模糊の旅人
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2017年 05月 20日 ( 1 )
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2017年 05月 20日 |
「たびねす」掲載された、私の 「河口慧海の足跡も!泉州・堺で古い街並み散策」 という記事とのコラボ企画の後編です。

今日は、堺の古い街並みの紹介と堺鉄砲の話です。


↓清学院の一筋東側に、鉄砲鍛冶屋敷跡があります。堺市の指定有形文化財ですが、住居として使われているため、内部非公開で外観だけの見学になります。
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安土桃山時代から江戸時代にかけて、技術力のある堺は日本一の鉄砲生産地として栄えました。第二次世界大戦の空襲で堺の中心部は焼失しましたが、この一画は奇跡的に戦災を免れました。鉄砲鍛冶屋敷跡は、江戸時代の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼店舗であったもの。往時の面影を残す堺で唯一の貴重な建築物で、日本の町家建築としても最古級です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡を引いた画角で周辺の街並みと一緒に撮影
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1543年、種子島の門倉岬西村の小浦に漂着したポルトガル人より、初めて日本に南蛮式鉄砲がもたらされました。島主:種子島時堯が、二挺の鉄砲をポルトガル人から買い取ったのです。

当時、琉球との貿易に従事していた堺の貿易商・橘屋又三郎は、種子島に立ち寄り、その鉄砲製造技術を持ち帰り、堺の桜之町に鉄砲工場をつくりました。堺の職人たちは対応できる高い技能を持っていたからです。

また、紀州根来寺(現・和歌山県岩出市根来)でも、堺の刀工・芝辻清右衛門が種子島銃の複製に成功します。
さらに足利将軍義晴に島津経由で献上された鉄砲をもとに、近江国・国友村(現・滋賀県長浜市国友町)の刀工・善兵衛も種子島銃の複製に成功。

すなわち、ほぼ同時期に、日本の三か所で、鉄砲製造に成功し、そのうち二か所で、堺の人間が製造したのです。

戦場の様相を一変させる武器でしたので、戦国大名は競ってこの鉄砲を入手しようとしました。
中でも「尾張の大うつけ」といわれた織田信長は、1553年、舅である美濃の斎藤道三と初対面した際、足軽に500挺もの新兵器の鉄砲を持たせて行進し、驚かせたとのことです。

まさに、この時、鉄砲伝来からわずか10年後なのです!
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上記の堺の橘屋又三郎(鉄砲又)と芝辻清右衛門一族は、堺で本格的な鉄砲生産に乗り出し、堺は日本における鉄砲製造の中心地となりました。(信長が長篠の戦いで使用した3000挺の鉄砲のうち2500挺が堺の製品)

鉄砲の弾丸の鉛や火薬原料の硝石は輸入に頼らざるを得なかったので、海に面した貿易港である堺は鉄砲製造の立地条件としては最適でした。さらに職人の技術力の高い堺では、品質管理による「部品互換方式」の製作システムを確立して大量生産に乗り出しました。
いっぽう、原材料輸入貿易や鉄砲販売をする有力堺商人は、会合衆として堺の都市自治を推し進め、現代でいう商社的役割を果たし、鉄砲のバイヤーかつブローカーとして活躍しました。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下人は、鉄砲を重視し、堺を支配下に治めるべく努力しました。これらの天下人と結んだ堺商人は、財力を蓄え文化をも育成しました。

今井宗久や千利休・津田宗及らは、鉄砲の販売や硝石の貿易で活躍した堺商人で、その経済力の上に、茶の湯という高度な文化を生み出しました。彼らは、単なる武器商人ではなく、日本人の美意識を創り出した優れた文化のプロデューサーでもあったのです。千利休に至っては茶の湯を大成するとともに、「御茶湯御政道」の担い手として秀吉政治のフィクサーにまでなりました。(秀吉の弟:豊臣秀長の言葉「公儀のことは私に、内々のことは宗易【=千利休】に」)
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その結果、鉄砲生産の最盛期:1600年ころには、10万挺近い鉄砲が日本にあったと推測されます。当時、日本の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体の量を超えていたそうです。

この鉄砲普及の驚異的なスピードと国産鉄砲の品質の高さは、日本だけで、ヨーロッパ人が銃を持ち込んだ世界のどの地域にも見られないものです。


有力な説によると、ポルトガル・スペインが日本の植民地化をあきらめた大きな要因は、この日本における鉄砲の普及にあったとされます。

「堺鉄砲が日本を守った」とは言いすぎかも知れませんが、少なくとも「歴史を変えた堺鉄砲」と言えるでしょう。


模倣から出発して、品質を向上させ本家を超えた良いものを大量生産する.....なんだか、現代日本の自動車産業やカメラ産業の話に似ていますね。
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江戸時代に、鎖国して天下泰平になると鉄砲の需要は減りますが、鉄砲鍛冶の伝統が途絶えることはなく、タバコ包丁や打ち刃物でも堺の高度な技術は連綿と受け継がれ、とりわけ高級なプロ用包丁である「堺包丁」は現在でも世界一の切れ味を誇ります。


↓このあたりには多くの鉄砲鍛冶が住んでいたのです。
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そうした、現代に堺鍛冶の伝統を受け継ぐ老舗が、水野鍛錬所です。

↓鉄砲鍛冶屋敷跡から二筋東に紀州街道があります。ここを南に150mほど歩くと水野鍛錬所があります。
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ここは、現在も営業している老舗の鍛冶屋で、伝統の古式鍛錬にのっとりプロ用の和包丁から日本刀に至る極めて優れた刃物を鍛造しています。奈良の法隆寺大改修の際には、国宝五重塔九輪の四方魔除け鎌をを鍛え奉納しました。
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↓水野鍛錬所の門横には、与謝野晶子の歌碑があります。2010年に水野鍛錬所により建立されたもので、鍛冶屋らしく庖丁の形をしています。
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 「住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路

「七まち」とは堺の鍛冶屋用語で、堺製のタバコ庖丁が江戸幕府公認となった際、北旅籠町、桜之町など七つの町に住んでいた37軒の鍛冶屋が指定されたことに由来します。このあたりは、堺の鉄砲製造の伝統を引く鍛冶屋の街区だったのです。

また「菜の花」は、江戸時代から明治時代にかけての堺では、菜種が多く栽培されていたことによります。河口慧海や与謝野晶子が、堺で幼少期を過ごした際、菜の花を見て育った情景が浮かびます。

この歌碑は、最近つくられたものですが、与謝野晶子のふるさとですので、堺には晶子の歌碑・顕彰碑は多く建立されてきており、現在は23基もあります。

なお、堺の与謝野晶子の歌碑については、
 「与謝野晶子のふるさと堺市で歌碑巡り 生家跡などで晶子を偲ぶ」
 「堺市で与謝野晶子の歌碑を辿り歴史ロマン散歩 大仙公園から晶子立像へ」
の記事をお読みください。


↓このあたりは刃物の店が多いです。
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↓紀州街道
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与謝野晶子歌碑の前の紀州街道を南に下り、阪堺線(路面電車)と合流してから次の筋を東に入ると山口家住宅があります。

↓山口家住宅
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山口家住宅は、大坂夏の陣の戦火直後(1615年)に建てられた貴重な建物で、江戸時代初期の町家として重要文化財に指定されています。内部は整備され、堺の伝統的な町家暮らしを感じることが出来る展示があります。

ここは、前回記事で紹介した「清学院」との共通入場券も発行され、連動して見学できます。「慧海と堺展」というイベントが実施された際は、山口家住宅もメイン会場の一つとなり、河口慧海と交流のあった堺の人々の関連資料が展示されました。


<たびねす記事もよろしく>
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