道路は整備されていますので、生活にはクルマが必須です。観光でも、クルマがあれば割と楽しめます。
そこで、平谷村に滞在中、時々、クルマで近隣の村や観光地にも行ってみました。そんな場所を、今後、少しずつ紹介していきます。今回はすぐ近くの信玄塚です。
平谷村の南隣には根羽村があり、そこに武田信玄終焉の地とされる「信玄塚」があります。
根羽村横旗という地名で、日本史好きには必見のスポットでしょう。
武田信玄は、天下を取るべく上洛の途上、病が重くなり、三河から信州伊那を経て甲斐へ帰ろうとしましたが、元亀4年(1573年)、陣中で死去しました。
信玄終焉の地には以下のとおり諸説あります。
(1)駒場説:『当代記』『御宿監物の長状』による。
(2)波合説:『徳川実記』による。
(3)平谷説:『三河物語』による。
(4)根羽説:『甲陽軍鑑』『熊谷家伝記』による。
(5)田口説:『野田城記』『野田実録』による。
このうち(1)と(4)が有力ですが、(1)については、駒場に信玄の遺体を火葬したとされる場所(長楽寺)があることが大きな根拠になっています。
しかし、実際はその少し前に死去し、それを隠して遺体を運び駒場で火葬したと考えると(4)が有力になってきます。
最近の歴史家はあまり話題にしないようですが、信玄終焉地をテーマとして書かれた唯一の現代研究書である 『武田信玄終焉地考』 (一ノ瀬義法、教育書籍刊) では(4)の根羽説をとっています。
根羽村横旗にある「信玄塚」供養塔(宝篋印塔)が大きな根拠になっていいます。
「この供養塔は専門家によれば国守・大名級のためのものと考えられ、この地に在ることは信玄の供養塔としか考えられない。また他の候補地には供養塔なるものが存在せず、さらにこの供養塔の設置・保守費用については武田家の重臣高坂弾正家関係から出ていた」
一ノ瀬義法氏は、ライフワークとしてこつこつと南信州を歩き回り、地元の古老などの伝承を詳しく調査し、結論を導き出しています。優れた研究書だと思います。
私は専門家ではないので、結論づけられませんが、確かに「横旗」という地名は意味深ですね。
武田軍一行は、この終焉の地を横切る際は、弔意を表して旗を横にふせて通ったことから、この地を「横旗」と呼ぶようになったという伝承があります。
↓宝篋印塔
確かに、風格と歴史を感じさせる供養塔でした。
このあたりで、西上の夢半ばにして武田信玄が他界したのか・・・もし信玄がここで死去せずにもう10年生きていたら、日本の歴史が大きく変わっていたでしょうね・・・
↓すぐ近くの道路には、横に傾けた「風林火山」の旗が描かれており、「横旗」伝説を表現していました。
信玄は自身の死を隠すように遺言したので、その死の地について諸説が生まれたようです。
ひとつの歴史ミステリーとして考察してみるのもまた一興です。
←応援ポチいただければ嬉しいです。御覧いただきありがとうございます。
私達の知らない場所で、地名や塚や供養塔など、様々な形で
語り継がれ、今も人望を得ているのですね。
5枚目の供養塔に、素朴ながら土地の方々の質朴な信仰がしのばれ、
何となく心惹かれました。
信玄の逸話伝説数あれど信玄塚の由来ゆかしき
「風林火山」横旗にして信玄を悼む家臣の真情思ふ
ポチ♪