模糊の旅人
mokotabi.exblog.jp
  Top ;Log-in
2017年 06月 29日 ( 1 )
|
2017年 06月 29日 |
前回紹介しました聖マリア大聖堂から南へ歩くと、空堀町交差点があり、そこをさらに南へ行くと信号が二つ連続しています。そこを左折すると、どんどろ大師、心眼時、大阪明星学園のある場所へ至ります。この付近が真田丸の跡地の最有力候補です。

↓ルートの途中にあるイタリア料理店

f0140054_08140384.jpg

真田丸は、真田信繁(幸村)により築かれ、大坂冬の陣で寄せ手の徳川軍に大打撃を与えた有名な場所。大坂城惣構えの外側に造られた出城で、大坂城の唯一の弱点である南側の防御能力を高め、さらには敵を引きつけ攻撃する拠点ともなりました。

正確な真田丸の場所については諸説ありますが、現在、最も有力な場所とされるのが、大阪明星学園の敷地です。この学園のグラウンド東側には2016年、大河ドラマ「真田丸」のスタートとほぼ同時に「真田丸顕彰碑」が設置されました。

↓真田丸顕彰碑の全体と周辺(後方が大阪明星学園のグラウンドです)

f0140054_08151834.jpg

↓アップで撮影(クリックすると横120ピクセルに拡大表示されます)

f0140054_08153881.jpg

↓大阪明星学園の壁には真田丸放映中は真田信繁(幸村)の絵が掲げられていました。

f0140054_08161335.jpg

現在でも真田丸顕彰碑から北へは下り坂で、真田丸が大坂城に接続した出丸ではなく、大坂城との間に深い谷を有する独立した出城であったことが偲ばれます。確かにここは、真田丸のあった場所として、説得力があります。背後の谷は、空堀町から空堀通りへ続く一帯で、上町台地の天然の侵食谷を利用して広げた大坂城の南側の空堀であったようです。

↓地図の紫のラインが大坂城惣構えの南側の空堀のあった低地です。

f0140054_08184473.jpg
真田丸顕彰碑の道を挟んだ向かい側に「心眼寺」があります。1622年に白牟和尚が真田信繁(幸村)・大助親子の冥福を祈るべく真田丸跡地に建てた堂宇を起源とする寺で、その定紋は六文銭とされ山号は真田山です。正門外側の階段横には「真田幸村 出丸城跡」の碑が立っています。

↓心眼寺の正門

f0140054_08193031.jpg

↓「真田幸村 出丸城跡」の碑

f0140054_08195312.jpg

さすがに江戸時代は徳川家に逆らった真田信繁の墓を建てられなかったようですが、2014年、400回忌に際して心眼寺の境内に信繁の墓が建立されました。

↓真田信繁(幸村)の墓

f0140054_08202977.jpg

↓墓の説明看板

f0140054_08205208.jpg

信繁の墓の横に小さな堂宇「まんなおし地蔵尊」があります。

↓まんなおし地蔵尊

f0140054_08212601.jpg

↑まんなおし地蔵尊は、真田信繁(幸村)が開運の祈願をしたと伝承され、かつて庶民の信仰が篤く参詣者が絶えなかったそうです。
「まんなおし」とは、間直し・運直し・縁起直し・げん直しのことです。まんの悪い時、うまくまん良く行きますようにと、まんなおし地蔵尊に願いをかけたとのことです。

↓地蔵尊の姿

f0140054_08221866.jpg

↓地蔵尊に貼られていあった真田丸ポスター

f0140054_08224595.jpg

真田丸顕彰碑や心眼寺から北へ坂を下った角に「どんどろ大師 善福寺」があります。ここには、大坂の陣の戦死者を弔うべく建てられた鏡如庵大師堂がありましたが明治初期に廃絶。その後、系列の善福寺が移転してきました。

↓「どんどろ大師 善福寺」正門

f0140054_08235530.jpg

通称の「どんどろ大師」は、江戸時代に大坂城代だった土井大炊頭利位が、ここで祀られていた弘法大師を深く信仰し参拝を欠かさなかったことから「土井殿の大師さん」と呼ばれ、それがなまって「どんどろ大師」となったと伝わります。

↓どんどろ大師の本堂

f0140054_08243087.jpg

↓本堂の横にある勝軍地蔵尊

f0140054_08245596.jpg

真田丸跡地としては、もうひとつ有力な候補地があります。それが三光神社で、次回、紹介します。



<たびねす記事もよろしく>
f0140054_1803958.jpg


にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ ←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
PageTop
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Starwort Skin by Sun&Moon