模糊の旅人
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開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)
2015年 02月 27日 |
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19421217.jpg

与謝野晶子の生家近くに、この開口(あぐち)神社があります。
晶子は子どもの頃はここでよく遊んだそうです。小さな神社ですが、とても古い歴史があります。
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19424392.jpg

与謝野晶子が開口神社を詠んだ歌を二首紹介します。

 少女たち開口の神の樟の木の若枝さすごとのびて行けかし

↓ルビ代わりのカッコを入れててみますと、こうなります。

 少女(をとめ)たち開口(あぐち)の神の樟(くす)の木の若枝(わかえ)さすごとのびて行(ゆ)けかし



 大寺の石の御廊にひざまづく瞽女のやうにも指組む夕

↓これもカッコを入れると

 大寺(おほてら)の石の御廊(みろう)にひざまづく瞽女(ごぜ)のやうにも指組む夕(ゆふべ)


上記の大寺(おほてら)とは、開口神社のことで、堺の人は、ここを「大寺さん」と呼んでいます。
奈良時代に行基が開山した念仏寺がここにあり、平安時代に空海が宝塔を境内に経てたことから、寺としても親しまれてきた歴史があるからです。

私は堺出身ではないので、引っ越してきた当初は、この「大寺さん」という意味が分からず、「大寺北門前」というバス停の名前が不思議で、どこに大きな寺があるのだろうかと思ったものです。
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19445679.jpg


開口神社は延喜式にも記述があることから非常に古い神社であることは確かですが、正確な発祥はわかりません。社伝では、神功皇后の三韓征伐の帰途、勅願により、この地に創建されたと伝えられます。

与謝野晶子の生家も、開口神社も、堺の甲斐町という所にあるのですが、この「甲斐町」という地名は、神功皇后が朝鮮から凱旋したとき、この地に「甲」を納めたことに由来するそうです。
開口神社や甲斐町が神功皇后伝説に彩られているのは興味深いことですね。


↓今は、都会の中の小さな神社です。
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19453088.jpg

ところで、堺は「へその無い町」とも言われています。これは、中世の商人による自治都市として発展してきたゆえに、城下町のような城も無ければ、門前町のような神社仏閣も無い、つまりへそとなる中心が無いことを意味しています。
中世以降はそのとおりで、ある意味それは市民の自治を標榜する堺らしいことでもあります。

ただ、環濠をめぐらせた自治都市ができる以前、すなわち中世以前に目を向けると、やはりこの堺という場所に人が集まるようになってきた、中心的な理由があると思います。

ここからは、あくまで私の独断的な推理ですが、堺という町が出来てきた大きな理由は以下の三つです。
(1)港があったこと。
(2)和泉、摂津、河内の三つの国の境にある交通の要衝であったこと。(これが境→堺という名の由来)
(3)開口神社があったこと。

つまり、私がここで言いたいのは、開口神社こそが堺の発祥の地ではないかということです。
これは、堺の中心部が古くは「開口村」と呼ばれていたことからも可能性が高いと思われます。
開口神社は、最初は開口村の中心にある村の鎮守であったのではないでしょうか。
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19462732.jpg

近代でも、開口神社はさまざまな発祥の地となりました。
明治時代には、堺の中心部であったことから、現在の市役所・三国丘高等学校・泉陽高等学校・第一幼稚園などが最初に置かれたのです。

そこで、小さな神社でありながら様々な発祥の地の碑が建立されています。

↓泉陽高等学校発祥之地碑(泉陽高校は晶子の母校であり当時は堺女学校と呼ばれていました)
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19473569.jpg

↓三国丘高等学校発祥之地碑
開口神社 ~与謝野晶子のふるさと堺(2)_f0140054_19475347.jpg

その他にも幼児教育発祥の地の碑などがありました。

現在の開口神社は、古くからの堺の中心的商店街であった山之口商店街のアーケードに接しています。
そこで、次回このシリーズでは、与謝野晶子が堺女学校(現・泉陽高校)に通った道でもある山之口商店街を紹介する予定です。


<追記> 2015.3.3

メールやコメントで、何人かの方から、開口神社の歴史について、ご質問を受けましたので、下のMoreに詳細を追記しました。


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More 開口神社(念仏寺・大寺さん)の歴史について

ご質問がありましたので、以下に開口神社の年表を記載します。
江戸時代以前の事象については、社伝などに基づき私が独断でまとめたものです。
あくまで資料記載の年代をあてはめただけで、考古学的・歴史学的に真実として実証されたものではありませんので、ご注意ください。


開口神社(念仏寺・大寺さん)の歴史年表

......................神話時代.....................

神功元年?(200年頃?)神功皇后が三韓征伐の帰路、勅願により、創建(『大寺縁起』)

......................奈良時代.....................

天平3年(731年)開口水門姫神社の記載(『住吉大社神代記』)
天平18年(740年)行基が境内に念仏寺を建立

......................平安時代.....................

大同元年(806年)空海が境内に宝塔を建立
延長5年(927年)神明帳に開口神社の記載(『延喜式』)

......................室町時代.....................

応永6年(1399年)応永の乱で堺の一万戸が焼かれる。(『堺記』)
応永34年(1427年)念仏寺が将軍足利義持の祈願寺となる。
~この頃、堺商人の自治が発達し会合所として開口神社(念仏寺)が選ばれる~

...................戦国・安土桃山時代..................

天文4年(1535年)念仏寺の寄附名簿に「与四郎殿せん=千利休}の記述(『念仏寺差帳日記』)
天正7年(1579年)念仏寺で昼の茶会が開かれる。

......................江戸時代.....................

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で堺の町が全焼
元禄7年(1694年)開口神社社殿が造営される。
~この頃、開口神社から宿院にかけて「大寺の芝居」というものができ山之口商店街が発生~

......................明治時代.....................

明治元年(1868年)神仏分離令により念仏寺が廃される。
明治7年(1874年)女紅場が境内に開設(泉陽高等学校の発祥)
明治11年(1878年)与謝野晶子が開口神社の同町内(甲斐町)で誕生
明治28年(1895年)大阪府第二尋常中学校が境内で創立(三国丘高等学校の発祥)

......................昭和時代.....................

昭和20年(1945年)堺大空襲で堺中心部が壊滅的被害を受ける。開口神社も焼失
昭和38年(1963年)開口神社の本殿が再建される。
by mokonotabibito | 2015-02-27 19:47 | 大阪 | Trackback | Comments(6)
Commented at 2015-02-28 06:50
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by youshow882hh at 2015-02-28 10:23
こんにちは。 ゆーしょーです。
和歌山市の国道沿いの桜並木の中の一本が
満開になったととの情報を得ましたので
今から写しに行ってきます。
ポチ♪
Commented by Lago at 2015-02-28 13:05 x
たびねすの晶子の記事やブログの堺シリーズから、堺の町に更に深く分け入る事が出来て、興味津々です。
以前はあきんどの町、堺というイメージが結構強かったのですが、
成立ちには、あまり知られていない由緒深いものがあるのですね。
開口神社はこの写真で見ると、こじんまりとした中に神々しい風格が感じられます。
これが元々は堺のへそだったのではないかという筆者の読みも説得力があります。
晶子がこの神社に親しんでいたことを思うと、私にはゆかしさが募ってまいります。

樟の木の茂り見事になりゆきて語り継がるる秘話のめづらか
Commented at 2015-02-28 16:53
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2015-03-04 12:21
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2015-03-04 17:04
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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