模糊の旅人
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箸墓古墳 ~大和日帰りドライブ(6)
2012年 01月 23日 |
第3目的の落ち葉撮影の次は、第4目的の「歴史的な場所」です。で、今日は私の我流歴史談義が沢山混じりますので、御迷惑でしょうが、おつきあいのほどを(笑)

やはり、この辺りですと、歴史的といえば、奈良盆地東南部すなわち本来の「やまと」地方に広がる初期巨大古墳群でしょう。
この古墳群は、奈良盆地の東南部の三輪山山麓に展開し、大和・柳本古墳群と言われます。

大和朝廷の黎明期である、三世紀中頃から、ここに突如巨大な古墳が出現したのです。

その中でも、巨大古墳としては考古学的に最も古いと認められている、箸墓古墳に行ってみることにしました。

箸墓古墳の被葬者は、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)で、この女性は神託を受ける巫女のような存在で、三輪山の神である大物主神との神婚伝説があります。
日本書紀の系図では、崇神天皇の大叔母とされており、箸が刺さって死んだ説話から墓を「箸墓」といいます。

先にも書きましたが、箸墓古墳を邪馬台国の女王卑弥呼の墓とする説も有力で、それについては  下の More 卑弥呼の墓  をお読みください。

さて、箸墓古墳の北~西側は大きな濠=ため池で、南側は田畑地、東側は住宅地になっています。

↓南側から撮影しました。前方後円墳の前方部にあたります。
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箸墓古墳の近くにクルマを止め、持参した自家製レーズンパンを食べました。
ここに、邪馬台国があったのかもしれないなあ・・・という古代幻想に浸りながら、遅い昼食をとったわけです。
のどかでした。

食後、畔のような細い道を、箸墓古墳の正面まで歩き、お参りしました。
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箸墓古墳の正式な名前は、倭迹迹日百襲姫命大市墓です。
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しばらく、古墳の周辺を歩き回りました。
この、箸墓古墳から、いわゆる古墳時代がはじまったんだ、今、僕はそこに立っている!

2000年くらい前に、ここで日本の国が胎動しはじめたわけです。うーん、感慨深い。
「大和は国のまほろば」といいますが、今はここは、のんびりした田舎の田畑作地で、長い長い歴史の変遷を感じます。

古墳というのは、近くだとその形が分かりにくいのですが、ここも同じです。
↓そこで、古墳東脇に建てられた、案内板を撮りました。この案内板の写真は航空写真で、箸墓古墳の形がよく分かりますね。
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上の看板写真の右側に②として案内されている纒向の遺跡は、この箸墓古墳のすぐ近くで、弥生時代末期から古墳時代前期の大集落遺跡です。3世紀が中心の遺跡で、前方後円墳発祥の地です。現在も発掘調査が進められています。
この遺跡を倭国連合の首都である邪馬台国に比定する説が有力になりつつあります。

この纒向遺跡からは日本全国で作られた遺物が多数出土しており、この遺跡の勢力が非常に広範囲に渡って影響力を持っていたことが分かります。
最近、桃のタネ約2000個が見つかり話題になりました。神託などに使われた古代祭祀の供物のようです。


一昨日ブログ掲載した、平等寺~金屋の石仏の近くに、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや・『日本書紀』による)の宮跡がありました。(『古事記』では「師木の水垣宮」と表現されています。)
崇神天皇といえば、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇です。『日本書紀』では、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と書かれ、初めて天下を治めた天皇という意味がうかがえます。

魏志倭人伝において卑弥呼の神託を聞いて政治をしたと書かれている男弟こそ、崇神天皇であるとする説もあります。
巨大古墳の分布から、崇神天皇の王朝を三輪王朝(政権)とし、その後、応神(または仁徳)天皇が河内王朝を開いたという学説もあります。

それはともかく、纏向遺跡~箸墓古墳~大神神社(三輪山)~磯城瑞籬宮跡、この辺りが、大和朝廷の黎明期に日本最古の都邑があった場所であることは間違いありません。

↓現在の磯城瑞籬宮跡は、木がうっそうと茂る原生林のような森でしたが、一応、訪れた証拠写真をアップしておきます。
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OLYMPUS E-P3 with LUMIX G 14mmF2.5 ASPH.

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More 卑弥呼の墓

(以下は、模糊の旅人co に書いた記事ですが、こちらにも再掲します。)


古代史ミステリーというのも非常に面白いテーマですね。
私は専門外ですが、遺跡が結構好きなのと、古墳が身近に見られるので、趣味としていろいろ本を読んで来ました。

中でも邪馬台国論争というのは興味深く、若き日から何冊本を読んだか分かりません。
ただ、どの論者も、論理の飛躍が大きくて、なかなか説得力に欠けるというのが、正直な感想でした。特に歴史文献系からアプローチする方の論法は、実証性が乏しく、妄想の類と思われるものもありました。あまり悪口は言いたくないので、具体的な指摘は避けますが、百家争鳴の割には、成果があまりないというのが実情でしょう。


私は、以前から、古墳の考古学的な分析の手法により、年代順序を確定させていけば、必ず卑弥呼の墓の確定も可能だと思っていました。

その点から見て、私が一番信用できるというか、考古学的見地をもとに論じられた著作として、推薦するのは、国立歴史民俗博物館名誉教授白石太一郎氏の『古墳とヤマト政権』(文春新書、1999年)です。
ここでは、古墳の歴史が考古学的分析の成果をもとに、見事に整理されており、非常に分かりやすく説明されています。なにより、論理が一貫しており、常識的ですが非常に信頼性があります。

ここで問題の三世紀中ごろの古墳の発生期から、四世紀中ごろにかけての巨大古墳がつぎのように造営順が整理されています。

(1)箸墓古墳(現倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行灯山古墳(現祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現景行天皇陵)

但し、(5)、(6)の前後関係は逆転する可能性あり。


重要なことは、これらの初期巨大古墳は、いずれも奈良盆地東南部、すなわち本来の「やまと」に営まれたことです。

そして、箸墓古墳については、「巨大な出現期の前方後円墳の被葬者が三輪山の神に仕える巫女であると伝えられていることは、きわめて興味深い。」と書かれています。
この、出現期の巨大古墳を生み出した政治秩序は、その後のヤマト政権の政治秩序そのものにほかならないとされています。

そして、箸墓古墳の築造年代を260年ごろとして、「箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は決して少なくない」と結論づけられています。


2009年5月30日に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究成果が報告されました。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。
白石太一郎氏の説が大きく補強され、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性は、さらに高まったといえるでしょう。



以下、独断的な私見です。

邪馬台国の時代に、「やまと」の地域に巨大古墳が出現した事実は、誰も否定することはできません。
中でも最も古い箸墓古墳は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)とされており、伝承・巫女的な、「やまとのひめみこ様」ともいうべき女性が葬られていることからも、卑弥呼の墓である蓋然性が高いと思います。

結局、邪馬台国も呼び名は「やまと(こく)」であり、卑弥呼も「ひめ(みこ)」と呼ぶのが一番自然です。やまとの国の、ひめみこ様のもとに統治されていた国が、ひめみこ様が死んだとき、巨大な墓を作ったという事実があったのです。


普通に考えればよいのです。本来の「やまと」は、現在の奈良平野の南東部付近の本大和とされる地域です。
まさに、全国からの土器などが発見され、邪馬台国の王都所在地ではないかと注目される纏向遺跡の存在する一帯であり、考古学的なデータとも全く矛盾しません。

そこに、三世紀中旬に、他を圧する巨大な古墳が突如出現したのです。それが、箸墓古墳です。

纏向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していることや他の考古学的証拠から、箸墓古墳は、弥生時代の墳丘墓が、飛躍的に巨大化したものであることが確かめられました。
また、その後つくられる他の天皇陵クラスの古墳は三段築成が多いのに、箸墓古墳だけは、なんと五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)なのです!

被葬者の格付けという意味からも、三世紀中頃に、神格的ともいうべき、ものすごい古墳が突然つくられたのです。被葬者として考えられるのは、卑弥呼以外にないでしょう。私は、箸墓古墳こそ卑弥呼の墓であると確信しています。

広域の政治連合の最初の盟主であり、神格的な存在であった卑弥呼の墓を契機として、これ以降、大王級の首長は大きな古墳を造営することになります。
ここから、いわゆる、巨大古墳の時代がはじまるのです。


なお、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」という『魏志倭人伝』の記述に整合しています。
『日本書紀』では、箸墓が「日也人作、夜也神作」と書かれています。
いわゆる三輪山伝説として。倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神である大物主神との神婚伝説も書かれており、神秘的な存在として意識されていたのは確かです。


卑弥呼の死後、男王を立てたが治まらず、卑弥呼の親族で13歳の少女だった台与(壹與)が立てられたことになっています。

この台与の墓については、箸墓古墳につぐ古さで大王級の古墳とされる、西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)があります。ただ、この西殿塚古墳は、現段階では、崇神天皇墓である可能性も捨て切れません。

『晋書』起居註に秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、この女王が台与と考えられ、実在性は高いので、古墳の比定も非常に興味あるところですが、長くなりますのでまたの機会に論じたいと思います。


なお、男王としてヤマト政権の初期大王となったのが崇神天皇ではないかと考えられます。
倭迹迹日百襲姫命が登場する有名な「三輪山伝説」は、『日本書紀』崇神天皇10年の条にあるのです!
祟神天皇が巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて政事を行なっているという記述もあり、女性の巫女の神託と、男が政務を司る関係は、魏志倭人伝の女王と男弟の関係と一致します。
倭迹迹日百襲姫命は、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹であるとされており、この点からも、倭迹迹日百襲姫命として卑弥呼が伝承された可能性が高いと考えます。

また、崇神天皇の皇女に豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)があり、天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った初代斎宮とされています。天照大神には、先代の偉大な女王であった卑弥呼の性格が反映されているとも考えられ、それを祀った初代斎宮が台与であるのは説得力があります。

ということで、もし台与を「とよ」と読むのなら、豊鍬入姫命が台与に比定される可能性が高いです。(ただし、「いよ」と読む説もあり)


祟神天皇は、御間城入彦(みまきいりひこ)、又、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)、と称えられ、ヤマト政権の初期に輝いていた大王であると思われます。そして、現代の日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇であり、いわゆる三輪王朝の大王として、その周辺には、卑弥呼や台与に比定される女性もあり、限りなく興味深いですね。
by mokonotabibito | 2012-01-23 20:06 | 奈良 | Trackback | Comments(7)
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Commented by youshow882hh at 2012-01-23 21:01
こんばんは。 ゆーしょーです。
前方後円墳も案内板にあるように上空から見ればその形がよく分かりますが
地上からでは想像すらつきません。
測量機器がなかった昔、どのようにしてきれいな円を描けたのかと不思議に思います。
2枚目の写真にあるような道を歩くのが大好きです。
それにしても私の青春時代まであった 「すすき」(稲塚)が見えないのが寂しいです。
1タンの田にひとつはあった「すすき」は当地でも見られなくなりました。
Commented by BOOCHAN at 2012-01-24 12:50 x
奈良は中学の修学旅行で大仏を見たときしか、
行ったことがありません。
こんなに面白いものがある場所なんですね(*^_^*)
高校のときに習った日本史を思い出しましたが、
あのころもっと勉強しておけばよかったと、今になって思います。
今度歴史のお勉強をして、奈良を訪れたいです。
Commented by mokonotabibito at 2012-01-24 15:13
【ゆーしょーさん】
そのとおりですね。
ここは最初の巨大古墳らしいですが、後円部は本当に綺麗な円の形です。
古代の土木建築技術はすごかったのでしょうね。
2枚目の写真にあるような道を歩くのがお好きですか。
ありがとうございます。
「すすき(稲塚)」というのは、私は同時代的には知らないです。
写真で見たことはありますが、モネの麦塚の絵にそっくりですね。
見たかったなあ・・・写真を撮りたかったなあ・・・(笑)
Commented at 2012-01-24 15:14
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by mokonotabibito at 2012-01-24 15:19
【BOOCHANさん】
奈良には修学旅行で来られたのですね。
奈良というのは京都より古い都があった場所なので、いろいろ古い建物や遺跡が沢山あります。
歴史好きの人にはたまらん所です(笑)
また機会があれば、ぜひ大和へお越しください。
今回は私の独善的な歴史談義におつきあいいただき、ありがとうございますした。感謝いたします。
Commented by mokonotabibito at 2012-01-24 15:52
【鍵コメat 2012-01-24 15:14さん】
了解いたしました。
お忙しいのにすいません。
また今後ともどうぞよろしくお願いします。
Commented at 2017-06-19 22:47
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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