリヴェッリは選ばれていたので、それを自分への土産として購入しました。

↓クリヴェッリ作品の絵ハガキと、ジョヴァンニ・ベッリーニの栞など
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全体的には、たいへん見応えのある美術展でした。これだけのヴェネツィア派の作品を日本に居ながら見られるというのは、すごいことです。
欲を言えば、さらに天才ジョルジョーネの作品もあれば最高でしたが、ジョルジョーネは夭折し寡作ですし、『テンペスタ』 はアカデミア美術館の至宝ですから、やはり来日は無理でしょうね。

それでも、日伊修好条約150周年記念ということで、頑張ってくれた関係者の皆様に感謝です。


個人的感想ですが、ざっと全部見て、私がまず思ったのは、見どころは前半部分にあるということです。

↓パンフレット裏側上部はティツィアーノまでの作品です。
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もっと正確に言えば、全57作品のうち、前半最初部分にある以下9作品が、私にはベストだと感じました。

ジョヴァンニ・ベッリーニ『聖母子』(赤い智天使の聖母)
カルロ・クリヴェッリ『聖セバステイアヌス』
カルロ・クリヴェッリ『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』
ラッザロ・バスティアーニ『聖ヒエロニムスの葬儀』
アントニオ・デ・サリバ『受胎告知の聖母』
ヴィットーレ・カルパッチョ『聖母マリアのエリザベト訪問』
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『受胎告知』
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『聖母子』(アルベルティーニの聖母)
ティツィアーノ工房『ヴィーナス』


以上は、あくまで私の独断的な好みによるベストです。どうもヴェネツィア派に関しては、ティツィアーノまでのルネサンス前期絵画が、私の好みのようです。


他に、ティツィアーノより後で、好き嫌いは別として印象に残った作品は以下のとおりです。

ヤコボ・バッサーノ『悔悛する聖ヒエロニムスと天井に顕れる聖母子』
ヤコボ・ティントレット『サンマルコ財務官ヤコボ・ソランツォの肖像』
ベルナルディーノ・リチーニオ『パルツォをかぶった女性の肖像』
レアンドロ・バッサーノ『ルクレティア』
パルマ・イル・ジョーヴァネ『聖母子と聖ドミニク、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ』
パルマ・イル・ジョーヴァネ『スザンナと長老たち』
フランチェスコ・モンテメッサーノ『ヴィーナスに薔薇の冠をかぶせる二人のアモル』
パドヴァニーノ『オルフェウスとエウリュディケ』

このうち上から三作品は、パンフレット裏側下部に載っていましたので紹介しておきます。

↓バッサーノ『悔悛する聖ヒエロニムスと天井に顕れる聖母子』
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↓ティントレット『サンマルコ財務官ヤコボ・ソランツォの肖像』とリチーニオ『パルツォをかぶった女性の肖像』。
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何度も会場を行ったり来たりし、特にクリヴェッリ作品は合計で30分くらい鑑賞したと思います。音声ガイドも2周しました(笑)
石坂浩二さん音声ガイド解説は声が聞き取りやすく、内容も分かりやすいものでした。


さて、一番最初に展示されていたジョヴァンニ・ベッリーニは、1作品とはいえ、とても好感が持てました。
落ち着いた雰囲気で優しさがあります。

↓外部ポスター(ジョヴァンニ・ベッリーニの聖母子像が一押しになっています)
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この聖母子像は、万人受けすると見えて、絵ハガキ売り上げトップでしたし、関連グッズも多く、いわば展覧会のマスコット的存在でした。
ジョヴァンニ・ベッリーニの明るい色彩と優しい人物描写は、もっと評価されても良いと思います。


そこから次に展示されていたのが、私にとって本命のクリヴェッリ2作品。クリヴェッリの魅力たる聖母マリアやマグダラのマリアではないので、過剰に期待していなかったのですが、実物は予想以上に良かったです。(詳しくはこの記事の最後部分で)

それから、バスティアーニ『聖ヒエロニムスの葬儀』。これは見たことのない構図で興味深いものでした。

↓次は、アントニオ・デ・サリバ『受胎告知の聖母』
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↑これは、アントネッロ・ダ・メッシーナの傑作『受胎告知の聖母』を、甥のデ・サリバが模写したものですが、一時はメッシーナの真筆とされていたもので、とても雰囲気はありました。私のような素人には、メッシーナ作品との区別がつきません(汗)


カルパッチョ『聖母マリアのエリザベト訪問』は、イタリア料理の「カルパッチョ」の名前の由来となった画家の色使いがよく出ており、なるほどと思いました。



そして、いよいよティツィアーノの2作。

ティツィアーノは想定の範囲内でしたが、とても良かったです。やはり絵のうまさは抜群で、巨匠であることは間違いありません。
この展覧会の看板作品である『受胎告知』の祭壇画は、縦4m以上もあって、よく運んで来れたものだと感心しました。

↓パンフレット表紙は、ティツィアーノの『受胎告知』
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この絵は、かのサン・サルヴァドール聖堂の目玉ですから、よく来日許可が下りたものです。

石坂浩二さんの音声ガイドには、スペシャルトラック「石坂浩二のヴェネツィア紀行 サン・サルヴァドール聖堂訪問」というのがあり、楽しめる仕掛けとなっています。この中で石坂浩二さんは「世界に数ある受胎告知の絵の中でも、この作品は最も素晴らしい」と述べていました。

確かに、天使が告知に現れた瞬間をとらえており、聖母マリアの戸惑いと驚きの姿が見事に描かれていますね。(個人的には、世界の受胎告知画の中で一番とは思いませんが・・・・ちょっと、うますぎるんだよなあ・・・)

↓チケットはティツィアーノの『聖母子』(アルベルティーニの聖母)
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これも素敵な作品ですね。

上記両作品ともティツィアーノの晩年に描かれたものですが、石坂浩二さんの音声ガイドによると、こういう晩年作品を通じて、ティツィアーノは後世の印象派に通じる絵画への道を開いたのだそうです。

晩年のティツィアーノはタッチがやや荒々しくなり、その芸術性を高めようとする姿勢が見られます。このあたり、時代は違いますが、同じ多作画家の巨匠であるレンブラントの晩年に似ているなあと思いました。



とはいえ、ヴェネツィア派は、ティツィアーノで頂点を極めてしまったと、私には感じました。ティツィアーノ以降の画家は、印象的な作品はありましたが、全体的には、どうも私の肌には合いませんでした。


↓パンフレット裏側下部に掲載されたティントレット『聖母被昇天』(左)とヴェロネーゼ『レパントの海戦の寓意』(右)
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あくまで私見ですが、ティントレットやヴェロネーゼは、要するに劇画チックなんですよね。こんなに、大げさに描いては、かえって神聖さを損なうように感じてしまいます。バッサーノも、うーん・・・

肖像画作品を見ると筆力はあるし、良いものも多々あるのですが、ティントレットとヴェロネーゼの大作は私の個人的好みではないのです。お好きな方、すいません。



それに比べて、身びいきでしょうが、わがカルロ・クリヴェッリは、とても私の好みです。ティントレットとヴェロネーゼの大仰な作品を見てから、クリヴェッリに戻ってきて再会すると、ほっとしました(笑)

クリヴェッリは小品2点で、テーマ も地味で、全展示品中唯一の板+テンペラという古い方法で描かれているのにも関わらず、静謐な神聖さが漂っており、やはり素晴らしいと感じました。油彩画より色に艶と趣があり、緻密かつクリアに残されているのにも驚きました。

硬質な人物描写に、後ろのタペストリーの精密な文様が独特の雰囲気を醸し出しています。神秘的という観点から見ても、クリヴェッリ作品は展覧会中の随一でした。

↓上で紹介したクリヴェッリ作品の絵ハガキを拡大
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左側の聖セバステイアヌスは、3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殉教した聖人で、矢がささっている姿で描かれるのが通例です。矢で瀕死の状態になりますが、聖女イレーネに救われ命を取り留めます。後に、宣教を続けたため、こん棒で殴打され殺されます。
矢を受けても死ななかったことなどから、後世に黒死病から信者を守る聖人として崇敬されました。

なお、クリヴェッリ『聖セバステイアヌス』と『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』という作品名についている「聖人」と「福者」との違いは、カトリックにおける称号の違いです。「聖人」のほうが位が高く、次いで「福者」となります。(正教会やプロテスタントでは扱いが異なります)

右側のヤコボ・デッラ・マルカは、15世紀の聖職者で、クリヴェッリが後半生を過ごしたアスコリ・ピチェーノで特に人気があったそうです。18世紀に聖人として列聖されましたが、クリヴェッリが描いた15世紀末の時点では、まだ福者であったので、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』という作品名になっているわけです。

↓『聖セバステイアヌス』の光輪部分(左)と『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』の光線部分(右)
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ミュージアムショップで販売さていた図録の解説によると、『聖セバステイアヌス』が頭上に光輪があるのに対し、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』のほうは頭の周りに光線が描かれているのは、聖者(Saint) と福者(Beato) の違いを表しているそうです。

また、図録の解説ですが、『福者ヤコボ・デッラ・マルカ』の下部に「OPVS KAROLI CRIVELLI VENETI」のサインがあるのは、後世の書き加えであるとのことです。なぜなら、クリヴェッリは、祭壇画では中央パネルの聖母子像にしかサインをしなかったからです。この作品は、アスコリ受胎告知教会の多翼祭壇画の端部パネルとされており、独立した絵画ではないのです。

また、X線解析から、複数の人の手による作成痕跡らしきものが見つかっており、全部がクリヴェッリ一人により描かれたというより、クリヴェッリ工房の作品の可能性があると、これも図録の解説にあります。



ヴェネツィアのアカデミア美術館には、クリヴェッリによるアスコリ受胎告知教会多翼祭壇画パネルとしては、聖セバステイアヌス、聖ロッコ、福者ヤコボ・デッラ・マルカ、聖エミディオの4枚が、『4聖人』として収蔵展示されています。そのうち、今回は2枚が来日したわけです。



これで、クリヴェッリ作品は、私にとって実物は、5作品を見たことになります。今後も、海外の教会や美術館を巡って、少しずつ見ていきたいものです。

クリヴェッリ作品は、世界中に散らばってしまっています。とはいえ、そんなに多くの作品は現存しません。(日本の国立西洋美術館にも1点ありますが、常設展示作品ではないのが残念です。)

寡作作家というのは、全作品を実際に見ることが不可能ではないので、ある意味、追いかける対象としては最適です。
私は、これまで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョルジョーネ、フェルメールといった好きな寡作画家の作品を旅の楽しみのひとつとして意識して見てきました。今後は、それにクリヴェッリを加えることにします。



以上、全体的な話と、特に感心した作品について書いてみました。


↓次の展覧会はクラーナハ、これも好きな画家なので行く予定にしています。
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2016年 12月 15日 |
いろいろあってバタバタしており、海外写真は整理出来ていませんので、帰国後すぐに撮影した近所の公園の紅葉をアップします。

今日は少し寒くなりましたが、それまで大阪はドイツと比べると暖かく穏やかなので、ちょっと驚きました。12月中旬になろうとしているのに、まだ少し紅葉が残っていました。
自宅からすぐの公園で撮影しましたが、やはり日本の紅葉は良いものですね。


紅と黄の残り香
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公園の落ち葉ロード
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浮かぶ薄色
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枝先美色
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落ち葉の美学
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2016年 11月 05日 |
しばらく海外遺跡が続きましたので、今日は身近な小さな生き物の写真を。

秋の公園の野鳥 は、なんとかアップしましたが、昆虫のほうは撮影しているものの、現像してブログアップするタイミングを逸していました。
そこで、少し前になりますが10月の秋の蝶やトンボをご覧ください。

秋の蝶で、一番元気なのがウラギンシジミです。
少し寒くなり他の蝶が姿を消しはじめても、ウラギンシジミは晴れた日には飛び回っています。

山麓から公園そして住宅地の道端に至るまで、人工的な構築物にも平気で寄ってくる生命力を感じる蝶です。

↓公園の階段の手すりに止まるウラギンシジミ2枚。アルミに銀白色の裏翅が反射して、なかなか面白い意匠です。
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ウラギンシジミは、マメ科のクズ、フジ、ハギなどを食草とし、生息域を広げています。
暖地性の昆虫で、しかも成虫越冬なので、地球温暖化という現象はこの蝶にとって有利なのかもしれません。私の子供時代より、良く見かけるようになったような気がします。(他の蝶が減ったので目立つようになった可能性もありますが・・・)

どこにでもいる秋の銀色の妖精です。

↓地面に降りてじっとしているウラギンシジミをアップで
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↓少し翅を広げつつあり・・・
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↓やっと翅を半開きにして、美しい表翅を見せてくれました。オレンジ色なのでこれは雄ですね。
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↓萩の花にキアゲハの舞
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↓先端のトンボ2枚
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More 写真展のお知らせ
2016年 10月 15日 |
春に大阪平野を通過し、山地や北へ繁殖に行った夏鳥たちが、9月下旬から10月にかけて、再び大阪平野を通過して南の国へ帰っていきます。
短期間の滞在ですが、地元の公園の秋は、こうした渡り途中の鳥たちを見るチャンスです。(そして、もうすぐ北から越冬するために冬鳥たちも帰ってくるのです・・・)

今日は、そうした旅の途中に地元公園で一休みしてくれた、夏鳥たちの秋の姿を三種ごらんいただきます。

↓キビタキ(雌)
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↓キビタキ(雄)・・・二枚
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↓コサメビタキ
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↓ツツドリ・・・二枚
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↑ツツドリは、ホトトギスやカッコウに近い中型の野鳥で、東南アジアで越冬し、日本には夏鳥としてやってきて、山地の森林で繁殖します。
繁殖と言っても、カッコウと同じように他の鳥類の巣に卵を産み付け雛を育ててもらう「托卵」という習性があります。

晩春から初夏にかけて、山で「ポポ、ポポ」と鳴くツツドリは印象的で、遠くから撮影したことがありますが、今日の写真のように近くで大きく撮れたのは初めてでした。後姿的なポーズでしたが、地元の公園で、間近に観察出来て嬉しかったです。





さて、以下のとおり、来月11日より、写真展を開催することになりました。
もう6回目を迎えた、手作りの小さな写真展ですが、皆様のお越しをお待ち申し上げております。

なお、写真展案内ハガキ(ダイレクトメール)をご希望の方は、ブログの非公開コメントかメールで送付先をご連絡ください。至急、案内ハガキを送らせていただきます。
どうぞよろしくお願いします。


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第6回 グループ温故斬新 写真展


場所:オリンパスプラザ大阪 オープンフォトスペース
            (大阪市西区阿波座1-6-1 MID西本町ビル 1階)

開催日:2016年11月11日(金)~11月17日(木) <但し日曜は休み>

開催時:午前10時~午後6時  <但し最終日は午後3時まで>


場所の 地図は こちら  

地下鉄本町22・23番出口すぐです。(四つ橋線本町駅が便利です)




4人の仲間による個性豊かな手作りの写真展です。

温故知新ではなく温故斬新ですよ(笑)。
古いものをリスペクトするとともに、現代の斬新な感覚も大切する意です。

皆さまのお越しを心よりお持ち申し上げています。


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2016年 09月 07日 |
海会寺跡古代史博物館シリーズの最終回です。

現在の海会寺跡は、遺跡公園になっていますが、その中央を占めているのが一岡神社(いちおかじんじゃ)です。この神社は、和泉国日根郡の由緒ある大社で、社伝によれば、崇峻天皇5年(592年)に厩戸皇子(聖徳太子)が海会寺を建立した際に、その鎮守の海営宮として造営されたとされます。

古くより地域の人々に「祇園さん」として親しまれてきた、古代史の謎がからんだ非常に興味深い由来の神社です。

↓一岡神社の拝殿
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主祭神は須佐之男命ですが、他にも数多くの神様が祀られています。

↓一岡神社の由来等の説明板
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説明板内容は次のとおりです。
「第二十九代欽明天皇の御代(西暦五三九年)悪疫日に増して激しく流行するに及び、時の長人一岡神社に平癒祈願をなきしめたる処、神徳顕著に現証され、その寄徳を仰ぎ、山城國に御分霊を斎して疫病除け祈願の神と定められたと云う。その後第三十三代推古天皇の御代(西暦五九二年)に、厩戸王子(聖徳太子)はこの地に七堂伽羅を建立、海営寺と称し一岡神社を海営宮と改め鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬され、又後の第四五代聖武天皇の御代(西暦七二四年)高僧行基は社の南に一大溜池を築造、海営宮池と名付け神社・寺共に修復されしが、第百六代正親町天皇の御代天正五年(西暦一五七七年)織田信長の兵火に罹り焼失、その後第百七代後陽成天皇の御代(西暦一五九六年)に村民氏子によって新築再建、その昔は正一位の神階を賜り境内三二三八坪、境内外実に六七六〇坪に及び、尚一五〇〇坪のお供田を有し日根郡内唯一の大社として栄え祇園さんとして親しまれ現在に至っております。」


↓市杵島姫神社(市杵島姫命と厩戸王子命が合祀されています)
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↓牛神神社(大己貴命)
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↓稲荷神社(宇迦之御魂命)
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最近は、一岡神社に合祀されている知恵の神様の丸い茅の輪くぐりが注目されています。いわゆるパワースポットとして、頭が良くなる願いをこめて、学業成就祈念の受験生などがお参りにくるようです。

↓知恵の神
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↓茅の輪くぐり
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現在、海会寺跡の金堂基壇の上には、半分覆いかぶさるように一岡神社があります。

↓一岡神社の奥本殿を裏から撮影・・・海会寺遺跡の上に建てられていることが分かります。
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海会寺跡の発掘による調査結果と年代的にも整合する可能性があり、海会寺と深く関連しているようです。海会寺は平安時代に火事で焼失し荒廃しましたが、熊野詣が盛んになると神社が崇敬を集めるようになり、やがて熊野九十九王子の厩戸王子社を合祀し、和泉国日根郡の大社となりました。さらに民間の祇園信仰も取り入れて神社は地域の氏神として継続されてきました。

海会寺跡の発掘によると、寺院の建てられたのは大化の改新(645年)の直後ですので、社伝の聖徳太子の時代より少し下ることになります。
おそらく、海会寺の鎮守の海営宮として建てられた神社が、海会寺の焼失後も生き残り、熊野詣の隆盛の時代を経て、海会寺敷地を神社境内に含んで維持され、古代に造られた大寺院の伝説を神社の社伝に取り込んだのではないでしょうか。


大きな寺を造るとき、神社を鎮守として併設するのは、古代から多くの例があります。

興福寺建立の際は春日大社を勧請して鎮守としたとされ、東大寺の大仏殿の建立の際は協力した宇佐八幡宮を勧請し手向山八幡宮を造営しました。
鞍馬寺の鎮守社は由岐神社です。比叡山や高野山を開山するする際にも神社を建立して地鎮と鎮守を祈願しています。

逆に寺院に併設された神社のほうが有名になったのが、金刀比羅宮(松尾寺)、豊川稲荷(妙厳寺)、最上稲荷(妙教寺)といったところです。



一岡神社は、海会寺の鎮守社として出発しましたが、海会寺が焼失した後も熊野詣と祇園信仰に関連する神社として発展し、境内に海会寺遺跡を保護する形で、現在に至ったようです。一岡神社のおかげで海会寺遺跡が残ったとも言えるわけで、長い歴史の鎮護の因縁を感じる話ですね。






<追記注釈> 祇園について  2016.9.8 ; 5:25  (御質問がありましたので簡単に説明します)

「祇園」とは、インドで釈迦が説法を行った場所すなわち祇園精舎から来ています。日本では、民間の習合神「牛頭天王」が祇園精舎の守護神とされ、八坂神社を中心に祇園信仰が広がりました。牛頭天王は、蘇民将来説話の武塔天神でもあり、本地は「スサノオ神」で、垂迹は「薬師如来」とされました。まさに仏教・神道のみならず民間信仰が混合した庶民の習合信仰の典型です。

もともとは、祇園祭りに見られるように、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰ですが、明治の神仏分離令により、神社で「祇園」「牛頭天王」のような仏教語を使用することが禁止されました。そのため、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となったのですが、この一岡神社も、正式名ではなく通称で「祇園さん」と呼ぶことで伝統を守ったと思われます。事実、8月1日に行われる一岡神社の夏祭りは、現在でも「祇園さん」として多くの人々でにぎわいます。

あくまで私見ですが、ここ一岡神社の牛神神社(4枚目写真)は、もともとは祇園信仰の牛頭天王社でもあったと考えます。大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)の荒魂が牛頭天王であると『先代旧事本紀』に書かれ強い関連性があるからです。




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2016年 09月 04日 |
特別展示室には軒丸瓦以外にも多数の出土品があります。

その中で特に興味深いのは、セン仏です。セン仏のセンは漢字で「塼」または「甎」と書き、仏像レリーフタイルとでもいうべき型押し焼成で作られた小型仏です。

↓三尊セン仏の破片を復元図にあてはめ展示したもの
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貴重な仏のレリーフである三尊セン仏は、小さいですが美麗なものです。この三尊セン仏は、明日香の橘寺で最初につくられたもので、各地の古代寺院では橘寺のセン仏を粘土で型取り「踏み返し」という技法で複製化してから焼成・彩色しました。海会寺の三尊セン仏もそのひとつで、五重塔の内壁面に貼る形で飾られていたと思われます。

↓三尊セン仏の拡大撮影
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その他の主な展示物も以下に紹介します。

↓独尊セン仏
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↓見事な陶器・・・これが大化の改新の時代にここで作られていたとは驚きました。
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↓寺という字が刻まれた陶片
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↓鴟尾(しび=屋根頂上の飾り)・・・飛鳥時代に大陸から伝えられたもので海会寺のものは日本で最初期の鴟尾のひとつです。
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↓相輪風鐸(相輪を飾ったベル)
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↓石でできた相輪の部品
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↓風鐸(軒先に吊るされたベル)と風鐸の舌(ベルの打棒)
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この展示室の説明パネル類も平易な文章で詳しく書かれており、とても好感が持てます。

こうして、撮影しながらゆっくり見学し、古代の寺院の実像を知ると、深い感慨が湧いてきました。律令国家のシンボルから信仰の対象となり、やがて歴史の彼方に忘れ去られた存在となった海会寺・・・滅びたからこそ蘇える古代歴史ロマンの世界が、ここにあります。

↓完成時の海会寺の想像図・・・古代を幻想してください・・・
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海会寺がつくられる直前におこった大化の改新は、天皇を中心とする中央集権国家をめざす政治的改革でした。孝徳天皇は新しい政治を行うため、飛鳥の地を離れ、難波(現・大阪市)に都を移します。そして、国家統治の根拠地として「畿内」の範囲を定め、政治基盤の強化をはかったのです。

海会寺は、まさにその当時の「畿内」の南西端にありました。畿内と紀伊国を結ぶ南海道の重要地点だったのです。ここに、当時の最新技術を駆使して、先端文化の象徴であった大きな仏教寺院がつくられたのです。さぞ壮大で他を圧する存在感を放っていたことでしょう。

↓当時の畿内の範囲と海会寺の位置・・・まさに畿内の南西端ですね。
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↑海会寺は、木国(後の紀伊国)の国府とは和泉山脈を挟んだ向かい側にあることが分かります。

当時、木国は南海道の先にある重要な地域でした。雨が多く森林の多い国ということで木国と命名されましたが、現在の和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であることから「紀の国」(紀伊国)となったそうです。
その木国に対する畿内側の出口として海会寺は鎮座しています。斉明天皇は、ここを通り南海道を経て、658年(斉明4年)に紀温湯(牟呂温湯=現在の南紀白浜温泉)に行幸し二ヶ月半も滞在しました。

なお、当時の南海道は、紀伊国や熊野国に行くだけではなく、加太港から淡路国を経て、阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国へ通じる重要ルートでした。当時の一級国道と言えるでしょう。
上図に示されているとおり、南海道は、紀伊国に入った後、西に折れ、海に面した賀田港(現・和歌山市加太)に達しています。



実際に海会寺をつくった人や、詳細な経緯は判明していません。おそらく、この泉南の地を支配し都中央と結つきの強かった豪族が建設したと推測されるだけです。まだまだ、多くの謎が残されており、今後の調査研究の成果が待たれるところです。



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