模糊の旅人
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ああ、エフェスの地にて・・(その一)アルテミス神殿跡と初期キリスト教 ~トルコ再訪(13)
2016年 05月 18日 |
エフェス(エフェソス、エペソ)については、今日のプロローグ編を含めて、5~6回にわたって、ブログ記事を掲載する予定です。

エフェスは、古来より有名な場所で、西部アナトリアの最大の都市でもありました。
ヒッタイトに対抗した古代アルザワ王国の首都アパサだったとされ、ミケーネ文明とも交流があったようです。

やがて、ギリシア人の都市となり港湾都市として繁栄しました。
この地域では、もともと地母神の女神アルテミス崇拝が盛んで、古代ギリシア化された後も、アルテミスはギリシア神話ではゼウスとレトの娘として位置づけられ、女神信仰が継続します。

その後、共和制ローマの支配下に入り、アントニウスがクレオパトラと共に滞在した地となります。
現在残るエフェス遺跡の主要部分は、このローマ時代に建てられたものです。

キリスト教関連でも重要で、聖パウロが宣教に訪れ三年間も滞在した町であり、その後、聖母マリアが晩年住んだとされる家が発見された所でもあります。

さらに、皇帝テオドシウス2世が、エフェソス公会議を二度も開いた場所です。
アルテミス信仰が置き換えられた聖母マリア崇敬が盛んな土地柄から、ここが公会議場として選定されたようです。(エフェソス公会議では、マリアが神の母であることを否定するネストリウス派が排除され異端とされた)


これほど幾多の古い歴史に彩られた場所も珍しいものです。エフェスは古代にはエフェソスと言われ、古エフェソスや新エフェソスなど、あちこちの場所に遺跡が分布しています。


現在は世界遺産でもあり、新エフェソスは巨大な都市遺跡として、多くの人が訪れる人気の大観光地です。

まずは、古エフェソスの町があった場所に行ってみます。

古エフェソスには、かつて世界の七不思議の最たるものとされた古代アルテミス神殿がありました。

今は一本の石柱が立つだけの寂しい場所です。(この石柱は復元模型です)
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↓石柱のアップ
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↓後景その一、奥のビザンツ時代の城塞と手前のイスラム教モスクのイーサーベイ・ジャーミィ
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↓後景そのニ、聖ヨハネ教会跡
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聖ヨハネ教会は、使徒ヨハネが聖母マリアを保護して、ここに至り、晩年を過ごしたという伝承のある場所です。


このアルテミス神殿遺跡を見ても、世界の七不思議とされた面影はなく、どんな神殿だったのか想像できません。
ちょっと期待はずれ感がありました・・・

引用・・「私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。」(ビザンチウムのフィロンの言葉)

127本の円柱が並び、アテネのパルテノン神殿よりも大きかったそうです。今は、一本だけというのは、あまりにも寂しい光景です。

↓そこで、アルテミス神殿復元想像図
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↑確かに、こんな神殿が目の前に立っていたら、すごいでしょうね。往時を想像で偲ぶしかありません・・・

アルテミス神殿は、三度建て直されたようですが、一番古いものは、紀元前700年頃の創建です。
2世紀にゴート族に破壊された後、ここにあった大量の石材は、各地の神殿や、キリスト教会、イスラムのモスクなどに転用されました。イスタンブールのアヤ・ソフィアにも利用されたとのことで、驚きます。

この古エフェソスのアルテミス神殿遺跡は、1869年に大英博物館の考古学探検隊により再発見されました。

↓エフェス出土のアルテミス女神の像(エフェス考古学博物館蔵)
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多数の乳房(牛睾丸説もあり)を持ち、明らかに、大地母神としての豊穣や多産の雰囲気がありますね。

ギリシア神話では、アルテミスは処女神で、狩猟・貞潔を象徴し月の女神です。上の像とはイメージが相当違います。
ただ、ギリシア神話でも、レトとゼウスの子であるアルテミスは、生まれた直後に母レトの産褥に立会い、双子の弟であるアポロンを取り上げたとされ、彼女が生殖や出産を司る女神でもあったことが分かります。





さて、今回のトルコ旅行の隠れた目的は、私が個人的に興味を持っている、初期キリスト教の分岐点となった公会議の場所を訪ねるというものでした。

コンスタンティノポリス(現トルコのイスタンブール旧市街中心部)、エフェソス(現トルコのエフェス)、カルケドン(現トルコのイスタンブールのアジア側カドキョイ)といった場所を巡ってみました。
当然のことながら往時そのままの面影は無かったものの、その歴史的場所に立っているのだという、古代幻想的な思いにとらわれました。
私にとって、旅はまずもって「歴史をたどる旅」なのです。プラス自然探勝もできればと欲張っています(笑)



上で述べましたように、紀元431年、ここエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされました。
ネストリウス派は、キリスト教主流派からは、三位一体論を否定したとされています。しかし、これは実際のところ微妙な問題です。
ネストリウス派の衣鉢を継ぐ現在のアッシリア東方教会は、三位一体論を認めています。

このあたりを書き出すと非常に長くなり、かつマニアックな話になってしまいます。
そこで、各公会議の歴史も含めて、まとめて下の 「More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き」を書いてみました。ご興味のある方は、More をクリックしてお読みください。


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More 非カルケドン派など初期キリスト教についての覚書き


以前から、私は初期のキリスト教や反主流のキリスト教の歴史について興味があり、いろいろ調べてきました。

イラン旅行では、ユダヤ教やキリスト教の成立に大きな影響を及ぼした最古の啓示宗教ゾロアスター教を見学しました。
イスラエル旅行では、ユダヤ教と黎明期キリスト教の原像というのが、大きなテーマでした。
そこから、どんな形でキリスト教が発展・変化したのかというのが、次のテーマとなります。アナトリア(現在のトルコの地)は、まさにその現場だったのです。


■■■■■■ キリスト教の形成 ■■■■■■

最初はユダヤ教の宗教改革として出発したイエスの伝道活動が、パウロ等のもとで新しい宗教の運動体となります。これが原始キリスト教から初期キリスト教への時代です。

キリスト教徒という名前が最初に出現するのは、アンティオキア(現トルコのシリア国境の都市アンタキヤ)です。
そこから、使徒達は、パウロの出身地でもあるアナトリアの多神教の世界に宣教活動を実施していきました。
現在のトルコの地中海沿岸からエーゲ海沿岸にかけての、アンタルヤ、コンヤ、エフェスといった場所です。

もちろん、アンティオキアからアナトリア方面だけではなく、マルコが伝導したエジプトや、タダイとバルトロマイが宣教したアルメニア方面にも、キリスト教が広がっていきます。

紀元70年のユダヤ戦争でエルサレムが陥落し、ユダヤ教の分派として活動していたキリスト教のエルサレム教会も崩壊しました。この後、使徒言行録の記述もエルサレムから完全に離れます。


エルサレムを脱したキリスト教徒の宣教は、まずユダヤ教のシナゴーグを中心に行われました。
そして、パウロがユダヤ教の食事や割礼といった戒律を要件としないことに決めたこともあり、ユダヤ教をこえていきます。
いわゆる「ユダヤ教イエス派(ナザレ派)の運動」に過ぎなかったキリスト教が、世界宗教としてユダヤ教の枠を脱していくのが、この時期です。根拠地は、アンティオキアとアレクサンドリアでした。

キリスト教の発展の際、地母神信仰が、聖母マリア信仰に置き換えられていくことについては、こちら をお読みください。


■■■■■■ グノーシス主義 ■■■■■■

初期のキリスト教の運動は、多神教信仰と対決するとともに、グノーシス主義(キリスト教グノーシス)という大きな問題を抱え苦闘していました。
それは、この世を悪の支配する世界だと考え、グノーシスすなわち「秘教的な認識」によって救済を得ようとする現生否定的な考え方で、キリスト仮現説にも至ります。

紀元2世紀ころ、ヴァレンティノス、プトレマイオス、バシレイデース、マルキオンといったキリスト教グノーシスの有力な思想家が次々と登場します。
グノーシス主義は、大胆な理論化と純粋化を特徴とし、マルキオン派に見られるように ユダヤ教否定の側面もあります。
当時の時代精神に合ったのか、キリスト教系の知識人層を中心に流行します。
グノーシス主義的な、偽典・外典類の多くの聖文書も流布され、キリスト教の最古最大の異端となりました。

これに対し、正統多数派にも、ユスティノスやエイレナイオスといった優れた神学者が現れ、グノーシス主義に反駁することを通じて、キリスト教神学を形成していきます。

正統派は、グノーシス主義とは対照的に、伝統順守することで多数派でありつづけようとしました。ある程度の理論的非整合性や矛盾を含みながらも、キリスト教の多くの古文書を認めることで、バランスをとったのです。ユダヤ教の聖典も、旧約聖書という形で、取り込みます。

したがって、後世に読むことのできる文書の中にも、グノーシス主義の残滓があります。
例えば、外典とされましたが影響力のあった『トマスの福音書』はグノーシス主義の色合いが濃厚で、正統聖典とされた『ヨハネの福音書』にもグノーシス主義の面影が見られます。
イエス・キリストの、「過ぎ去り行く者となりなさい」(トマス福音書42)、「私の王国はこの世のものではない」(ヨハネの福音書18.36)という言葉は、その象徴的なものです。


実際、初期段階ではイエスと使徒がそうであったように、地上においては巡礼者であり旅人であり他所者であるというキリスト教徒の本源的あり方は、その後も根強く継続して存在していたようです。
ややグノーシス主義に近い現世忌避の意識は、後世に形を変えながら、使徒的生活の運動や隠修士、修道会、清貧聖者信仰として、受け継がれていきます。

(その後、グノーシス主義は、オリエントで融合世界宗教的なマニ教、東欧でボゴミール派、西欧でカタリ派など異端として弾圧された思想に大きな影響を与えました。また、イスラム教のシーア派の一派であるイスマーイール派は、グノーシス主義の影響がきわめて濃厚です。)



■■■■■■ ミラノ勅令 ■■■■■■

やがて、ローマ帝国の専制君主制の発展と軌を一にするように、グノーシス主義が衰退し、今で言うところの正統派のキリスト教が広がっていきます。
これは、多民族・多階層を安定支配するために、民族や身分を超えた現世肯定的な統一的連帯の普遍的宗教が必要とされた結果でもあります。
そして、帝国を再統一したコンスタンティヌス帝は、313年のミラノ勅令によりキリスト教を公認して、帝国の思想的基盤としたのです。

ローマ帝国の世俗権力と合体した教会制度が確立し、多神教やグノーシス主義に勝利したキリスト教は、地中海世界の普遍(=カトリック)な正教(=オーソドックス)となったのです。


次は、イエス・キリストの神性の解釈をめぐるキリスト教内部の異端の排除という段階に移ります。いわゆる信条(法的に文書化された信仰告白文)による教義制定です。

ローマ帝国支配者側からしても、キリスト教の教義が多岐に分裂しては困るので、統一的な固定教義(=ドグマ)制定の必要性があったのです。


概述すると、381年、第1コンスタンティノポリス公会議(ニケア・コンスタンティノープル信条)により、三位一体の教義が定められアリウス派が排除されました。
次に、431年のエフェソス公会議においてネストリウス派が異端認定されました。
最後は、451年、カルケドン公会議により、東方諸教会(アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会)が排除されたのです。

↓ウィキペディアによるキリスト教諸派の分化図

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■■■■■■ アリウス派 ■■■■■■

少しだけ詳しく、重要な公会議を説明します。

まず第1に、325年のニケア公会義でアリウス派が否定されました。そして、逆転再逆転とすったもんだした末、背教者ユリアヌスの時代を挟んで、結局、381年のコンスタンティノポリス公会議でいわゆるアタナシウス派が勝利しました。
正式に異端とされたアリウス派は、ロゴスは神によって創造されたもので、神性を神以外に認めないとする立場です。これに対して、アタナシウス派(=正統派)は、ロゴスと神を同一視するもので、三位一体説に繋がる主張です。

アリウス派は、一時、ゲルマン系諸族に流布され栄えたようですが、その後、勢力が衰え消滅してしまいました。

↓コンスタンティノポリス公会議が行われた現在のイスタンブール旧市街
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■■■■■■ ネストリウス派 ■■■■■■

第2に、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は、神学論争的には微妙です。
ネストリウスは、キリストの人性と神性を二つの自立存在と考えており、並存論とでもいうべきで、三位一体を否定しているわけではありません。

ただ、人性においてキリストを生んだマリアを「神の母」であることを否定するので支持されず、ネストリウス派は排除されました。
そして、異端とされた後、ササン朝ペルシア帝国へ避難し、その領内の一部(現イラク南部)で布教継承され、アッシリア東方教会となりました。現在でも少数ながら存続しています。
なお、7世紀に中央アジアからモンゴル・中国へと伝えられたネストリウス派は景教と呼ばれ長く命脈を保ちました。

↓エフェソス公会議が行われた現在のエフェス
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エフェソス公会議を指導したキュリロスは、アレクサンドリア総主教で、彼の活躍した時期は、エジプトのアレクサンドリアはキリスト教世界に確固たる地位を築いていました。
その後も、アレクサンドリア系が主導したため、西側が反発し、カルケドン公会議の結果を招く原因となります。

449年に第二回エフェソス公会議が正式に開かれますが、ここでローマ教皇レオの書簡が無視されたため、彼はこの会議を「強盗会議」と罵倒します。
アレクサンドリア系は、皇帝テオドシウス2世の支持を得ていたのですが、皇帝の不慮の死により事態は急変します。
ローマ教皇側は、新皇帝の支持を得て、600人もの武装司教軍団を結集し、カルケドン公会議を催行し、第二回エフェソス公会議を無効とするのです。



■■■■■■ 非カルケドン派 ■■■■■■

第3の、451年のカルケドン公会議で排除された東方諸教会が最も重要です。

キリスト教の主流派からは東方諸教会は単性論とされますが、東方諸教会側は、自らが「単性論」と呼ばれるのを断固拒絶しています。(実際には、単性論というのは、コンスタンティノポリスの修道院長だったエウテュケスの一派のみ)

東方諸教会は、当然のことながら、ニケア・コンスタンティノープル信条を告白支持しており、その教義は「神性と人性は混交なく合一されている」とするものです。

長くなるので詳細には論述することは避けますが、カルケドン公会議の教義論争を見ると、神学者以外には、論点は些細な違いのように思えます。(エウテュケス主義を否定することで、アレクサンドリア系全部を断罪するやり方です。)
そこで、東方諸教会を単性論派と呼ぶのは蔑称になりますので、中立的な呼び名として「非カルケドン派」とされます。

↓カルケドン公会議が行われた現在のイスタンブールのアジア側の町カドキョイ
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カルケドン公会議は、西側主流派の指導のもとで行われ、アレクサンドリア総主教ディオスコロスが被告とされたのです。

これでは、キリスト教黎明期よりその布教の中心地的役割を担ってきたアンティオキア側(シリア正教会)やアレクサンドリア側(コプト正教会)が反発するのは当然です。自分たちのほうが正統であるとする強い意識があるからです。
また、ローマ帝国より早くキリスト教を公認したアルメニア王国の誇りを持つアルメニア使徒教会もカルケドン公会議を承認しませんでした。

このように、カルケドン会議による騒動の実態は司教区の主導権争いであり、根には文化的・民族的対立がからんでいることが分かります。

ここで、非カルケドン派の三教会(アルメニア使徒教会、エジプトのコプト正教会、シリア正教会)が、西方の主流派と袂を分かつことになったのです。
その後、コプト正教会からエチオピア正教会が分離しましたが、これも教義が同じなので非カルケドン派に含まれます。


地勢的には、西方の主流派は、カルケドン公会議により、キリスト教揺籃の地である東のオリエント世界を切り捨てました。
ローマ帝国の本来領土をキリスト教の本拠とし、現在で言うところのヨーロッパ世界(当時は辺境の地)に軸足を移して布教を進めて行くことになります。

信者の規模という観点からしても、カルケドン公会議はきわめて重要です。
単なる少数の異端の排除ではなく、実際はキリスト教の大きな分裂と言えるでしょう。

というか、細かい神学論争を過大に取り上げることで、複雑にからみあったキリスト教の権力争いと分裂という歴史的事実を覆い隠し、西方教会側が一方的に非カルケドン派を異端として説明してきたというのが真相です。

グノーシス主義排斥の時もそうでしたが、こうした宗教主導権争いの結果の正統と異端というのは、勝った側が正統を名乗り、負けた側が異端の烙印を押されることになります。



■■■■■■ その後の非カルケドン派 ■■■■■■

会議後、皇帝権力と結びついた西欧主流派からの非カルケドン派に対する介入弾圧があり、7世紀には、オリエント世界にイスラム教が広がったため、東方のキリスト教は苦難の道を歩みます。

イスラム権力は、信教の自由を保証し弾圧はしませんでしたが、キリスト教徒に対してはムスリム兵役の義務を免除するかわりにジズヤと呼ばれる税を課しました。

このアラブの平和のもと、しばし安定していましたが、西欧側の十字軍派遣により状況が一変し、非カルケドン派は、ラテンとアラブの争いに巻き込まれ、大きな被害を受けます。

レバノンのキリスト教マロン派(出自はシリア教会系の一派)だけは、この時期、東方教会の伝統・典礼を堅持しながらも、ローマ教会に服従する道を選び、西側の庇護のもと生きのびます。(現在、マロン派は、レバノンの人口の約30%程度)

他の東方諸教会も、態度を硬化させたイスラム勢力に警戒され、時おり狂信的な弾圧を受けることになり、徐々に勢力を衰退させていきます。
エジプトのコプト教徒の例では、イスラム権力の財政を潤してきたジズヤの税収入が激減してイスラム当局が困るほどの、キリスト教からイスラム教への改宗者があったとするエピソードがあります。


非カルケドン派は現在も大きな勢力を有しており、信者数は多い順に、エチオピア正教会が約3600万人、コプト正教会が約2000万人、アルメニア使徒教会が約500万人、シリア正教会が約300万人とされています。(マロン派は、160万人程度)

これらの非カルケドン派とされる教会相互間は、正統の教義を継承する教会どうしということで、いわゆるフル・コミュニオン(完全相互領聖)の関係にあります。


エルサレムの聖墳墓教会を訪れた時、カトリックやオーソドックス(ギリシア正教)のミサのみならず、シリア正教会(=ヤコブ派教会)のミサや行列も見学しました。
シリア正教の実際の姿を見るのは、はじめてでしたので、「シリア正教が現在もこうして生きているのか」と、とても感慨深かったです。

↓シリア正教の行列(エルサレムの聖墳墓教会前の広場にて)
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アルメニアは、オリエント世界で唯一キリスト教を国是として保ち続けてきた民族です。
アルメニア人は強い結束力を持っており、エルサレムでもアルメニア人地区というものを有し、ペルシア帝国やオスマン帝国にも存在し続け世界に広がって行きました。勤勉な商人としてのイメージがあり、ディアスポラやジェノサイドを経験してきた存在仕方は、ユダヤ人と似ています。
現在のイランでも、イスファハーンなどにアルメニア教会が立派に存在しています。

イスラエルのアルメニア人地区
http://mokotabi.exblog.jp/22784707/


イスファハーンのアルメニア使徒教会
http://mokotabi.exblog.jp/25167760/



コプト教については、エジプトの人口の約1割を占めており、エジプト旅行の際によく見かけました。旅行業などに従事している人も多いので、現地ガイドさんがコプト教徒だったという経験をお持ちの方も多いでしょう。
手首に十字の刺青をしている人は、間違いなくコプト教徒です。


エチオピア正教会は、コプト教から独立したもので、エチオピア帝国時代は国教とされていました。現在もエチオピアで最有力の宗教で、全東方諸教会中最大の規模を誇ります。
イスラム化されたエルサレムで、聖墳墓教会を守護してきた歴史を持ちます。


インド南部のキリスト教トマス派も非カルケドン派とされており、使徒トマスがインドに渡って伝道したとされています。(但し、ネストリウス派起源とする説も有力)
トマス派は、現在、シリア正教会に属するインド正教会となっています。

その他の非カルケドン派としては、初期キリスト教のアフリカ諸管区の流れを引く、カルタゴ教会(現チュニジア)、ペンタポリス教会(現リビア)、ヌビア教会(現スーダン)がありましたが、現在は消滅してしまいました。


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以上のキリスト教の歴史に関する記述の知見は、主に以下の二つの書籍を読んで得たものです。この二つの大著は、割と偏りない視点で書かれており、これまでの勝利主義的な宗教史観とは一線を画すものです。

フスト.ゴンザレス『キリスト教史(上、下) 』(訳:石田学、新教出版社、2002年)
アズィズ.S.アティーヤ『東方キリスト教の歴史』(訳:村山盛忠、教文館、2014年)
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他にも『シルクロードの宗教』(R.C.フォルツ 訳:常塚聴)、『異端の歴史』(R.クリスティ=マレイ 訳:野村美紀子)、『キリスト教の歴史〈3〉東方正教会・東方諸教会』(廣岡正久)、『異端者たちの中世ヨーロッパ』(小田内隆)、『原始キリスト教とグノーシス主義』(荒井献)、『シリーズ聖書の世界』(荒井献 他)、『グノーシス』(筒井賢治)、『ローマ人の物語(全巻)』(塩野七生 )を参考にしました。
by mokonotabibito | 2016-05-18 08:04 | トルコ | Trackback | Comments(6)
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Commented by youshow882hh at 2016-05-18 10:11
おはようございます。
この地は、世界遺産で、
多くの人が訪れる、
人気の大観光地なのですね。
ポチ♪
Commented by ろぼたん at 2016-05-19 00:47 x
模糊さんのトルコ・サフランボルの記事、たびねすのTOPキャッチ画像になってますね!
面白い街並み(家)だなって思っていた記事で、写真も雰囲気があっていいですよね。
次の記事のシースルーキャビンは模糊さんにしては珍しい?日本の記事(笑)。観覧車を見上げた写真がお気に入りです!
高所恐怖性なので、乗るのにためらいそうだけれど、
取材と思えばのれるかな・・・。
次の記事も楽しみにしていますね!
Commented by Lago at 2016-05-19 08:17 x
エフェソスはトルコのエーゲ海側に位置するため、ギリシア的・ローマ的なものが色濃く残っている、言わば遺跡の宝庫ですよね。
広大な広がりを持つだけに、見学はかなりハードでしたが、私には第一目標の場所でしたので、
このブログで改めて復習出来ることが嬉しいです。
なお More はかなりマニアックながら、私も関心あるテーマなので、拝見しました。
ライフワークの一端にふさわしい力作でした。

アルテミス神殿すでにまぼろしとなりて大地は青草しげる

アルテミス大地母神と崇められ百の乳房の肢体で立てり

Commented by youshow882hh at 2016-05-19 20:41
こんばんは。
ポチ♪
Commented by youshow882hh at 2016-05-20 20:49
こんばんは。
ポチ♪
Commented at 2016-05-21 07:09
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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