模糊の旅人
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大阪探索プロローグ  ~細川屋敷跡から真田丸跡地を歩く(1)
2017年 06月 14日 |
「たびねす」に、私の 「細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く」 と 「真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!」 の2本の記事が掲載されました。
これは連続して読めるコラボ記事として書いたもので、~地形と地名が語る歴史ロマン~ という切り口で、大阪城南部の細川屋敷跡から真田丸跡地へかけて歩くコースになっています。いわば大阪アースダイバーあるいはブラタモリ的大阪地形探索ともなっていますので、2記事を、ぜひ併せてご覧ください。
どうぞよろしくお願いします。

(47)細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く
http://guide.travel.co.jp/article/26914/


(48)真田丸はどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!
http://guide.travel.co.jp/article/26990/








ブログでも、上記の、たびねす記事とタイアップして、大阪城南部の歴史地区について、私見を交えながら、より詳しく紹介します。
今日はその話のプロローグで、大阪の背骨たる上町台地の地勢的特徴です。



大阪城は、大阪を南から北へ貫いてのびる上町台地の北端にあり、大阪の成り立ちを象徴する場所です。

↓現在の大阪城(江戸時代以前は大坂城)
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この大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にある聖地でした。石山碕と呼ばれたと古い文献にあります(饒速日命=ニギハヤヒの降臨の地ともされる)。

↓夜の大川端から大阪城を撮影して、現代の余計な建物を削除加工してみました。古い時代の聖地:石山碕を海から眺めた情景が浮かんで来るように思えます。
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その後、古墳時代以降になると、少しずつ海が後退していき、周囲の低く平らな大阪平野を見下ろす最も神聖な高台として、国土の神霊を祀る神社が鎮座し生國魂神社となりました。

さらに下って、ここは聖地であるともに要害の地でもあることから、石山本願寺が拠って立ち織田信長に抵抗しました。豊臣秀吉の時代には、生國魂神社は南へ移され、大坂城が築かれます。秀吉は城下に武家屋敷を配し、堺などから商人を集め、大阪を大都市化させたのです。

↓縄文時代の大阪の地形に、後の主要スポットを加えた地図
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↑これを見ると、上町台地の西端側に、聖地あるいはパワースポットが、南北に多く並んでいることが分かります。(例外的に見える四天王寺は移転されたもので、創建当時は現・難波宮跡地にあったとする説が有力)

これは、西の大阪湾という海に面して、神聖な宗教地域性とともに外に向かって王権を輝かせるという意味もあったと思われます。仁徳天皇陵などは海から見られる大王の超巨大墳墓として造営されたのです。

↓仁徳天皇陵
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中沢新一氏は、名著『大阪アースダイバー』の中で、この難波宮から南に伸びる難波大道、さらに南に位置する百舌鳥の大古墳群につながる南北のラインを、大阪を貫く第一の軸として、「アポロン軸」と呼び、王の絶大な権力を現すものと書いています。

私も、この中沢説について、個々の展開には強引な面が多くて異論があるものの、大筋は賛成です。私的には、泉北台地から上町台地にかけての地形は「大阪の背骨」だと考えており、大阪という都市の成り立ちそのものに深く関係し、古代からの歴史を背中に残す重要な場所であると思います。


大阪は全般的には堆積平野と埋立地で坂は少ないのですが、この上町台地だけは大阪の背骨として多くの坂があります。もともと大坂(現・大阪)という地名の由来は、上町台地北端の坂のある地域を「大坂」(小坂・尾坂説もあり)と呼んだことにあります。

上町台地西側は急傾斜で、聖地に関連した名所の坂が多く、天王寺七坂と言われ、古くからの歴史を感じさせます。

↓天王寺七坂のひとつ真言坂(真言坂は生國魂神社と生玉十坊に関連)
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↓天王寺七坂のひとつ愛染坂の説明看板(愛染坂は愛染堂と大江神社に関連)
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↓愛染堂に隣接する大江神社の説明看板より(生國魂神社から四天王寺にかけての一帯を夕陽ケ丘という)
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なお、上の地図で注意すべきは大和川です。この川は、奈良から生駒山地と葛城山地の間を抜け、北流して河内湾(河内湖)に注いで土砂を堆積していました。現在のように西流して大阪湾に注ぐようになったのは、江戸時代に、上町台地と泉北台地の間のやや低い場所を掘削し、大和川の付け替え工事が行われたからです。結果、現在の大阪市と堺市の境界をなす川となったのですが、これによって形状記憶都市:大阪のアポロン軸が分断されたとも言えます。

↓大和川中流域
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大坂城を築いた秀吉も、王権を輝かせる場所として、上町台地の突端を選びました。地勢的・軍事的に要害であったことが最大の理由ですが、縄文時代より大坂の最大の聖地の場所でもありました。そのため、生國魂神社を南へ丁重に遷座させたのです。

↓現在の生國魂神社
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大坂城は、西~北~東側が低地でしたが、南側は上町台地が続いているため、軍事的には攻めやすい弱点となります。そこで、南側に主な武家屋敷街を並べ、その南に天然の浸食谷を利用して空壕を掘り防備を固めたのです。

この武家屋敷街を含んだ大坂城の惣構え(総構え)は巨大で、現在の大阪城の4倍以上あったとされます。


惣構えが巨大となり、古い大坂の商業地だった旧石山本願寺内・渡辺津・旧玉造といったところが、大坂城内に取り込まれたため、そこにいた商人の移転地として、西側の低地が開発されます。さらに、堺から有力商工業者たちを移転させてきます(堺筋に名を残す)。
これが、船場という大商業地の発祥です。

やがて水運に恵まれた船場は各地の物産が集まる日本の経済センターとして発展し、天下の台所:大坂として大都市化していきます。

さらに、江戸時代に大坂は、近松門左衛門や井原西鶴、上田秋成などに代表される町人文化が栄えました。 文化の面でも、江戸と並ぶ中心地となりました。

明治以降、その経済的・文化的地位は低下していきますが、商人の町としての気質は引き継がれていきます。


言葉の面では、商人を中心として、争いや暴力を嫌い、平和を愛する町では、強い言葉ではなく、柔らかい言いまわしが好まれたのです。そうした土壌の中、大阪弁も変化しながら、その持ち味を残してきました。

大阪弁の代表格とされた船場言葉は、もともとは豊臣秀吉の時代に堺から強制移住させられた商人が多かったので、商人の自治都市:堺の言葉が基盤でした。そこに、江戸期になると、平和な商いに役立つ、丁寧かつ上品な京言葉の表現が取り入れられ、まろやかな語感の、はんなりとした大阪弁が発達したのです。


平成の現在、もはや往事の船場の雰囲気は無く、上品な大阪弁の文化は失われつつあり、船場センタービルの上には高速道路が走り、その船場センタービル自体も閉鎖されようとしています・・・

↓現在の船場のワンショット
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<追記> 2017.6.17 石山碕とニギハヤヒについて、ご質問がありましたので、以下の More を追加作成しました。マニアックな話ですが、ご興味のある方はお読みください。

<たびねす記事もよろしく>
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More ニギハヤヒの謎

上に書いた 「大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にある聖地でした。石山碕と呼ばれたと古い文献にあります(饒速日命=ニギハヤヒの降臨の地ともされる)。」という記述に関して、数件ご質問がありましたので、以下にもう少し詳しく説明しておきます。


ニギハヤヒは、日本古代史における大いなる謎です。

生國魂神社(いくくにたま)神社の『難波大社生國魂神社略記』によれば、「神武天皇が難波津に到着時石山碕に生島、足島神を祀ったのが創祀である。」とされており、その時すでにこの場所は聖地で、「この石山はかっては磐舟神社があり、饒速日命(ニギハヤヒ)の降臨の地ともされていた。」となってます。


磐舟神社は、大阪の交野や河南町にもあり、いずれも、ニギハヤヒが祀られています。こうした天の磐船伝説の地はいくつかあります。その一つが石山碕(大阪城付近)です。

つまり、神武到着以前に、ニギハヤヒの神がこの地に祀られていたようです。それを征服し生島、足島神を祀るようになったことになります。

生島、足島神は、天皇即位の大嘗祭の翌年に行われる八十島祭りの主祭神で、それを祀っているのが生國魂神社なのです。八十島祭という祭の名前は、難波八十島から来ており、淀川や大和川が運ぶ土砂によって多くの島が形成されていた当時の状況を彷彿とさせます。

そうすると、ニギハヤヒは、生島、足島神よりさらに古い先住者の神ということになります。しかし生島、足島神は、先住者の神であるニギハヤヒの祟りを畏れて、怨霊を祀り上げてご利益を与えてくれる存在に転じさせた神という考え方も有力です。「生島神、足島神自体が元来は難波地方の地主神であった」とする説もあります。

後で述べる伊勢神宮と同じ手法で、先住者の神を取り込み融合することで、その勢力を配下にしたのではないでしょうか。その配下にされた勢力が河内の豪族:物部氏であったのです。

↓現在の生國魂神社
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もし、西からの勢力が海から来るなら、当然、このあたりに行き当たります。東征伝説のキーとなる場所です。


『古事記』によると、神武天皇(イワレビコ)が九州から東遷してきた際に、すでにここに、ニギハヤヒ(饒速日命)という神がおり、その家来のナガスネヒコの抵抗にあい、河内から大和に入ることができませんでした。そこで、南の熊野へ回り、紀伊半島を北上して大和入りを果たします。

つまり、ニギハヤヒは、神武天皇より先に河内~大和にいた王であったと推測されるわけです。

結局、ニギハヤヒは、家来のナガスネヒコを殺し、娘をイワレビコ(神武天皇)に嫁がせる形で、国譲りします。

ニギハヤヒは、「神武天皇の東征以前に、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内に降臨した同じ天孫だ」という理屈で、禅譲したことになっています。

その後、ニギハヤヒの系統は、物部氏として、天皇家の臣下となっていきます。
ニギハヤヒは、ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻としており、生まれた子がウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)で物部氏の祖とされます。


このあたりは、重大な神話伝説で、いろいろな想像が可能ですが、歴史学的に明確なものではありません、
曰く、「ニギハヤヒは、神武天皇より先に東征して大和入りしていた王」、「先住者の王ニギハヤヒの娘を娶り養子となる形で、神武王朝が誕生した」、「ニギハヤヒは、祭祀を司どる物部氏の祖神なので日本神話に影響を与えた」、「ニギハヤヒは、日本神話ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話から来る」、「ニギハヤヒは、大和に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示す」、「ニギハヤヒは、後に巻き返した河内王朝(応神王朝)につながる豪族勢力の一派」、「ニギハヤヒは、大和出自の崇神王朝(三輪王朝)に滅ぼされた河内の旧勢力」「東征してきたのは後の応神王朝で、征服された場所の記憶がニギハヤヒに反映」などなど、いろいろ考えられます。
しかし、いずれも可能性があるということで、実証することは難しいでしょう。ただ、河内に後の物部氏につながる大きな勢力が存在したことだけは確かです。



実在が確実視される最初の天皇が崇神天皇ですが、和名が神武天皇と同じであることから両者同一人物説が有力で、日本を統治した最初の大王です。
崇神天皇の(大)伯母とされる倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)は、いわゆるシャーマン(巫女)的存在で、神懸かりとなってお告げをしています。その墓は巨大な最初の前方後円墳:箸墓古墳(奈良県桜井市)とされることから、女王:卑弥呼の可能性があり、近年の纏向遺跡(奈良県桜井市)の研究では時代的にも整合します。【国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究報告によれば、箸墓古墳の築造年代は西暦240-260年頃】

↓箸墓古墳(奈良県桜井市) くわしくは、こちら をご覧ください
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崇神天皇が、神武伝説に反映された西からの征服王朝であったかどうかは、考古学的証拠が無く、なんとも言えません。崇神天皇から始まる王朝を三輪王朝と呼ぶ歴史家は、大王家は大和出自の豪族と考えている傾向にあるようです。
いずれにせよ、この時期に日本を統一する大王=大和朝廷の原型が出来たのです。



こうした大和朝廷の成立前夜に、河内に君臨していたのがニギハヤヒです。ニギハヤヒは、河内の豪族である物部氏などの旧勢力を体現する神として祀られたのです。



ところで「伊勢神宮は本来大和朝廷の神社ではなく、大和朝廷が滅ぼした旧勢力である出雲系の神の祟りを怖れて祀った神社」とする説もあります。
伊勢では現在でも、注連縄を飾る習慣があり、「蘇民将来の子孫」とあります。

↓蘇民将来の子孫と書かれた伊勢の注連縄
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蘇民将来の護符は、日本各地の出雲・国津神系の神(スサノオ)を祀る神社で提供されています。

日本神話では、大国主の国譲りに代表されるように、ニニギを筆頭とする天津神に対する移管を国津神が受け入れたと描かれています。つまり、ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神になったのです。 「蘇民将来」に近いスサノオや、伊勢外宮の祭神である豊受大神も、出雲・国津神系の神様である点がとても興味深いです。


天橋立にある籠神社(このじんじゃ)は、元伊勢と呼ばれ、倭姫が伊勢神宮の落ち着き先を探した際に、4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたります。
この神社に祀られているのは、

主祭神 彦火明命 (ニギハヤヒ)
 左祭神 豊受大神
 右祭神 天照大神

ということで意味ありげです。
つまり、ニギハヤヒが主神で、現在の伊勢外宮の豊受大神と内宮の天照大神を従えているのです・・・


ニギハヤヒは、『播磨国風土記』では、大汝命(大国主命=オオクニヌシ)の子とされており、スサノオノミコトの子であり大物主と同一とする説もあります(原田常治など)。やはり、ニギハヤヒは出雲・国津神系の神と思われます。

ニギハヤヒは、大きな存在であったことは間違いなく、消された形跡はあるものの、完全に封印することは出来なかったようです。



私見では、国を譲った旧勢力(被征服者)の姿が、ニギハヤヒに反映されているのは確かでしょう。ただそれをなしとげたのが東征してきた崇神王朝であったかどうかは、実証されていません。神話と連動するので非常に面白い話ですが、現段階では、あくまで可能性があるとしか言えません。逆に、崇神王朝が大和出自の勢力である蓋然性が高いようにも思われます。騎馬民族説のように、後の応神王朝(河内王朝)が征服王朝であった可能性も残されています。今後の考古学的証拠の発見に期待するしかないです。


これ以上は、トンデモ本のようになるので、想像に想像を積み重ねる話は差し控えたいと考えます。



.


by mokonotabibito | 2017-06-14 07:19 | 大阪 | Trackback | Comments(12)
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Commented at 2017-06-14 18:15
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by youshow882hh at 2017-06-14 23:13
こんばんは。ゆーしょーです。
縄文時代の大阪市は、ほとんど海だったのですね。
大坂城のあったところは、上町台地で、海抜が
高かったのですね。
このような昔の地図を見るのは楽しいです。
ポチ♪
Commented at 2017-06-15 19:35
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by engel777engel at 2017-06-15 21:12
縄文時代の大阪の地形図に驚き、大阪城のある地は、縄文時代には、海に突き出した半島の先端にあった聖地とのお話に壮大なロマンを感じているところです。
 恥ずかしながら模糊さんのお話伺うまで全く知りませんでした。細川ガラシャ歌碑の記事、眞田丸の記事もゆっくり読ませていただきます。有難うございました。

 タイトルバックの大阪城のお写真、素敵です。手前の花は桜でしょうか。

応援ポチッ!!!
 
Commented by Lago at 2017-06-15 23:40 x
私達が通常「大阪」という街をイメージする時は、
身近な所から得たただ現今の状況を思い描くにすぎませんよね。
今回の記事を見て感じたことは、地球そのものの在り方や
それと結びついた歴史生成の在り方の計り知れない深淵さでした。
縄文時代の地形に現在の主要スポットを加えた地図なんて始めて見ましたが、
大天変地異でなくとも、こんな事がありなんですね。
大阪の背骨の話や、神社仏閣の聖地との関係なども、
大変興深く拝見いたしました。

時と共に大地は生きて動くなり霊魂さえも宿る不可思議

陸は海に海は大地となり行けば栄枯は一炊の夢とこそ知れ
Commented by youshow882hh at 2017-06-15 23:53
こんばんは。
ポチ♪

Lagoさん、こんばんは。
「陸は海に海は大地となり行けば 栄枯は一炊の夢とこそ知れ」
この短歌が好きです。

Commented at 2017-06-16 15:43
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by youshow882hh at 2017-06-16 20:52
こんばんは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2017-06-17 15:53
こんにちは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2017-06-18 10:21
おはようございます。
ポチ♪
Commented by PC-otasukeman at 2017-06-18 19:37
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Commented by PC-otasukeman at 2017-06-19 06:12
ご相談の件、
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